3月14日(土)午後7時より、「次世代金融講座」を開講します。ぜひご参加下さい。講座要項はpdfにてもご参照いただけます。次世代金融講座 要項 からダウンロードしてご覧下さい。

「次世代金融講座」 第1期要項

期間: 3ヶ月
講座: 第二・第四土曜日、午後7時より2時間程度(全6回講座) 第一回目は3月14日(土)午後7時
場所: 那覇市『厚生会館』多目的ホール(みずプラッサB棟3階)
〒900-0006 那覇市おもろまち1丁目1番2号3階、電話:098・867・7423

講師: 樋口耕太郎
定員: 100名
受講料: 3万円(消費税込、全6回講座分、学生は1万8千円)
受講資格: 業界・職業など一切不問
お申込み: 本ページ右下の「お問い合わせ」をクリックして、以下の内容をご送付下さい

①お名前
②メールアドレス
③ご所属と簡単な担当業務・役職
④ご希望など(もしあれば)

講座内容: 資本主義社会の変容に伴って、金融・経営・事業の役割や機能が大きく変化し始めています。我々が迎える全く新しい社会において、機能する金融とは、経営とは、事業とは、社会とは、を問い、より良い社会を構築するための論理的、具体的かつ効果的な処方を模索します。具体的なアプローチは:

・グローバル金融・経済・社会のメカニズムの本質を議論する
・今後の5年~20年間に想定される社会変容のシナリオを構築する
・社会で「常識」とされている金融・経営・事業理論や実践の合理性を、批判的に分析する
・現代社会の「生態系」を理解する
・社会問題(病理)の本質を議論し、対症療法ではない、治療のプロセスを特定する
・以上を前提とし、現在までの「常識」とは異なる視点を含めて、沖縄地区の潜在性を明らかにする
・沖縄地区で具体的に実行可能な、起業、事業、政策を、その優先度とともに議論する
・各人が各人の立場で、すぐに実行できる、具体的かつ効果的な行動を特定する

受講者の皆様へのメッセージ:

本ウェブサイトでもご紹介していましたので、ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、
私は、内閣府・沖縄県が主催する、金融人材育成講座におきまして、今年で
二年連続の講義を担当させて頂いています。去る1月24日の講座「沖縄型事業再生」も
盛況のうちに終了し、私自身も大変楽しく時間を過ごさせて頂きました。
みなさん大変熱心に受講して下さり、主催者のスタッフも、驚きながら、過去3年間、
約60の講義の中で、「休憩に入る前に拍手が沸き起こったのは始めてです」と、
教えて下さいました。 講義後のアンケートは、その大半が5段階の5。コメントも、
「こういう講義を受けたかった」「素晴らしかった」「3時間という時間があっという間に
経ってしまった」など、頂戴した私が読みながら、感動を覚えるものばかりでした。
それをお聞きして、とても嬉しかったと同時に、受講者の皆さんの思いがこんな形で
現れるのも、時代が大きな変換期を迎え、社会の構造や価値観が根底から変容する中、
私が四年前から確信している、「周回遅れでトップを走る沖縄型の社会・経済・金融」の
ビジョンと、みなさんが感じ始めている社会変容後の行き先のイメージが
合致しはじめたのではないかと思うのです。

誰もが実感しているとおり、社会では前人未到の大変化が猛スピードで進行中です。
過去の常識はもちろんのこと、数年前の経験があっという間に役に立たなくなるほどの
社会環境では、今までの常識、価値観、序列、経営理論、事業モデルが機能しないため、
どのように事業、経営、戦略、人事を考えれば良いのか、について合理的かつ明示的な
実践行動モデルが必要とされはじめています。企業経営においても、従来の「人事」という
狭い概念ではなく、資本家と経営者と従業員の人間関係をどのように機能させていくかは、
企業と組織の重大構造問題として顕在化することになるでしょう。
当時、本土からは「正気の沙汰ではない」と云われた、
サンマリーナホテルの「人間関係をなによりも優先する愛の経営」が
実践において極めて高い経営合理性を持つのと同様、
「非効率」で「遅れている」と考えられていた沖縄の社会や人間関係が、
今後の全く新しい社会の構造と価値観において、もっとも合理的に機能することが、
次第に、やがて激流のように明らかになるでしょう。

この変容の中で、「周回遅れでトップを走る、沖縄型社会・経済ビジョン」を模索し、
広く共有し続けるため、そして、単発でなくこれからも講座を定期的に続けて欲しい、
という多くのみなさんの気持ちをつなぐため、3月14日(土)より、『次世代金融講座』を開く
運びとなりました。この試みは、単なる講座ではなく、沖縄を中心とした、
幅広い異業種間の、意識の高い次世代のリーダーを、利害によってではなく社会への
高い意識と共感によって繋ぎ、グローバルな目線と先端経済の動きを敏感に捉え、
まじめな経済模合風に運営する、人的ネットワークとして運営しようと考えています。

既に申込みが入り始めているのですが、驚いたことに、
「このような講義は東京にも存在しない!」、という趣旨で、東京の著名法律事務所の
弁護士さんが、毎月二回沖縄までわざわざ通ってくださる前提で申込みを頂いたり、
私の話を何度も聞いているはずの、金融人財育成講座の事務局長も「何回もじっくりお聞きしたい」と
申込んでくださったり、そのほか、公認会計士、県内大手企業の経営者や企画担当、県庁職員、
一級建築士、学校経営者、ホテル業界企画担当、銀行、証券、金融サービス、県外経営者、
一般企業経営者の方々や企画担当者、自営業オーナー、そして、サンマリーナホテルの従業員!
などなど、多様な方々が申し込んでくださっています。

講座名称は、「金融」と銘打っていますが、これは、次世代社会において、事業と金融が
不可分に変容するという想定に基づいているもので、要項にもありますとおり、
受講に際して、業種・職種・タイトルなどをまったく問いません。是非ご参加頂ければと
思います。

樋口耕太郎

お元気ですか?

今日は桃の節句ですね~。
この節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、川原や海辺で
干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

子供の頃、おばあちゃんが、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。
だから私にとってひな祭りの日は、10年前に逝ってしまったおばあちゃんを
思い出す日でもあるんです。

その私のおばあちゃん、よくこんなことを言いました。
「電車で出かけんねんて?  板チョコ、持って行きなさいや」
お楽しみのために板チョコを持たせようというのではありません。
電車が故障したり事故にあったりして止まってしまったときの備え。
車内に閉じこめられたとき、板チョコを食べてしのぐのです。
友達と遊びに行くときにも、小さなおむすびを作って追いかけてきましたっけ。
たくさんの子供を産み育て、戦争を始めさまざまな災難をくぐり抜けてきた祖母。
生き抜くための備えには敏感でした。口うるさい質ではなかったので、
その注意はもっぱらお転婆な私に向けられていたようです。
祖母は、寝る前には枕元に、明日身につける着物類のほかに、板チョコ、
水の入った小さな水筒、タオル、足袋、懐中電灯が入った巾着袋を置いて
いました。「赤ん坊がいたころには、おむつと肌着も入れてたもんやで」
子供ごころに、大げさな、と言って笑いました。
でも、祖母の備え癖は、私になんらかの影響をもたらしたものと思われます。
私の家には“災害時非常持ち出しリュック”がいつも置いてありますもの。
生活というものは、不意のことと驚きの連続です。
望ましいのも、望ましからぬのもあり、そのどちらもが、本当に突然、
やってきます。
大人になってから、その実感はいっそう大きく私の胸に住みつくように
なりました。そして、見えてきたのです。祖母は備えるだけ備えてしまうと、
あとはさっぱり先のことは考えませんでした。まだ起きていないことを
心配したって仕方ないと思っているみたいでした。
「心配事や災難が降り掛かったら、そのときは、ここにいるみんなで一緒に
困りましょう」
という佇まいです。
わが祖母ながら、なんだか素敵。
十年前に逝った祖母に今度会ったら、たくましくもたおやかな立ち姿を
見せてくれてありがとう、とおじきしなければなりません。

そのおばあちゃんがとても大切にしていたのが、「こんにちは」「さようなら」
といったあいさつの言葉でした。

きわめて基本的な、あいさつのひとつなのに、じつはあんまり使われていないのが
この「さようなら」。
お友達と会って別れる時は、「じゃあね」とか「またね」とか「バイバイ」と
言ってしまうから「さようなら」は出てきません。
また一方、仕事の時も、「では失礼します」「ではよろしくお願いします」
さもなければ「じゃあ、そういうことで…」一体何が「そういうこと」なのか
わかりませんが、とにかくそれが別れのあいさつになっています。

あなたは最近「さようなら」の言葉を使われましたか?
最後に使ったのはいつでしょうか?

自分ではもう、ほとんど使わなくなっている「さようなら」を
あらためて使う時ってどうだったかなぁ…と思い出してみると、
それは、もう二度と会わないかもしれない相手や、遠い外国に住んでいて、
当分会えなくなる相手との別れの時。そういう場面では、確かに自分も
しっかりとした「さようなら」を相手の目を見て言った記憶があります。
長い長い別れや、重い別れ、そしてまた永遠の別れ…。
人は今ではそういう時のために、究極の別れの言葉として「さようなら」を
とっておくのかもしれません。

こんなことも思い出しました。小学生の頃から通っていた茶道教室の先生は、
私達を送り出す時、いつも決まって「さようなら」と、ていねいに頭を下げて
おられました。その別れがなんだかとても心地よくて、うっとりした気持ちで
家路についたことを覚えています。
そしてまた、私が訪ねるといつも家の外まで見送りに出て、こちらの姿が
見えなくなるまで手をふりつづけるおばあちゃんも、「さようなら」を
美しく言う人。
お茶の先生は言うまでもなく、「一期一会」という茶の湯の心を毎回のあいさつに
こめていらっしゃったのだろうし、祖母は祖母で日頃から言葉のひとつひとつを
とりわけていねいに言う人だから、日常的な別れさえ手軽に扱わないわけです。
ひとつひとつの別れをていねいに心に刻みつけようとしていたに違いありません。

そのおばあちゃん、10年前に私に会いに沖縄に来てくれて、何泊かを一緒に過ごし
大阪に戻ってから私の家の留守電にこう吹き込んでくれていました。
「典ちゃん、おばあちゃんです。
沖縄ではお世話になりましたね。本当にありがとう。
今ね、お土産にいただいたケーキをおじいちゃんのお仏壇に供えて、
思い出話をしてるのよ。沖縄はとっても楽しかったわぁ。
いい思い出になりました。本当にありがとう。
これからも身体に気をつけて、自分で一番いいと思う道を
悔いなく生きなさいね。
典ちゃん……さよなら」

その1週間後におばあちゃんは本当に逝ってしまいました。

だから特別な響きのある「さようなら」。
ひとつひとつの出会いと別れを、今よりもっと大切に扱うようになった時、
私にも自然にそういう「さようなら」が日常的に言える人になるのでしょうか。
今月は卒業式や転勤など、別れの季節です。
素敵な「さようなら」を言いたいものですね。

長くなってしまいましたが、
今日は古式ゆかしく、ひな祭りを祝おうと思っています。

【2009.3.3 末金典子】

沖縄県農林水産部のアレンジにより、主として沖縄県北部管内の林業事業者の方々を対象にした、5 回シリーズの経営セミナーを樋口が担当しています。第5回(最終回)のスケジュールが確定しました。最近では、林業経営者、北部県職員の皆様に限らず、口コミで参加される方もいらっしゃいます。ご関心のある方は是非空気のおいしいやんばるまでお運び下さい。

第5回 林業事業体 経営セミナー

日時: 3月12日木曜日 午後1:30より約4時間
場所: 北部農林水産振興センター(北部合同庁舎内)

お問い合わせ:
〒905-0015 沖縄県名護市大南1-13-11 北部合同庁舎2階
北部農林水産振興センター森林整備保全課
電話 0980-52-2832
担当 上里幸秀

本セミナーでは参考資料として、2000年のアメリカ映画 『ペイ・フォワード』 をお勧めしています。ご家族や大事な方とご一緒にどうぞ。
原題: Pay it Forward
監督: ミミ・レダー
出演: ケビン・スペイシー、ヘレン・ハント、ハーレイ・ジョエル・オスメント
原作: キャサリン・ライアン・ハイドの同名の小説によります

お元気ですか~?
明日はヴァレンタインデーですね。
あなたはどなたとお過ごしでしょうか。

そこで、明日を前にあなたに質問です。

あなたの愛は生きていますか?
あなたの愛する人は誰ですか?
その人を本気で愛していますか?

愛だ恋だなんてバカバカしい、政治・経済や仕事の話を語るほうが意味があると、
したり顔で言う人がいらっしゃいますが、それは大きなマチガイですよ~。
恋愛も、政治・経済や仕事も、大もとは同じ。
つまり、人を愛することなんです。

政治にしたって、日本では政治をすることを政(まつりごと)をするといいます。
「まつりごと」というのは本来神や仏、ご先祖の御魂を大切にうやまい、それを
祀ることですが、政治の精神はそのまつりごとに発するといわれています。
また、仕事だって、人を憎み、嫉妬ばかりしていたら、絶対にいい仕事は
できません。悪い感情はどう取り繕っても表れてしまいますから。
愛情豊かな人でなければ、美しい仕事はできない。私はそう思います。
それに、寝不足や二日酔いで「今から仕事」となれば苦痛でぐずぐず出かける
ところでも、「今からデート!」となれば気持ちも浮き立つのでは
ないでしょうか。

愛は生きる原動力です。
人間が風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになったのと
同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。

今、モノはあふれ、情報は持て余すくらいに満ちています。
けれども…。
心は、満たされていますか?
人は、前へ前へと急ぐうちに、大切な何かを置き忘れてきたのかもしれません。

でも、それは、わざわざ探さなくてもいいのです。
あなたのすぐ隣にある、と私は思うのです。
ただ近すぎて、見失っているだけ。
それは、あなたの奥さまや旦那さまやパートナーであり親であり子供であり
家族であり、きょうも職場で触れあった、あの人この人。
そして、あなたを包む街や自然、四季の移ろい…。
あなたという「いのち」は、ひとりで在るのではなく、あなたを取りまく
「いのち」と共に在るのです。
様々な「いのち」に生かされて在るのです。
もし、心からそう思えたら、人はきっと前を向き顔を上げて、また毎日を
歩き始められることと思います。

そして何よりも。
まずは、自分自身をうんと愛してあげることから始めてください。
一日に何度でも心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に扱いましょう。
心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。

それができたなら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいらっしゃるのならばこんなに幸せなことは
ありません。

さあ、明日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいに、いつもお幸せに満ち溢れておられますように。

【2009.2.13 末金典子】

沖縄県農林水産部のアレンジにより、主として沖縄県北部管内の林業事業者の方々を対象にした、5 回シリーズの経営セミナーを樋口が担当しています。第4回目のスケジュールが確定しました。

第4回 林業事業体 経営セミナー

日時: 2月27日金曜日 午後1:30より約4時間
場所: 北部農林水産振興センター(北部合同庁舎内)

お問い合わせ:
〒905-0015 沖縄県名護市大南1-13-11 北部合同庁舎2階
北部農林水産振興センター森林整備保全課
電話 0980-52-2832
担当 上里幸秀

本セミナーでは参考資料として、2000年のアメリカ映画 『ペイ・フォワード』 をお勧めしています。ご家族や大事な方とご一緒にどうぞ。
原題: Pay it Forward
監督: ミミ・レダー
出演: ケビン・スペイシー、ヘレン・ハント、ハーレイ・ジョエル・オスメント
原作: キャサリン・ライアン・ハイドの同名の小説によります

お元気ですか?

寒さがひどくなったり、ゆるんだりしていますが、
体調を崩したり、カゼなどひいておられませんでしょうか。

さて、今日は立春の前日で、節分。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。
また、「まめに=健康に」とか、面白い説がいろいろあります。
折りにふれ、季節にふれて、健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。
「今日からは暦の上では春よ。」という母の言葉に、
なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の柔らかさには、
妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、母と同じ台詞を
投げかけるだろうと思います。
私、この「暦の上では」という言葉が好きなんです。
どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だかあったかくなる美しい日本語
ですよね。

また、私はこの日がくるたびに、偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」
という名作を思い出し、いつも御紹介しているのですが、この話を知らない人が
意外に多いと聞いて吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、改めて
御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。
それで、「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。
美味しいお茶を用意していますよ」という立て札を立てるんですが、
そうなると人間は疑り深く、却って誰も寄ってこないんです。
一旦嫌われると、人間社会というものはそんなふうに徹底して冷たいものですよね。
この悩みを親友の青鬼に相談すると、青鬼は赤鬼のために一役買おう、と
言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ君が来て僕をやっつければ、人間は
君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。赤鬼のために自分が悪者になることを
提案する。赤鬼はそれでは君に申し訳ないと言うのですが、青鬼は、君がそれで
人間と仲良くなれたらそれは僕も嬉しいと言うんです。
それで言われた通りにすることにしました。青鬼が人間の村で暴れているところへ
赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。「痛くないように」殴ろうとすると、
青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、
予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。
でも、万が一、二人が仲良しでいるところを人間に見られると、
赤鬼はまた疑られる。だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と
書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だからです。
「義」もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているからです。
「感謝」もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を
思ってくれる友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず、青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。
相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
また、青鬼は赤鬼が自分の思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりするのはエゴでしか
ありませんよね。

実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
暮らしの根幹が揺さぶられるような時代に、私達は生きています。
資本主義は疲弊し、アメリカの問題を日本が一番被り、10年以上も続くであろう
という不況の風が吹き荒れています。
それとともに、たくさんの人々が職を失い、異常な犯罪が増え続けている今の
世の中です。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
でも、そんな世にあっても、友情や善意は必ず存在するのです。
いえ、こんな時代だからこそ「情」や「義」や「愛」といった心を大切に
しなければならないのです。
奇しくも今年のNHK大河ドラマ「天地人・直江兼続」のテーマもまさに
それなのだそうです。人々の心が求めているのか、世相を表してのことなのかも
しれませんね。

さて、
ギリシャ神話によると、かつて、オリンポス山に住む神々が会議を開き、
幸せの秘訣をどこに隠せば、人間がそれを見つけたときに最も感謝するかを
話し合ったといいます。「高い山の上がいい」「地中深くに隠そう」
「深い海の底に隠すべきだ」など、さまざまな意見が出ました。そのあとで、
ある神が「人間の心の奥深くに隠すのが一番いい」と提案しました。

太古の昔から、人間は幸せな人生をおくる秘訣を探し求めてきました。
でも現在にいたるまで、多くの人は、幸せの秘訣が隠された場所を
見つけることができませんでした。それが自分の心の奥深くに隠されている
ことに気づかなかったからです。

幸せは、財布の中にお金がいっぱい入っているかどうかではなく、
心の中が豊かな気持ちでいっぱいになっているかどうかに左右されるのだと
思います。
今の時代こそ、真の幸せに気づく時が来ているのではないでしょうか。

私は青鬼ほどには「無私の心」で友人やお会いする方々と
向き合うことがまだまだ出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、
と思うか思わないかでは、相当な違いがあると思っています。
私、今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、今日は節分。
大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・東北東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2009.2.3 末金典子】

前稿の論旨をまとめます。現代社会では、経済成長がなければ資本主義が成立しないと信じられています。経済成長は、人口増加と一人当たり消費の増大によって生じますので、経済が成長し、資本主義が維持されるためには、人々が消費を拡大し続けなければなりません。人々が自分の持ち物に不足を感じていなければ、活発な消費活動が生じないため、我々の社会は、人々が常に不満足でなければ経済成長を持続することができないという構造になっているのです。つまり、経済成長は幸福を作り出すものではなく*(1)、不幸によって維持され、また、このような資本主義を維持しよう思えば、人々を常に不満足なままにし続けなくてはなりません。経済成長が内包する最大の矛盾はこの点にあるのですが、資本主義の第三の幻想、「経済成長は社会を豊かにする」が、この矛盾を包み隠す役割を効果的に果たしています。

お金はなぜ増える?
さて、経済成長にはもうひとつ大きな、恐らく前稿の議論よりも数段根源的な大問題があります。それは、実体経済の成長と対比される、マネー経済の成長です。米マッキンゼー・グローバル・インスティチュートの報告書*(2) によると、1980年から2006年までのおよそ25年間、実物経済がおよそ5倍に拡大する間に、金融経済は14倍に膨れ上がっています。1980年から2006年の成長率は、世界GDPが年率6.2%に対して、金融資産は年率10.7%*(3) の勢いです。

しかし、実体経済の3倍近くのペースで拡大した金融資産とは、そしてお金とは、そもそも何でしょうか?金融資産はなぜ、どのようなメカニズムで増えるのでしょうか?会計では事業(借方)とお金(貸方)がバランスするのに、マクロ経済では、なぜお金が実体経済の何倍もの規模になり得るのでしょう?「お金」の本質を問うということは、バブルがなぜ生じるのか?社会になぜ富と権力の集中が生じるのか?そして、なぜ社会が現在のような姿なのか?という社会の根源を問うことでもあります。・・・そう考え始めると、この半年間あまり、「お金とは何だ?」という問いが、私の頭から離れなくなってしまいました。関連と思われる書籍を買い漁り、様々な論文・資料を読み、この問いを昼夜考え続けます。そして、当たり前のように聞こえるのですが、「お金には利子が付いている」という、本質のひとつに辿りついた気がしています。お金と利子の問題は、経済学の範囲を超えて、歴史、宗教、社会学、文化人類学、数学、やや意外なところでは、労働とはなにか、というテーマとも不可分に関わっており、見かけよりも相当深いということがよく分かりました。ちょっとした世界旅行の気分です。

利子という怪物
『ネバー・エンディング・ストーリー』『モモ』などの代表作で知られるドイツの童話作家、ミヒャエル・エンデは、お金の本質に関する研究にも熱心でした。彼はお金がお金を生む金利(複利)のパワーについて、次のように説明しています*(4)

『ちょっと意表をついたたとえ話をさせてください。ある人、ヨセフでもいいでしょうが、西暦元年に1マルクを預金したとして、それを年5%の複利で計算すると、その人は現在、太陽と同じ大きさの金塊を4個所有することになります(筆者注:太陽は地球の33万倍の質量を有しています)。一方、別の人が西暦元年から毎日8時間働き続けてきたとしましょう。彼の財産はどのくらいになるのでしょうか。驚いたことにわずか1.5mの金の延べ棒一本に過ぎません。この大きな差額の勘定書は、いったい誰が払っているのでしょうか。2,000年という時間は少々おとぎ話めくかもしれませんが、今お話したたとえは、20年という短い期間をとっても同じ結果が生じるわけで、本当に大問題だと思うのです。』

実際にエクセルで計算して見ると、西暦元年に100円を預金して、年5%、年4%の複利で運用したとき、2009年のお正月の預金残高はそれぞれ、

【5%】    336,452,092,272,630,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000円
【4%】          1,534,305,962,100,480,000,000,000,000,000,000,000円

になります。その膨大な額もさることながら、長い期間では僅か1%の金利の違いがこれほど、・・・このケースで、両者の預金残高の差は約22万倍です・・・のインパクトを生じるという事実に驚かされます。因みに、世界最大の銀行は日本のゆうちょ銀行ですが、総資産は「僅か」

230,000,000,000,000円

230兆円に過ぎませんので、この膨大な預金を受け入れることができる銀行は、地球上において到底存在し得ませんし、人類がどれほどの経済成長を実現したとしても、この利息を賄うことはできません。この単純な算数が明らかにすることは、私たちが依って立つ資本主義社会の経済システムが、いかに荒唐無稽なものであるか、そして、我々が当たり前と思っている、「利子」の存在自体が、社会においていかに持続性を持たないか、という重大な事実です。

また、時給1,000円で年間3,000時間働くと年収は300万円ですが、西暦元年から2008年間のこの労働者の合計賃金は、

6,024,000,000円

約60億円、5%でお金を運用した「資本家」の預金額との差は、実に、55,851,940,948,311,800,000,000,000,000,000,000倍であり、これは労働者と資本家の所得の差でもあります。特に1990年代以降、世界の先進国では社会格差の問題が表面化していますが、お金の原理で社会を構築する資本主義が強烈な格差を生み出すのは、このような、利子のメカニズムに付随する構造的な問題と考えるのが自然ではないでしょうか。世界の主要な宗教が長い間、お金に利子をつけることを禁じてきたのは、恐らく金利のこのような性質を洞察していたからではないかと思いますが、スピリチュアリティに基づくインスピレーションの鋭さには時々驚かされます。

超資本主義の進行に伴って、金融が経済を主導する「アメリカ型金融社会モデル」が世界に広まり、社会格差が拡大している現象は、このようなメカニズムによってうまく説明できるような気がします。・・・社会格差の問題は、一般的に批判されているようなまずい政治の舵取りの結果、という要素も確かにあるかも知れませんが、この仮説を前提とすると、政治批判・論争も対症療法についての議論に過ぎません。単純に政治を批判しすぎるのも、政治に期待しすぎるのも、本質的な病理の特定と治癒を遅らせることになるのではないかと思います。現在の日本で言えば、政権が変わっても変わらなくても、対症療法の処方箋が変わるだけではないかと懸念します。

利子の「常識」を再考する
お金が利子を生むことは、現代金融においては常識以前の常識ですが、実はその「常識」が社会の「常識」になってから、せいぜい100年+くらいの歴史しかありません。人類の歴史において、現代のような利子、それも複利による経済が堂々かつ大規模に行われるようになったのは比較的最近のことです。キリスト教、イスラム教、仏教の世界三大宗教では、1,000~2,000年以上お金に利子をつけることを禁じてきましたし、イスラム金融においては、現在においても利子が禁止されています*(5)。シェイクスピア(1564-1616)の『ヴェニスの商人』に典型的に描かれているように、お金を貸して利子を取る金貸し業は、社会から強い非難を受ける卑しい行為であり、不労所得は、人の道義に反すると考えられていました。

前述の通り、このような宗教的・社会的戒律には、その道徳的な理由に加えて、社会とお金の構造問題に対する警鐘が含まれていたと考えるべきかも知れません。複利のメカニズムによって、等比級数的に増加するお金という存在は、ウィルスの増殖パターンにも似て、有限な自然界、あるいは実体経済と共存することがそもそも不可能であるように見えます。1999年に大ヒットした映画『マトリックス』は、知能を持ったコンピュータープログラムが人類を支配するというストーリーですが、コンピュータープログラムの代理人(エージェント)が、人間(モーフィアス)に対して印象的な台詞を吐きます(翻訳筆者)。

I’d like to share a revelation that I’ve had during my time here.  It came to me when I tried to classify your species and I realized that you’re not actually mammals.  Every mammal on this planet instinctively develops a natural equilibrium with the surrounding environment, but you humans do not.  You move to an area and you maultiply until every natural resource is consumed, and the only way you can survive is to spread to another area.

There is another organizm on this planet that follows the same pattern.  Do you know what it is?  A virus.  Human beings are a disease, a cancer of this planet.  You are a plague, and we are the cure.

君たちの種を分類しようとして感じたのだが、君たちはどうやら哺乳類ではない。地球上の全ての哺乳類は、環境とバランスするための本能を進化させているが、君たち人間は違う。ある場所に住みつくと、そこにある資源を食いつぶすまで増殖に増殖を重ね、種が生存を続けるためには、次の場所に拡散する他はない。

地球上には同様のパターンを持つ生物がある。ウィルスだ。人間とは伝染する病、君たちはこの惑星の癌なのだ。そして、我々が治療薬だ。

「エージェント」が指摘する人類の姿が、資本主義社会における我々の生息パターンだという事実は否定しがたいのですが、我々が知らず知らずのうちに隷属しているお金と、お金の持つ金利メカニズムが、そのパターンを規定しているとは考えられないでしょうか。

利子について、再考すべき第二の「常識」は、利子の「支払い」に関するものです。殆どの人は、お金を借りると利息が生じる、と考えています。しかし、商品やサービスの提供者は、例えば機械や建物を調達するために銀行からお金を借りているので、モノの価格には、銀行への支払いが既に含まれています。・・・農家は耕運機や農薬購入のために農協からお金を借り、収穫した小麦を農協へ売る際に金利費用を小麦の売却価格に上乗せします。農協は一般販管費に加 えて、借入金利や支払配当などの資本コストを上乗せしてパン屋さんに卸します。パン屋さんの店舗やパン焼き機器の購入代金は地元の信用組合からローンを組んでいますので、パンの売上でこのローンに対する金利を賄う必要があります。こうして消費者が購入する「クロワッサン」には、相当額の金利が含まれます。資本主義社会のメカニズムにおいて、世の中の取引という取引、事実上全ての消費活動に利息の支払が伴います。世の中では、消費税率を引き上げるべきかどうかで議論がなされていますが、我々は既に、資本主義社会に広範囲に存在しながら、目に見えない、利息という「消費税」を、自分たちが気が付かないうちに、日々大量に納税しているのです。後述しますが、この「税率」は恐らく価格の40%程度に相当し、納付先は上位数%の「資本家」、ということになります。

環境建築と都市計画の専門家で、ドイツのハノーバー大学でも教鞭をとったマルグリット・ケネディ博士は、彼女の論文*(6) の中で、このような「目に見えない」金利費用を、我々がどれ程負担しているかについての調査を紹介しています。1981年・1989年ドイツのアーヘン市における、一般的な商品・サービス価格に含まれる利子支払分の比率は、ゴミ回収 12%、上水(飲料水) 38%、下水 47%、公共住宅家賃 77%、です。労働集約的なゴミ回収における比率が低く、資本集約的なインフラを必要をする商品やサービスについて、比率が上昇することが分かります。

別の身近な例は住宅ローンでしょう。金利の水準にもよりますが、例えば5,000万円のマンションを購入するために、銀行から4,000万円の住宅ローンを借りたとすると、30年間の総返済額は金利元本を合わせて8,000万円近い額になります(平均金利が5%前後の場合です)。つまり、この不動産オーナーは、1,000万円の頭金を合わせて実質的に9,000万円の買い物をしたことになりますが、そのうちの約4,000万円、実に購入額の44%が金利の支払に充てられることになります。そして、このオーナーが、この物件を賃貸に出すとすると、これらの費用は全て賃料に転嫁されることになりますので、テナントは家賃という形で金利を支払わされています。

サラ金からお金を借りる生活をはじめると、金利の支払額が雪だるま式に(複利で)増加し、元本を返すどころか金利の支払だけのために働かざるを得なくなり、やがて所得の大半が金利の支払に充てられるようになります。誰もがおぞましいと思う借金漬けの人生ですが、しかし、現実には、サラ金からお金を借りていようと、いまいと、生活における支払の大半が既に金利費用であり、その事実に気が付いているか否かに関わらず、資本主義社会では誰もが借金返済のために大半の労働を強いられているのです。このようにして、資本家が受け取る金利、・・・エンデが問う、「太陽4個分の金塊と、1.5mの金の延べ棒の、差額の勘定書」・・・は、社会全体が負担しています。

反対に考えると、仮に、この世の中から金利というものが消滅すれば、大半の人の可処分所得は倍増する可能性があります。マルクス主義の社会主義運動は、利子や賃料など余剰価値(不労所得)の廃棄を目標としていましたが、その思想の根拠はこのようなところにあったのではないでしょうか。また、マルクスが予言した、「資本主義の崩壊」は、このようなお金(資本)と金利の根源的な性質を洞察していたのかも知れません。

利子の「常識」を再考する、議論は次稿に続きます。

【2009.2.2 樋口耕太郎】

*(1) この議論において、経済成長を無条件に問題視しているわけではありませんし、成長を止めろと主張しているわけでもありません。ある程度裕福になった社会において、追加的な経済成長が人々の幸福に大きく寄与しないのは事実といって差し支えないと思いますが、それでも多くの人々は物質的な豊かさを得ることで(幸福かどうかはともかく)、一定の満足を得ています。また、世界の底辺の50数カ国に集中している貧困を解決するために、恐らくもっとも有効な手段は経済成長です。反対に、経済が急速にマイナス成長へ向かうと、1989年以降の旧ソ連や、紛争が生じているアフリカ諸国のように、健康や平均寿命の水準が激しく低下するという傾向もあります(前掲、ダイアン・コイル著『ソウルフルな経済学』などを参照しています)。

*(2) Mapping Global Capital Markets, Fourth Annual Report, January 2008, McKinsey Global Institute. 1980年の全世界の名目国内総生産(GDP)と金融資産は、それぞれ10.1兆ドル、12兆ドル(比率は 1 : 1.1)とほぼ均衡していました。ところが、両者は1990年以降目立って乖離し始め、2000年には31.7兆ドルに対して94兆ドル(1 : 2.9)、2006年には48.3兆ドルに対して167兆ドル(1 : 3.5)と急速に拡大しています。

*(3) 年率10%を超えるスピードで世界の金融資産が増加し続けると単純に仮定すると、現在167兆ドルの世界金融資産は、30年後には実にその21倍、3,525兆ドルにまで拡大する計算になります。現在日本の個人金融資産の総額が1,500兆円といわれている中、30年後に、例えばゆうちょ銀行の総資産が現在の21倍、すなわち4,830兆円になるなどということは、ハイパー・インフレーションでも起こらない限り不可能でしょう。特に過去約30年間の金融資産の成長は、持続性を失っており、国際金融危機の発生は時間の問題だったといえるでしょう。

*(4) 坂本龍一、河邑厚徳編著『エンデの警鐘』、2002年4月、NHK出版。お金について考え続けたミヒャエル・エンデの思考の道筋を辿りながら、お金の本質を根源から問う、という構成のNHK番組『エンデの遺言』(1999年5月)は大きな話題になりました。同名の書籍が2000年2月に出版され、その後も現在に至るまで、日本における地域通貨活動などに多大な影響を与えています。本書はその続編です。ミヒャエル・エンデは童話作家として知られていますが、そのモチーフは深い社会的洞察に基づくもので、とくに『モモ』に登場する「時間泥棒」、「時間貯蓄銀行」は、お金がお金を生む金利の本質を、童話という形で表現した秀逸なアイディアです。

もっとも、本書はテレビ番組を基礎として構成されていますし、エンデ自身も経済・社会学的な強い裏づけをもつ研究者ではありません。本稿のエンデのこのコメントは、彼自身マルグリット・ケネディの論文を引用したものです。お金と社会についての書籍としては、ベルナルド・リエター著『マネー崩壊』小林一紀・福元初男訳、2000年9月、日本経済評論社、が秀逸です。

*(5) アリストテレスはその著書『政治学』の中で、「貨幣が貨幣を生むことは自然に反している」 と述べています。旧約聖書においても「あなたのところにいる貧しい者に金を貸すなら(中略)利息を取ってはならない」 (出エジプト記22:25)、あるいは「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」(申命記23:19)と記されています。しかしながら、旧約聖書は貧者と同胞への利子を禁じているだけという解釈や、イタリア・ルネサンス時代の大スポンサー、メディチ家が大銀行家であったり、教皇庁が別名目で実質的な金利を認めるなどの事例が存在し、また、イスラム教の教義に基づいて運営される銀行は、実際には「投資」による「利潤」は許されるという解釈に立ち、事業を成立させているなど、利子を取る金融がいつの時代にも存在したことは事実のようです。

*(6) マルグリット・ケネディ『金利ともインフレとも無縁な貨幣』小森和男訳、自由経済研究、1996年11月(第8)号、ぱる出版。

沖縄県農林水産部のアレンジにより、主として沖縄県北部管内の林業事業者の方々を対象にした、5 回シリーズの経営セミナーを樋口が担当しています。第3回目のスケジュールが確定しました。


第3回 林業事業体 経営セミナー

日時: 1月22日木曜日 午後1:30より約4時間
場所: 北部農林水産振興センター(北部合同庁舎内)

お問い合わせ:
〒905-0015 沖縄県名護市大南1-13-11 北部合同庁舎2階
北部農林水産振興センター森林整備保全課
電話 0980-52-2832
担当 上里幸秀

お正月はいかがお過ごしでしたか?
私はごくごくオーソドックスに、大晦日は年越しそばをいただき、
紅白歌合戦を観て今やもうついていけない流行歌のお勉強をこなし、
おせち料理をゆっくり作り、お雑煮・お屠蘇でいただき、初詣に行きお参りを
済ませ、カゼを克服した後、ランニングもしっかりこなし、ぐっすり眠って初夢も
見たお正月でした。ただ、年末より苦しんでいた腱鞘炎がもう痛いのなんのって!
あなたもどうぞお身体はくれぐれも御大切になさってくださいね。

さて、今日は七草。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体し、一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとしてはとっても
おすすめです!
ぜひ召し上がってみてくださいね。

昨年もいろいろな出会いがありました。
その中のお一人で、K君という神戸出身の30代の男性。彼は韓国人で、神戸でも
東京でも活躍してきた人で、有名人など、とにかくお友達のたくさんいる、
バイタリティに溢れる、いつも楽しく元気いっぱいの人情熱き人なんです。
何度かお話を重ねるうち、そんな彼でも、お父さんを不慮の事故で亡くした
子供時代から、差別を受けたり、自分でもコンプレックスを持っていたりしていた
ということでした。でも今はもう彼はそれを撥ね返すかのごとく、
先にも書いたような明るい人生を送っておられます。

その出会いによって、私は一人の女の子を思い出しました。
私が生まれ育った大阪にも韓国の人達がたくさんいて、小学校のどのクラスの
中にも数人は混ざっていました。子供達同士の中にも差別というものは存在し、
彼らはよくいじめられたりしていました。私の末金という名字にも「金」という
漢字が入っているため、「おまえも朝鮮やろ!」などと言われ、
戸籍謄本を提出までさせられたり、高校生の時にはボーイフレンドの親に興信所で
調べられたりまでしたものです。

そんな小学校6年生の時のことです。
私のお誕生日会の日に、私の家に仲良しグループのお友達がたくさん集まって
くれました。そこに「金本さん」というお友達がプレゼントを持って
来てくれたんです。
「のりちゃん、金本さんも呼んでたん?」と、
みんなから問い詰められ、金本さんの手前、呼んでもいないのに来てくれたとも
なんだか言えずに答えに詰まっていると、
「うそ~っ、のりちゃんも朝鮮やったん?!」と。
私が「そうやないけど、金本さんもお友達やんか。なんで入ってもらったら
あかんのん?」と言うと、みんな白い目で私を見ながらぞろぞろ帰って
しまいました。
私は金本さんと二人きりで残され、正直言って
「金本さんが来たせいで、あんなに楽しみにしていたお誕生日会がメチャクチャに
なってしもた。」
と恨めしく思っていました。
その時、金本さんが私にこう言ったんです。
「のりちゃん、こんなことになってしもてごめんな。私はいつもやさしくしてくれる
のりちゃんのお誕生日やからプレゼントを渡したくて来ただけやねんけど…。
のりちゃん、怒ってるやろ? 韓国人やない私までなんで差別されなあかんの!
って、今、腹たってるやろ?」
私が黙っていると、金本さんは続けてこう言いました。
「のりちゃん、こう想像してみてくれへん? お願いやから試してみて!
いくで。
まず最初に、
自分の名前を消してみて。
自分の過去が全部なかったと思てみて。
住んでいる家もないと思てみて。
自分はこんな人間やと思てる感じも消してみて。
ほんで
そこに残って立ってんのは誰?」

私はその時、何か本当に大事なものを教えてもらったような気がして、それ以来
いつもこんなイメージを心に抱いているような気がします。

生きていく中で、付属的なものをいっぱい集め、ずっと足し算ばかり続けていれば、
わたしたちは自分が何者なのか、分らなくなってしまいかねません。
名前も過去もいったん切り離して、真剣に己を見つめ直せば、本質が見えてくる
のではないでしょうか。

昨年、暮れに「忘年会」をたくさん開いていただきましたが、
忘年会というのも、ある種の「過去を削る作業」を広く行うということでも
あるような気がして、一年の終わりにその年の自己を見つめ直すいい機会で
あるのかも知れませんね。飲めや騒げで終わってしまっては何にもならないので
しょうが…。

暦や四季を大切にして生きてきた日本人の生命は一年更新です。
どれ程辛い一年であっても、大晦日で区切るのです。綺麗さっぱり前の年のことは
清算して一眠りし、元旦には枕元にまっさらで綺麗な、新しい一年分の生命が
訪れます。

さあ、新しい年です!
新しい365日。
気持ちまでまっさらに引き締まって、いいものですね。
過去を削ったまだまっしろのこの白いキャンバスに、あなたはどんな絵を
描きますか?

今年のこの「季節の便り」も今までよりも、不必要な部分をそぎ落とし
「削る作業」をしてゆきたいと思っておりますので、どうぞまた今年も
おつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

残るのは誰か?

まず最初に
自分の名前を消し去る。
生きてきた年月も振り落とす。
住んでいる家を解体し更地にした上で
自分自身のイメージも引っこ抜く。
そうして
そこに残って立っているのは誰か?
そこからもう一度
自分の名前を書いて
生きてきた年月を拾い集め
家を建て直し自分の進む道を
ふたたび歩み出す。
いずれまた
白紙に戻すときがくる。
何度も
何度も繰り返す。

【2008.1.7 末金典子】

新年明けましておめでとうございます。

・2008年は世界金融危機が本格化した年として歴史に刻まれると思いますが、今回の金融危機で最も大きな試練を迎える経済圏は、アメリカや欧州ではなく日本でしょう。アメリカや欧州が、経済的に相当大きな打撃を受けることは避けられませんが、その範囲はあくまでも、金融機関と個人のバランスシートの大調整と、それに起因する投資・消費の大幅調整に限られます。これに対して、日本では戦後60年間積み上げてきた輸出国家の基本構造自体が機能不全を起こしはじめている可能性があり、場合によっては一転貿易赤字国家に転落するかも知れません。国家経済の根源的変化から派生する影響は、金融・経済を超えて、労働、家庭、教育、医療、社会福祉、食糧などの社会全般に及ぶことになると思います。麻生首相が年頭所感で、不況から最初に回復するのは日本だと表明されましたが、そのちょうど反対になる可能性の方が高いのではないでしょうか。

・年初から、政治主導で景気対策が検討・実行されると思います。しかし、それは対症療法に過ぎないため、国家の基本構造を再構築する、という本質的な治療行為を却って遅らせることになるでしょう。日本政府の景気対策は、恐らく大恐慌時代の政策を参考にした、ケインズ主義的な財政政策を中心としたものになると思いますが、これは治癒どころか、対症療法としても処方を誤っている可能性があり、更に状況を悪化させることになるかもしれません。これら対症療法の副作用は、主として為替の歪みと国家財政の悪化という形で、エネルギーがマグマのように蓄積されていきますが、永続性がないため、どこかの時点で破綻をきたす可能性が高いものです。発火点がどこになるかは分かりませんが、財政、為替、金利あたりが有力な候補です。少なくとも、2009年以降景気の大減速が長期化して税収が大幅に減少し、財政問題が再燃するでしょう(財政)。長期間に亘って蓄積した為替の歪みに起因して、1ドル50円台といったような極端な円高が進行する可能性があるのではないかとも懸念しています(為替)。また、あまりにも長期間に亘って未曾有の低金利が継続しているため、何らかのきっかけによって日本の金利が上昇し始めると、想像を超える影響を多方面に及ぼすことになるでしょう(金利)。

・2009年は日本社会が構造変化を迫られるはじめの年になるのではないでしょうか。変化すべき構造とは、60年以上の年月と国家政策のほぼ全てを傾けて構築してきた、文字通り国家の根幹を成すものです。しかし、一般論としても、それが特に重要なものであるほど「構造を変化」させることは事実上不可能です。異質な機能が新たに生まれ、それが社会的に広まってゆくという現象が、社会全体では「構造変化」と呼ばれることになるでしょう。

・構造変化によって達成すべき経済の重大課題は、究極的には食糧・資源・エネルギーの確保、すなわち、今後の貿易赤字をいかに縮小し、減少する外貨をいかに獲得するかというものです。同時に、この大きな課題をクリアしながら、①少子・高齢化社会、②崩壊しつつある家庭と教育、③労働の質の低下、④環境と食、という四大社会問題とバランスさせるという、戦後最大の難題に直面することになります。

①少子・高齢化社会は、国家財政で増加する一途の医療・社会福祉費と、破綻に瀕している年金制度、という経済的な大問題を伴います。このテーマは国家財政と年金システムの問題として議論されがちですが、日本が直面している激しい人口動態の変化を前提とすると、これらはむしろ対症療法に過ぎません。われわれが根本的な治癒を望むのであれば、増加する費用をいかにカバーするかという発想ではなく、社会全体の医療ニーズそのものをいかに減らすか、つまり、社会全体をいかに健康にするか、という医療本来の目的に立ち返る必要があります。具体的には、生活習慣(ライフスタイル)の見直しを中心とした予防医学が社会に広まり、医療コストそのものが大幅に削減されること以外に、国家財政と年金の破綻を回避する道筋はないような気がします。特に若年層にも急増しつつある痛風、リウマチ、糖尿病、更年期障害など、社会負担の大きい生活習慣病がいずれ医療分野を超えて社会・経済的な大問題に発展する可能性があります。対症療法ではない根本治療のためには、生活(つまり社会)そのものを変える以外に方法はありません。予防医学は医療者のお金にならない活動であり、医療の利用者(まだ「患者」ではない場合が多いので)にとっては生活を変えるという、一見大きなコストを支払う必要があります(本当はコストではなく利益なのですが)。治癒に際しての最大のネックは、現在の医療システムそのものと、それに従事する人々と、そしてなによりも、経済的な社会生活(つまり、お金)を優先しようとする利用者自身の価値観でしょう。

②家庭と教育の問題はあまりに大きなテーマですが、恐らくその中でも最大の問題は、病理が特定されていない、すなわち問題が何かが分かっていない、という大問題でしょう。病理が特定されなければ、いかなる対策も対症療法に過ぎず、治癒を遅らせる効果しか生じません。病理が特定されない最大の原因は、病理は子供ではなくわれわれ大人にあるからでしょう。少なくともいえることは、毎日の食卓に添加物だらけのコンビニ惣菜を並べ、子供のお弁当に500円玉(買い弁)を渡し、職場や人間関係で自分と社会に対して嘘をつき続ける大人たちが、自信を持って子供を叱ることができないのは当然のことでしょう。われわれ大人の生き方そのものを治癒することなしには、家庭と教育が大きく改善することはないと思います。金額の多寡にかかわらず、お金をなによりも優先する大人の価値観が、本来、どのように生きるか、どのようにすれば人の役に立つか、幸せとはなにか、を伝えるべき教育の現場を、いかにしてよりよい職業と収入を得るか、という職業訓練校に変えてしまいました。この病理の治癒は、両親や教育者自身の人生が、子供に対して胸を張れるものであるかどうかという問題に収斂するでしょう。

③労働の質の低下の問題は、数十年に亘ってボディブローのように効いてくる大問題ですが、そろそろそれが本格的に顕在化しはじめているように見えます。バブル期以降の失われた15年で企業が雇用を拒み続けた若年層の問題が、企業において本来最も活力を生み出す若手・中堅層の、量・質・経験の不足という大問題に発展しつつあります。若手層の活力不足は、30代~40代の中堅社員への負荷を増加させ、管理・収益責任と過剰なストレスなどに起因する鬱などの精神的な病理や、心療内科的な疾患を急増させています。この傾向は今後も増加すると思いますが、間もなく企業が独自で対処できる範囲を超えることでしょう。これは、単に企業人事や事業効率や福利厚生や医療の問題ではありません。経営者・従業員・資本家の根本的なバランスが崩れて、労働環境が持続性を失っているという重大現象であり、企業と社会の構造問題として捉えるべきでしょう。団塊世代の大量引退で、視野が広く、バランスの取れた価値観を有する世代が企業から退出し、この問題を増幅しているようです。日本では依然として、アルビン・トフラーの云う「第二の波」、つまり工業化社会時代の発想から抜けきれず、この大問題に対して、労働の流動化、労働の機械化、外国人労働者や移民の受け入れ、女性の社会進出、高齢者の社会復帰などの対症療法で対応しようとしているように見えます。この問題の治癒は、労働の質、つまり労働の目的、時間、意味、評価、組織などを再定義し、企業と従業員の関係そのものを根本的に見直すことでしょう。パタゴニアセムコなど、世界にはそのようなイメージに近い企業が生まれ始めています。労働の質の概念は抽象的で一見分かりにくいようですが、どこかで明確な成功事例がひとつ生まれれば、社会に浸透するのはあっという間となるでしょう。

④先進国の食糧が農薬・化学肥料など、実質的に薬品と石油によって生産されるようになってから約50年。現代の子供たちは母子間の生体濃縮の第三世代にあたります。生まれながらのアトピー、花粉アレルギー、化学物質過敏症、若年化する認知証、増加する鬱などの原因は不明とされており、近い将来も原因が特定されることはないと思いますが、一因がわれわれの食事にあるのかも知れない、と疑う人は増えています。仮にこれが真である場合、あるいはこれが真であると信じる人が一定数に達した場合、あるいは生体濃縮の第四世代、第五世代と進むにつれて問題が深刻さを増す場合、世界の食糧生産の方法自体が、最大の環境問題として認識される可能性があります。これは、20世紀の前半で既に解決済みと考えられていた農業生産の問題が、現代の環境・経済・社会の大問題として再浮上するという大事件であり、そして、その問題が最も顕著に現れるのは、自給率が先進国中最低水準で、農薬消費量が世界的に高く、農産物の(すなわち、窒素と水の)最大輸入国である日本においてでしょう。

・重要なことは、別々の構造による別々の問題と考えられがちな、国家財政、社会福祉、予防医学、家庭の食事、道徳を優先する教育、社会の労働環境、食糧自給率、農業生産、環境保全などの問題は、別々どころか全てが深く関連しており、同一の病理によるものであり、同一の治癒が有効であるということでしょう。社会の生態系のバランスが、お金優先の価値観によって大きく崩れたことがこの病理の根源であり、質を優先する価値観によって社会の免疫機能を復活させ、人間関係を豊かにする社会のバランスを再構築することのみが、本質的な治療となるでしょう。西洋的な対症療法中心の医療から、東洋的な統合医療による治癒へ移行するイメージと重なります。そして、これらの全ては、今後経営者が事業的に直面せざるを得ない経営問題になるでしょう。逆に考えると、経営者の発想の大転換と、新たな価値観次第で、経営者が社会的に果たす役割が高まることを意味します。

・日本の構造変化は、長く深い不況を伴いますので、何年で回復するかという楽観的な事業予測は致命的になるでしょう。これほどの構造変化において、不況を「耐えしのぐ」という戦略に出口はありませんので、根本的に発想を転換し、全く新しい社会構造に適応する事業戦略を選択するべきでしょう。既存の仕組みは、事業的に成功していたものほど、収益を生んでいたものほど、効率的だったものほど、それが資本的にも組織的にも大きいものほど、大都市圏ほど、社会的に影響力を持っていたものほど、常識的であったものほど、大きなハンデを抱えることになります。既存の仕組みを追加・補強・補修するよりも、構造変化後の社会で本当に必要とされるもの(質)を残し、その他を徹底的にそぎ落とすことが戦略的に有効です。不況期には特に、商品の価格帯に限らず、殆どの企業が商品やサービスの質を低下させるため、いかに質を高めるかという課題に正面から向き合うことに成功した一握りの企業のみが、この構造変化を大躍進の好機にすることができるでしょう。

・事業の質が再定義されるでしょう。質を高めることに総論で賛同する人は少なくありませんし、経営者は自分の事業の質に自信があるといわない人の方が少ないのですが、現実には、この構造変化において戦略的に「質の高いものとはなにか」を定義できる事業者は、殆ど存在しないといって差し支えないくらいかもしれません。既存社会の専門家は、いかに事業規模を拡大し、大量の商品を販売し、大量の資本を調達し、費用を削減し、事業効率を高め、ブランド価値を高め、収益を最大化するか、という意味におけるプロであり、いかにして事業の質を高めるか、それ以前に、そもそも「質の高いものとはなにか」、という、一見のんびりした課題を突き詰める余裕もなかったと思います。反面、既存社会において、本当によいもの、質の高いものを一筋に追求してきた一握りの人々は、それが経営者であれ、職人であれ、ビジネスマンであれ、教員であれ、主婦であれ、ほぼ例外なく、自分が好きな仕事をしており、正直で、非効率で、貧乏で、ほぼ無名で、組織や社会において割を食っていて、一般的にカッコいい存在ではありませんでした。構造変化後の社会において、事業の質が再定義されるとともに、このような人々に少しずつ、やがて大きくスポットがあたることになるでしょう。

・情報化社会の発展によって、口コミを妨げる壁が消滅しつつあります。ひょっとしたら、インターネットなどのテクノロジーが社会にもたらした最大のインパクトは、この点にあるかもしれません。結果として嘘をつく、隠す、オープンでない(オープンにできない)、ということのコストが急増しています。近年企業の不祥事が急増していますが、これは企業のモラルが最近になって低下したというよりも、企業や経営者の嘘が顕在化しやすくなったと考えるべきでしょう。この傾向は益々高まると思います。これが意味することは、第一に、「情報管理」の概念が消滅に向かうということです。今後の社会において、企業が情報を隠すことは益々困難、恐らく事実上不可能になるため、「情報が漏れないように管理する」という発想では対応不能になるためです。このような次世代情報化社会において唯一有効な対策は、「情報が漏れたとしてもなんら差し障りのない経営を行う」ことであり、企業や経営者や社員に隠し事や嘘がある程、企業は高いリスクを抱えることになるでしょう。このことは第二に、経営者の正直さや人間性が事業的に重要になるということです。企業を成長させていれば、経営者のプライベートにおける人格と行動の全てが許容された時代は終わり、経営者の人格、言動、夫婦関係、家庭やコミュニティでの人間関係、友人関係、不倫・愛人関係、お酒の飲み方、個人的なお金の使い方、センス・趣味・嗜好、小さな約束事に関する言動、正直さ・誠実さ・社交ではない思いやり、すなわち、経営者の生き方の質が、事業の質と成果を大きく左右することになるでしょう。成果を上げた順に昇進する従来型の組織は非効率となり、人格の順にリーダーが登用される組織は、経済的・事業的な効率を大きく高め、企業価値向上の源泉となるでしょう。

・結局のところ、100年に一度といわれる未曾有の大不況とは、正直で、人間関係を大事にし、心からしたい仕事をし、物事の質を徹底的に追求することが、社会で本格的に機能し始める時代のはじまり、つまり人が社会の奴隷であった時代から、社会が人の幸せに寄与する時代への構造変化だと思うのです。

皆様にとって、今年も幸せな年でありますように。

【2009.1.1 樋口耕太郎】

お元気ですか?
今日はクリスマスイヴですね~。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていて、
由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた太陽神への
収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスになったと
言われています。冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを
感じる一方で、不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうです。

これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、友達同士でワイワイ騒いだり…が主流の
ジャパニーズクリスマス、あなたは今夜はどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。

さて、こんなふうに季節の暦の折々にお便りをお送りさせて頂きましたが、
今年も最後のお便りとなってしまいました。
毎回お読みいただき本当にありがとうございました。

今年もたくさんの方々と出会うことができ、様々なお話を交わすことが
できました。そのなかで、とても意外なことなのですが、気づいたことが
あります。

たくさんの方が、自分を受け入れられなかったり、
自分の待遇や置かれている立場に対して疑問や不満を持つあまり、
なんだか自分が認められていないような気がして、寂しくてせつなくて
仕方がないと感じておられました。
自分がイヤで鏡さえ満足に直視できない人もいらっしゃったほどです。
本当に意外なことでした。

深い自己否定がある時、私達は幸福であることを、自分に許すことができません。
自分が嫌いで、自分を小さくしか思えないと、幸せがやってきても、
「私なんて」「私にはできない」と思ってしまうんですね。
自己否定はなかなか手ごわい症状です。
誰もがその状態の自分が好きではないのに、
その状態の内面にとても苦しんでいるのに、
そこに居続け、幸福をさえぎってしまうもったいない症状です。
もし自分が好きになれず、いろいろなことに自信が持てずに、
いつも心が痛かったなら、あなたはそれまで自分に向けて、
自分を傷つけるような、自分のエネルギーを奪うような想いを向けていたのです。
このことに気づき、これをやめる時、あなたのエネルギーは、優しいエネルギーで
塗りかえられていくはずなのです。

実は、私達の生命と細胞は、自分を認めてくれる優しいエネルギーが
欲しくて欲しくて乾いています。存在を認められ、愛されること、
優しいエネルギーを注がれることを、とてもとても必要としているのです。
あなたは、あなた自身に優しい言葉をかけてあげていますか?
それはとても大きな温かい癒しの波をあなたの中に広げるのです。
自分に声をかけるなんて、恥ずかしい、バカバカしいなんて言わないでください。
あなたの心の内側に優しいエネルギーを流し始めてあげましょう。
自分の心を嫌わずに、じぶんのよくないところばかりを見て嫌わずに、
自分を認め、ほめてあげてください。
「頑張ってくれてありがとう」
「よくやってるね。すごいよ」
などと、あなたの優しい言葉で、自分の命をなでてあげてください。
もし失敗しても、自分を責めるのを優しくやめて
「ああ、いい経験したね。大丈夫。これで成長できるよ。頑張ったね」
とあなたを認める優しい言葉を心の内側に届けてあげるのです。
不安が出てくるたび、その不安を認め
「そうだね。怖いよね。でも必ず越えられるよ」
と、あなたが誰かに言ってもらいたい優しい言葉を自分に注いであげるのです。
そのことにより、いのちは幸福を生み出す力をたくさん充電できるのです。
何度でも、何度でも…。
繰り返し、繰り返し…。
いのちがほっとするのがわかるはずです。実は、それだけで涙が溢れる人もいます。
心の硬いところが溶けて、深い呼吸ができてホッとする人もいます。
スッとラクになる人も…。

自分の内側にどんなエネルギーを注いでいるか、あなたがあなたをどのように
扱っているか、そこにあるものがあなたの人生として創造されていくのです。
優しく温かく存在を認めてくれる愛のある言葉は、私たちの細胞がとても
必要としている大切な力なのです。
時には泣き崩れるほど、それを必要とするのです。
ですからその優しさを溢れさせることを出し惜しみしないで豊かに
流れさせましょう。

そしてまた、あなた自身が認めてあげることで喜んでくれる人、
いっそう頑張ってくれる人がいないか探しましょう。
探すといますよね?
まず奥様、旦那様。パートナー。お子様。後輩、先輩。お仲間、お友達…。
誰も認めてくれないと嘆く前に、あなたが誰かを認めましょう。
そうすればきっと、幸せが生まれます。
ほしいものがあるなら、まず自分が与える人になりましょう。

あなたの愛する人たちに、どうぞステキな言葉をかけてあげてくださいね。
わかっているはずと思い込まずに、大好きだと伝えましょう。
何度でも温かい励ましと、存在を認めるステキな言葉をかけて
「よく頑張ってるね」「ステキだね」
と命を優しく包む言葉をたくさんかけてあげてください。
あなたが優しい言葉を溢れさせる時、あなたの内側とあなたとかかわるすべての
人に、幸福な安らぎのエネルギーが伝わり、広がります。
来年もまた、優しい呼吸で、温かく生きたいものですね。

さて。
もうあっという間に、一年の終わりということになってしまいました。
なぜとはいえない気ぜわしさと、街の賑わいとはうらはらに一抹のさみしさも
おぼえる時です。

そして。
今年も本当にありがとうございました。
世の中も大きく揺れ動いた今年一年でしたが、私にもこの一年いろいろなことが
起こりました。
帯状疱疹で仕事を長くお休みしてしまったり、大家さんとトラブルがあったり、
ひどい腱鞘炎になったり、小さな事も含め本当にいろいろと…。
自分の身に何かが起こる度ごとに、その道のエキスパートのみなさんに教えを乞い、
助けていただきました。医師、薬剤師、検査技師、建築士、会社経営者、
マスコミ関係、司法書士、教師、税理士、会計士、銀行マン、弁護士、
政治家……数え上げるとキリがないほどです。
つまりはそれだけたくさんの異業種の素晴らしい方々に、
支えていただいているんだということをしみじみと想いました。
だからどんなトラブルが起ころうとも、いつもそういう方々に
支えていただきながら今日があることの幸せの方が、どんなに幸せなことかと
いうことに改めて思い至った次第です。
いつもお心にかけていただきまして本当にありがとうございます。

あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように、
そして何より、あなたがどうかこのうえもなくお幸せでありますよう、
心からお祈りいたします。

【2008.12.24 末金典子】

内閣府と沖縄県が主催する 『第3回 金融人財育成講座』 が、10月から来年3月の期間、琉球大学にて開催中です。今年度シリーズは、全12講座中、残る5講座が受講可能です。本講座の特徴は、12講座全部を通して受講しなければならない訳ではなく、1回2,500円で好きな講座のみを、誰でも受講できるところにあります。私(樋口)が担当する講座は、1月24日土曜日午後2時です(下記参照下さい)。

私事、昨年の「サンマリーナホテルの再生」と題した講義は非常に好評で、定員200名の琉球大学大学会館もほぼ満席状態でした。嬉しかったのは、広範囲の異業種の方々に受講頂いたことです。金融に携わっていらっしゃる方々はもちろんですが、経営者、ベンチャー起業家、大学教員、農業、農協役職員、主婦の方々、自営業、タクシー乗務員、医師、看護士、ホテル業、ヒーリングサロン経営、土木開発業、建築家、電力会社、県庁職員、飲食業、学習塾、大学生、中学校教員など、本当に多岐に亘りました。今年度も、講義内容を1年間かけて練り込み、昨年よりも一段とグレードアップします。

レストランやホテルの予約にしろ、大学での特別講座にしろ、沖縄では通常間際にならなければ予約が入らないのですが、嬉しいことに、現時点での受講申し込み数が、当初予定していた施設の定員数を超過したため、講演会場が琉球大学法文学部の大教室へ変更になりました。主催者発行のオリジナルパンフレットなどと情報が異なりますので、ご参加頂ける方はご注意頂ければと思います。

日時: 2009年1月24日(土曜日) 午後2時~5時15分
場所: 琉球大学 法文学部 201教室
講演: 「沖縄における事業再生」 樋口耕太郎
受講料: 一般2,500円、学生500円

プログラムの詳細と受講お申し込みは、リーフレットまたは主催者ウェブサイトをご参照下さい。

*     *     *     *     *

本講座のシリーズは、もともと私が講座を担当するのが場違いなほど、著名な方々が講師をされていらっしゃいます。昨年度も、日銀総裁に就任された白川方明先生、東京大学の小宮山宏総長など、そうそうたる講師陣でした。今年度後半の講座で、私が特にお勧めの講師をご紹介します。

1月17日(土)講義:
㈱経営共創基盤 冨山和彦(とやまかずひこ)代表取締役CEO

冨山さんは、云わずと知れた、日本における事業再生実務家の第一人者です。長年経営コンサルティングに携わり、自らもコンサルティング・ファーム(コーポレート・ディレクションズ)を経営されていらっしゃいましたが、2003年4月に国家プロジェクトとして成立した、株式会社産業再生機構の代表として目覚しい実績を上げ、特に注目されるようになりました。産業再生機構の支援先で有名な企業は、カネボウ、ダイエー、大京、ミサワホームなどですが、いずれも当時の社会全体にとっての超重要再生案件です。

産業再生機構の実績のすばらしさは、第一に、全ての対象事業者への支援をすばやく完了し、当初5年限定とされていた組織を、1年早く解散したことであり、第二に、存続期間中におよそ312億円、解散後の残余財産の分配により約432億円を国庫に納付し、国民負担が発生しなかったこと、第三に、職員のうち公務員の占める割合は1割程で、他は民間出身者が占めていたことでしょう。冨山さんは、産業再生機構での役目を終えた後、その仲間たちを中心に、事業再生・経営支援を主業とする株式会社経営共創基盤を設立し、代表に就任。昨年は日本の名だたる多数企業から合計100億円を超える出資を受け、事業基盤を拡大しています。

冨山さんの著書で、『会社は頭から腐る』というタイトルの本があります。金融人財育成講座における冨山さんの講義は昨年に引き続き2度目ですが、著書のタイトルの通り、企業の問題の大半は経営者に起因するという事業経営の本質を、きわめて率直かつ経営科学的に解説する講義スタイルで、あっという間に時間が過ぎ去る感じです。金融関係者に関わらず、組織運営に関心のある方、企業経営者の方々には(耳が痛いながらも)特にお勧めします。

3月7日(土)講義:
GCAサヴィアングループ㈱取締役、一橋大学大学院教授 佐山展生(さやまのぶお)先生

本年度講座シリーズのトリを務められる佐山さんは、全国ネットのマスメディア、著名雑誌などにも頻繁に登場されていますので、金融業界を超えてご存知の方も多いと思います。佐山さんは現在、日本におけるM&A(企業合併・買収)実務家の第一人者として知られていますが、そのキャリアは実に大胆かつアグレッシブです。どんなに成功しても過去と現状に拘泥せず、常人が夢見るような地位をいとも簡単に、しかも何度も捨て去ることで、次の目標にチャレンジする「捨てっぷりのよさ」が特徴で、結果として、普通の方が一生のキャリアとするような大事業を5年ごとに成し遂げていらっしゃるイメージです。佐山さんはよく、「人生はおもしろい。しかし、おもしろくするのは自分次第」とおっしゃいます。

日本にM&Aという用語が存在しなかった1987年、そしてまだ転職が珍しかった頃、10年以上務めた帝人での高分子化学技術職を辞し、全く畑違いの三井銀行で日本で最初のM&A業務に参画されました。ニューヨーク勤務時代には米州のM&A事業を統括する傍ら、激務の合間を縫ってニューヨーク大学の夜学でMBAを取得したのが40歳。帰国後、東京工業大学で博士課程を、これも夜学で終了されたのが45歳と、常に学び続けるパワーは人並み外れています。特に、佐山さんがニューヨークから帰国した頃の日本は、大手銀行を中心に不良債権処理が本格化し始めた時期で、大量の不良債権処理に追われる銀行本体の内情を尻目に、彼のM&A部門は破綻企業の清算・売買のアドバイザリーなどを中心に実績を上げ、当時の邦銀としては異色の部門として有名でした。特にクラウンリーシング、大倉商事の破綻案件でアドバイザーを務めた案件は圧巻で、このような超多忙な環境で、どうやって博士課程を修了することができたのかは、謎としかいいようがありません。

日本で初めて、いずれの金融グループにも属さない独立系バイアウトファンド(ユニゾン・キャピタル)を創業されたのが、同じく45歳。今でこそ当たり前のバイアウトファンドですが、当時日本では実現不可能だと考える人が殆どでした。アスキー、東ハトなどの有名再生案件を手がけましたが、代表パートナーの地位をあっさり手放し、M&Aの独立系アドバイザリー会社GCAを立ち上げ、設立からわずか2年半であっという間に上場させてしまいます。村上ファンドから阪神電鉄・阪急を防衛した案件は有名です。これらの業務の傍ら、報道ステーションなどのコメンテーター、フォーブスのインタビューアーほかマスメディアにも多く登場したり、一橋大学大学院などで教鞭を取るなど、相変わらず超人的な日々を送られています。最近、GCAとサヴィアングループの統合を果たした後、代表の肩書きを早くも譲られており、また次の大事業を企図していらっしゃるに違いありません。

【2008.12.19 樋口耕太郎】

資本主義の第三の幻想は、「経済成長が社会を豊かにする」、という常識の嘘です。経済学は前提条件の多い学問とされているそうですが、それらの前提条件については、重要なものほど単に「所与」とされているような気がします。「経済成長の有益性」はその典型といえるでしょう。オーストラリアの経済学者クライブ・ハミルトンは、彼の著書『経済成長神話からの脱却』*(1) で、次のように述べています。

経済成長の有益性は自明のこととされているので、経済学の教科書でそれのどこが有益なのか調べようとしても簡単にはいかない。どこでもいいから大学の教科書を開いてみれば分かるが、経済学の定義としていきなり、わずかな資源で無限の欲求に対してできるだけ大きな満足をもたらすにはどうすればいいかを研究するものだと書いてある。ここでは「欲求」は消費によって満たされるものだとされ、教科書の前半はもっぱら、消費者が自身の「幸福」を最大化しようとする行動の分析に当てられる。本来は人間だったものがいつの間にか「消費者」にされ、人間の欲求は商品によって定義されてしまっている。これに続けて、人間を最も幸せにできる唯一の方法は、より多くの商品を提供することだと書いてある筈だ。いいかえれば、目的は経済成長だということになる。教科書の後半はマクロ経済の話だろう。こちらの目的は要するに、政府がどのように経済を管理すれば、やがて成長率を最大にできるかを理解することにある。

経済成長フェティシズム
「経済成長の有益性」を所与として、いかにして経済成長を実現するか、に関する経済学的研究が山のように存在し、社会的にも政治的にも経済成長が最重要視されています。現代社会において、所得の向上が幸福をもたらし、経済成長がよりよい社会を作ることは「自明」であり、GDP*(2) が繁栄の指標として議論の余地なく受け入れられています。GDPの成長が好調であれば、与党は選挙で大勝して政治家は胸を張り、逆に成長率が鈍化すると、野党を含め、ありとあらゆるメディアや評論家が、政府はいかに無能で社会に多大な被害を及ぼしているかと激しく攻撃します。政府の経済政策やマニフェストは、それが経済成長を達成するか、というほぼ一点で評価されるといって差し支えないくらいです。政治的な議論においても、世の中の多く問題は経済成長によって万能に解決されると考えられているかのようです。失業者対策、ホームレス問題、外国人雇用、若年雇用不足、公共施設の予算不足、税収不足、収入格差の拡大、少子高齢化、高齢者の福祉、環境問題、食料自給率の低下、農業の衰退・・・。延々と続く社会問題のリストに対して、過去何十年もの間、政治家や経済学者やマスメディアや事業家の回答は常に、「経済成長でみんなが豊かになれる」というものでした。そして、「経済成長」とは単にGDPの成長を指すことが一般的ですので、これらの問題がGDPの成長によって、完全に解決せずとも向上すると考えられています。

経済学では100年以上、経済成長が社会を豊かにし、所得の増加が消費を増やし、人間の幸福は財の消費量の増加関数だと仮定してきました。しかしながら、この命題は一度もシステマティックに実証されたことはないそうです*(3)。所得が上がることで幸福度が大きくなるのであれば、①豊かな国の国民は、貧しい国の国民よりも幸福である、②同じ国のなかでは、お金持ちの方が貧乏人よりも幸福である、③人はお金持ちになるほど幸福になる、という関係が成り立つ筈なのですが、既に存在する大量の調査・研究による「状況証拠」は、それらをことごとく否定しています。前掲ハミルトンは、経済成長に対する「信仰」を、現代社会のフェティシズムと表現しています。以下は彼の前掲書からの引用ですが、1930年代から1940年代のパプアニューギニアで実際に盛り上がったカルト宗教に言及し、経済成長神話(Growth Fetishizm)の本質を説明しています。

1930年代から1940年代のパプアニューギニアでは、物質的に豊かなすばらしい新時代を予感した宗教運動が盛り上がった。人々が信じたのは、超自然の存在がもたらす「カーゴ」が新時代を創始するということだった。どこからともなくやってくる飛行機や船が、植民地の役人に荷物(カーゴ)を運んでくるのを観察することで始まった信仰だ。ときにはこの、「カーゴ・カルト」の信者が象徴的な滑走路や倉庫を作ってカーゴの到来に備え、伝統的な生活の手段を、信仰の邪魔になるとして捨て去ってしまうということもあった。

これを未開の民の迷信と笑うのは簡単だが、カーゴ・カルトと現代の経済成長フェティシズムは、実はとてもよく似ている。どちらも物質的な資産に魔力を認め、それを所有することで地上の天国が実現できると考える。それを達成するのがより多くの富、より多くの金銭だ。どちらにも預言者がいて一般大衆に信仰を説き、これからもより多くのカーゴが、より多くの金銭が到来して、信じる者に至福の境地をもたらすと説得する役割を担っている。カルト信者を支配する植民地の高官は大量のカーゴの所有者と定義され、経済成長フェティシズムに冒された人々の支配者は、大量の金銭の所有者と定義される。そしてどちらの場合も、同じようにカーゴまたは金銭を手に入れることで、誰もがそのエリート層に加わることができるという信仰が広く行きわたっている。先進国の人々はカーゴがどこからともなく現れるのではなく、生産する必要があると知っている点で違っているというかもしれないが、多くの人々は財産がどこからともなく、たとえばマルチ商法や宝くじや株式市場や脱税や、そのほか無数の「一攫千金のチャンス」で手に入れることがあると思っている。一攫千金のチャンスをものにするという内容の本を書いただけの人間が、その本の売り上げで一攫千金を実現したなどという話さえあるほどだ。そしてカーゴ・カルト信者と同じように、先進国でも多くの人々が伝統的な生活の手段を進んで放棄している。九時五時の仕事を捨てて、マナ(訳注: 昔、イスラエルの民がエジプトから脱出する際、荒野で神から与えられたという食物)を追い求めているのだ。

経済成長は人を幸せにしない
経済成長を社会の至上目的としてきた結果、先進諸国では戦後60年以上に亘って高レベルの経済成長が継続し、平均実質所得が何倍にもなるほどの成長を遂げました。特に超資本主義以降の成長は著しく、1980年に10.1兆ドルだった全世界の名目国内総生産(GDP)が、2000年には31.7兆ドル、2006年には48.3兆ドルと、25年間でおよそ5倍に拡大します。この間世界のGDPは年率6.2%で成長したことになります*(4)

日本でも、高度成長期を経て、社会全体が高度経済成長と大量消費の要請に合うように再構築され、人々はお金を使えば使うほどもっと使うように、という更なる圧力を受けるようになります。『三丁目の夕日』の時代と現在を比べて、約50年かけて「奇跡的な」経済成長を遂げた今、人々はより幸せに暮らしていると言えるでしょうか。ちょうどこのドラマの舞台になっている、1958年(昭和33年)から1991年を対象とした調査によると、この期間に日本の一人当たり実質GDPは6倍に増大しましたが、自己申告による幸福度平均は全く増えませんでした。米国でも1946年以来、同様の調査が継続しており、実質所得は当初の3倍に増加していますが、「所得にはとても満足している」と回答している人の割合が42%から30%へ、12%も減少しています。所得が何倍にも増えたにも拘らず、それに満足する人が減少するのであれば、社会全体として、どうして経済成長をここまで追い求める必要があるのでしょう*(5)*(6)

革命的な人事と経営スタイルで知られる、ブラジルのセムコ社のリカルド・セムラー社長*(7) が、MITでの講演 でジョークを飛ばしています。「自動車業界は100年前と現在では殆ど本質的な変化がない。100年前のフォードは、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗り、時速30kmで走行していた。そして、100年間と数千億円を超える膨大な研究開発費を費やした現在も、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗りで、時速27kmで走行している」。最後の「時速27km」というのは、交通渋滞や信号停止などを含めた実質的な走行速度を揶揄しています。

経済成長によって社会をよりよくする試みは、ほぼ全面的かつ必然的に失敗したと言うべきでしょう。セムラー社長のジョークのように、車の性能が破格に高まる反面、都市部の渋滞に収拾が付かなくなってしまい、経済成長そのものが病んだ社会を作り出し、所得が増えると同時に別の社会構造が生まれ、至るところで富の利点が相殺されています。お金持ちになるという過程そのものが問題を引き起こし、世界で最も裕福な筈の国民が、自分たちは惨めだと感じているのです。恐らく最も深刻な問題は、経済成長が社会を豊かにする事実が存在しないにも関わらず、経済成長がこれほど社会で重要視されているということは、社会において、世の中をよくしようと考えている人が実質的に殆ど存在しないことを意味する、ということです。いったい何を間違ってしまったのでしょう?

成長の構造
経済成長には、例えば、環境と両立しないという重大な問題があります。現在の経済は自然環境や土壌や化石燃料という再生不能な「資本」を日々取り崩し、これを収益として認識することで経済成長を達成しています*(8)。もしも企業が自己資本を取り崩して、その額を利益に計上していれば、まともな会計士であれば粉飾決算を指摘するでしょうし、経営者であればその企業が順調だなどとは考えないでしょう。自分が既に持っているものを、利益として計上する行為は、蛸が自分の足を食べて空腹を満たすようなものだからです。資本主義のシステムは、このような「粉飾決算」を前提に全てが成立していますが、この現象は経済成長によって等比級数的に加速するため、最終的にはどこかの時点で一気に破綻を迎えることになります。

このような現象は、自然環境や化石燃料に限らず、有限の環境下で無限の成長を追及する資本主義の構造的な問題で、現代社会の至るところに同様のパターンが生じています。あまりよい例ではないかもしれませんが、この原理は、物質的に有限な人体と、等比級数的に増加するウィルスの関係に似ています。ウィルスは人体に寄生して、本質的な生産活動をしませんが、人体のエネルギーを取り込んで等比級数的に増加します。しかしながら、人体の成長は有限かつ物質的に逓減するため、いずれ寄生しているウィルスが人体を食い尽くすことになります。ウィルスは人体なしで自ら存続し得ませんので、自らの成長によって、自らの存在の拠り所とするシステム(人体)自体を崩壊させ、結局自分自身を含む全てが破綻します。「自然環境と資本主義社会」、「人間性と現代経営」、「農業と工業」、「土壌と化学肥料」、「実体経済と金融資本」など、いずれも「人体とウィルス」の関係にあり、本質的に全く同じ問題を抱えています。これは資本主義における「成長」という現象の構造的問題であるため、このパラダイムの内部で解決することができません。システムの崩壊を防ぐためには、どこかの時点で物質的成長パラダイムそのものを放棄し、質的な成長に移行する以外に解決方法は存在しません。

経済成長の原因
所得の増加が人々を幸福にせず、経済成長が社会を豊かにしないことが事実だとしても、人々がこのような社会の被害者だと単純に考えることは、適切ではないかもしれません。所得の増加と人々の幸福感について、前掲クライブ・ハミルトンは重要な事実を指摘しています。前掲書から二箇所引用します。

経済成長が継続するためには、人々の欲望が所有しているものよりも大きくなければならず、個人が常に自分の持っているものに不満を感じていることが決定的に重要になる。経済成長は人々の欲求を満たして幸福を増進するものだったはずだし、経済学は少ない資源を最もうまく使って福利を最大化するための学問だったはずだが、現実は、人々が不満足であり続けないかぎり経済成長を持続することができない。つまり、経済成長は幸福を作り出すものではなく、不幸に因って維持されるものなのだ。このような資本主義が生き延びようとすれば、人々を常に不満足なままにし続けなくてはならない。

*     *     *     *     *

ジュリエット・ショアの著書『浪費するアメリカ人』によると、年収が10万ドル(約1,000万円!)を超える家庭の27%が、必要なものを全て買うゆとりがないと話しているという。「全体として、世界でもっとも豊かな国々の国民の半数以上は、必要なものを全て買うゆとりがないと考えている。しかもそれは貧しい方の半数だけではない」。さらに年収が5万ドルから7.5万ドルの層の1/3以上が、基本的に必要なものを買うだけで収入が殆ど飛んでしまうと答えている。2002年にオーストラリアで行われた同種の調査では、上位20%の富裕層のうち46%が、必要なものをすべて買うゆとりがないと答えている。またショアはアメリカ人に「すべての夢をかなえるために必要な年収はどのくらいか」と尋ねた結果を紹介している。1986年にもっとも多かった回答は5万ドルだったが、8年後にはそれが10.2万ドルに上昇していた。

人々は経済成長によって少しも幸福になっていないのですが、人々はその被害者であるという以上に、原因そのものだということではないかと思います。「幸福ではない」、「十分ではない」、「お金が足りない」、という人々の価値観*(9) が、社会にこれほどの弊害を引き起しながらも、経済成長を強力に誘引し続ける恐らく最大の原因であり、世の中の多岐に渡る問題の原因は、「お金があれば、幸せになれる」という、人々の信念(幻想)に起因している、と考えられるのです。そして、この仮説がもし真であるならば、「幸せになれば、お金がついてくる」という信念へパラダイムを転換することで、社会の多岐に亘る問題を一気に、そして劇的に改善することができる筈です。

【2008.12.16 樋口耕太郎】

*(1) クライブ・ハミルトン著『経済成長神話からの脱却』嶋田洋一訳、2004年11月、アスペクト社、49p。英語オリジナルは2003年に発表された「Growth Fetish」

*(2) 経済成長の概念で重要な役割を果たしているGDPは、この複雑な問題を更に悪化させる原因にもなっています。GDPが経済成長の実体を測る上で、最も適当な指標だと信じて疑わない人が大半ですが、GNPはもともと二つの世界大戦と大恐慌時代、あまりにも大きな景気循環の波に翻弄された政府が、経済を管理するためにもっとましな手法を必要としたために開発された経緯があります。国民経済計算のシステムを開発したクズネッツ本人は、GNPの限界を強く認識しており、GNPなどの数値を繁栄の指標として扱うことに繰り返し警鐘を鳴らしています。例えば、1934年の議会証言において「国民の幸福度を国家の収入から推し量ることは殆どできない」と述べています。1962年には、「国民経済計算の構造と利用の仕方は再考しなくてはならない」と書くまでになりました。「経済成長の量と質、費用と収益、短期と長期の違いは、はっきりと区別しなければならない。更なる成長を目的とするならば、何を何のために更に成長させるのかを特定する必要がある」。いずれの警告も無視されたまま、現代に至っています。

*(3) 私は経済学の研究体系を網羅的に理解しているわけではないので、このコメントについては、上武大学大学院、池田信夫先生の『池田信夫blog』、2008年12月5日エントリー「幸せってなんだろう」を参照しました。月間200万PVを超える経済ジャンルの人気ブログですが、池田先生の直線的な発言に賛否両論あるのも事実です。

*(4) Mapping Global Capital Markets, Fourth Annual Report, January 2008, McKinsey Global Institute.

*(5) ハミルトン前掲書。本書の2章においては、経済成長と所得の増加が人々の幸福に結びつかない、という実証研究が山ほど紹介されています。状況証拠としては十分といったところでしょうか。彼の結論は以下の通りです。

以上、ここまで見てきた証拠から、大まかに次のような結論を導くのは論理的に妥当なところだろう。国民所得があるレベル以上になると、豊かな国の人々も貧しい国の人々より幸福というわけではなくなる。どの国においても、裕福な人々が普通の収入の人々よりも幸せなわけではない。人は裕福になっても幸福になるわけではない。この結論は日常の食料や家や医療にも事欠く非常に貧しい人々にもそのまま当てはまるわけではないが、基本的な結果として、裕福な国で経済成長によって国民所得が向上しても国民の幸福度は上がらない、という事情に変化はない。さらにいえば、成長を最大化するための経済構造や政策は、貧しい人々の生活を改善するための手段を犠牲にすることになる。

*(6) ダイアン・コイル著『ソウルフルな経済学』室田泰弘・矢野裕子・伊藤恵子訳、2008年12月、インターシフト社、158p からの孫引きです。オリジナルの研究は、Easterlin, R.A. 1995. “Will raising the income of all increase the happiness of all?” Journal of Economic Behaviour and Organization 27(1):35-47. 以下補足です:

以上は日本を含む先進国における傾向です。貧困国ではGDPが伸びればそれだけ幸福度も増加します。年間一人当たりGDPが1万~1.5万ドルがひとつの境界で、それを超えると平均所得の額は、国民の人生への満足度の上昇にあまり関係がなくなるようです(前掲ダイアン・コイル158p)。

*(7) リカルド・セムラー社長とセムコの経営は、リカルド・セムラー著『奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ』岩元貴久訳、2006年2月、総合法令出版 (原題:The Seven-Day Weekend: Changing the Way Work Works)、 リカルド・セムラー著『セムラー・イズム 全員参加の経営革命』岡本豊訳、2006年10月、SB文庫(原題:Maverick: The Success Story Behind the World’s Most Unusual Workplace)などに詳しいのですが、一言で表現すれば、企業に関わる人の幸福を重視した人間中心の経営を目指し、企業の成功を利益や成長だけで測ることを放棄し、経営からコントロール機能を取り去り、社員が職場を自分が働きたいと思える場所にすることと、社員の直感を何よりも重要視することで、外部資本を使わずに年間40%の成長を続けながら、従業員の離職率が実質的にゼロという実績を持つ「異色」企業というべきでしょうか。セムコでは、

・組織階層がなく、公式の組織図が存在しません。
・ビジネスプラン、企業戦略、事業計画がありません。
・会社のゴール、企業理念、長期予算がありません。
・決まったCEOが不在ということもよくあります。
・副社長、CIO、COOがいません。
・標準作業を定めず、業務フローもありません。
・人事部がありません。
・キャリアプラン、職務内容書、雇用契約書がありません。
・誰もレポートや経費の承認をする人がいません。
・作業員を監視・監督していません。

セムコと云えども、資本主義の成長パラダイムから完全に逸脱したわけではないと推測しますが、それでも、質的成長へのパラダイムシフトのインスピレーションを与えてくれる事例だと思います。

*(8) エルンスト・シューマッハー著『スモール・イズ・ビューティフル』小島慶三・酒井懋訳、1986年4月、講談社学術文庫、を参照しています。オリジナルは1973年に発表され、第一次オイルショックのタイミングとも重なって、世界のベストセラーになった古典的名著で、30年以上前に書かれたとは思えない新鮮さがあります。

エルンスト・シューマッハーは1911年ボン(ドイツ)生まれの経済学者・思想家・ジャーナリストです。ケインズから高く評価され、彼の後継者とみなされた時期もありました。英国・ビルマ・インド各政府の経済顧問、英国石炭公社顧問、有機農業を推進する土壌協会会長、共同体経営を試みるスコット・バーダー社顧問などを勤めるほか、ガンジーの思想に強く影響を受けて東洋社会への関心を強め、1955年ビルマ大統領の経済顧問としての赴任をきっかけに自ら仏教徒となった異色の経済学者です。環境・資源・技術・資本・労働をバランスした、理想的な経営組織・企業形態を生涯追及した実践家です。

*(9) 神戸女学院大学の内田樹(たつる)先生の人気ブログ、『内田樹の研究室』の最近のエントリー「窮乏シフト」に、幸福感とお金に関する秀逸な記述がありました。合わせてご参照下さい。

サブプライム危機を機に、Black Swanの概念とナシーム・ニコラス・タレブ博士に対する世界的注目度が急上昇中で、現在彼の講演料は1回6万ドル、『The Black Swan』に続く次回作の前払い金は400万ドルを超える勢いです。もっとも、大恐慌以前から、Black Swanの重要性を認識していた学者が他に存在します。シカゴ大学で50年に亘って教鞭をとった経済学者フランク・ナイト博士(1885-1972年)は、「予想ができない領域」が存在する、ということの経済学的重要性を認識していた一人です*(1)。彼は、発生確率が予想できる危険を「リスク」、それが予想できない危険を「不確実性」と呼んで区別しました。タレブ博士のBlack Swanは、フランク・ナイト博士の「不確実性」の概念に該当します。

フランク・ナイト博士の思想における、市場における競争原理と、不確実性と、企業の利潤の関係を、慶応大学の竹森俊平先生が最近の著書*(2) の中で明快に解説 していますので、以下に引用します。

彼(フランク・ナイト博士)に言わせれば、価格を引き下げてライバルから市場を奪おうとして企業が熾烈な競争を展開している市場において、企業家は確率予想のできない危険、すなわち「不確実性」の領域に踏み込むことによってのみ利潤を得られる。なぜなら、事業に関わる危険が、確率予想のできる「リスク」だけであるならば、事業についての収入と生産費の期待値が計算できてしまうからだ。そうだとすると、収入の期待値が生産費の期待値を上回り、平均的には利潤がその事業に見込まれるという場合には、企業間の熾烈な競争が継続するだろう。その結果、収入の期待値は生産費の期待値にまで下がって、平均的には利潤は消滅せざるを得ないのである。

それに対して、危険についての確率予想のできない「不確実性」の領域に踏み込むなら、企業家は時に利潤を得られる。なぜなら、「不確実性」の領域では、利潤についての確率予想も成り立たないから、いかに強力な競争の力をもってしても、利潤がゼロまで下がるとは断言できないからだ。ある企業家が、他の者から見ればあまりに無謀な事業に乗り出している場合には、他の者はその企業家に競争を挑もうとしない。それゆえ、その企業家が運よく利潤を、しかも莫大な利潤をつかむということもありえる。

これはもちろん、「不確実性」に挑戦する企業家に、必ず利潤が保証されているということではない。計算の立たない危険に身をさらしているのだから、むしろ殆どの企業家は利潤を実現できないまま市場から退出する。

競争原理とリスク
要は、「自由競争の下では、過剰なリスクをとらなければ利益が生まれない。しかし過剰なリスクをとることで、大半の企業はいずれ破綻してゆく」、すなわち、「競争する事業は成り立たない」ということです。このフランク・ナイト博士の発想を素直に解釈すると、「そもそも資本主義と競争原理は両立しない」という可能性*(3) が示唆されますが、それが、サブプライム危機の根源的な原因なのではないでしょうか。競争環境で多額の利益を一定期間生み出すことが原理的に不可能であれば、これを実現するためにはある種の「ごまかし」が必要で、それがトレーディング事業を通じた、(オフバランスのような)制度の裏をかく裁定であり、(投資銀行のような)過剰なレバレッジであり、(証券化のような)裏づけのない請求権の拡大であり、いずれも行き過ぎるとバブルを生み出す原動力となります。超資本主義の浸透が企業間の競争を生み、大半の業種が利潤をすり減らす中、少なくともつい最近までは、金融業だけが空前の利潤を享受していた現象は、金融業がトレーディング事業を通じて「不確実性」の領域に大きく踏み込み、過剰なリスクをとることの対価として、桁外れの利潤を捻出していたと考える方がむしろ自然です。このように考えると、超資本主義による競争原理の浸透が、資本主義自身を崩壊に導くのは必然なのかも知れません。・・・「競争原理が社会の効率を高める」、が資本主義の第二の幻想であることの所以です。

ここで竹森先生は、サブプライム危機の本質を理解する重要な二つのポイントを指摘しています。①「不確実性」に基づく利潤は、稀に得られることがあるのみで、むしろ大多数は失敗するのが普通である筈なのですが、金融業と金融専門家の破格の利益と報酬は最近まで業界の大半が、継続的に享受していた点、②金融業の先端的なリスク管理は、確率論的予想に基づいているため、金融業はあくまでも「リスク」の領域でビジネスを行っていた筈ではないのか、という点です。

熾烈な競争環境で、リスクが十分に管理された安全な商売を嗜好しながら、業界の大半の企業に空前の利益が長期間継続するなど、そもそもあり得ないことです。上記二つのポイントに対する合理的な回答は、事実上ひとつしかありません。「リスク」の領域で、金融業界のほぼ全員が莫大な利益を享受することはあり得ませんので、金融業界全体が「リスク」の領域であると偽って「不確実性」の領域に踏み込んでいたことは明らかですし、「不確実性」の領域で、市場参加者のほぼ全員が、比較的長期間に亘って事業を成功させ続けることはあり得ませんので、空前の利益と言われていたものの実体は、金融業が踏み込んだ「不確実性」の領域に存在する予測不能かつ莫大な危険を引き受けることに対する代償(プレミアム)に過ぎなかったといえるでしょう。本来貸してはいけない人に、大甘な与信審査を行い、将来の価格上昇を前提とした不動産担保評価を基に、多額のローンを提供したサブプライムローンの証券化は、「不確実性」の領域にある莫大なリスクを、証券化のプロセスと高格付けによって厚化粧し、あたかも「リスク」の領域における商品であるかのごとく販売する行為の典型であり、空気に格付を付けて販売するようなものです。

リスクをお金に換える
「不確実性」の領域にあるリスクを収益化する典型的な事例が、サブプライム危機の主役の一人ともいうべきクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)です。CDSはある種の保険商品で、CDSの買い手は保険料を払う代わりに、対象企業が貸し倒れた場合の元利金の支払いを第三者(CDSの売り手)に保証してもらう契約です。CDSは投資家を企業破綻リスクから保護するための保険商品として開発されたのですが、保険の売り手にとっては、将来貸し倒れが生じた場合の支払いを約束することで、少なくとも当初は現金を拠出せずに保険料を受け取ることができるため、金融的には、自己資金ゼロ、100%の高レバレッジの投資と同等の効果があり、貸し倒れさえ生じなければ、CDSを売れば売るほど運用利益が増加します。最終的に履行できるかどうかはともかく、保証を約束するだけで現金収益が生まれるCDS契約は、ファンドや生保の投資収益を極大化する手段として適当でした。2001年には63兆円だったCDSの市場規模(名目元本残高)は、ピークの2007年末には6,200兆円を超え、過去6年間の増加率は実に約100倍を記録しています*(4)。CDSの最大の売り手であったAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)は、サブプライム危機において、フランク・ナイト博士の理論どおりに破綻し、実質的に国有化されています。

「不確実性」の領域にあるリスクをお金に換えるもうひとつの事例は、コミットメント・ラインと呼ばれる融資契約です。これもCDSと同様、「将来の約束」を「現在のお金」に変える金融取引であるため、「できもしない約束を乱発するほど目先儲かる」という原理が働きます。ラインの概念自体は昔から存在するシンプルなもので、ラインの借り手に将来資金ニーズが生じた場合は、あらかじめ約束された上限額まで融資を実行する代わりに、コミットメント手数料を受け取るというものです。物事を複雑にしたのは、銀行や投資銀行が会計上のオフバランスを利用して、実質的なレバレッジを極大化するために多用された点です。『次世代金融論《その10》』で述べたように、オフバランスは、事業と金融の実体はどうあれ、コントロールする資産があたかもそこに存在しないかのごとく会計処理を行うことで、実質的なレバレッジを最大化するものです。会計上存在しないはずの資産から収益だけを計上することができれば、事業の利益率が高まるのは当然のことですが、これも先端「金融工学」の一手法ということになります。

コミットメント・ライン取引には、サブプライム危機に関する一連の報道で、SIV(Structured Investment Vehicle)や、ABCP(Asset Backed Commercial Paper)というキーワードで表現される金融取引が関連しています。銀行や証券会社は、自己資本規制を逃れるために(そして、レバレッジを最大化するために)、会計上オフバランスのファンド(SIV)を設立し、SIVがABCPを発行して資金調達を行い、その資金でサブプライム証券など、「不確実性」が沢山詰まった金融商品に投資を行いました。…なにやら複雑な取引のようですが、本質的には、銀行が自らCP(コマーシャル・ペーパー)を発行して調達した短期の資金で、リスクの高いサブプライム証券に投資するという単純な行為です。これらの取引が全てオンバランスでなされたとすると、借り換えリスクの高いCPで、リスクの高い投資を行う、素朴な(間抜けな?)投融資事業に過ぎないのですが、オフバランス、証券化、格付、SIV、ABCP、という「金融工学」のお化粧をすると、とても高度なものに思えてしまいます。かつて1980年代に、アメリカのS&L(Savings and Loan Association:日本でいえば中小の信金・信組です)が、短期資金でジャンクボンドを買い込んで大量に破綻しましたが、目先の利益を得るために、短期の資金で長期のリスク資産に投資して銀行が破綻に至るプロセスは、銀行破綻の典型的なパターンであり、個人経営のS&L経営者と「最先端」のウォール街の投資銀行家は、本質において全く同じ経営判断を行っています。

会計上オフバランスであっても、銀行の信用補完がなければ、SIVがABCPを発行して資金を調達することはできません。投資家が納得しないためです。このため、銀行はSIVに対してコミットメント・ライン契約を締結し、短期のABCPを資金源とするSIVが、万一、ABCPの借り換えに失敗して資金繰りに詰まる場合には、本体行から資金供給が受けられるようにしました。この仕組みの「利点」は、銀行側から見れば、融資を実行せずにコミットメント手数料を得られることはもちろん、大量の債権投資をオフバランスで行うことで、財務の見かけ上、収益率が大幅に高まる点です。ABCPの投資家にとっては、銀行がいざとなればSIVに資金供給を行うことが約束されているため、本体行のCPを購入するのとほぼ同等のリスクで、CPよりも高いABCPの利回りを享受することができる、ということになります。サブプライムやリスク資産のことを別にしても、何のことはない、銀行はオフバランスという財務上のお化粧のために、短期資金の調達コストを上げ、実質的な企業価値を下げている可能性が高いのです。

以上の結果は、その後の報道の通りです。サブプライム証券の暴落に伴って、ABCPの借り換えが滞り、銀行はコミットメント・ラインの履行を求められます。大幅に価値が下落し、流動性を全く失った証券を担保に実行する融資は、直後から不良債権となり、銀行のSIVに対する関与度合いが上昇せざるを得なくなります。これが会計上の規定に抵触し、銀行は、多額の損失を抱えたSIVのオンバランス計上を余儀なくされ、巨額の評価損を発表することになります。サブプライム危機でシティバンクやその他の大手行が実質的に破綻したのはこのようなメカニズムによります*(5)

問題の本質
かつての銀行中心の時代には、銀行業と証券業を完全に分離したグラス・スティーガル法の運用や、証券発行に厳しい規制をかけるなどして、銀行が取引の中心となるように金融制度が設計されていました。銀行同士が過当競争によって利益を減らし、過剰なリスクをとることがないよう、アメリカでは州を越えて支店を拡大することが禁止されるなど、競争を制限する規定が多く設けられ、銀行の利益は事実上保証され、金融システムの安全が何よりも優先されていました。やがて、超資本主義の浸透によって、規制緩和と競争原理が金融業界にも浸透し、安定した銀行経営よりも、より高いリスクの対価としての高収益、より高い効率と大きな事業規模が生き残りの必要条件となります。サブプライム危機の問題の根本は、超資本主義環境による競争原理の下で、「計算できるリスクの範囲で、高利潤、高報酬を実現」しようとする、無理な要求そのものにあります。要求が無理なものである以上、合法的に、実質的な「ごまかし」商品を開発・販売する以外に、これを「実現」する方法は存在しません。サブプライム危機は超資本主義における、競争原理と規制緩和の社会的枠組みが生んだ結果に過ぎず、一般的に指摘されている、格付機関の投資銀行寄りの姿勢や、投資銀行家の利益追求主義と高額報酬や、市場原理主義とグローバリゼーションなどは、問題の根本的な原因ではないのです。

トレーディング社会の弊害
以上のプロセスの大半は、トレーディング事業とそのメカニズム(①裁定、②レバレッジ、③請求権の拡大)によって仲介されていますが、金融機能を果たすべき投資銀行がトレーディング事業に偏重すると、社会におけるお金の流通コスト(資本コスト)が上昇するなど、社会的に数々の弊害が生まれることになります。

「本来」の金融をお金の流通業と捉えると、社会的に効率の高い金融とは、余剰資金を保有する人(投資家)のお金を、必要とする運用者(企業など)に対して、低コストで融通する機能と考えられます。金融効率が高まることによる付加価値は投資家と運用者に還元され、投資家の利回りが高まり、運用者の資本コスト(資金調達コスト)が下がります。株式売買におけるネット証券の拡大などは、このイメージに重なります。それはあたかも、問屋業において、バーコードなどのデジタル商品管理・コンピュータ化・機械化を導入することで処理能力を高めて流通コストを下げ、生産者と小売業に利益を還元することでシェアを獲得しながら事業を成長させる姿に似ています。これに対して、金融会社がトレーディング事業を拡大して裁定を始めると、今まで顧客であった投資家や企業に対して、金融会社が「買い向かう」ことになり、お金の流通コストが増加するだけでなく、産業の健全な成長を阻害することになりがちです。問屋業で例えれば、醤油を蔵から仕入れてスーパーに卸していた問屋さん(流通業者)が、ある日を境にトレーディングポジションを取って、自己の利益を最大化しようとすることに似ています。

銀行に就職して金融を学び、企業留学でMBAを取得したある問屋の五代目若旦那が、代替わりで地元に戻って家業を継ぐことになりました。若旦那は先代までの「古い」商売のやり方を改め、薄利多売が常識だった問屋業界に「イノベーション」を起こそうと考えます。醤油を安定的に仕入れるよりも、外資系金融機関と組んで大量の資金を調達し、醤油蔵が経営危機に陥るタイミングを計り、破綻した蔵会社を在庫ごと安く買い叩いて大量に仕入れ、蔵会社の従業員を解雇して利益を確保しながら、在庫を高値で高級食材店に卸す(業界では「バリューアップ」と呼ばれています)、またはこ洒落たネーミングを付け、有名デザイナー作のラベルを貼って「こだわり」商品を「ブランド」化し、富裕層に対して直販する(同じく「事業再生」と言うようです)新事業に進出します。利益水準は通常卸業の数パーセントに対して、トレーディングであれば数百パーセントの利益率を実現することも珍しくありません。反面、取引は単発的で継続性がなくなり、事業的な安定性を失い、顧客との信頼関係は消滅し、市場からは時間をかけてよい製品を作り出す蔵が激減することでしょう。著しく短くなった商品サイクルをカバーするため、対象商品を醤油から、吟醸酒、ワイン、シングルモルトなど、より「クリエイティブ」で「付加価値の高い」(しかし流動性の低い)業態に展開します。トレーディング事業を始めた若旦那は、莫大な収益を生み出し、短期間で株式上場を実現して、メディアで大きく取り上げられ、業界の革命児と呼ばれ、講演会の依頼が急増し、表紙や帯に大きな顔写真が載った著書が発売されます。やがてこのような商品に本質的な付加価値が存在しないことに顧客が気が付き始め、また、市場の変化によって不良在庫を抱え、外資系の戦略転換によって資金繰りに窮し、あっけなく破綻します。

*以上で、『次世代金融論《その6》』より継続していた、資本主義の第二の幻想「競争原理が社会の効率を高める」、についての議論を終了します。次稿は、資本主義の第三の幻想「経済成長が社会を豊かにする」、についての議論へと続きます。

【2008.11.22 樋口耕太郎】

*(1) フランク・ナイト著『危険・不確実性および利潤 』(現代代経済学名著選集 6)、文雅堂銀行研究社、1959年3月、原版は1921年に発表され古典的名著との評価を受けています。和書は絶版になっているようですが、洋書版は2006年3月のエディションが入手可能です。

*(2) 竹森俊平著『資本主義は嫌いですか』、日本経済新聞出版社、2008年9月。引用は序文より。本書はサブプライム危機を理解するうえで重要な海外の先端経済論文の解説、といった内容です。膨大な情報量の中から、サブプライム危機の本質にかかるものを抽出して、比較的平易な言葉で表現されており、お勧めの一冊です。

*(3) 「資本主義と競争原理は両立しない」、という仮説に対して、「競争原理を前提とする資本主義が現実に成り立っているではないか」、という反論が当然想定されます。しかし、サブプライム危機が生じる前の金融業界も、不動産と金融バブルを前提として「成り立っていた」(どころか、この世の春を謳歌していましたが)ことと同様、戦後60年間継続しているアメリカ中心の資本主義が、アメリカ経済とドルの過大評価、という超長期かつ最大級のバブルを蓄積し続けることで成立してきた可能性があると思います。本当にアメリカが経済的実力を発揮していたのは1971年のニクソンショックと金本位制度の崩壊までで、ドルが金の裏づけを失ったという事実は、ドルがバブルに向かう明確なサインと考えられます。そして、1971年は超資本主義が誕生した時期と重なるのは偶然ではないと思います。

通常であれば、このような議論はほとんど現実味がないのですが、大きな社会の転換点においては、逆に最も実質的な意味を持ちます。私は、サブプライム問題に端を発した金融危機は、単なる金融危機ではなく、1929年の大恐慌から80年、第二次大戦後60年継続してきたアメリカ・ド ル・石油本位資本主義経済制度の転換点ではないかと考えており、その後の世界経済と社会の大変化を前提とした次世代金融と経済制度の青写真を提示すること が、『次世代金融論』の趣旨でもあります。詳細についてはまだまだ続く本稿で後述します。

*(4) International Swaps and Derivatives Assiciation, Inc. (”ISDA”) ウェブサイトより。 ISDA Market Survey.

*(5) アメリカ大手行の試練はまだまだ続くでしょう。今後の問題は、デトロイトの自動車産業の連鎖倒産と、商業不動産の大暴落に飛び火すると思いますが、特に商業不動産は金融機関の大量解雇によるオフィス需要の激減に加えて、住宅価格の暴落によって消費が冷え込み、アメリカ中でホテルの稼働率が急低下し、ショッピングモールが経営危機に陥り始めています。商業不動産担保証券(CMBS)のリスクプレミアムが異常な上昇を示しているのも気になります。更に、裾野が広い自動車産業の破綻は、個人消費を直撃し、相乗的に問題を拡大することでしょう。オフィス、ショッピングセンター、ホテル、アパートなどの商業不動産は金融会社の経営に直結していますので、一瞬危機を脱したかに見える大手行ですが、もう一度実質的な破綻に瀕する可能性が高いと思います。先月もシティグループとゴールドマンサックスの合併の検討が報道されていますが、早くもその兆候が現れているのかも知れません。(11月25日追記: アメリカ財務省は日本時間の11月24日、シティグループに約2兆円の出資と最大30兆円の資産保証を行うと発表し、シティグループはサブプライム危機以降、先の救済的増資に次いで実質的に2度目の破綻を迎えました。)

鹿児島では雪!ということもあってか、さすがの沖縄も寒いなーと感じて
おりますが、カゼなどひいておられませんか~?

この連休は勤労感謝の日ですね。

「自分の大好きなことを仕事に。」
「自分の夢を暮らしに。」

でも実際、自分のいちばん好きなこと、自分の夢を仕事にしている人は
この日本にどのくらいいるでしょうか。

日本社会はいつの間にか、好きなこと、本当にやりたいことは趣味で、
仕事はお金を稼ぐための労働…となってしまったような気がします。
好きなことはお金にならない、と。

でも、そのために多くのことが、置き去りにされ犠牲になりました。

現代社会は、経済成長することを最優先に、仕事の効率化を徹底的に行い、
職人に代表される、好きなことを、ゆっくり仕事として過ごすスタイルを捨て去り
他者や自然のことを考えず過剰な開発や競争を続け、現在直面する地球環境問題や
貧困、戦争など、優しくない社会を生み出したのです。

例えば、強い会社の人間は下請けの弱い会社の人間に威張り散らす。
弱い会社の人間はさらに弱い会社の人間に威張る。
耐震設計偽装事件などは「金の亡者」が思いついた悪魔のアイデアを卑劣な
力関係によって下に押しつけた結果ではないでしょうか。

こう考えると、日本人は今、お金によって心がいじめられているのかもしれません。
確かにお金は欲しいですよね。いっぱい欲しい。でも人を泣かせてでも欲しいとは
思わない。それが普通ですよね。

でも現実には「人を泣かせてでも自分の儲けを優先する」のは「正しい経済行為」
であるかのようです。象徴的だったのは、村上ファンド。
株式を上場している以上誰が買ってもかまわないし、
現実にあの騒ぎで阪神電鉄株が値上がりしたりしたんだから文句のつけようも
ないのだけれど、根っこは人が懸命に育てた会社をお金で買い、甘い汁だけ吸って
後は放り出すやり方に対する「人としてどうなのか」といった
反発だったのでしょう。これでは庶民の怨嗟の声は強まるばかりです。
儲けたお金ですごく良いことをすればいいのに。愛はお金で買えませんが
お金を愛に替えることは可能だと思うのです。「お金を持つ者」が最強者と
いうのでは、「情」や「心」の育つ場所がなくなってしまいます。

心はお金で育ちません。心は人の愛が育てるのです。

人を泣かせ、苦しめてまで自分の利潤だけを追求するという「心」は、
犯罪ではなくとも悪事でしょう。汗もかかず何も生み出さず、
お金を転がすばかりの錬金術に憧れる人がたくさんいるというのが
日本人の精神的現状です。経済活動とは何でしょう。仕事とは何でしょう。

こんな社会では、人々は常に過大なストレスを、浴びながら生活を営まなければ
なりません。そして仕事で疲れた心身を労るための、さまざまな消費が
行われることになるのです。

もし多くの人が、自分自身の本当にやりたいことを大切にして、
いちばん「好き」を仕事にしたら…。きっと、疲れた自分を癒すために使われる、
過大なエネルギーや資源の消費は、ずい分減るんじゃないかと思います。

もちろん、好きなことをやっていても、楽しいことばかりではなく、
苦労や努力は絶対に必要になります。でも、自分がいちばん「好き」だからこそ、
その壁を乗り越える力が湧いてきます。

いちばん好きを仕事に。
それこそが自分自身の究極の癒しであり、同時に自分が生き生きと輝くことで
他者を癒す、地球や世界を優しい社会にする、処方箋の一つなのではないかと
思います。

あなたもどうか、いちばん好きを仕事になさってくださいね。
今そうではないのなら、今日からはぜひとも御自分の仕事を「好き」になって
いただきたいと思います!

さて、今日はいよいよボジョレーヌーボー解禁の日!
いつもうんとがんばって働いているご自分への御褒美に、
おいしいワインの優しいひとときをプレゼントなさってあげてくださいね。

【2008.11.20 末金典子】

沖縄県農林水産部のアレンジにより、主として沖縄県北部管内の林業事業者の方々を対象にした、5 回シリーズの経営セミナーを樋口が担当しています。第2回目のスケジュールが確定しました。


第2回 林業事業体 経営セミナー

日時: 11月19日水曜日 午後1:30より約4時間
場所: 北部農林水産振興センター(北部合同庁舎内)

お問い合わせ:
〒905-0015 沖縄県名護市大南1-13-11 北部合同庁舎2階
北部農林水産振興センター森林整備保全課
電話 0980-52-2832
担当 上里幸秀

トレーディング収益を構成する第三の要素、請求権の拡大*(1) は、例えば、前述の地方君(『次世代金融論《その9》』参照下さい)のように担保掛目70%の保守的なローンを融資するよりも、プロ君のようにレバレッジを駆使して95%まで目いっぱい貸し付けた方が、より多くの請求権を生み出しトレーディング収益が最大化する、というイメージです。

ジャンクボンドの帝王といわれ、80年代後半のウォール街を席巻したカリスマトレーダー、ドレクセル・バーナム・ランベール証券のマイケル・ミルケンは、例えば100億円の資金調達を希望する企業に対して、120億円のファイナンスを提案することが常でした。ファイナンスの増額によってドレクセルはより多くの手数料収入を得、一方、この企業が余分にに調達した差額の20億円は、ドレクセルが取りまとめる他のジャンク債への投資に振り向けられます。・・・投資銀行が請求権の増加を収益化するプロセスと、その過程でバブルが発生するメカニズムがよく分かる事例です。

このように、トレーディングビジネスの本質として、レバレッジの極大化と同様に、請求権を拡大させようとする強いインセンティブが働きます。サブプライム問題が表面化して以降、皮肉たっぷりに「金融工学は、本来お金を貸し手はいけない者にお金を貸す技術」と揶揄されていますが、トレーディングに大きく依存した投資銀行事業の本質を的確に捉えています。

証券化が生み出す請求権
請求権の拡大とは、市場創造と信用創造によって金融資産を新たに生み出すこと、・・・例えば新しい担保資産を見つけて証券化する、あるいは流動化するということ・・・、をおおよそ意味します。この方法によってトレーディング収益が極大化することが金融専門家の間で認知されると、「金融工学」のプロセスは、適切な事業に対して適切な信用を供与するという本来の金融機能から逸脱し、次第に、信用創造の裏づけとなる(≒証券化可能な)キャッシュフローを次々と開拓すること、更に、極小のキャッシュフローを裏づけとして、最大の信用を供与するという本末転倒行為に変質し、やがてバブルを生み出すことになります。

このような「悪い請求権」を創造するということは、裏づけとなるキャッシュフローが不十分である(かも知れない)にも拘らず、大量の与信をする、・・・まさに「貸してはいけない人にお金を貸す」という行為です。逆に、「悪い請求権」が成立するためには、本当はリスクが高い(かも知れない)請求権を、リスクが少ない投資であると投資家に説得できなれければなりません。これにはいくつかの方法がありますが、その中でもエクイティ金融資産をデットとして流通させることが典型で、このときにもレバレッジがよく活用されます。

前述の地方君は、100億円の不動産を担保に70億円の融資を行い、掛け目70%の請求権70億円を創造しました。残りの30億円はエクイティ(資本)と呼ばれ、将来不動産価値が下落した場合は、真っ先に損失を被るリスクの高い金融資産です。プロ君は、地方君よりも25億円多い95億円を貸し付け、この95億円の債権をまるごと証券化することで、30億円のエクイティ部分の大半をデット(債権)として機関投資家に転売します。お金を借りる方は、借り入れ額が増えて不動産投資に必要な自己資金(エクイティ)を30億円から5億円へ、25億円も減らすことができので、喜んでプロ君の提案を承認しますが、もちろん25億円のエクイティは消えてなくなった訳ではありません。プロ君得意の「金融工学」のプロセスを経て、25億円の「ミドルリスクのデット」として証券化市場で流通することになります。金融市場の大きな特徴として、エクイティを対象とする投資家よりもデットを対象とする投資家の方が圧倒的に運用額が大きく、かつ要求リターンが低いため、それが本質的には同じ金融資産であっても、エクイティとしてよりもデットとして販売する方が(もちろん、それが可能であれば、ですが)低コストかつ容易に販売することができ、大きな利益を生むのです。

プロ君は、掛け目70%から95%に相当するリスクの高い25億円の請求権(「Bピース」証券と呼ばれることがあります)を、できるだけ「安全な」デット証券として販売するために、一つの不動産を担保にした25億円のBピースではなく、例えば10都市に分散された10件の不動産を担保にした、2.5億円のBピースを10件集めて25億円の証券化を行います。Bピースばかりを集めるため、そこから生まれた証券の格付もBクラスになりそうなものですが、分散効果の理論によると、例えば過去30年間のデータに基づくと、ニューヨークとダラスとアトランタとシアトルなど、異なる産業構造を持つ異なる都市の、異なる不動産が、同じタイミングで同じように価格変動する可能性は低い、とされるのです。10都市に分散して存在する10件の不動産価格が一度に下落する可能性が低ければ、これらの不動産を担保としたBピースを集めて作られた優先証券も「安全」と考えられ、例えば25億円のうち優先部分20億円について、AAAの格付けを取得して販売することができるのです。すなわち、担保不動産の質は同じでありながら、資産を分散するだけで、掛け目70%の債権70億円と掛け目90%の債権90億円のリスクが(ほぼ)同等という趣旨の格付が付されることを意味します。これがサブプライム危機で注目された、リパッケージCDO(Collateralized Debt Obligation)の基本構造です。これは事業というよりも、道端に落ちている石を磨いて宝石として販売するようなものでしょう。証券化などを通じて請求権、特に「悪い請求権」を拡大するほど、「容易に」「多額の利益」を得ることができ、トレーディングが高収益「事業」として脚光を浴びるようになるのです。

リスクの高いリスク管理
バブルがはじけて宴の酔いが醒めると、さすがの金融専門家も「質の悪いものを集めて、高品質なものを生み出す」というCDOの理屈には無理があることに気が付きます。確かに過去例えば30年間、10件の異なる都市の不動産価格が同時に変動したことはなかったかもしれませんが、この理屈が本当に正しければ、過去破綻したことがない企業に対しては、無条件にお金を貸し付けて構わないということになります。そもそもリスクというものは、過去の経験やデータでは計り知れない不測な事象を示すものでしょう。過去を振り返ってみると、1929年の大恐慌、太平洋戦争、プラザ合意、ブラックマンデー、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、インターネットバブル、グーグルの登場などなど、社会の重要な出来事の大半(・・・というよりも、おそらく殆ど)は、その時点で全く過去に事例がないものばかりです。このような、重要な出来事ほど予測不能であるという世界観*(2) を前提とすると、過去のデータ分析や統計理論による「先端的な」リスク管理は、却って事業リスクを高める可能性があります。この環境で真に効果的なリスク管理は、社会の生態系と市場の本質を深く理解し、将来を大胆に予測し、戦略的な経営を実行する以外にありません。

反面、「リスクとは不測であるがゆえにリスクである」という単純な原理は、金融専門家の常識ではないようです。過去のデータと正規分布に基づく統計確率理論、効率的市場仮説、分散理論に依拠した巨大金融機関のリスクマネジメントが、大きな市場変動のたびに破綻していますが、そもそも「リスクは予測できる」という前提自体が、最大のリスクを生み出しているように思えてなりません。リスクマネジメントが「進んでいる」といわれるアメリカの金融機関から真っ先に、それも頻繁に破綻するのは偶然ではないと思います。

【2008.11.4 樋口耕太郎】

*(1) このような表現はそれほど一般的ではありませんが、金融資産の実体は請求権であり、与信行為は請求権の創造と考えることができるため、本稿ではその本質に即した表現を使用しています。

なお、本稿ではトレーディングの三つの要素を概念的に別けてコメントしていますが、現実には「同じ現象の異なる側面」といえるほど密接不可分です。裁定収益はレバレッジに よって拡大し、請求権を拡大するためにレバレッジが利用され、レバレッジが増加することで請求権が増大し、更には、請求権が増加することで新たな裁定機会 が生まれる、という関係にあります。

*(2) Nassim Nicholas Taleb, “The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable” (邦訳未刊), Random House Inc. 2007.4.

経済学や金融リスクマネジメントの基本原則は、ほとんどが統計学の正規分布曲線で表現される標準的な確率論を前提としています。これに対して、トレーダーにしてマサチューセッツ大学教授でもある著者(ナシーム・ニコラス・タレブ博士)は、現実に世界を動かしているのは、伝統的な確率論では予測ができない極端な出来事、「Black Swan」であり、社会において、実はそれ程重要ではない一般的出来事が過大評価されていると指摘しています。

本書中の印象的な挿話ですが、フランスは第一次大戦でドイツ軍に一時蹂躙された経験を踏まえ、ドイツ軍が進軍してきた経路を精緻に調査し、国境沿いに防御壁を構築したそうです。第二次大戦が勃発すると、ナチス軍は当然のように、そして軽々と、これらの防御壁を迂回した進軍ルートによってフランスを占領します。・・・これを笑い話とするのは簡単ですが、フランス政府は当時、祖国と国民を守るために、大変な労力と資金をかけて、大真面目に防御壁を構築したに違いありません。「先端」金融会社が「先端」金融工学を駆使して構築・運用している「先端」リスクマネジメントは、フランス軍が構築した防御壁と本質的には同じものかも知れないのです。

正規分布において、±2標準偏差の範囲内にデータの95.45%が含まれるとされています。一般的な金融リスクマネジメントでは、過去の市場変動のデータを元に、自己資金のリスクポジションを±2標準偏差に収まるように管理する、などのように運用され、95.45%の事例に収まらない極端な出来事は、現実的には殆ど発生し得ないという前提に立ちます。しかし、例えば全世界の個人金融資産を正規分布で配布すると、ビル・ゲイツは±2標準偏差(すなわち95.45%のデータ)に収まらないのと同様、社会にインパクトを与える重要な要素は、むしろこのような標準偏差を逸脱したところにしか存在し得ず、残りの4.55%(100%-95.45%)にこそ、リスクマネジメントの本質が存在するという考え方です。

Black Swanが生じる確率分布は未知であり、これを予測する理論は存在しません。したがって、Black Swanは従来の「リスク管理」で対応することはできず、逆に、そのような正規分布と数理統計学に依拠した大半の「先端的」金融会社が、サブプライム危機のようなBlack Swanにおいてことごとく破綻に瀕しているのは偶然ではないと思います。結局、Black Swanがもたらす不確実性は経営者の決断によって解決するしかありませんし、それがリスク管理の本質といえるのです。

沖縄県農林水産部のアレンジにより、2008年10月から2009年3月までの約6ヶ月間、主として沖縄県北部管内の林業事業者の方々を対象に、5回シリーズの予定で開催される経営セミナーを樋口が担当します。第一回目は、10月29日水曜日午後1時より、名護市の北部農林水産振興センター(北部合同庁舎内)にて、約4時間の講義です。

お問い合わせ:
〒905-0015 沖縄県名護市大南1-13-11 北部合同庁舎2階
北部農林水産振興センター森林整備保全課
電話 0980-52-2832

レバレッジの性質について議論を補足します。現代金融の難しさであり面白さは、見かけが必ずしも本質を表さないという点でしょう。トレーディングの本質は、経済価値の移転、すなわち(将来)キャッシュフローとリスクの移転です。例えば、ノンリコースローン*(1) による担保借入は、借り手の損失額が担保資産の額に限定されているという性質のために、担保資産から生み出される将来キャッシュフローとリスク(経済価値)を貸し手に一部移転する行為であり、金融的な売却(トレード)に似た性質を有しています。

レバレッジ・保険・トレーディングの深い関係
投資家が100億円の価値がある不動産*(2) を、何らかの理由で安く…80億円で…取得することができたとします。この投資家の取得簿価は80億円ですが、不動産の市場価格は100億であるため、金融機関や市場環境によっては100億円の評価を基準に借入を行うことも可能です。100億円の資産評価を基準にして80%のノンリコースファイナンス、すなわち80億円の借入を行うことができれば、この投資家は不動産の取得に要した80億円の資金を全額回収し、借入実行後は自己資金ゼロで時価100億円の不動産を所有することになります。この取引の現金移動を見ると、80億円で取得した不動産を、銀行(貸し手)に対して80億円で売却する行為と基本的に変わりません。単純な資産売却と異なる点は、将来資産価格が更に上昇した場合は、投資家が依然として100%利益を享受するのに対して、資産価値の下落リスクは貸し手が100%被るというということになります。その意味で、ノンリコースによる借入は、資産価格のダウンサイドリスクを銀行に売却するデリバティブ取引*(3) でもあるのです。このように、借入は売却と似た性質を持っているため、レバレッジをかける(借入を行う)という行為は、それがハイレバレッジであるほど担保資産の売却と同等の経済効果を生み出します。レバレッジがトレーディングであるということの意味は、このような点においても説明可能です。

この取引を貸し手(銀行)の立場から見ると、資産価格がどれだけ上昇したとしても、収益の上限は融資元本と金利の額であるのに対して、資産価格が80億円以下に下落した場合は貸付債権が不良化します。貸し手は担保資産を差し押さえ、時価で売却して資金回収を図ることができるのみです。売却価格が80億円を下回る損失に対しては貸し手が全額負担することになりますので、ノンリコースローンの貸し手は、借り手に対して、資産下落に対する保険を提供していると考えることもできます。すなわち、金融の本質において、レバレッジはトレーディングであると同時に保険の性質を持ち、そして同様のことですが、保険はトレーディングの一形態でもあるのです。

サブプライム危機は既にサブプライムローンだけの問題ではなくなっています。問題を構成する重大要素のひとつであり、ウォーレン・バフェットが「金融版の大量破壊兵器」と呼んだCDS(Credit Default Swap)は、JPモルガン銀行が1990年代に開発したデリバティブ(金融派生商品)の一種で、銀行が誰かにお金を貸したとき、それが返ってこないリスクをいかに軽減するかという発想から生まれたある種の保険商品です。貸し倒れた場合の元利金の支払いを保険会社や年金などの第三者に保証してもらい、銀行はその対価(保険料)を払います。これによって銀行はリスクをバランスシートから切り離し、融資の貸し倒れリスクに備える準備金として積み立てた巨額の自己資本(法定準備金)を取り崩して次の商売に回すことができるというものです。先月破綻し、納税者のお金で救済されたアメリカ最大の保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)は、このようなCDSの主要な引き受け手(すなわち保険の売主)でした。AIGはCDSを通じて住宅ローンの保証も積極的に行い、政府に救済された時点でCDS保証残高は4,400億ドル(50兆円弱)に達していました。このように、米国の不動産リスクは、ノンリコースローンによって不動産所有者から銀行へ、そしてCDSによって銀行から保険会社へと拡散しながら転売(トレード)されていたと捉えることもできます。

投資銀行とレバレッジ
ノンリコースローンなどによるレバレッジは、不動産などの原資産のキャッシュフローとリスクを、資産の所有者からローンの貸し手へ移転する効果があるため、金融的にはトレーディングとおおよそ同義であることは前述しました。一般に、レバレッジが高い借入ほど、売主(所有者/借り手)にとって割安、貸し手(銀行など)にとって割高な「売買」になります。高レバレッジによって収益率を極限まで高める投資銀行のレバレッジ事業モデルは、貸し手に対して資産を割高に「売却」することで、貸し手の利益を自己に移転する取引ということになります。今回の金融危機で投資銀行のレバレッジ・ビジネス・モデルが崩壊したと言われていますが、そもそもこのような単純な行為がビジネスモデルと呼ばれること自体、何かしらバランスを欠いているような気がします。

「容易に」「多額の」利益を生み出すレバレッジは、超資本主義社会における金融メカニズムが自ら生み出した劇薬のようなものです。レバレッジとトレーディング事業を追求したゴールドマン・サックスは、純資産に対して20倍以上のレバレッジをかけ、収益の75%をトレーディングに依拠していますが、この事業構造を素直に解釈すると、当社は既にお金の流通業としての金融機能を失っており、投資銀行と言うよりも「金融機能付の巨大ヘッジファンド」と呼ぶべき事業実態です。トレーディングは借入れ業におおよそ等しいと表現しましたが、この借入れ業が金融工学によって「高度化」すると、資金の貸し手に過剰なリスクをとらせながら低コストの資本を大量に借入れ、貸し手の利益を借り手(自分)に移転することで、自己資本に対する利益率を増幅させる、レバレッジ・ビジネス・モデルが完成します。

このレバレッジ・ビジネス・モデルは二つの大きな経済価値の移転を達成しています。第一に、多くの場合、レバレッジの「貸し手」とは最終的には預金者であり、生命保険契約者であり、年金を積み立てている労働者であり、MMF投資家であるため、個人金融資産を投資銀行へ移転する効果があります。第二に、ゴールドマン・サックスの例では、当社の株主がバランスシート123兆円分のリスクを引き受けた対価として1.3兆円の利益を得る間に、従業員は2.2兆円の報酬を得ています。すなわち、貸し手の利益を当社に、そして当社の利益を従業員、特に経営幹部に対して大量に移転する構造を持っているのです。このように考えると、投資銀行のレバレッジ・モデルは、事業モデルというよりも、経営幹部のための報酬モデルというべきでしょう。

ベアスターンズ、リーマンブラザーズ、メリルリンチの破綻・救済に続いて、先日全米第一位、二位の投資銀行、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーが相次いで銀行規制の監督下に入り、これでアメリカの大手独立系投資銀行は、実質的に全て消滅したことになります。しかし上記のように、本質的な意味においては、1990年代以降アメリカから投資銀行という金融業態は既に消滅し、「金融機能付の巨大ヘッジファンド」が限定的に投資銀行機能を果たしていたことになります。外形的な「消滅」はむしろ事実の後追いに過ぎません。

オフバランスというレバレッジ
レバレッジの概念を「自己資金の潜在的なリターンを増幅させる効果を持つ他人資本」と広く解釈すると、実に様々な形態の金融取引がレバレッジの性質を有していることが分かります。ノンリコースの借入はもちろん、保険、先物取引、スワップ契約、オプション契約、プライベート・エクイティ・ファンドなどのオフバランス(簿外)投資、証券化、あるいは特定の方法による資産の売却やマネジメント契約に到るまで、実に多岐に渡る形態が該当します。

この中でも、オフバランスという会計手法は、魔法に近いと思うくらいレバレッジ効果が高く、現代金融において広範囲に利用されています。簡略な説明をし過ぎると語弊があるかもしれませんが、オフバランスとは、実際には存在するものを、あたかも存在しないものとして会計処理することを認められた資産および取引の総称で、貸借対照表(バランスシート)から切り離された(オフ)という意味で、オフバランスと呼ばれています。要は資産を認識せずに利益だけを計上する会計手法なのですが、このような「いいとこ取り」の会計処理を行えば、自己資本に対する利益率が異様に高くなる(ように見える)のは当然でしょう。証券化やプライベート・エクイティ・ファンドなどはほぼ例外なくオフバランス会計処理がなされていますが、これらの事業が「高収益」を生み、花形ビジネスと一般に認識されている(た)のは、必ずしも金融専門家の投資・運用能力の高さによるものではなく、単なる会計処理(これを称して「先端金融」と呼ぶ人もいますが)に因るところが大きいかも知れないのです*(4)。取引をオフバランスで構成すると、会計上「存在しない」資産から収益が生まれることになるため、ほぼ無限大の自己資本利益率が計上され、投下資本ゼロでオフバランス資産全体の収益を取り込むことができるため、無限大のレバレッジ案件と同等の経済(会計)効果を生むことになります。

1990年代以降世界中で影響力が増したプライベート・エクイティ・ファンドはこの典型といえるでしょう。このようなファンドは通称オフバランス・ファンド、あるいはオフバランス・エクイティと呼ばれますが、その名の通り、ファンドを実質的に運用している投資銀行や運営会社のバランスシートには現れない多額の投資資金です。例えば、ゴールドマンサックスは不動産関連事業だけでも、2008までに累積約3兆円のエクイティ資金をファンドによって運用しています。この資本に借入を組み合わせると、少なく見積もっても10兆円の投資が可能ですが、これらの運用資産は当社のバランスシートに計上されることはありません。更に、これらのファンドが生み出す収益の一部を運用報酬という形式で利益に取り込むことが一般的ですが、利益は手数料として認識されるため、「フィービジネス」と呼ばれています。「フィービジネス」の語感には「資本を使わずに金融サービスの付加価値を収益化する」という、何かしら洗練されたニュアンスがありますが、実態は資本集約的かつレバレッジに依拠した収益が形を変えたものに過ぎません。

先に、ゴールドマンサックスは、123兆円の資産から1.3兆円(収益率約1%)の利益を生み出していると述べましたが、それはバランスシートに表現されているものに限ります。オフバランスの事業を含めると、現実には123兆円のバランスシートを遥かに超える金額の投資がなされている筈です。それは文字通りオフバランスであるため、当社が1.3兆円の利益を生み出すために動員されている資本の額は、どれだけ開示情報を分析しても結局誰にも分からないというのが、金融市場の現実です。

いつものコメントですが、以上は会計原則に対する批判ではありませんし、投資銀行事業への意見表明でもありません。超資本主義環境で拡大した金融システムに関する現状認識のひとつのアプローチであり、その現状認識に基づく世界観が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。会計原則が現在の形で運用されているのには理由がありますし、膨大な会計体系の一部だけを取り上げて体系全体の評価することも全く建設的ではありません。同様に、投資銀行の事業についても、その正否を議論するのではなく、特に1990年代以降、現在のような事業形態に変化してきた事業環境やメカニズムを理解することで、その事業と生態系の本質を理解する一助になると考えるためです。ゴールドマンサックス社を多く引き合いに出していますが、これとても当社が米国の大手投資銀行の中で相対的に良い財務状態を有しているためであり、議論を保守的に展開するという趣旨に因るものです。

【2008.10.23 樋口耕太郎】

*(1) ファイナンスの裏づけとなる資産のみを担保とし、実質的な資金調達者に債務が訴求しない借入形態です。サブプライム危機で問題になっている現象として、物件価値がローン残高の額を下回った場合、オーナーはローンの返済を続けるよりも債務不履行を起こして、銀行に物件の担保処分を進めてもらう方が経済的に合理的であるため、不動産価格の下落に伴って債務不履行率がより生じ易いという面があります。

*(2) 本稿において、不動産資産関連の事例を多く引用しています。私が不動産金融を経験してきたということもありますが、不動産取引は収益構造がシンプルで、金融取引の原理を理解しやすいという利点があると思います。

*(3) 専門的に表現すると、不動産の所有者はノンリコースローンの借入によって、80億円を行使価格、当該不動産を原資産とするコールオプションとほぼ同様のポジションを取得したことになります。投資家にとって80億円のノンリコースローンの担保借入の実行は、80億円で取得した不動産資産を銀行に「売却」し、同時にこのようなコールオプションを銀行から「買い付け」るトレーディング行為と考えることもできます。

*(4) 例えば、ある投資家Aが、80億円の借入と20億円の自己資金で時価100億円の不動産を取得する一連の取引をオンバランスで行うと、資産100億円、借入金80億円、自己資本20億円がバランスシートに計上されます。不動産の収益率が100億円に対して5%(5億円)、ローンの金利が80億円の元本に対して2%(1.6億円)だとすると、営業利益は3.4億円(5億円-1.6億円)、投資収益率(税前)は総資産100億円に対して3.4%、自己資本20億円に対して17%の案件となります。投資家Aの法人実効税率を40%とすると、税引き後利益は2.04億円、自己資本利益率(ROE)10.2%です。

投資家Aがこの不動産を証券化すると、不動産資産は法律上第三者が「所有・管理」する特別目的会社(SPC: Special Purpose Company)に100億円で売却され、投資家のバランスシートから消えます。SPCは80億円の社債を発行すると同時に、残りの20億円の資本分に関しては投資家Aが出資持分として拠出することが一般的です。しかし、この20億円の出資持分は年間3.4億円、17%の収益が見込める優良投資案件ですので、この持分を17%以下の利回りでも構わないと考える別の投資家(顧客B)に売却すると、投資家Aの出資持分に対する収益が急激に上昇します。例えば簿価20億円の持分の半分を10%の利回りで顧客Bに売却するということは、3.4億円の半分の収益1.7億円を10%の利回り、すなわち17億円で売却するということを意味します。投資家Aは売却した半分の出資分の簿価10億円の資産を、顧客Bに17億円で売却し7億円の利益を計上すると同時に、残った10億円の簿価に対して、毎年17%、1.7億円の収益を得ることになります。証券化の期間が7年とすると、投資家Aの投資収益は、10億円の資本に対して、18.9億円(1.7億円×7年+7億円の譲渡益)、1年当たり2.7億円、年率27%の高収益案件に生まれ変わります。100億円の不動産資産はオフバランスとなって帳簿上から消え、投資家Aは堅実で「無借金」高収益経営と評価されます。更にこの案件に対する投資家Aの投下資本は10億円のみ、残り10億の自己資本は預金口座に残ったままであり、運転資金・流動比率も健全です。・・・しかし、その実態は、共同投資家(顧客B)から10億円の資本を10%の高利回りで預かり(約束した投資収益は実質的な借入です)、5%の収益を生む平凡な100億円の不動産に投資しているに過ぎません。

また、以上の取引における他人資本は、2%で80億円の借入と10%で10億円の出資金ですが、両者の資本コストを加重平均すると、実質的に90億円を2.9%((80億円×2%+10億円×10%)÷90億円)で借り入れていることになります。2.9%の資本コストで90%のレバレッジを掛けることができれば、どんなに平凡な投資であっても大概は高収益事業に変貌することは前稿で述べたとおりです。

お元気ですか~?

今月はハロウィンの月ですね~!
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。その後、多くの聖人たち(Hallow)を
祝う万聖節となり、近年、欧米では魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を
回ったり仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのこと。
日本では子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事が
ポピュラーなアメリカでは、大人たちも本格的な仮装に身を包み、
街中はもちろん職場にまで登場。友達や仲間同士で集まり、パーティで
盛り上がります。
大人もたまには子供に帰って遊ぶという気持ちは大切なことかも
しれませんね。

私の子どもの頃の気持ちをちょっと振り返ってみると…

私の叔母という人は、フランスでデザインの仕事をしていただけあって、
それはそれはモダンで、本名が山本富士子というだけあってとても美しい人で、
私が子どもの時から「おばさん」などとは決して呼ばせず、フランス語で
「タンタン」と呼ばせていた賢く気品のあるステキな女性で、
お洋服のセンスから、しゃべり方、香りや、身のこなしに至るまで
全てが私の憧れの人でした。
だから、独身のタンタンのお部屋でお留守番などしたあかつきには、
今がチャンスとばかりに小学生の私は、タンタンの香水を自分にもふりかけ、
母には似合いようもない「シャネル」なんていう口紅を塗り、
タンタンのフランス製ワンピースを引きずるように着て、
タンタンのクロゼットの中にうずくまり、しばしタンタンの香りに包まれながら、
大人の女性であるかのようなお洒落な気分にひたったものでした。

そのタンタンが、私が小学校にあがるころ
「これ、大人になるまで大事にとっておいてね」
と、ピンク色の小さな壜を私の手に握らせてくれました。それは、当時、
子どもの目にはまだ珍しかったマニキュアの壜でした。
ときめくようなあのときの気持ちを、いまも忘れることができません。
家に帰った私は、子ども部屋の本棚の上に、ピンク色の小さな壜を飾りました。
そして、それを眺めては、大人になったら、と思うのでした。
タンタンの贈りものは、マニキュアではなく、大人になることをたのしみに待つ
気持ちだったと気がついたのは、ごく最近のことです。

私も、こども達に大事なものをそっと手渡せる、そんなひとになりたいものです。
そう願わずにいられないのは、子どもが、大人の姿をうつす鏡のような存在
だからかもしれません。
たとえば、得する生き方をしようと躍起になっている大人を間近に見た子ども達は、
そうかそれが大事なんだな、と思うでしょう。
たとえば、人との間に信頼関係をつくろうと努力をする大人を間近に見た
子ども達は、そうかそれが大事なんだな、と思うでしょう。

また、子どもの頃の気持ちに帰る…とは、「やりたいことをやる」ということ
なのではないでしょうか。
大人になってしまうと、何かをするには理由がなくてはならないと思い込んでいる
向きがありますよね。目的は何か、というわけです。
それってばかばかしいですよね~! 本当は、やりたいことなら
何をやってもよいし、やりたいことをやるべきなのです。
理由は一つ、やりたいからやるんです。他に理由はありません。
自分のやることなすことに理由はいりません。何事にも理由を見つけようという
考え方をすると、新しい、心はずむ経験からは遠ざかってしまうことになります。
子どもの頃は、ただ好きだからというそれだけの理由で、一時間もバッタと
遊んでいたのではありませんか? 山登りや森の探検にも出かけたことでしょう。
その理由は? 「したかったから」なのです。
でも、大人になると、ものごとにはちゃんとした理由をつけなくてはならないと
思ってしまいがち。理由をつけたがる気持ちが強いと、なかなか心を開いたり、
成長しにくくなってしまいます。自分自身も含めて、誰に対しても、
どんなことでも、もう二度と理由づけしなくていいとわかったら、どれほど
自由な気分でいられることでしょう。
自分がやることは、何にでも理由がなければならないという気持ちを
捨ててみませんか?
なぜかと聞かれたら、相手の気に入るようなもっともらしい理由をつける必要は
ないのだということを思い出してください。
自分が決めたことは、ただやりたいからという理由だけで、やればよいのです。
そうしたいから――それだけの理由で、やりたいことは何でもやればよいのです。
こう考えると、経験に新しい展望が開け、
自分のライフ・スタイルとなっているかもしれない「未知への恐れ」を
なくす一助となるかもしれません。

さて、ここまで、子ども…子どもの気持ち…と書いてきたのですが、
わたしは子どもを持つ機会には恵まれませんでした。(まだいけるかも…?!)
でも、お腹を痛めた子どもがいなくても、子どものような存在のお友だちを
たくさんもつことができました。
お腹を痛めることは、神秘です。
でも、神秘があっただけでは、話ははじまりません。また、嘆いていても
しかたのないこと。
それよりも断然私が大事にしたいのは、世代の異なる人同士、お互いに
育ちながら生きていくということです。
この実感にたどり着くことができたのは、今までに出会った
お一人お一人のおかげです。心から、感謝を捧げます。

さてさて、今月は子どもの気持ちに帰って、ハロウィンをわいわい
楽しみましょう!

「遊びに来てくれなきゃイタズラするぞ!」

【2008.10.17 末金典子】

トレーディングについての議論を継続します。資産証券化を利用したトレーディングの収益構造は、その見かけほど複雑なものではありません。例えば、100億円の価値がある不動産を担保に、5%の金利で70億円の7年ローン(債権)を融資し、この債権を証券化して、4.5%の不動産担保証券として販売します。商業不動産市場では5%の金利を支払ってお金を借りたい債務者(不動産の所有者)がいる反面、同等の信用力の証券であれば、4.5%の利回りで納得する投資家が証券市場に存在するため、この取引が成立します。5%の利回りで「買って」、4.5%の利回りで「売却する」裁定取引は、債権の買値(5%)と売値(4.5%)の差額(0.5%×7年×70億円=2.45億円)が売買益となるため、70億で融資した債権を72.45億円の証券として売却する行為と考えることもできます*(1)

このような裁定取引は、市場環境や重要な前提条件が大きく変化しない限り、確実に利益を生む性質のものですが、この事例における収益は、70億円の投資額に対して2.45億円、リターンは3.5%(税引前)に過ぎません。国際的な投資銀行に求められる自己資本利益率は15%~20%(税引後)であるため、この要求を満たすために、レバレッジを活用する必要が生じるのです。

レバレッジ
トレーディング事業を構成する二つ目の要素が、レバレッジ(≒借入れ)です。1990年代以降の投資銀行ビジネスは、レバレッジによって生み出される収益に著しく依存するようになっており、実質的には金融業というよりも、あるいはトレーディング業というよりも、レバレッジ業(≒借入れ業)と呼ぶべきではないかと思うくらいです。現代金融を理解するために、レバレッジの概念を理解することは避けられませんし、その理解の深さによって事業の成果も大きく左右します。

前述の不動産担保債権の証券化事業では頻繁に活用される手法ですが、担保付債権など、信用力の高い債権はレポ取引(REPO:Repurchase Agreement)を通じて、高いレバレッジをかけることができます。例えば、100億円の不動産資産を担保にした70億円(掛け目70%)のローン債権は、理論的には、担保となる不動産価格が、ローンの満期時までに30%以上下落しない限りにおいて元本の100%が償還する筈です。このように、ある程度信用力の高い債権であれば、満期まで保有しても、債務不履行によって元本が戻らないリスクは限られています。債権を担保にお金を貸している期間の期待損失が、仮に元本の5%だと考えられるとき、この債権を担保に、95%の融資を受けることが可能で、70億円の債権投資は、僅か3.5億円(70億円×5%)の自己資金で賄われることになります。先ほどの債権トレーディング事例における裁定利益は2.45億円で、70億円の資本投下に対して僅か3.5%のリターンを生む事業でしたが、レポ取引によって95%のレバレッジをかけ、投下する自己資本を3.5億円(5%)に圧縮すると、自己資金に対して70%(2.45億円÷3.5億円)のハイリターンを生む「高収益」事業に変貌するのです。しかし、現実に起こっていることは、5%の自己資本で100%の投資ポジション、すなわち20倍のレバレッジを利かせて投資を行い、20倍のリスクをとって、20倍の収益を得ているということに過ぎません*(2)

レバレッジとクラッシュ
1990年代以降の金融クラッシュは、原資産の価値がそれほど下落していないにもかかわらず、金融市場が大暴落に見舞われる事例が増えています。1990年代後半のロシア通貨危機から飛び火した、アメリカ商業不動産証券化市場のクラッシュの際も、アメリカの商業不動産市場は絶好調で、その平均資産価格は下がるどころか、混乱の最中にも上がり続けていましたし、サブプライム危機において、モーゲージ証券の価格が70%といった、通常では考えられない大暴落をしている状況においても、不動産市場は20%程度下落しているに過ぎないのです(前述のとおり、もともとの不動産ローンは、不動産価値に対して例えば70%など、一定の掛け目を上限とするため、この場合不動産が30%程度下落しても、本来であれば債権に損失が生じる可能性は低い筈です)。サブプライム危機において欧米の金融機関が発表している法外な損失額は、「単なる」不動産市場の暴落では全く説明がつかないと感じている人は少なくないと思います。原資産の価格がそれほど変動しないにも拘らず、金融商品が乱高下する大きな理由はレバレッジにあります。

金融市場の変化によって、資金の出し手の融資基準がほんの少し保守的に変化し、レポ取引を行う金融機関のリスク許容度が、例えば5%から6%に変更されたとします(「社債のスプレッドが拡大する」とはおおよそこのような状態を示します)。この瞬間、70億円の債権ポジションを維持するために必要な自己資金が3.5億円から4.2億円(70億円×6%)に、20%増加することになります。ほとんどの金融機関は利益を最大化するために、目いっぱいレバレッジをかけていますし、またそうでなければ、激しい競争環境の中で高額な人件費や必要な自己資本比率を達成することができません。自己資本の20%に相当する資金をすぐに調達することは事実上不可能ですので、やむを得ず投資資産を売却してレポ取引による借入れを減らし、自己資本比率を増加させる必要が生じます。しかしながら、掛け目が95%から94%に減少するということは、3.5億円の自己資本を前提とすると、70億円の投資ポジションを58.3億円まで、実に11.7億円も減少させなければなりません。往々にして一社がこのような状態である場合は、市場全体が同様の危機に瀕しています。11.7億円は70億円の約17%に相当しますが、債権残高の17%が一斉に投売りされれば、当然価格も大きく下落し、損失を被らずに現金化することは不可能です。損失が生じれば自己資本が毀損しますので、更に多額の債権を投売りしなければいけなくなり、マイナスのスパイラルが生じ、あっという間に自己資本が吹き飛ぶことになります。1998年のロシア通貨危機をきっかけとして、ソロモンブラザーズの伝説のトレーダー、ジョン・メリーウェザーが設立し、2名のノーベル経済学受賞者を運用チームに擁してドリームチームといわれたLTCM(Long-Term Capital Management)、ウォール街で「神」とまで言われたジュリアン・ロバートソンのタイガーマネジメントなどの超有名ヘッジファンド、CMBS市場で一世を風靡した米国野村證券の不動産ファイナンス部隊の破綻は、いずれもこのようなメカニズムによるものです。・・・そして、重要な点は、以上のような大混乱は、レバレッジの掛け目が僅か(上記の例では1%)変化した程度で生じ得る性質のものだということです。金融市場のクラッシュは、不動産などの原資産価値の暴落というよりもレバレッジの崩壊であるケースが多く、またそのようなときに大きな問題を生じるという傾向があります。信用供与水準の僅かな変化が市場の大暴落を生み出しているため、原資産の価格変動や市況の変化とはかけ離れた、金融市場の混乱が生じるようになっているのです。

レバレッジが生む高収益
レバレッジの大きな特徴は、高いレバレッジほど高収益が生まれるということです。例えば、何の変哲もない100億円の不動産を5%の利回り(すなわち5億円のキャッシュフロー)で投資を行う場合、仮に2%の金利で70億円(70%)の借入れを行うと、自己資金30億円に対して、毎年3.6億円のキャッシュフロー(5億円-70億円×2%)、すなわち12%(3.6億円÷30億円)の利回りの投資案件になります。同じ物件について、同じく2%の金利で75億円の借入れを行ったとすると、自己資金25億円に対して、毎年3.5億円のキャッシュフロー(5億円-75億円×2%)、自己資金に対して14%(3.5億円÷25億円)の投資案件、更に80億円の借入れでは17%、85億円の借入れでは22%、90億円では実に32%となります。この例では、レバレッジが0%、70%、75%、80%、85%、90%のときの自己資本に対する収益率はそれぞれ、5%、12%、14%、17%、22%、32%となるのですが、レバレッジが85%を越えたあたりから収益率が急激に上昇するのがわかると思います。これは、投下する自己資本が少なくなるほど、収益率の計算における分母が小さくなるために生じる当然の結果なのですが、いずれの例においても全く同じ利回りの、全く同じリスクの、全く同じ不動産に投資しているという事実は変わりません。

競争の激しいマーケットで、10%の高利回り不動産のような投資案件を見つけてくることは、非常に難しいことですが、不動産を担保に借入れを起こすことは比較的容易です。このため、トレーディングビジネスにおいて、よい投資案件を見つけてくるよりも、高いレバレッジの借入れを行う方が収益に容易かつ圧倒的に寄与する、という大きな特徴があります。誇張でもなく、不動産投資のノウハウを持たず、より良い案件を取得する努力もそれほど払わずに平凡な資産を取得しても、この資産を担保に激しくレバレッジを掛けることができれば、誰でもが「一流」のファンドマネージャーになることができるのです。冷静に考えてみると、現在国際的なヘッジファンドの預かり資産は200兆円を超え、その多くが10~20%を超える利回りを達成していると推定されています(逆に、それだけの収益を生まなければ資金が集まらず、ファンドとして成り立ちません)。株式投資などを経験して相場の難しさを知っている人であれば、20%のリターンが神業のように感じられるかも知れませんが、これだけレバレッジをかけて自己投資を行えば、むしろ当然のリターンといって差し支えありません。1998年に破綻した前述のLTCMは、数年間続けて年率40%を超える運用収益を上げていましたが、5,000億円の自己資本に対して20~30倍のレバレッジをかけ、10兆円を超える資産を運用していたとされ、更に、約7,000件のデリバティブ取引の想定元本は150兆円に達していました。これだけのレバレッジがかかっていれば、年率40%の収益は少なすぎるくらいかも知れません。

はじめは知恵を絞って裁定機会を見い出し、創造的かつ低リスクで収益を上げていた投資銀行も、レバレッジを掛けることでいとも簡単に収益が上がるので、1990年代以降バランスシートを目いっぱい拡大し始めます。2007年末時点における、アメリカの主要投資銀行の、自己資本を1としたときの総資産(レバレッジ倍率)は、ゴールドマン・サックス26倍、モルガン・スタンレー33倍、破綻したベア・スターンズとリーマン・ブラザーズはそれぞれ34倍と31倍、バンカメリカに身売りがほぼ確定したメリル・リンチ32倍、これら投資銀行の平均自己資本比率は僅か3%程度という状態です。最も財務状態が良いとされていたゴールドマン・サックスを例に取っても、当社の自己資本は2003年の220億ドルから2007年の430億ドルまで、4年間で210億ドル増加し、同期間のレバレッジ倍率は19倍から26倍へ、バランスシートは4,000億ドル(44兆円)から1兆1,000億ドル(123兆円)へ、実に7,200億ドル(79兆円)拡大しました。税引き後の純利益の120億ドル(1.3兆円)は確かに大きな額ですし、自己資本に対して27%の利益率を確保していることから、その「成果」に対して、実に200億ドル(2.2兆円)、純収入の43%が従業員へ給与および報酬として支払われています(2006年に当社が全世界の従業員に一人当たり7,300万円、ブランクファインCEOに対して63億円の報酬を支払ったことは『次世代金融論《その4》』で述べました)。2003年の報酬額の合計は75億ドル(8,300億円)でしたので、レバレッジを急拡大すると同時に報酬額が大きく増加していることがわかります。しかし、123兆円の総投資額(総資産)に対して僅か1%、1.3兆円の利益を生み出すことが、どのような根拠でこれ程の評価に値するのかは理解に苦しむところです*(3)

更に、これもサブプライム危機をきっかけとして破綻に瀕しているアメリカの政府系住宅金融機関、ファニー・メイとフレディ・マックは、どんなにアグレッシブなヘッジファンドや投資銀行も及ばない前代未聞のレバレッジ構造を有しています。両社の2007年末の自己資本832億ドル(9.2兆円)に対して、債務の合計は5.2兆ドル(572兆円)、レバレッジ倍率は実に65倍、自己資本比率は僅か1.6%の財務構造でありながら、米国政府の信用力によって、AAAの格付けを有した社債を大量に発行することで、市場から低金利の資金をほぼ無尽蔵に調達してレバレッジをかけていました*(4)。投資銀行の事例と同様、これほどのレバレッジが可能であれば、誰がどのような経営をしても、どのような戦略で事業を行っても、・・・あるいは恐らく毎日昼寝をしていても・・・、自己資本に対して多額の利益を生み出すことは極めて容易といって差し支えないと思います。

レバレッジの麻薬
ゴールドマン・サックスは、1990年代以降急速に進行した金融のトレーディング化の流れに乗った申し子のような存在です。2007年度のゴールドマン・サックスの税前収益の部門別構成比率は、トレーディング収益132億ドル、投資銀行収益(かつての本業)26億ドル、アセット・マネジメント収益18億ドルであり、利益の75%はトレーディング ・・・いわば「借入れ業」・・・ によって生み出されています。トレーディングビジネスをいち早く重要視したゴールドマン・サックスは、現在の国際金融市場において、1990年代前半にとは比較にならない存在感を有するようになっています。

トレーディング/レバレッジが国際金融ビジネスの「主役」に躍り出た最大の理由は、結局それが「簡単に儲かる」からです。投資利回り僅か1%の平凡な投資を大量に実行し、そのポジションに思いっきりレバレッジをかけるだけで、僅か30,000人の従業員に対して合計2.2兆円の報酬を配分できるようなビジネスが他に存在するでしょうか。「容易に」「多額の利益」を得るビジネスを止めることは、誰にもできません。超資本主義社会が金融業に浸透する中、収益を生み出すために自己資本を使った裁定取引が始まり、投資銀行やヘッジファンド運用者などの金融専門家が際限のないレバレッジを「商売」にするまでの一連の流れは、競争原理が生み出す必然であり、これが更に進行すると、市場のボラティリティは増加の一途を辿り、クラッシュの規模と頻度が資本市場のシステム自体を崩壊させるまで際限なく拡大することが避けられないでしょう。現時点でもなお、全く底の見えない国際金融市場ですが、ひょっとしたら、このサブプライム危機は、まさにそのような崩壊のプロセスなのかもしれません。

専門性という退化
更に、レバレッジの麻薬による傷を非常に深くしている要因が、競争原理によって「磨かれた」「高度な金融技術」と、「エリート金融専門家」自身であり、彼らの「常識」そのものが、実は問題を生み出している最大の原因かも知れません。前述のゴールドマン・サックスの事例において、「金融のプロ」が駆使する数々の「先端金融技術」は、結局のところ123兆円の資金で僅か1.5兆円(1%)の利益を生むためのものに過ぎません。事業構造をありのままに解釈すると、「金融のプロ」の専門性は優れた資産運用や裁定の技術ではなく、お金を借りる技術(あるいは、更に皮肉に聞こえますが、自分の報酬を増加させる技術)にあると考えるべきで、社会的な効率をほとんど生み出していないかも知れないのです。

これは、僕が「金融工学のジレンマ」と呼んでいるもので、散々時間とコストとエネルギーを費やして高度かつ精緻に作り上げたものが、実は本質的にほとんど価値を生まない、という現象を称しています。「世界最強」と言われているゴールドマン・サックスが、あれほどの人材と、システムと、顧客と、情報力と、政治力を駆使して、国債利回り以下の収益しか生み出さないのはなぜでしょう?世界で最も「高度」なリスクマネジメント技術によって管理されている筈の米国金融機関が、世界最大の損失を被るのはなぜでしょう?最も優秀な人材を擁し、最もグローバルに展開し、最も競争力があると言われていたウォール街の投資銀行がことごとく(実質的に)破綻し、中国やアラブから資本をかき集めなければ存続し得ない事態に追い込まれているのはなぜでしょう? ・・・これらの現象を素直に解釈すると、「高度」な「専門性」を有する「プロ」は、そもそも金融的な付加価値を生み出していない、と考えた方が辻褄が合うのです(自分の所得を増やす、と言う付加価値は効率よく生み出していると思います)。

『地方銀行に勤める地方君は100億円の不動産を担保に70%のローンを貸付けて運用する案件の稟議を書いていました。ウォール街の投資銀行で活躍するプロ君は、地方君の仕事ぶりを見て、なんて非効率で原始的な仕事をしているのだろうと呆れます。プロ君は得意の金融技術を駆使し、数量分析によって相関係数の低い資産をミックスするなどしてリスクを「減じ」、大量のローンプールを組成するなどしてクレジットリスクを分散し、高いレバレッジをかけることで自己資金を圧縮しながら多額の融資を実行し、同じ不動産を担保に、95%の投融資を実行します。プロ君は顧客に対して、この最先端の投融資は、高度な商品技術を駆使し、95%の投融資にも拘らず「A」格の信用力が付与され、従来の古臭くて単純な70%の投融資よりも投資家ニーズに合い、流動性が高く、投資リスクも十分に「抑えられている」と説明します。地方君は、難しい金融技術を学んだことがないので、プロ君の説明に圧倒されますが、本心では、同じ不動産を担保にした投融資ならば、70%のローンの方が簡単だし、わかり易いし、何よりもよほど安全ではないかとぼんやり考えています。しかし、理論派のプロ君にはとても反論できずに黙っていると、上司からはもう少しプロ君のように勉強しなさい、と注意されます。』

この挿話において、プロ君は、原資産である100億円の不動産担保の価値や信用力には全く変化がないにも拘らず、地方君が融資する70%の債権と自分がアレンジした95%の債権のリスクが同等だと投資家を説得することができる「専門家」です。その根拠は、この業界での長年の経験と、先端的な「金融工学」の技術によるものとされ、「合理的」な理論と分析に裏づけされています。金融工学が本当に「リスクを減じている」のであれば、70%の債権をより低リスクで商品化できそうなものですが、このような金融技術の大半はレバレッジ、特に限界的な高レバレッジの増加を伴います。一見複雑な金融技術の本質は、この冗談のような挿話そのものであり、95%の債権を70%のリスクとして販売しているに過ぎません。両者の差額の25%は空気を売るようなものですので、レバレッジを商売にする投資銀行が超高収益になるのは当然でしょう。別の表現では、前述の通り、70%前後を越える限界的なレバレッジは等比級数的な利益の増加を生み出す性質がありますが、投資銀行はその差額の大半を顧客に還元せずに収益化することによって、巨額の利益に変えているのです。これが、レバレッジを利益に還元する基本的な原理です。そして、この差額の「25%」は資本主義社会と金融市場に組み込まれたバブルとして、いつか必ずはじける運命にあるのです。

以上の議論を振り返ると、競争原理が専門技術の向上をもたらし、それが社会的な効率を生み出す、という「常識」は甚だ疑わしいものであることがわかります。競争原理が社会と市場に導入されることで金融技術が「高度化」するのは事実かもしれませんが、この技術は社会的な効率を生み出す目的として利用されるよりも、レバレッジを生み出すために利用されます。それはレバレッジが容易に収益になるからで、超資本主義の社会において、「容易に」「多額の」利益を生み出すことに抗することができるものは誰もいません。資本主義社会では、競争原理によって専門技術が高度化するほど、金融市場におけるレバレッジの創造が優先され、社会的な効率を低下させながら必然的にバブルが生じるというメカニズム、・・・すなわち自己崩壊のしくみが内包されているように思えるのです。

【2008.10.4 樋口耕太郎】

*(1) 実際の証券化におけるストラクチャリングや金利計算などは、ここに例示した事例よりも相当複雑ではありますが、基本的な原理は同じといって差し支えないと思います。

*(2) ここでは、債権の裁定取引にかかるヘッジコスト、証券化と販売費用、レポ取引にかかる金利、手数料、取引費用その他様々な諸経費は無視して計算していますので、実際の利益率はもっと低くなります。更に法人全体では、高額な人件費やその他販管費、本社経費、法人税などを差し引き、自己資本利益率は15%~20%程度に落ち着くイメージです。

*(3) ゴールドマン・サックスはまだ程度の良い方かもしれません。次に状態が良いと言われているモルガン・スタンレーを例に取ると、当社の自己資本は2003年の250億ドルから2007年の310億ドルまで、4年間で64億ドル増加しましたが、同期間のレバレッジ倍率は24倍から33倍へ、バランスシートは6,000億ドル(66兆円)から1兆ドル(115兆円)へ4,400億ドル(49兆円)拡大しました。税引き後の純利益の32億ドル(3,500億円)は自己資本に対して9%の利益率ですが、その「成果」に対して、純収入の60%が従業員に支払われ(2003年のこの比率は45%でした)、2007年、ジョン・マックCEOは4,100万ドルの報酬を得ました。3,500億円の利益は115兆円の総投資額に対して僅か0.3%に過ぎません。

以上は、“Why No Outrage?” by James Grant, Wall Street Journal, July 19, 2008、ゴールドマン・サックス社 2007年度年次報告書、モルガン・スタンレー社 2007年度年次報告書、を参照しています。

*(4) “Fannie Mae and Freddie Mac: End of Illusions” The Economist, July 17, 2008.

内閣府と沖縄県が主催し、10月4日から翌3月7日までの日程でスタートする『第3回金融人財育成講座』で、昨年に引き続き樋口が講師を担当します。

樋口の担当は1月24日(土曜日)午後2時から5時15分までの講座で、「沖縄における事業再生」をテーマに約3時間お話します。会場は琉球大学教育学部教育実践総合センターです。詳細はこちらからリーフレットをダウンロードするか、主催者ウェブサイトをご参照下さい。

お元気ですか?

オリンピックや夏休みも終わり、みんなの気持ちも穏やかな秋に向かい
落ち着きつつありますが、あなたの夏はいかがでしたでしょうか。

さて、月曜日は敬老の日ですね。
この日は、私の大好きな聖徳太子が、悲伝院というお年寄りの救護施設を
設立したことにちなんで作られた国民の祝日です。お年寄りへの感謝と尊敬を
思い出させてくれる日でもありますね。

毎年この月には、私の祖父母の思い出などを書かせていただいて
いるのですが、今年は少し趣きを変えて「歳をとること」について
考えてみたいと思います。

そこで、あなたに質問です。

あのときいちばん幸せだったと言えるのは、いつですか?

もう卒業した、と思うことは何ですか?

愛読書は、と聞かれたら何と答えますか?

これだけは「ちょっとしたもの」と胸を張れることは何ですか?

やらずに過ごしてきたことは何ですか?

これからの10年、どうしますか?

夫として、父として、女性なら妻として、母として、独身なら社会人として、
これまで過ごしてきた時間を、「ちょっとしたもの」と振り返って
胸を張ることができる。それがだいたい50歳くらいなのではないでしょうか。
裏返せば、築いてきた“人生のキャリア”という見晴らしのよい場所を得て、
暮らしの楽しみを再構築するための、またとない時間が広がっている、
とも言うことができるのではないでしょうか。あらためて「個人」に戻ることが
できた人だけが、その時間の広がりへ歩みを進める資格があるのでしょう。
そうなると、趣味も仕事も、もう“使い捨て”程度のことには時間と力は
注ぎたくはありませんよね。

あなたは今何歳ですか?

これから迎える10年、さあ、覚悟はよろしいですか?

生まれてくる時代も場所も環境も、選ぶことはできません。
たぶん、死んでいくときも同じで、時間も場所も思うようにはならないと
思います。ただ、わかっていることは、生まれたのだからやがて死ぬという
ことだけ。では、生と死のはざ間で、自分の思うようになる時間と環境が
どれほどあるかというと、これも相対的に見れば大して長い時間ではありません。

こういう忙しい現代に生きていると、人生の中で自由になることができる時間を
いかに使い切ったかで、その人の幸福感は違ってくるのでは…と思ったりも
します。
人間が幸福を感じるのは「刹那の中に永遠を見たとき」といいますが、
そういう瞬間はいつでも起きるわけではありません。よほど上手に考えて時間を
やりくりしないと、自分のための時間はなくなってしまいます。常日ごろから、
刹那の中に永遠を見られる段取りをきちんとしておきたいものです。
要するに、人間の一生を集約してしまえば、自分で自分を思い通りにできる
時間は本当にわずかなのです。

地球上に生きている人類すべてに時間は平等です。唯一の平等原則かも
しれません。それなら、私は「私自身による、私自身のための、私自身の人生」
を創造し、できるだけ楽しく生き抜いてしまうほうが賢いのではないかと
思うのです。言ってしまえば、下手な悩みは休むに似たり。

では、それはどんなふうにすれば創造できるのでしょうか。
それほど難しいことではありません。
日常生活の中から、できる限りわずらわしいことを排除していけばよいのです。
また人間関係でも「自分は自分、他人は他人」という線引きをきちんとする。
こう言うと、いかにもわがことばかりの「ミーイズム」のように感じたり、
「冷たい」と思ったりしてしまうのですが、このせちがらくも忙しい、そして
いまだ成熟の域に達しきらない現代社会をスマートに生き抜こうと思ったら、
お互いが「自立した社会人」にならなければいけません。
いつの世も人情や愛情は替えがたく最も大切なものです。でも、お互いの存在に
必要以上にもたれかかったり、べっとりとよりかかったままでは、「情」に
つぶされて自立した人間が育たないように思います。

「自分自身のための、自分自身による、自分自身の人生」。
読んでしまえば、あまりにも当たりまえで、あまりにも身近な言葉です。
でも、この言葉を現実のものとして、自分の手に入れるのは相当至難の技だと
思います。しっかりした自立の精神で、自分自身の人生を築きたいものですね。

限りある人生です。あなたも時間を大切に上手に使って、ぜひ、より輝きに
満ちた人生を作り出してください。

最後にもう一度…

これからの10年、どうしますか?

【2008.9.12 末金典子】

資本主義の第二の幻想、「競争原理が社会の効率を高める」、についてのここまでの議論をまとめます。1970年代以降、先進国の潮流となった超資本主義の社会では、技術革新、グローバル化、規制緩和が事業の新規参入を容易にし、企業間の激しい競争が引き起こされたため、大企業や規制業種の優位性が減少し、基幹産業や新しい産業の別なく、安定的な企業収益を生み出すことが事実上不可能になりました。資本調達にも競争原理が働き、株主の力が高まり、「会社は株主のもの」という価値観が浸透し、経営者に対するプレッシャーが増大します。経営者に対しては、収益を第一に追求するよう、株主から飴と鞭が与えられ、短期間で収益を上げることができなれば容赦なく解雇される半面、株主に利益をもたらす、ごく少数の「成功者」に対しては、莫大な報酬が支払われるようになります。価格競争が進み、商品価格への支配力を失った企業は、単価を上げる(あるいは維持する)ことができなくなります。この環境下で株主が納得する利益率を確保するためには、商品の販売量を拡大するか、費用を削減する以外に方法がなくなります。新たな市場を開拓することは時間もコストもかかりますし、市場サイクルが短期化して投下資本の回収リスクが高いため、利益を捻出するために、最も容易な方法が費用の削減となります*(1)

多くの企業において、人件費は突出して最大の費用であるため、利益を大量に捻出する原資としては最も「適当」です。買収の対象となった企業や、ファンドが経営権を取得した企業では、ほぼ例外なく人件費が見直されます。日本においては、バブル崩壊以降の平成不況が、聖域だった雇用に手をつける大義名分を経営者に与え、終身雇用が急速に失われると同時に、人材派遣会社が大いに業績を伸ばします。正社員が派遣社員に置き換えられ、残った正社員に対しては「成果主義」人事制度が導入されますが、多くの場合、この制度の導入目的は総額における人件費削減でした。以上の結果、雇用は不安定になり、給与が大幅に減少し、家計収入を補うために夫婦共働きが余儀なくされ、家庭教育や人間関係が希薄化し、中産階級が崩壊し、社会の格差が拡大するなどの問題が生じています。

超資本主義の金融
競争原理が社会の潮流となったことで、先進国社会の大半の労働者の所得は大幅に減少するのですが、例外的に、一部の経営者や金融専門家に関しては、所得と資産が著しく増加し続けています。超資本主義の競争原理は金融業*(2)にも例外なく浸透し、例えば株式売買手数料自由化によって、インターネット証券での取引が個人投資家の間で主流となり、大手証券会社の株式売買手数料部門における利益率は大きく減少しています。それにも関わらず、全労働者の中で、特に金融専門家の年収だけが爆発的に増加する現象はどのように説明できるのでしょう?競争原理の浸透によって、年収が激減する仕事と激増する仕事。両者の違いは何によって生じているのでしょうか?これらの問いは、超資本主義の金融的側面を明らかにし、特に1995年以降の国際金融の変容を説明する重要な鍵となります。

アメリカの1990年代は、激しい競争を伴う超資本主義的事業環境で十分な収益を確保する殆ど唯一の方法は、(広義の)トレーディング*(3)であるということが、金融専門家、そして一部の事業家の間で確信となった時期だと思います。不良債権投資・回収、LBO、ヘッジファンド、M&A、マーチャントバンキング、プライベートエクイティ、ベンチャーキャピタル、そしてその後のサブプライム危機に繋がるローントレーディング、レバレッジや簿外投資、資産の証券化、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)などの「先端」金融は、その見かけはどうあれ、その本質はトレーディング事業であり、この流れを洞察して戦略的な経営資源の再配分を行ったか否かが、超資本主義における「勝者」と「敗者」を別つ最大の要素になりました。超資本主義的事業環境において、労働分配率と事業収益の増加を両立し得る(少なくとも一定期間において)唯一の選択が、トレーディング事業でした。この意味で、金融事業のトレーディング化は、超資本主義的な社会変容に伴う、金融専門家の必然的な選択であるのですが、事業のトレーディング化の行き着く先が、資本主義そのものを自壊させるメカニズムとして機能するであろう、というのが本稿の重要な趣旨のひとつでもあります。詳細は後述します。

トレーディング化する金融
アメリカでは1975年に株式売買手数料が自由化されましたが(イギリスでは1986年10月から)、インターネットが社会に普及し、ネット証券が台頭し始めた1990年代前半(1996年8月、E*TRADE証券が上場しています)から手数料が本格的に下がり、大手投資銀行(証券会社)は重要な収益源を失います。今でこそ、自己資金を投下した広義トレーディング事業は投資銀行の花形部門のひとつですが、当時は、自らは殆どリスクを取らず、他人のお金を使ってお金を儲ける者が賢いプロの金融マン、と考えられていましたので、積極的に自己投資を始めたと言うよりは、失った利益を埋め合わせるために、已むに已まれず、というニュアンスではなかったでしょうか。

この動きを後押しした最大の要素は、商業不動産市場のクラッシュだったと思います。大手証券会社の仲介手数料収入の減少とおおよそ時を同じくして、1980年代後半から1990年代前半にかけて、アメリカでは商業不動産バブルが崩壊し、(当時)大恐慌以来といわれた不動産大不況に見舞われます。大手銀行は不良債権にまみれ、実質的に新規の融資機能が停止し、1980年代後半に「ジャパンマネー」として一世を風靡した日系金融機関はアメリカ不動産投資で大火傷を負い、1980年代以降の金融自由化などの影響が重なって、S&Lと呼ばれる中小金融機関(Savings and Loan Association:貯蓄貸付組合)が数百社単位で破綻する大問題になります。破綻したS&Lなどが保有していた不良債権を引き継ぎ、処分(売却)するために、RTC(Resolution Trust Corporation:整理信託公社)が設立され、大量の不良債権が額面に対して大幅なディスカウントで市場に放出されます。RTCは売却価格にこだわらず、「売れる値段が時価」、「できるだけ短期間で売却」という原則で不良債権をどんどん売却したため、不良債権を取得した投資家は例外なく多額の利益を享受しました。短期間で大量に売却するための工夫として、不動産担保証券(CMBS:Commercial Mortgage Backed Securities)の開発が進み、格付機関がストラクチャードファイナンス(証券化)ビジネスを積極化するなど、市場の参加者が一挙に増えたのです。

伝統的にリスクを嫌ってきた投資銀行といえども、このような絶好の収益機会を見逃すことは流石にできなかったようです。しかし、始めはおっかなびっくりで、例えば、ゴールドマンサックスが1991年に設立した不動産・不良債権ファンド、ホワイトホールは、今でこそ5,000億円を超える巨大ファンドですが、第一号は僅か200億円足らず。当時は単独事業ですらなく、その時点で10年以上不良債権に関わりがあり、不良債権回収の最大手であったJE.Robert Companyらとの合弁で始まっています。メリルリンチも、アメリカで最も有名な不動産/不良債権投資家、サミュエル・ゼル氏との合弁で、「Zell/Merrill Lynch Real Estate Opportunity Partners」を設立して不良債権などへの自己投資事業に参入しています。投資銀行がひとたび自己資本を投下したトレーディング事業を体験すると、いとも「簡単に」多額の収益を生み出すことが可能だということに気が付きます。特に、競争が激しくなる一方の、顧客相手の仲介ビジネスと比較すると、投下する労力に対する収益が破格に異なります。かくして、他人のお金で儲けるのがクールであった時代は終わりを告げ、1990年代以降、大量の自己資本を投下するプリンシパル・ビジネスが、一躍投資銀行の花形となるのです。

パンドラの箱
トレーディングの特徴は、…冗談ぽく聞こえますが…、儲かるときにはとにかく儲かる、ということでしょう。例えば、5%の利回りで投資物件を探している顧客がいたとします。10%の利回りで3億円の不動産を買い付けると同時に、5%の利回り、すなわち6億円でこの顧客に売却すると、3億円のトレーディング利益が生まれます(こう書くと、難しそうに聞こえますが、単に、3億円で買ってきたものを6億円で売る、という意味です)。同様の利益を仲介業務で稼ごうと思えば、手数料が3%としても100億円の大型取引を成立させなければなりません。3億円の自己売買取引と100億円の仲介取引では、物件に対するコントロール、対象顧客を得るまでの営業量と費用、営業をサポートするバックオフィスの能力、物件調査・市場調査などの精度と量、顧客への説明内容と段取り、契約書の複雑さと作成費用、顧客の資金調達の手間隙などにおいて、事業効率が格段に異なります。…要は、労少なくして、短時間で、驚くほどの収益を上げることが可能なのです(反面、トレーディングはある意味、パンドラの箱のようなものです。超資本主義の激しい競争環境で、これだけ容易に多額の利益を生む代替事業は稀であるため、市場の転換点でスムーズに撤退することは、収益的にも社内政治的にも不可能に近いと言えるほど困難です)。

トレーディングのメカニズム
投資銀行のトレーディングビジネスは多岐にわたり、「高度」な専門性を要するとされていて必要以上に複雑に見えますが、そのメカニズムを突き詰めて考えると、以下の3つの要素(とその組み合わせ)に収斂するように思います。反対に、超資本主義環境下の金融事業は、以下の3つが機能しなければ成り立たなくなっている状態です。一般に、市場の成熟と競争の増加に伴って、①~③の順に事業が変化する傾向があるのですが、この順番に事業リスクも急激に上昇し、最後にはクラッシュを迎える、というパターンを何度も繰り返す傾向が生じています。

①裁定
②レバレッジ
③請求権の拡大

裁定取引
投資銀行のトレーディングビジネスが、例えば単純な株式売買などと異なり、少なくとも一定の条件下において、ほぼ確実に利益を生み出すことができるのは、それが裁定(さいてい)取引であるためです。裁定取引とは、本来同等の価値を有する資産が、異なる状況において、異なる価格で売買可能であるとき、この資産を割安な価格で買うと同時に割高な価格で売却することによって、リスクを殆どとらずに利益を実現する手法です。この考え方はシンプルかつ汎用性があり、もともと金融に限った概念ではありません。大航海時代の商人が東インドやスマトラ島で買い付けた胡椒を西洋で売却して大きな利益を得たのも、西麻布の家具屋さんがインドネシアに家具を買い付けに行くのもこの原理によるもので、世の中には裁定機会が溢れています。裁定取引であることの特徴は、「買ってから売ろうとするのではなく」、「売れるものを買う」ということでしょう。6億円で売れると分かっているものを3億円で買ってくれば確実に利益になる、という単純な理屈です。「利は入りにあり」と言われますが、売るときに利益が確定するのが通常の売買、買うときに利益が確定しているものが裁定取引ということもできます。

ただし、単純な取引では裁定が働き、すぐに利益が生じない状態に価格が変動してしまうため、一定期間一定以上の収益を確保し事業化するためには、性質が大きく異なる二つの市場間の裁定を行うなどの工夫が必要で、このような複数市場間の裁定を目的として発達したのが証券化の技術です。例えば、1990年代の前半まで、アメリカの商業不動産市場と証券市場は全く分離した二つの市場でした。この時期、アメリカの商業不動産市場は大不況に見舞われ、不動産価格がピーク時の半値程度まで暴落します。一般的な不動産所有者は、投資額の70%~80%程度を銀行からの借り入れによって賄っていましたので、多くの所有者が破綻し、銀行は大量の不良債権処理に追われ、新たな貸付や借換に対応することが全くできなくなりました。シティバンクが破綻に瀕し、アラブのアルワリード王子の出資によって辛うじて生きながらえたのもこの頃です*(4)。担保余力の残っている一部の不動産所有者がローンの借換を行おうとしても、銀行は商業不動産市場から全面撤退中で、商業不動産市場は深刻な資金不足に陥っていました。もしこの裁定機会を理解し、自己資金に多少の余裕がある投資銀行がこの市場に存在すれば、安全な担保を取りながら利幅の厚い商業不動産担保ローンを貸し付けることは比較的容易でした。この機会を捉えて急成長を遂げ、ほぼ独占的な不動産証券化のフランチャイズを生み出したのが、ウォール街ではほぼ無名の弱小「外資系」証券だった米国野村證券不動産ファイナンス部門でした。1993年に僅か50億円程度の割り当て自己資金と7人の社員で始めたビジネスが、5年後の1998年のクラッシュ直前には、毎月1,000億円のファイナンスを実行し、450人の大部隊を擁し、年間600億円の利益を生み出す圧倒的な稼ぎ頭に成長します*(5)。商業不動産市場でこのようなローンを大量に実行して証券化するということは、金余りの(お金の価値の低い)証券市場から、お金不足の(お金の価値が高い)商業不動産市場へ資金を大量に流し込むことであり、ウォール街の投資銀行が広大な商業不動産市場を獲得した瞬間であり、実質的に同じ価値のローン資産を、割安な債権市場で「買い」、割高な債券市場で「売る」、裁定取引の実現を意味します(不動産担保融資の営業部門と証券化機能を有しながら、当時の不動産証券化が「ローントレーディング」ビジネスに分類されていたのは、このような理由によります)。

結局、商業不動産担保証券(CMBS)市場の裁定機会は1993年から1998年まで約5年間継続しました。ソロモンブラザーズのモーゲージ証券(1980年代前半)、ドレクセル・バーナム・ランベール証券のジャンクボンド(1980年代後半)、RTCを中心とした不良債権の大量処理と証券化(1980年代後半から1990年代前半)、ベンチャーファイナンスとインターネットバブル(2000年代前半)、住宅ローン証券化とサブプライム危機(2000年代)など、1980年代以降、アメリカの金融市場におけるバブルの発生と裁定機会は驚くほどの回数に上りますが、それぞれの隆盛と崩壊のサイクルはいずれも大方5年±α というイメージです。

【2008.9.5 樋口耕太郎】

*(1) 当たり前のように聞こえますが、売上から費用を差し引いたものが企業の利益ですので、苦労して売上を増やしてもそこから費用を差し引いた残りの部分しか利益になりませんが、費用を削減すると、削減した金額がそのまま企業の利益になるという単純な原理が働きます。このため、短期間で利益を確保する必要のある経営者は、一般に費用の削減を好みます。

*(2) 本稿で「金融」と表現する場合、広義の投資銀行事業を示しています。超資本主義を象徴し、金融のトレーディング的な変容を遂げ、国際金融に大きな影響を与え、社会経済の生態系分析に最も重要だと考えられるためです。

*(3) 本稿における「広義トレーディング」とは、自己勘定取引という、単に形式的な概念ではなく、顧客に対して買い向かう裁定取引を示します。この意味では、例えばノンバンク事業は、自己勘定ではありながら、銀行資金のリテール顧客への仲介業と考える方が実態に即していると思います。また、トレーディングという言葉のニュアンスから、証券などの頻繁な売り買いが連想されがちですが、自己勘定による裁定取引(広義トレーディング)の概念では、例えば、ローンを融資(経済的に「買い」)し、証券化(経済的に「売却」)する事業、ファンドのお金で不動産を買い集めて(「買い」)、一つの会社として上場する(「売り」)事業、上場会社を買収し(「買い」)5年間後に再上場(「売り」)するなど、長期的かつ事業的な資産売買を含みます。一般的な事業経営と見かけが似てきますが、トレーディングである以上、必ず買う行為と売る行為が存在することが決定的な相違点でしょう。

*(4) シティグループは、サブプライム危機においても破綻に瀕していますので、20年足らずの間に2度、実質的に破綻したことになります。これは本稿の趣旨でもありますが、それほど国際金融市場は不安定になっていると言えるのです。

*(5) 米国野村證券の不動産ファイナンス部門を率いたのが、当時30歳になったばかりのモルガン・スタンレー出身の債券トレーダー、イーサン・ペナー氏(Ethan Penner)でした。不動産ファイナンス部門は、全世界の野村證券の利益の約半分を生み出していた時期もあり、危なっかしいほどの勢いがありました(実際1998年のモーゲージ市場のクラッシュで、部隊は壊滅状態になります)。毎年リゾートを借り切って、1,000人規模の顧客・従業員とその家族を招待してコンファレンス兼パーティを開催し、趣を凝らしたディナーの後のエンターテイメントには、ダイアナロス、ボブディラン、ロッドスチュワート、イーグルスなどのミュージシャンが演奏を行いました。当時の米国野村證券は、完全な現地化戦略に転換し、自己資金をフル稼働させたトレーディングビジネスに大きく舵を切り、経営陣から末端に到るまでアメリカの会社以上に米国的で、日本人社員は全従業員の4%以下でした。当時の不動産ファイナンス部隊の大躍進と崩壊に到るまでの顛末は、僕が知る限りにおいてこちら(英文)が最も詳しい資料だと思います。

前稿、競争原理がもたらした社会(次世代金融論《その6》)について、補足すべきことが四点あります。第一に、前述の通り、競争原理は必ずしも社会効率を高めないのですが、だからと言って、競争原理が「悪」であるとも限りません。消費者としての我々が多様なサービスを安価に利用できるのも、インターネットを通じて膨大な情報を検索・送受信できるのも、新しい事業にどんどん挑戦できるのも、明らかに競争原理がもたらした恩恵です。同様に、アメリカの40年~50年代に象徴されるような規制社会が今よりも好ましいという意味でもありません。その時代には確かに十分な収入と安定した職場が保障されていたかもしれませんが、硬直的な人事組織、能力や人間性が考慮されにくい社会の序列、個人の自由よりも優先される組織の方針、創造性よりも安定性が求められる社会には弊害も少なくありません。

さらに、「世界経済の生態系」にまで視点を広げると、先進国での競争原理の浸透が、全く別の役割を果たしていることが分かります。先進国社会のスピードと流動性が高まり、雇用が不安定になり、労働分配率が激減し、中産階級が崩壊し、著しく格差が拡大する一連の過程の裏側で、先進国のグローバル企業はサプライチェーン(≒仕入れ)の相当部分を、相対的に費用の安い中国、インド、ラテンアメリカを始め、世界中の発展途上国にアウトソースしました。これが世界経済に人類史上かつてあり得なかった規模の成果を生み出します・・・世界中が豊かになり始めたのです。過去15年間で世界経済の規模は2倍以上に拡大して54兆ドルに迫り、同時期の世界貿易は133%伸びました。超資本主義が世界に提供するサプライチェーンは、発展途上国に莫大な利益をもたらすと同時に、消費財の価格を継続的に低下させ、低インフレと経済成長が、恐らく経済史上初めて両立します。この20年ほど、おおむね適切だったと言えそうな金融・通貨政策の効果も加わり、トルコ、ブラジル、インドネシアまで多くの国々を苦しめてきたハイパーインフレがおおむね収束しました。・・・以上の成果として、世界の貧困は今まで人類が経験し得なかった範囲とスピードで激減しています。世界人口の8割を占める国々で貧困が減り、1981年の時点で、地球上の全人口の40%を占めていた世界の貧困層(1日1ドル以下で生活する人たち)が、2004年には14%に低下し、2015年までには12%へ下がるとみられています。今まで「援助」や「支援」の名の元に、多くの人々が散々時間と費用をかけて達成し得なかったことを、超資本主義がわずか20年間で実現してしまったのです。もちろん、貧困問題は完全に解決したわけではありません。特に50の最貧国に住む、世界の最底辺の10億人は、今でも深刻な状態です。しかし、世界全体では、かつてなく希望が持てる状況になっています。

また、超資本主義は、先進国において、過去、いかなる政治も人権運動も成し得なかった均等社会を、短期間で生み出しつつあるという効果があります。激烈な競争環境におかれた企業では、能力以外の理由で従業員を差別するゆとりがなくなったためです。人種、民族、男女差別は、企業と経営者にとって大きなコストを伴う「ぜいたく」な行為となり、アメリカでは教育水準の高い黒人やヒスパニックの多くがアメリカの中流階級へと上昇し、さらにその一部は上流階級へと移動しました。同様に、女性たちも専門職や管理職の地位へと上がってきています*(1)

第二に、競争原理と超資本主義によって、著しい格差、雇用不安、地域社会の不安定化、環境悪化などの様々な、そして中には非常に深刻な社会的弊害が生じているのですが、本稿の議論の目的はその原因となる「悪玉」を見つけることではありません。・・・賃金を極限まで削るウォルマート、利益のために消費者の健康を害するマクドナルド、四半期決算に戦々恐々として従業員を省みない経営者、会社の解体と従業員の大量解雇を事業計画に盛り込むファンド、資本市場の公共性を気にも留めない投資銀行、ウォール街の意向を無視できない政治家、アメリカの意向を無視できない日本の政治家などなど・・・。怒りの矛先を向けたくなる対象は世の中には多く存在しますが、社会の生態系全体で考えると、それぞれの「悪玉」も、超資本主義社会の大きな潮流に適用するために、それぞれの選択をせざるを得ない事情があると考えるべきでしょう。

社会で何か大きな問題が生じるたびに、「悪玉」が特定され、これに制裁を加えることで、問題「解決」とされることが少なくありません。しかし、例えばウォルマートやマクドナルドや市場原理至上主義の政治家など、分かりやすい「悪玉」をスケープゴートとして批判し、(恐らく長い闘争の末に)仮に何らかの規制や罰則を適用することができたとしても、このような制裁は、せいぜい社会のガス抜きに役立つか、良くて小さな問題の対症療法に過ぎず、社会の生態系の根本的な問題解決には殆ど効果がありません*(2)。大きな問題の原因を明らかにして、根源的な治癒を行うためには、現実を直視した現状認識と、社会生態系への理解が何よりも重要であり、これが本稿のアプローチです。現状認識の過程で事実を明らかにするプロセスは、誰かへの痛烈な批判と解釈されてしまうこともあるのですが、それは本稿の意図とするものではないのです。

第三に、ライシュ教授の超資本主義モデルを利用すると、多くの、一見不可解な経済現象(特に、ニューエコノミーと呼ばれた現象)がうまく説明できるように思います。例えば、従来の経済理論によれば、失業率が一定水準以下になると、インフレを併発する筈なのですが、過去20年間の日米マクロ経済においては、このセオリーが当てはまりませんでした。なぜ日本の金利が一向に上がらないのか、経済成長が進行しながら物価が下がり続ける原因はなにか、一般国民が最近までの好景気を殆ど実感できないのはなぜか、などの問いについても同様です*(3)

第四に、超資本主義と経済のグローバリゼーションが、世界中から貧困を激減させ、人種差別や偏見を減らし、より平等な男女関係を社会にもたらしたという事実は、経済が、社会の質を高め、人間関係を改善する、という機能を持つことを示唆しています。このような機能をなんと呼ぶべきか迷いますが、家庭における社会教育機能であり、道徳的規範の推進機能であり、ある種の政治機能であり、宗教が果たす機能の一部でもあるでしょう。経済の目的は、「社会と人を物質的に豊かにすること」とするのが、「常識」なのかも知れませんが、そのような認識は経済の(潜在)機能を、したがって、企業と経営者の社会的機能を、著しく矮小化している可能性があるのです。

そして、特筆すべきは経済がもたらす社会変革の効率の高さでしょう。過去20年間で生じた貧困や社会的偏見の解消を、援助活動や社会運動や政治・外交などによって達成しようすると、どれほどのエネルギーが必要とされるかを想像するだけで、そのパワーをイメージすることができます。ずいぶん昔から、なぜ大学では政治と経済を一緒の学部で教えるのだろうか、と不思議に思っていたのですが、ひょっとしたら、先人がこのような経済の本質を学術的な分類に反映したためかも知れません。

【2008.8.16 樋口耕太郎】

*(1) 本稿のその他のセクションも含めて、 Fareed Zakaria, “The Post-American World (邦訳未刊), W.W.Norton & Co., 2008.4.、 ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』、雨宮寛・今井章子訳、2008年6月、東洋経済新報社(原題:Supercapitalizm: The transformation of business, democracy, and everyday life)、 ロバート・ライシュ著『アメリカは正気を取り戻せるか』、石塚雅彦訳、2004年11月、東洋経済新報社(原題: Reason: Why reberals will win the battle for America)、 ロバート・ライシュ著『勝者の代償』、清家篤訳、2002年7月、東洋経済新報社(原題: The Future of Sucess: Working and living in the new economy)、を参照しています。

このような社会の良い側面もまた、別の問題の原因となっています。世界経済がグローバル化し、貧困が激減し、発展途上国が急速な経済成長を遂げたことによって環境問題が深刻化し、世界の穀物・食糧相場、原油価格が高騰しています。更に、貧困の絶対数は減少しているかも知れませんが、過去30年間の世界の格差は拡大しているという事実があります。この間、世界経済は年2.3%成長していますが、経済的に最も富める国と貧しい国との格差は30年前の10倍になっています。・・・生態系のすべての要素は他の要素に影響を及ぼす存在であり、いかなる要素も独立し得ません。生態系は「すべてでひとつ」なのです。

*(2) 社会の生態系をより良いバランスに導く作業において、「悪玉」成敗は重要事項ではありませんが、だからと言って、「悪玉」がしばしば犯す反倫理的、反同義的、反社会的な行為を見逃しても構わない、ということにはなりません。

*(3) なお、彼の理論に加えて、企業が目先の利益を最優先しがちな超資本主義環境において、食料品・加工食品などに関する物価下落の要因は、添加物の大量利用、農業の化学化による「生産効率」の向上と、商品の実質的な質の低下が大きく寄与しているのではないか、と個人的に疑っています。食品の質を大幅に落とすことで価格も下がりますが、質の低下は物価に反映されにくいためです。

資本主義の第二の幻想は、「競争原理が社会の効率を高める」、という「常識」です。先進国における競争原理の浸透は、70年代に芽生え、マーガレット・サッチャー、ロナルド・レーガンの政策を経て、80年代以降現在に至るまで、社会の基本潮流となりました。競争原理から派生した、「規制緩和」「民営化」「グローバル化」「市場メカニズム活用」の基本的な考え方は、規制に守られて硬直化した組織や事業に、競争原理と市場メカニズムを導入し、事業の運営効率と生産性を高め、商品やサービスの価格を下げ、消費者にとっての利便性を高め、利用者を増やすことで総合的な収益を増加させるという考え方に基づくものです。実際、世の中の大半の商品・サービスは性能を高めながら大幅に価格が低下し*(1)、同時に企業収益は爆発的と言っていいほどの成長を遂げたため*(2)、競争原理が社会で有効に機能しているという「常識」が定着しています。

しかしながら、社会の生態系全体で見ると、競争原理によって著しく向上した企業の「生産性」「利益率」「低価格」の大部分は、激しい競争に勝ち残るために企業経営者が労働分配率を大幅に削減したことの結果であるということが、認識され始めています。その良し悪しは別にして、社会における競争原理の浸透が、労働者の所得を激減させ、雇用を不安定にし、中産階級を破壊し、格差社会を生んだ最大の原因である可能性があるのです。

確かに、人件費を削ることによる企業収益への寄与度は莫大です。大掴みに推定すると、一般的な企業における人件費は、総費用の70%程度ですが、売上高利益率5%の企業が10年間で人件費を30%(総費用の約20%)削減すると、企業利益が約4倍になるほどのインパクトが生じる計算になります。アメリカのダウ平均は、1990年代に約3,000ドルから11,000ドルまで4倍弱上昇していますが、結局のところ、90年代以降の株式ブームを含め、70年代以降の「経済成長」と好調な企業収益はこのようにして生み出されていた可能性があるのです。

競争原理の衝撃
世の中では、競争原理の良い側面ばかりが強調されているため、競争原理が企業経営に与える強烈なインパクトがあまりにも過小評価されているという印象を受けます。個人的な事例では、事業戦略を構築する際、僕は「非競合である」ことを何よりも優先しているのですが(2006年度事業報告の3~4ページ、「事業戦略」の項を参照ください)、それは、競合することが事業効率を何よりも低下させるという事実の裏返しでもあります。例えば、投資案件において、競合状態でなされる入札は、競合のない状態に比べて、競争相手が10倍、入札価格が少なくとも2割増、利益率がざっと50%減少するイメージです。このような競合環境において非競合投資案件と同等の利益を確保するためには、半分の利益率の案件を10倍こなす必要が生じるため、事業効率はざっと20倍の差があるというのが僕の実感です。どんな企業であっても、単価と売上の増加によって、生産性をいきなり20倍にすることは事実上不可能ですので、企業が他社と競合するためには、これに見合うだけの費用を削減して収益の帳尻を合わせる必要が生じます。大半の事業における最大費用は人件費であるため、これが最大の削減対象となります。「無駄な」従業員をどんどん減らしながら、一人当たりの給与額も削られ、一人当たりの業務量が等比級数的に増加する、という循環を生み出しています(…社員の鬱や無気力が大きな社会問題になりつつありますが、この問題を突き詰めて考えると、競争原理に基づく社会構造に起因しているのではないかと思います)。

短期的な数々の個別事例は別にして、長い目で見た事業の本質は、要は、「競争したら商売にならない」のです。例えば、しばしば談合が指摘されている建設業界ですが(談合の違法性や、同義的な問題は敢えて横において)、これほど何度も社会的に問題視されていながら、(実質的な)談合が決してなくならない根本の理由は、それがモラルや遵法性の問題ではなく、競争原理がもたらす市場原理の基本構造によるからかも知れません。談合の違法性を盾にとって当事者を非難することは簡単ですが、この問題について、対症療法ではなく、根本的に治癒することを政策担当者が希望するのであれば、社会の生態系のバランスを変える以外に方法はないのです。

崩壊する中産階級
アメリカで、競争原理が浸透する前後の社会をそれぞれ象徴する代表企業は、GM(ゼネラル・モーターズ)とウォルマートでしょう。1950・60年代、GMはどこよりも高い収益を上げ、アメリカで最も多くの従業員を雇用する企業でした。GMが労働者に対して安定的に支払っていた額は、現在の金銭価値で年間約60,000ドル(約650万円)でした。これに対して、しばしば格差社会の象徴的存在として悪玉扱いされているウォルマートが現在従業員に支払う金額は、17,500ドル(約200万円)、時給にして10ドル弱に過ぎません。福利厚生もわずかで、年金保障もなく、健康保険手当ても雀の涙です。医療保険対象者を減らすためにパートタイム従業員を増やし、長期雇用の従業員が賃上げの対象にならないよう、賃金に上限を設けるなどの対処を怠りません。更に、ウォルマートは、仕入れ業者に対して、サプライチェーンのためのコスト削減を徹底的に要求することで有名ですが、これは実質的に、米国内外で仕入れ業者各社のために働いている何百万人もの従業員の賃金・福利厚生を削ることを要求していることになります。それでも対応しきれない仕入れ業者は、中国、東南アジア、メキシコなどの下請けに仕事を出さざるを得ず、また、人間をコンピューターやソフトウェアに置き換える必要が生じます(ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』参照)。

このような社会全体の変容の結果として、現在のアメリカでは、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働く格差社会構造が生まれ、かつて世界中の羨望の的であった米国の中産階級が壊滅したことは前に述べました(さらに象徴的なデータとしては、ビル・ゲイツ単独の純資産6兆8,000億円は、下から半分までのアメリカ全世帯の純資産に等しいのです)。インフレ調整後の数値で見ると、アメリカの労働者の平均時給は1973年にピークに達し、その後25年間下がり続けています。象徴的に表現すると、一般的な労働者の年間賃金が60,000ドル(GMの事例)から20,000ドル以下(ウォルマートの事例)に落ち込む過程で、アメリカの中産階級は共働きを余儀なくされ、専業主婦が激減し、社会の最小単位としての家庭の人間関係が希薄化します。この間、記録的な数の女性が労働人口に加わりましたが、これは男女同権論に突き動かされてと言うよりは、生活費を捻出する必要に駆られてというのが主な理由でしょう。1975年のアメリカでは、幼い子供を抱えた母親の約3分の1が外で働いていましたが、現在では、約3分の2が就業しています。核家族夫婦が子供を育てながら共働きをする生活は容易ではありません。消費財が溢れていることを幸いに、電子レンジで温めるだけの、いわゆるTVディナーやジャンクフードが食卓の主役となり、栄養素がなくてカロリーの高い、添加物だらけの食生活が一般化します*(3)。更に年収が下がってくると、夫婦の年収を合わせても生活がままならなくなり始め、これに「対処」するために、将来の収入を取り崩し始めます。金融の「進歩」によって生み出された数々の金融商品、クレジットカード、カードローン、そして、サブプライム危機に繋がる、数々の不動産関連ローンに頼りながらかろうじて生活が成り立つという状態にまで追い込まれて行くのです。…この件に関する詳細は後述します。

Supercapitalism
以上のような社会の生態系をうまく説明しているのが、クリントン政権で労働長官を務めた、ロバート・ライシュ教授の『暴走する資本主義』(原題:Supercapitalism)です。本当に秀逸な著書で、僕が毎年勝手に決めている、Book of the Year*(4)の最有力候補でもあります。この本の中でライシュ教授は、70年代以降、競争原理の浸透によって全世界的なトレンドとなった非民主的な資本主義の潮流を、「超資本主義(Supercapitalism)」と呼び、そのメカニズムを実証的にまとめています。広い視野とシンプルさを兼ね備えたライシュ教授の「超資本主義」社会生態系モデルは説明力に富んでいますし、無駄な言葉が少ないために要点を掴みやすい内容です。更に、「悪者」を特定して非難したり、結論ありきで分析をまとめたり、政治的な目的を正当化する意図が感じられない点、手を抜かずにしっかり整理された大量の情報の中から重要なものだけを洞察し、無駄なく抽出することで、シンプルなモデルを導いている点は、実に素晴らしいと思います。ライシュ教授はクリントン政権において労働長官を務め、バラク・オバマ氏の政策顧問でもあるため、本書は2009年の大統領選挙で民主党政権が生まれた場合のアメリカを予測するという観点においても重要ですが、彼がこのような立場にありながらあくまで社会科学者としての視点を持ち続けている姿勢には好感が持てます。

彼の論点を要約すると、アメリカの40~50年代は、GM、USスチール、AT&T、GE、スタンダード石油など、大量生産システムを構築した少数の大企業が世界市場を圧倒的に占有し、寡占状態による厚い利益を生み出していました。労働組合の組織率は高く、従業員は手厚く保護され、高い労働分配率によって世界で最も豊かな中産階級を形成していましたが、70年代以降、技術革新と経済のグローバル化によって世界的な競争が生まれ、企業は商品とサービスの価格決定力を失い、世界中から最も安い原材料を仕入れ、労働分配率を削減し、商品価格を下げながら利益を捻出する必要が生じます。企業経営者は、かつてのようにステイクホルダーの利害を調整して社会的な責任を果たすような余裕を失い、短期的な収益を上げ続けるよう株主から強いプレッシャーを受けるようになります。経営者は選択の余地なく、世界中から仕入れ業者を容赦なく選別し、人件費を徹底的に削減し、企業の利益に繋がる政策を引き出すためにロビイストに大量の資金を投下し、その結果、政治は大企業の利益に適うように強く誘導されるようになります。

しかしながら、皮肉なことに、…そしてこれは彼が洞察した超資本主義の構造そのものでもあるのですが…、社会科学者としてのライシュ教授の優れた分析は、超資本主義社会においては政治が主役になりえないと言うことを自ら証明しているように思えます。政策担当者としてのライシュ労働長官が中産階級の復興を導こうとするならば、著しい技術革新とグローバル化を伴う激烈な競争市場環境においてもなお、

株主のプレッシャーから解放され、
価格決定力を有する事業を創造し、
高い労働分配率を実現する、

という、まるで夢のような事業を実現し、社会に浸透させること以外に、この連鎖を断ち切る方法はないように思われるのですが、これは政治機能の範囲を超えているためです*(5)。このような事業を実現する有効なモデルが、次世代金融の重要な趣旨でもあるのですが、この詳細は後述します。

【2008.8.6 樋口耕太郎】

*(1) トラック輸送、航空料金、電話・携帯電話・インターネット接続料金、株式売買委託手数料などは、1970年代以降現在まで大幅に小売価格が下落したサービスの典型です。また、インフレ調整後の2000年価格で一般的な消費財の価格変化を見ると、カラーテレビは2,227ドル(1950年)から175ドル(2000年)に、電子レンジは1,300ドル(1955年)から208ドル(2002年)になり、貧困家庭でさえ73%、VTRは同じく78%普及するほどになりました。冷蔵庫は2,932ドル(1962年)から1,000ドル(2000年)へ、トランジスタは同期間228ドルから15ドルへ下落しています。標準的なパソコンは、1,300ドル(1998年)から、770ドル(2003年)まで下がりながら、性能は飛躍的に向上しています。1996年、デスクトップパソコンのハードディスクドライブの要領は1ギガバイトがやっとでしたが、10年後、1ギガバイトは人差し指ほどのUSBフラッシュメモリの容量になりました。20年から30年前、米国の典型的家庭が所有する自動車は1台でしたが、2006年には2台になり、三世帯に一軒は3台以上の自動車を保有しています。標準的な乗用車一台の値段は1982年よりも安くなっています。(以上、『暴走する資本主義』126-128ページ参照)

*(2) 資本の競争原理が導入されて投資家の選択肢が増大したため、より高い収益、より効率の高い経営資源の配分を求める株主からの声が高まります。企業経営者は株主から生産性を高めるよう非常に強いプレッシャーを受け、何百万と言う人を移動、転勤、レイオフ、降格、昇進させることになります。その結果、1973年から2006年にかけて、アメリカのGDPは3倍に(インフレ調整済み)、生産性は80%増加しました。企業収益を爆発的に増加させ、株価は上昇を続け、アメリカが世界中から資本を大量に呼び込む半面、従業員の雇用は不安定になり、福利厚生が削減され、仕事量が増えたにも拘らず、所得が一向に増加しない、という現象を生み出すことになります。

*(3) 1960年代、アメリカの主婦は毎晩夕食づくりに平均して2時間半ほどかけていましたが、1996年(データーが入手できる最新の年)には、15分にまで短縮しています。これに取って代わる形で急成長したのがファーストフードなどの外食産業です。1970年にアメリカ人がファーストフードに費やした金額は7,000億円でしたが、2000年には13兆円に増加しています。現代のアメリカ人は、高等教育、パソコン、ソフトウェア、新車のいずれに投じるよりも多額のお金をファーストフードに使っています。ファーストフード業界を代表するマクドナルド社は、アメリカ最大の牛肉、豚肉、ジャガイモ購入者、二番目に大きい鶏肉購入者です。

競争原理のルールが「食」「農業」「医療」「教育」など、人間社会の根源的な産業に適用されると、労働分配率の大幅減少だけでは済まない、深刻な弊害を多岐に生み出すことになります。ファーストフード事業にとって、売上を増加するために最も有効な戦略は、どのように言葉を飾ったとしても、結局「消費者一人当たりの年間摂取カロリーを増やすこと」に尽きるのです。例えば、この件についてマクドナルドは典型的な悪玉として扱われがちですが、社会全体で見た場合、これは企業の問題と言うよりは、社会の競争原理がこれを後押ししてると考えるべきでしょう。1990年にタコベルのバリューセット戦略が成功し、マクドナルドの売上が減少した際、ウォール街のアナリストは、マクドナルドがバリューセットを導入していないことに懸念を示し、マクドナルドの株価が急落します。このことがマクドナルドがバリューセットを導入する直接のきっかけとなり、それ以降、ジャンボサイズ化がファーストフード業界のトレンドとなりました。人間の満腹感についてのペンシルバニア大学の栄養学研究調査では、「食べ物を多く与えるだけで食欲が増加する」という傾向が明らかにされていますが、ファーストフード産業はこの原理を利用して利益を増やす戦略を採ります。マクドナルドのフライドポテトのカロリーは、1960年には200キロカロリーだったのが、現在610キロカロリーになっています。メニュー全体の傾向でも、かつて590キロカロリーだったマクドナルドの商品が、今では1,550キロカロリーになっています。

平均的なアメリカ人は、フライドポテト、ポテトチップなどの加工ポテト製品を、30年前の4倍食べていますし、油やバターは20年前に比べて一人当たり5キロ以上多く摂取しています。15年前と比較して砂糖の摂取は3割近く、高果糖のコーンシロップなどの人口甘味料は、1970年以来、一人当たり14キロに急増していますが、清涼飲料売上の成長が大きく寄与しています。現代アメリカ人は1950年代の5倍のソーダを飲み、1970年から1997年の間に、一人当たり年間消費量は79リットルから211リットルに急増していますが、公益科学センターが「液体キャンディ」と呼ぶほど、ソーダの甘味料含有量は多いのです。コーンシロップの原料は大半が遺伝子組み換えとうもろこしであるという別の問題もあります。…1970年代後半には1日1,854キロカロリーだったアメリカ人のカロリー摂取量は、2,002キロカロリーとなっていますが、追加された148キロカロリーは、理論上毎年体重を最大6.8キロ増加させるほどのインパクトがあります(ただし、アメリカ人の平均身長が増加しているなど、一人当たりの必要エネルギーも増加していると考えられますので、この効果のうち幾分かは相殺されることになります)。

現在、アメリカ人は地球上で最も太った国民になりました。全人口の約61%が、健康上の問題を生じる程度の肥満、同じく約20%が寿命が短くなるほどの肥満状態で、500万人以上のアメリカ人が、病的肥満の定義に当てはまります。子供の肥満も深刻で、19歳未満では25%が上記いずれかの肥満に該当し、この数字は30年前の2倍の水準です。肥満は労働者層に特に多いという傾向や、収入レベルが低い者ほど医者に相談する割合が低いというデータもあります。

以上、エレン・ラペル・シェル著『太りゆく人類』栗木さつき訳、2003年8月、早川書房(原題:Hungry Gene)、エリック・シュローサー著『ファーストフードが世界を食いつくす』楡井浩一訳、2001年8月、草思社(原題: Fast Food Nation)、グレッグ・クライツァー著『デブの帝国』、竹迫仁子訳、2003年6月、バジリコ社(原題: Fat Land)、を主に参照しています。

*(4) これは僕が個人的に選別する年間ベスト図書で、その年に読んだ本の中から、最もインスピレーションを得た図書を選んでいます。どんなにすばらしい本でも自分が読むタイミングによっては全く価値を見出せないときもままありますので、「ベスト図書」の選択は主観的なものです。ちなみに、2005年、2006年、2007年のBook of the Year はそれぞれ、ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』、吉田利子訳、2002年4月、サンマーク出版(原題: Conversations with God)、ピーターラッセル著『ホワイトホール・イン・タイム』、山川 紘矢・亜希子訳、1993年4月、地湧社(原題: The White Hole in Time)、有吉佐和子著『複合汚染』、1979年5月、新潮文庫、です。

*(5) 結果として、超資本主義モデルによる彼の優れた社会洞察とは裏腹に、政策提言(の可能性)をまとめた終章は、実効ある政策になっているとは到底思えない切れ味となっています。

お元気ですか?
沖縄は久しぶりに台風が直撃しましたが、あなたは大丈夫でしたでしょうか。
金曜日はさすがにバスも終日運休しましたので、仕事もお休みさせて
いただきました。
昨日は本土で大きな地震もあったりと、天災続きでたいへんな連休に
なってしまいました。お見舞い申し上げます。

さて、昨日は海の日でしたね。あいにくの雨で海水浴も叶わず、
お部屋の窓から雨模様の海を眺めてすごしました。

太陽系の惑星の中で、海があるのは地球だけです。生命が存在するのも…。
そして、青い惑星と呼ばれるように、私たちが住むこの地球の70%は海です。

地球ができたのは今から46億年前。ごく小さな惑星同士が衝突・合体を
繰り返して、しだいに大きな惑星ができあがったと考えられています。
衝突の熱のため、当時の地球は、1700℃くらいの高温。ドロドロに溶けた
マグマが地表をおおい、水蒸気や窒素、二酸化炭素などを含むガスが上空に
立ち込めていました。その後、地球の温度が急速に下がると、ガスの中の
水蒸気が冷え、雨となって地上に降り注ぎます。これが海の始まりでした。
今から43億年ほど前のことです。

この雨にはガス中の塩化水素が多く溶けていたため、最初の海水は
塩酸のようなもので、とても生命の住める環境ではありませんでした。
しかし海に接する岩石から、ナトリウムやカルシウム、カリウム、
マグネシウムなどさまざまな無機物がしだいに溶かし出され、
大規模な中和反応が起こります。その結果として、今のような、塩辛くて、
ほぼ中性の海ができあがったのです。

この海の中で、炭素化合物の一種であるアミノ酸が自然合成され、
そのアミノ酸が集まって作られたたんぱく質から、最初の生命体が生まれました。
アミノ酸の生成は化学反応の一種であり、水の分子のないところでは
むずかしかったと考えられます。またオゾン層の形成されていなかったこの時代、
強烈な紫外線が降り注ぐ地上に、生命体が住むことは不可能でした。やがて、
少しずつ進化した原始的な海中植物の中に、二酸化炭素を取り込んで酸素を出す
「光合成」を行うものが現れたことは画期的でした。この酸素を取り入れて
呼吸する「動物」が出現。その後長い進化の歴史を経て、私たち人間が
生まれたのです。

このように、海は、私たち人間が生まれるずっと前からこの地球に
存在しています。私たちが知りようもない遥か昔の記憶がそこには刻まれて
いるのです。
生命の誕生と死、地球上で繰り返される闘いと破壊、人間の豊かさと愚かさ、
海はすべてを見ています。
私たちは昔から、海に対してある種の浪漫を抱いてきました。
見ることのできない海の彼方に想いを馳せ、様々な夢や伝説を創り出して
きました。
私たちの想像力をかきたてる未知なる海は、たとえて言うなら、母なるガイア
(地球)の羊水。私たちの生命の源がそこにはあるのです。

不思議なことに、お母さんのお腹の中で赤ちゃんを育む羊水は、
ミネラルバランスなどの組成が、古代の海水と大変似ているそうです。
広い海を眺め、波の音に耳を傾けていると自然に心が癒されるのは、
海が私たちのふるさとだからなのかもしれません。

そんな海は、誰もが普段身につけている鎧を脱ぎ捨て、裸の自分に戻れる場所。
そこでは自分を偽ることができません。子供がどんなにウソをついたり
ごまかしたりしても、お母さんには全部ばれてしまうのです。
私たち子供は、母なる大自然には何ひとつ勝つことができません。
今回の台風や地震の爪痕ひとつとってもそうです。
どんなに虚勢を張ってみても、いえ、虚勢を張れば張るほど、ちっぽけな自分が
浮き上がってしまいます。
この夏、そんな自分の弱さを認めて、海に思いきり甘え、私たち生命の源に
帰って、その大いなるメッセージに耳を傾けてみませんか?
夏はエネルギーが解放される季節です。じっくり自分を見つめる時間を持ち、
あなたの内面に手をかけてあげてくださいね。

【2007.7.17 末金典子】

「金融・資本市場は効率的なしくみである」、という資本主義の第一の幻想について議論を続けます。前二稿でコメントしましたが、社会全体で見た場合、付加価値の源である事業会社が、金融業者の利益を実質的に負担するということは、金融業者の利益を事業会社が「余分に」稼がなければならない、と言うことであり、事業会社が資金調達の際に負担する資本コストはその分「割高」であることを意味します。結果として、資本市場の代表的機能である株式上場も、非常にコストの高い資金調達手段です。多くの事業経営者が、株式上場を有効な事業戦略、あるいは成功の証と考え、会社発展の重要な一里塚と位置づけていますが、株式上場が事業に対してどれだけの経済的負担を伴うかという現実を本当に理解している経営者は稀だと思います。

一般に、株式の新規上場を含む時価発行増資は、企業が調達する様々な資本の中でも最も資本コストの高い調達方法ですが、この単純な事実は意外なほど理解されていないようです。それどころか、株式は借入金と違って返済期日や約定金利がないために、コストがゼロだと考えている経営者や、配当が株式の資本コストだと考えている経営者もいるくらいです。本稿は、事業経営における資本コストの本質的な意味と、上場企業が負担する資本コストの実態を明らかにすることで、資本市場の構造を直視しようという試みです。

資本コストの本質
第一に、資本コストは、調達した株主資本に対して、経営者が責任を負う事業収益であることから、実質的な債務と考えられる点です。調達手段が株式か負債かという違いは、本質的なものではありません。負債の場合、あらかじめ約束された期日に返済できなければ債務不履行になりますが、上場株式の場合、資本コストに相当する事業収益が生み出されなければ、株価が下落し、それが長期間継続すると、経営者に対する株主からの提案や、場合によっては経営権取得を前提とした株式の買い付けなどが生じます。負債の債務不履行ほど迅速ではありませんが、長期的には経営陣の交代などによって、実質的に債務不履行とおおよそ同様の結果に至るのです*(1)。株式上場における資本コストとは、それだけの収益を「約束」したという意味で、経営者が出資者に対して責任を負う「借入条件」であり、必要な収益を生み出せなければ立場を失うという意味で、資本市場が上場企業の経営者に課す「みかじめ料」であり、経営者としての職責を全うし、株主に対する「約束」を守るための収益基準であるという意味で、経営者が出資者を裏切らないための必要条件、と言えるのです。

第二に、資本コストは経営者が株主と交わす言外の「約束」事ですが、その約束の内容は、株式の時価発行増資における株価によって規定される、・・・新株発行時の時価総額が、企業にとっての資本コストの負担量を決定するという関係にある点です。新規上場においては、より大きな時価総額と、より多額の資金調達をもたらすため、経営者や証券会社の間では、高い株価での発行が無条件に喜ばれる傾向がありますが、株価(時価総額)が高いほど、株主へ多大な約束を行うことを意味し、その後永遠に続く資本コスト負担が増大し、資本コストのために事業を拡大するという本末転倒が生じ易くなります。目先の資金調達の額と「より良い」売り出し条件に目がくらみ、経営者がより高い発行株価を望むことによって、実質的に実行不能な「約束」を株主にしてしまうケースが後を絶ちません。

例えば、5億円の当期利益、資本コスト10%のA社が上場する際、毎年の適正な利益成長の見積もりが5%であるならば、A社は、5%(資本コスト10%-利益成長率5%)の益利回り、PER20倍の株価、時価総額100億円と評価されます。これに対して、経営者仲間に見栄を張ろうとしたり、証券会社に煽られたり、自分の借金をまとめて返済したいと言った個人的な利害が気になり始めたA社の経営者は、欲を出して、より高い株価で上場しようと思い立ちます。事業計画にそれらしい新規事業を盛り込んだり、事業拡大のペースを前倒ししたり、人件費圧縮のために採用計画を遅らせたりするなど、計画を修正して毎年の利益成長を7.5%と表明することにしました。これによって当期利益5億円のA社の評価は、2.5%の益利回り(資本コスト10%-利益成長率7.5%)、PER40倍の株価、時価総額200億円と、当初の倍の株価で資金調達を行うことができるのです。

企業実体が全く同じでも、将来の利益成長率を僅か(この例では年率2.5%)上昇させただけで、株式の時価総額が倍(100億円から200億円)になるほどのインパクトがあります。A社の経営者にしても、毎年わずか2.5%程度の利益成長なら、ちょっと事業で無理をすれば実現可能であるように思えますし、その程度の違いで時価総額が倍になるのであれば、とてもうまい話ではないかと考えがちです。しかしながら、この発想の第一の問題は、この2.5%の違いによる利益を享受するのが、主に経営者自身(特にオーナー経営者)であるに対して、その差を生み出す原動力は従業員の永遠の努力に依るという、重大なコンフリクトが生じる点であり、第二に、2.5%の利益成長率の差(将来の当期利益の合計の差)は、単年度で比較すると僅かの違いのようですが、長期間では莫大な額になるという点です。当初のファイナンス(5%成長)では、30年間で合計332億円の当期利益が要求されますが、修正評価によるファイナンス(7.5%成長)では、同じく合計517億円の当期利益を生まなければ、株主に対する「約束」を満たすことができず、株価が下落するという考え方です。30年間の資本コストの差額の合計は、実に185億円(517億円-332億円)にも上るのですが、これは、資本コスト計算の分母(時価総額)が100億円から200億円に倍増したことの30年分の対価です。このように、資金調達額の如何に関わらず、A社の上場株価(正確には公募株価)によって、経営者が株主に「約束」する資本コストが332億円から517億円まで変化します。上場株価はこれほど重大な意味を持つものですが、このケースにおいては(そして、このようなケースは余りに一般的ですが)、A社の経営者が、自分の経営者仲間に見栄を張り、自分の借金を返済するという目的のために、自社の全従業員に対して、30年間で185億円の利益を追加で生み出すことを強いているという意味でもあるのです。

ROE 10%
このように考えると、資本コストは経営者にとって極めて重要な経営指標である筈なのですが、書籍を開いても、理論的な枠組みが抽象的に議論されるばかりで*(2)、経営に使えそうな具体的な数値になかなか辿りつきません。色々な情報を総合して、感覚的に捉えると、市場金利の水準や、個別企業によって変化するものの、一般的な上場株式の資本コストは、恐らく8%~15%程度ではないかと思います。結局実務的には、例えば「ROE 10%」と、大雑把ながらシンプルに捉えることが、意外に有効ではないかと思います。ROE(Return on Equity:株価収益率)は、一般に、「来期予想の税引き後当期利益」を「簿価純資産」で割ったものですが、分子が来期の予想利益を基準にしているために、成長率の概念を内包していますし、分母は簿価純資産を基準としているため、短期的な株価の変動に左右されにくく、長期間の経営指標としては、(特に、過剰なレバレッジや、純資産から極端に乖離した株価での時価発行増資がなければ)資本コストと非常に近い数値になると考えられます。「10%」は突き詰めると僕の直感によるものですが、一定の根拠として、(i)日本の上場企業の平均ROEは、かつて70年代におおよそ10%前後で推移した後、80年代から2000年前後までの20年間でほぼゼロ近辺まで低下して底を打ち、2002年以降急上昇しながら、最近は10%前後に回復していること、(ii)日経平均の長期間における配当込み複利年率リターンが12.7%であること(1950年12月末から2000年12月末までのデータ:氏家純一編『日本の資本市場』より)、(iii)英・米・独の先進国では、過去30年間おおよそ10%から15%のレンジで推移していること、(iv)日本が伝統的に低ROEであった要素(株式持合いや様々な規制など)が崩れ、資本の移動が国際化するにしたがって、今後も欧米主要国の水準との差が縮まる傾向にあると予想されること、(v)汎用性のある指標とするために、心持ち低目の水準であること、などがあります。

以上を前提とすると、ROE 10%を(永遠に)継続することが、上場企業の経営者であるための必要条件となりますが、現実的に極めて高いハードルであり、それどころか、この基準を長期間満たす企業は、4,000社の上場企業の中でも、本当に数えるくらいしか存在しません(後述および*(4)参照下さい)。必要条件でありながら、それをクリアできる企業が殆ど存在しないという事実が、資本市場の歪みを象徴しているかのようです。資本コストを満たさなければ、経営者はどこかの時点で必ず株主の期待を「裏切る」ことになるため、現実には株主を裏切らずに経営を行う経営者が殆ど存在しない、ということを意味します。

…以上の議論は、現在あるいは将来の経営者に対する批判や、上場の正否についてのアドバイスなどを行うものではありません。資本市場というメカニズムが、資本の運用者(経営者)に対して要求する収益の水準を明らかにするという趣旨であり、現状認識のアプローチのひとつです。例えば、現在の資本市場は、株主資本を10%で調達するためのメカニズムである、と…大掴みではありますが…考えることができるのです。

サラ金よりもコスト高
上場株式の資本コスト(≒ROE)は企業の当期利益、すなわち税引後利益が基準になっています。したがって、借入れなど、損金参入が可能な資本コストと比較した経済負担は、法人実効税率を40%とすると、実質的に1.7倍近くになります。すなわち、10%の株式資本コストは、借入金利の17%*(3) に相当すると考えることができるのです。ちなみに、17%は利息制限法の上限金利を超過している水準です。更に、株式上場に伴って、その日から永遠に、年間5,000万円から1億円の費用が追加的にかかると言われています。具体的には、株主総会やIRの費用、証券発行費用、各種届出書・報告書作成費用、上場維持費用、公租公課、監査法人、弁護士会計士等費用、IR担当者の人件費、企業統治・コンプライアンスの整備費用などが該当し、更に、コンプライアンスの強化に関する日本版SOX(サーベインズ・オックスリー)法などの導入によって、実質的な費用が上昇する傾向にあります。例えば、新規上場時に50億円の資金を調達した企業は、税前相当の資本コスト8.5億円(50億円×17%)+上場関連費用1億円の費用が生じ、これらの合計は実質的に19%((8.5億円+1億円)÷50億円)の借り入れと同等の経済行為となります。以上の様に、そもそも株式上場による資金調達は、サラ金からお金を借りて事業を行う以上に資本効率が悪い、という側面があるのです。

資本コスト「10%」企業は例外的
株式の資本コストは、企業が上場している期間、複利で永遠に求められる収益であり、理論的には企業収益がこれを下回ると、株価が下がり、最終的には経営責任を問われる性質のものです。しかしながら、資本市場が要求する資本コストを永続できる企業は、数える程しか存在し得ないことが計算上明らかです。例えば、簿価純資産100億円で新規上場した会社が、10%の収益を複利で継続すると、ほぼ50年後には簿価純資産が1兆円を超えますが*(4)、日本の全上場企業約4,000社のうち、簿価純資産が1兆円を超える企業はわずかに40社弱、その40社の中で最も純資産額の小さい企業でも、日立、任天堂、三菱地所など、日本を代表する大企業です。毎年何百と上場する事業会社の一体何%が、将来この水準の企業に成長することができるというのでしょう。

株式上場:まとめ
現在の資本市場において、株式を上場するということは、すなわち:

①新規上場を含む時価発行増資において、目安として「ROE 10%」の資本コストが要求されます。
②「10%」の資本コストは、実質的に17%の金利で借入を行う行為と同等の負担を企業に課します。
③「10%」の資本コストを永続できる企業は実質的にほとんど存在しません。
④時価発行増資の際、特に新規上場において、経営者は企業の成長予測を甘く見積もり、株主に対して資本コストを過大に「約束」し、その負担を従業員の将来の労働に転嫁する傾向があります。
⑤一般に、資本市場が企業に要求する資本コストは、事業実体に比較して高すぎるため、資本コストを賄うために、事業を無理に拡大するなど、経営者は本末転倒の事業経営を強いられがちです。
⑥その結果、あるいはその過程において、労働分配率を低下させ、従業員に対して本来不要な労働を大量に課し、株主に対して多くを語らず、重要な情報を明確に開示せず、あるいは程度の差こそあれ「ごまかし」を行い、粉飾、隠蔽、虚偽記載、不適切な経営行為が横行する、現在の「企業文化」を生み出している可能性があります。
⑦したがって、上場企業はその構造上、その大半の経営者が、多かれ少なかれ、自覚していようといまいと、いずれどこかの時点で、必然的に株主との「約束」やステイクホルダーを裏切ることになる可能性が高いと言えます。
⑧情報開示が四半期ごとに求められるようになり、矛盾する事実の辻褄を合わせるために、更に矛盾点を拡大するという悪循環に陥っています。

つまり、現在の資本主義社会と資本市場のメカニズムにおいて、株式上場は既に「良い金融」(『次世代金融論《その4》』参照下さい)ではなくなっているのです。上場企業の経営者が、ステイクホルダーに対して誠実であり、(金融のためにではなく)事業本位の経営を優先することは、不可能と言わないまでも、非現実的と考えるべきでしょう。多くの経営者にとって、喜びだったはずの株式上場が、四半期決算発表ごとの恐れの種になり、彼らの最大の悩みは「なぜ上場してしまったか」、という笑えない話も耳にします。上場を選択しない大企業の経営者は直感的にこの点を理解しているのですが、上場を選択することの正否は別にして、上場の本質やメカニズムを理解し、資本コストが事業に与える影響を掘り下げて理解することは、多様な観点による経営判断を可能にすると思います。

次世代金融
以上の問題に対して根本的な対処を行うためには、

①現在の株式市場への上場を事業戦略として選択しない、
②資本市場への上場よりも株式資本コストが低く、効率の高い資金調達(次世代金融)を行う、
③資金調達において、自社の成長率を適正あるいは保守的に見積もる、

という選択肢が合理性を持つのです。

『次世代金融論《その3》』でコメントしたように、仮に、社会全体で見た場合、実体経済が金融に対して、全収益の「40%」を費用として支払っているのであれば、次世代金融は、企業の資本コストを10%から最大6%まで減少させる可能性を秘めているのです。6%の資本コストで株式資金をふんだんに調達することができれば、事業はどのように変わるでしょう?

前述のA社は、資本コスト10%、5%成長を前提としたファイナンスの対価として、30年間で合計332億円の当期利益が要求されました。もし、次世代金融市場から要求される資本コストが6%であれば、A社の成長率は1%、30年間で合計174億円の当期利益を提供すれば足ることになります。この資本コストの差額、 …158億円(332億円-174億円)の利益、 …税引き前相当では263億円(174億円÷(1-40%))の費用、 …年間平均では実に8.8億円(263億円÷30年)… を原資とすれば、より多くの従業員を、より良い条件で雇用することができないでしょうか。従業員が、より自分の好きなことに打ち込む機会を得、経営者は、いたずらに事業の量的な拡大を追わず、質の高い商品と正直なサービスに注力することができないでしょうか。

【2008.7.9 樋口耕太郎】

*(1) 安定株主を含み、発行済み株式の50%超を経営者が実質的に保有する場合、確かに法律行為として経営者が解任されることはないのですが、現実には、経営者(一族)が過半数の株式を保有している上場企業は極めて少数派でもあり、十分な企業収益が伴わなければ経営者に対する直接間接のプレッシャーは相当高まるでしょう。資本コストに関する一連の議論は、『トリニティの企業金融論』6~11ページ(II. 資本コスト)を参照下さい。

なお、本稿のテーマは上場会社に関するものですが、未上場会社であっても、株主として事業パートナーを募る際には、本質的には全く同様の法則が適用します。

*(2) 資本コストは、例えばモダンポートフォリオ理論において、ノーベル経済学者ウィリアム・シャープが創案した資本資産価格モデル(CAPM:Capital Asset Pricing Model)によって定式化されています。考え方は非常にシンプルで、①リスクと資本コスト(リターン)は比例する、②株式の資本コスト(Re)は、信用リスクが存在しないと考えられる長期国債の利回り(Rf)に、株式市場のリスク(Rm)、当該株式と市場の連動性(β)の各要素を加味したもの、というものです。

Re=Rf+β(Rm-Rf)

Re: 株主資本の資本コスト (期待総合利回り)
Rf: リスクフリー・レート(一般的には長期国債利回り)
Rm: 株式市場の期待収益率(株式市場全体に対する期待総合利回り)
Rm-Rf: 市場のリスク・プレミアム
β: ベータ値(当該株式と、株式市場の連動性)

定式化されているといっても、変数が定まっているわけではないため、個別株式の資本コスト(Re)がいくらか、という根本的な問いに回答を提供するわけではありません。株式市場のリスク・プレミアム(Rm-Rf)は5~6%と言われながら、決まった数値が存在するわけではありませんし、リスクフリーレート(Rf)も、例えば日本の超低金利環境で10年国債利回りを使用することがどれだけ妥当かという問題もあります。

*(3) 実効税率40%で税金を支払った後の10%の株式資本コストは、損金参入が可能な17%の金利を支払うのと同等の負担と考えることができます。10%÷(1-40%)=16.6666%

*(4) 現実的な想定ではありませんが、50年間配当を行わないという前提で計算しています。しかし、この点を差し引いたとしても、資本コスト10%を永遠に継続できる企業は、数える程しか存在しない、という事実は変わりません。

2008年7月9日現在で、簿価純資産が1兆円を超える日本企業は、トヨタ、三菱UFJ銀行、NTT、三井住友銀行、ソニー、NTTドコモ、みずほ銀行、東京海上日動、松下電器、東京電力、キャノン、ホンダ、JT、日産自動車、デンソー、KDDI、関西電力、三菱商事、7&I、富士フィルム、中部電力、武田薬品、JR東日本、野村證券、新日鉄、豊田織機、三菱重工、三井物産、京セラ、JFE、シャープ、第一三共製薬、ブリヂストン、三菱地所、損保ジャパン、任天堂、住友信託銀行、九州電力、日立、の39社です。(QUICKのデータ、7月9日の株価・PBRより算出)

前回のエントリーでは、資本主義の第一の幻想について、資本主義を支える金融・資本市場の利用コストが高く、お金の流通メカニズムとして非効率であることを指摘しました。社会全体で見ると、付加価値を生み出す主体は実体経済であるため、金融業の利益は、実体経済が稼いだ利益の中から、お金のやり取りに際して生じる「摩擦」分を、実体経済に対して請求したものです。本来、金融は、事業者をサポートする黒子であるときに、最も社会的に寄与する存在ですが、事業者が生み出した利益を流通過程で収受することで、全企業利益の40%(米国のケース)を「稼ぎ出す」金融業の姿は、不健全を通り越して異常事態といっていい程です。2006年度のニューヨーク州調査によると、ニューヨーク市内の証券会社で支払われたボーナスの合計は約2兆8,200億円。社員1人当たり約1,600万円。特に、ゴールドマン・サックスは全世界の社員に平均約7,300万円の報酬を支払い話題になりました。・・・念のために、これは社長でなく、社員への平均支給額です。同年度、ゴールドマン・サックスのロイド・ブランクファインCEOが受け取ったボーナスは約63億円で、ウォール街の最高額を更新したそうです。社会全体で見ると、金融業界の利益の源は事業会社の稼ぎであるため、事業会社はこれだけの利益を負担するために、質の高い実業を行う余裕を失い、不毛なM&Aと、「合理化」と称する大量解雇に明け暮れ、正社員を削減し、従業員を驚くほどの低賃金で酷使することになります。・・・ウォール街の莫大な収益を支えるために、労働者の30%が時給8ドル以下の労働を余儀なくされているような社会システムが、いずれ崩壊するのは必然ではないかと思います。

サラ金からお金を借りて事業をしようとする事業家はいないと思いますが、アメリカは社会全体で見ると、既にそのような状態に陥っています。・・・それどころか、サラ金を通り越して、闇金並みの利率40%を金融・資本市場に払い続ける国が、世界で最も豊かとされているのは、アメリカン・ブラックユーモアなのでしょうか。アメリカは世界に先駆けてこのような金融主導型社会を構築してしまったため、永遠に金融収益を拡大し続けなければならない立場に自らを追い込んでしまいました。国際金融資本はウォール街というマッドサイエンティストが生み出したフランケンシュタインのようなものです。ドルを基軸通貨として好きなだけ紙幣を印刷しても、85年のプラザ合意、95年以降の日本版の金融ビッグバンなどの政治的枠組みで日本市場を草刈場にしても、自国の中産階級を崩壊させながら実体経済を焼け野原にしても、フランケンシュタインの空腹感が満たされることはありません。最近では、グローバル経済・金融市場の構築と、金融工学を駆使した証券化による大量の信用創造などによって、本来価値のない証券にAAAの格付けを付して世界中に大量に流通させ、サブプライム危機をもたらしています。…日本ではこのような社会をモデルとした「構造改革」が、1995年の橋本政権以降、(小渕)-森-小泉-安倍-福田とバトンを手渡しながら急速に進行しています。

良い金融、悪い金融
刃物が人を殺すのではなく、扱う人の問題であるのと同様に、金融もそれ自体善でも悪でもありません。どのような金融が社会的に効率が高く・・・すなわち社会を豊かにし・・・、どのような金融が社会を弱体化させるか、という「良い金融」と「悪い金融」を区別して理解する必要があります。「良い金融」とは事業機会を創出し、実体経済を豊かにするもので、事業のために金融が機能する状態です。「悪い金融」とは事業収益の成長分を金融が収受するもので、金融機能が実体経済の足枷となっている状態です。高い金利が必ずしも「悪い金融」ではなく、事業収益とのバランスが最も重要です。例えば、後述するグラミン銀行の事例のように、人の生活を豊かにする利益率600%の事業が社会に存在するとき、20%の金利で資本を提供する行為は、「良い金融」である可能性があります。・・・それどころか、このケースでは200%の金利を請求しても、債務者の生活を助け、社会的な意義が存在するかも知れません。

成長社会に投下される金融資本は、当初は小額の資金が非常に高い利回りで運用されます。一般に、経済が高度成長から安定成長へ移行するに従って、社会が豊かになったことの証として、社会の事業収支はどこかで必ず大きく低下します。単純に考えて、年率20%で資本が運用されれば、5年で2倍、10年で4倍というように、運用資本が等比級数的に増加して行く反面、社会が経済発展を遂げ、成熟するにしたがって、実体経済における高成長事業はどんどん減少していきます。また、例えば100億のファンドと1兆円のファンドでは、前者のほうが圧倒的に運用しやすいという性質があります。したがって、社会が経済成長を遂げるにつれ、倍々ゲームで増え続ける大量の資本を、成熟した実体経済にそぐわない高利回りで運用せざるを得ないという、ギャップが必然的に生じるのです。社会的に最も合理的な行為は、金融専門家がこのギャップに相当する運用資本を投資家に戻すことであり*(1)、恐らく本質的にそれ以外の解決方法は存在しないのですが、資本主義社会において、資金の量は社会に対するコントロールと自らの存在価値そのもの(『次世代金融論《その2》』ご参照下さい)であるため、現実にそうなることは稀です。次善の策として、資本主義が持続するためには、増え続ける運用資本を高利回りで運用するために、新しい金融市場を永遠に開拓し続ける必要が生じます。ウォール街が得意とする革新的な金融工学と、アグレッシブなバンカーたちによって、資本市場とIPO、ベンチャーキャピタル、債権トレーディング、エマージングマーケット、金融デリバティブ、ジャンク債、証券化、プライベートエクイティなど、創造的な金融商品と市場が大量に開発され続けて来た背景はこのようなものだったと思います。しかし、どこかの時点で、投資家が期待する高利回りの運用が可能な実体経済が、運用資本の量に見合うほど存在しなくなると、投資家はやはり必然的に、そのギャップの額だけ損失を被ることになります。特に1995年を境に、社会全体で見た金融資本の要求利回りが、投資対象となる実体経済の事業収益を上回り、またそのような資本が実体経済の規模を超えて、世界中に大量に流動する状況へと変化しています。これが悪い金融市場の始まりであり、資本主義のおわりの始まりです。サブプライム危機の本質は、このように説明できるのではないかと思います。

社会を豊かにする金融
「貧者の銀行」として知られるグラミン銀行とムハマド・ユヌス総裁が、2006年にノーベル平和賞を受賞しました。事業経営者が平和賞を受賞するのは恐らく初めてではないかと思います。現在、グラミン銀行はバングラデシュの首都ダッカを本社とし、9万人の「乞食」を含む750万人の低所得者に対して、600億円の貸し出しを行うなどの(2008年5月のデータ)マイクロ・クレジット事業を運営しています。1974年、ダッカ近郊ジョブラ村の42人の貧しい職人に対して、ユヌス教授が貸し付けた27ドルから、グラミン銀行の事業が誕生します。以来、「信用力」が乏しいと言われる貧困層に対して、無担保融資を実行しながら、返済率が98%を超えるなどの実績を伴って驚異的な成長を続けています。グラミン銀行は、それ自体が、資本主義と金融業の常識がいかに恣意的なものであるかを実証する存在でもあり、グラミン銀行の事業・・・特にその成り立ち・・・を考察することで、金融機能の本質・・・「良い金融」・・・についてのインスピレーションを受けることが可能ではないかと思います。

ユヌス教授が米国から帰国し、農村部の大学で経済学の教職に就いた1974年、バングラデシュは深刻な飢饉に見舞われました。飢餓のために大量の人が瀕死の状態にある中、この環境とは見当違いの経済理論を教えることに大きな矛盾を感じ、経済学者としてではなく、人間として何かできることはないかを真剣に考え始めます。例えほんの少しずつであっても人々の生活が昨日よりもよくなる方法を見出す努力をしたいという観点に立つと、人々の生活の現実を直視することができるようになります。村々を自らの足で巡り始めたある日、ある荒れ果てた家の前で、美しい竹細工の椅子を作っているにもかかわらず極めて貧しい経済状況にあるソフィアという女性との出会いがありました。ユヌス教授はそんなに美しい竹製の椅子を作っているのに、なぜ彼女がそれ程貧しい状況を脱することができないのかについて理解したいと考えました。

1970年代当時、単純な日雇い労働でも1日20セントになるのに、ソフィアの椅子製作で得られる稼ぎは1日2セント。わずかの稼ぎはぎりぎりの生活費に消え、貧しい生活から永遠に抜け出せないという循環が出来上がっていました。貧しいソフィアには材料の竹を買う20セントがなかったため、商人から材料代を借りざるを得ず、貸付の条件として、仕上がった椅子を言い値(22セント)で商人に売らされていたためでした。もしソフィアにわずか20セントのお金があれば、そのお金で材料の竹を購入し、マーケットで自由に販売することでその何倍もの利益を手にすることができます。この事実を知ったユネス教授は、材料代をソフィアに貸し与え、そのお金で商人へ借金を返済し、完成した椅子をどこでもいいから一番高く売れるところで売るように説得しました。その結果、ソフィアの毎日の儲けが1ドル25セント、以前の60倍に増えたのです。椅子の市場価格は、儲けの額に材料費20セントを加えた1ドル45セントと推測できますが、商人はソフィアへ材料代の20セントを貸し、完成した椅子を彼女から22セントで買取り、マーケットで1ドル45セントで売却していたとすると、ソフィアに対して実質的に1ドル23セント、すなわち1日615%もの金利を課していたことになります*(2)

ユヌス教授は常々教室で、多額の投資を伴う開発計画やバングラデシュの経済状況や貧困状況を改善する方法について教えていましたが、ソフィアに会うまでは、1ドル足らずのお金がないために苦しんでいる多くの人の存在を知りませんでした。更に調査を進めるうちに、貧困層各家庭の借金が平均1ドル以下であることがわかり、たった1ドルで彼らが貧しい生活から脱却することができるのだという事実にたどり着きます。ユヌス教授は自分のお金を村人に差し出すことも考えましたが、それでは根本的な解決にならないと思い直し、大手銀行に対して、貧しい人への貸し出しを願い出ます。自分が保証人になるなどしてようやく借り入れたお金を貧困層に貸し付け、目を見張るほどの返済実績を何度銀行に示しても、銀行は「貧しい人は信用に値しない。彼らがお金を返せるとは思えない。」という理由で直接の融資プログラムを検討しようとはしませんでした。結局ユヌス教授は、1983年に貧困層向け融資を行うグラミン銀行を自分自身で創設するに至ります。ユネス教授が実感したことは、貧しい人々に適正な条件で資金が提供されるなら、彼女たちはそれ以外の手助けがなくとも生産性の高いビジネスを始めることができる、ということです。

「良い金融」は優れた事業戦略
グラミン銀行の事業は、貧困を減らすための現実的な行為として世界中から賞賛され、注目されていますが、金融メカニズムの観点から事業成功の鍵を分析すると、実体経済の現実を理解し、その現実とバランスの取れた「良い金融」を社会に提供したという、基本的なことではないかと思うのです。逆に考えると、グラミン銀行がこれほど注目されていることの裏返しとして、「良い金融」を実行する金融専門家が社会に殆ど存在しなくなっていること、そして、より重要な点として、「良い金融」は高い事業性を生み、金融事業戦略として非常に有効な選択肢であると言うことです。

【2008.7.2 樋口耕太郎】

*(1) そして恐らく、資金を戻された「投資家」は、その資金を再投資ではなく消費する必要があります。

*(2) グラミン銀行とムハマド・ユヌス氏に関する記述は、ムハマド・ユヌス+アラン・ジョリ著『ムハマド・ユヌス自伝』、坪井ひろみ著『グラミン銀行を知っていますか』、ニコラス・サリバン著『グラミンフォンという奇跡』、2005年1月26日東京大学でのムハマド・ユヌス氏による講演録、グラミン銀行ウェブサイト、などを参照しています。

資料のデータが一部不足しているためにはっきりしないのですが、ユヌス教授から資金を借りたソフィアは、1日に2つの椅子を作るようになり、1ドル25セントの儲けは椅子2つ分だったかも知れません。その場合でも、商人はソフィアに対して1日300%を超える金利を課していたことになります。

お元気ですか?

実は、私、先月病気で倒れてしまいました。
仕事お休みさせていただくこと1ヶ月と2週間。
その間、多くの方に大変御迷惑をおかけしてしまいました。
本当にごめんなさい。でもおかげさまで、今日より、ようやくまた、
元気に再開させていただくこととなりました。

何の病気に罹ったかと申しますと、皇太子妃・雅子様が罹られて有名になった
「帯状疱疹」という病気なんです。この病気、御存知でしょうか?
私達が小さい頃にかかった水ぼうそうのウイルスは、実は長い間体に潜んでいて
よほどの疲労や大きなストレスが溜まった時に、免疫力が落ち、そのウイルスが
また復活するのだそうです。
そしてそのウイルスは、神経節から出て活動を再開し、皮膚に帯状の水ぶくれを
つくります。この水ぶくれ自体はそんなに激しい痛みではないのですが、
厄介なのは、体中の神経に直接針で突き刺されているような疼痛や激痛が、
体中を24時間襲うことなんです。
また、首から上にこの疱疹が出てしまうと、顔面神経痛や失明、聴力への影響が
出るなど大変恐い病気でもあるそうです。

この厄介な病気に私も罹ってしまい、仕事を5月11日から6月25日まで
お休みさせていただいていたという訳なのです。
この間にご連絡をくださった方、本当にすみませんでした。
御迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。
また、たくさんの温かい励ましやお見舞いのメール、お電話など
本当にありがとうございました。

20代の頃よりの2足のわらじ生活。睡眠時間も4時間あればいいほうという
毎日でした。気が緩むお正月休みやゴールデンウィークにはどっと熱が出たり
寝込んだり、ということがあったとはいえ、大きな病気もせずに
頑張ってこられたことが健康への過信となっていたのかもしれません。
長年の疲れやストレスを、その時その時で、自分ではしっかりと
解消していたつもりでも、実はどっさりとたまっていたのかもしれません。
それに、今やもう、ちょっぴり(!)ですがトシでもありますし…。
だからちょっとショックでもあり、ビックリもしました。
そういえば去年のこの月も4日間ほど寝込んでしまっておりましたっけ。

それにこの帯状疱疹。痛いなんてもんじゃぁありません!!!!!
神経に直接針で突き刺されているような痛みですから、
高圧電流をバシッバシッと流されているような鋭い痛みが1日中続きます。
疱疹が出始めて72時間以内に治療を開始した私でこうなのですから、
治療が遅れた人になるとさらに痛みが激しいらしく、麻薬を処方される
そうです。前兆としては、体のあちこちがピリピリッと痛みます。
思い当たる方は、是非すぐにでもゆっくり休養なさってくださいね。

というわけで、このお休みは激痛に耐えに耐えた辛い毎日でした。
でもこうも思いました。
このウイルスが出てくれたからこそ、自分の体のSOSに気付くことが
できたんだと。
もっと大事に至っていたかもしなかったんだと。
「痛み」ということだって、イヤなことだけれど、
仮に、人がもしも「痛み」というものを失くしてしまうことができたとすると
どうでしょう?
ストーブなどに触ってしまっても、痛みがなければ、そのまま手を焼き続けて
しまいます。
体をケガしても病気をしても、痛みがなければ、
気付かなかったり、放っておいてしまったりして、腐ったり、死んでしまったり
するのではないでしょうか。
そう考えると「痛み」を感じるということはとても大切なことですよね。

あなたも痛いところはありませんか?
心は悲鳴をあげていませんか?

しっかり感じてあげてください。
しっかり耳をすませてあげてください。

自分の感覚を感じることができたり、
自分の声を聞くことができる人は、自分だけなのだから。

ところで、
このお休みの後半は、人間ってこんなに眠ることができるの?!というぐらい
眠りに眠り、ベッドでず~っと横になっていたり、ぼ~っとしていたり。
すると、何故か子供の頃のことをたくさん思い出しました。
夢にも同じシーンが出てきました。

おばあちゃんの家の近くにかなり大きな池がありました。
にわか雨が通り過ぎると、あたりは池のつづきのように濡れ、
そこには子どものころせつないほどわくわくした、あの「夕方」がありました。
「雨やんだ。行ってくるね」
そう言っておばあちゃんの答えを確かめる間もなく、家を走り出た気持ちを
思いだします。
水面に、小さな黒いものが浮かんで、いえ、浮かぶというよりは、
すべっているといったほうがいいかしら。とにかくたくさん泳いでいるそれは、
「アメンボ!」
古い友だちにばったり出会ったような懐かしさです。
「元気だった?」
小学校の理科の時間に、アメンボのような虫たちが、水に浮かんで泳ぐのは
「表面張力」によるのだと教わりました。理科はからきしだめでしたが、
水に棲む生物、それからアメンボやミズスマシみたいにか弱いけれども
きっぱりした生き物に興味があったので、「表面張力」のことはおぼえています。
大人になってからは、グラスにビールをなみなみと注いでもらって、
「やあ、表面張力だあ」
なんていうときしか思いださなくなりましたが。そうでした。表面張力は
アメンボやミズスマシにとって必要欠くべからざる環境条件なのでした。
(アメンボみたいに生きたい)
ふとそんな思いが湧きました。
なんでも力ずくで片づけようとしないで、肩肘張って頑張り過ぎないで、
肩の力を抜いて、深呼吸して、そして、
表面張力みたいな自然な力を頼みにしたいな、と思ったのです。
スーイスイって。

誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を、慈しんであげてくださいね。
感謝して大切に扱ってあげてください。
そしてどうか心のどんな小さな声も聞き、
大切に、大切にしてあげてくださいね。

いつもあなたがお健やかでいらっしゃいますように。

【2008.6.26 末金典子】

資本主義の第一の幻想: 「金融・資本市場は効率的なしくみである」、は資本主義を支える金融・資本市場のメカニズムが、著しく、といって差し支えないほど非効率であるという大問題の裏返しです。

金融とは、資本を余分に保有している人から、資本を必要とする人に融通する、お金の流通機能です。効率的な金融とは、流通コストが低く、投資ニーズと運用ニーズがうまくマッチングする仕組みであるべきです。突き詰めて考えると、世の中の金融資本の大半は個人が保有しており、その資本を最終的に運用する主な主体は企業ですので、1,500兆円といわれている日本の個人金融資産を、できるだけ流通費用をかけずに、可能な限り直接企業に提供するしくみが、最も効率的な金融市場のイメージといえるでしょう。これを前提とすると、例えば、社会的に効率の高い証券取引市場は、個人投資家が極小額の売買委託手数料、運用委託手数料、投資顧問料(および税金*(1))で、株主利益を享受できるものといえます。別の表現では、企業の税引き後利益の額を、可能な限りそのまま個人株主に分配するメカニズムが、効率の高い、社会的に理想的な金融機能です。世の中の金融専門家が喧伝する株式投資の「常識」とはかなり結論が異なりますが、(i)専門家に運用を任せず、(ii)流動性が極小で、(iii)超長期の、(iv)直接投資・保有を行う個人投資家が増加するほど理想的な金融機能を果すわけで、逆説的ですが、現在の金融機能そのものの極小化が最も金融効率を高める、ということを意味します。・・・この件は後に詳述します。

40%の手数料
上記(i)~(iv)は、金融業の常識を知る人にとっては馬鹿げた議論に聞こえるかも知れませんが、現実に投資家と企業が実質的に負担している巨額の金融流通コストを直視すると、それ程非常識な論点ともいい切れないことがご理解頂けるかも知れません。現在の証券取引市場のメカニズムでは、企業の税引き利益が個人投資家に届くまでに・・・非常に大掴みの推定ですが・・・ざっとその40%*(2) 前後が金融専門家の手数料として消えてなくなるイメージです。例えば、5億円の税引き後利益(当期利益)を生み出す上場企業A社があります。A社の株価が、ごく平均的に、当期利益の20倍(PER20倍、益利回り5%)で評価されるとすると、株式時価総額は100億円(5億円×20倍)です。このとき、A社株式の年間売買回転率が100%、平均売買手数料が往復1%とすると*(3)、株主が支払う株式売買委託手数料の合計額は年間1億円です。更に、生命保険、損害保険、年金、投資信託などにお金を預けている人は、恐らく自覚もないままに、金融専門家を通じてA社株式を保有しています。運用報酬を毎年投資額の1%支払うとすると*(4)、ここでも株主全体で年間1億円。先の株式売買委託手数料と合計して2億円が「流通」費用として資本市場に吸い取られるイメージです。金融専門家たちに支払われる2億円という額は、A社が1年間の事業活動で稼ぎ出した税金支払後当期利益の実に40%に相当し、個人投資家に渡るお金は残りの60%に過ぎません。

・・・株式投資でお金持ちになる人は殆どいない、あるいは「個人投資家の9割は損をする」と言う人もいますが、個人投資家には始めから「40%」のハンディがあるとすれば、むしろ当然と言えるかも知れません。株式投資は「高リスク」という一般的な認識は、全く正しいといえるのですが、これは必ずしも株式という資産がリスキーなのではなく、資本市場というメカニズム(あるいは金融専門家)が株主のリスクを高めているだけなのかも知れません。そして、既存の資本市場がこれほど非効率であれば、新たな概念でより効率の高い市場を生み出すことは、実は容易なことではないかと思うのです。

株式の流動性について
現在の株式市場は出来高の多い(つまり売買回転率の高い)銘柄や、機関投資家が上位株主を占める銘柄が優良とされており、上記の議論とは文字通り正反対の価値観が市場参加者の常識とされています。しかしながら、一般的事実として、誰が株主かということ、すなわち株主の質は企業経営に非常に大きな影響を与えます。出来高が高いということは、毎日大量の株主が会社を離れていくということを意味します。本来最も重要な事業パートナーである株主が、毎日頻繁に入れ替わり、事業を深く理解せず、短期的な株価の変動が最大の関心事であるような会社と、事業に誠実な関心を持ち、長期的な企業の成長を応援する会社では、根本的な点において何かが決定的に違う筈です。これは未上場企業であれば常識的な発想なのですが、上場会社に同様の原理が適用すると考える経営者は意外なほど少ないようです。上場会社であっても、株主の質に注意深く意識を払い、好ましい株主と長期的で良好な関係を維持することは重要な経営課題ではないでしょうか。このような考え方に基づくと、もちろん無条件ではないにせよ、事業的な観点からも、株の売買は活発でない方が好ましい、流動性は少ないほど好ましい、という発想が可能です。常識はずれの考え方のようですが、世の中には大成功事例が存在します。バークシャー・ハサウェイ社(ニューヨーク証券取引所にて上場)はその時価総額(株式時価総額は約20兆円超)に比較して著しく売買高が少ない企業です。その株主は、驚くべきことに毎年その98%が前年と同じメンバーであり、株主の恐らく90%はバークシャー株式が最大保有銘柄である投資家によって所有されており、実質的に大半の株主は個人であり、機関投資家の保有比率はこの規模の他者と比べても例外的に小さい、という特殊な株主構成を有しています。個人投資家が長期株主になることを選択するのであれば、機関投資家を通さずに直接の株主になった方が、圧倒的に経済効率が高いということは言うまでもありません。この件に関するより詳細な議論は2007年4月1日のエントリー『トリニティの企業金融論』31~40ページ(VII. 株価、時価発行増資、配当政策、IR)を参照下さい。

金融主権社会の弊害
金融が実体経済よりも重要視される社会は、尻尾が胴体を先導する犬のようなものです。企業の事業活動と付加価値の創造に直接寄与しない金融専門家が、事業活動から生まれた最終果実の「40%」を受け取るような市場メカニズムは、金融が本来果すべき、事業の黒子としての役割を完全に逸脱しています。米国では、2007年時点で全民間労働人口の5%を占めるに過ぎない金融セクターが、企業利益全体の40%、株式時価総額の20%を占めています*(5)。一義的に富を生まない金融セクターが、全米企業利益の40%を占めている現状は、企業の税引利益の「40%」を流通手数料として吸い上げる資本市場の姿に呼応するかのようです。

金融専門家に税引き後利益の「40%」を支払うということは、企業にとっては「40%」余分に収益を、しかも税引き後の収益を上げなければならないということを意味します。より高い事業収益を迫られた多くの企業は、(i)M&Aや事業の拡大再生産など、資本の力を借りて収益を押し上げようとするか、(ii)労働者の賃金を減らし、より濃度の高い労働を要求し、正社員を減らし、労働分配率を下げることで事業収益の帳尻を合わせようとします。マッキンゼーが2001年に米国で行った調査では、ウォルマートが「経営革新」の模範例とされていますが*(6)、後者(ii)の典型例でしょう。組み立てラインの運転時間を短縮し、仕事量を倍にし、休憩時間を短縮すれば、確かに名目時間当たりの生産性は上がります。つまり、より少ない賃金で、より多くの労働力を引き出す「鬼」のようなやり方が、優れた経営として評価され、権威ある「識者」によって礼賛されているのです。そのような経営手法の社会への広まりなども寄与して、全人口の5%が60%の富を保有する反面、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働く(1998年経済政策研究所のデータ)格差社会構造が生まれ、かつて世界中の羨望の的であった米国の中産階級は壊滅状態となりました。中産階級の平均所得の増加が止まってから久しく、米国の世帯は長い間、共働きと持ち家価格の上昇によってこの状況に対応してきました。僕も、少なくとも1990年代前半に、米国では専業主婦が女性にとって相当のステイタスであることを知って驚いた記憶があります。1997年7月以降のサブプライム危機は、大恐慌以来の金融危機であるとして世界中から注目されていますが、それ以上に、米国中産階級の息の根を止める最後の決定打になったことが、より本質的かつ重大な点であり、遠からずその事実が痛みを伴って顕在化するでしょう。

【2008.6.25 樋口耕太郎】

*(1) 税金は本来社会に還元されるものと考えると、各種税金(株式売買に付随する委託手数料への消費税、登録免許税、譲渡益税、配当課税など)の支払いは、社会全体から見ると必ずしも市場の効率を下げるものではありません。その意味で括弧にて表現しています。最も昨今の税金の使われ方を見るに、括弧ははずした方がよかったか、とも思いますが・・・。

*(2) 本稿で表現している通り、企業当期利益の「40%」という比率は、非常に大掴みな推定値です。市場環境によっても大きく変動するなど、正確な算定は事実上不可能と思い、乱暴に推定しましたが、そのためカギ括弧にて表現しています。僕の感覚では、当たらずといえどもそれ程遠からず、わずかに誇張気味かもしれませんが、現実のイメージを、おおよそ伝える水準ではないかと思います。税引き後利益に対する比率は、高PER銘柄については過小評価されることになります。なお、PER20倍は日本の株式市場の長期的推移から勘案すると、比較的保守的な水準ではないかという感覚です。

なお、株式のような変動商品に関する「40%」に対して、銀行預金、MRF、生命保険、年金などの確定利回り商品は更に非効率です。例えば日銀が発表している2008年4月の国内銀行の平均貸出金利1.92%に対して、5月末の店頭表示預金金利は、最も金利の高い1,000万円以上10年物定期で0.86%となっています。預金には多様な期限がありますので、銀行全体の平均預金金利がこの利率ということはあり得ませんが、仮にこの数字を採用しても、企業が銀行へ支払う金利費用の65%以上、平均預金金利を大掴みに0.5%と推定すると、実に74%が銀行への対価として支払われていることになります(もちろん銀行は預金者に対して流動性と確定利回りを保証しますので、考え方としては、銀行が受け取る収益の中には、債務者の信用リスクを銀行が負うことの対価も含まれていることになりますが、ここではその点は無視しています。また、低金利環境化においては金融専門家に対する分配「比率」が高めに算出される傾向はあります)。

また、6月23日現在の野村證券のマネー・リザーブ・ファンド(追加型公社債投資信託)は、予定利率0.378%に対して、信託報酬1%が請求されるため、単純計算では、やはり約73%(1%÷1.378%)が金融専門家への手数料として支払われます。それにしても、分配利率0.378%の投資信託の運用報酬が1%というような商売が存在すると言うこと自体驚きです。恐らくこれ以上金利を高くすると、銀行預金から大量の資金流出が生じることを防ぐための、一種カルテル価格ということだと思いますが、良い悪いは別にして、既存の金融市場の非効率さを象徴するような商品だと思います。

*(3) 証券取引市場で支払われる売買コストは、取引金額(出来高)×手数料によって決まります。株式売買委託手数料はネット証券の登場によって、著しく低下しましたが、市場平均出来高は近年急上昇していること、などを勘案して大掴みに推定したものです。

*(4) A社株主の大半がこのような機関投資家だとした想定ですが、もちろんこの想定は現実的ではありません。ただし、生命保険、年金、更にこれらの機関投資家がヘッジファンドやファンド・オブ・ファンズ経由で投資する株式などを勘案すると、金融専門家への委託報酬は投資額の1%を遥かに上回るケースも少なくありません。これらをざっくり織り込んで、時価総額の100%に対して1%と便宜的に推定しました。

*(5) “Wall Street’s Crisis” The Economist, March 19, 2008 print edition.

*(6) 『クーリエ・ジャポン』2008年3月号、バーバラ・エーレンライクのコラムより。本稿では、別途彼女の著書『ニッケル・アンド・ダイムド』も参照しました。

『第三の波』『パワーシフト』などの著書で知られる未来学者アルビン・トフラー氏は、近著『富の未来』*(1) で、「資本主義は基本的な性格の見直しを迫られているが、この「見直し」は、資本主義の根本に関わる革命的な変化を伴う。その後、残ったものは資本主義と呼べるのだろうか」、という趣旨のコメントをされています。この現象を「資本主義の崩壊」*(2) と呼ぶべきかどうかは議論が分かれそうですが、いずれにせよ、近年、特にサブプライム危機をきっかけに、一部の識者が真剣に懸念する政治経済のテーマになろうとしているのではないかと思います。

「崩壊」の引き金
1990年代の中頃以降、グローバル金融の拡大とボーダーレス化によって、今まではいくつもの「商品ブロック」と「地域ブロック」に分かれていた金融市場が一気に繋がり、事実上一つの「グローバル金融市場」が生まれようとしています。国際金融資本にとっては事業機会を大幅に増加するという(目先の)利点があるかも知れませんが、大量資本の流動性と価格変動が、大きく、かつ一様になるため、市場暴落に伴う金融危機の規模も拡大の一途となっています。

1990年代前半までの金融市場は、例えば米国では、ジャンク債市場の崩壊と帝王マイケル・ミルケンのドレクセル・バーナム・ランベール証券の破綻(1990年)、ジャンクボンドを買い込んだ貯蓄貸付組合(S&L)の大量破綻、1980年代後半から1990年代前半の不動産大不況、預金保険制度の崩壊と整理信託公社(RTC)による大量の不良債権処理、ゴールドマンサックスが破綻に瀕した住宅モーゲージ証券の暴落(1994年)、などはいずれも大規模とはいえ、内国市場の問題でした。しかし、1990年代の半ば以降、1997年のアジア通貨危機では規制の緩い地域で設立されたオフショア・ヘッジファンドが強く関与していたことが注目され、1998年8月のロシア金融通貨危機でアメリカの商業不動産の証券化市場が崩壊し、ドリームチームといわれたヘッジファンド、LTCMが破綻するなど、地球の裏側にある、全く種類の異なる市場のクラッシュが、一瞬にして別の市場に飛び火する現象が起こり始めます。グローバル金融市場の広がりと同時に暴落規模も驚くべきスピードで拡大し続けています。日米市場で連動した2001年のネットバブル崩壊、2007年7月以降のサブプライム危機は、1990年代のクラッシュと比べても破格に巨額の損失を生み出しています。更に問題なことは、市場が暴落するたびに、公的資金の拠出がほぼ習慣化してしまっていることで、これは、資本主義社会が誇る金融市場が、既に自立機能を持たないということを自ら証明しているようなものです。サブプライム危機の発生から1年近くが経過してもなお、ユーロおよびウォール街のインターバンク市場は各国中央銀行の介入なしでは機能していません。実質的に市場メカニズムが破綻し、各国中央銀行によって運営されているような状態です。

90年代中以降のグローバル金融の変容は、ポーカーゲームで負けるたびに掛け金を倍増して、損失を取り戻そうとするギャンブラーに似ています。この戦略は、資金が無限にある限りは損を取り戻すことができます。グローバル金融市場も、今のところクラッシュのたびに中央銀行や各国の協調によってシステムを辛うじて維持している状態ですが、今後益々市場が広範囲に繋がり、一様に価格変動し、巨大な資金が国境を越えて大量・高速に移動する傾向が継続すると、どこかの時点で・・・それも近い将来・・・中央銀行や公的資金が支えきれない水準のクラッシュが生じることは、必然ではないかと感じられるほどです。本来、実体経済を助ける黒子であるべき金融機能が、90年代半ば以降、すっかり国際経済の主役に躍り出ていますが、血液が決して体の代わりにはならないのと同様、金融が主役の経済は決して長くは続きません。金融が実体経済を振り回す本末転倒は、いずれ、経済全体を崩壊に導く原因となるでしょう。それはいつでしょうか。サブプライム危機が、その引き金なのでしょうか。

資本主義と金融市場
仮に、資本主義を、「資本の量が、物事をコントロールする社会の仕組み」と単純に考えてみます。キーワードは、「資本の量」と「コントロール」です。この定義に基づくと、例えば、「会社は株主のものである」という価値観が力を持つ社会は、より資本主義的といえます。そのような社会における会社は、組織であると同時に資産であるため、財務的・社会的・組織的機能は、いわゆる「資本の論理」によって決定されます。金融グローバリゼーションに伴って、企業金融の資本提供者が、商業銀行の貸付(デット)資本から資本市場やファンド資本(エクイティ)へ移行し、それに伴う企業買収が増加する傾向は、資本による企業への影響力の高まりであり、資本主義的だといえます。債権譲渡による不良債権処理は、債権を資本に転換する効果があり、資本主義的な活動です。人材派遣業の急増と労働分配率の低下は、社員の権限を株主に移転する効果があり、これも資本主義的な変化です。更に、この考え方は経済界以外にも適用可能です。日本の政治は選挙による代議制であるため、その意味では資本主義的ではありませんが、選挙に勝つためにお金が必要とされるほど資本主義的と言えます。選挙地盤は金銭価値に転換できるのれん資産と考えることができるため、二世・三世議員の増加は、より資本主義的な政治体制ということになりますし、政治が資金を投下してメディアを利用しようとするほど資本主義的になります。このように、90年代後半以降日本社会で急速に進行した、金融ビックバン、グローバル金融、厳格な不良債権処理、投資銀行と直接金融中心の市場原理至上主義、活発なIPOやストックオプションの広まり、プライベートエクイティの影響力増大、株主主権の企業統治、金融利権政治、二世・三世議員の増加、劇場政治とメディアコントロールなどはいずれも資本主義的*(3) であるという共通点を持ち、この時期以降の金融グローバリゼーションと日本社会の変容をうまく説明できるような気がします。・・・この点も後述します。

さて、現在のグローバル金融・資本市場において、お金を大量に保有する主体は、自ら資本を保有する「資本家」とは限りません。80年代以降、株式市場の主体が個人から機関投資家に大きく変容した機関投資家現象、更に90年後半以降、IPOブーム、プライベートエクイティなどのファンド、ノンリコースファイナンスなどが大幅に拡大したことによって、二十世紀前半に想定されていた「資本家」とは全くイメージの異なる金融専門家が大量の資本を管理するようになり、グローバル金融の主人公とも言える、国際金融資本が生まれます。投資銀行やユニバーサルバンクなどの大手金融機関で働く金融専門家はもちろん、一個人が大きな組織の後ろ盾を必要とせずにヘッジファンドやプライベートエクイティの運用会社を設立し、莫大な資金を運用することも一般的になりました。昨日まで証券会社で働いていたエリートサラリーマンが、何の歴史もない新会社を設立すると同時に、かつての自分の顧客から数百億円の資本運用を受託すると、ノンリコースローンの貸し手は、この何の実績もない会社に対して、取得資産のみを担保に大量の資本を貸し付けます。

このような国際金融資本の大きな特徴は、投資収益率が資本の額・・・すなわち社会における影響力の度合い・・・を決定することです。運用資産、運用方針、市場環境、個別事情などによって非常に大きな差があるため、実体はそれ程単純ではないのですが、誤解を怖れずに大雑把なイメージで表現すると、年率15%で運用する金融専門家には100億円、20%で運用する者には1,000億円の資金運用が任される感覚です。このため、国際金融資本とそれを運用する金融専門家にとって投資収益をいかに高めるかが、自らの存在意義に直結する最優先課題となります。このような金融専門家は、ファンド、M&A、資金調達などを通じて、大量の不動産、企業資産、企業経営に大きく関与し、資本主義的な存在といえます。そして、彼ら金融専門家が大量資本を調達する場がグローバル金融・資本市場であり、特に90年代後半以降、このグローバル金融・資本市場が現在の資本主義制度を支える重大な要素、という関係が成立しており、グローバル金融・資本市場がどのように変容するかが、資本主義制度の将来を決定付けるという構造になっていると言えそうです。

資本主義の四つの幻想
ところが、このような「資本の量が社会の物事をコントロールする」、すなわち、「グローバル金融・資本市場が主導する」資本主義は、その存続に関わる重大な欠陥を抱えていると思います。90年代前半に突然崩壊した社会主義体制は象徴的な事例ですが、全ての社会制度は、それがどれ程頑強に見えるものであっても、社会を豊かにしない、という矛盾が顕在化した時点で、容易に消滅します。人間が作ったもので永遠に続いているものはありません。資本主義だけが永遠に続くと考える理由はあるでしょうか。逆に考えると、矛盾を内包する社会が存続・成長するためには、そのシステムが効率的で、社会を豊かにする、という幻想が不可欠であり、現在の資本主義は四つの幻想によって支えられています。

①金融・資本市場は効率的なしくみである
②競争原理が社会の効率を高める
③経済成長が社会を豊かにする
④富の蓄積が社会を豊かにする

それぞれについて本稿で詳しく後述します。

・・・本稿での議論の一切は、例えば「資本主義は悪である」といったような、政治的主張や制度批判、資本主義崩壊の予言、その他の個人的な主義主張や隠れた意図とは無縁のものです。本ウェブサイトの内容の一切に関して一貫するテーマは、「最も効率的な事業経営に関する経営科学的な考察と分析」です。最も効率的な事業経営の実現において、現実を直視し、将来の社会・市場変容を予測する作業は重要な要素であり、本稿の議論はそのための現状認識の一つのアプローチです。また、本稿の現状認識が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。

【2008.6.21 樋口耕太郎】

*(1) アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著 『富の未来』、山岡洋一訳、講談社、2006年6月など。特に下巻第8部「資本主義の将来」には、興味深い記述があります。

*(2) 資本主義の崩壊という表現には様々な語弊があることは事実です。二十世紀の二大社会システム、資本主義と社会主義は、いずれも政治と経済が不可分として成立したため、資本主義の「崩壊」という論調は、国体・政治・社会 制度の革命として捉えられがちで、歴史上革命に付随する血なまぐさい内戦・粛清・混乱が連想されがちです。 またこのフレーズは、怪しげな占い師や、宗教家や、金融詐欺師のセールストークに多用されたり、それらに比べると幾分まともなものであっても、売らんがための雑誌見出しや書籍マーケティングのコピーなどに使われることが少なくありません。本稿では、「資本主義の根本的な性質の変化、すなわち、資産の概念、 資本の概念、企業 の概念、組織の概念、通貨の概念、金利の概念、市場の概念、金融の概念、などの本質的な変容」という意味において使用しています。

ちなみに、論証のための事例というよりもイメージに近いのですが、現代においては政治と経済の体制変化が必ずしも連動しないケースが多く生じています。ベルリ ンの壁崩壊(1989年)と東西ドイツ統合(1990年)、ソビエト連邦崩壊(1991年)、中国における、鄧小平の改革開放政策(1978年)、社会主 義市場経済政策(1992年)、香港返還(1997年)と一国二制度の社会変動、などをみても、社会制度や政治的な枠組みの革命的変動がなくても・・・す なわち、内戦などの社会的な混乱を伴わなくても、経済制度が「一瞬」といって差し支えないほどの短期間に一変することは、それほど特別なことではありません。

ポスト資本主義の環境を想像する際、社会主義でなければ資本主義、資本主義が崩壊したら新しい社会制度、というほど単純でもない筈です。例えば、日本は「世界で最も成功した社会主義国」と揶揄されることがありますが、この表現はそ れ程的外れではありません。現在の中国が社会主義国家であるということを社会実体からうまく説明することは困難ですし、マルクス主義国家として成立した旧ソビエト連邦と、アメリカ帝国主義へのアンチテーゼとして革命を成就し、当初は必ずしも意図していなかったにも関わらず、結果として社会主義国家体制を選択したキューバではその中身は大きく異なるでしょう。日本でも90年代後半以降、グローバル金融市場の拡大と時を同じくして、社会的な格差が急激に拡大しはじめるなど、実質的な社会変容が大きく進んでおり、「世界で最も成功した社会主義国家」の看板を下ろさざるを得ない状況になりつつあるようです。恐ら く、ポスト資本主義の社会体制も決して一様ではなく、また、右から左へとページを捲るように移行するものでもなく、社会的・歴史的・文化的・経済的な背景ごとに個別のペースで様々な変容を遂げるのでしょう。

少なくとも日本においては、資本主義国家の政治的、外形的な体制を残したまま、その経済・社会構造が本質的・根本的な大変容を遂げるということかも知れません。現在の非効率なグローバル金融・資本市場の欠陥を補うような次世代金融システムが芽生え、社会で機能し始め、やがて国家財政あるいは中央銀行の機能不全、大手金融機関、国際金融資本の大量破綻、実体経済の構造不全などをきっかけに、その主体が加速度的に交代して行くようなイメージです。・・・ドミノが倒れるように。

*(3) これに対して、かつて日本社会の特徴といわれた、株式持合、正社員の終身雇用、豊かな中産階級、高い貯蓄率、護送船団方式とメイン バンク制度、などは必ずしも資本の量が物事を決めるしくみではありませんので、非・資本主義的な社会を構成する要素であり、日本の「世界で最も成功した社 会主義」というイメージに重なります。

現在という時点は、ウォール街主導で世界に広まったグローバル金融と資本市場の枠組みが、量的・質的に大変容する前夜であるように思えます。恐らく20年先の未来から今を振り返ると、昨年7月以来世界金融の大問題になっているサブプライム危機が、その後の大変化の分岐点として語られるのではないでしょうか。変化の次に誕生する「オセロゲームのコーナー」、次世代金融市場の特徴を大胆にイメージしてみると:

①質が量に勝る影響力を持つようになるでしょう。市場シェア、資金量、事業規模、顧客ベースなどが事業的に有利になるとは限りません。

②資本市場から企業金融へ、金融プロフェッショナルから事業経営者へ、グローバル市場から金融の地産地消へ、株主からステイクホルダーへ、それぞれ金融機能と主導権が移行するでしょう。それらの結果、企業のステイタスであった株式上場や大都市の立派な本社が経営上のハンディキャップとなり、資本主導のM&A、事業の集積、フランチャイズ戦略などの拡大再生産事業モデルが非効率な経営選択と考えられるようになるでしょう。

③企業統治と情報開示が企業金融の最重要テーマとなるでしょう。ただし、既存資本主義・資本市場で議論されている「企業統治」「情報開示」の発想とは根本的に異質、かつ圧倒的に効率的なフレームワークが生まれ、低コストかつ容易に機能するようになるでしょう。

④「お金持ちのお金を更に増やす」という資本主義が社会的に影響力を失い、「人と社会を豊かにするためにいかにお金を使うか」、というテーマに対応する企業が、大量の資本と優秀な人材を容易に集めるようになるでしょう。企業経営者は、お金を増やすことに加えて、お金を(有効に)使うこと、を重要な経営課題としてステイクホルダーから求められることになるでしょう。

⑤そして、・・・この辺は誰に言っても笑われそうですが・・・、市場の大変化と次世代金融のフレームワークを前提としたとき、沖縄をベースとする金融事業は世界的に見ても極めて高い潜在力を秘めている、というのが本稿の仮説です。

一見突飛な次世代金融市場の世界観ですが、一定の論理的な根拠と合理性があります。次回以降、資本主義と金融・資本市場のメカニズムとその欠陥、サブプライム危機と今後の社会・経済・金融環境の大変動、この大変化に適応する次世代金融の青写真、そして、沖縄がなぜ次世代金融の中心になり得るかなど、トリニティのユニークな次世代金融論をご紹介します。

【2008.5.26 樋口耕太郎】

ゴールデンウィークも終わっちゃいましたね~。
有意義なお休みをお過ごしになられましたでしょうか。

さて、
この春に新生活のスタートを迎えた人も多いことと思います。
転職、就職、転勤、帰郷…。
生きとし生けるものにとって春は、節目となる季節ですね。
新環境へと飛び出して行く人などにはわかりやすいですが、
環境が特に変化するわけでもなく、春だからといって、
これまでと何も変わらずに同じ時間を過ごす人も多いかもしれません。
でもその場合でも、ただぽかぽかと過ごすのではなく、自らあえて
奮起することが大事なのではないでしょうか。
句読点のない文章が、物語に混乱をきたしたり、途中で飽きてしまうように、
節目という人生の句読点を設けないと、生きることに行き詰ることが
多くなってしまいますから。

人生は基本的に、だらだらと流れ続けるものです。
でもそこに、物差しのように目盛りを刻んでいくのはあなた自身。
その後押しをしてくれるのが、草木も芽吹く春をはじめとした、
季節の感覚です。だからお便りはいつも季節の節目ごとに
お贈りさせていただいているのです。
人間も自然の一部ですから、これからは意識して、四季に合わせて
生きるべきだと思うのです。

恋愛でも仕事でも、自分の中の芽生えを大切にするのが、まさに今の
春の季節。
自分はどんな花を咲かせることができるのだろうか……なんて、この時期は
考えすぎず、ただただ、地中から顔を出すことだけを目指してみませんか。
そして夏は、春の発案を大いに繁茂させ、
秋口にさしかかったら、実りを意識、秋たけなわで収穫しましょう。
そして冬は、次の春のために、じっくりと英気を養うのです。

「春になったら○○をやりたいけれど、忙しい……」と言う人も
いらっしゃいますが、時間もお金も、後からついてくるものです。
あの時使わなかったお金が今あるかといえば、決してそうではないはずです。
それよりも、春はひらめき重視で。考えすぎて足が止まってしまい、
「今年はいいや……」と考えないでください。
それに、「いつかこの会社を辞めてやるぞ」とか
「いつか奥さんと別れて君と一緒になるからね」なんて言う人に限って、
実際には実行できないもの。実行する人はスパッと行動に移しますよね。

毎年、春は必ず巡ってはくるけれど、そのたびに、あなたは一つずつ歳を
重ねています。これは“若さがないと何もできない”といっているわけでは
なくて、一年一年経験を積むたびに、人は賢くなり、それゆえ臆病にも
なっていくということ。先送りにすればそれだけ、警戒心が強くなってしまうと
いうことなのです。

あなたは今、エネルギーがあふれている時。だからあまり深く物事を考えず、
とにかく足を踏み出してみてくださいね。失敗しても取り返しがつかないものは
実はほとんどありませんし、成功云々より、踏み出すことに意義が
あるのですから。

リスクのない人生なんてどこにもありません。一歩踏み出して失敗するのが
リスクだとしたら、踏み出さずに自分を責め続け、悶々としてしまうのだって
リスク。そのどちらがより前向きなものか……それを考えればこの春、
あなたはきっと、行動を開始することができるはずです!

年賀状や暑中見舞いや毎年の御挨拶状をみなさんにお送りする時に、
お目にかかった方のお名刺を並べて見ていると、その人が、お名刺を
差し出されたときのお顔が思い浮かんできます。
弱いお名刺を差し出されるときの少し臆したお顔。
強いお名刺を切ったあの人の自信に満ちたお顔。
決して名刺が仕事をするわけではないのに。
学歴、賞歴、有名、無名。
人にはたくさんの負い目があります。
でもひとつだけ長いこと仕事を営んできて自信を持って言えることがあります。

頑張った人、頑張っている人はいいお顔なんです。
そう、つまり、踏み出して、行動している人なんです。
「お客様は肩書きの立派な方がたくさん集っておいでですね」とよくおっしゃって
いただくのですが、私は人は肩書きではないと思っています。
その人の目を見ることにしているのです。目を見ればどれ程の輝きかで、
その人の情熱だけは計ることが出来るからです。もちろん生き方の結果として
肩書きが物語ることはあるけれど、基本的には肩書きではないと思っています。
肩書きなど一時のものでもあるのだから。
輝く人は肩書きを超えて生きておられます。

さあ、また今日からお仕事です。
目の輝きを消さないよう、頑張りましょう!

【2008.5.7 末金典子】

こんにちは。
お元気ですか。

読んでくださったかもしれませんが、17日の琉球新報朝刊に、
前回『今日は清明』で書いた「あきらめないで声をあげよう」が掲載されました。
うれしかったのは、北谷町がすぐに次の日から、毎日しつこく繰り返していた
意味のない町民放送を控えてくれたことです。ちゃんと声をあげてよかったなと
思いました。

そこで思い出したのが、幸田シャーミンさんも推薦しておられた、
William Uryが書いた「The third side」。
冒頭のストーリーからすっかり魅了されてしまいました。

マンハッタンの交差点で、若い黒人男性の運転する車が、歩いている白人夫妻と
ぶつかりそうになります。怒った夫の方が拳でボンネットを叩くと、運転手も
出てきて、あわや大喧嘩。人だかりができたとき、通りかかった年老いた
黒人男性が「落ち着きなさい」と言わんばかりに手のひらを地面に向けて
ゆっくりと上下させた。それを見た運転手はぐっとこらえて車に戻り、
立ち去っていった……

老人は一言も発しなかったけれど、最も必要なときに、「第三者」として必要な
介入をしたのですね。
何か争い事が起こると、私たちはどちらかの側につくか、あるいは無関心な
態度をとりがちです。でも、第三者という立場をとることで、
争いのエスカレートを回避できるかもしれません。家庭内でのケンカから、職場
地域、ひいては国際紛争まで、誰もが例外なくその役割を担える立場にあります。
この本は、それを身近な例とシンプルな言葉で教えてくれています。

最もよくないのは無関心。どうせ何もできないと自分を否定するのではなく、
私でも何かのお役に立つことができるかもしれないと考えてみては
どうでしょうか?
そんな素敵なメッセージに後押しされての今回の記事でした。

さてさて、
早いもので、もうゴールデンウィークがやってきますね。
昭和の日、メーデー、八十八夜、憲法記念日、みどりの日、立夏と続き…そして
こどもの日。
菖蒲の節句とも言う、この子どもの日。
昔は、菖蒲など季節の薬草で厄払いをする宮中の行事だったそうです。
その後、武士の間で菖蒲を尚武(武を尊ぶ)と解したことから、
男の子のお祝いとして定着。
兜や鎧を飾り、子ども達がたくましく育つようにと願いを込めたようです。

こんな世相ではありますが、それでもやっぱり子ども達って、とっても純粋で、
天真爛漫ですよね~。
「わっはっはー」「ぎゃはははーっ」
道行く子ども達の笑い声の元気なこと!

「わっはっはー」
あのどこまでも高い空に届くほどの大笑い、してますか。
今日は、何回笑いましたか。

この「笑う」という当たり前の行為、実は、健康に密接な関係が
あるのだそうですよ~。
1964年、アメリカ・サタデー・レヴューの編集長ノーマン・カズンズ氏は、
喜劇やコメディなどを患者に観せて大笑いさせ、不治の病を治してしまった
そうです。世界中の注目を浴びたこの出来事以後、日本中の学者達もこぞって
研究し、「笑うと免疫力がアップし、自律神経も活性化、自然治癒力も
強くなる」などの成果を出しました。
笑いは、身体にいいんです。
そして、自分も他人もしあわせになります。

そう、笑顔って光なんですね。私達は皆、この体のなかにいのちという
優しい光が灯る電球を宿しています。
恋をするのも、仕事で開運するのも、健康になるのも、皆、よい運は光から
やってくるといわれています。
逆に、苦しかったり、何かがうまくいかない時というのは、
そこに光がないんです。
だから、どんな時でも、光をもたらせば、そこに優しいものが流れ始めて、
私達の人生の中の幸福があたたかく息を吹き返してくれます。
そして、大事なことは、光とは誰かにもらうものではなくて、
自分の中にそれを見つけ、点火することなのです。
そして点火するスイッチこそが「笑顔」だったり、あたたかい「言葉の力」
だったり…。
そのスイッチを入れれば、必ず幸福はあなたのもとに流れてきます。

さあ、いよいよゴールデンウィーク!
新緑に包まれる清々しい季節です。
家族揃って、また大好きなあの人と、げらげらしましょう!

【2008.4.25 末金典子】

お元気ですか?

4月といえば本格的な春の訪れ。
学校や仕事、いろいろなことがスタートして気分も一新、そんな季節ですね~。

私が子供の頃おじいちゃん・おばあちゃんが住んでいたところには
山桜がたくさん自生していました。毎年桜の季節になると
家族やたくさんの人達と一緒に、お庭でお花見を楽しんだものです。
つぼみがふくらんで桜の木全体がほんのりと桃色に色づき、三分咲き、五分咲き、
満開と、山の色が移り変わっていく様子は毎年見ていて飽きることが
ありませんでした。
この桜の花。あっけなく散ってしまうので以前はそこまで好きな花でも
なかったのですが、歳を重ねるにつれて、大好きな花へと変化してきました。
このパッと散るのが潔いというか、儚いというのか、あまりに美しくて、
さすがは国花だけあるなぁなんて思います。

さて、なぜ日本人がお花見を楽しむようになったのでしょうか。
いろいろな説があるのですが、私がいいなあと思うのがコレなんです。

春になり、稲(サ)の神様が里に降りてくる場所を座(クラ)ということから、
その場所をサクラといったそうです。開花は神様が降りてきたしるしといわれ、
その神様と一緒にお祝いをするのが「お花見」の始まりで、元はおはらいの行事
だったそうです。花の下に座ることで花の精気を吸収する健康法(!)でも
あったとか。

沖縄ではこの季節は、お花見というよりは今月いっぱいあちらこちらで行われる
清明祭(シーミー)の季節、という方がぴったりくるかもしれません。
今日はその清明。草木とともに春の花が咲き乱れ、すべてがきよらかで
すがすがしい頃。
清明とは「清浄明潔」の略なのだそうです。

足元に目を向けると、草花たちが元気でいっぱい。
子供の頃は、シロツメクサで花かんむりを編んだものです。オオバコの茎を
引っ張り合う草相撲や、タンポポの茎の風車…。
春の思い出とともに子供たちにも手渡していきたい遊びですね。
腰を下ろして初めてわかるのは土の上の気持ちよさ。日頃の疲れがいつの間にか
とれているはずです。

ところで、サクラというと思い出すのが、私が社会人になりたての頃に新聞で
読んだある記事なんです。

福岡市檜原に、樹齢60年ほどにもなる桜並木があります。
今から20年ほど前、その中の1本が切り倒されました。
もう10日もすれば、満開の花を咲かせただろうに、道路拡張のため、
伐採されてしまったのです。

次の日、残された桜に、こんな歌が結わえられていました。
「花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花をゆるし給え」
開花を目前にしての伐採を悲しんだ住民の一人が、歌に託して、
桜たちの命乞いをしたのでした。

詠み人知らずの歌の噂はすぐに広まり、新聞にも掲載されました。
それを眼に留めた当時の市長は、すぐに担当者に再調査を指示。
計画は変更され、桜並木を生かした道が作られることに。
桜の木は、その年の開花を許されただけでなく、人間よりも長いその寿命を
全うできることになったのです。

後日、市長は、桜に返歌を結びました。
「桜花惜しむ 大和心のうるわしや 永久に匂わん 花の心は」

桜を惜しんだ一人の人間のちょっとした行動、勇気が、周囲の人の心を動かし、
行政をも動かしたのです。
自分が何を言ったって世の中はかわらない…
そう、あきらめていませんか?
大切なのは、まず、声をあげてみることではないでしょうか。

確かに、私だって何度もあきらめたことがありました。
選挙の時の選挙カーなんてうるさいだけで、お金の無駄遣いだから
立候補する人全員でやめた方がいいのでは、と新聞にも書きました。
北谷の意味もなく思いやりのない塩川橋について、行政にも、新聞にも
業者にも抗議したこともあります。
老舗○○○のパンで化学性添加物食中毒で倒れた時は、業者さんと
企業のあり方について何度も話し合いました。
全ては徒労に終わりました。

…かのようにみえました。
でも、後になって決してそうではなかったことに気づいたのです。
例えば、私が化学性添加物を食べ続けることの恐ろしさや、
合成界面活性剤で作られたシャンプーやリンスや食器洗剤を使い続けることの
恐さや、無意味な行政のあり方、なんていう話題を経験的にお話ししたり、
またみなさんからもいろいろなお話をしてくださるということの中で、
私の考えも改められたり、より詳しく教えていただいたり、
また逆に、みなさんも御自分の生活にそれぞれ当てはめて考えてくださったりと
いうことが起こってきます。
非難や中傷であってはいけませんが、
正しいことは正しい、NOはNOと声をあげる、これは素晴らしいことでは
ないでしょうか。
そして何より、誰もが持っている、誰もが望んでいる、みんなの温かい想いや
愛を、もっと世の中に広げるべきなのではないでしょうか。

とてもありがたくうれしいことに、ここには本当にたくさんの業種のリーダーの
方々が集ってくださっています。
私は一人でもなく、あなたも一人ではないのです。思いを伝えることで、
いろいろな企業の社長達が社員の方達に何かしら伝えてくださるかもしれないし、
お医者さんの先生達は患者さんやスタッフに、学校の先生達は生徒に、
政治家は庶民に、芸能人やテレビ関係の方ならブラウン管を通して、
記者ならペンの力でというように、ウソのない温かな想いで、
小さなことからでも世の中が変わっていくかもしれないのです。
実際に、翁長市長を囲んで「飛び出せ!市長室 夜の社交会編」を催したり、
新聞記者と経済界の社長達の「ぶっちゃけトーク大会」で盛り上がったりという
イベント的なことも仕掛たりしましたが、基本的には、毎日毎夜、
お一人お一人がお話してくださるいろいろなお話の中に、大きな気づきや学びが
散りばめられているように思います。

あなたもお話くださいね。あなたの想い。

【2008.4.4 末金典子】

トリニティのリーダーシップ論(pdf)

『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で《その9》になります。リーダーシップについてもう半年書き続けていることになりますが、これほど長期間に亘っているのは、リーダーシップが経営バランスの概念と並んで、トリニティ経営最大のテーマであるためです。僕にとっては、リーダーシップについて集中的に考える機会を得、多くのことに思いを巡らすことができました。どのエントリーもそうですが、最終的な原稿をアップするためには、論理的な整合性があり、(実行する意志がありさえすれば)誰でも実行可能であり、現場で機能し、経営科学的に合理性が認められる内容であることは勿論、はっきりとしたインスピレーションがない限りは行わないように心がけています。また、事業を生態系になぞらえて理解するトリニティ経営理論において、ひとつのテーマは必然的にその他の多面的な概念に関連するため、多様な側面から複眼的に捉える必要があり、とても良い頭の体操になります。リーダーシップ、経営バランスの二大テーマは、特に包括的な概念であるため、より多面的に思考する必要があったと言えるかも知れません。

2007年7月30日のエントリー『経営バランス《その1》』で、トリニティ経営の概念を3Dジグソーパズルに例えましたが、パズルの各ピースが、マーケティング、金融財務、人事などの個別理論、パズルの組み合わせに相当する概念が「経営バランス」、完成したパズルを実際に動かすためのマニュアルが「リーダーシップ論」といったところでしょうか。僕が勝手にそう読んでいる、トリニティ経営の三部作、『トリニティ経営理論』『サンマリーナホテル人事考課に関する経営方針』『トリニティの企業金融論』は、それぞれ、包括的かつ基本的な概念、経営者と従業員の関係に関する概念、経営者と株主の関係に関する概念、を主にまとめたものです。ここまでのトリニティアップデイトの各エントリーは、比較的抽象的なこれらの概念を補足し、実際の事例やケーススタディ、例え話などを交えて、概念のメカニズムを具体的な経営現場のイメージと重ねて表現することで、現実的な応用を容易にする目的で構成されています。

トリニティ経営理論の一連の概念はノウハウではありませんので、「このようにすれば同様の事業的結果が生じる」ということを一義的な目的にしていません。サンマリーナで生じた現象をインスピレーションとして、事業経営の新しいフレームワークを経営科学的に構築する作業であり、その汎用的な世界観を提示するものです。地動説と天動説で例えると、「天が動いている」という従来の世界観の中で「合理性」を追求する作業ではなく、今まで僕たちが考えていた世界観そのものを「地動説」へと修正することで、何が「合理的」か、ということの意味を根本的に見直そう、という試みですので、経営合理性に関する説明が従来の価値観とことごとく異なるのはむしろ当然です。重要なポイントは、地動説、天動説のいずれもが正解だということです。…というよりも、全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということですので、地動説、天動説は同一の自然現象であり、両者の違いはひとつの現象をどのような世界観で解釈するかという、観察者の視点の違いに過ぎません*(1)。コペルニクスの以前も以後も自然現象としての太陽は東から昇り、西に沈むという点にはなんら変化はないのです。

反面、人間の行動科学では、視点を変えることで世界観が変わり、世界観が変わることで行動の全てが変わる、というパワフルなメカニズムが存在します。トリニティ経営理論の仮説のひとつに、「経営判断の大半は、経営者の個別の世界観に照らし合わせて合理的である」、というものがあります。経営者が経営判断を「誤る」のは、判断に「合理性」や「適切さ」が欠如しているためではなく、判断の前提となる世界観が「非効率」であるためで、この前提においては、個別の経営手法よりも、事業的に最も効率の高い「世界観」を構築する作業が、経営理論において重要な要素ということになります。天動説の世界観を常識とする多くの経営者は、経営判断を実現する手段として、マニュアルや規律や罰則や褒章や進捗管理などを駆使して組織行動を変化させることが一般的ですが、これらの方法は膨大な労力と時間を要し、効果も限定的で、一貫性に乏しく、「対症療法」的で根本的な「治癒」に至らない、という傾向があります。これに対して、経営者の正直で一貫した言動を通じて、組織の視点と、行動の意味を変え、新たな世界観を構築する作業に成功すると、その後の運用は殆ど自動的で、費用や労力は殆どかかりません*(2)

マスターリーダーシップの効果
さて、前稿までに「正直なリーダーは事業的に効率的である」という議論を展開し、その前提で、最も有効なリーダーのあり方を「マスター」と表現し、このようなマスターを組織のリーダーとして大量かつ反復継続的に(すなわちシステマティックに)発掘、育成、選別、登用するための組織論をまとめてきました。このようなマスターが「事業的に効率的である」ということの意味を補足したいと思います。

第一に、正直なリーダーシップは重要な事業戦略(特に営業、広告、商品戦略)になり得ることです。経営者やリーダーの価値観や人柄、リーダーシップのあり方、ひいては企業の意図が顧客に与える影響力は、一般的な経営理論において過小評価されています。例えばリーダーの価値観によって商品の売れ行きが変化する、という要素は殆ど考慮されていないと思うのですが、現実には、経営者の人柄がホテルの雰囲気やレストランの料理に如実に反映されます。ホテルの総支配人やレストランのシェフが変わったときは勿論、良い出来事があってチームの雰囲気が変化したとき、人事考課の方針が変化したとき、あるいはリーダーの意識の変化ひとつで、商品としてのサービスは確実に変化している筈です。現象が「目に見えない」、「数量化できない」というだけで、そこには事業の実体が存在すると考えるべきでしょう。

サンマリーナホテルでは、成果主義を全面的かつ完全に廃止し、①どれだけ人の役に立ったか、②どれだけ人間的に成長したか、という二つの考課を導入したその月から、顧客の満足度が著しくかつ継続的に向上するという現象が生じました。僕の仮説ですが、収益目標が全廃され、従業員はサービスの現場で「収益という真の意図を顧客に隠す」必要がなくなり、企業の在り方に嘘がなくなり、従業員と顧客の正直な人間関係の純度が一定水準を超え、顧客が圧倒的に反応するというメカニズムが存在するような気がします。人間関係において、もし誰かが親切な言葉を使いながらも、相手に冷たくしようという意図があれば、言葉よりも意図の方が確実に伝わりますし、どんなに高価な贈り物も愛情が欠けていることの埋め合わせにならないことは、誰もが経験することです。私たちは直感的に相手の意図が正直なものか、ごまかしなのかがわかるのです。真の意図が非常に伝わりやすいものである以上、いっそ経営者の意図は瞬時に全ての顧客に伝わる、すなわち企業は顧客に対して何ひとつ隠しごとができない、という前提で経営を行う方がよほど機能的だと思うのですが如何でしょう。

ちょうどこれを書いている3月21日の朝日新聞の社会面に、「朝日新聞社が全国3千人を対象に2月から3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)の結果、いまの日本には『信用できない企業が多い』と思っている人は60%、『信用できない人が多い』も64%で、企業や人への不信感が目立つ」、という記事が掲載されています*(3)。企業が信頼に値すると考えられていない以上、いかに事業的な経営努力を行っても、商品開発に力を入れても、従業員の研修に費用をかけても、販売ルートを拡充しても、サポートセンターに多額の投資を行っても、投資額に見合う程には顧客満足度が向上しないのはむしろ当然のことでしょう。顧客は商品の信頼度を計る際、「何を買うか」よりも「誰から買うか」をより重視するということだと思います。どんなに収益を上げる能力が高くても、不正直な経営者を擁する企業が顧客から信用されるとは思えませんし、企業が信頼に値するためには、正直で信頼できるリーダーを選抜する以外の方法はないような気がします。

第二に、マスターリーダーを育てる組織は、実質的に「人材を増やす」効果があります。マスターリーダーの最大唯一の仕事は「人の役に立つこと」であり、彼らは人間関係を重視することで組織運営に高い能力を発揮するため、専門分野に関わらずリーダーシップを発揮することができます。このため、 マスターリーダーを擁する企業は、部門間の人事異動や、事業部門の統廃合において、組織内に担当可能な候補者を実質的に多数擁することになり、 大きく専門性の異なる分野間の管理職の異動が柔軟に実現しやすくなり、このようなダイナミックな人事は、成功すると組織をとても前向きに活性化するという効果があり、 一人のリーダーを選別するためには、およそ10年の期間と最低10人の候補者が必要だとすると、一人のマスターリーダーの存在は100人力の効果がありそうです。

第三に、マスターリーダーは事業範囲(簿外資産)を拡大する効果があります。マスターはリーダーシップを発揮するにあたって、組織の枠組み、業務の専門性、権限、タイトルを必要としないため、企業の枠を超えた「事業を取り巻く生態系」に対しても実質的にリーダーシップを取ることができ、組織外の組織や人たちの役に立つことで、彼らからの積極的な協力を受けることができます。これは、組織外の多くの人たちを実質的に自分の部下とすることであり、事業的に大きな効率を生み出します(このままの表現では少々語弊があるかもしれません。組織外の人たちを実質的な部下とするのは事実ですが、それよりも先に彼らの役に立つという前提では、同時に彼らの部下として機能しているとも言えるのです。)。

第四に、マスターリーダーは決断力に優れています。事業経営は決断業ともいえる仕事ですが、効果的な決断をするためには、世界観の把握と、 「捨てる」勇気、が重要な要素でしょう。世界観の把握()とは、自分の決断がどのような意味をもち、事業の生態系に対してどのような効果を生み出すかを可能な限り正確に理解する力です。この内容は文字通り事業の生態系に関わり、対象はこれまでの多くの議論を含んで多岐に渡りますが、経営者自身の行動について、愛と執着を区別することなどはその一例です。愛は相手を自由にし、執着は相手の自由を奪うため、人間関係の接点において、両者を明確に区別することが重要なのですが、多くの場合、単なる執着に過ぎないものが「愛」と表現され、結果として「愛」の名のもとに相手の自由を収奪する人間関係があまりに一般的になってしまっています。経営者と従業員の関係においていも同様で、経営者が選択する行動について、「企業のため」「従業員のため」「顧客のため」と説明するとき、実際は、自分のエゴを発揮するための行動を、自覚的あるいは無自覚に行っているだけ、ということが少なくありません。もう一例を挙げると、「求めない」ということの意味を理解することも重要です。この概念はマスターがリーダーシップを発揮する際に、従業員との重要な接点になるからです。その詳細については『トリニティのリーダーシップ論《その5》』を参照頂きたいのですが、ここでの論点としては、「求めない」ということは、決断しないということではないということです。経営者の決断は常に存在し、その行動の手段のひとつとして「求めない」という概念を活用する、という関係にあると言えます。

マスターリーダーが発揮する「捨てる」勇気()の中で、経営的に最も重要なものは、辞任するための決断です(『トリニティのリーダーシップ論《その1》』参照下さい)。経営者に課せられる多くの決断の中でも、必要なときに辞任するという決断は、マスターにしかできない英断と言えるかも知れません。殆ど明確にされることはありませんが、一般的な経営者が自分の立場を維持する目的で費やす膨大な労力のうち、長期的な企業価値と相反する行為は、時に相当量に及ぶのではないかと思います。マスターリーダーによる経営は、このような弊害が生まれにくいという大きな利点があります。企業が悪くなる際の原因の大半は経営者にあるとするならば、マスターリーダーのこのクオリティは、企業にとって非常に価値の高いものです。また、「捨てる」勇気を持つマスターリーダーは、自分が心からしたいことをする、そして人のために役に立つ、ことを双方とも実行できる稀な人たちです。特に経営者の立場で、自分が心からしたいことをする、という決断は非常に勇気の要ることで、「捨てる」勇気がなければ到底実行できるものではありません(「したいことをする」とは、社長然として好き勝手に振舞う、という意味では勿論ありません)。

マスターリーダーシップの組織構造
トリニティ経営理論を実践するとして、どのような組織がゴールなのか、と聞かれることがあります。最終的には経営者がそれぞれ自由にデザインするべきものですが、僕が個人的にイメージしている組織構造は、一般的な組織論で議論されるピラミッド型やフラット型とも異なり、形式的な組織をはみ出したリング型をしています。経営者から役職者から従業員から業者さんから顧客まで一つの輪で繋がっていて、その繋がりのどこかが途切れても「和」を構成しない、というものです。事業の成長はこの輪を大きくすることによってもたらされ、その際最も重要な要素は、各構成員の個性が十分に活きていることと、全体のバランスが取れていることだと思っています。

僕が考えている目指すべき組織のイメージは、ドラえもんに出てくるような、小学2年生頃のクラスです。がり勉君もいれば、人気者もいれば、いじめっ子もいれば、いじめられっ子もいれば、ずるいスネ男もいます…。みんな不完全なまま、みんな個性的なまま。親の仕事や家柄は誰も気にしません。成績の良し悪しについてはみんなお互いの水準を知っていますが、最終的には人間性だけでお互いを理解します。学級委員も成績のいい子が選ばれがちではありますが、人柄だけで選ばれる人気者もちゃんと存在します。そして、良いことも悪いことも、自分のしたいことだけを存分にして、良いことをしたらみんなから尊敬され、悪いことをしたら先生に叱られ、誰が何をしているか皆が知っています。明日のことを一切考えずに、疲れを知らずに一生懸命「今」に集中する…。なぜこのような組織を目指すかといえば、それが最も現実的で、従業員を最も幸せにし、最も経営合理性を生むと考えるからです。

おわりに
トリニティのリーダーシップ論のまとめに際してのコメントです。第一に、これまで多くを述べてきたリーダーシップ作業の全て、人の役に立つために経営者ができることの100%は、ひとりできる、ということです。全ての行動は自分だけで完結し、誰かに指示を出して実行してもらう必要もありません。宇宙を動かすために必要なことは、自分が動くことであり、世界を変えるには自分を変えなければならない、ということだと思います。第二に、リーダーの発言、行動、意図、はその全てが、従業員と顧客を含む全てのステイクホルダーへの強烈なメッセージです。実際に口頭や文書で発言されたかどうかは殆ど問題にならず、隠された意図も結局は全て伝わると思われます。事業経営において嘘をつく必要がある大半の経営者にとっては厄介な問題かも知れませんが、真実を語る経営者にとっては、最大の武器になります。経営者が果す作業の中で、最もパワフルなものは、「物事の意味を変える」作業です。例えば、従業員に「何をするか」ではなく、「なぜするか」を問うことで、仕事という行為の意味を根本的に変える手助けをすることができるのです。この際、経営者が発するメッセージの全てが、この作業を後押しします。第三に、リーダーの成果をどのように計るかということです。勿論色々な方法が考えられますが、リーダーが本当に人の役に立っているかは従業員の顔つきによって知ることができ、そして、従業員の仕事の成果は顧客の顔つきによって知ることができるのではないかと思います。最後に、「人の役に立つ」ということは目的であり、手段ではありません。「従業員を大切にする」と表明している企業は少なくありませんが、その大半は「会社の発展と成長のためには、従業員(と顧客)を大事にすることが非常に重要」と考えているに過ぎないのではないかと思います。トリニティ経営理論の世界観では、そもそも「企業は従業員と社会の役に立つため、すなわち自分と他人の幸福のために存在する。そして、その目的を実現した企業が結果として収益を最大化する」と言うものです。この、言葉にすれば僅かな違いは、見かけは似ているのですが、イルカとマグロほど本質が異なるのではないでしょうか。

【2008.3.25 樋口耕太郎】

*『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で終了です。

*(1) 「全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということ」という比喩は僕のお気に入りのひとつです。世の中の経営理論と多くの経営者は、天動説の世界観に基づいて、空の星をひとつずつ自分の思う方向に動かそうと大変な努力をしているように思えます。星をひとつずつではなく、例えば2つずつ動かす技術を開発するためにしのぎを削ったり、動かした星の数を管理するために膨大なシステム投資を行ったりしています。星を1つ動かすよりも2つ動かす人が「成功者」として賞賛され、権力者や大金持ちになってゆく世界においては、例えば星を10個まとめて動かすことなど想像もつきません。この世界観の問題は、非効率だということは勿論ですが、「巨大な宇宙に対して自分はあまりにも微力だ」、という概念を内包していることです。世の中の「成功者」が誰も、世界全体(宇宙)を良くする(動かす)ことに真剣になら(れ)ないのはこのような理由によるのかも知れません。

やがて天動説では自然現象を完全に説明できない、という証拠が少しずつ発見され始めますが、殆どの大人たちは、天動説に矛盾する証拠の存在を否定するか、そもそも社会は矛盾に満ちているものだ、と諦めるか、そんなことよりも生活が大事、と「現実」を優先するか、のいずれかで、天動説の世界観そのものを捨て去る決断をする人は滅多にいません。それでもごく稀に、「ひょっとしたら自分は宇宙の全てを動かす力を持っているかも知れない」、という「馬鹿げた」考えに取り付かれる人が歴史の中で突然変異のように現れることがあります。この「突然変異種」の大半は良くて狂人、多くの場合危険人物として、時代によっては社会から排除されたり殺されたりしています。その中でも時代の中を運よく生き延びた何人かは、彼らの信念によって「地動説」に辿りつき、…すなわち「自分を動かすことで、宇宙全体を動かし」、社会全体に新たな世界観を提供する役割を果すのです。

「自分の世界に住んでいる人はみんな狂っていることになるのよ。多重人格者、精神異常者、マニアのように。人と違うだけでね。 … まず、時間も空間もなく、あるのはその二つを合わせたものだと言っていたアインシュタインがいたでしょ? それから、世界の反対側にあるのは大きな溝ではなく、大陸だと固執したコロンブスがいるでしょ? 人がエベレストの山頂に到達できると信じていたエドムンド・ヒラリーがいるでしょ? それに、それまでと全く違う音楽を創り、全く違う時代の人みたいな格好をしてたビートルズもいたでしょ? そんな人たちと、他にも何千という人たちは、みんな自分の世界に住んでいたのよ」(パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より)

蛇足ではありますが、本稿のリサーチの過程で、地動説とローマカトリック教会について面白い事実を見つけました。1962年、ローマ教皇ヨハネ23世は世界に散らばる約2,500人の司教をローマに招集した第2バチカン公会議で、「中世という時代は終わり、新しい時代を考えなくてはならない」と主張したそうです。その「刷新」の結果のひとつとして、ローマ教皇庁ならびにカトリック教会が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは1992年です。元上智大学長でローマ・カトリック大司教ヨゼフ・ピタウ氏は、後にこの件について読売新聞のインタビューに答えて、「間違いを認めるのは大切。神様のお導きで間違いを認め、新たに始めることができる」と述べています。…神様のお導きで間違いを認めるのに、ガリレオの死から359年もかかった訳ですが、カトリック教会にとっての中世が1962年に終わったと考えると、「僅か」30年ということかも知れません(皮肉が過ぎるでしょうか)。…しかしある意味で「世界観」が人々の行動に与える強烈なパワーを裏付けるエピソードだと思います。

「王国全土を崩壊させようとした力のある魔法使いが、全国民が飲む井戸に魔法の薬を入れたの。その水を飲んだものはおかしくなるように。
次の朝、誰もがその井戸から水を飲み、みんなおかしくなったわ。王様とその家族以外はね。彼らには王族だけの井戸があり、魔法使いの毒薬は撒かれていなかったから。そこで心配した王様は安全を図り、公共の福祉を守るためにいくつかの勅令を発布したの。でも、警察官も、警部も、すでに毒の入った水を飲んでいたから、王様の決定を愚かだと思って、従わないことにしたの。
王国の臣民がその勅令を耳にした時も、みんな、王様がおかしくなって、バカげた命令を下しているんだって確信したの。彼らは城まで大挙して押し寄せ、その勅令の破棄を求めたわ。
絶望した王様は、王位から退く心づもりでいたけど、女王が彼を引き止めて言ったの。『さあ、みんなと同じ共同井戸の水を飲むのよ。そうすれば、みんなと同じようになるはずだから』。
そして彼らはそうしたの。王様と女王様は狂気の水を飲み、すぐに不条理なことを口走り始めた。彼らの臣民は、すぐに悔い改め、王様がすごい知恵を見せている今、このまま国を統治させようではないか、と思ったの。
その国は、近隣諸国よりもおかしな行動を取っていたけど、それから平和な日々を送り続けた。そしてその王様はその最後まで国を支配することができたとさ」(前掲『ベロニカは死ぬことにした』より)

*(2) 「経営理念」や「企業文化」の浸透を促すなどの方法によって、従業員の行動の意味や世界観を変え、組織行動を変化させようという発想が広まりつつあるのは、一定の合理性があります。現実は、理念を「重視する」としている大半の企業で、事業の目的と経営理念と経営者の在り方(行動)が頻繁に矛盾し、その「世界観」の整合性が失われているために、運用上殆どが機能していません。この原因を突き詰めて考えると、収益が企業の目的となっていること、 リーダー(経営者)が成果主義によって選別されること、という二点に行き当たるというのが僕の結論です。前者は事業目的(収益)と経営理念が矛盾する最大の原因ですし、後者は経営者の行動が経営理念と矛盾する最大の原因であるためです。以上の前提で、「企業が収益を目的とせず、経営者が人格的なリーダーシップによって選別されながら、企業収益を最大化する世界観」を構築することができれば、事業経営が飛躍的に向上すると考えられ、これがトリニティ経営理論のフレームワークです。これは、収益を目的としない方が収益が生まれる、成果主義を廃止した方が成果が生まれる、という経営バランスが現実に存在するか否か、という議論でもあります。

*(3) 企業・人「信用できない」6割 朝日新聞世論調査 2008年03月21日

いまの日本には「信用できない企業が多い」と思っている人は60%。「信用できない人が多い」も64%で、企業や人への不信感が目立つ ― 朝日新聞社が全国3千人を対象に2月~3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)で、世の中の信用・信頼が揺らいでいる実態が浮き彫りになった。政治家や官僚への信用は18%と低く、教師や警察は60%台。裁判でさえ72%だが、家族には97%の人が信用をよせている。度重なる食品の偽装問題の影響もあってか、「信用できる企業が多い」は29%にとどまり、「信用できない企業が多い」は60%を占めた。日本で売られている食品について「ほとんど信頼できる」は4%と少ないが、「ある程度信頼できる」は63%あり、「信頼」は合わせて7割近い。「あまり」「ほとんど」信頼できないは計30%だった。一方で、偽装問題などで一度信用を失った会社の製品を再び「買ってもよい」と思う人は38%で「買いたくない」が55%と半数を超えた。「買ってもよい」は20代と30代では5割近いが、年代が上がるほど減り、70歳以上では23%しかない。仮に食品会社に勤めていたとして賞味期限の偽装の事実を見聞きしたとき、「上司や同僚に相談する」は70%に達し、「警察やマスコミに通報する」も13%あった。「とくに何もしない」は10%と少ない。いまの世の中には「信用できる人が多い」と思う人は24%で、「信用できない人が多い」が64%にのぼった。「たいていの人は、他人の役に立とうとしている」と受け止める人も22%と少なく、「自分のことだけ考えている」が67%を占めた。生活と密接な関係がある12の項目を挙げてどれくらい信用しているかを聞くと、「信用している」と「ある程度信用している」を合わせた信用度は、(1)家族97%、(2)天気予報94%、(3)新聞91%、(4)科学技術86%、(5)医者83%と上位5位が8割を超えたが、政治家と官僚はともに18%で最下位だった。

…新聞に対する信用度が、科学技術と医者を上回って91%というのは、さすがに新聞社の調査という気がしますが、新聞社も企業の一部だと考えると辻褄が合うのでしょうか。「新聞社の世論調査に対する信用度」という項目があればどのような数値になるか興味があります。

今までの議論を前提に、リーダーの唯一の役割が「人の役に立つ」ことだとして、どうすれば「人の役に立つ」ことができるのでしょう。この難しさであり面白さは、第一に、「人の役に立つか」どうかは、その「行為」で定義することが困難だということでしょう。例えば、ある人が事業に窮しているとき、資本を無償で提供する「行為」は同じでも、その経営者と事業を真に助けるかも知れませんし、会社を根本的にダメにしてしまうかも知れません。そして、第二に、(目先の)利害を提供することや、(見かけの)問題解決を手助けすることが、必ずしも「人の役に立つ」こととは限らないという点です。宝くじで大当たりした人の大半が「不幸」になると言われますが、同様に、補助金を大量に受け取る産業や自治体は、栄えるどころか自立する力を失って財務的に弱体化するだけでなく、文化的・社会的な質の低下を招く傾向が強いような気がします。

「人の役に立つ」ということ
何が「人の役に立つ」かは、行為によるよりもその動機と行動原則とによって定義する方が機能的かも知れません。トリニティ経営のフレームワークでは、人間関係の接点において、「いま、愛ならなにをするだろうか?」を自分に問いながら行動を選択するということ、すなわち、①うそをついたり隠し事をしない、②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する、という行動原則で人と接することが、最も「人の役に立つ」と解釈します。単純に考えても、愛をもって人と接するときに最も人の役に立つのは当然のことでしょう。愛をもって接する人が最も人の役に立ち、人の役に立つことがリーダーとしての唯一の役割であり、リーダーは愛の行動原則のみによって選別され、この行動原則と事業の目的と経営理念が三位一体を構成する経営構造は、非常にシンプルかつパワフルです。

「人の役に立つ」ということの意味を愛の行動原則で定義するということは、結果を手放すということでもあり、経営者にとっては、人の役に立とうとする従業員の具体的な行為よりも、その行為の前提となる行動原則とプロセスを優先するという概念に繋がります。このため、「いま、愛ならなにをするだろうか?」という原則に基づいて、どのような「行為」が「人の役に立つ」のかという具体的な判断は各従業員の自由に委ねられ、それが結果として「誤った」判断であったとしても尊重されることになります。この発想において、「人の役に立つ」ということの意味は、愛の原則を現実の人間関係に適用する思考錯誤と試行錯誤という自由なプロセスを含むことになります。個々人の自由なプロセスを理論として一般化することはできませんので、次善の策として、僕個人の試行錯誤の事例をお伝えしようと思います。個人的な事例ですので、これが正しいとも、唯一の方法だとも、まして模範事例だという意味でもありません。以下は、ホテル経営者という立場で最大限「人の役に立つ」ということはなんだろう、という個人的な解釈であり、その解釈に基づく試行錯誤の具体事例です。思い返してみると、僕がサンマリーナにおいて行った(行おうとした)経営行為の全ては、突き詰めると以下の四点に集約すると思います。

1. 不安を取り除く、愛を伝える
米国で出版され、スピリチュアルな知識層を中心に多大な影響を与えて続けている『A Course in Miracles』(邦訳未刊)によると、人間の感情を突き詰めていくと「愛」と「怖れ」の二つしかなく、「愛」とは全ての人がもって生まれたもの、「怖れ」とは人間の頭で創りあげたものだということです。「怖れ」とは「愛」の存在が感じられていない状態のことだともいっています。ある研究によると、人間の精神的なメカニズムは、ポジティブな感情とネガティブな感情を同時にもつことができないとされています。仮にこれらの原理の通りだとすると、従業員の怖れを取り除くことができれば、愛の行動原則はより効果的に機能する筈で、実際サンマリーナではその通りになりました。

サンマリーナでのあるパートさんとの面接での会話です。パートといってもサンマリーナでは勤続10年という方は珍しくなく、仕事の質は正社員となんら変わりありません。この方も60歳を過ぎて依然として現役で働いていらっしゃいました。詳しいことはあえてお聞きしませんでしたが、サンマリーナの近くにマンションを買われ、お一人で暮らしているとのことです。面接の中で、「私はいつまで働けるのでしょう」と質問されていました。パートのお給料で一人暮らしをされ、マンションを維持するのは楽なことではありません。年齢も60歳を越え将来のことがとても気にかかるのだとすぐわかりました。この方はご自身で車を運転なさらないので、実質的にサンマリーナ以外で働く人生を想定されていないことは明らかでした(沖縄のリゾート地域は公共交通機関の少ない土地柄です)。サンマリーナでパート職員の労働年齢に関する制限を撤廃したのは、この方との面接がきっかけでした。その方には、「サンマリーナでは74歳の方が現役で働いていらっしゃいます。つい最近72歳の嘱託の方を採用しました。このような方々が働いていらっしゃることは、サンマリーナにとってとても大きなプラスだと考えていますので、どなたでも働く意思をお持ちである限りにおいては、おいくつになるまででも働いていただいて全く構いません」とお伝えしました。

従業員の勤務意欲や創造性や主体性や責任感、ひいては生産性の向上に頭を悩ませる経営者は少なくありません。一般的な対応として、人事を見直したり、業務マニュアルを整備したり、事業目標を明確化して厳しく進捗管理をしたり、労務管理を強化したり、インセンティブを工夫したり、企業理念の浸透をはかったり、社員研修の導入・拡充など、それこそ莫大な時間と費用が費やされています。更に、「会社のため」「従業員自身のため」という題目で、従業員の不安をかきたて、危機感を醸成し、信賞必罰の恐怖によって厳しく規律を保つ経営者が「切れ者」とされていたり、「従業員を安心させるため」に、事業の実体を隠すことが「誠意」と考えている経営者がむしろ一般的です。経営者自身が自覚しているか否かに関わらず、これらは経営者の個人的な怖れを従業員に転嫁する行為であり、皮肉なことに、従業員の怖れを取り除く行為とは正反対です。従業員を最大限活かすためには、従業員の不安を取り除くことの方が遥かに効果的で、従業員の不安がなくなれば、何の指示や管理もなく自主的かつ効率的な活動が組織の各所で勝手に生まれるだけでなく、費用も比較にならないほど安価(ほぼゼロ)です。人は自分の在るがままを受け入れてくれる環境では恐れを抱きにくいため、従業員を受け入れて不安を取り除くことができるリーダーは非常に機能的と言えるのです。

2. 心からしたいことのために「背中を押す」

エリート君は、人生の様々な局面において、「それをしなければならないから」、あるいは「それができるから」、という理由で常に物事を選択してきました。…徹夜でこれを仕上げなければならない、日曜日に出勤しなければならない、この商品をこの顧客に売らなければならない、明日は買い物に行かなればならない…。それらが本当にしなければならないことだったかと誰かに聞かれたとしても、今まではあまり考えたことがありませんでしたし、そんな現実味のないことは考えないようにしてきました。エリート君は、自分の偏差値で合格できるからという理由で一流大学を志望校とし、自分の学歴で入社できるからという理由で大手会社に就職を決め、自分に振り向いてくれるからという理由で家柄の良いお嬢さんと結婚を決めました。長年の働きづめが祟り、厄年に大病をして長期療養を余儀なくされたエリート君は、自分の人生を振り返る最高の機会を得、人生半ばにして、実は今までの人生において、自分が心からしたいことを殆ど選択せずに生きてきたことに気がついて愕然とします。

フォレスト・ガンプ君は、生まれつきちょっと頭の回転が遅いせいか、複雑に見える世の中の雑多な現象に細かく注意が回らないため、物事をとてもシンプルに考えることしかできません。自分が置かれた社会の現状や、人が「制約」「条件」と呼ぶ社会のルールがあまりよく理解できないため、いっそこれらを仮に完全に無視して(つまり、望めば全てが叶うという前提で)、自分が心からしたいことを考えることが大好きです。それが実現したらどのような気分になるかを想像すると毎日が楽しくなりますし、そもそも自分のしたいこと以外のことをする理由なんて、まるで思いつきません。徹夜してでも仕上げたい仕事に熱中し、日曜日にワクワクしながら出勤したくなる仕事を引き受け、自分のことを最も理解し最も信頼してくれる大事なお客様に是非買ってもらいたい、そして末永く使ってもらいたい商品を手作りし、どうしても買いに行きたい、一日も早く手に入れたいものがあれば喜んで買い物に出かけます。一度きりの青春時代を過ごしたいと閃いた大学に、その難易度も知らずに願書を出し、寝食を忘れて心から熱中できる仕事ができる会社の入社試験を受け、毎日のどの瞬間も一緒に過ごすことの幸せを感じる女性と一緒に暮らしています。

…エリート君もフォレスト・ガンプ君も同じ大学から同じ会社に入り同じような年恰好の女性と暮らし、外見は全く同じような人生に見えるのですが、実質的に全く異なる人生を歩んでいます。更に、この10年後にもう一度二人の人生を比べることができたら、外形的にも驚くほどの差になっていると誰でもが考えるのではないでしょうか。フォレスト・ガンプ君は生まれつき思考がシンプルなので、幸運で生産的な人生を送ることができるのですが、エリート君にとっては、したいことだけをするような人生は、何かいけないことのようで罪悪感を感じますし、誰に相談しても親切に「上司から目をつけられるぞ」「そんなリスクはとるな」「理想で飯が食えるか」「痛い思いをしないうちにやめておけ」「今の生活のどこが不満なのか」「経験もないお前にできるはずがない」とアドバイスされることばかりです。エリート君に限らず、人生を一生懸命送っている多くの人にとって、自分の心からしたいことを選択するのはとても勇気がいるだけでなく、最も怖ろしいことのひとつで、そもそも自分の心に正直に生きるなど、到底不可能だと考えるのがむしろ普通でしょう。それでも、どんなに小さなことでも、自分が心からしたいことを選択したいと思う人生の局面は、ひとそれぞれにやって来るものです。その瞬間、少しの勇気を出して一歩を踏み出すときに、その人の背中をそっと押してあげることができたら、その人の依存心を強めるのではなく、自立を助ける方法で支えることができたら、自分が心からしたいことを選択してもいいんだと応援してあげられたら、その人の人生のクオリティが大きく向上する手助けができるのではないでしょうか。

僕が経営を担当した当初のサンマリーナでは、カラオケルームを改装した本当に狭い場所を、エステサロンを経営する個人事業主に賃貸していました。「大手経営」のリゾートホテルと小さな個人事業主という立場の違いもあってか、彼女はホテルに相当遠慮気味ではありましたが、リゾートホテルのスパブームがはっきりしてきた時期でもあり、是非業態を拡大したいと申し出てきました。彼女のイメージは、もう一部屋スペースを増やしたい、というくらいだったと思います。僕が彼女に伝えたメッセージは、「まずは、改装・新築の費用や契約条件などの一切を忘れて下さい。自分がサンマリーナホテルのオーナーになって、1.8万坪の敷地と施設の全てを自由にできるつもりで、また、人材を含めて必要なサポートがホテルから十分に受けられるという前提で、自分が心から実行してみたいプランを提案して下さい」というものでした。その結果には驚かされました。彼女が提案してくれたプランは、一部に修正は必要だったものの、基本的には、僕を含め、社員は誰も気が付かなかった、しかし言われてみると最高のロケーションを発掘し、ホテル全体との事業バランスも良く、改装コストも実に効率的なものだったのです。まして、彼女は改装プランの作成・見積り、ホテル運営、事業計画の作成などに関しては全くの素人でありながら、本質的なプランを直感する力を証明してみせたのです。

その後間もなく、ほぼ彼女のプランどおりのスパを開業しましたが、仕上がりの良さに比較して、初期投資があまりに小額で済んだため、あっという間の資金回収が完了し、現在このプロジェクトに関する投資利回りは、恐らく年率100%を優に超える水準になっているのではないかと思います。しかし、事業投資の水準よりも何よりも、このプロジェクトが生んだ効果は、第一に、彼女の心からしたいことの少なくとも一部を引き出し、彼女の潜在的な可能性を形にすることができたこと、第二に、彼女との契約はホテルにとっては「社外の業者さん」との取引にあたりますが、「ホテルの経営から比較的「遠い」彼女のような立場であっても、心からしたいことを優先することで、資本の提供を含めた経営的な手助けが実現する。まして社員の提案であればどれだけのサポートが実現するだろうか」、というメッセージを全社員に伝える機会が生まれた点です。これらの効果ははっきり形に現れるものではありませんが、僕の実感としては社員の勇気を後押しするという意味で、相当効果のあったもののひとつです。また、このプロジェクトにおいて、もう一つ重要な点は、彼女との賃貸借契約の条件を以前よりも厳しくし、不用意に彼女の依存心を造成しない、しかし彼女にとっても結果として大きくメリットが生まれる内容に改定した点です。ホテル側が資本を投下するということの経済的な意味は、実質的に彼女に対して現金を手渡すことと同等です。確かに彼女のプランは光るものでしたが、プロの仕事としては非常に未熟でしたし、ホテル側からの人的サポートや、プロジェクトを公開コンペにしなかったこと自体もホテルが彼女に提供した無形の大きなメリットです。このような状態で単に彼女に「現金を渡す」契約内容を実行するだけでは、彼女にとって「たまたまの幸運な出来事」で終わってしまい、彼女の事業を強くすることにはなりません。反面、「この機を利用してホテル側により有利な条件に改定する」、というような意志は全くありませんでしたし、それどころか、如何にして彼女の依存心を育てずに最大限利益を提供できるか、ということしか考えていませんでしたので、このバランスをどのように取るか、厳しい条件を彼女に提示しながら彼女との信頼関係をどのように維持するか、そして、それを具体的な契約内容にどのように落とし込むか、という点が最もテクニカルかつ重要な点だったと思います。

3. 真実を語る機会を提供する
僕の個人的な経験ですので、業界の傾向として一般化できるとは限らないのですが、沖縄で、300人を超える従業員を擁する2件のホテル経営に携わることになり、それまで金融業しか知らなかった新米経営者(僕)がホテル業界で直面した現実は、ホテルという職場は意外に「犯罪」が多いということ、更に組織内でそのことがそれ程大きな問題とされていないことに驚きました。社内備品・食材の私物化や横流し、記帳を伴わない社員の飲食などは「犯罪」という認識すらないようでしたし、社員によるロッカー・寮・自販機荒らしや置き引きなどは可愛らしい方で、在庫の虚偽報告と事実上の粉飾記帳、仕入れ業者との癒着やリベートのやり取り、中には役職員が関連するトンネル会社からの大量仕入れや業務発注など…。僕の感覚ではこれだけの情熱を仕事に向ければよほど簡単に成功するだろうと思えるのですが、人それぞれ感じ方は異なるようです。(もっとも、業界ごとのコンプライアンスが整備されるまでは、どの分野においても似たような経緯を辿っているため、ホテル業界がそれ程特別とは言えません。今でこそ投資銀行と言われるかつての「株屋」も、利益相反、無断売買、損失補填、インサイダー取引などは日常的な出来事でしたし(バブルの頃までインサイダー取引は合法でした)、消費者金融業界の過剰貸し込み・過剰取立て、不動産業界の荒っぽさから比べると、むしろ相当穏やかな業界といえるかも知れません。)

その中でも非常に軽微な出来事でしたが、ホテルでアルバイトをしていた高校生2人がゲームセンターの小銭を盗んだという「事件」がありました。行為の一部始終が防犯カメラに写っていたので犯人はすぐ特定されましたが、本人と会話をする前にどのように対処すべきかの相談を含め、現場から報告がありました。「犯罪」という基準からすれば軽微なものかも知れませんが、高校生という年齢を考えると、この出来事においてホテルが彼らに伝えるメッセージは、彼らにとっては社会からのメッセージとほぼ同義であり、彼らが社会というものに対して、今後長期間持ち続けるであろう基本的な認識を強く規定する重要なメッセージになると感じました。この件に限りませんが、僕がサンマリーナで自覚的に選択する行動の全てにおいて最も重要視した点は、「その行動によってどのようなメッセージを伝えたいか」を明確にすることであり、 メッセージの伝達を何よりも重要視し、メッセージと矛盾しない対処を行うことです。このケースにおいてもまず考えたのは、僕は、すなわち、彼らの目から見た「社会」を代表するものとして、彼らにどのようなメッセージを送りたいか、ということです。 (i)犯罪の局面においても(すなわち無条件に)彼らを愛し、常に贈り物を用意する者が社会のどこかに存在する、 (ii)正直に告白する勇気と、自分の行為の結果と責任を受け入れる覚悟が人生を豊かにする、というメッセージを託し、これを最も効果的に伝えるために、彼らとどのように向き合えばいいかという、具体的な対処を決めます。(i)のメッセージを伝えるためには、会社の彼らに対する対処自体が、彼らへの具体的な贈り物であることが好ましいのですが、僕は、可能であれば、この機会を通じて彼らに「正直に告白する機会と勇気」をプレゼントできないかと考えました。もし、この機会を通じて彼らが自分たちの行為を正直に告白する勇気を発揮することができたら、彼らの今後の人生がとても豊かなものになるかも知れない(『トリニティのリーダーシップ論《その6》』参照下さい)と思えたのです。ですから、呼び出していきなり防犯カメラを見せ追求するのではなく、正直に働くということについて彼らと話し合う中で、彼らが自分から告白するための、僅かな瞬間を贈ることを担当者に提案しました。もちろん、その贈り物を彼らが受け取るかどうか(すなわち告白の勇気を実行するかどうか)は彼らの自由な選択です。なお、以上は世の中で一般的に言う「自白を促す」というニュアンスのものとは根本的に異なるものです。両者はほんの僅かな違いのようですが、この機会を単に「自白をすれば罪が軽減される」という趣旨のものにしてしまえば、「社会は常に取引をする場所である」ということが彼らへのメッセージになってしまいます。

4. 人を育てる
以上の3点は試行済みの事例ですが、4点目は現時点で実現半ばのテーマです。僕は、経営者としての最大の成果は「どれだけ多くの優れた経営者を育てたか」で計測されると思っています。リーダーの仕事は「人の役に立つこと」ですが、この中でも最高のマスターは、最も多くの部下が追随する者ではなく、最も多くのマスターを育てる者であり、より多くの人を自立させることであり、自分が存在しなくても成長し続ける組織を作ることであり、更に、これらが短期間で実現するほど優れた仕事なのです。言葉を変えると「リーダーの究極の目的は、自分自身を、組織において一刻も早く無価値にすること」、とも言えるのです。最も大きなものを捨てることができるマスターが最も機能的な経営者である、という所以です(『トリニティのリーダーシップ論《その7》』参照下さい)。リーダーシップをこのように理解すると、優れたリーダーほどとても損な役回りだと思う人が大半かも知れません。しかし、これを実行できるマスターは、育てた組織を手放すことで、誰よりも恵まれた大きな機会と幸せが自分に訪れることを疑いませんし、実際その通りになるものです。

「経営者やリーダーを育てる」ことは、組織全体の人事から独立した作業ではなく、結局社員全員の役に立とうとする試みの中から効率的に生じるような気がします。経営者を育てる最良の方法は、全ての社員の成長のために力を尽くすという、一見迂遠な作業なのですが、実はこの作業こそが経営者の最大の楽しみのひとつであり、人間関係の最高の醍醐味を味わえるプロセスではないかと感じます。従業員一人ひとりに将来の可能性を見出し、埋もれた人材に光を当てる「人材発掘」は、僕にとって経営の最大の楽しみのひとつです。サンマリーナでは、通常の人事とは別に「人材発掘会議」を計画していました。従業員一人ひとりの個性を思い出し、その人の長所を探し、現在とは違った業務や役割を担った姿を想像しながら、新たな責任分野の可能性を探る作業です。この作業の第一のポイントは、現在の人物イメージを当てはめるのではなく、(それが空想であっても)今までとは全く異なった水準の潜在能力を発揮した姿を頭の中でイメージし、それが現実に起こりうるかどうかを頭の中で検証していく、非常に創造的なプロセスである点で、これはとても効果がありました。本人も気がついていない、新たな水準まで成長した本人像を想像(創造)し、そのイメージに沿った登用をするとき、人事は退屈な管理業務から非常に創造的な、驚きと感動を伴ったイベントになるのだと思いました。第二のポイントは、一人ひとりの従業員の人間性を理解する努力です。人は自分のことを理解してくれる人のためには大きな力を発揮できるものです。すなわち、人を理解することは人に力を与えるということであり、経営者が従業員を理解するという行為そのものが、従業員一人ひとりの力になる最良の方法のひとつだと思います。特に、正直でありながら社会の成果主義人事に迎合できずに傷ついている人材、能力がありながら保守的な価値観に押しつぶされて自信を失っている人材、「要領の良い仕事」よりも「実質的な仕事」を優先してきたために人事的に取り残されている人材などに光を当て、本人が見違えるほどに息を吹き返す姿を見る楽しみは最高ですし、同時にそれらの人材が光を取り戻す姿を見て、周囲の人たちやひいては組織全体が活力を取り戻す現象は、本当に感動的です。第三のポイントは、「繰り返し」です。サンマリーナでは、人材を活かす目的で、本人との面接(半年に一回、一人当たり30分)はもちろん、従業員の名簿を何度見返したか判らないくらい繰り返しくり返し眺めながら人事をイメージしました。それでも見直すたびに違った発見があります。全員の名前と顔と人となりを知っていても、全員の潜在力を知ることができない以上、どこかに必ず見逃している人材がいるものです。

【2008.3.16 樋口耕太郎】

お元気ですか?
今日は桃の節句ですね。
この節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、
川原や海辺で干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

子供の頃、おばあちゃんと母が、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。
今日もぜひそうやって古式ゆかしく、ひな祭りを祝おうと思っています。

さて、ひな祭りの時期といえば、卒業式があちらこちらで行われていますね~。

私がちょうど40歳になる頃に、あとにも先にもこれ1回きりだけど、
同窓会に出たことがあります。
私の高校は男女共学の公立高校だったのですが、大学進学前の3年生になると、
選択科目コース別クラスに分けられ、文系でなおかつ生物&地学を選択した私は
12クラス中唯一の全員が女子の「女組」へ。
(因みに理数系で物理&数Ⅲを選択した子は12クラス中これまた唯一男子ばかりの
「男組」というのもありました。)
つまり、私の高校3年生時代は、教室の中だけ女子高だったわけです。
その「女組」の同窓会に出てみると……ちょっぴり太ったり、シワを作ったりした
女性たちが御堂筋のホテルに集まって、ちょっと壮観でしたね~。
でも、みんなの話題は「うちの主人は○○に勤めていて」「息子は○○中学なの」
といったふうに、卒業写真の中にはない、自分に加わった価値を競い合っている
ようにみえました。
私の青春時代の教祖さまともいえるユーミンが50歳を過ぎた時に
書かれていたことを、その時ふと思い出しました。
「40歳はまだ生乾き。まだギラギラした部分がいっぱいある。50歳を超えると
幸せが形でないことに気づくから、目に見えるものでは競い合ったりは
しないもの」。と。

「人ごみに流されて変わってゆく私を、あなたはときどき遠くでしかって」。
ユーミンは30年前そう綴っていたけれど、今、学生時代の自分と向き合うと、
愛おしい半面、あの頃の自分をぶっちぎったから今の私がいる、そうも思うのです。
先週末、お客さまがお話されていたことがとても印象的だったのですが、
娘さんの高校の卒業式に列席なさった時、涙が止まらなかった
そうなのです。娘さんがよくぞここまで育ってくれたという想いや感慨とは
別のところで、子供達の答辞や送辞などを聞いているうちに、これからの夢や
希望に溢れた、真っ白で無垢な飾らない純粋な気持ちに触れ、当時の自分や
今の自分に思うところが大きかったようなのです。
変わることは決して悪いことではありません。でも、ちょっと振り返って、
たまには、変わる前の自分に思いを馳せてみるのも、自分を知るいい機会に
なるかもしれませんね。
私が「同窓会に出よう」。そう思った本当の理由は、友達に会うこと以上に、
自分を知るため、だったように思います。

生まれてきた目的は人によって違いますが、すべての人に共通する目的もあります。
それは、「自分を知る」という目的。人はみな、自分が自分になるために
生まれてくるのです。
「私は誰?」
「私は何のために生まれてきたの?」
「私の役目って?」
それはやっぱり自分にしか、自分でしか分からない。
だからこそいつも自分の心の声を聞き、自分が惹かれるもの、憧れるもの、
感じるものを大切にし、「自分自身」を知っていきたいものですね。

別に同窓会に行かなくとも、自身でそれをする方法があるんです。
卒業写真を開いて、自分と向き合ってみるのです。
――さあ、今のあなた、変わったものは何ですか?
変わらないものは何ですか?

【2008.3.3 末金典子】

雑誌『沖縄に住む』に、樋口が沖縄観光事業についてのコラムを連載寄稿(5回シリーズ:「沖縄リゾート産業へのヒント」「従業員は知っている」「海の家」「質の時代」「沖縄的金融」)しています。

現在の沖縄は、今後日本(および東アジア?)の観光地としての地位を確立するか、一時の景気に胡坐をかいて凋落していった日本各地の観光名所の道筋を辿るかの分岐点を迎えていると思うのですが(僕には後者に傾きかかっているように見えます)、県政や観光業界を含め、殆どの人たちにそのような認識はないようです。今後の沖縄の観光産業の転換に有効な4つのポイントを紹介します。

コラムの構成となっている、沖縄が採るべき4つのポイントは、第一に、借り物の施設やスタイルではなく、沖縄らしさを活かすこと。象徴的な例は、海が最高にきれいなはずの沖縄で、余計なものに遮られずに海を横目で見ながらドライブできる海岸道路がこれほど少なかったり(延々と連なる醜いコンクリートの壁と視界にうるさいフェンスはどうにかならないのでしょうか)、ビーチの遊泳区域が砂浜のほんの一部にしか設定されていないことを見るたびに、夏の沖縄を楽しみに来る観光客が気の毒だなぁと思います。第二に、沖縄地元人が沖縄の観光施設をあまり利用しないのは、値段に値するだけの価値がないことを知っているからです。施設の実体をいちばん良く知っている従業員や地元の人たちが喜んで利用したくなる施設や事業運営を行うこと。好調な観光地では典型的にこの現象が生じますが、売上に目がくらんだり、一時期の人気に胡坐をかいて、本当に良いものを提供するという当たり前のことを当たり前に実行する人や企業が少なくなっている印象を受けるのは由々しきことです。第三に、夏のお客様だけに頼った非効率な産業構造を修正し、お客様の数を追いかけるよりもお迎えするサービスの質を見直し、来訪者の季節平準化を目指すべきでしょう。沖縄は長い間夏に偏重した売り方を続けているため、沖縄のリゾートホテルの多くは夏の3ヶ月しか利益が出ないほど産業構造がゆがんでしまいました。結果として、現在の沖縄へのお客様は、大掴みに三種類:夏の3ヶ月に訪れる夏の沖縄のお客様、週末にいらっしゃる2泊3日のお客様、修学旅行生、しか存在しない状態です。ゆったりできる1週間の休暇の目的地としての沖縄は既にお客様の選択肢からはずれているのです。現在のように観光客の季節変動が大きすぎると、どうしても島全体が「海の家」状態となり、一見さん相手の一発商売(「ぼったくり」とも言いますが)の傾向が強まり悪循環を生み出しています。反面、来訪者の季節平準化を行う方が、ハイシーズンの顧客数と単価を増加させるよりも、よほど地域の収益に寄与しますし、顧客の負担も減り、環境にも圧倒的に優しい政策となるでしょう。第四に、観光地の質の変化が最も顕著に現れる統計は、観光客の一人当たり平均滞在日数であり、観光政策にとって来訪者数や観光収入よりも重要な指標だと思うのですが、沖縄に訪れる観光客の平均滞在日数は、過去30年間一貫して低下し続けています。なぜ「もう一泊して行きたい」と思う人の数がこれほどの長期間にわたって減り続けているのか原因を理解し、お客様が「もう一日滞在したい」と思える環境を整備することが何よりも重要だと思います。

沖縄が「観光立県」を目指す意思が本当にあるならば、来訪者数の数値目標や新たなエンターテイメント施設の誘致やハコモノ建設に注力するのではなく、上記4点を戦略の柱に定め、これを実行する上で有効なハードは何か、という順番で物事を考えることが非常に効果的です。しかしながら、現実は、県政、第三セクター、観光業界が率先して上記の問題を生み出しているように思えます。

2007年12月31日に終了する、第二期事業年度の事業報告および決算報告書をアップしました。こちらをクリックするか、ウェブサイトのトップ画面より、「会社情報」「事業報告」の画面よりpdfファイルをダウンロードしてご覧下さい。

さすがの沖縄もこの連休は寒かったですね~。
風邪などひいていらっしゃいませんでしょうか。

昨日は建国記念の日でしたので、日本という国についてちょっと考えて
おりました。

ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州だということはみんな知っていること。
アメリカ建国の時には13州でしたが、次第にその数が増え、星条旗には現在
50個の星が描かれていることや、その数がもっと増える可能性があることも
みんな知っていること。さて次に合衆国に仲間入りするのは、つまり51番目の
州になるのは、プエルトリコではないか、という見方をする人や、
カストロ亡き後のキューバかも、などと穿った見方をする人もいます。
中には「ジャパン」という人もいます。無論、日本がアメリカの州の1つになる
なんてあり得ない話で、当然ジョークの1種なのでしょうが。
でも、「日本はほとんどアメリカの属国の1つだ」という政治・経済的現実の
いやみが込められている訳です。つまり「統治国なき植民地」だと。
確かに日本人は戦後のアメリカによる経営統治によって、かつてとは異なる
価値観を植え付けられ、元々私達が守り育ててきた国民性が大きく
変化したことは確かです。また、アメリカの国謀が戦後、唯一成功したのは
日本の教育をメチャクチャにしたことだとも言われています。

9・11のアルカイダによるニューヨーク攻撃以来、全体主義的な
ヒステリックさを尚更強めるアメリカ。断っておきますがアメリカという国は
「ペリー来航」以来、日本に対しての心のスタンスは何1つ変わっていない
のです。時折、渋々日本の力を容認しようとすることはあっても決して
尊敬することはありません。このような関係を「友人」と呼ぶのでしょうか?
そういういきさつはともあれ、私達の国「日本の心」がこれからどうなって
ゆくのか、ということ、いったいどうしたらこの国はかつてのように礼儀正しく
慎みのある気品の高い国に戻ることが出来るのだろうかということ、それら、
「日本の未来」への不安と希望は常に私の中にあるのです。

いつも書いてきましたように、いろいろな犯罪、教育や言葉などの文化の崩壊…
など、日本人の心は壊れつつありますが、日本の風土や、季節の美しさが必死で
日本を護っていることに、最近気付きました。
桜の季節には人々はそれぞれの心を抱いて花見に行きます。「花が咲いた」と
いうことがニュースになる、本当は心優しい国なのです。夏になった、と
海の美しさに心を開放し、秋には山々を彩る木々の美しさに心を癒やし、
冬は身体を寄せ合って寒さに耐え、また、雪の白さに心を洗い、
そうしてどれ程寒い冬でも次には必ず春が来る、と希望を捨てない国なのです。
実は私達はこれほど美しい国に住んでいるんですよね。

アインシュタインが大正11年に日本を訪れた時に講演された中の1節です。

「世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後の闘争に疲れる
時が来るだろう。そのとき、世界の人類は必ず真の平和を求めて、
世界の盟主をあげねばならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や
金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、尊い家柄で
なければならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それは、
アジアの高峰・日本に立ち戻らねばならぬ。我々は神に感謝する。
天が我ら人類に日本という国を造っておいてくれたことを。」

このアインシュタインの言葉に、この国の風土に、恥ずかしくない心を
取り戻そうではありませんか。

いつもみなさんとお話させていただいていて感じることですが、
「一人一人は本当に素晴らしい」って。戦争をしている人たちでも、きっと
一人一人は素晴らしい人なのでしょう。じゃあ何故、悲惨な出来事や事件が
起きてしまうのでしょう。
もう一度、その一人の素晴らしい人に立ち戻って、
まずは自分自身をうんと愛してあげることからはじめるべきなのかも
しれません。
一日に一度でもいいから心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
そして、自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に
扱いましょう。心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。

それができたら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
そんな愛の輪が広がれば争いはなくなるのではないでしょうか。
愛は生きる原動力です。
人間は風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになりました。
でも、それと同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。

確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいてくださればいいなと思うからです。

明後日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいにいつもお幸せに満ち溢れておられますように。

【2008.2.12 末金典子】

こんにちは。
沖縄県だけがあまり冬らしくない暖かな冬のようですが、お変わりなくお元気に
お過ごしでしょうか。
日曜日は節分ですね~。

立春の前日が節分の日です。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。また「まめに=健康に」とか、
面白い説がいろいろ。
折りにふれ、季節にふれて健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。 「今日からは暦の上では春よ。」という
母の言葉に、なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の
柔らかさには、妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、
母と同じ台詞を投げかけるだろうと思います。 私、この「暦の上では」という
言葉が好きなんです。どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だか
あったかくなる美しい日本語ですよね。

また、私はこの季節になると偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出すのですが、この話を知らない人が意外に多いと聞いて
吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、ちょっと御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く
却って誰も寄ってこないんです。一旦嫌われると人間社会というものは
そんなふうに徹底して冷たいものですよね。この悩みを親友の青鬼に相談すると、
青鬼は赤鬼のために一役買おう、と言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ
君が来て僕をやっつければ、人間は君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。赤鬼はそれでは君に
申し訳ないと言うのですが、青鬼は君がそれで人間と仲良くなれたらそれは僕も
嬉しいと言うんです。それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。でも、万が一、
二人が仲良しでいるところを人間に見られると、赤鬼はまた疑られる。
だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だから。
義もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているから。
感謝もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を思ってくれる
友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。

相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
友情や善意は必ず存在するのです。
青鬼は赤鬼が自分のそういう思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりする。これはエゴでしか
ありません。
私は青鬼ほどには「無私の心」で友人や日々お会いする方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、と思うか
思わないかでは、相当な違いがあると思っています。

最近よく考えることなのですが、
「欲ってなんだろう?」って。
大人になりたい。いい学校に入りたい。運命の人と巡り会いたい。
スタイルがよくなりたい。……
つまりは幸せになりたいっていう欲です。
本当は、幸せになりたいなら、まず自分の好きな人を幸せにしてあげたりすると
いいのかもしれないなって思うようになりました。
青鬼ではないけれど、大切な人が幸せそうなら自分も幸せになれる。
誰かに幸せにしてほしいと思ううちはまだまだで、
幸せって、実は他人の中にこそあるんじゃないかと思うのです。

「日々お会いする人が少しでも幸せな気分になってくだされば」という
想いは、今でもずっと同じです。
すべてはそういう気持ちから始まりました。いろいろな経験を
させていただき、たくさんの思い出が出来ましたが、
「求めない」ということが、人間を一番豊かにするのでは、ということが
一番大きな学びとなりました。
さきほどの青鬼のようにはなかなかなれないけれど、
私今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、日曜日は節分。
大きな声で豆をまいて。「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリとまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2008.2.1 末金典子】

手を離す ― ロープのたとえ話
思い込みにしがみついている心は、ロープにすがりついている人に似ています。
もし手を離したら、落ちて死んでしまうと思って、自分の命のために一本のロープにしがみついています。両親や教師や他の沢山の人たちがそう教えたからです。そしてまわりを見まわすと、みんなも同じようにしがみついています。
彼に手を離しなさいと誘いかけるものは何もありません。
そこへ、一人の知恵のある婦人がやってきました。彼女は、しがみついている必要はない、そのような安全は幻想にすぎず、人を今いるところから動けなくしているだけだと知っていました。そこで、彼女は男を幻想から解き放ち、自由になるのを手伝う方法はないものかと考えました。
彼女は男に、本当の安全や、より深い喜びや、真の幸福、心の平和について話しました。そして、もしロープを握っている手の指を一本だけ離せば、それを味わうことができるのよ、と言いました。
「一本だけですね、喜びを味わうためだったら、それぐらいの危険はおかしてもいいな」と男は考え、最初のイニシエーションを受けることに決めました。指を一本離すと、彼は今までにない喜びと幸福と心の平和を味わいました。
しかし、それも長続きはしませんでした。
「もう一本指を離せば、もっと大きな喜びも幸せも心の平和もあなたのものよ」と彼女は言いました。
彼は自分に言いました。「これは前よりも難しいぞ。本当にできるだろうか。大丈夫だろうか。自分にそんな勇気があるのだろうか」彼は躊躇し、それから指の力を少し抜いて、どんな感じか試してから、思い切って指をもう一本離しました。
落ちずにすんだので彼はほっとしました。そしてもっと幸せで、心が平和になったことに気がつきました。
でも、もっと幸せになれるのでしょうか。
「私を信じなさい。今まであなたをだましたことがありましたか。あなたがこわがっているのもわかります。あなたの頭が何と言っているかも知っています。こんなことは気違いじみている。今まで習ってきたことに反するじゃないかって言っているのでしょう。でも、私を信じて下さい。私を見てごらんなさい。とても自由でしょう。絶対に安全だと約束します。あなたはもっと幸せになれます。そしてもっと満たされた気持ちになれますよ」と彼女は言いました。
「僕はそれほど、幸せと心の平和を望んでいるのだろうか」と彼は自問しました。「今まで一生懸命にしがみついてきたものを、全部手放してしまうだけの覚悟ができているのだろうか。原則的にはイエスだ。しかし、それが安全かどうか確信ができるのだろうか」こうして彼は自分の中の恐れを見始めました。恐れの原因を考え始め、自分が本当に何が欲しいのか探し始めました。少しずつ、ゆっくりと、彼の指から力が抜け、リラックスし始めました。彼は、自分にはできる、とわかったのです。そして、そうしなければならないことも知っていました。彼が握りしめていた指を離すのはもう時間の問題でした。そして、指を離してみると、もっと大きな平和の感覚が彼の内部に染みわたってゆきました。
「彼は今や一本の指でぶら下がっていました。理屈では、指がニ、三本しか残っていない時に、すでに落っこちていてもいいはずでした。しかしまだ落ちていません。「しがみついていること自体、まちがっているのだろうか」と彼は自問しました。「僕はこれまでずっとまちがっていたのだろうか」
「最後の一本はあなた次第よ」と彼女は言いました。「私はもうこれ以上助けられません。ただ、あなたの恐れはどれも根拠がないということだけは覚えておいて下さい」
自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。
何も起こりませんでした。
今までいた場所にそのままいました。
そしてそれがなぜか、彼はやっとわかりました。彼はずっと地面の上に立っていたのです。
地上を見渡した時、彼の心は真の平和で満たされたのでした。そして彼は、自分がもう二度と再びロープにしがみつくことはない、と知っていました。
(ピーター・ラッセル著、山川紘矢・亜希子訳、『ホワイトホール・イン・タイム』

ロープを手放したマスターたち
ピーター・ラッセルのロープのたとえ話は、経営やリーダーシップという観点に限らず、人生の諸問題の本質が象徴的に示されているような気がして、とても印象深い話の一つです。「捨てる(ロープを放す)」という、一見どのように考えても損だと思える行為が、なぜ最大のパフォーマンスを生むのか、ということが比喩的に、しかし非常に分かりやすく表現されているのではないでしょうか。トリニティ経営のフレームワークにおける「ロープ」は、例えば、収益の増加が企業価値を高める、事業の量的拡大が成功をもたらす、経営者が事業と従業員をコントロールすることが合理的である、目に見える合理性の追求が事業効率を生む、という「常識」に基づいた経営者の確信(思い込み)です。これらは自明とされ、一般的な経営者がこのような考え方を「捨てる」ことはあり得ませんし、文字通り自分の命と存在意義と生活を賭けてしがみつくべき最優先事項です。これに対して、マスターは「ロープ」を放すことを選択した人たちです。彼らによるリーダーシップは、事業の量的拡大と収益の追求を手放すことが事業の質を高める最大のポイントであり、事業の質的向上が事業価値の最大化と事業の成功をもたらす、従業員に奉仕する経営者が最も合理的な事業経営を達成する、合理性の追求は目に見えない実体を認識することで著しく効率的になる、という世界観を前提とするということでもあり、世の中で「常識」とされている膨大な経営作業が、実は企業価値を高めるための必要条件とは限らないという確信によってなされるものです。

「捨てる」ということ(再び)
前稿では、人が正直であるためには、自分の何か大事なものを「捨てる」覚悟が必要だ、とコメントをしましたが、「捨てる」ということは、正直であるためだけに限らず、あるいは経営においてのみならず、物事の革新、ブレイクスルー、悟り、ひらめきなどの根源であり、人生における学びと成長に非常に重要な役割を果していると言えないでしょうか。誰にでも似たような経験があると思いますが、初めて補助輪なしの自転車に乗って足を地面から離したとき、足が震えるほど緊張しながらも勇気を振り絞って初めて人前でスピーチをするとき、ずっと好きだった彼女に思い切って告白するとき、恐怖を乗り越えて初めての宙返りを成功させたとき、夏の大会の絶体絶命の場面で開き直るとき、営業で初めての取引を成立させたとき…。自分の殻を破るときはいつも自分の中の何かを「捨てる」ことによって新たな境地を切り開いて来たのではないでしょうか。非常に逆説的な表現ですが、ロープを手放すことで地に足が着くように(正確には、地に足が着いていたことを悟る、ということですが。)、どうも人生には「捨てることによって活かされる」というメカニズムが組み込まれているような気がするのです。

何かを選択するということは、それ以外のものを「捨てる」ということですし、反対に、人が何かを「捨てる」とき、その人は必然的にに他の何かを選択していると言えます。そして、自分にとって重要なものを手放す覚悟なくして真剣な選択をすることは困難であるため、「捨てる」ことができるか否かは、優れたリーダーであるための重要なクオリティなのです。「経営者がすべき最も重要な仕事は、必要なときに辞任すること(トリニティのリーダーシップ論《その1》参照下さい。)」と述べましたが、それを現実に実行できる経営者は人生において学びを経たマスターです。マスターが人間関係の接点で選択する三つの行動原則は、その見かけと異なり、非常に積極的な人生の選択を意味するため、これらを実行するためにも「捨てる」という作業が必要となるのです*(1)

リーダーシップとは幸せであるということ
トリニティ経営の世界観では、誰もが自分が心からやりたいこと以外のことをする必要がありませんし、人に対してそのように求めることもありません。このような組織におけるリーダーの役割は「人の役に立つ」ということのみです。逆に表現すると、人の役に立つものがリーダーに選別され、リーダーとしての唯一の仕事が人の役に立つということなのですが、リーダーであっても、自分の心からやりたいこと以外のことをする必要はありません。リーダーは自分が心からやりたいことをしながら …すなわち自分を活かしながら… 人のためになるという選択を行う者であり、それが可能であることを自らの人生で実証する者と言えます。先のように、「捨てることによって活かされる」ことが仮に人生のメカニズムであるならば、捨てるという稀有な能力によってリーダーとなり、その行為を通じて誰よりも人の役に立ちながら、しかし自分が誰よりも活かされる、ということが現実に起こり得るのではないかと思います。すなわち、最も捨てることを厭わず、最も人の役に立つものが、最も幸福になる、ということが合理的に成立するのです。

【2008.1.28 樋口耕太郎】

*(1) このように、マスターは、いわば「捨てる」ことによってリーダーに選抜されるのですが、社会における一般的なリーダーは「得る」ことによって選抜されています。例えば、役員などへの昇進はサラリーマン生活のゴールではなく、更なるチャレンジと新たな任務を果たすためのスタートに過ぎないと思うのですが、現在の企業社会(特に大会社)では、取締役昇進というとなにか長年の勤務に対するご褒美のように考えている人や、重要なゴールに到達したと解釈されがちであるような気がします。この場合、地位やタイトルは「ご褒美」なので、自分はそれを保有する権利がある、あるいは権限を与えられたことの印、と考えたくなるのも無理はないかも知れません。このようなタイプの方々は、「捨てる」ことを最も苦手とする人であり、色々な局面で自分を正当化しがちですし、経営とは利害の調整を行うことと、人に指示をすることだと信じているようです。

…このようなテーマはとかく人格的、哲学的、倫理的、道徳的問題で議論されがちなのですが、経営科学的には、経営合理性を議論すれば足りると思いますし、トリニティ経営のフレームワークを前提とすると、「得る」ことで選別するリーダーは非効率だと考えられます。

おめでとうございます!

お正月はいかがお過すごしでしたか~?
私はごくごくオーソドックスに、
年末に日頃気になっていた所のお掃除をし、手の込んだお料理をゆっくり作って
味わい、年越しそばをいただき、紅白歌合戦を観て今やもうついていけない
流行歌のお勉強をこなし、おせち料理を作り、
三が日は、お雑煮・お屠蘇をいただき、初詣に行き、ランニングもしっかり
こなし、ぐっすり眠って初夢を見たお正月でした。

そして、年末のお便りでご提案させていただいた通りに、自分でも
何もしない日を作ってみようと、ボーッと自分自身を見つめ直すがごとく
いろんなことを考えたり物思いに耽ったりして何日か過ごしてみました。
そうすると、以前にも書いて笑われてしまいましたが、小学校の時の
さんすうの問題で「ある人がリンゴを買おうとしたら…」なんて問題で
「ある人」のことがひどく気になり始めるという私の性質上、
普段とりあえず放っておいたいろんな気になることが出てくるわ出てくるわ…。
たくさんの方が思っていらっしゃることとだぶるかもしれませんが、
ご紹介してみます。

まずは「粒タイプ」のガムのこと。
いちどスキップしながらあれを口に放り込んで、気管に詰まらせてあやうく
死ぬところでした。あのような恐るべき殺人兵器が白昼堂々と
売られていることに慄然とします。スムーズに気管に吸い込まれるように
つるつるに仕上げた表面。両端を平たくつぶした流線型。ぴったり気管に
フィットする大きさと形。そこには明確な殺意が感じとれるではありませんか。
さらに恐ろしいのは、まったく同じような形と名前とパッケージのキャンディが
往々にして同じメーカーから発売されているという事実です。
キャンディをガムとまちがえて思い切り噛んだことによる歯及び顎への衝撃
および精神的ショック、といった惨事が、報道こそされないが全国で多数
発生していると思うのですが、その責任をクロレッツはどう取るつもり
なのでしょうか。
…なーどとまるでクレーマーのように大袈裟にブリブリしてみたり…。

「ロボコップ」について。
あの、顔の下半分だけ生身なところがいやです。境い目が何だか痛そうで
すごくいやなんです。なぜあんなむごいことをするのでしょうか。いっそ全部
ロボットにしたほうがすっきりするのに…。やっぱりあそこの部分は髭が
伸びるのでしょうか。だとしたら、毎日「ウィーン、カシャン、ウィーン」
などといいながら剃っているのでしょうか。……

「根掘り葉掘り」の「根掘り」はともかく、「葉掘り」って何なの?
それを言うなら「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは、いったい何が
焼けているの?
「首の皮一枚でつながっている」って、それってすでに死んでいるのでは?
……

ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、頭のスクリーンに、ぜんぜん別の
イメージが現れることがありませんか?
先日も「オムニバス」という言葉を言うか聞くかした瞬間、巨大な蓮の上に
金髪の子供が乗っている絵が現れていることに気がつきました。どうやら
小学校時代より愛用していた植物図鑑の「世界のめずらしい植物」のページに
載っていた「オオオニバス」と関係があるらしいのです。
「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速200キロぐらいの猛スピードで
泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満するのです。
また「ほとけさま」という言葉には、菊の形の落雁の映像が誘発されます。
これはたぶん子供の頃、祖母の家に遊びに行ったとき、祖母が「仏様が」と
言いながらお仏壇を指さす先にいつも落雁が供えられていて、幼い私は
しばらくその落雁を「ほとけさま」だと思い込んでいたからだと思います。
「眉毛」は西郷隆盛の顔を呼びます。これは、やはり「眉毛」と「睫毛」の
区別に長年苦しんだ幼い私が、「西郷さんの太い眉毛」とフレーズにして
覚えていたせいでしょうか。
言葉が無意識のうちに別の形に変換されていることもあります。
私の頭の中では以前「エリック・クラプトン」は「エリック・フランプトン」
に、「たかしまや」は「たかましや」に、「鉄筋コンクリート」は
「鉄筋キンクリート」に、「シフォンケーキ」は「マフィンケーキ」に、
常に置き換えられていて、どうやっても消去することができないので、いつか
実際に言ったり書いたりしてしまわないかと心配です。

TVをボーッと観ていると大相撲の映像。ここでもまた何十年来の疑問である
「男性の乳首問題」について否応なしに考えさせられました。
思えば、人体においてこれほど役に立たない部位もちょっと他にありません。
男女の役割が未分化だった頃の名残りだとかいう説もありますが、男は狩猟、
女は育児という役割分担ができてからいったい何千年経ったと
思っているのでしょうか。いい加減あきらめて退化してもよさそうなものでは
ないでしょうか。だいたいこの手の一見もっともらしい説は、どれも怪しい。
髪の毛は頭を守るためにあるとか、乳房は前からみたお尻であるとかいう説に
したって、それらなしで立派に幸せにやっている人が大勢いらっしゃることを
思うと、どうも説得力に欠けるのです。

胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、
そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのですが、
それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。
あれがひどく気になるんです。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、
いつももどかしく思うのです。どうやらどんな薬でも、薬関係の
コマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようです。
いったい何を彼らは恐れているのでしょうか。全部きれいになくしてしまうと、
「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるので
しょうか。たぶんいるんでしょう、私のようなのが。ナーンテ!

同じようなものでありながら、「髪」に比べて「毛」は不遇ですよね~。
「髪」は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを
担当しているのに、「毛」ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと
ろくなことがありません。「剃髪」には厳かな響きがありますが、「剃毛」は
なんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の
毛の乙女」とは言ってくれません。「毛」は体毛の総称であり、「髪」は言わば
その一部署にすぎないのだから、「毛」はもっと優遇されてしかるべき
ですよね…。

ここからは私のお友達のお話ですが。
彼女は「おおよその見当」というものがつけられない人なんです。
お料理のレシピで「適量」とか「あとは適当に味をみながら」などと
書いてあるともうそれだけでパニックになるんです。どれくらいが「適量」
なのかが、まるでわからないから。「ここから200メートルほど先を右」などと
言われると、茫然とするしかないそうです。なぜ200メートルなどという、
自分の身長の100倍以上もあるような距離が実感としてわかるの?と。
彼女に体感できる距離は25メートルまでで、それはお察しのとおり、小学校の
プールの長さです。そこでまず小学校のプールの大きさを記憶の中から呼び出し
(それと一緒に、思い出さなくてもいい塩素の匂いや、紫色の唇や、
進級検定のときのドキドキまで蘇らせつつ、だそう。
さすが私の友達だけあるなぁ)、それを目測で道路の上に一つ、二つ、三つ…
と並べていくそうですが、五つあたりでもう目がわからなくなるそうで、
人はいったいどうやって「だいたいこんなものであろう」という判断を
つけるのだろうかといつも思っているんだとか。

ところで。
これまで書いてきたような事は、他愛ない新春お笑いネタのようなものばかり
でしたが、昨年もたくさん書かせていただいたような、
「今、この国の状況はかなり変だ」と真面目に思うようなことの数々についても
今年も、みなさんから「うざい」と思われても引き続き書いていこう、
話し合っていこう、と思っています。

勿論、話すことというのはそんな重たく、面倒くさい事ばかりでは
いけないと思います。こちらもくたびれます。生きる楽しさ(例えば愛、
遊び、こころ)を話し合うのは勿論のことです。でも生きる苦しさ(例えば生命、
生活苦、病気)から目をそらしてもまたいけませんよね。日常生活を思えば
解ります。私たちは一日中楽しいわけでも、一日中苦しいわけでもありません。
楽しみの中に時折苦しさや悲しさが訪れ、苦しい最中にふと、喜びが訪れたり
します。喜びの絶頂の時、既に悲しみの種は蒔かれていますが、よく見れば
絶望のどん底の時、既に喜びの芽は必ず芽吹いています。生きるということは
そういうことなのだと思うのです。

私は話したり書く勇気がある限り、たとえみなさんに届かなくても声を限りに
「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を伝えようと思います。それは自分自身が
「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことなのです。何故なら
自分が正面切って自分の命と向かい合っていなければその楽しさや苦しさを
表現できるはずなどないからです。

さて、では世の中にはそういう私の声がきちんと届くかというと残念ながら
そう簡単なことではありません。「選挙宣伝カー」の件も「しおかわ橋」の
件も「添加物」の件も徒労だったかもしれません。

言葉というものは「価値観」が違うと伝わらないからです。どれ程心を尽くし、
深い言葉を重ねたところで、価値観が違う人には理解しようがありません。
また、人の価値観を理解することは難しいものです。自分には自分の価値観が
あるからです。でも、あなたの価値観以外にもこういう考え方がありますよ、
と伝えることは大切なことのような気がします。そのことによって人生の目が
拡がることがあります。事実、私はお客さまやお友達の言葉から、また映画や
本や音楽などから凝り固まった自分の考え方以外にもこういう素敵な考え方、
感じ方があるのか、と目から鱗が落ちる思いでで教わることは多く、それが、
以後の自分の人生をうんと明るく強くしてくれていることも確かだからです。

普段いろいろな方達とお話させていただいているとそうでもないのに、
ここのところ、世間の価値観と、どうにも噛み合わないことが多いのです。
ことに生命について、心の有様について、お金に対する考え方、また、
遊びに対する感覚や意識。親、友達、恋愛について。どれもこれもです。
それは単に私が年齢が上がってきて理解できないということだけでは
ないはずです。人々自身もまた生命や心といった「自分」に迷い、
理解できていないのではないでしょうか。

今年もそんなことについてお伝えしてゆこうと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

さあ、新しい年ですよ!

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今日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体。一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとして
おすすめです。
ぜひ召し上がってみてくださいね。

そして、金曜日は“鏡開き”の日。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使います。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
この日に食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
この日はおぜんざいにして、ぜひお召し上がりくださいね。

【2008.1.7 末金典子】

『トリニティのリーダーシップ論《その3》』では、スターウォーズには重要なモチーフが少なくとも三つ存在し、その一つ目は、目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」ではないか、とコメントしました。特に「この世の善と悪を分けるものは何か」という三つ目のモチーフについては、アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなるプロセスにヒントがあると感じて以来、彼がなぜダークサイドに落ちたのかということについて色々考えずにはいられませんでした。そして、現時点での僕なりの結論は次の通りです。

善人がダークサイドに落ちるとき
第一に、アナキンは母親を愛し、妻(パドメ・アミダラ)を愛する人間であり、彼がダークサイドに落ちた原因は、彼が「悪」であったからではなく、むしろ彼の深い「愛」*(1) に起因しているということです。第二に、悪の象徴であるダース・シディアスが、善良なアナキンを、あるいは後のダース・ベイダーが、善良なルークをダークサイドに誘惑する方法は、善人の強い「愛情」*(1) を裏づけとした復讐心などを駆り立て、怒りと恐れに身を委ねるように仕向けるのです。第三に、それがたとえ悪に向けられた正義の義憤であったとしても、善人がこの怒りに負けて相手を叩き潰(コントロール)したときに自分もダークサイドに落ちる、というメカニズムが表現されているのではないでしょうか。特に、①フォースは知識と防御のみに利用するべきもので、これを攻撃の手段としたときにダークサイドに落ちるとされていること(エピソードV)、②ルークが修行の最中、怒りと恐怖に負けて、想像上のダース・ベイダーを打ち倒したとき、倒された相手の姿は自分自身であったこと(同)、③ルークが修行の最後にダース・ベイダーと対決し、自分の怒りや恐れを制御することを学ばなければ、ジェダイ騎士になることができないとされていること、すなわち、どんな「正当性」があっても他人をコントロールせず、怒りや恐れではなく常に愛によって行動することを学ぶことでジェダイ・マスターになること(エピソードVI)、④エピソードVIのサブタイトルは、当初「ジェダイの復讐」とされていたのですが、ジェダイは復讐をしない、という根拠により「ジェダイの帰還」に変更された経緯があります、はいずれも第三のモチーフに関する僕の分析と整合性を持つように思います。

攻撃はダークサイドへの道
ダークサイドに陥る原因は、優しさの有無ではなく、正義の有無ではなく、恐れと怒りを制御できるかに依るということだと思います。恐れと怒りは自分の心の中で生まれるものですが、人は往々にしてその原因が自分以外にあるように感じてしまうものです。そして、恐れと怒りに負けた瞬間、人は自分自身の中にある原因に向き合うことを放棄し、他人を攻撃(要求)する行為に及び、ダースベイダーとなって世の中の無数の問題を引き起こす原因となります。スターウォーズは大きな物語として構成されているため、ダースベイダーは特別な人格と思われがちですが、神話や伝説には相当なリアリティが含まれています。現実の社会には無数のダースベイダーが存在しますし、たとえ「善良」な人であっても一日に何度もダースベイダーとして振舞ってしまうのが人間というものかも知れません。それどころかより善良で、より正義感の強い人ほど、そして自分に正当性があると思える時ほど、ダークサイドに落ちやすいのです。例えば、人に裏切られたとき、それがひどい裏切りであるほど相手に報復をする「正当性」に抗することは難しくなりますし、事故の被害者が加害者に厳刑を望むことは、社会的にも許容される「正義」で、これに法の裏づけがあればなおさらです。この自分の心の中の恐れと怒りを他人に向けたとき人はダースベイダーとなり、自分と向き合うことでジェダイとなるのです。したがって、ジェダイにとっては、「なにが正義か」という議論にあまり意味がなく、「人に要求せずに自分と向きあう」という自己作業が何よりも重要だということになります。自分と向き合うことは、誰にとってもとても苦しい作業なのですが、ジェダイはこのプロセスを通じて自分の幸福と、そして自分の幸福を通じて他人の幸福を生み出す存在なのだと思います。どこから引用したのか、自分でも忘れてしまったのですが、次のような素敵な挿話があります。

神はこの世を創ったとき天使たちを集めてこういった。
「私は自分の姿に似せて人間を創る。彼らは想像性に溢れ、知的で善良だ。神聖なもののすべてが生まれながらの権利として彼らのものになる」
天使たちは言った。
「でも、彼らがその真実を知っていたら、人生がうまくいきすぎて退屈になるでしょう」
「ならば、私はその真実を一番高い山の頂上に隠そう」と神は言った。
「人間たちは簡単に一番高い山に登る方法を見つけるでしょう」と天使たちは言った。
「ならば、大海の一番深いところに沈めよう」と神は言った。
「人間は一番深い大海に潜水する方法を見つけることでしょう」と天使たちは言った。
そのような頭の良い生き物から真実を隠すのはどこがいいかという話し合いに熱がこもっていった。雲の中、月の上、遠い銀河の中…。やがて神はすばらしいアイディアを思いついた。
「わかった。」私は真実を人間の心の中に隠そう。そこは彼らがいちばん最後に探す場所だろうから」
天使たちは拍手した。そこで神はそうした。

オビ=ワンの死の謎
さて、スターウォーズには四つ目のモチーフが存在することに、ごく最近気がつくのですが、僕を最も悩ませたスターウォーズ最大の謎は、ジェダイ騎士であるオビ=ワン・ケノービがダースベイダーと戦って「死ぬ」とき(エピソードIV)、オビ=ワンは自ら最後の戦いを放棄して、敢えてダースベイダーに自分を殺させることを選んだように見える点です。この一瞬のカットは本当に長い間僕を悩ませました。初めてこのシーンを見たときからつい最近まで、実に25年以上に亘って、なぜ彼があのような死に方を選択したのかがずっと気になっていたのですが、最近ようやく僕なりの一つの結論に辿り着きました。

「ジェダイ騎士がフォースを防御のみに利用する」とは、マスターが(自分の正義や愛を根拠として)自分以外の誰かに何かを要求しないということであり、マスターの心の中に生じる怒りや恐れの原因を他人に求めない、ということの比喩だと思います。マスターは人間関係の接点で相手に一切要求をしないため、他人からの攻撃に対して反撃で対抗することはできない(しない)のですが、現実的な問題として、マスターは、恐れや怒りの原因を他人に求める世の中のダースベイダーたちの攻撃の対象になりがちです。この状態において争いを避け、問題を解決する最も効果的な方法は、自分が身を引く(相手の思うようにさせる)ことであり、これを実践する者がジェダイであり、オビ=ワンの死はこれを象徴しているのではないかと思います。

「捨てる」ということ
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが、自分自身にとって最も効率的という発想は、相当常識はずれに聞こえるかもしれませんが、自分が「死ぬ」、あるいは「死」という表現に語弊があるならば、「自分が重要だと考えるものを捨てる」ことによって莫大な効果を生み出す事例は世の中にも、一人ひとりの人生の中にも溢れています。

僕は高校を卒業するまで岩手県の盛岡市で過しました。履歴だけを見れば、小中学校は国立大学教育学部付属の一環校、高校は県下有数の進学校ということではあるのですが、成績は小中高いずれも常に最下層の20%~40%あたりが僕の指定席で、高校入試に失敗し、世の中では珍しい(もっとも私立高校の少ない岩手県ではそれ程珍しいことではないのですが)中学浪人を経て高校に進学しました。中学時代の野球部のチームメイトが高校の野球部では皆僕の先輩となり、彼らから厳しい「指導」を受けることになります。中学校の数学の先生は野球部の監督でもあり、高校受験志望校に対して僕の成績があまりにひどいことに呆れていたと思います。期末テストのひどい点数の答案を僕に返すときの、先生の嫌味交じりの顔つきが今でも印象的です。その後クラスで答え合わせをします。答え合わせの際、もし採点の修正がある場合は先生に申告し、点数を訂正してもらうのですが、当然にして修正を申告する生徒の殆どは点数を上方修正することが目的でした。その中で、僕はそれ程深く考えもせず、採点の誤りに気がつくとそれが上方であれ下方であれ申告することが習慣となっていましたので、余計に変わった生徒と思われていたかもしれません。高校受験も後半戦となり、僕なりの追い込みが奏功し成績も上向きになり始め、勉強への真剣味が増すほどに期末テストの点数と内申書が気にかかる時期になりました。この、折角調子が出始めた時期、僕にしては相当力を入れて勉強して、少なからず結果を期待した数学の期末テストで、やはり散々な点数を取ってしまいました。更に答え合わせで下方修正箇所を見つけてしまい、このときばかりはそのまま黙っていようかどうか一瞬迷ったのですが、結局落胆しながらも先生にこの修正を申告しました。普段僕のことをあまり好きではない先生も、ひょっとしたら今回はこの潔さを褒めてくれるのではないかとぼんやり考えたりもしましたが、僕が修正箇所を申告すると先生は「これ以上下がるのか」と一言。そんなときの先生の表情はなかなか忘れられないものです。

ちょっと前、このときのことを(なぜか)オビ=ワンの死と重ねて考えたことがありました。思い至ったのは、数学の期末テストの答え合わせで僕が下方修正箇所に気付いた瞬間から、答案の修正申告を先生に決意するまでの一瞬は、いわば自分にとってなにか重要なことを「捨てた」瞬間だったのではないかということです。そう考えると、確かに、正直に行動することは、自分の大事なものを捨てる覚悟をすることなのです。期末テストの答案の下方修正申告を決めたとき、僕は、期末テストの点数を高く維持し内申書を少しでもよくしようという気持ちを「捨てて」います。それは、高校合格という目標のために積み上げている階段を数段放棄する決断、と言えば大袈裟に聞こえますが、少なくとも主観的な自分の意識の中では、この階段という、そのときの自分にとっては恐らく最も重要な「モノ」の一つを現実に「捨てる」という「行動」なのです。翻って、それがどんなに小さなものであっても、人が正直なことを決断するとき…、例えば、遊んでいてお母さんの大事な陶器を壊してしまったことを告白する瞬間、学校でのいたずらが問題に発展したときに「自分がやりました」と先生に名乗り出る瞬間、内定が取れないのではないかという不安を抑えて、就職活動で履歴書に偽りのない内容を書こうと決めた瞬間、苦しいノルマを背負い、この商品が売れなければ目標数値が達成できないという恐怖を堪えながら、お客様には偽りのない商品説明を行う瞬間、自分の利害を離れて会社全体のために戦略的な大型投資を決断する、あるいは取りやめる決断をする瞬間、会社の本決算を賭けた大きな案件が今期内に成立しないかもしれないと役員会で報告する瞬間…、どの瞬間も全く同じメカニズムが働いているような気がします。

正直であるということと捨てるということに、このような重大な繋がりがあるという発見は、僕にとっては非常に大きな出来事で、逆に表現すると、正直であるためには捨てる覚悟が必要だと言う気付きでもあります。そして、「捨てる」勇気と決断は、オビ=ワンとジェダイの持つ勇気と決断でもあり、見かけの重要性とは無関係に、全ての正直な決断の局面で全く同様のメカニズムが機能します。このため、小さな正直が実行できなければ、正直な経営を行うことは困難ですし、小さな正直を実行できる勇気は、事業における最大の決断と同様の意味を持ちます。少々大袈裟な言い回しに聞こえるかもしれませんが、数学の答案の下方修正を決断した瞬間は、僕の人生におけるとても重要な決断がなされた瞬間でもあるのです。少なくとも僕の場合、このような小さな勇気の数々によって、その後の人生がどれ程豊かになったか、また、もし小さな勇気を持たなかった場合のその後の人生を想像すると、本当に本当に重要なことだと思えるのです*(2)

明治維新のジェダイたち
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが最も効率的である、ということが最大限に実証された時代は、日本の幕末から明治維新ではないでしょうか。僕は個人的に、飛鳥時代と幕末・明治維新は、日本の歴史において最も重大な二つの転機だと思っているのですが、特に明治維新前後の時代は資料も豊富で、知れば知るほどどんどん引き込まれてしまいます。この時代は「捨てる」ことを決意した多数のジェダイが存在したことが大きな特徴です。明治維新という事実上の国家の大革命の真ん中で、例えば江戸城の無血開城や大政奉還という偉業が実現した奇跡は、「捨てる」ことによって多大な社会的損失を未然に防いだ行為の典型で、日本が世界に誇るべき史実の一つだと思います。これらが成立した影には、西郷隆盛、勝海舟をはじめ、勝海舟の全権使者として事実上交渉をまとめた山岡鉄舟、最終決断を行った十五代将軍徳川慶喜、家老板倉勝静、江戸城無血開城に先駆け自藩備中松山藩を無血開城した板倉勝静の懐刀備中松山藩家老山田方谷*(3)など、数々のジェダイが存在しています。

現代の「成功者」の定義は、おおよそ「多額のお金を得たもの」「有名になったもの」「権力を持つもの」という程度に成り下がってしまいました。人間関係を最も大事にするマスターは、社員をはじめ多くのステイクホルダーのために力を尽くし、自分が最も大事にするものを「捨てる」勇気をもつジェダイです。マスターによるリーダーシップは、その見かけに反して(一見穏やかで、弱々しく見えます)極めて効率が高く、そして何よりもそのような生き方が経営者自身を幸福にします。このような経営者が本当の成功者として若者の目標となり、社会的に尊敬される年になれば良いと思います。

【2008.1.2 樋口耕太郎】

*(1) 別の機会で詳細にコメントしようと思いますが、アナキンの「愛」を含め、一般に「愛」と理解されているものの大半は、「執着」に過ぎないことが多いような気がします。少なくとも本稿の愛の定義では、愛は他人に一切要求しないものであり、愛することによって相手を自由にします。相手に対して何かを求めることは相手の自由を奪う行為であり、愛ではなく単なる執着と呼ぶべきものでしょう。逆に表現すると、世の中で、あまりに多くの執着(他人に対する要求)が愛の名を借りて為されているために、非常に多くの問題が生じているのだと思います。この違いを理解することは非常に重要な意味をもちます。

*(2) このように書くと、なにやら美しいのですが、もちろん勇気を発揮できずに終わった無数の人間関係も同様に経験しています。ひょっとしたら、正直に行動できなかったことの方が多かったかも知れません。それでも何回かに一回発揮することができた小さな勇気は、僕のその後の人生を遥かに豊かにしたとは言えると思います。

*(3) 山田方谷(ほうこく)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)が生んだ幕末の偉人で、歴史上あまり知られた人物ではありませんが、その偉大な功績は知れば知るほど底知れず、なぜこの人物が歴史の中に埋もれているのか僕には全く理解でません。方谷の人生をハイライトすると、とても一人の人物によってなされたとは思えないほど多様かつ重大な実績を残しています。

そして、方谷の本当の物凄さは、彼が為し遂げた一流の成果を、いとも簡単に捨て去ったことにあります。例えば方谷が整備した松山藩の農兵隊は、恐らく当時の日本としては最強水準で、方谷が松山城を無血開城しなければ、北越戦争を凌ぐ戊辰戦争の大戦になっていたに違いありません。通常軍備は戦うためのものと解されていますが、方谷は最強軍備を「捨てる」ことで、全く異なる政治的価値を生み出しています。また、彼ほどの実績と能力と洞察をもった偉人が、歴史に埋もれている理由の一つは、彼が自分自身を歴史から「捨てた」ことによるのではないかと思います。彼は備中松山藩の藩民を救うために、藩主板倉勝静にある意味反する行動をとっています(この両者には強い信頼関係があったとは言え、方谷は主君である勝静を事実上軟禁しています)。彼はこの一件について自分を歴史から捨て去ることで、君主への筋を通しながら藩民を救うという難題を両立させたのではないかと思います。

方谷は、末期とはいえ身分制度の厳しい封建時代に、農民出身でありながら備中松山藩の家老として藩政の全権を揮い、恐らく日本で最も優れた事業再生家であり(僕は、二宮尊徳や上杉鷹山を凌ぐのではないかと思います)、殖産興業を実現した政治家であり、通貨のメカニズムに精通した財政家であり、ケインズが登場する80年以上前にケインズ政策を実践したマクロ経済的洞察力を持ち、幕末時流を正確に読む戦略家であり、長州奇兵隊の十年も先に農民を中心とした西洋式の農兵隊を組織し、当時の日本において恐らく最強水準の兵力を整備し、その兵力は長州奇兵隊を遥かにしのぐと恐れられた軍事家であり(有名な高杉晋作の奇兵隊は、方谷の農兵隊を見た久坂玄瑞がこの兵力に衝撃を受け、長州でこれを真似たものです)、明治維新のクライマックスである江戸城開城に先駆けて、藩民を戦火から救うために備中松山城無血開城の英断を単独で行い、徳川慶喜の大政奉還の上奏文を起草した哲学家・文章家であり、封建の時代に生きながら藩民を守るために政治を行った君子であり、政治家として成功を収めながら私財の一切を開示して蓄財をせず、更に明治維新後も新政府から異例の出頭依頼を再三再四受けながら、その後一切の社会的地位を捨てて自ら農民に戻って田畑を耕し、時代の表舞台から自ら身を引いた人物です。

方谷と松山城無血開城に関する逸話で、備中松山藩のジェダイの死によって、大勢の藩民が救われた挿話があります。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜と共に夜陰にじょうじて江戸に逃れる直前の藩主板倉勝静(かつきよ)は、今まで勝静を護衛してきた熊田恰(あたか)にひとまず国元へ帰れと命じた。神影流の達人で師範役の熊田恰が護衛役の百五十余人の弟子をつれて船十四艘を雇い、混乱する大阪を出帆したのは一月七日のことであった。不運な彼等は連日の西風の強風に妨げられ難航を重ねて、ようよう玉島の備中松山の飛地にたどりついたのが十七日。突然、武装した百五十余名もの敗残兵が上陸してきて、玉島が騒然とした空気に包まれたのは言うまでもないことである。一月十七日といえば、松山城が無血開城を決め、松山藩士が城下街の外へ撤退作業を進めていた最後の日だった。

備前岡山に隣接する玉島に上陸した熊田恰の動静は、たちまち備前藩の知るところとなった。城の留守部隊のほぼ全軍が備中松山の玉島領土を包囲し銃砲を向けた。町内は阿鼻叫喚、右往左往の避難者の混乱で名状しがたい惨状と化した。鳥羽伏見の残党をおめおめ逃がしたとあっては、備前岡山の面子がつぶれてしまう。熊田部隊は完全に周囲を遮断され、文字通り袋の鼠そのものとなった。一月二十一日、玉砕覚悟の熊田恰のもとに、二人の雲水に身をやつした密使が方谷の密書をおびてしのんできた。
「百五十名の命にかえて死ね。」

火花を散らした二つの藩のぎりぎりの妥協線から生まれた結論であった。(中略)

備前岡山藩主池田茂政は、熊田恰の自決を武士の亀鑑と称揚して、目録をそえて金十五両と米二十表を熊田家に贈った。備中松山藩士達に対する感情処理である。死して熊田は家老格を追贈された。年は四十四歳だった。戦火を免れた玉島市民は、羽黒山の頂に祠を建てて熊田恰を祀った。御神体は熊田の遺刀であった。

深山渓谷の長瀬の自宅で山田方谷は見事な熊田恰の最後の様子を聞いた。人前では泣かぬと言われた方谷が涙を流した。死ぬことを覚悟してきた方谷が生き残り、方谷の意をくんだ熊田恰が死んだ。百五十余名の熊田の部下は、彼の自決によって助命された。玉島の住民も又戦火をのがれることが出来た。尊い犠牲である。義と名誉のためには生命を棄てる武士道の時代、死なずに生きる道を選ぶ方がはるかに辛い苦痛を引きずることになる。求めた死に場所を天から拒否され、心ならずも生き残った老残の身には、落城した藩民の前途がずしりと重くのしかかっていた。(矢吹邦彦著『炎の陽明学 -山田方谷伝-』

山田方谷に関連して、方谷を生涯の師と仰いだ河井継之助も、その極めて高い能力に比してアンバランスな小藩越後長岡藩にこだわり続けた幕末の異才です。彼も「死ぬこと」が最大の効果を生むことを理解していた一人で、それが分かる挿話を引用します。

「殿様が将軍さまの御身辺をおまもりになるために上方へのぼられる」
継之助は城内にいて出陣の総指揮をとった。
「お供は六十人」
と、継之助は人数を限っていた。出陣とはいえ、服装は陣笠、陣羽織、義経袴、手甲脚絆に皮足袋といった火事装束に似たかっこうを継之助は指定した。いわば半戦闘服であった。
槍、鉄砲はもたない。
が、それは人目にめだたぬよう荷駄に梱包した。鉄砲はことごとく継之助自慢の最新式洋式銃であり、あつくこもをまいてわからぬようにした。
「六十人とはいえ、いざとなれば五百人の威力があるのだ」
と、継之助は自分の補佐役である三間市之進にもらした。
随行の士は、選抜方式をとった。幹部はことごとく気骨と才腕のあるものをえらび、士はことごとく武芸達者をえらんだ。
この夜、城の御三階に六十人をあつめ、
「京大阪には何者が横行しているか。口に尊王をとなえ、腹いっぱいに不平を蔵し、乱をのぞみ、おのれの名を知られんことを望んでいる連中ばかりである。朴歯の高下駄をはき、長大な刀を帯び、鳶肩をいからせ、目を鷹の目にすごませ、路上を横行し、暗殺暴行を事としている。それが、いわゆる尊王の士だ」
と、明快に規定した。
「が、それらの挑発に乗るな」
と、継之助は意外なことをいった。彼らが斬りかかってくればおとなしく斬られよ、死ね、と継之助はいった。
「さればこそ勇気のある者を選んだのだ」
という。かれらの挑発に乗れば将軍もわが藩公も朝敵にされる。それほど京はむずかしいのだ、と継之助はこの一点に念を押した。

いよいよ今夜上洛ときまった日の午後、継之助は一同をあつめてふたたび訓戒した。
「斬られよ」
という、例の訓戒である。
京は、無警察状態であった。幕府の警察組織はすでに京をひきはらっていた。新撰組も伏見へ退去したし、町奉行は大阪へ去り、京都守護職(会津藩)も大阪にひきあげており、市中を巡回するものは、薩摩、長州、土佐、芸州、尾張、あわせて五藩、いわゆる宮門守護藩の藩兵だけであった。徳川直系の越後長岡藩の藩主と藩兵が京には入れば、かれらは昂奮し、あるいは衝突事件がおこるかもしれない。かつ、市中を横行する者は、新政府樹立をきいて京に馳せ集まってきたいわゆる勤王を称する浮浪の徒で、かれらは好んで挑戦してくるに違いない。
「斬られよ」
というのはそのことであった。
「いっさい刀を抜くな。つかにも手をかけるでない。おとなしく斬られてしまえ」
と継之助はいう。
「もしもだ」
と、念を入れていった。それに応戦すればかれら薩長はその事件を言いがかりにして長岡藩主牧野忠訓を「朝敵」にし、さらに上様に累を及ぼさせ、徳川討伐のよき口実にするであろう、ということであった。(司馬遼太郎『峠』

お元気ですか?
今日はクリスマスですね~!

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていて、
由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた太陽神への
収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスになったと
言われています。冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを
感じる一方で、不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうです。

これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、友達同士でワイワイ騒いだり…が主流の
ジャパニーズクリスマス、あなたは今夜はどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。それとも既にこの連休でたっぷりと楽しまれたかも
しれませんね。

さて、こんなふうに今年も季節の暦の折々にお便りをお送りさせて頂いて
きましたが(文章が長過ぎる!とお叱りを受けながらもしつこく…)、
今年も最後のお便りとなってしまいました。毎回お読みいただき、また、
たくさんご返信もいただきありがとうございました。

私は季節の暦が本当に好きです。
そして季節感を持って暮らしていくことがとても大切だと思っておりますので、
便りも季節の暦の度にお送りさせていただいているのです。

元々中国の季節感だった「二十四節気」が輸入され、少しずつ日本に合わせて
変化をし、すっかりこの国のリズムとして定着したのは一体いつ頃のこと
だったのでしょう。
農業に欠かせない「暦」は国民にとって重要な参考書であったことでしょう。
何日頃に種を蒔こうか、とか、そろそろ服を冬用に替えないとね、という具合に。
江戸時代、「暦」は毎年その年の季節に合わせ、きちんと修正されて売り出され、
人々は必ずそれを買い求めてそれぞれの生活を作りました。当時の農民や漁民に
とって「季節」は「生活」の重要な目安だったわけです。
科学の進歩によって暖房機や冷房機が普及し、私たちの肌の感受性は
退化してきました。今や日本人の多くは「暦」とは月日を確認する為のものとなり、
時計のように時を計るためだけのものとなってきつつあるようです。
でも、「季節感」は揺らいでも、「季節」そのものは厳然とこの国の風土を
この国らしく彩り続けています。どれ程暑い夏も永遠に続くことはなく、
どれ程美しい秋も永遠に続くわけではありません。季節は時とともに巡り、
この国の風土に美しい四季をもたらし続けています。
そうして、どれ程寒い冬に苦しんでいようとも、もう少し頑張れば、次には必ず
春がやってくるのだ、という安心感が、日本で住み暮らす人々の心根の
「負けるものか」という辛抱強さ、或いは「諦めない」という粘り強さを育てて
来たのではないかしら、と私は思うのです。
冬が厳しければ厳しいほど、やがて巡ってくる春に悦びは満ちます。
こうして季節に託して心を切り替えながら自分を励ましてきたのでしょう。
だから、日本人の生命は一年更新です。どれ程辛い一年であっても、大晦日で
区切るのです。綺麗さっぱり前の年のことは清算して一眠りし、元旦には枕元に
まっさらで綺麗な、新しい一年分の生命が訪れます。
現代人一人一人のDNAに眠っているこういう「日本人の心根」をこそ、「暦」に
刻むことが最も重要なことなのかも知れませんね。

今年もたくさんの方々との出逢いがありました。
たくさんお話させていただきました。いろいろな文章を読みました。
そうして感じたことです。
おそらく多くの人が自分の人生への不安におののきながら、なかなか自信を
持てないで恐る恐る生きている、そんなふうに伝わってきたのです。
でも、どれ程ささやかな人生であろうとも、他人の人生を代わりに生きることなど
あり得ません。派手に生きているように見えようとも、慎ましすぎる生き方に
見えようとも、自分自身の人生なのです。大きな人生など無いのです。
人の評判や評価などとは無関係に、実は皆、小さな人生を精一杯に
生きているのだと思います。

この世は修行場のようなものですから、次々とつらいことが起きて、
生きていくのがイヤになることもあるかもしれません。
そんな時がもしもあるのなら、ぜひ鏡の前に立ってみてください。
そして、人生でつらかったことを思い出してください。
小さい時から、いじめにあったり、初恋が実らなかったり、友達に裏切られたり、
お金がなかったり、受験や就職で挫折したり、自信をなくしたり、
あなたにとっては血を吐くようなつらい思いをいろいろしてきたことでしょう。
でも今、あなたはそこにいる。生きています。あれだけのことがあったけれど、
生き抜いてきました。それはあなたに、それらのトラブルを乗り越える力が
あったからです。ちゃんと自分で戦い抜いて、打ち勝ってきたからこそ、
ここにこうしているのです。あなたは強いのです。生命の塊なのです。
鏡の中には、この宇宙にたったひとつしかない、尊い存在のあなた自身が、
いるはずです。何の心配もいりません。これからもちゃんと、生きていく力が
ある人なのです。どうぞ自信を持っていただきたいと思います。

自信という言葉は、“自分を信じる”と書きます。これはつまり、あなたを
認めるべき存在はあなた自身に他ならないということ。
もしも“私なんか…”と思っているのであれば、今すぐ、その考えを
おやめくださいね。
ネガティブ感情にとらわれやすい人は、とてもまじめな優等生タイプが
多いそうです。他人を慮るばかりに自分を引っ込めやすく、第三者の認知など、
何かしら“根拠”がないと、自分を素直に出せないのだそうです。
でも、他人の気持ちは、いくら悩んでみても、推し量ってみても、どうしようも
ありません。だったら、そんなことはきっぱり忘れて、どうせ考えるのであれば、
自分自身のいいところ探し、“私はいかに素晴らしいか”というところに思いを
馳せるほうが、よっぽど建設的だと思うのです。

また、あなたが自分自身を認められずにいるのは、自分がいかに幸福であるかを
実感しようとしていないからではありませんか?
例えば、昨日の出来事を振り返ってみてください。あなたにとってその日は、
どのような一日だったでしょうか?
もしも“いいこともなく、つまらなかった”と思うのであれば、
幸せの取りこぼしをしていませんか?
いいことや楽しいことは、一日のうちにたくさん存在します。
ご飯がおいしかったこと、残業なしで仕事を終えられたこと、時間通りに
待ち合わせ場所に到着できたこと…。些細なことかもしれないけれど、
これらだっていいことには違いありません。
それに、その日一日が無事に終わり、次の日へとバトンタッチできているんだもの、
これ以上の幸福ってないと思いませんか?
たとえ悪いことばかりが重なったとしても、どんなに小さくてもいいことに目を
向けていれば、マイナスに支配されたまま一日が終わることなんて
ほとんどないはずです。

さあ、もうすぐお正月休みが始まります。
一日でもいいから、何もしない日を作ってみてはいかがでしょうか。
私たちはとにかく忙しすぎます。だから小さな幸せを取りこぼしてしまうわけで、
たまには一人でボーッと、自分自身を見つめ直してみるのもいいのでは
ないでしょうか。せわしない日常から自分を切り離してぼんやりとしていると、
いろいろな人に手助けされたり、迷惑をかけながら、日々過ごしていたことを
知ることができ、私一人では何もできない、でも私はここにいられる…と、
自分がこの世に存在できているということを、単純に喜べるはずです。
あなたという存在は、世界にたった一人です。この世で唯一無二の存在。
あなたは他人に評価されたり、他人をうらやんだり…そんなことをする必要が
ないほど、スペシャルな人間。
あなたの人生の主人公なのです。
そのことを忘れていただきたくなくて今回は長々と書き綴ってしまいました。

今年も本当にありがとうございました。
あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように、
そして何より、あなたがどうかこのうえもなくお幸せでありますよう、
心からお祈りいたします。

【2007.12.25 末金典子】

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。

これは、愛の定義であり、マスターの行動原則であり、リーダーの登用基準であり、人と組織と事業を動かすリーダーシップの原動力でもあるのですが、運用に際して、(i)正直な人材は必ずしも「有能」な人材とは限らないが、有能な人材を登用せずに組織や事業がまわるのか、(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、(iii)自分が心からしたいことをしている人材が、本当に機能的と言えるのか、という三つの重要な疑問が提起されるのではないでしょうか。

善人はなまくら刀
(i)について、実際、一般的な経営者にとっては、従業員が正直かどうかに拘らず、単に「有能な」従業員を重用する方がよほど確実で、即効性があり、「合理的」な人事だと思われるに違いありません(そして、実際、世の中の殆どの企業ではそのように運用されています)。しかし、これまでの議論を前提とすると、長期的あるいは本質的な企業価値の向上においては、「有能」な人材よりも正直な人材をリーダーに登用する方がよほど効果的(かつ合理的)である可能性があり、もしそうであるならば、目先の効果に捉われずに正直な人材を組織で活かすことのできる者が、本当に力のある(成果をもたらす)経営者であると思います。

正直な従業員と「有能な」従業員の関係は、「良い売上」と「悪い売上」の関係にイメージが重なります(2007年4月16日のエントリー『売上論《前編》』をご参照下さい)。前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つという仮説ですが、この考え方は一般的な経営と人事の諸問題をうまく説明できるような気がします。人材の「能力」は収益を規定しますが、人材の「人格」は事業力と企業価値を規定します。したがって「能力」に偏重して人材を登用したり(いわゆる「実力主義」というものです)、売上の額や収益を第一に人事を考える経営者は「収益を見て事業を見ていない」状態に陥りがちで、短期的な(とはいえ、時にはこの「期間」は10年継続することもありますが)利益成長を遂げながら、企業の凋落を招くという現象が広範に生じます。そして、この仮説は、新聞を読めば明らかな事実ではないかという気がします。ごく最近の事例だけでも、船場吉兆、赤福、白い恋人、ミートホープ、コムスン…、その他僕の記憶にすぐ上がるものだけでも、大和銀行ニューヨーク支店(デリバティブによる大額損失と証拠隠滅)、シティバンク・プライベートバンキング(株価操縦やマネーロンダリングへの手助けなど)、西武鉄道(有価証券報告書の虚偽記載)、雪印、不二家、関西テレビ(発掘!あるある大事典)、三菱自動車(リコール隠し)…。きちんと調べ始めたらどれだけの量になるか想像もつきません。経営者やリーダーが正直でなかったために企業価値が大きく毀損したり、場合によって破綻に至る事例はあまりに一般的で、この異常な事態が「まあ普通ではないか」と錯覚してしまいそうなくらいです。

これに関連して、二宮尊徳は以下のような言葉を残しています。尊徳の言う「悪賢い連中」とは、有能でありながら正直でない人、すなわち能力本位で登用される一般企業の人材のイメージと重なります。

『善人はなまくら刀のようなもので、悪賢い連中を使いこなすことができない。けれども賢い君主があってこれを用いれば、善政が行われて人民は安息する。悪人は、良く切れる刀のようなもので、悪賢い連中を良く使いこなす。愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができないが、そうすれば悪政が行われて人民は困苦する。だから、わが興国安民法のごときは、悪人を退けて善人を挙用しなければ、その功業を為し遂げることはできないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻一 33)

正直であることは、なまくら刀のように即効性はないかもしれませんが、確実に企業価値を最大化する経営手段だと思います。尊徳はまた次のように表現しています。

『近頃の世の中は、嘘でも差し支えなく渡れるようだが、これは相手もやはり嘘だからだ。嘘と嘘同志だから、隙もなく、滞りもない。ちょうど雲助仲間の付き合いのようなものだ。しかし、もし嘘を持って誠に対するときは、すぐに差し支えるはずだ。例えば百枚の紙から一枚だけ取っても分からないようだが、九十九枚目まで数えれば不足する。百間の縄を五寸切っても同様、九十九間目になって足らないのが分かる。人の身代でも、一日に十文とって十五文使い、二十文とって二十五文使っていれば、年の暮れまでは分からなくとも、大晦日になってその不足が現れる。この通り、嘘は誠に対抗できないものだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「夜話」第十篇 264)

経営における人事問題の本質は、第一に、正直な人材を優先しない能力本位の人事は、短期間でほぼ確実に効果が生まれること、第二に、したがって、短期間の事業的成果を生み出す手段として非常に容易であること(逆に、「愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができない」という所以です)、第三に、正直な人材の登用は、そもそも正直かつ優れたリーダーシップの基でなければ効果的に機能しないこと、第四に、なによりも、正直な人材を機能させることが企業価値を最大化するという事実が全く一般認識になっていない、ということかも知れません。

求めない経営
(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、とは殆どの経営者が感じる疑問、…というより、ひょっとしたら恐怖に近い感情かもしれません。一般的な経営者の殆ど、特に「有能」といわれている経営者ほど、従業員と接する際の大半の時間を、「情報収集」と「決断」と「指示」に充てています。一般的な経営者が従業員に働きかける方法、決断に必要な情報収集は指示によってなされるため、指示という行為を行わなければ、情報収集ができず、したがって決断ができず、そして従業員と事業に対して働きかけ、影響を及ぼすことが出来なくなってしまいます。

サンマリーナホテルでの事例ですが、現場と従業員のことを配慮せず、教科書的な「常識」に基づいて、想いやりの乏しい(と僕には思えました)指示を従業員に対して連発していた総支配人に対して、指示というものを一切しないよう試みることを提案したことがありました。当時僕は社長でしたので、彼の上司にあたることになります。この時点では新・人事考課基準が施行され、「一切要求しない」ことがリーダーの要件と定義されており、僕が既にそうしていていたことと同様の行為を彼にも挑戦してもらうというのが趣旨です。

予想したことではありましたが、ホテル業界と企業社会の「常識」に基づいて30年以上働いてきた彼にとって、「指示をしない」という行為がどのようにしてリーダーシップ、まして総支配人という責任を果すことに繋がるのか、本当に理解に苦しんだようでした。ひょっとしたら僕からの提案は陰湿ないやがらせかも知れないと悩んだり、指示をしない自分が組織の中で無価値に思えたり、ホテルに良かれと思って行ってきた自分の努力や過去のキャリアと実績が否定されたように感じたり、仕事が目に見えて減った自分の姿がとても惨めに感じられたり、従業員から好奇の目で見られているような気がして辱めを受けているような気になったり…。彼が大きな不安と悩みに直面したであろうことは想像に難くありません。その後の彼は、傍から見ても気の毒なくらい当惑し、生気を失う期間が長く続きました。彼にとってみれば、いったい何がどんな理由で自分に起こっているのか、その目的はなんなのか、見当もつかなかったようです。恐らく、例えばこれが新入社員であればそれ程大きなことには感じられないのかもしれませんが、「常識的な」価値観に沿って優れた実績を上げ活躍してきた人ほど、「求めない経営」という発想があまりに突飛で、不条理で、非効率な考え方に思える傾向は強いはずです。両者の発想の間にはそれ程のギャップが存在するということは理解すべき点だと思います*(1)

一切求めず人を動かす
相手に一切求めずに、相手に影響を及ぼすことはどのようにして可能なのでしょうか。論理が循環して混ぜっ返すように聞こえるかもしれませんが、①~③の愛の行動原則を実行することによってです。この行動原則は三つの形をしていますが、一つのものです。例えば、経営者が従業員との人間関係において、正直に、物事の真実を明らかにし(①)、そして、従業員本人が心からしたいことに気付き、できることから実行することの手助けをすること(③)、そして更に、そのような手助けが経営者自身にとっても心からしたいことであることであるとき(③)、経営者は従業員対して指示をする必要がなくなり(②)、あるがままの従業員が極めて大きな生産性を発揮するのです。…一言で「相手に一切求めずに人を動かす」と表現すると手品のように聞こえますが、より正確には、「相手の望むことを実行する手助けを、自分ができる範囲で行う」ということに過ぎませんので、それが機能した場合、相手が自発的に生産性を発揮するのはむしろ当然でしょう。

一般的な経営者は、自分の事業イメージを実現するために、いかに組織と従業員をコントロールするかという発想をしがちですが(指示することはその一手段です)、その拠り所は自分がそれまでに身につけた「常識」「専門性」「実績」「経験」「成果」「プライド」「地位」などです。実際、世の中の経営理論の大半は、経営者は最も合理的な判断を行うことができ(逆に、最も合理的な判断を行えるからこそ経営者であり)、この判断をいかに効果的に組織全体に浸透させ、組織を機能させるか、という前提で構成されています。これに対して、愛の行動原則に従うということは、従業員をコントロールすることを止め、従業員を自由にする決断をするということであり、自分が最も合理的な回答を持つとは限らないと言う前提に立つということであり、一般的な経営者が最も重要視する拠り所の一切を手放すことを意味するため、社会的な成果を上げた、いわゆる実績のある地位の高い人であるほど困難な作業となり、前述の総支配人のように、経営作業や従業員との人間関係以前の問題として自分自身に向き合う必要が生じ、その過程で大きな壁に突き当たることになります*(2)

自分自身に向き合い、壁を乗り越えて、このような発想の転換を遂げた経営者の元では、必然的に個々の従業員が自発的かつ爆発的な生産性を生み出すのですが、その環境において経営者が果すべき役割は、「従業員一人ひとりの個性や組織の個性から個別に生まれる生産性を、最終的に事業的な付加価値に結びつくように事業の生態系をバランスすること」であり、その発想に経営者自身が至ったとき、高い水準で経営がバランスし、事業価値が飛躍的に高まるのです。このメカニズムの詳細と具体事例については別の稿に譲ります。

相手に求めないことの意味
相手に一切求めずに人を動かすということは、非常にパワフルな行為であり、人間関係と企業経営と社会において、極めて重要な意味を持ちます。

一般的な事業において、生産性がなく、莫大な金額が支出されながら、殆どの経営者が支出の事実をはっきり認識していない、という恐るべき二つのコストが存在すると思います。一つは「嘘のコスト」、もう一つは「争いのコスト」です。前者については今まで繰り返しコメントしてきたことですので、この場では主に「争いのコスト」(あるいは「人をコントロールするためのコスト」)についてコメントします。財務諸表のどこを見ても「争いのコスト」といった費用項目は存在しませんので、多くの経営者がその存在を自覚していない所以なのですが、具体的には、例えば、僕が経営を担当し始めたときのサンマリーナホテルでは、前オーナー側勢力の総務・管理部門と運営者であるJALホテル側勢力の営業・運営部門が事実上対立し、お互いを牽制するための有形無形の費用が至る所に生じていました。前述の通り、「争いのコスト」という費用項目はありませんが、その代わりに、機能が重なる管理職の人件費、複数の系統から指示された重複作業、情報が共有されないために費やされる機会損失や費用の二重支出などが、無数の勘定項目に分散記帳されることになります。更に、会社によっては人事的な対立を原因として、重複した事業が開始されたり、それに伴って子会社が設立されたりすることもありますので、この場合の「争いのコスト」は損益計算書ではなく、連結貸借対照表の資産項目に計上されることにもなります*(3)

人々に争いが生じるのは、当事者がそれぞれ自分の価値観に基づいて相手をコントロールしようとする、すなわち相手に何かを求めることが原因です。そして、その行為を正当化する根拠は、殆どの場合が「正義」です。つまり殆どの争いにおいては、当事者双方に必ずそれぞれの正義が存在するという構造になっているのです。突飛な例のように聞こえるかもしれませんが、史上稀に見る大虐殺を行ったヒトラーですら、その動機は彼の価値観に基づいた正義ですし、より重要なことに、少なくとも一定期間、何百万人もの人がその「正義」を現実に支持していたのです。多くの人にとって、正義を求めることは道義的で正しいことだと考えられていますが、現実には相手をコントロールする際に自分の行為を正当化する根拠として利用されることがあまりに多く、結果として正義が争いの最大の原因となっており、正義が存在しなければこの世から争いは消滅するのではないかと思えるほどです。経営的に重要な点は、以上を前提とすると、「企業の中で最も無駄な費用の一つ(「争いのコスト」)は、自分の正義を他人にも求めるために生じる」、逆に考えると「何が正義かという意識を手放すことで、最大の費用を減じ利益を生み出す」可能性があるのです。すなわち、相手に要求しないこと(愛の行動原則の②に該当します)は事業性を生むのです。…もっとも、このように言を尽くさなくても、組織や世の中から争いごとが消滅することで、どれほど組織や社会の効率が高まるかは、誰にとっても容易に想像できるのではないかと思います*(4)

念のためにコメントしますが、以上は、正義であること、あるいは正義を通すことが「良くない」という意味ではありません。何が正義であるか否かに関する自分なりのしっかりした価値観を持ち、行動することは本来とても有益なことだと思います。問題は、あまりに多くの組織や人間関係において、正義と執着(相手に対するコントロール欲求)が混同され、「正義によれば相手をコントロールしても良い」、更に「それは相手のためでもある(なぜならそれが「正義」だから)」と解釈されがちな点にあります。人は、自分の価値観における正義と目の前の現実が食い違うときに苛立ちを感じるものですが、更に「何かをされた」ときよりも、「何かをしてくれない」ことに大きな苛立ちを感じるため、非常に容易かつどのような相手に対してもコントロール欲求が生じる可能性があります。その結果、実体は「誰かが何かをしてくれない」ことに対する(個人的な)コントロール欲求に過ぎない感情が、「収益のため」「企業の成長のため」「よりよい社会のため」「神の意思により」といった正当性を後ろ盾に正義と呼ばれ、限りない争いを生み出し、経営資源や社会資源を大量に浪費している、という構造になってはいないでしょうか。

問題を更に深くしているのは、執着やコントロール欲求に基づいて、他人をコントロールしようとする人は、「私はあなたをコントロールしたい」とは言わずに、ほぼ例外なく「これが正義だから」「あなたを愛しているから」と表現します。一般的に「愛」と表現されているもの大半は、実は執着(コントロール欲求)に過ぎないものです。このように解釈すると、親から「愛」されているはずの子供が却って自由を失ったり、「愛」しあっている筈の夫婦がお互いを束縛しあったり、会社や経営者が「愛」しているはずの従業員がいくら働いても幸福にならない、という社会一般の現象が非常に良く説明できるような気がします。

動機の高さで登用する
(iii)自分が心からしたいことをしている人材は機能的である、ということを実証するためには、結局のところ、心からしたいことをしている従業員を実際に登用してみる以外に方法はないと思うのですが、そのためにはまず、従業員が本当に心からしたいことをしているかどうかを見極める必要があります。世の中の大半の企業は、従業員が生み出した事業的な成果に対して、それが正直な行動の結果かどうか、あるいは心からしたいことをしたことの結果かどうかの違いには関知しませんし、それが経営的に重要だという認識も殆どない状態です。しかしそれ以上に、肝心の従業員の認識が驚くほど乏しいのです。心からしたいことをすることが不適切、あるいは後ろめたく感じる、というくらいならまだ良い方で、自分が心からしたいことが分からない、あるいは、冗談のように聞こえますが、心からしたいことをするということ自体に無関心であることが珍しくありません。

従来企業では、上司の望む仕事をいやな顔一つ見せずに、熱意を持って取り組む従業員が高い評価を受けてきましたし、自分の正直な気持ちや感情に左右されずに精力的に仕事を成し遂げる人材は、人格的に優れていると考えられることが一般的でしたので、経営者が従業員に仕事をお願いすると、大半の社員は「是非やりたい」と答えますし、更に厄介なことに本人も頭ではそう信じているのです。しかしながら、僕のイメージではそのうちの9割以上は、それが心からやりたい仕事かどうかを考えもせず、経営者に対してほぼ反射的に、「熱意を持って」やりたいという意思表示をしているように思えますし、職位の高い人材ほどこの傾向が強いと思います。したがって、経営者が動機の高さで人材を登用しようと思っても、これらの障壁を乗り越えざるを得ませんし、また、皮肉なものですが、最も大きな障壁となるのは従業員という現象が生じます。

以上の前提で、サンマリーナホテルにおいて僕が従業員へプロジェクトをアサインする際の基準は、第一に、そのプロジェクトが従業員にとって本当にやりたいことかどうか確認する、第二に、やりたい気持ちの強さをもう一度認する、第三に、十分にやりたい気持ちが強い人材が現れない場合は、プロジェクトそのものを延期する、そして第四に、結果は本人に問わない、というものでした。そして、そのプロジェクトが採算にあうかどうかのバランスを取るのは経営の問題であり、担当者が責任を負うものではない、という基準を決めて実行しました。

尊徳は、『最良の働き者は、もっとも多くの仕事をするものではなく、もっとも高い動機で働く者』という言葉を残していますが、冒頭に挙げた三つの人材登用基準:

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する、

はまさに動機の高さで人材を登用する際の基準でもあります。

【2007.12.11 樋口耕太郎】

*(1) 総支配人に対するこの対応は当時も賛否両論があり、僕にとっても重大な決断でした。当時僕と彼は組織上のナンバー1・2の関係であり、この人間関係が組織全体に与える影響は多大なものです。特に彼は僕よりもひと回り以上も年上だったということ、彼の派遣元であるホテル運営会社(JALホテルズ)との企業間の関係にも影響を与える可能性があること、彼は総支配人という機能に徹し、ある意味職務上当然の行為を、ホテルに取って良かれと思う観点から行っていたに過ぎず、常識的には彼に何の非もなかったこと、そしてなによりも、彼のプライドと、彼の価値観と、彼の人生に特別な影響を与えることが明らかだったためです。後日談としては、この決断は僕の想像を大きく超える結果を生みました。僕が宣言した三つの行動原則を、総支配人に対して例外なく適用したことを見た多くの従業員がこれに感動し、組織に大きな活力が生じたこと、そして、従業員にとっては、経営者の言葉と行動が一致するという、彼らにとっては初めての体験を通じて、信頼関係が非常に強固になったのです。総支配人との更にその後の後日談もありますが、別の機会があればご紹介することにします。

*(2) 自分の拠り所となっている一切を手放すということは、本当に容易なことではありませんが、反面実に簡単なこととも言えます。例えて言えばタバコを止めることのようなものだと思います(タバコを止めた経験のある方いらっしゃいますか?)。当事者にとって、タバコを止めることは本当に難しいものですが、禁煙を実現した人にとっては極めて容易な作業であり、逆に容易でなければ中々止められるものではありません。周りで禁煙に成功した人の話を聞くと、概して容易に止めたというような言い方をするのですが、これは偶然ではないはずです。禁煙に成功した人が10回目の禁煙で本当にタバコを止めたとしたら、初めの9回は苦しかったから止められず、10回目は容易だったから止められた可能性が高いと思うのです。

そして、タバコが止められない最大の理由は、僕は喪失感だと思います。「もし、このタバコを止めたら、もう一生タバコを吸うことができない、そうしたらタバコを吸うことで得られる楽しい気持ちも、今後二度と経験できなくなる」と言う、「失うことへの恐怖」が最大の原因ではないでしょうか。ところが、タバコをもともと吸わない人にとっては、タバコを吸うことで「得られる」楽しい気持ちなどそもそも必要としないので、このコメントがいかにも間の抜けたものに感じられる筈です。そして、タバコを止めることに成功した人は、後になって「自分は何であんなものをあれほど必要としていたのだろう」と感じることでしょう。

*(3) このように、経営の現場では、「実質的な費用」は必ずしも会計上の費用として計上されているとは限りません。別の費用項目に計上されていれば(例えば二重機能のために計上された「人件費」など)まだ分かりやすいほうですが、事例のように資産項目(とその資産から生まれる非効率な売上)として計上されていたり、機会損失や意欲損失による売上減においては、完全な「簿外費用」と言うことになります。これらはいずれも目に見える経営情報ではありませんので、経営者が事業の実体と生態系を理解しながら感性で把握し、少なくとも自分の持つイメージにおいて数量化すべき点です。経営者が現場を理解することの重要性の一つは、このような点にもあると思います。

*(4) 更に、これは非常に逆説的ですが、「相手に求めない」ことで自分の自由な行動範囲が著しく広がるという効果があります。「相手に求める」行動である限り、それが相手に対してどのような影響を与えるか、それに対する相手の意思はどのようなものか、などの確認や制約が必ず生じるのですが、「相手に求めない」行動であれば、基本的にこれらの制約は一切なくなることになります。尊徳は、これについて次のようにコメントしています。

『およそ人を利することは、相談に及ばない。餅があって、これを隣に贈るのに、何の相談が要ろう。それゆえ、人を利するものである限り、万事支障ができることはない。支障は、己を利するところに生ずるのだ。いま、農民に向かって、お前たちのために池の土手を築き、溝や堀を掘るのだといえば、誰一人として励まないものはない。工事に何の妨げも起こる訳はないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻五 411)

さすがの沖縄も随分ひんやりしてまいりました。
体調などお変わりございませんか?

私は20代の頃より毎日睡眠時間3・4時間という二足のわらじ生活を
送ってきたせいか、体調管理や、健康に関しては幾分か気を配ってきたつもりで
いるのですが、そうはいっても20・30代の時には、せいぜい、運動を
心がける、お休みの日にはしっかり眠る、保存料の入った食べ物は食べない、
栄養の偏りをサプリメントで補う、シャンプーや洗剤などは肌に優しい価格の
高いものを使うなどといった比較的安易なものでした。
長ずるにおよんで、そんなものではないなぁと思ってきました。
もっと体の中からしっかりと変えていかなければと思い始め、
食べるものはできる限りよい素材で手作りしたり
(例えば、おやつにホットケーキを焼く時だって、
市販のホットケーキミックスの中にはたくさんの添加物が入っていますので、
粉からふるうようにするなど)、入浴剤もキッチンで揃うような素材で
口に入れてもよいものを毎日調合したり…。
今、特に楽しいのは、毎日1時間のウォーキングから50分のランニングに
切り替えて走っていること。(自宅前のアラハビーチ近辺)
毎日走っていると、体重が減ったり筋肉がついたりと健康にいいのはもちろんの
ことですが、普段の車生活では気づかないことがたくさん見えてきて
とても新鮮なんです。

さて、その気づいたことの一つを記事にしてみました。(琉球新報さんと
沖縄タイムスさんには却下されましたが!)

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今年、北谷町のアラハビーチに歩行者のための塩川橋が架かった。
毎日ウォーキングでこの橋を渡る度に哀しくなる。あまりにも思いやりの無い橋
だから。
アラハビーチは町中にあってもまだまだ美しい海が広がる。魚だってたくさん
泳いでいる。この塩川橋が架かるまではたくさんの人達が海を泳ぐ魚達を見て
歓声をあげものだ。
ところが、橋が架かったのはよしとしても、この塩川橋、大人の私でさえ
背伸びをして覗きこんでも下の海が見えない。分厚いコンクリートで味気なく
ガッチリ固められた壁のごとき美しくもない橋。柵のようであるなら海を
見ることもできるのに、コンクリートの壁のわずかな隙間からは到底見えない。
安全性というのなら、違う方法はいくらでもあったはず。
そればかりか、雨が降ると橋の両端に水が溜り水びたしに。まだ真新しい橋
なのに。
一体どんな人が設計したのだろう。海の美しさや魚になど興味も感じない人
なのかしら。仕事が取れればいいというお金が大切な人なのかしら。
それを許可したお役所の人はどんな人なのだろう。橋を渡る時に景色など
味わったことのない人なのかしら。全ては業者に委せておけばよいという
事なかれ主義の人なのかしら。
思いはそこに至ってしまう。どうぞそういう人達ではありませんように。
この橋に限ったことではない。どこの町にもそういう心ないものが溢れている。
みんなのお金は、みんなの気持ちを慮り、思いやって使ってほしい。みんなの
ために。
それが、仕事をする、働く、ということなのだと思うから。
「お前さんねえ、はたらくってのは傍が楽になるからハタラクってんだよ」
という落語の一説があるけれども、みんな働くのは自分のためだって思うから
辛くなる。欲得に走る。自分の身の回りの人を楽にさせるため、楽しませて
あげるために働くんだって考えたら、やる気も出るのではないだろうか。
つまり愛する人のために頑張るっていうのが人間一番元気が出るものだから。
人間は風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになった。
でも、それと同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったら、
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないだろうか。
このエネルギーは枯渇しないのだから。
私のモットーはいつも、「いま、愛なら何をするだろうか」。
先ほどの橋の話に当てはめてみるならば、橋の担当者の人達が「いま、愛なら
どんな橋を架けるのか」。その人は家族と一緒に美しい海を渡る時、
どんな橋を渡りたいのだろうか。思い浮かべてみてほしい。
そういう優しいものが町に溢れたなら、人の心も自然に優しくなり、歴史も
きっと変わる。

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こんなふうに愛のエネルギーで働くことができれば、仕事に一種付き物の
「憂うつ感」はなくなるのではないでしょうか。

ただ、この仕事に立ち向う時の「憂うつ感」は、違う面では、今の教育にも
関係している気がするのです。

私もそうなのですが、仕事をしていると、トラブルが起こったり、人間関係が
いざこざしたり、体調がきつかったり、仕事が多く溜まってきたりと、本当に
辛い時があります。
でもその時こそ、社会で伸びていく人と、そうでない人の差がぐっと
出てくるように感じるのです。
それは多分、日本の教育に問題があると思うのですが、受験を筆頭にいい学校、
いい点数、いい成績をめざすために、今の人たちが何を教えられ、
何をやってきたかというと「効率のいい」勉強なんですね。
どういう意味かというと「限られた時間内に効率よく点を取る」ための勉強で、
「効率よく点を取る」ためには、わからないことは後に回して、わかるものから
優先的に点を取っていくんです。このやり方が身についてしまうと、
イヤなことはしない、面倒なことは後回し、楽なことから点数を稼ごうと
するようになる。しかも、興味のあることが「効率のよくない」ことなら
あきらめてしまったり、本当に好きなことを知る機会を持たないまま
大人になってしまうのです。
この考え方を社会に出ても続けようとする、つまり、自分が楽だと思うような
仕事から先にやって、面倒なことは後回しにしてしまうと、
それは正反対なんです。仕事というのは、イヤなことからこなしていかなければ
いけません。面倒なことから片づけていかないといけない。なぜなら、
楽なことは放っておいてもある程度まわるものだからです。
子供のころから勉強してきた処理判断と、社会に出てからしなくてはならない
処理の仕方では、まったく逆の思考をしなければなりません。
これが今の人たちはとても苦手なのだと私は思います。

また、これは仕事に関してだけではなく、
よく「なんとなくいつも憂うつなんです」とおっしゃる方が多いのですが、
それは、いつかはしなくてはならない事や、向き合わないといけないけれど
放ったままにしてある問題を、いつも心の片隅にしまっているからでは
ないでしょうか。いつも心のどこかに「憂うつ」を持っている。
そうではなくて、「憂うつ」っていうものは心の片隅からググッと眼の前に
引っ張り出してきて、真っ先に片づけちゃうべきなんです。やってみれば意外と
「あら、こんなに簡単だったの?」と思ったり、
「先にやっておいたら気が楽になった」ということになったりするもの
なのですから。

さて、今日はいよいよボジョレーヌーボーの解禁日!
ググッと憂うつに向き合った後で、いつもうんとがんばっているご自分への
御褒美に、ぜひやさしいひとときをプレゼントなさってあげてくださいね。

【2007.11.15 末金典子】

正直であることが、(倫理的には勿論のこと)経営合理性の観点からも経営者の必要条件だとして、優れた経営者であるためのクオリティはどのようなものでしょうか*(1)。僕は、人間関係の局面において常に三つの行動を選択する者が優れたリーダーであり、更に、この「三つの行動原則」と「経営バランス」を両立する者が経営者として相応しいと思っています。

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。

これは、今までにも繰り返し登場している「愛の定義」であり、優れた …すなわち企業価値を最大化する… リーダーの定義は、「人間関係のあらゆる接点において、愛を選択する者」、と表現することもできるのです。仮に、「愛が事業性を生む」 …すなわち「三つの行動原則」が企業価値を最大化する… ことが現実であるならば、人間関係の接点で …すなわち企業の実体において… 愛を選択する者がリーダーとして機能するのはむしろ当然のことでしょう。「三つの行動原則」(すなわち愛)を人間関係のあらゆる局面で選択する者が理想的なリーダーであるとして、このような人物を仮に「マスター」と呼ぶことにしましょう。そして、「経営バランス」を習得したマスターが理想的な(すなわち経営合理的な)経営者としての機能を果すのです*(2)

トリニティ経営における「愛」について比較的誤解されがちな点をコメントします。第一に、愛の行動原則がリーダーの基準であるといっても、ダライ・ラマやマザー・テレサをリーダーにすべき、という意味ではありません。そんなことを言い出したら社会の大概の組織は成り立たなくなってしまい、それこそ合理性を欠いてしまいます。第二に、愛は「人間の性質」ではなく、「行動原則」として定義されており、人間性を評価・格付けするためのものではありません。したがって、リーダーもその人の不断の行動によって選別されることになります。第三に、上の三つの行動原則を「愛」と定義していますが、これはトリニティ経営のフレームワークの中で、この行動原則を「愛」と呼ぶことにした、また逆に、「愛」をそのように定義したという意味であり、「真実の愛とはなにか」、といった哲学的、宗教的、人間学的な議論とは異なるものです。そして、第四に、この行動原則をじっくり見て頂ければ分かりますが、どの内容も、そうしようと思いさえすれば、全ての人が(意外に簡単に)実行できるものばかりです。例えば、三つの行動原則で行動する際、嫌いな人を好きになる必要も、自分のしたくないことをする必要も、自分に嘘をつく必要も、他人を変える必要もありません。

マスターの人物像
人間関係の全ての局面において愛を選択する人物は、例えばどのような行動をとるのでしょうか。理想的なマスター経営者のイメージと人物像を具体的に表現することにします。念のため繰り返しますが、以下は「経営者かくあるべし」というものではありません。人間関係の接点で「三つの行動原則」を常に選択する人物はどのようなイメージの人物か、という趣旨でまとめています。「これらの要件を満たさなければ経営者として資質を欠いている」という意味ではなく、「マスター経営者であればこのような行動を取るであろう」という具体的なイメージに過ぎません。例えば、指示を出す経営者(後述参照下さい)は、マスターに比べれば確かに非効率かも知れませんが、不適切とは限らないのです。

第一に、マスターは、なによりも正直な人物です。現在の企業社会では、「法律に違反していない」、「後でばれる嘘をつかない」、「自分の真の意図を隠し通す技量をもつ」、という条件を満たすと「正直」、「誠実」、あるいは少なくとも「まじめ」な経営者と呼ばれるのではないでしょうか。当然ながら、これは本来の意味で正直であることとは無関係です。そして言動の一貫性。正直であるためには、経営者が発する言葉と真の意図が一致している必要があるのですが、経営者の真の意図は、言葉よりも何よりもその行動によって強力に伝達するため(『伝えるということ』参照下さい)、経営者の言葉と行動が一貫していることが正直であることの必要条件といえるのです。

例えば、事業における問題解決は、経営者の重要な仕事と一般に認識されていますが、問題を解決したかどうかもさることながら、問題を解決するために取った経営者の行動自体が従業員に対して重要なメッセージを伝達してしまう可能性があります。収益のプレッシャーを常に受けている一般的な経営者は、問題解決のプロセスという行動よりも、問題「解決」という結果そのものを優先しがちです。プロセスにおける一貫性(つまり正直さ)が失われるという、目には見えないけれども極めて大きな副作用については、矛盾点を隠蔽しながら目をつぶる、といった状況ではないでしょうか。企業の中外で日常的に為される、いわゆる「穏便な対処」の数々はこのパターンに該当しますが、たとえ声を上げてこれに異論を唱える従業員がいなくても、大半の従業員は行動から透けて見える経営者の真意をしっかり感じているものです。このような経営者は、言葉と矛盾する自らの行動によって、「自分は嘘つきだ」と社内に宣伝しているようなものです。「企業理念が浸透しない」、「自分の意図が従業員に伝わらない」、「従業員の意識改革が必要だ」と嘆く経営者は少なくありませんが、その最大の原因が経営者自身の行動にある可能性は殆ど考慮されません。 …この問題を解消する方法自体は非常にシンプルです。経営者が問題を収めるために行動するのではなく(つまり、問題「解決」を目的とするのではなく)、直面した問題に「三つの行動原則」で対処すること(つまり、プロセスを目的とすること)で、言動の一貫性を表現することができます。

第二に、マスターは、リーダーシップと権限は全く別のものだということを理解しており、リーダーシップを発揮するために権限を必要としません*(3)。一般的な組織における「権限」は、「権限が及ぶ範囲の人に対して、その意思とは異なる行動を、指示などによって強要する機能」と、「強要した行動が実行されない場合には、ペナルティを課す正当性」、を実質的に意味し、これらが付与されていることを象徴的に表したものが「地位」だと思います。勿論このメカニズムには一定の合理性があります。例えば、「有能」な人物がリーダーに選別されているという前提では、その「有能」な価値観と判断に多くの従業員が(黙って)従う方が、「合理的」であり、それを短時間かつ確実に実行するしくみが「権限」という機能です。リーダーになるためには地位と権限が必要だと考える人は一般的ですし(例えば、「もう少し権限があればもっと良い仕事ができるのに」と考えている中間管理者は少なくないと思います。僕には、そのような発想自体が良い仕事を妨げている最大の原因だと思えますが…。)、殆どのリーダーには実際に地位と権限が与えられていることから、権限と地位はリーダーであることの要件と考えられています。つまり、現代社会においては、従業員にその意思と異なる行動を強要することがリーダーシップの実質的機能であり、反対勢力にペナルティ課す権力を有している人物が「地位のある人物」として恐れられるため、これは一種の警察権と言えます。全ての警察権は「正義」をその根拠としますが、その「正義」は大方経営者側(と資本家側)に存在するというのが、現代企業社会の現状です。…多くの人が「偉くなりたい」と考えるのは、要はこの権力を手に入れたい、ということでしょう。

これに対して、「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」*(4)ことを行動原則としているマスター経営者は、例えば従業員に「指示」を出すことなく経営機能を果すことができる人物です。事業運営に際して、基本的に従業員の意に反することをさせる必要を感じないため、警察権(権限)を一切必要としません。 …この点が一般的な経営者から理解されることは稀かも知れません。特に、現場をよく理解し実績を上げている「有能な」経営者は、処理しなければならない問題を山のように抱え、時間に追われ、収益と成果実現のプレッシャーを受けながら日々決断と実行を繰り返す日常において、指示をしないということは、会社を放置することに等しいと感じるに違いありません。 …これに対して、マスターは、会社を放置するどころか指示や警察権よりも遥かに強力かつ効果的な方法(仮に「フォース」と呼びましょう。)でリーダーシップを発揮します。それは従業員との人間関係の全ての接点において、第一に、真実を明らかにすることであり、第二に、自分ができることを実行することであり、第三に、従業員の役に立つことであり、そして第四に、必要なときには「手放す」ことです。

「指示」という分かりやすい概念に対して、この四つの「フォース」は御伽噺であるかのように、抽象的で現実味がなく、まして実効性があるとはとても思えないかも知れません。しかし、企業経営のフレームワークにおいて一般的でない(ように見える)、というだけで「フォース」の効果は日常生活に溢れています。例えば、イソップ物語の『北風と太陽』*(5)は、警察権(北風)とフォース(太陽)の効果の違いについてのお話でもあります。問題や原因となる相手を一切変えようとしない方が、よほど効果的に変化をもたらすことができるということを象徴的に表現しています。そして、四つの「フォース」の要素は「三つの行動原則」が形を変えたもので、本質的に前述した定義による「愛」と同義です。すなわち愛がいかに人間関係において、ひいては事業においてパワーを発揮するかということのメカニズムを示しています。「フォース」の効果についての詳細は、別の稿に譲ります。

第三に、マスターは、人の役に立つことのうち、自分が心からしたいことを、できることから実行する人物です。物事には、人の役に立つこととそうでないことがあるとして、このそれぞれに対して、自分が心からやりたいこととそうでないことが存在します。つまり人は誰しも、①人の役立たずに、自分もしたくないこと、②人の役に立たずに、自分がしたいこと、③人の役に立ち、自分がしたくないこと、④人の役に立ち、自分も心からしたいこと、の四種類の行動パターンのどれかを無意識に、しかし常に選択しています*(6)。「常に人の役に立つ行動を優先する」とだけ言うと、何かしら説教じみていて、場合によっては偽善的に感じられるのですが、④を選択することで、自分が心からしたいことをしながら、人の役に立つ行動を優先することが現実に可能になります。

初めは人の役に立つ範囲も小さいかも知れませんが、このような視点で従業員との人間関係に向き合い、自分の役割を模索する経営者は、いずれどこかの時点で、「従業員がいなければ自分も自分の役割も無価値である」こと、「従業員を活かすことが自分を活かす最高の手段である」こと、そのためには、逆説的ですが、「自分をなによりも活かす必要がある」こと、というバランスを理解するようになるでしょう。そのときには、自分が心からしたいことと人の役に立つこと、すなわち、自分を活かすことと人を利することは、対立する概念ではなく、一つのものだと感じるはずです。このようなマスター経営者は、行動に私心がなく、最も人の役に立つ人物でありながら、最も自分の好きなことだけを追求する人物で、人に対して正直なだけでなく、自分に対しても嘘をつくことがありません*(7)。西郷隆盛はこのような人物を次のように表現しています。

『命も要らず、名も要らず、位も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。また、このような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。』

【2007.11.15 樋口耕太郎】

*(1) 「優れた経営者であるためのクオリティ」といっても、世の中の経営者かくあるべし、という意味では全くありません。今まで多くのエントリーでコメントしてきたトリニティ経営の世界観による経営環境を前提とするとき、経営科学的に最も機能する経営者のクオリティはどのようなものであるか、という観点から「優れている」という意味です。

*(2) これを前提とすると、リーダーと経営者の選別基準とプロセスは非常にシンプルになります。第一に正直な人材をその行動から判断・選別し、第二に「愛の行動原則」に沿ってその人の行動を評価して人事考課を行い、第三にその中から経営バランスを習得した人物を経営者として選別するものです。これによって、人事考課、人材育成と個人の成長、リーダーの選別、経営者の選別、機能的な組織運営、企業統治(コーポレート・ガバナンス)の全てが一つのプロセスに統合され、非常にシンプルかつ明確な価値観によって、人事の一切と、更には理想的な企業統治を同時にかつ合理的に運用することができます。すなわち、「トリニティのリーダーシップ論」のメカニズムを運用することは、人事、組織運営(≒経営)、企業統治が一つの原則で統合されるという意味でもあるのです。

*(3) マスターは、リーダーシップを次のように解釈します。

・リーダーは権限を持ちません(仮に権限を付与されていても必要としません)。
・リーダーの役割は、「いかに自分らしく、人の役に立つか」のみです。
・リーダーとは、奉仕する能力が相対的に高い人物とその役割に対する呼称であり、タイトルや地位とは無関係です。
・リーダーにとって、タイトルや地位は能力は特権や褒章ではありません。また、競争によって「勝ち取る」性質のものでもありません。活用して何かの役に立たせるためのツールのようなものと言えるでしょう。

*(4) 「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」という行動原則は、「従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」、という意味でもあります。この議論の詳細については『トリニティの人事論《その5》』を参照下さい。

*(5) 『北風と太陽』

北風と太陽が、どちらが強いかで言い争っていました。議論ばかりしていても決まらないので、それでは力試しをして、旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めよう、ということになりました。北風が、初めにやりました。
北風は思いきり強く、「ビューッ!」と、吹きつけました。
旅人は震え上がって、着物をしっかり押さえました。
そこで北風は、一段と力を入れて「ビュビューッ!」と、吹きつけました。
すると旅人は、「うーっ、寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」と、今まで着ていた着物の上に、もう1枚重ねて着てしまいました。
北風はがっかりして、「きみにまかせるよ」と、太陽に言いました。
太陽はまず初めに、ポカポカと暖かく照らしました。そして、旅人がさっき1枚余計に着た上着を脱ぐのを見ると、今度はもっと暑い、強い日射しを送りました。ジリジリと照りつける暑さに、旅人はたまらなくなって、着物を全部脱ぎ捨てると、近くの川へ水浴びに行きました。

人に何かをしてもらうには、北風のように、無理矢理ではうまくいきません。太陽のように、相手の気持ちになって考えれば、無理をしなくても人はちゃんと動いてくれます。

*(6) 例えば、上場した後も自分の持ち株を手放したがらず、自分の職(地位)に執着を持つオーナー経営者は、②に該当しそうですし、自分を殺しながら平和や真理という「正義」を語る組織宗教家は、③に近いかもしれません。偏見と風刺を交えたイメージでは、①はやくざと政治家とコンサルタント、②はベンチャー企業経営者とファンド投資家と外資系証券マン、③は官僚と宗教家とボランティア、の行動パターンと言ったら出来の悪いジョークになるでしょうか(勿論ここに上げたどの業界にも、誠実で立派な人は少なからず存在します)。

*(7) 本稿をドラフトしているときに、ある方から、「何が相手の役に立つかどうかを、他人である自分が判断できるのだろうか」、という質問をお受けしました。確かに、何が相手のためになるかは、本当の意味では分かりません。相手にとって良かれと思ってしたことが、逆の効果を生むということは、あまりに一般的なすれ違いです。それよりも、相手のためになるということにどれだけ真剣に向き合い、行動したか、ということの方がよほど大きな意味を持つと思います。

例えば、人が人を深く感動させるとき、あるいは人生において大きな影響を与えるとき、その共感が本物であればあるほど、何がどのタイミングでどのような作用で心に響くかどうかを予想することは実質的に不可能です。何かに真剣に向き合った人の一言や深い生き方から搾り出された一つのしぐさが、共感した人の人生を永遠に変えることがありますが、この効果自体を目的としたり演出しようとした時点で、目論見どおりに機能することはなくなるでしょう。

これが三つの『行動』原則として定義されている理由の一つでもあります。すなわち、何が正解かは建設的な問題提起ではなく(どのみち分かりませんので)、相手の立場に立って何が正解かを誠実に求めて行動すること自体が価値を生み出すという考え方です。そして、重要なことですが、「三つの行動原則」の全てを同時に適用すること、 …単に相手の役に立つということだけでなく、自分の行動は相手に対しても自分にとってもほんとうに嘘がないだろうか、自分は無意識にでも言外にでも相手に対して実質的に何かを要求したり裁いたりしていないだろうか、いま、愛なら何をするだろうか、 …と考えながら試行錯誤するプロセス自体が、人間関係において(したがって、事業において)成果を生みます。そのような意識で相手に接した結果、相手のためにならなかったと思える状況が生じた場合でも、自分にはもう一つ学ぶべきことがあった、ということに過ぎないと思います。

…蛇足のコメントですが、最近は「さりげなく感動を演出する」サービスが一流とされているようですが、演出できる範囲のサービスで人間がほんとうに共感したり感動したりするものか、僕はかなり疑問を感じているのです。

こんにちは。
お元気ですか?

今日はハロウィンですね~!
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。その後、多くの聖人たち(Hallow)を
祝う万聖節となり、近年、欧米では魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を
回ったり仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのことです。
日本では子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事が
ポピュラーなアメリカでは、大人たちも本格的な仮装に身を包み、
街中はもちろん職場にまで登場。友達や仲間同士で集まり、パーティで
盛り上がります。
大人もたまには子供に帰って遊ぶという気持ちは大切なことかも
しれませんね。

そこで私もちょっと童心に帰って……思い出したことがあります。
子供の時から引っ掛かっていたことがこれなんです……。

女の子は小さな時、ままごとをしますよね。
私も毎日のようにままごとをして遊んだものです。私がお母さん役になり、
人形を赤ん坊にして、ハンカチのおしめをとり変えたり、抱っこしたり。
お父さん役にはやはり男の子が望ましいと、私はお父さんになる男の子を
探しました。そして一つ年下のやさしくて静かな健ちゃんをままごとに
引っぱり込むことに成功した時、私はうれしくて、でもなぜだか
うしろめたかったんです。男の子がままごとを喜んでやるとは思えなかったので、
だまくらかした感じがして、いつ「やーめた」といわれるかハラハラしたから
なんだと思います。戦争ごっこをしている外の男の子に見られたら健ちゃんは
恥ずかしがるだろうとなと思いもしたり…。
それでも健ちゃんは泥まんじゅうがのっかっている木の葉を恥ずかしそうに
持ち上げて「パクパク。ああ、おいしかった」といってくれて、
私は酔ったように甘ったるい気分になりました。
ごはんを食べ終わると健ちゃんは会社へと出かけていきます。ござのへりに
ぬいだ靴をはいて「行ってくるぞ」と言い、私はござのはじに両手をついて
「お早くお帰りになって」とおじぎをし、健ちゃんは、すぐそばの木を
一回りして「ただいま」と帰ってくるのです。
ただそれだけのことでした。それだけだからすぐあきもしました。
あきても私はままごとが好きであり、健ちゃんをお父さんにする
うしろめたさとうれしさを何度も味わったものでした。

そして私が大人になり、初めて男の人に結婚を申し込まれた時(!)私は
ままごとに健ちゃんを引っぱり込んだのと同じような気がしたのです。
男は本当は結婚なんか望んでいないんじゃないか、戦争ごっこを
泥まみれになってやっていたいんじゃないか、と。
友だちの結婚式に出席してお祝いしているさなかも、はっとわれにかえって、
結婚式が大げさなごっこであり、集まって来た男たちは、木の葉っぱの上の
泥まんじゅうを「パクパク」といって食べている仲間をひやかしに
来ているようなそんな気がしたりしました。
つまりは、男って本当は結婚などせずに、ずっと自由に子供のままで
生きていたいのではないのかしら、ということを感じ続けてきたわけなんです。

それどころか、男って実は一生“子供そのもの”のままなのかもしれません。
梅佳代さんの写真集に「男子」というのがありますが、これがすごくおもしろくて、
小学生に「今から写真撮るよ~」と声をかけると、女子は可愛くちゃんと
カメラにポーズをとるのに、男子はというと、好奇心いっぱいの動物のように
レンズににじりより、定番が白眼をむいてのポーズ。あとは鼻に手を突っ込む、
道路に寝っころがる、など、とにかくおバカなポーズばかりとるんです。
この写真集はこのおバカな(つまりは照れ屋な)男子ばかりを愛情込めて
撮り集めてあるものなんですが、つまりは、男は大人になったってこういう
習性はさして変わらず、あいも変わらず照れ屋で、子どもの頃プラモデルに
熱中していた時そのままに、「へ? いまだにそんなことを?」なんてことに
熱中していたり、夢見続けていたりするものではという気が、いろいろな男性と
お話していると感じています。

そしてまた男は子供なだけではなく、とても繊細で脆くて弱い生き物だなぁと。
失恋となると、女は、別れるまでは「捨てないでぇ~」などと泣いてわめいて
大騒ぎするくせに、いざ別れてしまうと半年もするとケロッとしているもの。
でも男はそうはいきません。結構いつまでも引きずっている人が多いようです。
もしかして「女々しい」とは「男々しい」と書くのではないだろうか、
と思うぐらいに。まあ、神代の昔から、「原始、太陽は女であった」と
言われているのだもの。逆に、男はロマンティストで、神経が繊細で、生理的にも
精神的にも弱いからこそ、神様は男に腕力を与えたもうたのではないでしょうか。

自分が歳を重ねるにしたがって、自分より年上だったり、尊敬できるなと
思う人でも、何かのときにどうしてこんな子供なんだろうって感じることが
よくあります。私はそういう意味では男の人には大人を求めようとすることを
しなくなりました。そうなると逆に子供の部分がすごく愛おしくなったり
するんです。これは決して男の人をバカにしている意味ではなくて、
違う意味での尊敬感なんです。つまりは、女が「男は強いもの!」と決めつけず、
変に男に頼らずに求めずに「男は繊細で子供のように純粋で脆いもの」と
愛おしく想い、包むように愛すことができたなら、世の男女の関係って、
もっとスムーズで、素適なものになるような気がするのです。

でも、信頼できる大人の強い男性に愛されて、心から落ち着き、
安らげる関係こそ“心に優しい恋愛”だと多くの女は思ってしまうわけです。
私も以前はそう思っていました。でも今は、相手から癒されるために恋愛を
するのだとは捉えられなくなりました。
そもそも恋愛ってそんなに癒されるものじゃありませんよね。もちろん幸せな
恋愛もあるけれど、そこまでにはつらさや切なさを乗り越えなければ
ならなかったり、手に入れた後でもまた行き違いが起きたり…。
癒される瞬間があるとしたら、それは人を心から好きになれる自分に気づいた時。
その気持ち全体が、心を癒してくれるのではないかと思うんです。
つまり、他人に寄りかからず、自分の気持ちを純粋に信じた時、
「相手の愛情に癒されるのではなく、人を好きになった自分自身に癒される。」
のだと今は思います。

さてさて、今日は、純粋で子供な男性と一緒に、女性も優しく包み込むような
気持ちで、ハロウィンをわいわい楽しみましょう!

私も魔女に変装し、八ロウィンの飾り付けやかぼちゃのパイやケーキとともに
あなたをお待ちしております!

「麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!」

ハリウッド映画といえば能天気な作品の代名詞のようもに言われますが、中にはその見かけとは全く異なる普遍的なモチーフが秘められているものも少なからず存在し、アメリカという国の底力を感じることがあります。スターウォーズシリーズはその典型でしょう。1977年の第一作以来、斬新なシナリオと独創的なSFX技術が大きな話題を呼んで一大ブームを巻き起こしたのですが、僕はシリーズが大ヒットした本当の理由はそのモチーフにあると思っています。ジョージ・ルーカスの昔のインタビューで、彼がスターウォーズのシナリオを構成するときに、「世界中の神話や伝説を研究した」とコメントしていたのですが、それを聞いて納得しました。僕が勝手に考えるスターウォーズの隠れたモチーフは、第一に目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」だと思っています。

フォースの存在は目に見えませんが、それを信じる人にとっては現実であり、その力によって宇宙を動かすことも可能です(第一のモチーフ)。しかし、その力は力でしかなく、フォースを操るマスターの心の在り方ひとつで善にも悪にも利用され得るのです。逆に表現すると、善と悪の相違点は人の心の中にしかありません。ジェダイ騎士(ナイト)になるために厳しく長い修行が必要とされるのは、(信じる力を通じて)フォースの力を身につけることは勿論ですが、それ以上に善と悪の関係を理解し、自分自身を善の道におく心の在り方を学ぶためです。実際、フォースを制御する人の心が悪によって支配されるか、善によって導かれるかによって、ダークサイドに堕ち宇宙を蹂躙するダースベイダーになるか、宇宙を開放するルーク・スカイウォーカーになるか程の差が生まれるのです(第二のモチーフ)*(1)

冷静に考えると当然のことなのですが、どんなに優れた能力(フォース)を持っている経営者であっても、どんなに商売が上手な経営者であっても、それが企業価値の向上とステイクホルダーの幸福という目的に沿って利用されなければ全く意味を持たないどころか、大きな害をもたらすことになります。「羊の番をする狼」に望まれる第一の資質が能力ではなくて正直さであるということは個人の道徳と企業倫理の観点で議論されがちですが、経営合理性の議論においても極めて重要な意味を持つのです*(2)。ここから導かれる、機能する経営者の第一法則は:「正直であることが経営者の必要条件であり、この条件を満たさない者は、どれ程『能力』を有する者であろうと、いかに『実績』を上げていようと、経営機能を果す上では非効率である」。大多数の企業は、経営者の選別に当たって事業能力や企業への収益的な貢献度や実績を最重要視していますが、この方法は「能力」のあるダースベイダーを経営者として大量に選択しがちなメカニズムであり、著しく合理性を欠いている可能性があります。企業社会の現状はこれを実証しているように見えるのですが、如何でしょう。

「正直」の運用は可能か?
正直な経営者は効率的な経営機能を果し高い事業性を生む、ということが仮にその通りだったとして、現実に正直な人物を優先して組織的に選別・登用している企業はそれ程一般的ではありません。それにも関わらず殆どの企業が「わが社では既に誠実で正直な人物を経営者に選んでいる」と答えるのではないでしょうか。これらの企業にとって、正直さは選別基準として機能するためのものではなく、何らかの基準によって既に選別された経営者への枕詞になっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。営利企業の組織では、収益をもたらす者を登用したいという意識がどうしても働くため、正直さを優先する人事を行うことは相当の勇気が必要で、前述のように収益を上げる人物を「誠実な人」と呼ぶことの方がよほど簡単だということがあるかもしれません。

現代の企業社会の価値観を常識とする人にとって「正直さ」という選別基準は、一見恣意的で、組織的にはとても運用できない、という反論も予想できそうですが、正直な人材や人格の高さによってリーダーを選別し登用することは、かつての(日露戦争頃までだと思います)日本ではむしろ常識的なものだった筈です。例えば、二宮尊徳は日本が生んだ偉大なターンアラウンド・マネージャー(事業再生家)ですが、尊徳の人事哲学も「最良の働き者は、最も多くの仕事をするものではなく、最も高い動機で働く者である」という言葉が象徴するように、能力や実績よりも人格と志を優先したものでした。

このような文化の基礎となる日本の教育現場においても、正直さや徳が最重要視されていました。以下は内村鑑三著『代表的日本人』(中江藤樹)からの引用です。

『私どもが学校教育で学ぶことは、力は正義ではないこと、天地は利己主義の上に成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。その他多くのことを知った。  学校教育の目的について、第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。それを、真の人、君子と称した。  さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』

…これらの価値観が古臭いと感じられるか、普遍的であると感じられるかは様々だと思いますが、少なくとも本稿の議論は、本質においてこれらと全く同様のことを別の言葉で表現しているに過ぎません。

「正直」の実践
正直な経営者を輩出し、選別する組織環境を実現するために、例えば次のような実践が可能だと思います。第一に、大半の企業情報をオープンにすること(『売上論《後編》』を参照下さい)。これは正直な人材登用を行う際の必要条件ではありませんが、実行できればこれを含めた経営全般作業を著しくスムーズにする効果があります*(3)。一般的な経営者や経営幹部は、(特に自分たちが独占している)経営情報を開示することに激しい抵抗感を持ち、「情報開示は経営に悪影響を及ぼす」という論調になりがちです。このような状況を乗り越えて、現実に徹底した情報開示を行う経営者はごくごく少数だとは思いますが、本気でこれを実行することができれば事業へのメリットは本当に莫大です。誇張だと思われるかもしれませんが、会社に存在する問題の大半が解消するといっても良いくらいです(更に、この解消にあたって、費用は殆どかかりません)。…これも皮肉なことに、経営者と経営幹部が会社の問題の大半を生み出している、そしてその改善をもっとも阻んでいる、という一般企業の現状に符合するような気がします。

第二に、恐らく何よりも重要なことだと思いますが、自分自身が正直であること、正直に行動すること…他人に対して、そしてそれ以上に自分に対して。正直さは優れた経営機能を発揮しますが、その本質は個人の生き方です。機能を果すために正直であろうとしても、そもそも経営者がそのような生き方をしたいと望まなければ意味のある効果は生じません。要は、経営者の生き方、あり方を芯から変えなければ機能しない性質のものなのです。かくして、「正直な人間であること」、「人間関係に誠実であること」は、経営者の全くパーソナルな問題でありながら、同時に企業存続の最重要経営課題になるのです。

【2007.10.29 樋口耕太郎】

*(1) アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなる最大の原因は、彼の中の「悪」ではなく「愛」(の解釈)によるものではないだろうか…?第三のモチーフについては、後の稿でコメントします。

*(2) これから、「倫理的であることは経営合理性を持つ」、あるいはトリニティ的に表現すると「愛は極めて高い事業性を持つ」、という発想が生まれます。現代的な経営理論からは一見かけ離れる印象があるかも知れませんが、このような思想に基づく実践と事業の成功事例は意外に溢れいています。例えば、二宮尊徳の報徳思想では、徳と経済行為を同一のものと考え、関わる人々の徳を高く導くことによって数々の事業再生を成功させています。「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。」という尊徳の言葉は、この哲学を象徴しています。

さらに、二宮尊徳のみならず、西郷隆盛、上杉鷹山、山田方谷などの日本が輩出した代表的マネージャー達が一様に同様の哲学と価値観に基づいて事業・国家再生を成功させており、非常に普遍的かつ実践的な手法と言えるのです。僕は、このような実践哲学の方が、流行によって目まぐるしく移り変わりがちなアメリカ型経営理論よりもよほどリアリティがあり機能的だと思っています。これからの経営理論は東アジア的な価値観に学ぶことが多くなるのではないでしょうか。以下は再び『代表的日本人』からの抜粋です。

『「左伝」にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方次第で、盛衰、貧困、興亡、生死がある。用心すべきではないか。世人は言う。「取れば富み、与えば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。徳に励むものには、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。』(西郷隆盛)

『東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木に良く肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」』(上杉鷹山)

*(3) 高い水準で経営バランスが達成している状態は、事業の生態系が無理なく機能している状態です。このとき、事業の生態系に対して働きかける適切な経営行為は、生態系としてかみ合っている複数の事業要素に同時に効果を発揮します。例えば、このような状況で情報をオープンにすることは、情報管理の観点から優れているだけでなく、正直なリーダーの選別を前進させ、人事の公正感を高め、売上を価値のあるもの(「金色の売上」)にし、新規事業のアイディアを生み出し、顧客層を高めるなどなどの効果を生み出します。常識的には一つの事業的な目的を達成するために、一つまたは複数の経営行為が行われることが一般的ですが、トリニティ経営の発想では、一つの経営行為が複数の有効な結果をもたらすことはむしろ必然です。反対に、一つの経営行為が複数の結果を効果的に生まない状態は、適切な経営バランスが取れておらず、事業の生態系が何らかのダメージを受け、非効率な経営状態であることを強く示唆します。

経営者であることの条件を明確にする、すなわち、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という各問いに回答を出すためには、①リーダーが果すべき機能は何か(どのような機能を果すリーダーが企業価値を最大化するか)、②機能的なリーダーを選別するしくみとはどのようなものか、をそれぞれ検討することが効果的です。そして、トリニティ経営理論が機能するという前提では、この問いに対するシンプルな回答は、「より高い水準の経営バランスを取ること」であり、「高い水準の経営バランスを理解し、実現する力のある経営者を組織的に選出するしくみ」が企業に求められることになります。まず、これらを実現する要素を議論する前に、これらを阻害する構造と要因についてコメントすることにします。

経営者は狼?
前回のエントリーでコメントしたポイントですが、経営者のあり方次第で企業価値は著しく影響を受けるにもかかわらず、現実の企業社会では、経営者であることの条件(すなわち経営者が辞任する際の条件)が曖昧なまま放置され、経営者を評価するしくみと経営者を排除するしくみが殆ど機能していません。これは、現代企業社会の現実として、経営者は自分を含む全てのステイクホルダーの利害を最もコントロールしやすい立場にいること、そしてそれに対する牽制機能は事実上本人の価値観と良心のみ、ということでもあります。

言ってみれば、世の中の大半の企業は、特段の疑問も持たずに、狼に羊の番をさせているようなものです。株主(農場主)はその「対処」として、狼(経営者)がお腹をすかせないように、多額の報酬を与え(個人的には、世の中の経営者の報酬額は大方過大評価されていると思います)、従業員(羊)はほぼ無条件に狼の善意を信じようとします。皮肉な言い回しで恐縮ですが、世の中で一般的な企業統治の概念に基づいて株主と経営者の「利害の一致」を試みる作業は、まるで、有能な狼に対して、羊を食べなかったご褒美に、最高級ステーキを毎晩ご馳走するような状態です。それでもこのやり方が機能すればまだ良いのですが、通常お金持ちが最も欲するものはお金であり、「狼はお腹いっぱいであれば羊を襲わない」、という前提自体甚だ疑わしいものです。むしろ狼は、「ただそれができるから」という理由で、日常的に羊の食事を直接間接に自分の利益にすることがあまりに一般的であり、更に殆どの狼はその行為を「羊のため」または「農場のため」と表現し、場合によっては真剣に(誠実に)そう信じている者も少数ではないのです。中には自制心があり誠実に羊の番をする「誠実な」狼も社会に存在します。それでも経営者の心理としては、利益をむさぼろうと思えば出来たところを、自分はそれをしていない分、「より評価を受けるに相応しい」とどうしても思ってしまいがちです。「それができるから」という理由で利益を貪らないのは、特別な評価に値する成果ではなく、経営機能を果すための必要条件だ、と考える経営者を擁する企業は本当に幸運ですし、実際経営も非常に有効に機能するのではないかと思います。

重要なことなので、いつも繰り返しこのようなコメントをしますが、これらは一般的な経営者や、現在の企業経営のあり方や企業統治のしくみを批判しているのではありません。「経営者かくあるべし」という意見の陳述でもありませんし、経営者に相応しい人格を定義しようとしているわけでもありません。以上は、一般的な経営者がおかれている環境についての単なる現実認識の一つのアプローチであり、機能的な経営者のメカニズムと条件を分析するプロセス…このような現実を直視した上で、この環境で最も機能する経営メカニズムを見出す作業…に過ぎません。

経営者が嘘をつくとき
経営者を取り巻く環境がこのような状態では、一般的な経営者が、①経営者自身の利害と企業の利害を曖昧にし、②自分の利害となる数々の言動について、「従業員のため」「会社のため」「株主のため」と表現したくなるのは、むしろ構造的な必然と言うべきでしょう。より問題を複雑にしているのは、意外に多くの経営者はそれが会社のためになると本気で(ときには「誠実に」)考えている点です。経営者が真剣に語ることに対して、一部の従業員が直感的におかしいと感じても、組織の「権力者」に対して明確に反論することは非常に困難です。かくして、経営者の意図は会社の意図ととなるのですが、実際、最近の経営論では、経営者の意図が従業員に広く浸透している企業ほど「良い企業」と考えられているようです。

逆に考えると、経営機能を分析する際に、経営者個人の問題と経営(企業価値)の問題を明確に分離して認識することが有効ではないでしょうか。例えば、特に大きな会社に務めたことがある方なら誰でも経験があると思いますが、決算期や月末になると営業キャンペーンを行ったり、決算セールを行ったり、特に営業現場は相当慌しくなるのが常です。僕はずいぶん前から、これはいったい何のためなのだろうと漠然とした疑問を感じていました。もちろん、そんな疑問を実際に口にしたら、上司からは「会社のために決まっているだろう。お前は会社から給料を貰っているじゃないか」と言われるに決まっていますし、大体「やる気がない腑抜けた社員」と思われるに違いありません。でも、例えば、お客さんにとっては来月買う方が都合が良いのに、会社の都合でお願いして売上を前倒しすることが本当に意味のある仕事なのか、釈然としませんでした。反面、会社にとって重要な営業キャンペーンで成果を上げれば上げるだけ、賞与や昇給や昇進によって評価されることも事実で、「これは自分のためになることだ」と納得しようとしたこともありました。仮に同様の質問を経営者にぶつけると、恐らく回答は、「今期の収益目標の達成は会社が成長するための必要条件であり、競合他社に打ち勝ち業界ナンバーワンの座を維持するための利益であり、株主に対して会社が約束したものであり、これを達成することによって従業員の昇給と生活が確保できる」、という趣旨が返ってくるのではないでしょうか(もっとも、社員がそんな質問をした時点で、会社から相当な「異端」扱いされると思いますが、それはそれとして)。

しかしながら、…あくまで一つの事例としての議論ですが…会計上の期間収益を確保する行為と企業価値を高める経営行為は似て非なる概念です。例えば決算直前にディスカウントで在庫を処分し売上や会計上の期間収益を確保する行為は、もっと高い値段で売れるものを敢えて安売りするということですので、むしろ企業価値を低下させる可能性が高いのです。反面、一般的な経営者(特に上場企業の経営者)は、単年度決算(場合によっては四半期決算)に責任を持ち、この進捗状況によって自らの評価や進退が決定されるしくみになっています。すなわち、企業価値を高めるために適切な経営行為と、経営者の(進退を決する)個人的な事情とが真っ向から対立する状況が日常的に生じているのです。このように背反する選択肢に直面する場合、一般的な経営者は、ほぼ間違いなく会計上の予算達成を優先し、そしてそれを会社のため、成長のため、従業員のため、と表現して全従業員に達成を義務付けるでしょうし、達成に非協力的な社員は人事上ペナルティを課されることになります。会計上の期間収益の最大化が必ずしも企業価値の最大化を伴わないのであれば、期間収益の最大化を会社全体の目標にする行為は、やはり経営者の「個人的な事情」というべきですし、それを経営者が「会社のため」と表現するのは「嘘」以外の何者でもないと思います*(1)

以上の議論は、「企業は会計上の期間収益目標を設定するべきではない」という意味ではありませんし、収益目標を無視して経営者の立場が維持できるというような現実離れの議論をしたい訳でもありません。この目標設定は企業価値を必ずしも最大化せず、経営者の個人的な利害を優先する結果になる、という事実を表現しているに過ぎず、それ以上の意味もそれ以下の意味もありません。…これも現実認識の一つのアプローチです。

【2007.10.21 樋口耕太郎】

*(1) 「嘘」という言葉は一般に倫理的、道徳的価値観を伴って使われるため、少なからず感情的な反応を引き起こすことが一般的ですが、ここでは(というよりも「トリニティ経営」に関する議論全般において)、単純に「ある人や組織が本質的な目的としている結果と、その目的を達成するための行動について為される説明が異なること」という意味で使用しています。したがって、例えば「経営者の嘘」と言う時、その際に経営者に悪意があるかどうかという点は問題にしていません。これは、経営環境において、経営者が「嘘」をつくとき、それが悪意によるものか、無知や誤解によるものか、あるいは善意に基づくものかどうかは、経営的にあまり差異がない(どの道従業員には「嘘」として伝わりますので…)、という前提によるものです。この定義に従うと、自分自身や企業の本質的な目的を自覚的に認識していない経営者は、経営行為において頻繁に「嘘」をついてしまう可能性が非常に高まることになります。

事業環境において経営を機能させるのがリーダーだとすると、リーダーシップのない経営は、ガソリンの切れた車のようなものですし、経営を理解しないリーダーはハンドルのない車を運転しているドライバーのようなものでしょう。経営論はリーダーシップ論と一体のものとして捉えられるときに最も機能するはずで、世の中の経営論の数々がリーダーシップ論と対で語られないことは合理性を欠くのではないかと思うことがよくあります。別の表現では、事業と経営に関する多くの議論は、突き詰めるとリーダーがいかに行動し、いかに在るか、という選択を効果的に行うためにあるべきものではないかと思います。どんなに優れた経営理論の数々も、それらがリーダーによって機能的に実行されなければ意味をなさないからです。

経営とリーダーシップが一体のものであるという前提においては、事業をどのように定義するか次第で、「有効」なリーダーシップの形は幾通りも存在し、事業で機能するリーダーシップを定義するためには、「事業とは何か」という問いに回答しなければなりません。本稿でリーダーシップ論を取り上げる前に、経営とは、事業とは、売上とは、経済活動とは、マーケティングとは、などなどに関する数々のエントリーを必要としたのはこのためです。それぞれの概念は個別のものではなく、全てで一つのことを表現しようとしており、本稿のリーダーシップ論は、「トリニティ経営」が経営合理性をもつという前提において、これを機能させるために最も有効なリーダーシップとそのしくみを規定するという趣旨で構成しています。

経営者の最も重要な仕事
経営者が果すべき多くの機能の中で、何よりも重要なことは、経営者であることの条件を明確にすることだと思います。言葉を変えると、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という問いに対して、可能な限り明確に経営者自身が回答するという作業です。そして、この問いに回答を示すということは、経営者自身の辞任条件を明確にすることを意味します。

経営者に就任して初めにすべきこと、そして、経営者として最も重要な仕事は、自分が辞任する条件を特定し、少なくとも役員にその内容を伝えることであり(会社法の構成を突き詰めて考えると、取締役の最大にして唯一の仕事は経営者を罷免することです*(1))、経営者が常に考えるべきことは、自分の存在は従業員と企業のために最適か、企業価値を最大化するか、という問いであるべきです。経営者の存在が従業員と企業のためにならず、企業価値を最大化しない状況において、経営者が交代すること自体が最も適切な経営判断であるということはあまりに単純な原理なのですが、この原理が実際に機能している企業は現実には殆ど存在しないのではなでしょうか。つまり、現代企業社会においては、企業において最も重要な経営機能(=経営者)が果すべき、最も重要な仕事(=経営者の辞任)が事実上全く機能していないのです。この一点だけをとっても、社会中の企業がハンドルのない車を運転しているようなもので、企業社会が現在のような状態になってしまっているのは、むしろ当然のことかもしれません。

企業社会の「常識」を良く知る経営者にとって、以上の論点はあまりに突飛で、現実にはとても機能しないと感じられることと思います。しかし、もし可能であるならば、これが「常識的」か「現実的」かという観点を無理やりにでも一旦脇に置いて、仮にこのようなしくみが現実に機能した場合、経営効率は高まるだろうか、という純粋な経営機能と経営効率の観点から考えてみていただければと思います*(2)

産業再生機構でCOOを勤められた冨山和彦さんの最近の著書に『会社は頭から腐る』というタイトルの本がありますが、実際、企業における問題の大半(特に大きな問題)は経営者自身が原因だと思います。仮に経営者が会社の最大の危機をもたらすのであれば、経営者を排除するメカニズムは、企業経営上最も重要なテーマであるはずです。そして、経営者を排除する上で最も効率の高い方法は辞任に勝るものはありません。

経営者が辞任すべきとき
経営者の辞任条件を明確にするために、①経営者の役割(仕事)は何か、そして、②経営者の成果をどのように評価(自己評価も含む)するか、という議論が必要です。反面、企業において最も重要な人事考課は経営者に対するものである筈なのですが、経営者の評価基準とその運用方法が明確な企業は、これも稀だと思います。

トリニティ経営理論における、最も効果的かつ合理的な経営者とは、①企業において最も人間的な成長を遂げ、②企業内の誰よりも人(ステイクホルダーに対して)の役に立つ存在であり、結果として、(i)真実であること、隠し事のないこと、(ii)相手に一切要求せず、ありのままを受入れ裁かないこと、(iii)自分を活かし、相手のためになることを、できることから実行すること、が特徴的な行動となります。

したがって、経営者は、以上のクオリティが満たされなくなったと考えられるとき、社員やその他のステイクホルダーから必要とされなくなったとき、あるいは会社において最も人の役に立つ機能を果せなくなったときに辞任することが最適な経営判断と言えるでしょう。…企業経営が経営者自身の人格や価値観に大きく影響されるのはこのようなメカニズムによります。

【2007.10.8 樋口耕太郎】

*(1) リーダーシップ論は現実の企業統治において機能しなければ実践的経営論の意味を為さないため、経営論、リーダーシップ論と、企業統治に係る現行法との関係を理解することは非常に重要です。現在の会社法上の構成において、代表権のない取締役が法律的に持つ権限は取締役会において賛否(特に反対)意見を述べることのみであり、反対意見を主張するためにできる最大の行為は辞任です。すなわち、取締役の最大の仕事は、経営者が辞任/継続するか否かに係る意見を表明すること、そして究極的には辞任によって意見を主張すること、…つまり、取締役にとっても辞めることが最も重要な仕事と言えるのです。この論点に関する詳細な議論は『トリニティの企業金融論』の「企業統治」のセクションをご参照下さい。

*(2) 恐らく経営者以外の従業員に同じ問いをすると、比較的抵抗なく賛同する人が多いと思います。これは、経営者の個人的な立場と利害がいかに合理的な経営判断の妨げになるかという分かりやすい事例かもしれません。

内閣府と沖縄県が主催し、10月13日から翌2月23日までの日程でスタートする『第2回金融人財育成講座』で樋口が講師を担当します。

樋口の担当は12月1日土曜日午後1時半からの講座で、「サンマリーナホテルの再生」をテーマに2時間弱お話します。会場は琉球大学大学会館、定員は約200名です。詳細はこちらをご参照下さい。

こんにちは。
連休前に台風が通り過ぎ、秋の気配が強まってきました。

昨日は敬老の日でしたね。おじいちゃん・おばあちゃんとお過ごしに
なられましたでしょうか。
この敬老の日、私の大好きな聖徳太子が悲伝院というお年寄りの救護施設を
設立したことにちなんで作られた国民の祝日です。
お年寄りへの感謝と尊敬を思い出させてくれる日でもあります。

先日意外な方からお電話をいただきました。
なんと!私の小学生の時の担任の先生から。
「末金さん、こんにちは。お元気になさっておられましたか?
覚えてくださっているかしら? わたくし、あなたが小学生当時に、
担任をさせていただいた植田でございます。」
もうビックリ!!! 大好きだった、憧れだった、お優しくて、お美しくて、
お上品で、とにかく素敵だった植田先生。当時は30歳ぐらいだったから、
今はもう、ええっと…65歳?! わぁ、想像できない、今の先生。
小学校教育一筋に、ずっと独身で…なんていうウワサを聞いたこともある。
でも、お声も、お話のなさり方も、今も変わらず、とてもお優しくて、
すごくお上品。
先生のおうちに何度かお招きいただいたこともある。
お友達数人とバスに揺られて、伺った先生のおうち。とてもきれいに
してらして、本を読んでくださったり、つくしを取って、それをたこ焼きに
入れて焼いてくださった。今でも忘れられないのが、帰る時には
「これバスの中でいただきなさいね。」とお土産に持たせてくださった
綺麗なレースのハンカチに包まれたキャンディ。
叱る時も厳しく叱るけれど、とにかくたくさん優しく褒めてくださる。
「とてもステキにご本が読めましたね。」「今のはとても立派な態度でしたね。」
と。もう男子などは、先生に褒められると、真っ赤になって、
木にもピョ~ンと登る勢いで喜び勇び、ついついいい子になっていたものだ。
その先生からのお電話、だ。
当時の私は今と違って(?!)、お転婆な女の子だったので、とてもよく覚えて
くださっていたのだろう。
生徒会副会長になって、実にたくさんの「みんなでやろう運動」を
立ち上げたっけ。
(例えば、学校近くの駅で“重い荷物を持ったお年寄りの方をおうちまで
送ってあげよう”“雨降りの時に傘を持っていない人がいたらおうちまで
送ってあげよう”なんて具合)なんだか今思うと気恥ずかしい。
先生は今回沖縄にいらっしゃることが決まると、私が沖縄にいるという
風のウワサを思い出され、レストランをしていた母に尋ねてくださり、
お電話をくださったというわけなのだ。

たくさんお話しすることができた。たくさん私の小学校時代が蘇ってきた。

私は子どもの頃から、百科事典まで愛読するほどの典型的な文系人間で、
今もって数学心のない人間。
私と同じような人の話をよく聞くけれど、私も最初から数学がまるでだめだった
わけではない。すくなくとも「さんすう」の段階までは、まだ何とか息があった。
テストでも単純な計算問題の部分はむしろ解くのが楽しかった。が、これが
設問形式となると、もういけなかった。たとえば
「ある人が、くだもの屋さんで20円のリンゴを7こ買おうとしたら、
10円たりませんでした。その人はいくら持っていたでしょうか」
というような問題があったとすると、私はその“ある人”のことがひどく
気の毒になりはじめるのである。この人はもしかして貧乏なのだろうか。
家にそれしかお金がなかったのだろうか。リンゴが7こしか買えないと
わかった時に“ある人”が受けたであろう衝撃と悲しみは、いかばかりで
あったろうか――。どうかすると、同情が淡い恋心に変わってしまう
ことさえあり、(“ある人”ったら、うふふ……)などと想いを馳せて
いるうちに、「はい、鉛筆を置いて!」という先生の声が響きわたって
しまうのだった。

理科の時間には、みんなでお花を育てましょうということになり、私の班は、
ペチュニアにしようと決まった。しかしペチュニアには天敵がいた。
ナメクジだ。奴が夜のうちに花びらだけをきれいに齧りとってしまうのだ。
私の怒髪は天を衝いた。殺ナメクジ剤「ナメキール」を撒いてみたが効果は
なかった。私は同じ班のお友達と真夜中に学校に行き、懐中電灯を持って
花壇で『八つ墓村』のごとき憤怒の形で一匹ずつナメクジを割り箸で
つまんでは捨てた。「後にも先にも、ナメクジに対してあれほど強い殺意を
抱いたことはありません。」と今回その思い出話をしながら私が言うと、
先生は「おほほほ…」と笑いながら、「あなたは子供の時からおもしろい
お話のなさり方をしていたけれど、今もちっともお変わりありませんねぇ。」
と言われた。

もっとも、そういう私を育て導いてくださったのは、先生であり親なのだ。
先生も母も、偉大な国語学者であり教育家の大村はま先生の教えがいつも頭に
あったようだ。
「言葉が貧しいということは、心が貧しいこと。“読む”ことは
読むことによってしかのびないし、“話す”ことは話すことによってしか
“書く”ことは書くことによってしかのびない。」と。
それがどう私に活かされたかはわからないのだが……。

その先生も母も、もう「おばあちゃん」と呼ばれる年なんだなぁ。

おばあちゃんやおじいちゃんと接すると、彼らはいつの時も、鋭い洞察力で
時代を分析し、人生に対して優しくあたたかな眼差しを注いでいた。

彼らは、私たちの人生の大先輩。長年の経験をもとに紡がれるその言葉には、
人生を豊かで実りあるものにするためのステキなヒントが宿っている。
私がいただいた大きなヒントはこれ。
「幸せとは、生きることを楽しむこと。」
どんな時もゆとりを忘れず、喜びも悲しみも受け流す彼らはまさに、
人生の達人。

普段は忙しさにかまけて、あまり交流のないおじいちゃんやおばあちゃんの話に
耳を傾け、その思い出話やライフスタイルから、毎日を快適に過ごすための
知恵を学びとる日にしたいものだ。
そして、その深みのある人生に触れ、忘れてしまった大切なものを、
生きることの旨みを、教えていただきたいと思う。

【2007.9.18 末金典子】

経営バランス(pdf)

本稿では経営バランスが実際の経営の現場でどのように機能するのか、というテーマでコメントします。経営バランスは、例えば価格戦略(ここでは概ね単価の増加を意味します)の武器になり得ます。価格戦略における価格の増加が事業収益に与える影響は莫大であり、適切に応用することができれば、潜在的な事業価値を一気に収益として顕在化させたり、事業の成長を大きく後押しする原動力になります。このメカニズムは非常に単純で、特に売上高利益率が比較的低い労働集約型サービス業(例えばホテル)などではその傾向が顕著です。仮に、売上10億円、利益が売上の約10%程度のホテルを想定すると、1億円が利益になるわけですが、この事業の単価を10%上昇させると、売上は11億円、販管費の上昇を便宜的に無視すると、利益は2億円に倍増することになります。単純にモデル化していますが、単価の増加が企業収益に与える激しいインパクトをご理解頂けるでしょうか*(1)

単価と収益の激しい関係
このように表現すると、商品の単価を上げることで事業収益を増加させることはとても簡単なことのように感じられるかもしれません。例えば、毎年約14万人のお客様が宿泊するサンマリーナホテルで、一人一泊当たりの単価を1,000円上げることができれば、利益が1.4億円増加することになります。2005年の時点でサンマリーナの経常利益が約1.3億円でしたので、これだけで利益が倍増するイメージです。現実には、単に単価を上げただけではほぼ間違いなく顧客数が減少します。特に一人当たり1,000円の平均単価は、この業界では破格の増加と考えられるでしょうから、これによって恐らく10%から20%前後の顧客が失われるのではないでしょうか。年間14万人が宿泊する客室売上10億円のホテルでは、お客さま一人当たり7,100円(10億円÷14万人)の宿泊料を頂戴していますが、単価を1,000円上げて8,100円にする代わりに、顧客数が20%減少し11.2万人となると、逆に売上は約9億円(8,100円×11.2万人)に減少してしまいます。このホテルの単価変更前の利益が1億円程度だとすると、その全てが吹き飛んでしまうことになり、一般的な経営者が単価を不用意に上げることに恐怖を感じるのはこの理由によるものです。これは単純なモデルですが、現実のリゾートホテル収益構造の本質を表現しています。単価を1,000円を増加させるということは、利益を100%減少させることも、100%増加させることも可能なのです。

一筋縄ではいかない単価増
結局のところ、多くの事業ではこのような単価の上昇を達成するために莫大な経営資源と時間を投下しているとも言えるのです。例えば沖縄のリゾートホテルでは、客室やロビーを中心に大改装を行ったり、レストランのテーマを変更してみたり、より高級な宿泊プランを開発してみたり、アメニティを一新してみたり、研修プログラムを開発してみたり、経営者を交代してみたり…。いずれも費用(ときには多額の費用)を伴うことばかりですが、このような費用を投下しながら、実際に顧客数を減らさずに単価を増加させることができたケースはむしろ例外的ではないでしょうか。そして、顧客数を減らさずに単価を増加させることができなければ、投下した資金は砂に水をまくように、文字通り費用として消滅してしまうことになります。

例えば、ホテルの質の向上と、ひいては宿泊単価の増加を目的として、メインダイニングのコンセプトをより高級なものに変更し、内装をシックなものに変更し、食材の質を高め、コンサルタントを通じてコンセプトとメニューを一新し、料理長や責任者を入れ替えたとしても、それだけではこのメインダイニングの成功が保証されるものではありませんし、ましてホテルの格や宿泊単価が上がるとは限りません。現実には、より質の高い商品とサービスの提供を開始したのに売上がそれほど上がらず、投資額に見合った利益が確保できず、却って企業価値を下げるだけというケースが溢れています。

以上ゆえに、一般的な経営者がとりがちな選択は、①単価を下げ、顧客数を増やし、売上を伸ばすことで(利益率を下げながら)利益を確保する、②典型的には人件費などの費用を削減し(事業の成長力を低下させながら)利益を確保する、ものとなります。両者に共通することですが、短期間で確実に利益を生み出すことができる反面、事業の長期的な成長余力と企業価値を毀損するという問題を自らの選択によって生み出してしまうのです。

バランスが価値を顕在化する
より良いものを提供すれば、顧客は以前より高い評価をしてくれそうなものですが、質のいい商品を提供してもそれだけは事業のコストを増加させ、企業価値を下げるだけの結果に終わってしまうのはなぜでしょう。その原因が経営バランスの差ではないかというのが僕の仮説です。そして、より高い経営バランスを生むための要素は以下の通りだと思っています:

第一に、演出がないこと、嘘がないこと、自分に正直であること。ある経営者は、自分なりの強いこだわりを持って良いものを提供したにも拘らず、思うような成果を生むことができませんでした。「これほど良いものを提供しているのに…」と顧客を恨みたい気持ちでいっぱいです。別の経営者は、「本当に人を感動させるサービスは利益と採算と演出を頭の片隅に置きながらの状態では生まれない。お客様と接するときには売上のことなど考えていない」と言います。前者は、「これだけのことをしたのだから、顧客は評価すべき」と無意識に考えているように思え、彼にとって顧客へのサービスは、実質的に顧客との「取引」です。後者は自分に正直な経営者だと思います。自分が顧客にしたいこと、自分がしてもらったら嬉しいことを考えて心のままに実行するに過ぎません。

第二に、一貫性。企業内に矛盾がなくなるほど高い経営バランスが達成されると思います。企業理念などの価値観が一つに修練しており、かつその通りに実践されている企業は非常に高い一貫性を持つといえます(現実には、最近では企業理念を掲げない企業の方が珍しいのですが、その価値観に沿って運用されている事例は、殆ど存在しないように見えます)。なお、一貫性の完成度合いが高まるあたりで、経営バランスの効果が急激に高まるイメージがあります。

第三に、事業構造的に、経営バランスを取りにくい業態が存在すると思います。上記の二つの条件、嘘がないこと、一貫性、を持ちにくい構造を有する事業形態、具体的には、①低価格を比較優位とする事業、②上場企業、③情報の不均等を収益源にしている企業、が該当するような気がします。①については、経営バランスは基本的に事業の量的な拡大ではなく、質的な価値を顕在化する際に有効な概念で、低価格を武器とした量的拡大を目指す事業に適用しにくいのではないかと思います。②については、『トリニティの企業金融論』 『次世代金融論』で詳細に説明していますので、そちらをご参照頂けると幸甚です。③情報の不均等を収益源にしている企業は、『売上論』で紹介した「金色の売上」比率が低い企業を指します。情報の不均等を収益源にしているということは、価値観や言動の一貫性を導入することが構造的に困難だということは容易に想像が付くと思います。

経営バランスと資本投下
一般的なホテル経営者は、追加投資→価値の上昇→価格上昇→資金回収、をイメージして資金投下を行うのですが、現実には追加投資が思うように価値の上昇につながらず、資金回収が困難になり、企業価値が減少し、こらえ切れなくなるとそれを埋め合わせるために単価を下げて、企業価値を更に下げながら売上を確保する、という悪循環を招きがちです。

これに対して、経営バランス高めることを最優先すると、自然に顧客数が増加し稼働率が上昇します。また、経営指標にはっきり現れないために目に見えにくいのですが、より重要なこととして、経営バランスの水準が高まると顧客層(お客様の質)が高まる現象が生じます。こうなると無理やり単価を上げようとしなくても、需要のバランスを取るために価格を上昇させることが、顧客を含むステイクホルダー全員のメリットとなるのです。この状態で追加投資を行うと、企業価値を爆発的に向上させることができます。経営バランスを応用した価格戦略のプロセスが、一般的なケースと比較していかに効率が高く、リスクが少ないか(実質的には殆どリスクはありません)、ご理解できるのではないかと思います。

【2007.9.14 樋口耕太郎】

*『経営バランス』は本稿で終了です。

*(1) さらに、この事業を買収対象として金融的に(…すなわち事業そのものを金融資産として売買するという意味ですが)収益化するには、この事業を利益1億円の20倍(20億円)で取得し、単価を上げ、収益を2億円に増加したあとに同じ倍率(20倍)で売却すると売却額40億円、すなわち20億円の売買利益を生むことになります。米系を中心とした投資銀行やプライベートエクイティファンドが不動産投資や企業買収を繰り返すのはこのメカニズムによるもので、現場不在・金融主導の企業買収がこれほど広がっている大きな理由の一つです。

既に気付いた方がいらっしゃるかもしれませんが、本稿は経営バランスをテーマにしていながら、肝心の経営バランスを定義していません。前稿までに、経営バランスは目に見えないが実体として存在し事業経営に重要な影響を与えることや、経営バランスは経営者が事業(とその生態系)をどのように認識するかによって異なることや、経営バランスが達成されたときにどれだけのパワーが生じるか、などについて説明を試みましたが、これだけでは「経営バランスとはなにか」をきちんと説明したことにはなりません。次善の策として、今までの議論に加えて、 経営バランスが取れたとはどのような状態か、 どのようなときにより効果的な経営バランスが生まれるか、についてある程度の説明を行うことは可能だと思います。

経営がバランスするとき
個人的な経験ですが、サンマリーナホテルにおいてうまく経営バランスが取れたと感じたときには、次のような各現象が起こりました。あまりに出来すぎに聞こえるため、嘘や誇張と思われるかもしれませんが、全ては現実に起こったことです。 (i)経営的な成果は増加しながら、自分の労働時間が極端に(10分の1程度へ)減少しました、(ii)従業員に対して指示をする機会が殆どなくなりました、(iii)広告宣伝費を大幅に削減しながら、企業認知度が高まりました、(iv)建物改修などの追加投資を殆ど行わなかったにも関わらず、清潔できれいな施設という評価が増加しました、(v)パートの正社員登用を行い、新卒採用を再開し、ベースアップと賞与支給回数と支給総額を増やしながら、売上高人件費率はあまり上昇しませんでした(これは売上高が人件費の増加以上に上昇したためです。そのまま継続していたら売上高人件費率はむしろ減少していたと思います)、(vi)成果主義人事考課を廃止しながら、従業員間の公平間が高まりました、(vii)人事研修や対応マニュアルなどを全廃したにもかかわらず、顧客から好評価のコメントが大幅に増加し、顧客満足度が急上昇しました。・・・以上の結果として事業収益と企業価値が著しく高まりました。

経営バランスが取れたと感じる瞬間は、初めて補助輪なしの自転車に乗れるようになったときのように、一瞬身体が軽くなるような気がします。それまで少しでも良い事業結果を出そうと身を削り、バイタリティーと集中力で自ら事業の隅々までを理解し、競合相手を注意深く観察しながら精魂を傾け戦略を練り、24時間事業と従業員のことを考え続け、自分の時間的体力的物理的限界まで鬼気迫る努力を重ね、大汗をかきながら前にすすんでいた状態が、ある臨界点を境に、自転車に乗る自分の足が地面から離れるように、ヤジロベエがバランスするように、全ての効率が著しく高まると同時に、自分に課してきた負荷がどこかに消滅してしまったようでした。大量の変数を大きなエネルギーで対処していた状態から、最も重要な原則を除いてその他の全てを手放した状態に移行した瞬間だったかもしれません。そして、このようなバランス体験は特別なことではなく、事業経営の現場に限らず多くの方が経験していることでもあります。

例えば、本人と直接お会いしたことはありませんが、不可能といわれていたりんごの完全無農薬栽培を実現した青森県のりんご農家木村秋則さんもその一人ではないかと想像しています。最近NHKの『プロフェッショナル』にも取り上げられ話題になりましたが、害虫との格闘に悪戦苦闘して多大なエネルギーを費やす状態を乗り越えて、りんごの力を自然の中で生かす「バランス」を体験された瞬間から、不可能を可能にするという大きな事業性が生まれたのだと思います。以下は、NHK『プロフェッショナル』のウェブサイトからの抜粋です。

『化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない木村のりんごづくり。不可能と言われた栽培を確立するまでには、長く壮絶な格闘があった。かつて使っていた農薬で皮膚がかぶれたことをきっかけに、農薬を使わない栽培に挑戦し始めた。しかし、3年たっても4年たってもりんごは実らない。収入の無くなった木村は、キャバレーの呼び込みや、出稼ぎで生活費を稼いだ。畑の雑草で食費を切りつめ、子供たちは小さな消しゴムを3つに分けて使う極貧生活。6年目の夏、絶望した木村は死を決意した。ロープを片手に死に場所を求めて岩木山をさまよう。そこでふと目にしたドングリの木で栽培のヒントをつかむ。「なぜ山の木には害虫も病気も少ないのだろう?」疑問に思い、根本の土を掘りかえすと、手で掘り返せるほど柔らかい。この土を再現すれば、りんごが実るのではないか?早速、山の環境を畑で再現した。8年目の春、木村の畑に奇跡が起こった。畑一面を覆い尽くすりんごの花。それは豊かな実りを約束する、希望の花だった。その光景に木村は涙が止まらなかった。

木村の畑では、あえて雑草を伸び放題にしている。畑をできるだけ自然の状態に近づけることで、豊かな生態系が生まれる。害虫を食べる益虫も繁殖することで、害虫の被害は大きくならない。さらに、葉の表面にもさまざまな菌が生息することで、病気の発生も抑えられる。木村がやることは、人工的にりんごを育てるのではなく、りんごが本来持っている生命力を引き出し、育ちやすい環境を整えることだ。害虫の卵が増えすぎたと見れば手で取り、病気のまん延を防ぐためには酢を散布する。すべては、徹底した自然観察から生まれた木村の流儀だ。「私の栽培は目が農薬であり、肥料なんです」』

現在の酪農業界は放牧牛による牛乳生産が全消費量のわずか約2%。日本で流通している牛乳の殆どが牛舎で濃厚飼料を大量に投与され、まるで工業製品のように搾乳さたものです。この現状にありながら放牧山地酪農を成功させた旭川斎藤牧場の斎藤晶さんも彼独自の「バランス」を体得されたひとりだと思います。斎藤さんは北海道への開拓団の一員として山形から入植し、未開拓の山地と原野の開拓で大変な苦労をされます。以下は古庄弘枝著『モー革命』からの抜粋です。

『クワを振るえば石にあたる。大豆、小豆、野菜、雑穀をつくれば、ウサギやネズミなどの集中攻撃を受ける。富子さん(奥様)は、出産・育児・家事・開墾の過労から倒れて入退院を繰り返す。晶さんは働けば働くほど窮地に追い込まれた。昭和30年、「ここで生きるにはどうすればよいのか」と切実に考えた。木の登るのが好きだった彼は山の頂上に行き、いちばん高い木に登った。そして、荒れ放題の自分の山や遠くに見える大雪山を眺めていた。「人間はなぜこんな血の出るような苦労をしても成果につながらないのか」「鳥や昆虫がなにも働きもしないのに、悠々と生きているのはどうゆうことなのか」と、考えながら飛ぶ鳥を眺め、鳥の声を聞いていた。ハッと気がついた。「自然というものを征服するような姿勢そのものが勘違いだ」「これからは、鳥や虫たちと同じ姿勢で生きていけば良いじゃないか」と。「価値観をひっくり返した」。すると、答えは全て山にあった。

「思い込み」から開放された彼は、「草」に対する視点を変えた。「草」を敵とするのではなく、「利用」しようと考えた。家畜が食べれば、「雑草」は「牧草」だ。笹薮だらけだった山に牛を放した。馬喰に頼んでオス牛や水田酪農家の育成牛など20頭を無償で預った。牛たちはどんどん笹を食べていった。草地もつくろうと、まず笹を刈り払って火をつけ、焼き払った。そのあとに、牧草の種を蒔いた。そこに牛を放すと、牛はまわりの笹を食べながら歩き回り、種を踏みつけた。数日後、牧草が生えてきた。そこで彼は気づいた。「牛が蹄で踏んだ種が土に定着して草地になる」。これは「蹄耕法」と呼ばれる草地造成の方法だった。ニュージーランドなど酪農の伝統がある国では、基本的な草地づくりだった。しかし、そんなことは知らない彼は、牛と自然の観察から独自にそのことを学んだ。』

経営バランスが達成されるということは、判断や決断の原則がシンプルになり(ときに一つに統合され)、経営行動に一貫性が生まれるということかもしれません。多くの経営者は大量のエネルギーを事業に投下して成果を上げようと努力しますが、本当に経営者が事業的効果を最大化しようとするならば、「いかに多くの仕事をこなすか」よりも、少々語弊がありますが「いかに仕事をしないか」を追求する方が合理的です。なぜならば、どんな人も10倍働くことは出来ませんが、10倍楽することは物理的に可能だからです。10倍楽することが出来て初めて10倍の仕事をすることができる、あるいは10倍楽することを学習しなければ10倍働けない、とも言えるでしょう。これは本当に必要なこと以外の仕事をいかに切り捨てるということでもありますが、簡単そうに見えてなかなか実行する人は多くありません。実際、殺人的に忙しいと悩んでいる経営者に、「時間を作る方法はとても簡単なんです。それでは今取り掛かっている仕事の8割を今すぐ断ってください」とアドバイスしても、それを実行する気になる人は殆どいないでしょうし、万一その気になったとしても、そのとき経営者が感じる恐怖を乗り越えることは余程のことがなければ無理だと思います。初めて自転車に乗るときと同様、経験した人にとってはとても簡単ですが、未体験の人にとっては到底不可能なことに思えるのだと思います。また、10倍楽することを目指す、と言いながら実際にそのための試行錯誤を始めると、経営者がいきなりだらけたように見えるため、周囲(従業員や株主)からのプレッシャーも相当なものになるでしょう。事業や人生が順調(のように見える)な通常の状態でこのバランスを体得することは容易ではないかもしれません。したがって、前述の木村さんや斎藤さんのように、経営バランスは経営者の個人的な価値観の転換によって生み出されることが少なくないようです。そして、個人的な価値観の大転換はなんらかの大きな窮地に陥り、それを乗り越える過程で起こることが典型的なパターンといえるかもしれません。

【2007.9.1 樋口耕太郎】

経営バランスの議論は単なる抽象概念ではなく、多くの従業員の努力を意味あるものにするかどうかの分かれ目でもあり、現実の経営に有効かつ具体的なツールであり、企業価値を高めるパワフルなエンジンです。

経営バランスを効果的に応用するためには、目に見えるものだけを信じる習慣から一旦心を解き放つ必要があります。例えば、3Dジグソーパズルを構成する最も重要な要素が、目に見えない「組み合わせ」という概念であると同様に、効果的な経営を実現するために極めて重要な「経営バランス」も形あるものではありません。目に見えない経営バランスをいかに認識するかが経営的に重要性を持つのであれば、これを実体として解釈・対応することは経営科学的な合理性を持つことになります。一般的な経営者はとかく目に見えるしくみを捕らえ、しくみを変えることで変革を実行しようとします。しかしながら、しくみを変化させることによって事業の本質に影響を与えることができる度合いは一般に考えられている程大きくはない印象です。むしろ反対に、目に見えない「実体」が目に見えるしくみを規定しているように思います。企業に存在する目に見えるしくみは、うまく機能しているものほど、(企業の実態である)従業員の集合意識が形になったものが多く、しくみが企業を作り上げているのではないと思います。従業員の集合意識は目に見えないものでありながら、そのしくみの本質を理解する重要な鍵となります。

大切なものは、目に見えない
フランスの飛行士であり小説家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は云わずと知れた児童文学の名著ですが、経営、特に人事を考える上で非常に示唆に富む名著でもあると思います。王子さまが地球にたどり着く前に出会った色々な星の大人たち、・・・自分の体面を保つことに汲々とする王様、賞賛の言葉しか耳に入らない自惚れ屋、お酒を飲むことを恥じ、それを忘れるためにお酒を飲む飲んべえ、夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家、自分の机を離れたことがない地理学者などなど・・・。その他、何をするにつけても急ぎ、どこに行くかもよく理解しないまま特急列車であちこちに移動したり、時間を節約する事にあくせくして、節約した時間で何をするかを考えていなかったりという大人たちの姿が語られていますが、この「児童文学」は現代企業社会のノンフィクションかと見紛う程のリアリティがあります。物語に登場する大人たちの共通点は、目に見えない価値観に注意を払わず、目の前に見えるものと目先の利害だけを現実と認識していることでしょう。そして、彼らの(滑稽な)行動は各自の世界観に照らし合わせて全て個別に「正しい」のであり、彼らの「目に見えるもの中心の世界観」が彼らの人生を非常に非効率なものにしているのです。

王子さま訪れる7番目の星、地球に降り立った王子さまとキツネの会話は物語の重要な場面です。キツネの有名な台詞 l’essentiel est invisible pour les yeux  ・・・「大切なものは、目に見えない」を単なるファンタジーと解釈するか、人の心と人間関係を規定する重要な実体と認識するかによってその人の世界観(そして、その人が経営者の場合は経営観)は大きく変化します。「目に見えるものだけを信じる習慣から一旦心を解き放つ」作業は、(多くの人が「きれいごと」と考える)ファンタジーに経営科学的な合理性を見出す作業でもあるのです。

このような世界観を前提に経営を行うと事業効率を生み出す可能性があるのですが、(株主や取締役会を含む)社会からは「現実逃避的」「抽象的過ぎる」「裏がある」「頼りがいがない」、事業的な成果が連動しない場合は「法螺吹き」と評価されるというジレンマに陥ることになります。これが「経営バランス」を現実に応用するときに経営者が直面する(個人的な)最大のハードルとなるでしょう。経営者がこのハードルを乗り越えるかどうかによって事業における経営合理性が担保され、経営合理性と事業効率は経営者個人の人間性と価値観と選択と行動に影響される、という構造になっているのです。言葉で表現すると容易に感じられますが、実際は経営者が目に見えないものを信じることは勇気のいることです。経営者が目に見えないものを語り始めると、株主や従業員を含め周辺を不安にさせることになり、これを補うために正直で緊密なコミュニケーションが必要になるのですが、経営者にとっては実行する前の想像を超える価値のある体験になるでしょう。

経営バランスという目に見えない概念が、経営効率に重要な影響を与える要素であり、これを信じるか否かは経営者の個人的な人間力にかかっている、という構成になっていると考えられるとき、経営理論は、目に見える個別理論(いわゆる一般的な経営理論)、 目に見えない経営バランス、 経営者の人間的資質、の三種類の要素から構成されると有効に機能すると考えられます。この議論は『トリニティのリーダーシップ論』で詳細にコメントしたいと思います。

【2007.8.24 樋口耕太郎】

経営バランス(事業の生態系)に関する二つのポイント:
経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい、
個別の「正しい」経営判断の積み上げが企業価値を必ずしも最大化しないばかりではなく、場合によっては企業価値を毀損する、
は、経営理論の常識に対する新たな論点を導く可能性があります。

合理性は目的次第
経営理論の多くは、例えば、運用効率を下げずに費用を最小化する組織や人事はどのようなものか(人事論)、どのような顧客を対象としどのようにアクセスすることが効率的か(マーケティング理論)、生産過程をどのように合理化するか(オペレーションズリサーチ)、競合他社に対して比較優位を生み出す戦略はどのようなものか(競争戦略理論)、などなど、最終的に収益と企業価値の最大化を達成するための「合理的」な経営判断を議論するもので、それこそ膨大な人数の研究者や経営者などが膨大な時間と試行錯誤を繰り返しながら、膨大な分析がなされています。

ところが、何が「正しい」か、あるいは何が「合理的」かの判断は、達成しようとする目的に照らして考えなければ全く意味を成しません。・・・近所のスーパーに買い物に行くときには、法定速度を守って時速50キロで車を走らせることが適当ですが、モナコグランプリで優勝しようと思えば、合理性を欠くことになります・・・。翻って、一般に、経営の目的は「収益と企業価値の最大化」とされています。ところが、「収益と企業価値の最大化」ということの意味を理解するためには、(i)企業とは何か、(ii)企業価値とは何か、(iii)経済行為とは何か、という問いに答える必要がある筈なのですが、この三要素はあまりに自明のことと考えられているようで、経営の現場において殆ど議論されることはありませんし、現代経営理論はこの問いに対する明確な回答を持ちません。ひょっとしたら、世の中の一般的な経営者は、「目的が明らかでないまま合理性の追求を行っている」・・・買い物に行くのか、グランプリに出場するのかそれ程明確でないまま、「合理的な」走行速度を必死に求めているのかも知れないのです。

経営問題に関する仮説
以上の前提によって、いくつかの仮説が成り立ちます。第一の仮説は、現代の経営を困難にしているのは、何が「合理的」であるかどうかについての解答がないからではなく、一見自明に思える「経営の目的」に関する理解が殆ど手付かずの状態で放置されている、・・・具体的には、経営の目的を構成する三つの要素(事業を取り巻く世界観)が特定されていないためではないでしょうか。例えば、企業をより良いものにすることが経営の目的だとしても、(i) 企業とは何か、について誤解がある場合、よりよくするために働きかける対象を誤る可能性があります。同様に、(ii) 企業価値とはなにか、の認識を誤れば、高めるべき価値の対象が不明確となり、(iii) 経済行為とは何か、を正確に把握せずに、収益を高めるための努力をしても非効率である可能性が高いことは明らかです。

現代の経営を困難にしているのは、経営者が正しい(合理的な)選択をしていないからではなく、その合理性の前提となる「世界観」の認識が不十分であるため、という第一の仮説は、冒頭の、経営バランスに関するポイントと整合性を持ちます。「経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい」、・・・殆どの経営者はその個人の世界観に照らし合わせて、間違ったことはしていない、といえるかもしれないのです。

第二の仮説は、目的に照らし合わせて初めて合理性が決定され、目的は世界観によって決定されるのであれば、「経営の優劣は、問題の解決方法よりも経営者の世界観による」と考えられる点です。そして、経営者の世界観とは、経営バランスであり、事業の生態系の認識であり、(i)企業とは何か、(ii)企業価値とは何か、(iii)経済行為とは何か、という問いに対する各経営者の自分なりの回答を意味します。

事業の現実は、経営者(の世界観)の数と同じだけ存在し、経営者の世界観が経営者の行動を規定するため、企業を機械的な構造物と認識する経営者(・・・例えば「人件費の削減=利益」と単純に考える経営者)と、事業を生態系と認識する経営者では、全く同じ事業環境において全く異なる行動を取ることになるでしょう。そしてどちらの経営者も「合理的に」行動しているのです。例えば「無駄をなくす」という行為一つとっても、経営者固有の世界観の違いによって(・・・すなわち経営バランスの取り方の違いによって)、何が無駄かについての「合理的な」回答が幾通りも存在します。

逆の表現では、経営者にとって、事業の「合理的」な解を導き、自分の世界観に基づいて「正しい」行動を起すこと程容易なことはないのかもしれません。そして、多くの経営者は、自分は「正しい」ことをしたのになぜ事業が立ち行かなくなるのかと悩み、社員の能力不足や、資金不足や、市場環境の悪化や、競合の激化が原因だと典型的に結論付け、その「原因」を取り除こうとして悪循環に陥っているような気がします。

【2007.8.7 樋口耕太郎】

有名な「六人の盲人と象」の話は、日本では「群盲象を評す」という諺になっていますが、もともとは「六度経」というお経から出典しているそうです。六人の盲人が自分が触れた箇所をもって象を説明しようとするお話です。・・・昔、インドパキスタン地方のある王様が6人の盲人に象を観察して報告するように言いました。盲人たちは、各々象の異なる部分・・・それぞれ象の耳、鼻、足、尻尾、牙、胴に触り、異なる報告をしました。「象は団扇のように平たくて大きい(耳)」、「象は大蛇のように長い(鼻)」、「象は太くて大木の幹のようだ(足)」、「象は細長くて紐のよう(尻尾)」、「象は槍のように硬く尖っている(牙)」、「象は壁のように平たく大きい(胴)」と表現します。それぞれの説明は全て正しいのですが、いずれの情報も特定のバランスの元に統合されなければ全く実用性を持ちません。

経営の現場においても同様で、どんなに優れたビジネスプランも、新商品も、経営理論も、人材も、適切な「経営バランス」とリーダーシップの元に統合されなければ、企業価値を向上させるどころか大きく毀損する可能性が高く、企業経営の多くは実際にその通りの状況にあると思います。この「経営バランス」を見出すことは一見困難なことに思えるのですが、例えて言えば初めて自転車に乗るときのようなもので、未体験のときは二輪でバランスをとることは曲芸のような気がしますし、二輪で走行できなければ自転車は無用の長物です。しかし一度体得してしまえば自在に移動できる手段としては格別で、もう二度と徒歩で買い物に行く気にはなりません。経営バランスが取れている事業体も最小の経営作業で最大の事業効率と成果を生み出すことが現実となります。本稿では一般にその重要性が過小評価されていると思われる「経営バランス」の概念についてコメントします(「経営バランス」の実現を担保するのが『トリニティのリーダーシップ論』ですが、このリーダーシップのあり方も「経営バランス」の一部を構成するため、他の全ての概念との調和が不可欠です。この議論については別の稿に譲ります)。

「経営バランス」という概念
統合された概念を伝達しようとするとき、我々はしばしば盲人のアプローチを取らざるを得ないときがあります。「象という統合された概念」が共通認識であれば、それは「象」であると言うだけで事足りるのですが、情報を受ける側が「象の概念」を持たないとき、六人の盲人のように、各部所ごとに情報を分解して伝達することになります。重要なポイントは、それぞれの盲人が表現する六つのパーツはそれぞれ独立しているものではなく、統合された象という一つの概念の各部分である、という前提を同時に理解してもらうことでしょう。この前提を理解する人に対しては情報の正確な伝達が容易になるためです。

『トリニティ経営理論』 『サンマリーナの人事考課に関する経営方針』 『トリニティの企業金融論』の三稿、およびこの三稿を補足するトリニティアップデイトの各種コメントは全て、「経営バランス」という一つの概念を表現する試みでもあります。この経営バランスは「象の3Dジグソーパズル」のようなもので、今まで紹介した、例えば、「売上論」「マーケティング論」「サービス論」「マーケティング論」「ホテル金融論」「性善説の経営観」「人事論」などはジグソーパズルのピースに該当します。ジグソーパズルのピースはそれぞれ独立している概念ではありながら、最終的には全てによって一つのものを表現しようとしています。一つのピースで全体像を表現することは不可能ですし、全てのピースを個別詳細に理解・実行したとしても、ピース全体の「組み合わせ」が適切に行われなければ、最終的な効果を生むことは非常に困難です。

「経営バランス」は、3Dパズルの「組み合わせ」に相当する概念ですが、その特徴は、①「組み合わせ」というモノは存在せず、目に見えないこと、②「組み合わせ」はピースとその配列によってしか説明できないこと、③「組み合わせ」はピースとは全く異なる概念であること、そして、④「組み合わせ」はピースを統合するという目的において、最も重要な概念であること、です。例えて言えば西洋絵画に対する水墨画のようなイメージで、絵の中の空白が水墨の箇所以上に重要な意味を持つ、感じでしょうか。一般的な経営理論では「マーケティング」「財務」など、目に見える「ピース」がよく研究されがちですが、これに対して「経営バランス」の概念とパワーは過小評価されている印象です。逆の発想では、経営的にこれほど重要なポイントが過小評価されているのであれば、この概念を応用することで大きな事業効果が生まれる可能性があります。

事業という生態系
この「経営バランス」の概念は、事業を生態系として捕らえる考え方とほぼ同義であり、『ホテル事業という生態系』『生態系を理解する』のエントリーは「経営バランス」に関する議論でもあります。事業の生態系に関する議論で表現しようとした重要なポイントは、①経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい、②個別の「正しい」経営判断の積み上げが企業価値を必ずしも最大化しないばかりではなく、場合によっては企業価値を大きく毀損する、と言う点ですが、この問題の解を導く作業は、効果的な「経営バランス」をとり、事業価値を顕在化させるプロセスでもあるわけです。

個別の「正しい」経営判断が必ずしも事業価値を高めないことの事例は、今までのエントリーで数多く紹介したものがそのまま当てはまります。サンマリーナホテルにおいて、僕がアトリウムの窓を開放するよう指示したケース(『生態系を理解する』)、データベースマーケティングの導入(『トリニティのマーケティング論《その2》』)、「悪い売上」を増加させる経営手法(『売上論《後編》』)などなどがその事例ですが、これらは目の前の問題対処方法として一定の効果を生むことがむしろ一般的であるため、必ずしも「間違った」判断とは言いきれません(ただし非効率な判断ではあるとは思います)。このような個別判断のいずれも、目の前の問題に対する対症療法に過ぎず、事業の生態系に対して、長期的(かつ本質的)には決定的なマイナス要因となりがちです。例えて言えば、対症療法を繰り返すことで治癒を遅らせ、病状を却って悪化させてしまう医療や、目先の経済効果を優先して、環境を決定的に破壊する経済行為や、利便性と収益を優先して食品を添加物だらけにすることで、健康と生活の質を決定的に低下させている食品事情に似ています。共通点は、システム全体に対して「非効率」な作業を繰り返しているにも拘らず、誰もがこれらの作業は「効率的」であり「成長性」と「付加価値」をもたらす、と理解(誤解?)している事実が問題を大きくしている点でしょう。本質的に非効率なものに価値を見出し、「ビジネスは戦争」「生き残りをかけた真剣勝負」「勝者のみが君臨する」「きれいごとでは飯は食えない」というフレーズの基に多大な人々を巻き込み、目に見える短期的な成果を継続的かつ多大に積み上げることが社会一般には評価の高い経営手法とされています。

「経営バランス」の概念を理解し、事業を生態系として捉える経営を実践することは、事業における多様かつ多大な個別の努力を、事業価値として顕在化するか水泡に帰すか、の分かれ道と言える程重要性の高いテーマだと思います。

【2007.7.30 樋口耕太郎】

お元気ですか?
沖縄は久しぶりに台風が直撃しましたが、あなたは大丈夫でしたでしょうか。
金曜日はさすがにバスも終日運休しましたので、仕事もお休みさせて
いただきました。
昨日は本土で大きな地震もあったりと、天災続きでたいへんな連休に
なってしまいました。お見舞い申し上げます。

さて、昨日は海の日でしたね。あいにくの雨で海水浴も叶わず、
お部屋の窓から雨模様の海を眺めてすごしました。

太陽系の惑星の中で、海があるのは地球だけです。生命が存在するのも…。
そして、青い惑星と呼ばれるように、私たちが住むこの地球の70%は海です。

地球ができたのは今から46億年前。ごく小さな惑星同士が衝突・合体を
繰り返して、しだいに大きな惑星ができあがったと考えられています。
衝突の熱のため、当時の地球は、1700℃くらいの高温。ドロドロに溶けた
マグマが地表をおおい、水蒸気や窒素、二酸化炭素などを含むガスが上空に
立ち込めていました。その後、地球の温度が急速に下がると、ガスの中の
水蒸気が冷え、雨となって地上に降り注ぎます。これが海の始まりでした。
今から43億年ほど前のことです。

この雨にはガス中の塩化水素が多く溶けていたため、最初の海水は
塩酸のようなもので、とても生命の住める環境ではありませんでした。
しかし海に接する岩石から、ナトリウムやカルシウム、カリウム、
マグネシウムなどさまざまな無機物がしだいに溶かし出され、
大規模な中和反応が起こります。その結果として、今のような、塩辛くて、
ほぼ中性の海ができあがったのです。

この海の中で、炭素化合物の一種であるアミノ酸が自然合成され、
そのアミノ酸が集まって作られたたんぱく質から、最初の生命体が生まれました。
アミノ酸の生成は化学反応の一種であり、水の分子のないところでは
むずかしかったと考えられます。またオゾン層の形成されていなかったこの時代、
強烈な紫外線が降り注ぐ地上に、生命体が住むことは不可能でした。やがて、
少しずつ進化した原始的な海中植物の中に、二酸化炭素を取り込んで酸素を出す
「光合成」を行うものが現れたことは画期的でした。この酸素を取り入れて
呼吸する「動物」が出現。その後長い進化の歴史を経て、私たち人間が
生まれたのです。

このように、海は、私たち人間が生まれるずっと前からこの地球に
存在しています。私たちが知りようもない遥か昔の記憶がそこには刻まれて
いるのです。
生命の誕生と死、地球上で繰り返される闘いと破壊、人間の豊かさと愚かさ、
海はすべてを見ています。
私たちは昔から、海に対してある種の浪漫を抱いてきました。
見ることのできない海の彼方に想いを馳せ、様々な夢や伝説を創り出して
きました。
私たちの想像力をかきたてる未知なる海は、たとえて言うなら、母なるガイア
(地球)の羊水。私たちの生命の源がそこにはあるのです。

不思議なことに、お母さんのお腹の中で赤ちゃんを育む羊水は、
ミネラルバランスなどの組成が、古代の海水と大変似ているそうです。
広い海を眺め、波の音に耳を傾けていると自然に心が癒されるのは、
海が私たちのふるさとだからなのかもしれません。

そんな海は、誰もが普段身につけている鎧を脱ぎ捨て、裸の自分に戻れる場所。
そこでは自分を偽ることができません。子供がどんなにウソをついたり
ごまかしたりしても、お母さんには全部ばれてしまうのです。
私たち子供は、母なる大自然には何ひとつ勝つことができません。
今回の台風や地震の爪痕ひとつとってもそうです。
どんなに虚勢を張ってみても、いえ、虚勢を張れば張るほど、ちっぽけな自分が
浮き上がってしまいます。
この夏、そんな自分の弱さを認めて、海に思いきり甘え、私たち生命の源に
帰って、その大いなるメッセージに耳を傾けてみませんか?
夏はエネルギーが解放される季節です。じっくり自分を見つめる時間を持ち、
あなたの内面に手をかけてあげてくださいね。

【2007.7.17 末金典子】

トリニティの人事論(pdf)

サンマリーナの人事考課基準を導入する際、「運用」方法に並んで理解されにくかったのが、「好きなことだけをして構わない」、ということの意味だったと思います。もちろん、「好きなことだけをして構わない」とは、無法状態を歓迎するという意味ではありませんので、その具体的な意味を明らかにしたいと思います。

「好きなことだけをして構わない」ということの意味
「好きなことだけをして構わない」とは、文字通りの意味なのですが、四つの前提があります。第一に、「好きなことだけをする」とは「いつでも身勝手に振舞える」という意味ではありません。例えば、ホテルの満室稼動のピーク時に、何の前触れもなく持ち場を離れて買い物(例えば)に行くことを奨励するという意味ではないのです。しかしながら、営業中に買い物に行くことが、その社員にとって重要なことであれば、それを可能にするよう、組織や場合によっては事業そのものを変化させて対応する、という意味でもあります。サンマリーナで実際にあった小さな事例ですが、出産を終えて職場に復帰したある女性が、預けている子供を終業後迎えに行くのがぎりぎりの時間になるため、「終業近くになると気持ちが少し急いてしまう」ということを告白してくれたことがありました。もちろん、気持ちは焦りながらも「普通通りに仕事を片付ける」ことはできますし、彼女は責任感が強いので、個人的な事情を言い訳にすることもありません。しかし、彼女があと30分早く仕事を終えることができれば、もっと気持ちの落ち着いたいい毎日を過ごす事ができるのは明らかでしょう。面談の後、彼女の就業時間を30分早めることにしたのですが、彼女の顔つきが見る見る明るくなるのを見てこちらが驚いたほどです。人より早く始動する30分は、彼女の作業効率を上げただけではなく、周囲の従業員に対してもメリハリのある勤務環境となりました。会社にとっては小さな対応かもしれませんが、彼女の毎日の生活にとってはとても意味のある変化となったようです。一般的な経営理論が人間関係の現場において如何に現実味を持たないかということの良い事例でもありますが、このようなケースで彼女の終業間際の30分間の労働生産性を「モチベーションマネジメント」、「インセンティブの付与」、「目標設定と進捗管理」などの手法で高めようとしても、それは無理というものでしょう。なぜなら、彼女の人生で仕事が子供に優先することはないからです。

第二に、「好きなことだけをして構わない」とは「従業員の自由な振る舞いの結果に会社が対処する」という意味ではありません。例えば、従業員が欠勤することは自由ですが、例えば有給休暇などの規定を超えて欠勤する従業員に、会社が給与を支払い続けるということではありません。しかしながら、従業員が欠勤がちだからといって、それだけの理由で人事考課に悪影響を及ぼしたり、仕事がしにくくなるなど事実上の制裁がなされることは避けるべきです。自由な選択に介入しないということは、形式、実質を問いません。自由に振舞う社員に対して、「だったら好きにしろ」という態度を取る上司も実質的に従業員の自由意志に介入していることになります。望むべきは、「好きにしても良いんだよ」というニュアンスでしょうか。この考え方は、「会社は、従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」ということです。誰にとっても平等なことだと思うのですが、人は誰しも自分が選択した行動が生み出す結果を避けられません。例えば、嘘をつけば信用を失いますし、人を騙せば恨まれますし、仕事をしなければ収入が途絶えます。従業員の自由な選択に介入しないということは、この結果にも介入しないということです。反面、従業員のいかなる選択と行動に対して、それがもたらす自然な結果を会社も受け入れ、従業員を裁くことをしません。

第三に、従業員は以上の意味で、本当に「好きなことだけをして良い」、すなわち、従業員の自由な行動と選択によって誰も人事的なマイナスを受けない(言外のペナルティや実質的な禁止を含む)のですが、人事考課として評価される行動は、その自由な振る舞いのうち、①自分を成長させる行動と、②人の役に立つ行動のみ、というように構成されています。

第四に、従業員は「好きなことだけをして良い」のですが、同時に「真実であること、隠し事のないこと」が前提です。一般に、「人のため」と言いながら利己的な利益を追求する人は、社会において驚くほどの比率に上りますが、これらの人たちは真の意図を隠すために膨大な労力と注意を払っています。これに対して、サンマリーナの人事考課においては、例えば、従業員の振る舞いがいかに利己的な行動であっても、それ自体では全く問題視されず(評価もされませんが)、上記の原理によって許容され、裁かれることはありません。しかし、それが利己的な行動であると言うことを明らかにする、すなわち行動と表現に嘘がない状態であることが非常に重要視されるのです。

責任てなんだ?
企業経営の常識では、企業において従業員が「すべきこと」と「してはいけないこと」が存在し、それを守る(守らせる)ことが組織の秩序を生み出す、と考えます。これに対して、従業員は「好きなことだけをして構わない」という考え方は、①企業においては従業員が「すべきこと」も「してはいけないこと」も存在しない、②従業員が「したいこと」と「したくないこと」が存在するのみである、③仕事は期限を決めて行う必要はない、そして、④従業員が会社の業務を行うのではなく、従業員のやりたい仕事の集積が、会社の業務である、という発想が前提となっています。この考え方は更に、組織における「責任」の概念を不要にすることになります。

翻って考えると、これだけ頻繁に使われている「責任」という言葉の意味は、意外に曖昧です。例えば、経営者が「責任を持って実行します」というとき、これは実のところ何を約束しているのでしょう?「必ず実行する」という意味のようでもありますが、この場合、「実行できなければ○○を甘んじて受け入れる」という構成がなければ、概念として意味を成さないのですが、殆どの場合後者に関しては意図的に曖昧なままにされています。要は、社会における、「責任」とは、「目標が達成できなかったり、問題が発生した場合にペナルティを課せられる可能性のある部署または人物」という、ペナルティの概念として利用されているのです。さらに、この意味における「ペナルティ」は、「責任」の有無と所在が宣言されて初めて課される性質のものであるため、(潜在的な)ペナルティを避けるために(責任の)宣言をしない、という、非常に典型的な問題を日常的に生み出しています。この意味において、組織における「責任(者)」の有無が、効率的な組織運営を実現しているとはとても思えないのですが、如何でしょう。…経営に失敗した経営者は「責任」を取らなくて良いのか、という声が聞こえてきそうですが、経営者は「責任を取るために」辞任するのではなく、社内において「最も役に立つ人物」でなくなったときに辞任するべきだと思います。リーダーシップについての詳細な議論(『トリニティのリーダーシップ論』)は別の稿でコメントします。

「好きなことだけをして構わない」ということの経営合理性
以上が、「好きなことだけをして構わない」ということのおおよその意味ですが、このような人事フレームワークを構築し、運用することは次のようなメリットがあります。第一に、そもそも、「すべきこと」と「してはいけないこと」の有無に関わらず、結局人は自分の行動と環境を自ら選択している、ということはないでしょうか。これが仮に真実であれば、各人が「行動と環境を自分で選択している」状態にも拘らず、それ以外の行動規則、すなわち、「すべきこと」、「してはいけないこと」が存在するとき、組織内に本音と建前、すなわち「うそ」が生じることになります。「うそ」が経営効率に与えるマイナスのインパクトは想像を絶するものがあります(詳細は別の稿でコメントします)。そして、従業員はどのみち「行動と環境を自分で選択している」のであれば、経営が従業員に対して「好きなことだけをして構わない」というメッセージを伝えることで、本音と建前の使い分けを無用にし、従業員を「うそ」から解放することができます。この矛盾を解消することで従業員が元気になる姿は感動的です。第二に、「責任」によって従業員の仕事の範囲が規定されないため、従業員間の仕事のやり繰り(いわゆる「ヘルプ」)が非常に効果的に機能します。第三に、従業員の仕事の大半が「金色の仕事」になり、企業価値を高める効果があります(『トリニティの人事論《その2》』を参照下さい)。第四に、従業員がしたいことだけをするとき、企業と顧客の接点にうそや演出が一切なくなります。顧客が、例えばそのようなホテルを訪れるとき、ホテルで経験する全ての「サービス」は、従業員の心からのものです。

【2007.6.26 樋口耕太郎】

*『トリニティの人事論』は本稿で終了です。

「サンマリーナ人事考課に関する経営方針」(pdf)*(1)は、サンマリーナホテルで2005年7月から全面的に施行した人事考課基準の「現物」です。一般企業の常識的な人事考課基準とは相当異なるため、導入当時は面食らった社員も多かったと思います。実際のところ、この内容を十分に理解した従業員はそれ程多くなかったと思うのですが、それでも経営的に莫大な効果が生まれました。「常識的」に、人事などに関する経営方針は、従業員に周知徹底し、経営の意図が十分に理解されなければ十分な効果が生じないと思っていたのですが、どうやらそうとも限らないようなのです。

更に、人事考課基準を読んで頂けると分かるのですが、この人事考課基準では、会社は従業員に何も求めていないのです。すなわち、従業員が会社のために「何かをしなければならない」、あるいは「何かをしなければ何らかの不利益が生じる」、という内容はどこにもありません。…本稿の趣旨ではありませんので、詳細は別の稿でコメントしますが、一般に、経営者の仕事は「会社(と従業員)の何かを変えること」、と考える経営者が殆どだと思います。これに対して、この様な人事考課基準が有効に機能した事実は、経営者が方針を決め行動を起す、すなわち経営者自身ができることをまず行うことで、従業員を変えようとしなくても、あるいは、却って変えようとしない方が、企業をよいものにする可能性を示唆していると思います。

企業の自浄作用
さて、この考課基準を施行する際、周囲から心配されたのが運用です。…例えば「どのようなときにA評価となるか」という問題です。僕にはこの考課基準が具体的かつ公正に機能するという確信があり、実際に実践してみるとやはり殆ど問題になりませんでした。その確信へのインスピレーションは野村證券での経験がヒントの一つになっています。今はどうか良く分かりませんが、少なくとも僕が在籍していた頃の野村證券の人事は本当に公正だったという印象があります。僕が12年間お世話になった期間、学閥を含め派閥らしきものを見たことは一度もありませんでしたし、一従業員の目から見て不公正な人事はあまり記憶にありません。もちろん、会社の中にはゴマすりもいれば人の成果を自分のものにすることに情熱をかける「政治家」もいましたし、そのような人が昇進することもあります。それでも長期的には、部下思いの誠実な男気(女気)のある上司はやはり偉くなって行き、卑怯な自己保身上司が淘汰されていく自浄作用が存在したと思います。このような野村證券の人事を体験して、組織には尊敬すべきリーダーを評価・選択するメカニズムを内在しているのではないか、すなわち、「組織は誰がA評価であるべきか既に知っている」、と強く感じたのです。どのような組織にも自浄機能は存在し、人事担当者や経営がすべきことは、組織が本来有する自浄機能を活性化することではないか、というインスピレーションです。それが仮に事実だとすると、運用に際しての課題は、組織が内在するリーダーの人物像をいかに正確に吸い上げ、人事に生かすかということだけだと思ったのです。

部下は真実を知っている
「上司が部下の人物を見抜くのは困難を極めるが、部下が上司の公正さを見抜くのはほんの一瞬であり、その判断は殆どの場合正しい」。これは、僕の野村證券時代の上司が言っていたことですが、自分がサンマリーナホテルの経営を担当して、この言葉を本当に痛感しました。変な例ですが、女性の嘘を男性が見抜けないのと同様、上司が部下のおべっかを見抜くことを、組織的に意味のある水準で達成することは殆ど不可能という気がしました。経営的な観点では、上司が部下を正確に評価することを期待して経営を行うことは、あまりに合理性のない経営管理方法といえそうです。このため、僕の結論は、経営が組織的に実行すべきことは、部下が勇気を持って声を上げることを励まし、その部下の声に耳を貸し、それを裁きに利用せず、リーダーの選別に反映するということでした。要は従業員の信頼に足る社長が(あるいは人事担当者が)全ての社員と直接対話する時間を取れば良いだけの話なのです。

従業員250人のサンマリーナでも、1ヶ月程度他の仕事を一切しなければ全員と30分ずつ面接ができる位の時間が無理なく確保できます。1ヶ月間面接以外の仕事を殆どしないのは「非常識」、そうでなくても「不可能」と考える経営者が大半だと思います。しかしながら、本当のところ、仕事には「優先順位」があるだけで、「忙しくしている」人はいても、もともと「忙しい」人など誰もいないのです。「時間がない」というのも、「他に優先順位の高いことがあります」という意味でしかありません。したがって、これも優先順位の議論に過ぎません。そして、経営論における優先順位は、経営合理性によって決定されるべきで、人間関係を最優先するのは、最も効果の高い経営作業であるためです。そして、人間関係を優先するということの意味は、例えば社長が当然にしてこのような行動をとるということだと思います。結果として、サンマリーナにおいては僕の労働時間のほぼ9割が、広い意味での人事関連になりました。文字通り「経営=人間関係」です。このように、言葉で宣言したことをことごとく行動で担保していく作業が、経営の現場というイメージです。

シンプルなしくみが最も機能する
ものごとには、「精緻に分析するほど不正確になる」こともあるような気がします。例えば、従業員のクオリティを20項目で分析・評価・集計するよりも、40項目で評価した方が正確であるとは全く限らないと思うのですが、一般的な企業の人事評価はどうしてあんなに項目が多いのか、昔から釈然としないものを感じていました。昔、人事考課を受ける側の立場で感じたことですが、細分化された評価項目を見るたびに、自分とは全然別の人物を評価されているような気になったものです。

人事評価の運用に際して非常に効果的だったのは、社員のおよそ95%がAまたはBという、これ以上シンプルにしようがない「(実質的な)二段階評価」を導入した点でした。一般的な人事考課においては、複数の評価項目に対して評点を付し、それらを集計して総合評価を行うことが多いと思います。例えば、「収益にどれだけ貢献したか」、「新規案件にどれだけ積極的に取り組んだか」、「部下の育成を積極的に行ったか」など、複数の項目に対してそれぞれ評価がなされます。サンマリーナの人事考課では、各社員に対して「S・A・B・C」の総合評価のみを行うことにしました。つまり、Aさんの、ある期の考課は「A」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。2005年上期では、S評価が5%、A評価が55%、B評価が40%、C評価は度重なる飲酒運転で有罪判決を受けた2名のみでしたので、実質的にはニ段階評価と言って良いくらいです。また、大半を占めるA評価とB評価の、全体に占める割合がおおよそ6:4というバランスも非常にうまく機能したと思います。このバランスにおいては、従業員の格差を考課するという意味合いが薄れ、従業員を励ます意味合いがより表現・伝達される様な気がします。更に、B評価以上の社員は昇給していますので、(額は僅かであっても)事実上全社員が昇給しました。このような仕組みでは、とにかく運用がシンプルになるため、却ってより正確な評価が可能になるのではないかと思います。

全面開示
なお、以上の人事考課は、希望する全従業員に対して全面開示する方針を決定した上で行いました。開示方針を決定したことの最大のメリットは、経営幹部が人事考課を行う際、良い意味での緊張感が著しく高まったことです。経営幹部の立場では、自分たちが行った評価が全従業員の目にさらされることを意味するため、どの従業員の目から見ても公正感のある、少なくとも自分たちがベストを尽くしたと胸を張れる評価を行いたいと言う意欲が非常に高まったのです。これによって、人事考課を最終的に確定するまでに、総支給額別(残業代などを含む)、俸給別、役職別、入社年次別、部門別、年齢別、勤続年数別、男女別、過去数年の考課の推移と支給額の推移…。様々な観点でリストを作成し、多角的な視点にも耐えうる公正な評価を行うように、何度も繰り返し検討を行うプロセスが実現しました。

俸給決定に関する基本方針
人事評価に際しては、評価基準の設定や実績評価そのものよりも、「評価の姿勢」が最も重要ではないかと感じています。すなわち、実績を上げた従業員を高く評価することはある意味誰でもできることで、この場合の評価者は何かしら「審査員」のような役割を果すことになります。経営が本来すべきことは、従業員一人ひとりを可能な限り理解した上で、従業員の成長を後押ししながら、従業員の将来に「投資」を行う姿勢を人事考課という行動で示すことではないでしょうか。この姿勢を受け、サンマリーナでは評価の姿勢に対する基本方針を次のように定めました。

先行投資の原則: 昇給は社員に対する積極的な投資であると考える。各社員の成果を見越し、期待を込め、実績に先行して昇給額を設定する。従業員が現在の実力を上回る報酬を受け取る方が経営的に好ましい。
給与水準を「限界まで上げる」方針:その期ごとに、何が会社にとっての「限界」かについて明確に説明を行う。労働分配率の高い会社を目指す。
完全開示: 査定者の真剣味を引き出し、経営の「怠慢」や「既得権益」を防止。
金額よりも公平感: まずは心を配った評価から。絶対額の公平よりも、公正な査定を優先する。

【2007.6.14 樋口耕太郎】

*(1) 「『トリニティ経営』について」のセクションからも参照頂けます。

補足資料
以下に、人事考課の運用に際して全従業員に宛てて送付した、当時のメールを添付します。

*    *    *    *    *

2005年10月25日
サンマリーナに関わるすべての皆さんへ:
樋口耕太郎

サンマリーナの新・人事考課を導入してからそろそろ5ヶ月が経過しようとしています。本年末の考課はこの基準によります。それに際しまして、今後のスケジュール、運用方法、その他についてお伝えしたいと思います。

第一に、「半期ごとの目標を設定し、それに対する自己及び他者評価がなされる」旨を導入時にお伝えしましたが、目標設定の作業は不要との考えから省略して運用することにしたいと思います。期初に目標を設定しようとしまいと、その期にあげた皆さんの成果を評価することになんら影響はないと思われますし、期末に自由に成果を振り返るという意味で、より広範囲の成果を自己申告することができたり、なによりも重複する作業量を減らすメリットがあると思います。自己評価においては、以下にある「サンマリーナの事業目的」に沿って、①自分はどのように人に役に立っただろうか?②自分はどのように人間的に成長しただろうか?を振り返って頂く作業になると思います。(自己評価シートは追って皆さんに配布いたします)

なお、今期は義務ではありませんが、パートさんや派遣さんの方々も、もしご関心があれば是非考課基準を読まれ、自己評価シートを提出いただければ素晴らしいと考えています。

第二に、今期の試みとして、考課の前に面接を行いたいと考えています。特に前回の面接は(おおよそ)役職者から順に行いましたが、今回はパートさん等を含む現場の方から先に意見をお聞きしようと考えております。年末に間に合わせるためには11月頃より面接が開始されることになると思いますが、どうかご協力お願いいたします。特に前回遠慮をされて伝え切れなかったこと、忘れて話せなかったことなど、是非沢山アドバイスをいただければと思います。時には言葉を発することは勇気が必要かもしれませんが、その一言一言がわれわれの会社を良いものにする原動力になっています。

時間の関係で、面接の後の考課は内容のみのご通知となります。ただし考課の結果にコメントや意見がある方は是非別途際面接を行う運用としたいと思っております。

第三に、年末の考課に先立ちまして、サンマリーナの事業目的をより明確にお伝えしたいと思います。以下をご参照下さい。サンマリーナの考課基準が、事業目的と矛盾しないこと、むしろ事業目的に完全に沿う形で構成されていることをご確認いただければと思います。なお、「人の役に立つ」という場合の「人」とは社員やお客様に限定する意味は全くありません。パートさんや派遣の方々、サンマリーナ会の方々、協力会社の方々、サンマリーナ会(タクシー)の方々を含むタクシーバス等の運転手さんやガイドさん、ごみ処理会社の方々、工事業者の方々、ミュージシャンの方々、代理店の方々、またその家族の皆さんまたはまだお会いしたことのない方々…われわれが関わる、または関わる可能性のあるすべての方が対象です。

また、もともと社員やパートさんや派遣さんの間に雇用形態以外の差は全く存在しないというのがわれわれの明確な認識ですので、この機会に誤解のないようお伝えしたいと思います。

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サンマリーナの事業目的

サンマリーナにおける事業の目的は唯一「他を利すること」である。

われわれの「仕事」は、人に思いやりをかけること、人に優しくすること、人のために努力する人に共感しそれを伝えること、他を(物質的、精神的に)豊かにすること。これは手段ではなく、目的である(「目的である」とはそれが無償であるという意味です)。それ以外のすべての作業(世間で一般的に「仕事」と呼ばれているもの)はこの目的のための手段である。

リーダーの思考および行動はサンマリーナの事業そのものである。リーダーの「仕事」は上記の目的に沿って人の役に立つこと、または人の役に立つことを企画実行すること。反対に、より人の役に立つ人がリーダーとなり、それ以外にリーダーの選抜基準は存在しない。

売上や事業収益、は上記目的の結果であり、サンマリーナのいかなる部署、組織、個人においても目標、目的になることはない。また、いかなる部署、組織、個人もこれによって評価されることはない。

以上です。

こんにちは。 お元気ですか?
じとじとじと~っの梅雨ですね。
梅雨で雨がたくさん降るのに、6月のもう1つの名前は「水無月(みなづき)」。
実は旧暦の6月は、新暦では真夏の日照りが始まる7月に当たり、暑さで水が
涸れそうな様子から「ミズナシ月」と呼ばれたのが、由来といわれています。

いつもはうっとうしく思うこの梅雨。毎年、よくまあ規則正しく
やって来るものだと、地球のリズムに感心するのは私ばかりでしょうか。
お部屋がじめじめしたり、お洗濯物が干せなかったり、鬱陶しさは
ぬぐえないけれど、農家にとっては恵みの雨。この雨が、さまざまな作物たちの
豊かな実りを助けているのです。

でもその作物にも限りがあります。それが自然です。だからこそ、今ある大地の
恵みに感謝したいものです。
最近は、サプリメントがもてはやされています。ゴクリと水で流し込むあれです。
安易にこれに頼るのはどうでしょう。これも食文化? 今の日本の教育は、
知育・徳育・体育の三本柱ですが、今こそ「食育」が必要なのかもしれません。
幼いころ、時間を忘れ夢中で遊んでいる時に、お母さんから「ご飯ですよ~」と
呼び掛けられ、家族がみんなで楽しく食卓を囲んだものです。
こういう団欒のひとときに、この食物はこんな味でこんな栄養があるなど、
食体験や料理を通して、子供達に「おいしい」や「楽しい」を伝えていくべき
なのではないでしょうか。
著名な料理家が、「スローフード」という食習慣を直訳すると、「団欒」が一番
ふさわしいとおっしゃっておられましたが、地場の伝統食を話題にしながら、
皆が楽しく食事をすることもとても大切なことなのだと思います。

以前にも書きましたが、やんばるのブドウ狩りで感じたことです。

お客さんの足で踏み固められた地面に、一生懸命根をのばすブドウの木。
見た目はよい漆黒の粒でも、農薬の霧がその美しさに陰をさしていました。
ブドウの木が苦しそう。
昔のもこんな味だったっけ?
種無しにするため成長調整剤を使い、人工的な処理をほどこしたブドウ。
種ありブドウの強烈な甘さを知る、私の口にはまずく感じました。
あらためて考えてみると、山も畑も、昔と変わらず、深い緑で覆われています。
でも、見かけは同じ緑色でも、本当に中身まで同じものなのでしょうか。

まっすぐなキュウリ。真夏の白菜。虫を殺すジャガイモ。漂白剤で洗った真っ白な大根。自然の中ではありえないものが、当然のように存在する時代。
腐らないおにぎり。栄養のない野菜。石油から作られた食品。
添加物だらけのハンバーガー。人口の甘味料や香料。保存料、着色料…。
食べ物は私たちの体の中に直接入ってくる大切なもの。なのにウソやごまかしだらけの食べ物が世の中に溢れているのです。
祖母と母が同じ台所に立ち、その日買ってきた食材を使って、代々の嫁が
教わってきた知恵と味を、また伝えていく。「そんな生活があたりまえだった時代はもう過去のこと」、そうしてしまっていいものなのでしょうか。

梅雨に、大地の恵みに感謝しつつ、地面に跳ねる雨の旋律に耳を傾けながら
そんな思いにひたっていました。

【2007.6.8 末金典子】

前回のエントリーで紹介した『サンマリーナの人事フレームワーク』は、現代の企業経営の常識とおおよそ正反対の価値観と言えます。具体的には、 

会社の将来に関するビジョン構築を従業員に委ねたこと。すなわち、経営者が自分のビジョンを実行するために企業組織へ働きかける、と言う考え方を廃止し、従業員が心からしたいことの集積が、企業の事業であると正反対に定義したこと。これによって、従業員の望むホテルを実現することが経営者の仕事になりました。
反面、経営はこの様な人事フレームワークを施行することで、「企業が選択する価値観」についてリーダーシップを取ったこと。
人事は従業員の人生をよりよくするために、会社と経営が従業員に対して行う「奉仕機能」である、と定義したこと。
人事から「指示・管理機能」(すなわちペナルティ機能)を取り去ったこと。
従業員を自由にするだけではなく、各人が自由に行動するための障壁を会社が理解し、それを一人ひとりに対して取り除く手助けを積極的に行う機能を強調したこと、などです。

以上のフレームワークを前提に人事考課基準を定めたのですが、そのプロセスは、本質的に重要だと思えるもの以外の全ての評価項目を捨て去る作業でした。僕の結論は、(1)人間的な成長、(2)どれだけ人の役に立ったか、だけが本質的な基準であるというもので、実際この2つの基準だけで、評価、昇給、昇進、賞与を含む全ての人事考課を行いました。これは建前でも、言外の意図があるわけでもありません。本当にこの基準だけで人事考課を運用してみると良くわかるのですが、一見曖昧にみえるこの基準が、実用的かつ効果的であるのです。

このようなフレームワークと考課基準で人事を運用するにあたって、一般的に懸念された点は、(i)どの組織にも「質の低い」人材が存在するが、従業員を自由にするとそのような人材がどんどん仕事を放棄する現象が生じないか、あるいは「有能な」社員のモチベーションを下げることにならないか、(ii)実際にどのようにして評価(運用)するのか、例えば、個人のどのような状態がA評価になるのか、(iii)従業員がしたいことだけをする、従業員にホテルのビジョンを委ねる、というのは現実に機能するのか、事業計画や戦略との整合性はとれるのか、でした。本稿では前者(i)について、次稿では後者(ii)(iii)についてコメントします。まずは、このテーマに関連して、ひろさちや著『仏教に学ぶ八十八の知恵』からの抜粋をご紹介します。

思いやりのこころ
娘は中学二年である。クラスメイトに、病弱な子がいるという。病弱というより、たぶんに精神的なものらしい。体がだるい、あちこちが痛む……といっては、学校を良く休むのである。一種の登校拒否であろうか。
家が近くのものだから、娘は毎朝、彼女をさそいに行く。もしも彼女が休んだ日には、夕方、彼女の家に訪ねて、「明日は行こうね」とはげましに行っているらしい。日課のようにしています――と、妻が私に報告してくれた。夕食のときであった。
「佳子」――と、わたしは娘に語りかけた。「いいことをしているね。それはいいことだと、お父さんも思う。けれどもね、少し考えておいてほしいことがあるんだ」
(どこまでわかってくれるだろうか……)
そう思いながら、ちょっと慎重に、ことばを選びつつわたしは話した。たしかに、学校を休むということは、よくないことだ。だから、弱気になった友だちを一日でも休みが少なくなるようにとはげましてあげるのはいいことである。あなたは今そう思っているだろう。自分のしている行為に、何の疑問も持っていないはずだ。なぜなら、自分のしていることに、どこにもまちがいがなさそうだからである。
だけどね、佳子。ちょっとだけでいいから、考えてみて欲しい。その学校をよく休む子は、休んだほうがしあわせじゃないんだろうか……とね。休むのはよくないことだ、とお父さんも思う。でも、よくないことであっても、そうしないと生きてゆけないことが、この世の中にはいっぱいあるんだよ。だれもがだれも、いいことをできるわけがない。弱い人もいるんだ。精神の力が弱くて、つい学校を休む子もいる。よくないことだと言われたって、弱いんだからしかたがないんだよ。
お父さんが言いたいのは、そこのところなんだよ。自分はいいことをしている、友だちを助けてあげている、と考えたとき、どうしても相手の立場がわからなくなるものなんだよ。自分にもまちがいがないから、相手をせめることになりやすい。お父さんには、それがいちばん心配だ。どうしたらいいんだろう、こんなときには……。お父さんだって、わからない。
「ただね、”学校を休むことぐらいは、たいして悪いことじゃないワ”と、あなたの心の中でちょっと考えるくらいのゆとりがほしいんだ。”本当に悪いこと”なんて、この世の中にありそうもないのだからね。たとえあったとしても、そんなもの、人間に決められることじゃないよね。なぜなら、人間はやはり弱いんだから、自分もいつかはまちがいをするものね。お父さんはそう思うんだ。それがお父さんの忠告だよ」
娘は、中途半端な顔をした。無理もない。正しいことをやりましょうと、人間を鋳型にはめ込むがごとき教育をうけているのだから、わたしのこんな考えは理解できるはずがない。わたしは急がずに、これからときどきそんなことを話してゆきたいと思っている。いつかわかってくれるだろう……、と信じている。いや、わかってもらわないと、やはり困るのだ。なぜなら、他人に対する思いやりのこころを、わたしは娘や息子にもってらいたいと望んでいるのだから……。

経営合理性を考える
ひろさちやさんの事例は、近所の女の子は従業員、ひろさんの娘さんは経営者、学校へ行くことは仕事をすること、と置きなおすと、企業社会でよくある議論になります。どの企業にも、やる気を失ったり、要領が悪かったりするために、決められたガイドラインに沿って成果をあげることが非常に不得意な社員(あるいは、よくあることですが、「有能な」社員でも、そのような時期は周期的にやってくるものです)がいますが、企業社会において、この様な社員が、仕事をしたくないからという理由で仕事をしないことは許されないことと考えられています。そのような社員がどれだけ正直な人間でも、どれだけ良い性格であっても、それどころか、大概の場合はいかなる理由があるにせよ深く考慮されることはありません(世の中の殆どの企業は、表面上はどのような企業理念を掲げようと、「従業員第一」の経営を行っているところは殆ど存在しないのです)。

これは、仕事をしなければ成果が上がらず、ひいては企業価値がさがる、という前提に基づいており、「常識的」な考え方です。いかなる理由であっても従業員が仕事をしなくなれば、その従業員の人件費と、その労働によって得ることができたであろう機会損失が、経営的に生じます(実際は、程度やタイミングやその他の状況にもよりますが、他の従業員がカバーすることによって、機会損失はあまり生じないケースも少なくありません。)。加えて、「悪貨は良貨を駆逐する」という考え方に従うと、「能力のない」従業員を経営が放置することで、その他の従業員のモラルが下がることを未然に防止することができると考えられがちです。

以上の考え方は、確かに「常識的」ではありますが、本当にこの考え方が合理的かどうかを理解するためには、上記のような「個別の問題」として捉えるだけでは不十分でしょう。経営者にとってより重要な課題は、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」、という個別の経営行為が、「事業という生態系」全体において合理性を持つのだろうか、という問いである筈です。

生態系で何が起こっているか
これに対して、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」経営行為は、「事業という生態系」においては、次のような現象が生じていると考えられます。第一に、一見「合理的」な受験勉強によって、「学ぶこと」という最大の報酬をどぶに捨てている、という比喩と同様、従業員にとって「仕事を楽しむ」という、仕事をすることの最大の報酬を消失させてしまいます。これによって、当該従業員の「金色の仕事」を「鉛色の仕事」に変換する効果があります。第二に、「やる気の湧かない従業員」とは、実は全従業員が該当する、という点です。どんなに有能な社員も、その労働時間の全てがやる気に満ちているということはあり得ません。したがって、経営のこの様な対応は、経営者が認識しているか否かに関わらず、「経営は従業員の(生産性という)一面しか必要としていない」というメッセージを全従業員に伝達する効果があります。これは、すべの従業員は条件付きで必要とされる、すなわち、従業員よりも優先される何かが存在する、というメッセージでもあります。第三に、「生産性を伴った従業員しか必要とされない」、というメッセージと、「従業員を大事にします」というメッセージが経営から同時に出される場合、全従業員に対して「経営のメッセージには嘘がある」というメッセージを伝達する効果があります。第四に、「従業員は限定的に必要とされるのみである」というメッセージと、「経営には嘘がある」というメッセージが伝達されることによって、従業員が「自分と会社に嘘をつく」現象が生まれ、やがて常態化します。つまり、従業員の立場では、「経営がありのままの自分を評価しないため、経営が評価する人物像を『自分』と表現する」必要が生じ、更に、経営者自身のメッセージに嘘が含まれていることを知り(感じ)、企業において嘘が許容されるという意識になるのです。

この様な「生態系への影響」は、殆どの場合目に見えないものばかりで、多くの場合このような「ダメージ」を数量化することは困難です。反面、「個別の問題」は誰の目にもはっきりしているため、対処方法は明らかに思えます。更に、「個別の問題」があまりに明らかに見えるために、株主やその他の「権威者」から経営に対するプレッシャーもかかりやすく、経営者はこれらの権威者にはっきりと反論することが困難です。これに反論するためには、目に見えないものを合理的に説明する必要があるからで、大半の経営者にとってほぼ不可能な作業です。このため、経営者は株主などに対して、ある意味嘘(言わない嘘を含む)をつく必要が生じ、経営者にとって経営情報の一切を開示することは、「経営の存続に関わる」、という悪循環が生じます。

三つのメリット
反対に、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」ことを一切止め、前掲ひろさちやさんの人間関係に関する考え方を経営にそのまま応用すると、「事業の生態系」にどのようなことが生じるでしょうか。少なくとも三つの点において大きなメリット(事業価値)が生まれる可能性があります。第一に、企業から嘘が大幅に減少する点です。従業員の意思と意欲を最優先すると、従業員が企業に対して、そして更に重要なことに、自分に対して嘘をつく必要がなくなります。これによって従業員の仕事の大半は「金色の仕事」となり、ひいては企業の売上の大半が「金色の売上」となり、企業価値を高めることになります。加えて重要なこととして、この様な、嘘の少ない生態系においては、経営者が従業員に対して嘘をつく必要性も薄れるため、経営者がこの環境を適切に活かす意思がある場合、経営効率が高まります。

企業における嘘(政治)の存在は、多くの企業において、恐らく最大の「簿外費用」のひとつでありながら、企業に与える実質的なダメージの大きさと、経営的な重要性は殆ど認識されていないという印象を受けます(この詳細については別の稿で紹介します)が、このメリットによって、嘘による莫大なロス(費用)を削減する効果があります。

第二に、思いやりの連鎖が顧客に伝わります。ひろさちやさんのアプローチは、「相手をありのままに受け入れ裁かない」、という思いやりの本質を示していると思います。事業は人間関係そのものですので、経営においても同様の原理がそのまま適用します。すなわち、経営が従業員をありのままに受け入れると、経営の思いやりが従業員に伝わり、従業員は顧客をありのままに受け入れるようになり、従業員の表も裏もない思いやりが顧客に伝わります。このときの顧客の喜びようは、傍から見ていてもとても感動的です。このアプローチは、企業が顧客に対して本当の思いやりを示すために、経営が実行できる殆ど唯一の方法ではないかと思うのですが、同時に効果的な手法でもあります。反対に、経営から条件付きで必要とされている(世の中の大半の)従業員は、顧客を条件によって区別するようになります。例えば、よりお金を落としてくれる顧客、クレームの少ない顧客、手間のかかる要望の少ない顧客…、を優遇することになるでしょう。企業のこの様な対応は、「差別化戦略」などと呼ばれ、最近ではむしろ流行の経営戦略なのですが、このアプローチが「事業の生態系」において本当に合理性を持つのかは疑問です。確かに虚栄心の強い顧客にはある程度効果的かもしれませんが、企業の応対の裏に、隠された別の意図が含まれているということは、多くの顧客がすぐに見抜いていしまいます。

第三に、「事業を取り巻く生態系」の価値を最大化する可能性があります。この点については、本稿の趣旨ではありませんので深く触れませんが、「事業の生態系」はさらに「事業を取り巻く生態系」の一部であり、その大きな生態系の価値を最大化することで、「事業の生態系」に価値が生まれます。現代の経営理論には「サプライチェーン・マネジメント」のように、企業の物理的な枠組みを超えた、商品の生産から販売までの経済活動の効率を最大化する、という考え方がありますが、従来の事業の概念をより広い視野から捉えるという一点においては共通しています。トリニティの「事業を取り巻く生態系」理論は、例えばサンマリーナのオーバーブッキング対策などで実践されています。以下は、『今、愛なら何をするか』Article 4.「トリニティ経営に関するQ&A」からの引用です。

『少々テクニカルな事例になりますが、一般的な沖縄のホテルでは、不測に稼働率が高まるとオーバーブックという現象が起こり得ます。具体的には200室の客室に対してそれ以上の予約が入ってしまうと、希望するお客様に対して一部特典付きで他のホテルに宿泊を御願いするということになります。もちろんオーバーブックをした送客ホテルが費用を負担して次の受入れホテルでのグレードアップをしたり、食事の特典をお付けするなどの対処を行い、お客様にはむしろ喜んでそちらを選択いただくように務めるのですが、その際に送客ホテルが負担する費用は相当な額に上ることがあります。

一般的な慣習として、他人の不幸は密の味ではないですが、送客ホテルがお客様の移動先を探す際、受入れホテルは宿泊料を言い値で請求することも多々あり、これが更に送客ホテルの大きな費用負担を招いていました。「競合ホテル」という認識の基にはこのような対応がむしろ当然だと思います。

サンマリーナはこの問題に対処するために、他のホテルの立場を優先してみました。他のホテルがオーバーブックをしてサンマリーナに送客を希望する場合、当方に空室がある限りにおいて、先方の言い値(原価)でお受けするように方針を決め販売担当に伝えました。すなわち、サンマリーナを受入れホテルとする場合、送客ホテルはグレードアップや特典追加をお客様に提供できるにも拘らず、差額の費用が発生しないことになります。すると多くの周辺ホテルは、サンマリーナが送客する際においても非常に安価で対応していただけるようになり、この方針を定めた年度よりサンマリーナではオーバーブックによる費用がほぼゼロとなり、サンマリーナにとっての経済効果は約1億円分の売上増加に相当するインパクトがありました。

サンマリーナでは、いわゆる他社を競合相手とは考えず、助け合うことのできるパートナーと考えたため、それがそのまま事業における現実となりました。財務的にも、昨年度まで「競合他社」と呼ばれていたものが、この年からサンマリーナの簿外資産に変ったと考えることができます。このような発想の切り替えによって、サンマリーナは実質的に保有客室(200室)以上の顧客を受け入れることが可能になったと考えることもできます。』

こどもアドバイザリーボード
少し脱線気味のコメントになりますが、次のホテルプロジェクトにおいては、企業経営について、小学校低学年位のこどもに、各部署のマネジャーが事業報告を行いアドバイスを求める、「こどもアドバイザリーボード」を試してみたいと思っています。ボードメンバーは従業員の子供か宿泊客から選抜すると更に盛り上がりそうです。冗談ぽく聞こえるかもしれませんが、まじめに運用すると非常に面白い結果が生まれるのではないかと予想しています。小学校低学年生は、分別がある程度ついていると同時に、ものごとの嘘を鋭く見抜くことのできる年齢です。また、マネジャーは自分の担当する事業を小学生に理解できるように説明する必要が生じますので、自分の事業の本質を深く理解し、かつ平易な言葉で表現する作業が強いられるのです。

【2007.6.5 樋口耕太郎】

僕は、「良い人事」とは、「従業員の幸福感と企業の事業性(長期的な収益)がバランスする人事」だと思っています。これは抽象的な理想論に基づくものではなく、「従業員の幸福を最大化する」行為と、「(長期的な)企業収益を最大化する」行為は同一のものであり、この両者を最大化する経営バランスがどこかに存在する、という仮説に基づきます。このバランスをうまく取ることができれば企業価値の最大化(したがって長期的な事業収益の最大化)を容易に実現すことができるのです。

同様の意味ですが、本来の人事の目的は、企業価値の最大化を達成すること、すなわち戦略的かつ攻撃的な経営作業だと思います。一般的な企業における人事は管理的な業務として扱われがちで、企業価値への働きかけを意識して人事を構築する経営者はそれ程多くない印象ですが、企業価値とのバランスを意識しながら為される人事は、効果的な経営作業と言えます。個人的な経験でも、トリニティ経営を実行した以降、サンマリーナホテルにおいての僕の時間配分は、その90%以上が広い意味での人事関連でした。企業価値を意識しながら行う人事は、恐らく、経営者が企業価値を高める上で最も有効な仕事のひとつではないでしょうか。

トリニティ経営理論の考え方では、企業価値を最大化するということは、企業が持つ三つの資本(株主資本*(1)、顧客資本、人的資本)の合計の最大化を意味するのですが、三つの資本のうち、経営が最も効果的に働きかけることができるのは「人的資本」です。この意味でも、人事は企業価値の最大化を達成する上で効果的な経営作業と考えられ、その経営における重要性は計り知れないものがあります。

企業価値を高める人事
「企業価値を高める人事」と表現してもイメージしにくいと思いますので、その一例を紹介します。例えば、「金色の売上」を促す人事はこれに該当すると思います。『売上論《後編》』では、事業の本質的な強さ、すなわち企業価値の観点では、人の役に立った結果生まれる「金色の売上」と、人をごまかした結果生まれる「鉛色の売上」の二つの要素からなり、前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つ、と述べました。金色の売上は、「人が喜んで支払ったお金から構成される売上」であり、「偽りのない商品やサービスによる売上」であり、「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」であり、企業価値を高める売上です。この前提で人事を考えると、「金色の売上」を促し、「鉛色の売上」を最小限にするような人事が効果的と言えるのです。具体的には、「正直な社員を登用する人事」「オープンな人材を登用する人事」「人が喜ぶ仕事を優先する人材を登用する人事」を行うことで、「金色の売上」の比率を高め、ひいては企業価値を高めるというメカニズムが機能します。

…本稿の趣旨ではありませんが、この観点から世の中で「常識」となっている成果主義人事考課を考えると、成果主義は「金色の売上」と「鉛色の売上」を区別しないため、経営の意図とは裏腹に、企業価値の最大化に寄与しないのみならず、企業価値を毀損する大きな原因になっているかも知れません。このように考える方がむしろ現在の企業社会の現状をうまく説明できるように思えるのですが、如何でしょう。

「金色の仕事」と「鉛色の仕事」
従業員の幸福感と企業の事業性に関する僕の仮説は、「従業員の幸福感は企業の事業性を生み出す(恐らく)最大の要素のひとつである。ただし、この価値を顕在化するためには特定の経営バランスが必要である。」というものです。この前提において、①従業員の幸福感を高めるために経営は何ができるかを考え、悉く実行すること、②事業性を顕在化する経営バランスを見つけ、バランスし、維持すること、が経営の(恐らく最も)重要な役割ということになります。

従業員の幸福感を大きく左右する、仕事の質に関する概念は、経営理論のフレームワークではあまり議論されないのですが、仕事には(売上と同様に)2種類の色がついているのではないかと思います。心からしたいと思える仕事(「金色の仕事」)と、しなければならないからする仕事(「鉛色の仕事」)です。自分の好きなことを仕事にできる人は幸福な人である、というのは一般的な認識でもあり、「金色の仕事」の比率を高めることは、社員の幸福度に直結する重要な要素です。そして恐らく、特定の条件において、「金色の仕事」は「鉛色の仕事」と比べて高い成果を生むのです。「好きこそ物の上手なれ」という諺にもあるとおり、自分が心からしたいことの追求は事業性を持つのです。

これに対して、一般的な懸念は、「従業員の自由にさせたら、誰も働かなくなるのではないか」というものですが、確かに、従業員を自由にすると「鉛色の仕事」に関しては誰も働かなくなるでしょう。そして、従業員は気が向いたときに気が向いた量だけ「金色の仕事」をする、ということを意味します。したがって、冒頭の、「従業員の幸福感と企業の事業性のバランス」とは、(i)従業員が一日X時間の「金の仕事の」をしたときの成果が、(ii)一日8時間の「鉛の仕事」をしたときの成果を上回る経営バランス、と考えることができます。つまり、企業価値とのバランスを重要視した人事においては、(i)が(ii)のパフォーマンスを上回るために経営が従業員に対してできることは何かを考え、具体的に実行し、その成果を注意深く分析し、試行錯誤によって最適解を導く作業がポイントになります。そして、実際に試してみれば分かりますが、(i)が(ii)を上回る、それも著しく上回る経営的な働きかけを行うことは、それ程難しいことではありません。

具体的な課題は、従業員が心からしたいことを常に有しているわけではない点、すなわち、従業員が心からしたい仕事が見つからない場合、(i)を構成する、「金の仕事」を行う労働時間(X)がどんどん減少するという点。そして、従業員が心からしたいことが企業の目的に沿わなければ、事業が成り立たない、と言う問題です。この課題に対応する、サンマリーナ*(2) での僕の結論は、①従業員が心からしたいと思えないときは仕事そのものを停止して構わないこと、②従業員が心からしたいと思える仕事を見つける手助けをすることも、人事と経営の重要な役割であると規定したこと、③初めに経営が事業のフレームワークを設定し、それに対応する従業員の業務が規定されるという「常識的な」考え方を180度転換し、従業員が心から望む「金の仕事」の集積が、企業が行うべき事業であると定義してしまったこと、そして、④従業員が心から望む「金の仕事」のうち、人の役に立つ行為をより高く評価する考課基準を導入したことです。これによって、サンマリーナにおける従業員の仕事は、少なくとも理論的には、その100%が「金色の仕事」となる環境を整えることができました。この考え方によってまとめたサンマリーナの人事的なフレームワークは以下の通りです。以下はサンマリーナで実際に施行・運用した人事考課基準からの抜粋です。

サンマリーナの人事フレームワーク

1.会社の強さは従業員の在り方による
会社の強さ、会社の存在価値は、会社の「実績」ではなく、会社とは「何であるか」によって決まると考えられます。「社員が上げた実績」は会社の現在の実体とは何の関係もないのです。「どのような社員が居る会社か」「その社員がどのように時間を送っているか」「どのような顧客や取引先や株主とどのような関係を持っているか」が会社の実体であり、会社の真の実力を決定します。サンマリーナの人事と人事考課は、社員の人生を真に良いものにすることを通じて、会社を真に強くするためのものです。したがって、社員が何を達成したか、すなわち過去の実績や体験は真実の指標にはならず、直接の考課の対象にはなりません。純粋な社員の価値は、いま、ここで、どのような人であるか、どのようなことをする人であるか、であって、過去の再現ではないためです。

2.人事は会社が従業員の幸福に寄与するための手段
サンマリーナの人事と人事考課は、会社が社員に対して「社員はこう行動すべきである」、または「こういう社員を評価する」基準を示し、その基準によって評価するためのものではありません。人事とは、会社が社員の個人的、集合的な成長を応援し、無条件に支え、最大限奉仕するためのガイドラインです。したがってサンマリーナの考課基準は社員が人生の中で「自分はこうありたい(こう成長したい)」と考える目標と一致するべきだと考えます。

3.従業員がより幸福なあり方を選択するための手助け
職場の喜びは「何をするか」とは関係なく、「何を目的とするか」によって決まると考えられます。例えば、午前4時に起きて赤ちゃんに語りかけながらおむつを替えるお母さんや、長い一日の仕事を終えた後デートに出かける女性をみて、それが「労働」だなどとは誰も思いません。サンマリーナの人事と人事考課は、社員各人の人生の目的と考課基準を一致させる努力を通じて、社員の職場での喜び、幸福に寄与することを目的としています。例えば、同じような資質を持った二人なのに、一人は成功し、一人は失敗するとき、それは「していること」のせいではなく、「あり方」のせいかも知れません。一人は開放的で、親しみ深くて、こまやかで、親切で、思いやりがあって、陽気で、自信があって、仕事を楽しんでいます。もう一方は閉鎖的で、よそよそしくて、冷たくて、不親切で、陰気で、自分がしたことを嫌っています。サンマリーナの考課は、社員がより高い、前者のあり方を選ぶための手助けでありたいと考えます。

4.他人の役に立つほど評価されるしくみを担保
サンマリーナの考課は、社員が、個人的な利益目当てではなく、個人的な成長と人の役に立つことを目的に生きるための手助けであるように構成されています。なぜならば、それが社員個人の最大の利益であり、社員が大きく立派になれば、物質的な「利益」はあとから自然についてくる、という考え方に基づきます。一般に、社会で言う「成功」は、個人がどのくらい「得た」か、すなわちどのくらいの名誉や金や力や所有物を蓄積したかで測られています。サンマリーナの価値観では、「成功」は他の人にどのくらい「蓄積させたか(有形・無形のものを含む)」で測られます。真実は、人に蓄積させればさせるほど、本人も苦労なく蓄積することになるでしょうし、会社もそのプロセスを全面的に支持するのです。「いま、愛なら何をするだろうか?」を心に留めて、関わるすべての人に「贈り物」(ものとは限りません)をする、そのような社員の努力を、支持し応援し、評価の根幹としています。

【2007.5.26 樋口耕太郎】

*(1) ここで言う「株主資本」とは、バランスシート上で表現される資本を示します。逆に言えば、会計原則において表現される企業価値は、そのほんの一部に過ぎない、といえます。

*(2) 僕がサンマリーナホテルの代表を解任され、経営を離れてから1年半以上の時間が経過しており、現在は異なる経営者と経営方針の下に運営されているため、サンマリーナホテルに関する一連のコメントは現在のサンマリーナホテルの状況を反映しているとは限りません。

先日ある方とお話していて、その方が学生時代に卒業単位を大幅に超過して山ほどの単位を取得し、かつ極めて優秀な成績で卒業されたと言う話になりました。彼曰く「いくら勉強しても授業料は変わらないので、たくさん勉強した方が得だと思った」とのこと。謙虚な彼はなんとなく冗談めかして話されていましたが、この考え方は学ぶと言うことの本質を的確に表現していると思いました。本来勉強はとても楽しい筈なのに、「受験勉強」や「学位取得」を通じて、殆どの人にとって「しなければならないこと」になってしまっています。学ぶことそのものが何よりの報酬になり得るのに、多くの場合勉強は最大の苦しみであり、「何のために勉強するんだろう」と多くの学生が悩んでいます。

きっと、仕事も同じで、やはり本来とても楽しいことなのだと思います。心から楽しみながらする仕事は爆発的な事業力を生み出しますし、仕事自体が人生をとても豊かにする可能性を秘めています。一般論として、「仕事を心から楽しむとき高い事業性が生まれる」という考え方に共感する方は少なくないと思うのですが、この概念が企業経営において現実に応用可能だと考える経営者は少数であるのみならず、これを実際に実行する経営者は、良くて変人、一般的には狂人、具体的な成果が出始めると危険人物扱いされることになります。サンマリーナホテルでの僕の「実験」は、やるべきこと、しなければならないことを一切排除して、心からしたいことだけを事業化しようと試み、劇的な成果を生み出した事例の一つです。笑い話のようですが、これを実行するに際して、当時の共同経営者からは僕が本当に「頭がおかしく」なったと疑われ、精神科への入院を指示されたくらいです。

パタゴニア
しかしながら、世界的にはこの原理を経営手法として実践している経営者が少しずつ現れ、大きな成果を生み始めています。以下は、アウトドアウェアのメーカー、パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナード著『社員をサーフィンに行かせよう』の日本語版への序文からの引用です。

私たちの会社で「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのはずいぶん前からのことだ。私たちの会社では、本当に社員はいつでもサーフィンに行っていいのだ。もちろん、勤務時間中でもだ。平日の午前十一時だろうが、午後二時だろうがかまわない。いい波が来ているのに、サーフィンに出かけないほうがおかしい。 私は、数あるスポーツの中でもサーフィンが最も好きなので、この言葉を使ったが、登山、フィッシング、自転車、ランニングなど、ほかのどんなスポーツでもかまわない。パタゴニアの本社が太平洋を望むベンチュラにあるのも、パタゴニア日本支社が鎌倉市にあるのも、社員がサーフィンに行きやすい場所だからだ。そして何より、私自身がサーフィンをしたいのだ。

私が「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのには、実はいくつか狙いがある。 第一は「責任感」だ。私は、社員一人一人が責任をもって仕事をしてほしいと思っている。いまからサーフィンに行ってもいいか、いつまでに仕事を終えなければならないかなどと、いちいち上司にお伺いを立てるようではいけない。もしサーフィンに行くことで仕事が遅れたら、夜や週末に仕事をして、遅れを取り戻せばいい。そんな判断を社員一人一人が自分でできるような組織を望んでいる。

第二は「効率性」だ。自分が好きなことを思いっきりやれば、仕事もはかどる。午後にいい波が来るとわかれば、サーフィンに出かけることを考える。すると、その前の数時間の仕事はとても効率的になる。机に座っていても、実は仕事をしていないビジネスマンは多い。彼らは、どこにも出かけない代わりに、仕事もあまりしない。仕事をしている振りをしているだけだ。そこに生産性はない。

第三は「融通をきかせること」だ。サーフィンでは「来週の土曜日の午後4時から」などと、前もって予定を組むことはできない。その時間にいい波がくるかどうかわからないからだ。もしあなたが真剣なサーファーやスキーヤーだったら、いい波が来たら、すぐに出かけられるように、常日頃から生活や仕事のスタイルをフレキシブルにしておかなければならない。

第四は「協調性」だ。パタゴニアには、「私がサーフィンに行っている間に取引先から電話があると思うので、受けておいてほしい」と誰かが頼むと、「ああ、いいよ。楽しんでおいで」と誰もが言う雰囲気がある。一人の社員が仕事を抱え込むのではなく、周囲がお互いの仕事を知っていれば、誰かが病気になったとしても、あるいは子どもが生まれて三カ月休んだとしても、お互いが助け合える。お互いが信頼し合ってこそ、機能する仕組みだ。実際にどれくらいの社員がサーフィンに行くかというと、もちろん全社員ではない。全くスポーツをしない社員もいる。しかし、たとえば、ある社員の子供が病気で、今日は家に帰って仕事をしたいと言うと、誰もがそれを受け入れる。私の娘はこの会社でデザイナーをしているが、一人で集中したくなると、自宅にこもって仕事をしている。だから、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神はスポーツに限っているわけではないのだ。

結局、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神は、会社が従業員を信頼していないと成立しない。社員が会社の外にいる以上、どこかでサボっているかも知れないからだ。しかし、経営者がいちいちそれを心配していては成り立たない。私たち経営陣は、仕事がいつも期日通りに終わり、きちんと成果をあげられることを信じているし、社員たちもその期待に応えてくれる。お互いに信頼関係があるからこそ、この言葉が機能するのだ。

「社員をサーフィンに行かせよう」と言っている私自身、世界中の自然を渡り歩いている。一年のおよそ半分は会社にいない。サーフィン、フライフィッシング、フリーダイビング、山登り、テニスもよくやる。これを私なりにMBAと呼んでいる。「経営学修士」ではなく、「Management by Absence(不在による経営)」だ。一旦旅行に出ると、私は会社に一切電話しない。そもそも携帯電話もパソコンも持っていかない。もちろん、私の不在時に、彼らが下した判断を後で覆すことはない。社員たちの判断を尊重したいからだ。そうすることで、彼らの自主性がさらに高まるのだ。

最後に、私たちのビジネスで最も重要な使命について触れておきたい。それは「私たちの地球を守る」ことだ。私たちの会社では、このことをなによりも優先している。売上高より、利益よりもだ。今までのように、ニュージーランドの毛糸を香港でセーターに編み、アメリカで売ることは難しくなる。恐らく十年以内には、セーターのコストの中で輸送費が最大になるだろう。そうなるとグローバリズムは困難になる。ローカルエコノミーに戻るべきだ。求めるべきは、スローエコノミーであり、スロービジネスである。

本書の完成までに、実に十五年の歳月がかかった。それだけ長い時を費やしてようやく次のことを立証することができたのだ。従来の規範に従わなくてもビジネスは立ちゆくばかりか、いっそう機能することを。百年後も存続したいと望む企業にとっては、とりわけそうであることを。(日本語版への序文より)

戦略としての人事
サンマリーナやパタゴニアの事例は、今までの事業環境では、「とても変わった人事手法が経営的な成果をあげた一例」という程度のものであったかもしれませんが、今後の日本の企業社会ではそれ以上の意味をもつことになるでしょう。現在、人事を取り巻く状況が大きく変わりつつあります。少子高齢化と団塊の世代の大量退職が始まり、大都市圏では人材の確保が経営的な重要性を増しつつありますが、これは一大構造変化の序の口に過ぎません。今後30年間の長きに渡って労働人口が毎年1%ずつ減少することは人口動態上明らかであり、人材確保が経営的に最重要テーマになると思います。人事の対処を誤れば、給与を3倍にしても人材を確保できずに破綻する企業が続出するイメージです。

現状においても「人を大事にする」と言わない企業の方が少ないのですが、従来の価値観の延長上ではまるで対応しきれない市場環境になるため、「そもそも人を大事にするとはどういうことか」、「企業における人間関係はどのように在るべきか」、「企業は従業員の幸せと成長にどのように貢献できるか」を根本的に問い直し、試行錯誤をしながら適切な経営バランスを見つける企業が、業界を圧倒的にリードすることになると思います。このため、人事は企業の存続をかけた事業戦略という意味合いがどんどん強くなるでしょう。

【2007.5.18 樋口耕太郎】

ゴールデンウィークはいかがお過ごでしたか~?
5日は子どもの日でしたので、お父さん方は海や公園など行楽地にお出かけ
なさったことでしょうね。
この、菖蒲の節句とも言う子どもの日、昔は、菖蒲など季節の薬草で
厄払いをする宮中の行事でした。その後、武士の間で菖蒲を尚武(武を尊ぶ)と
解したことから、男の子のお祝いとして定着。兜や鎧を飾り、子ども達が
たくましく育つようにと願いを込めたそうです。
今もって子供はいない私なのですが、素敵な子どもに出逢うことができた日と
なりました。

私は無類の猫好き。私の住む北谷の町には、いたる所にわんさかノラ猫が
いるんです。毎日、海沿いにウォーキングしていると、決まったエリアに
決まったノラ猫がいるので、いつの間にか顔馴染みになり、今では挨拶を
交わすほどの仲になりました。私の昔からの習慣で、どこへ出かける時にも
いつも小さなタッパーにキャットフードを入れて持ち歩いていて、
ウォーキングの途中で会った猫ちゃん達にももちろんご馳走することに
しています。たまに見過ごして通り過ぎると、
「フニャーッ!(今日はくれないの~!)」と追いかけてくるほどです。
以前、ある建築家の方から、「その猫を一生面倒みる覚悟もないくせに、
中途半端な親切なんかかけるな!」とお叱りを受け、随分考え込んで一時
やめたことがあるものの、お腹の大きな母猫や、子猫をたくさん抱えた母猫が
餓えておっぱいもろくに出ない様子に遭遇した時に、たとえ一時でも、と
再開してしまい、今では再びエサを持ち歩く毎日です。
その日、ウォーキングの帰り道に寄ったサンエーの駐車場でのこと。
私を待ち構えるようにして寄ってきた猫が4匹。いつものようにエサをあげて
なでなでしていると、7,8歳ぐらいの真っ黒に日焼けしたわんぱくそうな
男の子が、私に「こんにちは!」と大きな声で笑いかけてくれるでは
ありませんか。うれしくなって私も大きな声で「こんにちは!」
するとこう言ってくれたんです。
「おばさん、ありがとうね。僕ね、いつもお母さんとここに来る度に
ここの猫ちゃん達のために家のミーコのエサを持って来てあげるんだけどさ、
今日は忘れちゃって猫ちゃん達にごめんねって謝ってたんだ。それで
『神さま、どうか、誰か優しい人がここに来てくれて、僕の代わりに
猫ちゃん達にエサをあげてくれるようにしてください』って必死で
お願いしてたんだよ。そしたらさ、おばさんが向こうから歩いて来て、
座って猫ちゃん達にエサをあげてくれたんだ。すっごいびっくりしちゃった。
おばさんは神さまの声が聞けるんだね。本当にありがとうね。
神さまもありがとうね!」
って言うと車に走って行きました。
私こそびっくりしちゃいました。
そして、この子の後姿には羽が生えてるように感じました。
よく、「今の子ども達は…、」などと言われますが、なかなかどうして。
すくすく育っている素晴らしい子どももいるなぁって、
とっても嬉しくなっちゃいました。
そうですよね、生まれてくる時にはみんな真っ白で、純粋無垢。
そんな子ども達を犯罪や非行に駆り立てているのは、大人が創り出す環境や
教育から。
この子のように、命を大切に思う子にみんなが育ってほしいですね。

いかなる理由があっても人を傷つけてはならない、あやめてはならないと、
幼いころから聞かされてきました。それは家庭で、学校で、幾度となく
教えられる、あたりまえのこと。大切なこと。疑いようのないこと。

命は地球より重いのだから――。

米オハイオ州に住む77歳のトーマス・シーマーさんは、公共の展示物を
汚損したことで逮捕されました。広島に原爆を投下したB29爆撃機
「エノラ・ゲイ」が、被爆の惨状にまったくふれず、まるで英雄のように
展示されていることに抗議してのことでした。有罪判決が下り、シーマーさんは
涙を流していました。罪人となり、家族や友人に心配をかけたからでは
ありません。シーマーさんが人として心から恥じ、悔やんだのは、
シーマーさん自身が、1953年から1976年まで多国籍企業ロックウェル社の
従業員としてクラスター爆弾やミサイルの開発にかかわったこと。その罪を
償うためにも、残りの人生をすべて平和のために捧げたいのだそうです。
人の命も地球より重いのだから――と。

自ら手をくだしていなくても、兵器をつくるのは、人をあやめる凶器を世に
送り出すこと、それは罪です。
では、合成化学物質はどうでしょう。
発ガン性が報告されても化粧品に、食品に、日本中の企業が使いつづけています。
そこに、いかなる理由があるのでしょう。そこで働く大人達は「命は地球より重い」
ことを、正義の意味を、子ども達に、どう教えるのでしょうか。

子どもの日の出逢いから、そんなことを考えてしまいました。

さあ、今日からまたお仕事ですね。
自分の仕事が、している事が、話す事が、伝える事が、
小さくとも、誰かの、何かの、お役に立つといいですね。

【2007.5.7 末金典子】

いよいよゴールデンウィークですね~。

しっかし、時間の経つのは早いものです!
ついこの前お正月が終わったと思ったら、もう1年の3分の1が過ぎ、今や
ゴールデンウィークになっちゃいました。
20代も後半になると、そういうふうに1年の過ぎ行くスピードが
加速しているのを感じ、30を過ぎると、そのスピードに焦りを感じる。そして
40代からはそのスピードを虚しく感じ始めるといいます。
実際に、年をとるほどに“一年”を短く感じるようになるのは、生理的現象の
一種。子供の頃は、1日が短く、1年が異様に長かったのに、大人になるにつれ
逆になり、1日が長く、1年が短くなっていきます。ただ、充実した人生を
送っている大人はいくら年を重ねようとそうはならないそうです。
それはもちろん密度が濃いからで中学生並みの密度の日常を送っているなら、
1日も当然短くなるわけです。ただ大体は、1年が単調なほど、年をとるほど、
1日は長くなり、もの哀しさを免れなくなっていくそうです。
そんなことを考えていた時、昨年末にもらったまましまいこんでいた
カレンダーやスケジュール帳がひょっこり出てきました。なんで今頃と
思いつつも、これをいい機会と、1月から4月まで終わってしまった日々を、
振り返ってみることにしました。空白を埋めるべく、思い出せるだけの出来事を
書いてみる…。むしろ月日の長さに驚いてしまいました。
あれはたった3ヶ月前? あれからまだ1ヶ月しかたってないの? と
逆に今までの日々の密度の濃さにびっくりしたのです。
ニュースだってほんの1~2ヶ月前に世間を大騒ぎさせていた事件のことを、
もうすっかり忘れていたりするもの。他の新しい情報が次々入ってくるから、
記憶から早々に追い出されてしまうのです。自分たちの日常生活も同じ。
自分自身は大して動いていなくても、世の中の動きが実はものすごいスピードで
動いていて、それに完全にのみこまれているから、日々の記憶を長く保って
いられないのでしょう。
でも途中でふり返り、ていねいに思い出すと、そのみっちりした3ヶ月、
4ヶ月が甦ってきます。むしろ月日はとても長いことに気づくのです。
時の流れの早さに心が空しくなったら、今年の1月から、この日は何をした、
どこへ行ったとなぞってみてください。自分の変化や進化にも不意に
気づいたりして、必ず収穫があるはずです。

よくこの言葉を耳にします。
「毎日単調でダレちゃうよ。なにかいい事ないかなぁ」
そういう方の大方が、いつの間にか心の余裕も無くしていて、不平不満の毎日を
送っておられる御様子なのです。
そこでお奨めなのが、
『今日のいい事日記』。
1日の中で良かった事を一つ捜して書き続けてみるんです。1日1日の良い事が
集まって1ヶ月が過ぎ、あっという間に1年が経ちます。
私も10年続けています。「友達に“やせたね”と言われて嬉しい!」「お天気が
良くて、洗濯物がカラッと乾いていい匂い」「お客様に“がんばろうね”と
言っていただけた」など、些細な事が多いですが、それを幸せだと感じられる
喜びを知り、また心の持ち方ひとつで毎日が変わるんだとも思いました。
どんなにちっぽけなことでも、寝る前にひとついいことを見つけると、
あぁ今日もいい1日だったなと思うことが出来るのです。
そうすると、欠けていたのは感謝する気持ちだということに気が付くはずです。
幸せは自分の心の中にあります。幸せがやって来るのをじっと待つだけではなく
見つけ出すことの方が大切なのだと思います。

「日記なんてとても無理…」というあなたなら、20数年前のテレビの子供番組
「ポリアンナ物語」の「良かったさがし」をお奨めします。
この物語は、両親を亡くし一人ぽっちのポリアンナが、牧師さんから教わった、
どんな逆境にあっても喜びを見つけ出すゲーム「良かったさがし」を通して
周りの人々を明るく元気にしていく物語。ある女性が早速まねて4歳の
息子くんと「良かったさがし」をしたそうです。
保育園に迎えに行った時、良かったことを聞いて、毎日抱きしめるのが日課と
なったそうです。息子くんは、しょんぼりして元気がない時でもすぐ満面の
笑みに変化。良かったさがしを通して、隣人への感謝の気持ちがわき、
心の気分転換ができ、物の見方を変えることができたそうです。
すべての優先順位は、生きること。つらく苦しいとき、夫婦、家族、
恋人同士が、一緒に「良かったさがし」をして幸せを確認すれば、
社会全体にも幸せの輪が広がるのではないでしょうか。

このゴールデンウィーク、どこかにお出かけ、もステキですが、
のんびりゆったりと、あなただけの幸せの時を感じてみてくださいね。

私は「スローライフ」を推奨しています。
「スローライフ」の「スロー」とは、現代の「ファスト」な生活の中で、
通り過ぎているもの・ことを、立ち止まってじっくり丁寧に見つめなおし、
充実した時間を楽しもうという提案。そういったもの・ことを大切にすることを
通して、ファストな毎日で磨り減った感性を取り戻し豊かな生活を
送っていただきたいと思うのです。

【2007.4.27 末金典子】

大阪のパン屋さんホットクロスと末金のメールのやり取りを掲載します。この素敵なパン屋さんのように、自然に、嘘がなく、喜んで顧客に純粋な関心を払う少数企業に出会うと素晴らしい気分になります。一般的な「サービス業」の惨憺たる現状(『トリニティのサービス論』参照下さい)と比較すると、日本のメーカーには誠意を持った企業が少なくない印象があります。「サービス」は業務形態の名称ではなく、思いやりの姿勢を示すものです。サービス業界は日本のメーカーから大いに学ぶものがあるのではないでしょうか。

ホットクロスさんの事業姿勢を勝手に『トリニティ経営理論』に当てはめるようで恐縮ですが、彼らの姿勢は「①真実であること、隠し事のないこと、②相手に一切要求せず、ありのままを受入れ裁かないこと、③自分を活かし、相手のためになることを、できることから実行すること」、そのものではないかと思います。ホットクロスの売上の大半は「金色の売上」(『売上論《後編》』参照下さい)に違いありません。

【2007.4.24 樋口耕太郎】

*    *    *    *    *

ホットクロス様

こんにちは。
私は大阪から沖縄県に移り住んで16年になります。
こちら沖縄県のパン屋さん、お店はどんどん増えてはいるものの、
私が大阪に住んでいた時に東大阪市から堀江まで通い詰めて
購入させていただいていたホットクロスさんに適うお店がありません。
ホットクロスさんからの帰り道、車の中で、本物のパンのいい匂いがプンプン
していたことを今でも思い出す始末です。ここのところはネットが普及し、
お取り寄せで食パンを買いまくっていますが、ホットクロスさんの味が私に
とってはかけがえのない最高のおいしさなのです。
そこでお願いがあるのですが、特上食パンだけでもお送りいただけない
ものでしょうか。ご無理を言って申し訳ありません。末金典子

*    *    *    *    *

末金 典子様

始めまして、ホットクロスの海地と申します。
この度はメールを下さり誠にありがとうございます。又弊社 商品に最高の
お褒めの言葉を頂き、工場社員を含め社員一同大変励みになった次第です。
16年前にお買上頂いていた当時と全く同じ製法で現在も焼き続けておりますが、
「特上食パン」は水を一切使用せず牛乳だけで練込んでいる事と、保存材料を一切
使用していない為に日持ち3日となっており、焼き上げた状態でのお送りは難しいか
と思います。そのため本来地方発送はしておりませんが「冷凍」にしての送りは
出来るかと思います。しかし運賃負担等で相当のご負担をお掛けする事になりますの
で心痛する所です。よろしければ又メール頂ければ対処させて頂きます。
ホットクロスを思い出して下さり、本当にありがとうございました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

*    *    *    *    *

海地さま、

今日は私のわがままなお願いに対して、温かで誠実なご対処を
しかも迅速にいただきまして、本当に本当にありがとうございました。
文章から海地さんの御人柄と、ホットクロスさんのお店のあり方が感じられ、
心から感激いたしました。

私の日曜日の日課は、美味しいパン屋さんを探し訪ねること。
昨日もここのところ評判になっているパン屋さんに車で
小一時間出かけ、5000円分ほど買い求めました。結果、ガックリ!!
運転してくれている私のパートナーに
「あ~、ホットクロスのパンが食べたいな~。いつも言うようだけど、
どんなにどんなに美味しいことか!!」とグチっていたところでした。
このパートナー、私があまりにいつもパンパンうるさく言うので、
先日彼の生まれ故郷の岩手で美味しいと有名な“横澤パン”を、
「僕の小さい頃から、美味しいと有名なパンだよ。」と取り寄せてくれました。
確かに美味しいのですが、ホットクロスさんの美味しさとはまた質の違う、
ハードトースト系のものなのです。
大阪の私の両親に頼もうと思っても、高齢で足が不自由なため堀江までは
出かけられなくて…。
そこへ今日の海地さんからのメール! とてもとてもうれしかったです。
本当にありがとうございました。
冷凍していただいたり、梱包していただいたりと大変なお手間をおかけしてしまい
申し訳ないのですが、よろしければ、特上食パン1本をお送りくださいませ。
また折角の機会なので、それ以上の食パンや、お奨めのパンがございましたら
取り合わせて、お送りくださいませ。もちろん無理であれば特上食パンのみでも
かまいません。送料・手数料・梱包代・お手間代など含めまして
1万円以下であればおいくらでも結構です。金額やお支払いにつきましてなど
またご面倒ですがご連絡をお待ちします。
このたびは本当にありがとうございました。

*    *    *    *    *

末金 典子様

早々にお返事頂いたのに、こちらからのお返事遅くなり誠に申し訳ございません。
前回も申し上げました様に 地方発送や冷凍でのお届けは今回初めてであり、
自信がありませんのでこの度の送りは「特上食パン」だけにさせて頂きたく
お願いいたします。弊社も一部の商品について冷凍し、ネット販売での企画も
現在試作検討中です製品として出来上がりましたら改めてご案内申し上げたく思い
ます。詰め合わせ出来なくて本当に申し訳けございません。
代金等の件ですが
* 特上食一本(3斤分)  1.110円
* 送料、代引手数料で約 3.000円位との事です。(ヤマトクール便)
よろしければご連絡お願いいたします。
ありがとうございました。

*    *    *    *    *

海地さま

お忙しい中、私の無理なお願いに対して、丁寧な御検討をしてくださり
本当に本当にありがとうございました。海地さんの御提案の通り
お送りくださいませ。この度はたった一人の顧客に対しも誠実に
対処してくださり心から感激いたしましたとともに感謝の気持ちでいっぱいです。
私のようなホットクロスさんのパンを切望する人間がきっと全国に散らばって
いることと思います。いつの日かネット上でも購入できます日を楽しみに
しております。今回関わってくださった海地さんや工場の方々はじめ
ホットクロスの皆さんのお幸せを心からお祈りしつつ、特上食パンを
楽しみに楽しみに待っております。  末金典子

*    *    *    *    *

末金 典子様

最初にメールを頂いてから一週間も経ってしまいましたが 本日やっと手配が調い
工場より出荷させていただきました。弊社の要領が悪く、イライラなされた事と
お察しいたします。堪忍してやって下さい。
あとはお望み通りの状態でお届け出来る事を祈るばかりです。それと現在試作中の
冷凍カレーパン「カリカリミンチカレー」をご賞味頂ければと思いお送りしておりま
すのでご試食いただければ幸いです。(参考市価税込み168円)
商品は22日(日曜日)クールヤマト便でお届けとなります。
料金明細は クール便2.000円
商品 代1.110円
代行手数 315円 の合計 3.425円です。ドライバーが集金します。
また何かございましたら連絡いただければと思います。今後ともどうぞ宜しく
お願いいたします。ありがとうございました。

*    *    *    *    *

海地さん

今日、特上食パン届きました!
毎日のお忙しいお仕事の中での作業、本当にありがとうございました。

待ちかねて、すぐにいただきました。これです、これ!!
本当に美味しい!! 本当にいい香り!! ウソのない味ですね。
一口一口をじっくり味わいました。
私のパートナーは大のカレーパン好き。御同送くださったカレーパンもとても
美味しくて感激しております。しかもこんなにたくさん!!
おまけ、どころか、かえってお手間とお気を使わせてしまっただけで
大変恐縮しております。

今の世の中、ウソだらけです。
食べ物もそう。
食べ物は、私たちの体に直接入ってくる大切で重要な物です。
なのに今はウソの食べ物だらけです。
漂白剤で洗ってから出荷される大根。種無しにするため成長調整剤を使い人工的な
処理をほどこしたブドウ。まっすぐなキュウリ。真夏の白菜。虫を殺すジャガイモ。
腐らないおにぎり。栄養のない野菜。石油から作られた食品。添加物。
人口の香料や甘味料。……
その点、ホットクロスさんのパンは本当に素晴らしい。

こんな想いでありがたく、うれしく、いただきました。
私とパートナーが感じたほんの一部の人間の僅かな想いですが、
どうぞ海地さんはじめ工場の方々お一人お一人の
誇りと励みになさってくださいますように。
大阪を離れ16年経った今でも、遠く沖縄に離れていても、ホットクロスさんの
パンを忘れたことはありません。
どうぞこれからも本物のパンを世に送り出してくださいね。

海地さん、今の世の中本当に世知辛いですね。
沖縄に住んでいて、大阪出身だと言うと、よく言われます。
「大阪の人ってすっごいケチなんでしょ?」
「大阪って犯罪だらけの恐い町なんだってね。」
でも私は、今回の私のお願いについてのホットクロスさんとのやりとりから、
故郷大阪の人々の温かい想いを感じることが出来ました。
やっぱり大阪が大好きだなって思いました。
世の中まだまだ捨てたものではありません。

ただ今どきこのような温かい思いやりを示してくださる企業がはたしてどのくらい
あるのでしょうか。海地さんとのこの感激のやり取りをいろいろな方に
知っていただきたくて、弊社のホームページ上(アップデイト)にて
御紹介させていただきました。機会がございましたらご覧くださいませ。

大阪に戻りました際にはたくさん買いに行かせていただきます。
そしてぜひ沖縄にもおいでくださいね。

この度は私の夢を叶えてくださり本当に本当にありがとうございました。
いつもホットクロスさんのご繁栄をお祈りしております。心から。遠くから。

トリニティ株式会社  取締役 末金典子

*    *    *    *    *

末金 典子様

この度は総てに於て本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
お客様に喜んで、安心して、美味しく召上って頂く為にパンを作り続けていて
「本当に良かった」と工場従業員の励みともなりました。又今後の製品作りに
ついても何が大切かを十分に教えていただきました事、報告をさせて頂きます。
(貴方様から頂いたメールを印刷してこんなお客様がいらっしゃる
事のありがたさを従業員に判ってもらうと同時に製品作りに活かせたらとの
気持ちから回覧をさせて頂いておりました。)

御社のホームページ拝見させていただきました。
御社のお考えは本当に理解し易く、行動に移し易く、人を深く尊重した
「経営理念」に自分自身此処最近忘れがちで有った人間性をあらためて思い
出させて頂き感動した次第です。
貴方様の会社は必ず発展し続けると確信しております。是非大阪でも今後の
活躍をお祈りいたします。(アップデイト欄ですが弊社にしましては有り余る
お言葉を頂き心底恐縮の至りです。ありがとうございます。)

この度の縁を機会として今後とも末長いお付合いが出来ます事を願っております。
遠慮なしに申し付け下さいませ。今後とも宜しくお願い申し上げ
御礼にかえさせていただきます。感謝

売上論(pdf)

企業の「売上」には色がついていて、事業の本質的な強さの観点では「良い売上」と「悪い売上」の二つの要素からなり、前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つ、というのが前回のエントリー『売上論 《前編》』の仮説です。この考え方は、一般的な経営の諸問題をうまく説明できるような気がします。売上の額は収益を規定しますが、売上の質は事業力と企業価値を規定します。したがって売上の額や収益を第一に考える経営者は「収益を見て事業を見ていない」状態に陥りがちで、短期的な(とはいえ、時にはこの「期間」は10年継続することもありますが)利益成長を遂げながら、企業の凋落を招くという現象が広範に生じるのです。

売上の「色」と経営者
一般に、「売上」はこのような要素に分解されて理解されることが殆どないので、経営者の意識はどうしても売上の額に向けられ、売上の質が重要な経営課題であるという考え方をしにくいように思えます。更に、売上の額を増やすことと売上の質を高めることは相反するように見えることも、経営者が売上の質を意識しにくい原因の一つかも知れません。

売上には二種類の色がついているのですが、この色はうっすらとしたもので、殆どの経営者はこれに気がつかないか、気がついていてもあまり気に留めません。まして、どちらの色の売上も(少なくとも短期的には)同様に収益を生むため、利益成長のプレッシャーを常に受けている経営者の立場では、「そんな微妙な色の違いに構ってはいられない」という気になるのも無理ないところです。色の違いの重要性に薄々気がついている一部の経営者も、金色の売上(「良い売上」)を優先すると、鉛色の売上(「悪い売上」)が大きく下落し、総売上げと収益の急低下を経験することになりがちです。これは一般的な経営者にとっては最大の恐怖であり、金色の売上の重要性を理解していたとしても、なかなか鉛色の売上に頼らずに経営をすることができません。そして、このような試行錯誤を何度か試みた経営者は、いつも金色の売上と総売上の額が両立しないので、「所詮現実社会では実現しない理想論だ」と考えるようになります。

しかし、中には突然変異のようにロマンチックな信念を持つ経営者や、夢を追う起業家や、場合によっては破綻に瀕して退路を断たれた経営者が、金色の売上に事業を賭ける(賭けざるを得ない)ことを選択するケースがあり、少なからず大きな影響力を社会に与えることがあります。例えば1月29日のエントリーで取り上げた旭山動物園は良い事例の一つではないでしょうか。

売上の「色」を見極める
以上を経営的に考えると、①売上の質を見極めること、②売上の質と売上の額のバランスを取ること(良い売上の比率と売上の額を両立させること)、が重要な経営課題となります。売上の質を見極めるヒントですが、金色の売上は「人の役に立った結果生まれる売上」であり、鉛色の売上はいわば「人をごまかした結果生まれる売上」です。金色の売上は、「人が喜んで支払ったお金から構成される売上」であり、「偽りのない商品やサービスによる売上」であり、したがって「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」と定義することもできます。

企業会計上、売上はその質がどのようなものであっても、質の違いによって中身が区別されることはありませんが、事業価値の観点では、金色の売上が「事業」、鉛色の売上が「お金儲け」と表現すべき程の相違があります。この相違を自覚的に認識することは、企業価値を高めるための強力な経営手法になり得ます。売上の中から、事業(真実)とお金(ごまかし)を見分けることができるのは、基本的に経営者しかいませんし、経営者の重要な仕事の一つである筈です。経営者がこの違いを理解することは、事業を理解することへの大きなヒントであり、企業を強くするための重要な第一歩になるのではないでしょうか。

強い企業を作る方法
「事業」を強くすることは、「商品やサービスに隠し事がない状態で、顧客が喜んでお金を払う」金色の売上を生む力を高めることに他なりません。したがって、事業力とは、他を利する力であり、嘘のない事業を構築する力であり、開示する勇気であり、収益よりも人間関係を重視する力です。世の中で一般に理解されているような、他社を出し抜くこと、資本力、スピード、営業力などは、企業の事業力とは直接の関係がないかも知れないのです。

また、事業力を高めることは、金色の売上すなわち、「偽りのない商品やサービスによる売上」あるいは「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」を見極め、これを増加させる作業です。一見難しいことのようですが、経営者が決断さえできれば、企業の全てをオープンにすることでいとも簡単に実現できます。「金色の売上」すなわち「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」を増やすためには、…とても非常識に聞こえると思いますが…、例えば顧客に対して実際に原価を開示してしまうことが最もシンプルかつ効果的であるのは明らかです。そしてこの際、経営情報を開示するという「異文化」を企業に導入するためには段階を経ることが有効だと思います。

僕がサンマリーナの経営を担当していた時、この考えに基づいて三段階の情報開示プロジェクトを実行しました。第一段階は、経営・財務情報の全面開示です。サンマリーナでは財務会計情報が整備されていて不明瞭な点が非常に少なかったため、即時実行することができました。第二段階は、人事情報の全面開示です。役員、正社員、パートなどを含む全ての従業員の考課、給与、号俸等を全従業員に全面的に開示しました*(1)。情報開示は公正な経営を行うことが目的で、現場を不要に混乱させるべきではありません。人事考課を公正なものに見直すための時間を1年と定めて対応しましたが、現実には半年後に準備が整い全面開示を実行することができました。第三段階は、商品原価情報の全面開示です。サンマリーナでは二年以内に、(実務的に対処可能な範囲で)商品原価を顧客に全面開示する計画でした。この「非常識な」方針を実行する前にサンマリーナの経営交代がなされてしまいましたので、実現に至っていません。

オープンにすることの本質は、情報開示そのものにあるのではなく、事業を公正に構成し直すことにあります。情報管理の議論では、どの情報を開示するか、どこまで開示するか、誰に開示するか、どのような方法で開示するか、などが検討されがちですが、経営的に重要なポイントは、情報が開示されても問題が生じない公正な事業運営を行うことであり、情報の開示や扱い方は手段に過ぎません。このことによって経営が根本的に、シンプルに、公正に、効率的に生まれ変わるプロセスはとてもパワフルで感動的です。経営者が勇気を出して事業をオープンにすることができれば、企業内の驚くほど大量の問題が消滅します。例えば、社内政治(社内に限りませんが)は事業効率を大きく低下させますが、これを組織的なしくみや人事で解決することは非常に困難です。政治とは目的と手段が乖離していて真意が隠されている状態を言いますので、オープンな環境で政治は存在することができません。

なお、情報開示を実行するにあたって、最も大きな障害は経営者(および経営陣)自身です。どのような組織でも、自分だけの情報を集めることで自分の価値を高めようとする人がいますが、実はその中でも、情報を最も隠したがるのは経営者であることが少なくありません。

【2007.4.21 樋口耕太郎】

*(1) 笑われそうですが、人事情報の全面開示に加えて、社内不倫の開示原則を発表しました。男女の関係そのものに口を挟む意図ではないのですが、社内不倫は組織に嘘を持ち込み、不公正な人事や歪んだ人間関係の温床になりがちです。特にサービス業において社内不倫が盛ん?な企業は、どうしても隠微な雰囲気が顧客に伝わるような気がします。このような雰囲気を「売り」にしている企業もありますが、サンマリーナでは相応しくないと考えました。そこで、まずは幹部職員に対して、現在社内不倫状態にあれば一定期間内に「嘘のない状態」、すなわち開示可能な状態にすること(別れるでもよし、真剣交際を宣言するでもよし、離婚を決断するでもよし)としました。もっとも、その時のサンマリーナの幹部職員に該当者はいないようでした(…といっても、自己申告ベースですが)。事業経営における男女問題は一般的な経営論で語られることは殆どないのですが、対処次第で事業に大きな影響を及ぼす重大なテーマですので、別の機会にまとめたいと思います。

「強い企業」、あるいは「企業を強くする」とはどういうことでしょうか。売上を伸ばすこと?利益の成長?総資産や純資産を増やすこと?戦略的な新規事業の展開?競争力のあるビジネスモデル?優秀な経営陣や人材の確保?資金力?…。しかしながら、これらのどれをとっても、あるいはこれらの全てを達成しても企業を本質的に強くするとは限らないと思います。例えば、世の中で注目を浴びている(た)成長企業やベンチャー企業の中には、これらの多くまたは全てを満たしている企業は少なくありませんが、そのような企業がいとも簡単に凋落したり、短期間で平凡な企業に変貌してしまったり、場合によっては破綻することもまた珍しくありません。このような現象はどう理解するべきなのでしょう?

企業の強さを理解するためのひとつのアプローチとして、「企業存続の必要条件」を考えてみます。「これがなければ企業は存在し得ない」という要素の中には、企業のエッセンスを理解するヒントが含まれているかもしれないからです。そして、企業の存続にどうしても必要なもの以外の要素をどんどん切り捨てていくと、最後には「売上」だけが残ると思います。企業の付加価値は利益によって顕在化しますが、売上なしには利益は生じ得ませんし、利益がなくても大きな付加価値を有する企業は少なくありません。また、企業に全くお金がなかったとしても、売上を回収することができれば企業は立派に機能し得ます。

良い売上、悪い売上
企業社会の「常識」では、事業とは収益をもたらす活動であり、売上は企業が顧客のニーズを満たすことによって生じる顧客の購買活動によるとされています。このため、事業は「短期的かつ長期的に、どのようにして収益を上げるか」「どのようにして企業の活動範囲を拡大するか」を追求する行為、…要は「どうしたら儲かるか」そして「どうしたらより儲かるか」という企業の活動であり、「儲け」をもたらす「売上」は企業が顧客のニーズを満たすことによって生まれる、と一般に解されているのではないでしょうか。しかしながら、これが「事業」の本質的な意味であるならば、なぜ、ある時まで利益や売上を順調に伸ばしている企業が突然衰退したり破綻したりするのでしょう。一般的に、売上はなにかしら企業実体(の一部)と認識されていると思いますが、実際は企業実体がもたらす結果に過ぎません。売上と企業の本質的な事業力は異なるものと考える方が自然ではないでしょうか。

「売上が伸びている会社であっても強い会社とは限らない」ことと、「売上は企業存続の必要条件である」ことが仮に事実だとすると、「売上には企業存続のエッセンスであるもの(したがって企業を強くするもの)と、そうでないものが混在している」という仮説が成り立ちます。「良い売上」と「悪い売上」といったところでしょうか。そして、いずれの売上であっても利益を生み出す可能性があるため、いわば「良い利益」と「悪い利益」が存在すると考えると、上記の現象をうまく説明できるかも知れません。

カフェと居酒屋
先日那覇新都心のカフェでお昼を食べました。このカフェは小さいながらもガーデニングが施された洋風住宅の店構えで、株式会社サザビーリーグの「Afternoon Tea」にちょっと雰囲気が似ています。僕はハーブサンドイッチ(800円)をオーダーしましたが、お店の「小洒落た」雰囲気と「きれいな」付け合せを別にすると、要はパンにレタス(に思えました)とハムが一枚ずつ挟んであるだけ。もしこのサンドイッチが国道海沿いのカフェで売られていたら、500円でも高いと思ったでしょう。…このような商売を称して、「良い雰囲気」はお店の付加価値であり、その価値が300円の差額として顕在化したと解釈されることがむしろ一般的かもしれません。実際多くの経営者は単価を上げ、原価を下げても売れるお店作りやメニューやサービスや雰囲気作りに心を割いています。しかし、顧客が雰囲気の良いお店を選択するのは、しっかりした料理が出てくると言う期待感からではないのでしょうか?この300円は本当にお店の「強さ」なのでしょうか?

別の日に、同じく新都心の居酒屋さんに行きました。居酒屋さんでは良くあることですが、お酒を進ませるためにどの料理も味付けが濃く、食べるほどにとてものどが渇きます。僕はお酒を飲まないのですが、お腹がいっぱいになるまでの一時間少々の間にウーロン茶を2杯頼むことになりました。食事代2,500円プラス飲み物代1杯250円として500円、合計3,000円の売上は沖縄の外食としてはなかなか高い客単価となります。このようなメニュー作りは単価を上げるための事業の「ノウハウ」と解釈されることが一般的だと思います。しかし、この500円の売上はこのお店の「強さ」が顕在化したものと言えるのでしょうか?

上記のようなカフェや居酒屋さんの話をすると、このようなお店のやり方は「何かがおかしい」と感じる人は少なくありませんが、企業全体の規模で考えるとなぜか意見が正反対になります。例えば上の居酒屋さんの企業全体の年間売上が、単純に単価の100,000倍だったとしましょう。原価と販管費の合計が売上高の80%だとすると、この企業は売上3億円、費用は2.4億円、経常利益6,000万円の優良企業です。この企業がお客様に食事のおいしさを純粋に楽しんでもらいたいと考え直して食事の味付けを少し薄くした場合、飲み物のオーダーが例えば半分になり、売上は2.75億円、飲料原価は低いため費用は殆ど変わらないとして2.3億円だとすると、経常利益は4,500万円となり、25%減益を見込まなければなりません。この会社が上場企業であれば、この瞬間株価が10%くらい暴落することでしょう。これほどの企業収益を「犠牲」にしてまで、食事の味付けを顧客本位に変更することができる経営者は圧倒的に少数派だと思います。しかし、このような経営は本当に企業価値を上げている、すなわち企業を本当に強くしているのでしょうか?

嘘をつくほど売上が上がる
雰囲気でカバー(ごまか)したメニュー、食材を節約し(ケチっ)た料理、進んで(無理やり)お酒を飲ませる味付け、イメージ広告の(現実離れの)きれいな写真で売るリゾート、展示即売会にお客さんを招待し(閉じ込め)て契約するセールス、お客さんのためだと説明される多様な(不要な)オプションの保険、などはサービス業に溢れています。これらは厳密な意味では企業が顧客につく嘘以外の何者でもないと思うのですが、あまりに一般的になってしまっているために、誰も嘘だと認識していませんし、嘘だと声を上げる方が変人扱いされそうです。反面、このような企業の嘘はほぼ確実に(少なくとも短期的には)企業収益を押し上げる効果があり、経営者はこれを嘘と呼ぶ代わりに「事業戦略」、「ノウハウの蓄積」、「マーケティングの効果」と表現することが一般的だと思います。

このように企業の嘘は収益をすばやく押し上げるのですが、顧客がその嘘に気がつくと元の木阿弥になってしまいます。このため、一部のサービス企業では、嘘をどれだけ本当に見せるかが「事業戦略」となっていると言っても良いくらいの状態です。この戦略が成り立つのは、少なくとも短期的に、この嘘に気がつかない、あるいは気がついても許容できる顧客が存在するためで、企業の嘘が社会の常識になっているせいもあってか、この数は決して少なくありません。また、事業における一般的な特徴と言えると思いますが、ごまかしがあるほど、違法ゾーンに近づくほど、利害の対立を利用するほど、大きな収益が生まれる傾向があると思います。このような社会と事業の構造が現実だと考える経営者が目先の利益を最優先すると、事業戦略が嘘だらけになるのはむしろ当然だと思います。

【2007.4.17 樋口耕太郎】

トリニティの企業金融論(pdf)

本ウェブサイトとトリニティアップデイトでは、経営者の立場から経営合理性についての議論を一貫して行っています。目に見える資本や、商品や、売上や、顧客満足度や、形式や、組織や、権利義務などよりも、事業の実体である人間関係を注視することで、一般的に認識されているよりも本来の事業範囲は遥かに広大であることを明らかにし、その広大な事業範囲と莫大な経営資源を前提に「経営合理性とはなにか」を根本的に見直すという作業でもあります。

第一ステップとして、事業経営における従業員との人間関係を「サンマリーナの人事考課基準」と言う形で僕なりに表現していましたが、第二ステップとして、株主との人間関係はどうあるべきか、というテーマをまとめてみたいと以前から強く思っていました。先日上場を検討されているある企業に対して株式上場と企業金融に関するアドバイスを差し上げる機会を頂いたので、これをきっかけにしてまとめたものが添付「トリニティの企業金融論」です。

本稿は、①株式上場を考える経営者への企業金融ガイドであるとともに、②経営者からステイクホルダーへの約束ごとであり、③資本市場の門番である証券会社の効率的な事業モデルのひとつであり、④企業が株主へ手渡す「オーナーズ・マニュアル」です。

「いま、愛なら何をするだろうか」、すなわち、

①真実であること、隠し事のないこと、
②相手に一切要求せず、ありのままを受入れ裁かないこと、
③自分を活かし、相手のためになることを、できることから実行すること、

を株主との人間関係において具体的に実行するという目的は全く変わりませんが、「株主との人間関係」が「従業員との人間関係」と異なる点は、株主との人間関係が企業金融機能によって仲立ちされており、この価値観を金融的な「言語」で表現する必要がある点です。トリニティの企業金融論は、この仲立ち機能を翻訳する「金融語」であり、そのため比較的専門的な内容になっていますが、表現している価値観と目的は他のものと全く変わりません。

本稿はトリニティ株式会社の事業運営と資本調達に関する価値観をまとめたものでもあります。トリニティが投資家から事業や資本をお預かりし、経営・投資運用を行うにあたっての企業金融のポリシー、すなわち資本家を含むステイクホルダーへの誓約内容をまとめたものであり、それは上場エクイティ資本であれ、プライベートエクイティ資本であれ、借入と言う形態であれ同様に当てはまります。

本稿は通常のトリニティアップデイトでは2ヶ月分くらいのエントリーに相当する分量(pdfで40ページ分)となってしまいましたので、一度に全文をご覧頂けるようにしました。左上をクリックして、pdfファイルをダウンロードしてご覧下さい。

【2007.4.1 樋口耕太郎】

トリニティのマーケティング論(pdf)

リレーションシップ・マーケティングのエッセンスは、「顧客と良好な人間関係を保つ」というシンプルなものですが、その事業的なパワー(すなわち、事業における人間関係の重要性)は著しく過小評価されていると思います。例えば、単純に考えて、新規顧客の獲得が「100件に1件」の作業だとすると、既存の顧客と2倍の期間付き合うことができれば100回、5倍の期間では400回分の営業行為が不要になることを意味します。この事業効率のイメージを「経営の多面体パズル」に組み込んで全体の経営バランスをとることに成功すると、莫大な成果を生み出すことが可能になるでしょう*(1)

新規開拓のマーケティング
1980年代後半のバブルの時期は、リレーションシップ・マーケティングとは対極の市場環境を体験するという意味では最高の時代だったかもしれません。僕が社会に出たのは1989年(平成元年)で、激烈な(非常識な?)バブル市場を直接経験した最後の世代に該当します。この年に大学を卒業して野村證券に入社し(当時の入社ハードルは、今よりも随分低かったと思います。)岐阜支店営業課に配属されました。この時期、雑誌『TIME』のカバーストーリーで野村證券が特集され、国際的な注目を浴びていましたし、チャーリー・シーンとマイケル・ダグラスが出演した、オリバー・ストーン監督の『ウォール街』が封切られ、就職活動の帰り道に銀座かどこかの映画館に観に行き、大興奮した記憶があります。この映画はその後何10回見たか分かりません。金融業界では、この映画の台詞を今だに暗記している人もいるくらいです。この年に卒業していなかったら、そもそも就職先に証券会社を選んでいなかった筈で、あと一年入社年次が遅れていたら、僕の社会経験は全く異なったものになっていたと思います。

当時の野村證券の新規開拓力は相当なものでした。体力の有り余っている新入社員に強烈なプレッシャーを与え、激しい競争意識を植え付けながら、義理人情浪花節で新人の脆い心の琴線をしっかり支える営業部隊の人間関係は、その渦中にありながらも本当に良くできているなと感心したものです。入社式の翌日から、来る日も来る日も飛び込み営業を繰り返す、野村名物の「名刺集め」が始まります。「名刺集めが営業の基本」「同期との一日一枚の差は、今後絶対に縮まらない人生の差になる」「新人時代に最も名刺を集めた社員が社長になる(・・・そんな訳ないのですが)」と支店のスター・セールスマンの先輩に言われると、純真な若者(?)は本当に自分の人生が一枚一枚の名刺や一本一本の電話にかかっていると信じて疑わなくなるのです。名刺の「質」にもよりますが(「社長」の名刺が一般に質の高い名刺とされていました)、丸一日飛び込みを繰り返すと150件くらいの会社や店舗に飛び込むことができます。大体1日8時間、3分おきに1件絶えず飛び込み続ける計算です。これで、40枚から80枚くらいの名刺が集まり、これを約半年間延々と続けると5000枚を超える名刺が集まります。その後は「100本ノック」と呼ばれている電話営業。この名刺と営業名簿で延々と電話営業をかけます。大体丸一日で300~400件くらいの電話をかけていたと思います。新人当時は「サボる」などということは考えもしませんでした。

これほどのエネルギーを、バブルで浮かれた市場に放出すると、入社まで全く株式や経済に関する知識が皆無かつ世間知らずの大学生が、見ず知らずの土地で顧客ゼロの段階から、僅か1年後には200件の顧客から10億円の資金をお預かりし、月間1000万円の手数料を稼ぐ「証券マン」になるのです。これは地方中核支店という位置付けだった岐阜支店での水準ですので、東京・大阪などで上場会社の運用子会社や小型の銀行を顧客にした新人セールスは一桁上の成績を上げていました。当時は野村證券の経常利益が5000億円を超え、トヨタ自動車を抜いて日本一になり、相当鼻息の荒い時期でした。

顧客の「ライフタイム」
この時期の特徴は、本当にお客様が長く続きませんでした。イメージとしては全体の顧客の10%以下が稼ぎの90%以上を占める感じで、200件の顧客がいても常にコンタクトして売り買いする顧客は5~20件くらいだったでしょうか。しかし一件のお客様が2年を超えて取引を続けるケースは稀で、早ければ数ヶ月でいわゆる「スリープ顧客」になってしまいます。取引が始めの数回限りというお客様も少なからず居ました。どんなに新規の顧客を開拓しても、1年後にはその大半が実質的に顧客でなくなってしまう状況は、やはり何かがおかしいと感じていましたが、ではどうしたら良いのかという回答があるわけではありませんでした。株式市場が活況を呈し、資本市場と投資家層が拡大している市場環境では、新規の顧客を開拓し続けることで収益を上げる手法は効果的だと考えることが「常識」だったと思います。

これらの顧客を長期間、例えば現在までの20年間維持する方法はなかったのだろうか、もしこれだけの期間、顧客との関係を維持することができていたら、野村證券の現在の預り資産と経常利益はどれほどになっただろうか、と考えることがあります。当時の市場環境はそのような試みを許しはしなかったと思いますし、これを確かめる方法はありません。その代わりに、近い将来顧客との人間関係を最優先した証券会社を是非経営してみたいと思っています。その会社の事業結果が、ある意味この答えになるのかもしれません。

顧客と永遠に付き合う
顧客との関係が長期間継続するほど加速的に事業効率が増加することは冒頭に述べました。リレーションシップ・マーケティングの究極の姿は、顧客と永遠に付き合うことだとも言えるのですが、顧客との長期の関係を生み出す要素は何でしょうか。そのヒントになるのが、学生時代の友人たちとの関係でしょう。人間関係の中で一般に最も長期間継続する関係は、肉親を除くと幼馴染みや学生時代の友人です。もちろん、学生時代の友人も、現実には付き合いのなくなってしまっている人が大半だと思いますし、相性の良し悪しもあるため、その関係の全てが継続性を持つものではないのですが、反対に顧客とは学生時代の友人のような長期の関係になることはまずあり得ません。

顧客との関係も友人との関係も同じ人間関係なのですが、なぜ顧客とは学生時代の友人のような人間関係を構築することができないのでしょうか。なぜ学生時代の友人に会うときは「いらっしゃいませ」と言わなくても良好な人間関係が構築できるのに、顧客に対してこれをしないと一瞬にして関係が破綻するのでしょうか。この二者の間には何かが決定的に異なる要素があると考えるのが自然だと思います。僕の仮説では、学生時代の友人関係には、一般に、人間関係において、①隠れた意図がない、②利害がない、ことが大きく異なる点ではないかと思っています。更に、逆の発想による仮説ですが、ひょっとすると、隠れた意図を持ち、利害がある人間関係を構築しようとするとき(つまり一般的な商売をしようとするとき)、「いらっしゃいませ」に代表されるように、人間関係には本来全く不必要な「サービス」を提供する必要が生じ、これに莫大な労力を費やすことで人間関係をバランスする必要が生じているのではないでしょうか。つまり、一般的に「サービス」と呼ばれている莫大な労力と費用は、もともと不要なものかもしれないのです。そして仮に、①隠れた意図がないこと、と②利害がないこと、が人間関係を長期に継続するための必要条件だとしたら、この要素を顧客との間で応用することで事業性が生れるのではないでしょうか。

この仮説があながち突飛ではないことの一例として、ネットワークビジネスがあると思います。もちろん色んなケースがありますので一般化することは難しいのですが、よく、「ネットワークビジネスを始めると友人をなくすよ」と言われることがあります。実際ネットワークビジネスに熱中し始めると、友人関係が大きく変化することを経験する人は少なくないのではないでしょうか。人間関係に、①隠れた意図と、②利害が介在することで、その関係が根本的に変化する実例と言えないでしょうか。

世の中には、人間関係をお金に替え、不安と恐れを動機付けに利用する営業形態と、人間関係を優先して(結果として)お金を呼び込み、愛を動機とする事業形態の二種類が存在すると思うのですが、本当に皮肉なもので、後者の方が遥かに事業効率が高いのです。ただし、後者の事業性を生み出すためには、特定の「経営バランス」を体得することが必要で、「待ち」のマーケティングを試行錯誤したり、顧客を経営者の鏡と考えて自らを見つめる作業は、このバランスを理解するための非常に良いトレーニングになると思います。

営業することは非効率
以上が示唆することは、・・・これも冗談みたいに聞こえますが・・・、営業行為、マーケティング行為はリレーションシップ・マーケティングの観点(すなわち長期的な人間関係を継続する観点)から、あるいはサービス業の運営という観点からも、非常に非効率な事業行為である可能性があるのです。現実には、①隠れた意図、と②利害、を顧客との人間関係でどんどん排除していくと、長期的な人間関係が生む顧客の生涯価値が、営業行為が生み出す付加価値を上回るポイント(すなわち営業をしない方が逆に企業収益が高まるポイント)がどこかに存在するはずで、その経営バランスを発見することができれば、飛躍的に事業効率が高まることになるのだと思います。このように表現すると手品のようですが、現実には、一切営業をせずに成立している事業は意外に多いものです。これは特殊な事例や特定の業種で成り立つだけではなく、そのエッセンスは一定の経営バランスを前提に、どのような事業にも応用可能だというのが僕の体験による仮説です。

【2007.3.14 樋口耕太郎】

*『トリニティのマーケティング論』は本稿で終了です。

*(1) 事業経営における「バランス」は、恐らく経営的優先順位の一、二を争うほど重要な要素だと感じるのですが、その重要度の割りに殆ど認知されていない経営概念でもあります。事業経営はルービックキューブと似ているところがあり、パズルの一面を動かすと必ずその他の面にも何らかの影響を与えるため、パズル全体(事業の生態系)の立体的なイメージを常に捉えながら経営に当る必要があるという考え方です。社団法人金融財政事情(きんざい)が発行する季刊誌で、事業再生の分野では注目度の高い『事業再生と債権管理』の2007年1月5日号に「沖縄事業再生通信:ホテルという生態系」と題して、経営におけるバランスの重要性をテーマに樋口が寄稿しています。ご関心のある方はご一読頂けると幸甚です。

企業や経営者の「本心」が、同じ気持ちの顧客を惹きつける、という考え方は非科学的で根拠がないと考える人も少なくないと思いますが、「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、生活の知恵として昔から人々が直感的に感じていることでもあります。トリニティ経営理論の考え方は、「理論の構成と内容が正しい(証明できる)か」どうかよりも、「実際の経営で機能する考え方(現実認識)は何か」を重要視するものです。この例では、「企業や経営者の『本心』が、同じ気持ちの顧客を惹きつける」という「現実」を前提として経営行動を起こす、という意味ですが、このような前提が「正しい」かどうかは必ずしも重要だとは考えません。これが「正しい」ということを証明することは不要ですし、そもそも不可能です。「企業は、企業の『本心』と同じ気持ちの顧客を惹きつける」ことが事実かどうかを証明する方法はありません。

経営において重要なテーマは、ある「現実認識」を前提とした時に、どのような事業行為が合理的かを明らかにし、それを実行し、その結果を観察することです。事業的な成果が生じる場合、このような現実認識は「正しかった」と推測することができますが、このような経営的行動が汎用性を持つ限り、実質的な経営手法として機能することは明らかです。つまり、「企業や経営者の『本心』が、同じ気持ちの顧客を惹きつける」ことの証明は不可能であり、理屈の上で否定することもできますが、「企業や経営者の『本心』が、同じ気持ちの顧客を惹きつけることを『現実』として経営行動を起こす」ことで事業的な結果が生れる場合、その利益と合理性を否定することはできません。別の言葉では「経営者の現実認識がそのまま事業の現実になる」、「事業の現実は経営者の数と同じだけ存在する」という意味でもあります。

このような発想を僕は勝手に「量子論的経営観」と呼んでいて、トリニティ経営理論のひとつの特徴でもあるのですが、本稿のテーマから逸れてしまうため、詳細は別の稿でご紹介いたします。少なくとも、この発想が示唆することのマーケティングにおける意味合いは、このような現実認識(価値観)には実体があり、特定の現実認識自体が経営の目的のひとつであるというものです。

顧客は企業の鏡(再び)
不思議なものですが、「感じること」を意識しながらホテルやレストランなどを数多く利用すると、お店を利用するだけで経営者の「本心」や気持ちの変化がだんだんと理解できるようになってきます。ホテルやレストランの経営者の方と直接お会いして人となりを知ったり、その経営者の右腕や現場のリーダーや主要な従業員の性質を理解したり、それ以降も何度かお会いしながら、経営者の意識の変化を「定点観測」したり、グループの同一または複数のホテルやレストランを定期的に利用しながら観察すると更に効果的です。

自分で商売(特に小さな商売)をなされている方はより恵まれた環境にあります。自分の気持ちとお客様の様子をじっくり観察することを一定期間辛抱強く続けると、自分の気持ちや意識の変化に合わせて、顧客層や顧客の反応がはっきり変化するのが感じられるようになります。更に、この現象を応用して、「今、自分がどのような意識で『在る』のか」、「今、お客様にどのような気持ちで接しているのか」、「今、お客様はどのような気持ちか」を意識するように努め、自分とお客様を知るための試行錯誤を一定期間行います。すると、自分が集めたいイメージのお客様を呼び込むために必要な自分の意識と、必要なお客様への接し方が分かるようになります。このような努力を継続すると、実際に、来店する顧客層をある意味「コントロール」することができるようになってくるのです。・・・このように表現すると、とても特別なことのようですが、長く続いているお店の中には、このような原理を直感的に理解している店主や経営者が散見されます。ただし、これは顧客を選り好みすると言う意味ではありません。特定のお客様がいらっしゃった時にいやな顔をしたり、「来なければ良いのに」と念じる、などと言ったこととは根本的に異なります。

「従業員は経営者の鏡、顧客は企業の鏡」とよく言われます。鏡の中に映っているものに満足できないとき、鏡を叩いてもこすってもそれを変えることはできません。自分が変わることでのみ鏡の中を変化させることができるということだと思います。この原理を体験するためには、大企業での経験よりも、店主一人で仕切る小さな接客商売を経験したり、そのようなお店を長期間じっくり観察し理解することの方が遥かに有益です。企業の事業再生が社会的な課題になり、ターンアラウンド・マネジャー(事業再生を担当する経営者)の不足が業界で語られるようになっていますが、僕は(i)大企業の経営力と、(ii)先端金融と、(iii)一人で仕切っているおでん屋さんの経営バランス、この三つの要素を理解する人材が理想的ではないかと思っているのです。現状は三つ目の要素を兼ね備え、あるいは経験している人材が最も不足している印象です。ひょっとしたら事業再生能力を身につけるためには、ビジネススクールに留学したり、ファンドで働いたりするよりも、個人で飲み屋さんや焼き鳥屋さんを経営してみる方が本質的に近道かも知れないと思うことがあります。お店を始めることが現実的でないビジネスマンの方でも、仕事帰りにどうせ飲みに行くなら、個人経営の、長く続いている個性的なお店に長期間通い詰めることで、非常に有益な経営感覚を学ぶことができると思います。

サービス業の運営が破綻するとき
以上を意識的に理解することができるようになると、売上などの財務に現れる前から、事業の本質的な変化や従業員や顧客の変化を察知することができます。反対に、自分の気持ちと従業員の気持ちと顧客の気持ちに無関心なまま、売上や財務諸表や顧客満足度(パーセンテージや変化率)などの数値に頼り過ぎた経営(つまり、ビジネススクールで教えている経営ですが・・・)を行うと、事業の現場における重要な変化を見失うことに繋がりかねません。この原理を利用して、サービス業が破綻するパターンを非常に良く説明することができます。例えば・・・

① 一時的な売上の落ち込み→経営者が恐れを抱いて自分の商売に弱気になる→事業の価値を高めることよりも目先の売上を追う気持ちが高まる→広告宣伝、キャンペーン、タレント起用、特典の発行、資本投下による店舗デザインの変更や改装など、事業の本質(人間関係)とは異なる販促を行う→目新しいこと、「得」なこと、ミーハーなことを好む顧客層(流動顧客)を大量に呼び込む→顧客満足度の上昇→この商売が好きだった顧客が離れる→広告宣伝費等の増加による損益分岐点の上昇→売上増により販促費の増加を吸収し一時的に利益が増加する→財務的に好調になり事業の危機が去ったように感じられる→流行の変化や競合他社の登場により、流動顧客が離れる→より大きな危機感とあせりと自信喪失→より大規模かつ効果の少ない販促→破綻への悪循環。

② 一時的な売上の落ち込み→経営者が恐れを抱いて自分の商売に弱気になる→事業の価値を高めることよりも目先の売上を追う気持ちが高まる→価格のディスカウントや特典による販促→単価の低い顧客層(商売自体よりも「得」なものに強い関心がある顧客層)を大量に呼び込む→もともとの商売に愛着を持つ顧客が離れる→回転率の増加によって一時的に売上と利益が増加する→回転率の増加に伴い従業員の実質負担が増加→「業績好調」である限り従業員は何らかの納得感を持つことが一般的→競合他社の登場により、流動顧客が離れる→売上の減少に伴い利益率の大幅低下→従業員のモラルの低下→破綻への悪循環。

③ 優れた商品(例えばうまい料理)の開発や好調な売上→経営者の慢心とおごり→顧客に対して「売ってやる」という意識の芽生え→自尊心の低い顧客を多く呼び込む→顧客満足度の上昇(世の中には失礼な店主に怒られながら食事をすることが好きな人もいるのです)→この商品や店主の純粋な熱意が好きだった顧客が離れる→自尊心の低い顧客が口コミで同様タイプの顧客を連れてくる→顧客属性の変化により店に活力と「華」がなくなる→緩やかな売上と単価の落ち込み→破綻への悪循環。

以上のように、経営者がサービス業の運営を「把握」する際、財務諸表や顧客満足度などの係数データに頼りすぎることは非常に危険である場合があるのです。後者については、現場で多くの時間を使い、現場を良く理解する努力はもちろんですが、それに加え、単なる「大変満足」のパーセンテージだけではなく、コメントの量の変化、コメントの質(場合によってはお客様の筆跡なども含む)から示唆される事業的な意味を、感性によって補いながら現場を把握・理解することが有効です。同様に、「どの商品が売れるか」、「どのような販促が効果的か」、「どのような内装が顧客に受けるか」に意識を注力し過ぎるよりも「自分の気持ち(本心)はなにか」、「顧客が誰か」、そして「自分の在り方と顧客との人間関係はどのようなものか」に深く向き合う方がより本質的な「マーケティング」のテーマと言えるのではないかと思います。

【2007.3.9 樋口耕太郎】

およそ3年前に沖縄に来て以来、多くの物事をそれ以前とは全く逆の価値観で考える機会が非常に増えました。仕事の内容やパターンや人間関係も大きく変化したために、それまで溜まりに溜まった名刺を整理したことがあったのですが、約4年間でお会いした方々の名刺を集めると、段ボール箱に一杯になったことが印象的でした。この名刺の方々にお会いするために費やされた時間はざっと「名刺の枚数÷2×1時間」くらいでしょうか(お会いするときは複数の方がご一緒されることが少なくないので2で割り、それぞれのミーティングは平均1時間という想定です)。細かく計算はしませんでしたが本当に膨大な時間です。4年間でこの名刺の山からおよそ10の案件をクロージングしたわけですが、以前は「このような努力と人脈の積み重ねがあって初めて10の案件にたどり着くことができた」、と当たり前のように考えていて、その前提を疑ったことは一度もありませんでした。でも、このとき段ボール箱を見ながら感じたのは、「本当に同じ成果をあげるためにこれだけの時間が必要だったのだろうか」ということでした。嘘みたいに聞こえるかも知れませんが、現在は、全く異なった発想と、一定の原理を理解することで、ダンボール一箱の人にお会いしなくても、初めから10枚の「当たり名刺」に巡り合うことができると思っています。もしそれが可能になった場合の効率は、少なくとも100倍くらい違うのではないかと思いますが、これはトリニティのマーケティング論が応用されたときに高まる事業効率のイメージと非常に重なるのです。

また、いわゆる「攻め」の業態の営業は「千三つ」の世界だと言われることがあります。千件のお客様に断られて、三つ案件が成約するという意味です。業態によっては、この千に三つの顧客が事業の売上げの100%をもたらしているので、この意味で非常に「効果的な」事業行為と言えなくもないのですが、その反面、997人の顧客が無用の電話や訪問を受け(その中には腹立たしい思いをする人も少なくありません)、997人に営業を行うための人件費やその他の費用は商品価格に転嫁され顧客となる3人が負担することになります。また、997人は、世の中に無数に存在する営業会社から、時には同じ会社の別の営業マンから繰り返し無用の営業をかけられるということが必然として生じます。営業会社の立場では、それこそが事業行為であり、現実に(時には莫大な)事業性があり、この行為が従業員の生活と、企業成長の糧であると考えるのは当然のことですが、企業が発するメッセージという観点では、毎日何百という地域の人たち(の大半)が望まない行為を延々と繰り返しながら、一方では多大な広告宣伝費をかけ、「私たちはお客様のことを第一に考えています」と語りかけることは、何かが根本的に非効率なのではないかと思うことがあります。以上を、「メッセージ伝達の法則」に当てはめると(2007年1月25日のエントリー「伝えるということ」をご参照下さい)、「行動と言葉が矛盾するとき、行動によるメッセージが優先して伝わる。同時に『メッセンジャーの言葉にはうそがある』、というメッセージが同時に伝わる。」という現象が生じると思います(過去のエントリーでも繰り返し強調している点ですが、以上は非難でも中傷でも、批判ですらありません。経営的な観点からマーケティング、営業の事業効率を観察するにあたっての、現状認識のアプローチのひとつです)。

「待ち」のマーケティングとリレーションシップ・マーケティングのツボ
さて、「トリニティのマーケティング論《その1》 《その2》」では、①デジタル情報ネットワークの環境においては、顧客に企業を見つけてもらう「待ち」のマーケティングの効率が著しく高まる。このとき、企業がすべきことは、基本的にメッセージを掲げることだけだが、そのメッセージの内容と企業のあり方によって効果が著しく異なる。②新たな顧客を獲得するよりも、良好な人間関係を通じて、既存の顧客を失わないことの方が、圧倒的に事業効率が高い。これを達成するために最も重要な点は、企業のあり方と企業と顧客の人間関係のあり方である。という趣旨を述べました。

「待ち」のマーケティングと、リレーションシップ・マーケティングをうまく活用することができれば、いずれも爆発的な事業効率を生み出すことが可能で、今後の市場環境では重要な事業戦略のポイントになるでしょう。両者は別々の概念ですが、事業効率を生み出すためには独特ツボを理解する必要があるということ、そしてそのツボが「いかに在るか、そしていかに嘘なく表現するか」ということであることが共通しています。すなわち、「自分のあり方、正直な表現」というひとつのツボをおさえることで、二つの概念による事業効果が相乗して生まれるため、経営的にも一石二鳥のイメージです。事業をシンプルに経営するほど事業効果が高まることの一例とも言えそうです。経営論の分野で多大な功績のある故ピーター・ドラッカーの有名な言葉のひとつに、「マーケティングの究極の目的は販売行為をなくすことである」というものがありますが、もし上記の手法が成り立つのであれば、ドラッカーのいう究極のマーケティングを具体的な事業環境で実現する有効な方法と言えるかも知れません。

「待ち」のマーケティングは自分磨き
少々突飛な例ですが、女性が理想の男性との出会いを求めながら(男性が・・・でも同じことです。念のため)、「なかなか良い出会いがない」と悩むことがよくあります。正確には「出会いがない」のではなく、「自分がどんな人間であるかは別にして、自分の理想を満たし、かつ誠実なひとが自分に対して強い関心を持ってくれない」という意味だと思うのですが、これは「攻め」のマーケティングを前提としている発想で、これまでの議論を前提とすると、理想的な相手を見つけるためには必ずしも効率が高い方法とはいえません。「待ち」のマーケティングの発想に切り替えると、まず、世の中には理想の男性が溢れているという事実が現実になります(日本だけでも何千万人の未婚者がいることを考えれば、やはりその中には沢山いると考えるべきでしょう)。ただし、その数多くの理想の男性は、その女性のことを知らないかもしれないし、その女性を知り得たとしても女性の「あり方」に嘘を感じるかもしれませんし、その女性「あり方」自体に魅力を感じないかもしれません。このハードルを越える作業が「待ち」のマーケティングにおけるテーマであり、「いかに在るか、いかに正直に表現するか」という100%自己完結する作業が意味をもつのです。・・・要は「相手を探し回るより、自分磨き」ということなのですが、この考え方と行動は、正しく努力・実行すると、マーケティング的にも、人生においても非常に高い成果を生むということだと思います。

顧客は企業の鏡、従業員は経営者の鏡
では、どのような「あり方」に対してどのような顧客が惹きつけられるものでしょうか。「トリニティのマーケティング論《その1》」では、出会い系サイトの事例において、①掲示するメッセージによって返信する女性の属性が変化する、②メッセージに対する返信は、「文字通りの内容」に反応するというよりも、メッセンジャーの本心に反応する傾向がある点を指摘しましたが、これは企業の「あり方」と、惹きつけられる顧客の関係にそのまま当てはまると思います。つまり、企業の「本心」と同じ性向をもつ顧客を惹きつけるのです。

ここで言う「本心」とは、企業が意識しているかどうかには関わらず、企業の行動が伝達する、企業の本当の(多くの場合隠れた)目的を意味するという点がポイントです。例えば、企業が「どうしたら単価の高い顧客を呼ぶことができるか」、ということを強く意識して経営を行うと、高級な顧客を呼び込むことにはならず、高級を求める顧客を呼び込むことにもならず、単価が高いものに価値を見出す顧客を呼び込むことになります。非常に高価かつ似合っていない(つまり趣味の悪い?)ものを身に着けているような顧客のイメージです。単価の高いものが高級だと考えている人は少なくありませんが、高級なものと単価の高いものは本質的に異なる概念です。高級とは何かを理解できないお金持ちは、単に単価の高いものに惹かれるという傾向があると思います。同様に、企業がどうしたら高級な顧客を呼ぶことができるか、ということを強く意識して経営を行うと、高級な顧客を呼び込むことにはならず、高級を求める(いわゆるミーハーな)顧客を呼び込むことになります。そして、企業が自ら高級になろうと強く心がけて行動すると、高級になろうと努力して生活を送っている顧客を惹きつけることになります。

以上の関係は、経営者と従業員の関係にも当てはまります。高級になろうと努力する経営者には高級な従業員が惹きつけられ、高級な従業員は高級な顧客を惹きつけます。仮にこれが事実だとすると、高級な顧客をひきつけるためには、経営者自身が高級な人間になろうと自ら努力することが事業的に効果的であり、企業のマーケティングは経営者の個人的なあり方というテーマと重なることになります。

【2007.2.24 樋口耕太郎】

2006年12月31日に終了する、第一期事業年度の事業報告および決算報告書をアップしました。こちらをクリックするか、ウェブサイトのトップ画面より、「会社情報」「事業報告」の画面よりpdfファイルをダウンロードしてご覧下さい。

陽射しがすこし柔らかくなったかな、と思ったら、また寒さがぶり返す。
いったん脱いだ衣服を、あわてて更に重ね着する…そんな季節柄から、旧暦の
二月は「衣更着(きさらぎ)」と呼ばれるようになったといいます。
でも今年の冬はとても暖かく、自然は、私たちの知らない所で着々と春の準備を
始めて、今や春になってしまったかのようです。
今日はバレンタインデー。気持ちも春色でお過ごしくださいね。

ずいぶん昔…、難病と闘うミコと、その恋人のマコの、激しくも悲しい恋愛を
綴った大島みち子さんの実話書簡集『愛と死を見つめて』が、ブームになり、
少し前に42年ぶりにテレビドラマとして蘇りました。
舞台となっている私の生まれた1960年代の日本は、普通の国の100年分くらいの
高度経済成長を遂げました。特殊な時代です。私の両親も、街や周囲がすごい
勢いで変化をしていく様に、当時すごく驚いた記憶があるようです。大人も
子どもも、輝かしい未来を信じて国民全員が全力疾走し生きている、そんな10年
だったそうです。ところがこの主人公の二人は、周囲の人々が先を夢見て生きる
中で、ミコの難病という現実を突きつけられ、掴めるはずだった明るい未来を
突然失ってしまいます。しかも、彼らの悲しみや悔しさを拾えるほど当時の
日本人に余裕はなかったので、周囲はどんどん先に走っていってしまう…。
ミコとマコは“置いていかれた側”です。でも、脇目もふらない速度で
走り続けた日本は、経済の成長と共に、何か大事なものをそこに置いてきて
しまったのではないのでしょうか。
愛し合う二人の愛は、純愛ですが、同時に“闘う愛”でもあると思うのです。
本気の恋愛とは、社会に対するレジスタンスと同義だと思います。
つまり、“愛よりも大切なものがある”という論理をかざしてくる
社会システムに、はっきりと“No”を言う。この二人の恋愛は、
1960年代という疾走するだけの時代に異論を突きつける行動だったのでは
ないか、と。二人は子どもだったけれど、その若さゆえのエモーショナルな
衝動には尊敬の念を私は抱きますし、これからの若い人たちにもそれを
感じてほしいし、あなたにもそんな本気の恋愛をしてほしいと思います。

「世の中、お金じゃない」
と言った時に、決まって返ってくるのが、
「じゃあ、お金なしで生きていけるの?」
という正論です。
でもじつは、「生きるのに必要なお金を稼ぐ」のと「お金儲けに走る」のとでは、
決定的な差があります。それは【コントロール欲求】に支配されているか
どうかということでもあります。この欲求が、多くの人を不幸にし、犠牲に
します。
たとえ金銭欲とは無縁の人々さえも、巻き込んでいくのです。
人も企業も、お金を儲けるために悪事を働くことがあります。人命を犠牲に
することさえあります。
本当は、企業が世の中の役に立つ活動をする資金を集める方法が株であり、
その活動を評価して買うのが株です。でも最近では、企業は実態なしにでも
株価を上げようとし、投資家は企業の活動内容と関係なく、利益の
得られそうな株を狙うマネーゲーム状態です。
すべてお金の魔力のせいです。年収が1500万円を超えると、かえって幸福感は
低下するという研究結果があるのに、なぜ人は必要以上にお金に
執着するのでしょうか?
そこにあるのがすなわち【コントロール欲求】のようなのです。
お金をパワーと感じ、お金があればすべてをコントロールできると
錯覚してしまうところから、際限なくお金を儲けようとするらしいのです。
人も自分も滅ぼすこともあります。決して健康な精神状態とは言えません。
企業も人間と同じように精神を病む場合があるのです。
現代はまさにそんな時代です。
それに立ち向えるのは、ミコとマコのような、また、自分より相手を大切に思う、
無償の愛情だけなのだと思います。

あなたの愛は生きていますか?
あなたの愛する人は誰ですか?
その人を本気で愛していますか?

誰もが愛し愛される大切な存在です。
あなたは愛し愛されるために生まれてきたのです。

今日は愛情あふれる一日をお過ごしくださいね。

【2007.2.14 末金典子】

最近のマーケティング理論の中で、実務的な観点から優れていると思うのは、「リレーションシップ・マーケティング」の概念です。従来、マーケティングの発想は「新規顧客を獲得する」というテーマに偏重していたように思いますが、新規顧客の獲得は既存顧客の維持よりも圧倒的にコストがかかる(5倍程度のコストがかかるという説もあるそうです)という非常に明快な理由で、既存顧客の離反率を下げることが非常に有効なマーケティング戦略として見直されており、これに関連する一連の概念が、一般に「リレーションシップ・マーケティング」と呼ばれているようです。リレーションシップ・マーケティングの事業効果を計る概念として、現在マーケティング研究の第一人者とされるノースウェスタン大学のフィリップ・コトラー教授は、顧客の「生涯価値」という考え方を提唱しています。すなわち、顧客が企業と取引を継続する期間中に生まれる合計収益を、マーケティングの成果として評価する考え方です。(さらに顧客の生涯価値から、企業が顧客を獲得・維持するための総費用を差し引いた概念を「顧客価値」と呼び、これを最大化することが企業の目的であるべきだという考え方をするようです)。

もっとも、「リレーションシップ・マーケティング」と表現すると、何かしら複雑な経営理論のようですが、要は「(顧客との)人間関係を大事にする」という当たり前のことで、逆に、これが「先端理論」とされていること自体、マーケティング理論がいかに現場から乖離しているかということかも知れません。例えば30年前、僕が子供の頃の盛岡の、地元の商店のおばちゃんはこの原則をきちんと理解してお店を経営していました。むしろこの概念が、長期間の経済成長の中でサービスの質の低下と共に退化の一途を辿り、今ようやく再び見直されてきたと考えるべきでしょう。

矮小化されているリレーションシップ・マーケティングの運用
リレーションシップ・マーケティングの発想は良好な人間関係の維持を重視した普遍性の高い概念だと思うのですが、その概念を現実の経営に応用する手法は、本来の「人間関係」から離れ、「しくみ」の議論に相当矮小化されているという印象を持ちます。その代表例が「ロイヤルティ・マーケティング(マイレージやポイントカードによる囲い込みなど)」や「データベース・マーケティング(顧客の属性データを集め、それに対応した商品の提供などをおこなう)」と呼ばれる「最先端」のマーケティング手法です。

ロイヤルティ・マーケティングは導入に多大なコストがかかりがちな反面、他社が追随しやすく、差別化にいたらない傾向と、結局「他がやっているから」という消極的な理由で運用されざるを得ない宿命があるような気がするのですが、本当に事業的な効果が生まれているのか不思議です。更に、ポイントカードでもマイレージでも、結局のところ、このしくみの導入によって企業が顧客に提供するものは、継続利用に対する実質的なボリューム・ディスカウントです。つまり、「顧客としっかり向き合って、良好な人間関係をいかに構築するか」という、事業にとっても、従業員個人個人にとっても極めて重要な、リレーションシップ・マーケティング本来のテーマが、「沢山買ってくれたお客様におまけする」というだけのことに矮小化されているわけで、このような考え方は、何か根本的なところで経営のあり方を却って非効率なものにしてしまっているように感じます。その他、これに比べれば小さい点ですが、顧客の立場では、沢山買っても得点がもらえず「なんとなく損をしたな」という気持ちになりたくない人は、財布の中がポイントカードだらけになることを覚悟しなければなりません。いつの間にかたまっていく山のようなポイントカードを見る度に、「このしくみは何かがおかしい」と思うのです。そもそも「沢山買ってくれたお客様におまけする」というだけのことに、なぜこれほどシステム投資が必要なのか、という素朴な疑問もあります。

データベース・マーケティングについても、顧客の立場からすると、例えば、3年前の引越しのときに少しだけ関心を持ったことがある家具の広告がいまだに送られてくるのを見ると非常にしらけた気分になるのは僕だけでしょうか。顧客の過去のある時点における購買行動や関心ごとが顧客の属性を決めるという考え方は一見合理的なようですが、顧客の価値観をあまりに矮小化しているように思え、このような前提からどれだけの事業性が生まれるのか疑問を感じます。また、インターネットの発達で、顧客へのアクセス(つまりはメールですが)が容易かつ安価になるということで、多大なシステム投資が正当化されるのですが、顧客にしてみれば、その他の大量のジャンクメールに混じって広告メールが届いたところで、本当に意識を割くものでしょうか。データベース・マーケティングはこの手法によって「適切な顧客へアクセスする効率を高める」という考え方が基本にありますが、インターネットに代表されるとデジタル情報ネットワーク環境の変化によって、そもそも企業が顧客にアクセスするという行為自体が非常に非効率になりつつあります(顧客は自分が関心を持つものには自らゼロコストでアクセス可能な環境では、「待ち」のマーケティングが有効なのではないか、という考え方は前回のエントリーでコメントしたとおりです)。…「最先端」のマーケティング理論に基づき、企業が多大な時間と資本と「専門家」を投下して構築しようとしているマーケティング・インフラは、既に出会い系サイトでほぼ実現していますので、そのインフラの効果を実感してみるのは非常に有益だと思います。「攻め」のマーケティングをいかに効率化しても、最先端理論が示唆するような効果はないということを実感されるかもしれません。

そして何よりも、以上のようなしくみと運用の最大の問題点は、顧客の気持ちが中心にない点ではないでしょうか。例えばですが、企業の意図は別にして、企業の「行動によるメッセージ」を素直に解釈すると、顧客は、欲しくもないカードを常に携帯しなければ、損した気持ちにさせられるという点で、企業から軽く脅されている状態に等しいと思います。

顧客を維持することのパワー
しかしながら、顧客との関係をより良いものにするというリレーションシップ・マーケティング本来の概念が極めて有効なものであることに変わりはありません。リレーションシップ・マーケティングや生涯価値の概念を経営に応用すること、すなわち顧客を維持することの事業的なパワーは相当なものです。経営論的に表現すると、米国の通信事業者は毎年25%の携帯電話加入者を失っており、これを金額に換算すると20億~40億ドルの損失が出ているといいます。また、平均的な企業は毎年顧客の10%を失っており、業種によっても異なりますが、離反率を5%減らせば、利益は25%~85%上昇するそうです(25%~125%という調査もあります)。

従来のマーケティングが重視している新規顧客の獲得は、あくまで一回の購買に関する概念ですが、リレーションシップ・マーケティングの概念では、例えば年間5回ある商品を買う顧客を2年間維持できれば10回の購買、10年維持できれば50回の購買(すなわち50倍の生涯価値/事業性)を生むことになります。50倍の数の顧客を獲得するよりも、10年顧客と付き合う方法を考えるほうが遥かに事業効率が高いことは容易に理解できることと思います。別の言葉では顧客を得ることよりも失わないことの方が数十倍の事業効果を持つ可能性があり、遥かに重要なマーケティング上の課題であるといえます。

マーケティングは「企業のあり方」
実のところ、「リレーションシップ・マーケティング」という言葉自体が、概念の本質を見にくくしている面があると思います。この概念は、「顧客との(長期の)人間関係を重要視する」ということでしょう。そして、効率的なリレーションシップ・マーケティングを突き詰めていくと、「マーケティング」というカテゴリーは消滅し、「企業のあり方」「人間関係のあり方」というテーマと同一のものになるのではないでしょうか。本当に継続する関係は、「出会い方」よりも、自分の「あり方」と人間関係に依拠するからです。その意味で、一般的な人間関係で、最も長期的に継続する関係は、肉親を別にすると同級生や幼馴染みですが、この人間関係がリレーションシップ・マーケティングの究極のイメージに近いと考えることはできないでしょうか。このような人間関係を顧客と構築することは不可能なことでしょうか。このような考え方をビジネスに応用することはできないでしょうか。

【2007.2.10 樋口耕太郎】

本稿は、「デジタル情報革命と企業経営」「マーケティングはどうなる?」に関連するテーマを、マーケティング理論の観点からより体系的に構成したものです。合わせてご覧いただけるとイメージが伝わりやすいかもしれません。前二稿の基本的な論旨は、

『デジタル情報革命後の次世代マーケティング環境では ①企業は顧客を知らないが、顧客は企業を知っている、②顧客は企業がどう見てもらいたいかとは全く異なる情報によってありのままの企業を知る、という現象が常態化する。同時に、③デジタル情報革命など、環境の変化によって対象顧客の範囲が飛躍的に拡大する。従って、(i)顧客を知る、顧客に自らを知らせる、というマーケティングは非効率になる、(ii)企業のあり方、特にうそのないあり方が最大の「マーケティング効果」を発揮する、(iii)企業が顧客のニーズを理解し、顧客を特定し、顧客のニーズに合う商品を提供するという行為は非効率になる。』

というものでした。

冗談ぽく聞こえるかも知れませんが、このような市場環境をとてもよく実感できる仕組みがインターネットの出会い系サイトです。この話題を提供することで自分の恥をさらすような感がありますが、出会い系サイトを実際に経験してみることは、デジタル情報革命後のマーケティング環境を体験する極めて有効な方法であるため、恥を忍んでも紹介したいという意識が勝りました。社会的にはなにやらいかがわしいイメージが付きまといますが、内容は玉石混交です。仕組みに問題があるのではなく、運用する各人の問題だと考えるべきでしょう。人を傷つけるような利用方法は決してすべきではないという前提で、マーケティングや経営に関心がある方は是非一定期間試行錯誤されてみることをお勧めします。

「理想的」なマーケティング環境
ご存じない方のために、出会い系サイトの基本的な構成を説明します。もちろんサイトごとに相当なバリエーションがありますし、僕の知識と経験も限定されていますが…、基本的に男性掲示板と女性掲示板の二種類が用意され、女性であれば女性掲示板に男性へのメッセージ、男性であれば男性掲示板に女性へのメッセージを掲載することができます。サイトによってはメッセージを掲示する際に、住居地、年齢、学歴、職業カテゴリー、年収、趣味などの属性を登録することができます。男性は女性掲示板にある多くの女性のメッセージを、女性は男性掲示板にある多くの男性メッセージを、属性ごとに検索・閲覧でき、関心がある相手に対してメールなどでメッセージを送付することができる、といったシンプルなものです。

出会い系サイトの男性と女性の関係は、デジタル情報革命後の企業(男性)と顧客(女性)の関係に非常に似ていると思います。女性の掲示に対しては一日で100通をゆうに超えるメールが集中する反面、男性の掲示に対しては1週間で1通の返信があれば良い方ですので、単純にイメージしても1000:1くらいのアクセス数の差があります。デジタル・ネットワーク環境でのマーケティングは、出会い系サイトで男性が如何にして女性からの連絡を獲得しようかと考えている状態と似ています。

男性は、自分の目的に適ったサイトを選択し、本人の自己申告によって構成される女性のプロフィールを絞込み(セグメンテーション)ます。男性はメッセージを可能な限りパーソナライズして送付します。学歴、年齢、住居地域、職業、趣味、その他個人的な嗜好がこと細かく特定されているサイトも珍しくありませんので、男性は女性の属性を相当程度把握し、サイトの種類、すなわち属性群、を自由に選択し、殆ど費用をかけずに、無制限にアクセスすることができます。一般企業がこのような「マーケティング・インフラ」を整備するためにどれだけの投資や整備を行っているかを考えると、出会い系サイトの男性は、「最先端」のマーケティングに必要な環境をただ同然のコストで利用でき、企業からすれば夢のようなマーケティング環境、ということになります。

マーケティング効率に関する問題点
このように、出会い系サイトでは、マーケティング理論的に理想的なマーケティング・インフラが提供されている筈なのですが、男性から女性にアクセスを試みる上で、いくつかの構造上の問題が存在しています。第一に、顧客属性の絞込みによってマーケティング効率が上がるという幻想です。有効返信は男性が送付したメッセージ100通に対して多くても1通くらいでしょうから1000通出して数通の返信があるというイメージで、メッセージを大量に送付します。メッセージの送付にはコストが殆どかかりませんので、理論的には送付すればするだけ効果が上がるはずです。ところが、女性の属性を利用して返信効果を挙げようと、「有効な対象属性」に対象先を絞れば絞るほど、急速に対象数が減少し、そのためより多くの新規サイトを徘徊しなければならなくなってしまいます。単純に考えて10分の1に対象を絞ると、対象数を10倍に増やさなければならなくなります。企業のマーケティングになぞると、属性が特定された顧客データを入手・構築して利用する戦略においては、そのデータを絞り込むほど、更に何倍もの多くのデータが必要となり、マーケティングそのものよりもデータの入手・構築にかかる労力がどんどん増加するといった、本末転倒の作業に時間と費用が費やされがちです。

第二の問題点は、同報メールなどのマス・メッセージとパーソナライズド・メッセージの伝達効率の大きな格差です。不思議なものですが、メッセージを受け取る女性は、それが本当にパーソナルなものか、大量にコピーして送付されるものかをしっかり感じるものです。ダイレクトメールの宛名だけ替えて送付されるメッセージでは、受信者に何の感動も共感も与えることはできません。このため男性は、女性の属性や掲示されたメッセージごとに、それらしくパーソナライズされたメッセージを書き分けることにします。この作業はある程度効果的なのですが、もともと何百も送付しなければ返信がない確率の中での作業ですので、メッセージの書き分けは全体の作業効率を著しく低下させます。

第三の問題点は、属性情報の根本的な価値についてです。例えばある時点で「音楽が趣味」とデータが示している人がいたとしても、来年も、あるいは極端な話、明日音楽に関心があるとは限りません。個人的な経験を振り返っても、車の種類、出張の頻度、音楽の好み、ライフスタイルなどは比較的短期間で相当な変遷をたどっています。少々大げさに表現すると、数年前に答えたアンケートの内容が自分とは思えない程です。男性・女性の別など、根本的なものを除けば、マーケティングの観点からは平均的な顧客(属性)は5年もたてば別人、と考えて差し支えないのではないでしょうか。僕が経営者としてデータベース・マーケティング(続編で後述します)に投資を考えるとしたら、どんなに甘い想定でもデータの効果は5年で償却されるという前提で収支を計算するとおもいます(実際は2年くらいの想定にするでしょう)。

第四の問題は、対象が「メッセージを掲示している女性」に限定されるということです。これは想像ですが、実際掲示板にメッセージの登録をする女性の数は、このサイトを閲覧する女性の1~10%くらいなのではないでしょうか。仮にこれが事実だとすると、女性の掲示板を見て対象を絞り込むという手法は、絞込みを開始する以前から10~100倍の対象女性を無視してしまっている可能性があるのです*(1)

「待ち」のマーケティング
では、以上のような、男性が女性にメッセージを送付する「攻め」のマーケティングに対して、正反対の発想をしてみたらどうでしょう。女性のメッセージを閲覧したり、属性を絞り込んだり、ダイレクト・メールを送ることを一切止めて、自分のメッセージを男性掲示板に掲載し、後はただ女性からメッセージが届くのを待つのです。このように発想した瞬間、出会い系サイトのインフラは次のような性質を持つことになります。

第一に、対象女性のデータを検索・収集したり、属性を検証・絞り込みなどの作業が一切不要になります。第二に、大量のメッセージの送付作業やパーソナライズしたメッセージを作成する手間、つまりメールを100通出しても一通返信があるかどうか、という環境で、それぞれメッセージをパーソナライズする労力は相当なものですが、この一切が不要になります。第三に、前述の理由から、掲示されている属性が現在も有効であるかどうかは非常に曖昧である可能性があります。これに対して、男性の掲示するメッセージの内容に女性がアクセスする「待ち」の手法においては、逆説的ですが、そのメッセージの内容次第で特定の属性の女性をかなり有効に呼び込むことが可能で、このため女性の属性を誤る可能性が低下します(詳細は後述します)。第四に、メッセージを掲示する女性が、前述の通り仮にサイトを閲覧する全女性数の1~10%だとすると、「待ち」の手法によって男性が掲示したメッセージを受け取る可能性が生じる対象女性数が、10~100倍に増加することになります。

本稿の冒頭で、『デジタル情報社会における次世代マーケティング環境において、企業は顧客を知らないが、顧客は企業を知っている、という現象が常態化すると同時に、対象顧客の範囲が飛躍的に拡大する。』と表現しました。更に、このような環境においては、『顧客を知る、顧客に自らを宣伝するマーケティングは非効率になり、企業が顧客のニーズを理解し、顧客を特定し、顧客のニーズに合う商品を提供するという行為は非効率になる。』とも。これは出会い系サイトの「待ち」の環境と非常に似ているのです。

同じ文章を出会い系サイトの「待ち」の男性に置き換えてみると、『出会い系サイトにおいて、男性はメッセージを送付してくれる女性の存在を知らないが、女性は男性の存在を知っています。そしてメッセージを送付してくれる可能性を持つ女性の範囲は「攻め」の利用方法と比較して飛躍的に拡大します。』。更に、このような環境においては、『対象女性を絞り込む努力、女性に自らを売り込む作業、男性が女性の嗜好を理解(推測)し、女性のフィーリングに合うメッセージをカスタマイズして送付するという行為は非効率』ということになります。

「待ち」が機能するための要素
出会い系サイトの「待ち」の手法で、効果的に女性からメッセージを受け取れるようになるコツの習得は、次世代マーケティング環境で高い効果を生む手法に繋がります。「待ち」の手法で物理的にすべきことは、メッセージを掲げて待つだけですので、「攻め」のマーケティングと比べると、その効率の高さは比較になりません。一部サイトを除き、写真や音声の掲示もありませんし、使える文字のフォントや色や大きさも大方特定されています。すなわち、視覚効果、デザイン、その他の演出では差別化する手段はなく、基本的にメッセージの内容だけが男性掲示板のその他多数のメッセージと差別化する唯一の手段であり、この作業に必要な資本は「知性」と「心」だけです*(2)。男性掲示板には自分以外のメッセージも多数掲載されていますので、どんなメッセージでも効果があるというわけではありません。むしろ、試行錯誤の初期においては、殆ど効果が出ずに諦めてしまう人が少なくないのではないでしょうか。恐らく本当に効果が出るメッセージがどのようなものかを理解するまでに、早くて3ヶ月から半年くらいはかかるような気がします。

掲示するメッセージと返信の関係で非常に興味深い事実がいくつかあります。第一に、ある意味当たり前なのかもしれませんが、掲示するメッセージによって返信する女性の属性が変化するということです。これは単にピアノが趣味だと掲示するとピアノが好きな女性が返信する、といった形式的な属性に加えて、以心伝心がネットの世界でも可能だと感じる時があります。イメージで表現すると、必ずしもメッセージで「ピアノ」に言及しなくても、「ピアノが本当に好きだ」という気持ちでメッセージを作成すると、音楽を心から愛する人が返信してくる、という感じです。

僕が駆け出しの証券マンだったころ、「儲かる株があります」というトーンのセールストークでお客様になって頂けた方と、「僕の将来を買ってください」というメッセージに共感してくれたお客様は、全く異なるタイプのお客様だったという経験がありますが、これも同じ現象だと思います。よく「顧客は企業の鏡」「従業員は経営者の鏡」といわれますが、出会い系サイトでも、本当にその通りだということをはっきり実感することができるのです。

第二に、メッセージに対する返信は、「文字通りの内容」に反応するというよりも、メッセンジャーの気持ち(本心)に反応する傾向があると思われる点です。例えば、メッセージで「高級車」に言及すると、「高級な人」ではなく、「高級に憧れる人」(あるいは大体同じ意味ですが、「高級なものをエゴの表現として利用する人」)が返信する、といった感じです。僕の推測ですが、これは高級車に言及する人の本当の気持ちが、返信者に伝わるためではないかと思います。本当に高級な人は、短いメッセージの中でわざわざ高級車に言及するようなことはしないものです。

この現象が仮に事実だとすると、メッセージを受け取る人(すなわち、誰でも、ということですが)の感じる力は相当なもので、本当は顧客に対して殆どごまかしが効かないかも知れないのです。僕がサンマリーナで経験した顧客の反応は、まさにこのような感覚と符号します。「顧客は企業が想像するよりも遥かに正確に企業の本当の意図を感じる力がある」という前提で事業を行うほうが、よほど現実的な結果が生まれるというのが僕の経験です。

なお、上の例で、「高級車」に言及する人の一定数は、それが本当は「高級なものをエゴの表現として利用する」意味だということを自覚していません。そして、このような表現が「高級だ」と感じる人、つまり「高級に憧れる人」を大量に惹きつけ、返信が目に見えて増加するため、それが本当に高級なことだと誤解してしまうケースが少なくないのではないでしょうか。つまり「目に見える表現」と「反応という結果」が強い相関を伴ってメッセンジャーの経験となるため、「成果を生むマーケティング手法」と理解されがちなのです(この論点に関する詳細も、続編で言及します)。

以上を前提にすると、企業の気持ち(すなわち、経営者と従業員の気持ち)が変わると、顧客の属性が変化する、ということが示唆されるのですが、これが仮に事実だとすると、非常に効率の高いマーケティング手法として応用可能なのです。

【2007.2.5 樋口耕太郎】

*(1) もちろん、積極的に掲示を行う女性は、単に閲覧するだけの女性よりも非常にマーケティング属性が高いという考え方もある程度成り立ちますが、その分対象属性の母集団として偏っているとも考えられます。

*(2) これはすなわち、人の本来の力が、資本や単純労働に圧倒的に勝る、ということを具体化した事業モデルでもあります。そして、人とその潜在能力をこのような意味で事業的に活かす手法では、(金銭的)資本を全く必要としないため、極めて高い収益(無限大の投資効率)を生むという特徴があります。資本主導の事業環境の中で、「人を自由にしながら活かす」経営手法のひとつとして非常に有効だと考えています。

旭山動物園で何が起こったか(pdf)

2003年頃から全国的に注目されるようになり、メディアでも良く取り上げられている北海道旭川市の旭山動物園。2006年度の来場者は10ヶ月と20日間終了時点(1月20日)で約263万人。年度末までには280万人を超える勢いで、動物園としては長きに渡って来場者全国一だった上野動物園をついに抜いた感じです。沖縄の主要観光施設と比較すると、最大集客施設である「美ら海水族館」は年間約240万人、「首里城公園」は約250万人前後の来場者数(2005年のデータです)ですから、既にそれらを超える水準です。沖縄の場合この2施設は入場者数では突出していて、その次の主要施設である平和記念資料館は42万人に過ぎません。

北海道第二の都市とはいえ人口36万人に満たない北限の地旭川の、開業30年にして破綻寸前だった市立動物園が、1997年を境に殆ど資本をかけず大変貌を遂げ、日本一の集客数を誇る上野動物園や沖縄の人気施設を集客力で軽々と抜き去ったのです。メディアの作り出す「虚構」的な要素もたぶんに寄与している側面があるとは思いますが、それを大幅に割り引いたとしても、旭山動物園の大現象は「そもそも事業とはなんだろう」、という重大な問題提起であるように思えます。

事業的な大現象
単純な来場者数は既に驚異的ですが、事業性の観点から考えると、とんでもないほどの大現象だと思います。特に、①「施設に対する総資本投下額と来場者数との比率」という投資/収益の観点、②旭山動物園は他地域の動物園や水族館と競合しているというのが一般的な認識でしたが、このような競合の常識が全く当てはまらない現象としての、競合戦略およびマーケティングの観点、③常識的な価格理論や価格戦略の観点が全く当てはまらない点、④ある臨界点(2003年)以降の爆発的な成長のスピードのスケールが常識はずれである点、について非常に大きな経営的示唆を与えてくれる事例だと思います。

①資本投下/収益率の観点について、美ら海水族館や首里城公園へどれ程の資金が投下されたかは知りませんが、ハードから推測する限り双方とも100億円を優に超えるオーダーになるのではないでしょうか。反面、旭山動物園の快進撃の第一歩となった1997年建設の二つの施設(「こども牧場」と「ととりの村」)の開発予算はわずか1億円*(1) に過ぎず、単純に考えても100倍の資本効率が生じている可能性があります。そして、この現象は明らかにハード主導のものではありません。「事業成功のために資本は必要条件ではない」ということを示唆する非常に良い事例だと思います。

②マーケティングの観点では、「旭山動物園はいったい誰と競合しているのか」という問いが生まれます。現象を素直に解釈すると、現在旭山動物園は全く競合状態にないと思えますし、それはすなわち過去においても競合状態は存在しなかったと考えることが可能です。逆の発想では、苦境にあった旭山動物園の経営において、従来のマーケティングの常識を当てはめ、「他の動物園や水族館との競合に勝つ」ための経営を主眼にしていたら、このような現象は決して起こらなかっただろうとも思えるのです。「事業の成功と競合・競争戦略は実は無関係ではないか」という仮説が現実味を帯びます。

③価格戦略の観点では、現在580円の入場料を例えば倍にしようが入場者数に大きな影響があるとは思いづらいですし、逆に価格を下げたとしてもそれが理由で入場者数が増えるとは思えません。現実には本土から飛行機代、宿泊代の合計何万円もかけて旭山動物園を訪れる顧客が多数に存在します。この現象をどのように理解したら良いでしょうか。

④成長のスピードに関する累乗的な加速化の概念はこれだけでひとつの経営的なテーマになります(「加速度成長モデルと経営」を参照ください)。一般的な経営論の分野ではあまり議論されないテーマですが、今後の市場環境では頻繁に見られる現象になると同時に、経営上の重要な概念としての認識が広まると思います。旭山動物園はその非常に典型的な事例として特筆する価値があると思います。

旭山動物園の特徴
旭山動物園の成功の要因として一般に挙げられている点は、第一に、動物たちが元来持っている性質(生態)をどのように顧客に見せるかを重視した「行動展示」の手法だと説明されています。その内容は既に大量のメディアや書籍によって詳細に説明されていますが、例えばペンギンの水槽にチューブ型の通路を通してペンギンがあたかも空を飛んでいるように見せる工夫、高いところに登るヒョウの生態を利用して頭のすぐ上にヒョウが寝ているような演出をする工夫、非常に高い場所を危なげなく移動するオランウータンの生態を利用した地上17mの「うんてい」、大きな深度差をこともなげに上り下りするアザラシが移動する垂直アクリルトンネルなど、どれもが今まで見たこともないユニークな展示方法で実に楽しめます。

反面、旭山動物園には特別に「目玉」動物がいるわけではありません。どこの動物園にもいるアザラシやペンギンが動物園のヒーローであると同時に、地元の動物を中心に展示する方針が採られ、3分の1は北海道産であることも大きな特徴です。

その他に僕が感じた特徴は、第二に、動物が非常にきれいであること。野生の動物を洗うことは不可能ですので、恐らく動物にストレスが少ないことが原因ではないでしょうか。第三に、看板や動物に関する解説分が大量に掲示されていること。その殆どが手書きなどの手作りで、その文面や内容もありきたりのものではなく、動物をよく理解している人が丁寧に構成したものだということが感じられること、などです。

旭山動物園の成功
行動展示の手法と、動物たちの生態を見せるために考え抜かれた施設は確かに際立っていますが、それにしても、なぜこの施設と、手作りの看板がこれだけ人を感動させるのでしょうか。また、仮にこのような施設の設定と運営が成功の秘訣だったとしても、一般的な「組織管理」によってこれを実現することはほぼ不可能という印象を持ちます。旭山動物園の組織と人材にはどのようなパワーが働いているのでしょうか。この二つの問いに決まった答えはないと思いますが、旭山動物園のスタッフと動物園の今までの出来事を理解することで、各人がその答えを導くヒントになると思います。昨年末旭山動物園に訪れ、複数の関連書籍に目を通してみましたが、旭山動物園に特徴的なポイントがあることに気がつきます。関連書籍からの引用とあわせて以下にまとめてみました。

1.自由な従業員
飼育係は担当動物の飼育全般はもちろん、飼育する動物の選択、動物の見せ方、動物の情報をいかにお客さんに伝えるかについても任されています。

『例えば飼育係を決めるとき、動物園によっていろんなやり方があるだろうけど、一番多いのは上司からの命令でしょう。だけど旭山動物園は違う。合議制というか、やりたいもん勝ちというか、とにかく命令は一切ない。意欲のあるやつはどんどん仕事ができるし、やりたくないやつはやらなくてもいいという、厳しい意味での自由な職場だった。上司が責任を持ってくれるなら多少のヘマは許されるかもしれないけれど、旭山動物園は最初から判断も責任も丸投げさ。それが怖い。でも、そのおかげでみんな凄く訓練されたと思う。』

『ほかの人に代えることができない、そういう仕事を私自身もやろうと思うし、それを、ほかの職員にも求めている。わたし(小菅さん)から、ああしなさい、こうしなさいという指示は出しません。各飼育係が責任者として当然の努力をする。旭山動物園にいる動物が幸せに暮らせるか否かはすべて、それぞれの担当飼育係の責任なんです。動物が一日一日を楽しく暮らせて、長生きできるようにするのが飼育係の責任だし、担当動物の情報をお客さんに伝えるのも、すべて各担当飼育係の責任。これは、私たち旭山動物園の飼育係の昔からの伝統ですからね。』

『旭山動物園では、自分の担当している動物をどう飼育し、それをどう見せるかというのは全部、担当者に任せられている。ほかの動物園だったら、上司の許可なくてはできないんでしょうけど、うちにはそんな窮屈な決まりは全くない。もう、やったもん勝ちです。』

2.理想を追い、自分を知り、自分が人の役に立つ方法を理解していること
動物園のあり方、動物園の存在意義、理想の動物園、動物園がどのように人の役に立つか、について非常に長い間語り合い、検討し合い、その具体的なイメージを共有しています。

『平成に入ってからも、入場者数は落ち込み続け、最低限の予算しかつかない旭山動物園の冬の時代は続いていた。そんなある日、菅野(前園長)さんは小菅さん(現園長)を呼び出して、こう切り出した。「お金がないとばかり言っていられない。お金はないけれど、できることから始めようじゃないか。小菅さん、あんたが中心になって、飼育係みんなで考えて、アイディアをまとめてくれないか。」月に1回だった勉強会は、やがて週一回へと増えていった。それでも足らずに、仕事の合間、昼食の時間、仕事が終わってから夜遅くまでと、毎日のように動物園とは何か、動物とは何か、命とは何かという話をしていた。』

『今から比べると時間だけは十分にあった。だから私たちは、魅力的な動物園にするにはどうすればいいのかということを、毎晩のように話し合っていました。特に私(菅野)とあべさん、飼育係の牧田さんは年が近いので、3人で牧田さんの家に集まっては夜中まで話をしました。そうやって議論を重ねていくうちに、最終的に動物園の存在意義とはなんなのかというところに行き着いたんですよ。動物園は人間にとっても自然にとっても存在理由がないといけない。そういうことから、動物園のあり方を毎日話し合うようになっていきました。』

3.できることから実行すること、人と向き合うこと
長い間お金がない時期が続いたにも拘らず、むしろそれゆえに、何にも頼らない自分自身になにができるかを見つめ、少しずつ実行されています。また、これらの小さな行動の積み重ねは、自己満足ではなく、お客さんと向き合う形でなされています。

『そこで飼育係たちは、旭山動物園にいる動物たちの魅力、素晴らしさを伝えるために、自分たちが担当する動物の獣舎の前に立ち、動物たちの魅力を入園者に向かって語り始めた(1986年より)。それが、今でも旭山動物園の「名物」となっている「ワンポイントガイド」だ。「飼育係が直接お客さんに動物の解説をするなんて、当時の動物園業界では考えられないことだった。だけど、園長なんかよりも、その動物の担当者の話の方が絶対に面白いに決まっている。だって毎日見ているんだから。動物の知識は凄いのに人前で話すのが苦手な飼育係もいた。でも、ワンポイントガイドは、飼育係全員がやることに意味があったんだ。」(あべさん) 飼育係同士で約束したのは、雨が降ろうと槍が降ろうとワンポイントガイドは絶対に休まないということだった。それ以来現在までただの1回も休んだことはない。ある雨の強い日、入園者が4人しかいない日もあった。その、たった4人の客を飼育係たちが囲んでガイドしたこともあったという。』

『僕たち飼育係が凄いと思ったことは、お客さんにとっても凄いことだし、僕たちが当たり前だと思っていたことを、へえっと驚いてくれることもあった。お客さんが何を見たいと思っているのか、何が凄いと感じているのかを肌で感じてきたことが、今の仕事の原点になっていったと思います。』

『旭山動物園はもういらないって言う声も強くなってきていたけれど、どんなに市役所が動物園はいらないといったって、多くの市民が味方してくれれば、動物園がなくなることはないわけですから。旭山動物園のオーナーは市役所ではなく市民なんです。その市民を味方につけるために、私たちは、動物の魅力を語らなければならないと必死だったんです。』(小菅さん)

『ワンポイントガイドだけではない。動物園の看板はすべて手書きで、各飼育係が毎日のように更新した。』

4.自分たちのしたいことをする
現状の制約に流されず、自分たちが考える理想の動物園を堂々と長い時間をかけて生み出し、具体的なイメージに描きあげています。

『こんなことを言うと菅野さんに怒られそうですが、僕たち飼育係は、カネがなくても楽しかったんだよ。好きな動物たちの世話ができて、飼育係としての誇りを持って仕事をしていたからね。ないものはない、だったら、ないなりにできる方法が絶対にあるはずだ、と考えるようになったわけ。』(あべさん)

『当時は、確かにカネがなかった。よくその頃は旭山動物園の冬の時代だとか、お金がないことが「負のイメージ」として捉えられているけれど、やっている僕らは全然関係なかった。誇りを持ってできる仕事があるということほど、幸せなことはないからね。小菅さん、牧田さんと毎日のように動物園とは何ぞやという話をしていた。そういう話の中で辿りついたのは、一番大事なことは動物園の哲学を持つということ。』

『そんな頃小菅さんとあべさんのもとに、園長の菅野さんがやってきた。「もう何年かしたら、あなたたちの時代が来るのだから、今のうちに将来の動物園像をまとめておきなさい。」小菅、あべ、牧田、坂東さんが中心となって将来の動物園像をまとめることにした。「それぞれに担当を決めて、じゃあお前はアザラシ、お前はホッキョクグマとか。それで、将来のホッキョクグマ舎はこうだって言うようなアイディアを持ち寄って、話し合ったんだ。それをレポートとしてまとめていったわけ。僕は絵が得意だったから、そのレポートをイラストに起こしていったんだ。」(あべさん)』

『このとき描かれたのが「奇跡を起こした14枚のスケッチ」として有名なイラストだ。「私たちの考える理想の動物園は、動物が幸せに暮らせて、それを見ているお客さんも幸せになれる施設。そして私たち人間が動物への恩返しとして、彼らが地球から絶滅しないようにするための働きをする施設というものでした。そのために動物園が見失ってはいけないものは、動物の魅力を多くの人に伝えるということです。動物の素晴らしさをお客さんに伝えることによって、その価値をみんなで共有し、地球の野生動物をいかに守るかということを訴えることができるのは、動物園だけなんですよ。だから動物園の存在意義はそこにある。動物がいるからこそ、私たちは心豊かに過ごしていけるんだとか、動物がいるからこそ自分たち人間も生きていけるんだということを、少しでも多くの人たちが考えてくれるようになることが、動物園の最大の存在意義だと考えた。この考えをベースに、私たちはいかに動物たちが快適に、そして幸せに暮らしていけるか、そして、生き生きとした動物たちをお客さんに見てもらえるかを具体的に考えていった。魅力的な動物園にするには、それぞれの施設を、こう配置して変えなければいけない。そのためにはどうすべきかと、延々とスケッチを描いていったんです。」(小菅さん)』

『画用紙の上には次々と「夢の動物園」が描かれていった。それは楽しい作業だったと、当時のメンバーはみんなそう振り返る。とはいえ、展示施設を新設するどころか補修のための予算さえ認められない現状では、文字通り「夢物語」でしかなかった。』

『スケッチに描いた理想の施設は予算など度外視していたよ。いつ現実のものになるかという確約もないからね。でも、だからこそ純粋に理想を追求できたんだと思う。そして、これまで頭の中で考えてきた理想像を、レポートやイラストなどで具体化して持つことによって、自分たちに飼育係としての誇りや仕事に対する自信がますます強くなったような気がする。北の果ての小さな、カネのない動物園だけれど、目指す動物園はどこにも負けないっていう自信がね。』(あべさん)

5.真実を語ること、隠しごとのないこと
廃園のリスクを負いながら、市民を裏切らないことを優先し、伝染病の現状を公開し、逃げずにその対処を行った歴史があります。

『1993年からの1996年までの4年間は、旭山動物園が閉園に最も近づいた年である。キタキツネによって媒介され、人間にも伝染するエキノコックス症によって人気者のゴリラとワオキツネザルが死亡。この事実を公表することは、動物園唯一の味方である市民を動揺させ、最低入場者数を更新している旭山動物園に致命的なダメージを与える可能性がありました。しかし菅野さんと小菅さんは公表を決断し、記者会見に臨んだ。2人は事実を何一つ隠すことなく伝えた。「確かに危険な病気ではあるが、正確な知識と適切な対応を取れば人に感染する危険性は殆どないということ。早期診断で治療法があること。事実を隠すと市民は裏切られたと思うでしょうからね。せっかく動物園の味方になってくれ始めた市民の信頼を裏切るようなことは絶対にしたくなかったんです。」』

『結局新聞社は人にもすぐ感染するといイメージでいたずらに不安を煽る記事を1面トップに掲載。旭山動物園に行けばエキノコックスに感染する、という風評が広がった。会見後、旭山動物園の事務所には問い合わせや苦情の電話が殺到。子供の体調がおかしいと、泣きながら訴える母親もいた。結局その年は、通常の冬季閉園より2ヶ月早い8月末に、旭山動物園の歴史上初の早期途中閉園となる。』

『あの時は菅野さんと小菅さんを改めて見直した。だって、普通は逃げるよ。隠す事だってできたんだから。実際にそういう動物園もあったしね。それをあえて、正直に話して、袋叩きにあって、それでも戦い抜いた。加えて、前代未聞の大事件の渦中にあっても、飼育係たちが動物園本来の仕事をしっかりこなしていたからこそ、2人も心配しないで戦えたんだと思う。』(あべさん)

6.行動展示の哲学:演出のないありのままの凄さ
人間が動物の価値を決めない。動物本来の魅力をありのまま伝える努力。地元の普通種を中心に展示。3分の1は北海道産。

『アザラシは確かに珍しい動物ではないけれど、表情豊かで本当に面白い動物なんですよ。こんなに面白いのに、何でその魅力がわかってもらえないんだろうと悔しかったんです。客寄せパンダという言葉がありますが、その言葉通り、動物園はこれまでパンダやコアラ、ラッコなどの話題動物を飼育して客を呼ぼうとしてきた。でも、それは人間が勝手に動物の価値を決めるということです。その結果、日本の動物園は行き詰ってしまった。どんな動物でも、みんな素晴らしい生き物です。それは飼育係である僕たちが一番よく知っている。だからブームを追いかける、これまでの日本の動物園の姿勢への反省もこめて、あえて地元の動物である普通種のアザラシをやりたいと思ったんです。』(坂東さん)

『考え方は至ってシンプル。動物には面白い側面が沢山ありますが、従来の展示方法ではそれが伝わらなかった。それは博物館のように動物の「姿」を見せていただけだからです。僕たちは動物の持っている習性や能力を伝えたかった。アザラシ館も彼らが水平だけではなく垂直に泳ぐ修正を知っていたから生まれた発想です。居心地の良い場所を作り、そこで生き生きと能力を発揮する動物を見て人が感動する。その感動から動物や自然環境の問題に少しだけ思いをはせる。それが旭山動物園の考える行動展示なんです。これからも、いわゆるスター動物といわれているようなものではなく、身近な動物たちの魅力を引き出していき、それを見てもらうだけですよ。海にも陸にも生き物がいるんだという、当たり前のことを当たり前にやって見せるだけ。それ、初めて胸が張れる。今の動物園の発想とは徹底的に逆に行ってやろうと思っています。徹底的に普通種で。普通種の動物でも、こんなに魅力的なんだということを追求していきたい。それが認められるようになれば、日本の動物園の考え方も変わってくると思いますから。』(坂東さん)

旭山動物園が問う「事業とは」
以上に挙げた6つの項目が「旭山動物園成功の要素」というつもりはありません。しかし、少なくとも旭山動物園での出来事は、一般的な企業社会の常識を疑い、「事業とは何か」をもう一度考える大きなヒントになるのではないかと思います。

【2007.1.29 樋口耕太郎】

*(1) この年以降毎年のように追加されている施設には新たな予算が組まれています。いずれにしても他施設とは比較にならない程の高収益率であることに変わりはありません。

参考文献・資料:
小菅正夫 『旭山動物園園長が語る命のメッセージ』
週刊SPA!編集部編 『旭山動物園の奇跡』
坂東元著 『動物と向き合って生きる』
旭山動物園監修 『幸せな動物園』
主婦と生活社編 『感動!旭山動物園』
『プロジェクトX 挑戦者たち 第IX期 旭山動物園 ペンギン翔ぶ~閉園からの復活~』

信じるということ・伝えるということ(pdf)

本稿は概念的に、「信じるということ」と対になるものです。前稿では、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているかが事業において非常に重要な要素であるとし、「信じる」ということの意味についてコメントしました。同様に、本稿では「伝える」ということの意味を経営的な観点で考察します。経営の現場において「伝える」ということの意味は「機能させる」という結果を目的とするため、本稿のテーマは機能(機能させるための伝達)の問題であるともいえます。

一般的な企業経営において、「何を伝えるか」についての議論は溢れているように感じます。例えば、「どのような価値観を共有するか」、「どのようなルールを徹底するか」、「どのような人材が評価されるか」、などです。経営はメッセージの内容、すなわち「何を伝えるか」は重要視して吟味するのですが、メッセージの伝達については比較的機械的な対処をしがちではないでしょうか。反面、現実の事業においては、メッセージの内容もさることながら、それと同様またはそれ以上に、メッセージがどのように伝わるか、どれだけ伝わるか、どこまで伝わるか、誰から伝わるか、という点が非常に重要なのです(後述します)。

最近の事例では、1910年の創業以来100年近くの歴史がある株式会社不二家の食品衛生管理上(現実には人災だと思いますが)、企業倫理上の問題が表面化しています。不二家の経営理念は、『常により良い商品と最善のサービスを通じて、お客様に、おいしさ、楽しさ、便利さ、満足を提供し、社会に貢献することが不二家の使命である』、とされていることからも、メッセージの内容が問題でないことが明らかです。たまたま不二家の例を挙げましたが、今時どこの企業も立派な経営理念や運営ガイドラインを持っていることは珍しいことではありません。つまり、どの企業も何を伝えるかということは大方申し分ない状態にあるのです。やはり問題は、そもそも伝えるとはどういうことか、そして、どのようにして伝える、かという点に集約するように思えます。

伝えるということ
一口に「伝える」と表現されることも、その解釈は多様かつ曖昧です。代表的なパターンは、「伝える」とは、「文書化・回覧すること」と考える人、「受信者がメッセージの意味を理解したこと」と考える人、「メッセージ受信者の同意を得ること」と考える人、などではないでしょうか。しかしながら、メッセージの伝達は経営的に機能して始めて意味を持つと考えるべきでしょう。「経営的に機能する」とは、受信者がメッセージを起因とした行動を起こす、という意味です。上記の事例、「文書化・回覧する」、「メッセージ受信者がその内容を理解する」、「メッセージ受信者の同意がある」、というだけではこの意味で「経営的に機能する」とは全く限らないため、どのようなメッセージの伝達の仕方が人を動かすか、という観点から「伝える」ということの意味を定義することが最も合理的だと思います。

以上の前提で、僕はメッセージが受信者に、①理解され、②共感され、初めてメッセージが「伝わった」と解釈するべきではないかと思っています。別の表現では、受信者が「そうそう!」と感じる状態が「伝わる」ということだと定義するのです。これは前述の、「文書化・回覧すること」「メッセージ受信者がその内容を理解したこと」「メッセージ受信者の同意を得ること」とは相当異なる概念で、「伝わる」ということの意味を、「物理的な情報の伝達」とは考えずに、「人を動かす共感の伝達」として捕らえています。

「そうそう!」で繋がる
目には見えませんが、「そうそう!」の繋がりで「メッセージを伝える」ことの効果は相当なものです。第一に、メッセージ受信者の主体的な行動が著しく促される点です。「同意」と「納得」は似て非なるものです。特に、コミュニケーションを、単なる情報伝達ではなく事業機能のひとつとして捕らえると、両者の間には相当な隔たりがあります。前者は「理解と利害」によるもので、後者は「そうそう!」による繋がりです。そして、人は「同意」したときよりも「納得」したときの方が遥かに行動力を伴い、大きな力を発揮します。物事を機能させることを重要視するならば(すなわち経営的な観点では)、コミュニケーションにおける相手の納得感が何より重要ではないでしょうか。

なお、「納得」は心の問題なので、メッセージ受信者の外側からは全く見分けがつきません。場合によっては本人が「同意」を「納得」と誤解しているケースも珍しくありません。例えば、気乗りのしない仕事を命じられた社員が、「この仕事をしなければ自分の評価が下がる」から合意する場合と、「この仕事は自分に与えられたチャンス」だから合意する場合では、前者が「同意」であり、後者が「納得」と考えられるのですが、実際にはどちらもあの社員は「納得した」と解釈されがちです。

第二の効果は、事業の運用効率が圧倒的に高まる、具体的には履行管理が殆ど不要になる点です。「同意」によってメッセージが「伝達」されるケースでは、メッセージの「伝達」だけでは履行が保証されないため、そのメッセージの内容を履行する当事者や責任者が特定され、メッセージの発信者がその履行や進捗を管理することになります。伝達、履行、履行管理、進捗管理が別々に機能する必要が生じるのです。これに対して、「そうそう!」によってメッセージが伝達される場合は、その瞬間から履行管理が事実上不要になります。一般的な経営の現場では、指示を出した後、その指示が的確に履行されるかどうかの履行管理に相当な意識と労力が投入されていることを考えると、その効率の差は莫大なものです。

第三の効果は、恐らく最大の効果だと思います。「そうそう!」の繋がりが組織的に機能し始めると、メッセージの伝達が連鎖する現象が生じ、経営の労働効率が極めて高まる(つまり、経営者がとても暇になるということでもありますが…)のです。抽象的な表現なので、この説明だけでイメージすることは難しいかもしれませんが、このテーマの詳細は別の稿に譲ります。

「そうそう!」コミュニケーションの原則
それでは、「そうそう!」のコミュニケーションが実現するためには原則があるのでしょうか。僕の経験と直感によるところが多いのですが、経営の現場において伝達効率の高い(「そうそう!」)メッセージには、伝える内容よりも、①誰が伝えるか、②それが本気(真実)であるか、③行動と一貫しているか、がより大きな意味を持つような気がします。

誰が伝えるか
これは誰しもが日常的に経験していることかもしれません。親が口を酸っぱくして「勉強しなさい」というよりも、自分が憧れている(例えばクラブの)先輩が、勉強することの重要性を一言二言語るだけで、俄然と勉強をする気になった、といった経験は誰にでもありそうです。これは経営者でも、営業マンでも、教師でも、親でも、相手に何か伝えたいと考えるとき、メッセージの説明自体に時間をかけるよりも、相手との信頼関係の構築に時間をかけた方が遥かに効率的だということを示唆しています。そして、信頼関係の構築に最も重要なことは、そもそも信頼に値する人格を持つかどうか、ということに集約するような気がします。

これに対して、「それでは信頼に値しない人は、メッセージを発するべきではないのか」という議論になりそうですが、経営的にはこのような議論をするよりも、この事実をどのように事業に応用するかを考えることが建設的だと思います。すなわち、より信頼に値する人をリーダーに登用する組み(人事考課と運用)、従業員が信頼に値する人になるような成長機会を提供する環境(このような機会を事業的に最優先する仕組み)、を経営が整備することで従業員の幸福度が高く、かつ経営効率の高い事業環境を実現することができます。この経営的な仕組みの詳細は本稿のテーマではありませんので、別の稿に譲ります。

本気であるか
そのメッセージが「本気」であるということは、それ以外に優先する別の意図がない(あるいは、同様の意味ですが、政治的でない)、という意味であり、また、そのメッセージに対して経営がコミットする意思の強さを意味します。

行動とメッセージの法則
メッセージが伝達力を持つために(「そうそう!」伝達するために)、メッセージの発信者の行動以上に重要な要素はないかもしれません。そして、ある人が発するメッセージと、その人の行動との間には、次のような法則があると思います。

(i) 行動は言葉よりも遥かに強いメッセージである。行動で裏付けられた言葉は非常に強力なメッセージとなる。どんなに小さな行動でもメッセージ伝達機能を持つ。例えば、稟議や支出の決済なども、重要なメッセージを伝達するために非常に有効である。
(ii) 行動と言葉が矛盾するとき、行動によるメッセージが優先して伝わる。同時に「メッセンジャーの言葉にはうそがある」、というメッセージが同時に伝わる。
(iii) すべての行動はメッセージである。そして、行動は二種類のメッセージ伝達効果がある。すなわち、言葉通りのメッセージを行動で強化する効果。言葉と矛盾するメッセージを伝え、メッセンジャーの「うそ」の存在を伝える効果。このとき、行動をしないという行為も行動であり、メッセージを発しない瞬間は存在しない。

実務への応用
以上、「伝える」ということの概念を考察し、情報の伝達という矮小化された行為ではなく、事業がより機能する伝達という、経営的な考え方を紹介しました。また「メッセージ」の概念についても、文書・口頭による「指示」という従来の、これも矮小化された範囲ではなく、情報発信者の行動および行動とメッセージの一貫性も含めた捕らえ方をしています。例えば、このような考え方に基づくと、人事考課、支出決済、人事異動、新規事業、広告宣伝などに限らず、経営者の決断や行動そのものが常にメッセージになるのです。この状態を「休まるときがない」と考えるか、「メッセージを伝達するチャンスに溢れている」と考えるかは、それぞれの経営者の価値観次第だと思います(また、このような概念で物事を捉えながら、経営者が精神的に少しも疲弊しない方法も存在するのです。…これも本稿のテーマではないので、別の稿に譲ります)。

そして、このような概念でコミュニケーションを捕らえるのは、これが経営効率を著しく高めるからです。僕が従業員約250名のサンマリーナホテルの経営を担当したときは、従業員とのコミュニケーションを深めようと色々試行錯誤を経験しました。パート職員を含む全従業員一人ひとりと面接をしたり、メッセージを回覧・掲示してもらったり、カードを送ったり、部署ごとの飲み会やビーチパーティーにに誘ってもらったり、いつでも従業員が僕に直接相談できる時間と場所を設けたり…。ある時点から、ひょっとしたらコミュニケーションの概念は今まで認識していたものよりももっともっと広いのではないか、また、メッセージをより効率的に伝達するためには、メッセージを繰り返すことなどとは根本的に異なった法則が存在するのではないかと考え始め、実行に移した頃から、爆発的に効率が高まったのを感じました。

【2007.1.25 樋口耕太郎】

性善説の経営を実現するためには、単に従業員のよい行いを期待するだけではなく、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を経営が積極的に整える作業が必要ではないか、というのが「性善説の経営科学《中編》」の基本的な論旨でした。また、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を提供するということは、従業員が気持ちに余裕を持てるような物理的状況を整備する(無理なシフトを組まない、余裕を持って人を配置するなど)仕組みが必要だと述べました。

あまり一般的な認識ではないかも知れませんが、このような「整備」の大半は財務的的には「投資」と同義でもあり(当然のことですが、シフトに余裕を持たせたり人員を増やすことは費用が生じます)、これによる直接・間接の効果(リターン)や影響の多面的なイメージを把握してバランスを取ることができれば、経営効率が爆発的に高まるというのが私の経験です。このような「投資」効果は一般的に数量化することが困難で、例えば収支計画などでこれが数量的に表現されることはありません。そのため一般的な経営者の「事業のパズル」からははずれがちだと思うのですが、精緻に数量化できないからといって財務的でないとは限りません。むしろきちんと数量化されない財務的経営行動(収益を生じる経営行動)は事業の現場に溢れています。 ・・・経営者がイメージする「事業の生態系」と財務収益の繋がりは、事業経営の中でも特に重要なテーマだと思いますが、本稿の主要テーマではないので、この論点についての詳しい議論は別の稿に譲ります。

経営者が変わるとサービスが変わる
しかしながら、従業員にとって最も大きな「環境」は経営者の価値観そのものでしょう。性善説の経営を実現しようとするとき、経営が従業員の善意を信じ行動することで生じる変化の大きさと成果には本当に驚かされます。よく、「従業員は経営者の鏡」と言われますが、つくづくその通りではないかと思います。鏡をいくら叩いても磨いても鏡に映るその姿は何も変わりません。鏡の中の姿を変えたいときには、自分を変えることが何よりも効果的なのです。同様に、従業員が思いやりを持って人に接するようになるためには、経営者が従業員に思いやりを持って接すること以上に効果のある方法はないのではないかと思います。

むしろ検討すべきは、「経営が従業員の善意を信じ行動する」ということの具体的な意味です。この解釈次第ではまるで異なる結果になってしまいますし、性善説の経営の運用に問題が生じたり、効果が思うように上がらなかったりする場合は、原因の殆どがこの点に集約するのではないかと思います。経営者が従業員の善意を信じて行動する方法は無数にあると思いますが、私が経験した一例をご紹介します。

UG
ホテル業界には「UG」というコードがあります。これはUndesiable Guest(望まれざるゲスト)の略称で、例えば宿泊料金の支払を行わずにチェックアウトしたり、無銭飲食をしたことのあるゲストがこれに該当します。ホテルチェーンなどではUGのパーソナルデータをグループホテル間で共有し、このような事故の再発を防止するのです。チェーンの他のホテルでUGが発生するとそのデータが回覧されて来ますので、それをプリントアウトしてフロントデスクの裏やオフィスの掲示板に掲示されることになります。

経営的な観点で考えると、物事にはすべからく二面性があり、両者を特定した上で定性的・定量的に比較し判断することが効率的です。一般的に、UG管理をすることのマイナス面は殆どないかせいぜいデータを管理・回覧する手間であることに対して、プラス面は、UGの存在によって、沖縄という地域性やサンマリーナの顧客属性では、年間最大2件10万円程度の損失が生じる可能性があるため、UGリストを共有することで少なくともこの損失の一部を防ぐことができる、と考えられるのだと思います。

確かに「目に見える現象」はこの考え方の通りで過不足ないのですが、「目に見えない現象」を含めるとマイナス点は相当なものです。すなわち、サンマリーナに宿泊する年間14万人のお客様(の大半に)対して、ほんの少しであってもフロント担当者が「この顧客はUGではないか?」という懸念を抱いて接することになる点、また何か小さなトラブルが生じたとき、ホテル担当者がUGの可能性を疑いながら顧客に接することになる点、経営が実質的に「全ての顧客を疑え」というメッセージを従業員に対して発している点、経営が「顧客を大事にする」というメッセージを従業員に伝達している場合は、これと矛盾する仕組みのために組織の価値観が混乱すること、などです。特に、人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析がありますが、これがその通りだとすると顧客を疑いながら思いやりをかけるということは、そもそも生理学的にも不可能なことかもしれないのです。 ・・・もちろん、「目に見えないことは存在しない」という考え方を選択する場合には、以上のポイントはなんらマイナス点ではありえないので、どちらを経営の現実と考えるかは、まさしく経営者の価値観次第ということになります。

UGの廃止
私はサンマリーナホテルの経営を担当していたときに、このUGリストというものを始めて知り、その意味を従業員に確認した後にこのシステムを全廃しました。想像通り、社内にはこの決定によってUGを見逃し、ホテルが損失を被るかもしれないと心配する向きもありました。組織(実際には「責任者」)というものは、ダメージの多寡にかかわらず「事故」というものを嫌い、他の物事とのバランスの如何に関わらず完全に排除しようとする傾向があります。事故の発生は担当者の「責任」になるというのが一般的な企業慣習であるためです。

サンマリーナではUG廃止に際して、次のような趣旨の通達を同時に発表しています。『お客様が皆さんに言った言葉は100%正直な内容であると信じて行動して下さい。このような皆さんの行動の結果としてホテルに損失が生じた場合、会社は個人の非を一切問いません(ただし、事故報告書の提出は欠かさないで下さい)』 これは例えば、「自動販売機に入れたお金が1,000円戻ってこない」と顧客が自己申告した場合、機械を開けるまでもなく、即刻1,000円を顧客に払い戻す手続きをして下さい、という意味です。そして、「UG」が発生した場合は次のような「対策」をすることに決め従業員に伝えました。『もしお客様が何らかの理由で正当な支払を行わずホテルを立ち去る場合でも、お客様が支払をしていないという事実は全く無視して、やはりお客様に思いやりをもって接するよう心がけてみてください。また、そのお客様が再度ホテルにいらっしゃった場合も、過去の事実を全く無視して、その他のお客様と同様に接してください。傍目にはどんなに明らかなように見えても、実は見かけからは想像もつかない、やむを得ぬ事情がお客様にあるかも知れません(見かけと実際が異なることはよくあるものです)。言葉は悪いのですが、お客様に騙されても構いませんし、同じお客様に何回騙されても構いません。』

フロント担当を中心としたホテル職員で、本当は顧客を疑いたいと思っている人は殆どいません。顧客はみな善意であると信じて接する方がよほど気持ちが楽ですし、人にやさしくできますし、自分も楽しい時間が過ごせるからです。しかし、彼らのプロとしての義務感が、その業務を全うするために、少しではありますが確実に自分の心に負荷をかけることを強いているのです。この心の負荷は僅かなものですし、もちろん目に見えないものですが、その「小さな」心の負荷が軽くなることで従業員がどれほど元気になったかは、傍からみているだけでも本当に感動的でした*(1)。この変化を顧客が感じないわけはありません。実際、ゲストコメントの内容と量の変化にはっきり現れています。それ以降は、年間14万人の顧客に対して疑いを持たずに、気持ちに大きな余裕を持つ社員が0人から250人(全従業員数)に増えたと考えてもそれほどの誇張ではないと思います。経営的には、「人の善意を100%信じることで、個人的に損失を被るかもしれない」という従業員の恐れを取り除くしくみを提供したことになります。

性善説の経営と事業性
突飛な例に聞こえるかもしれませんが、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の冒頭に登場するミリエル司教は、一晩泊めてあげたにも拘らず銀の食器を盗んだジャン・バルジャンに対して、断罪することではなく、彼を肯定し、彼の心の中の善意を信じて銀の燭台を手渡すことで彼の人生を永遠に変えました。9年後ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メール市の市長になり、福祉の整った善政を行いこの地方を非常に豊かにするきっかけは、わずか200フランの銀の燭台だったのです。もちろん本人は自覚していなかったと思いますが、ミリエル司教は優れた「投資家」であったとも言えるのです。

我々が一人の顧客に10回騙されれば、その顧客はその後、沖縄やホテル業界や社会の善意を信じて人生を送れるかもしれません。ホテルで年間5万円の予算を組む(損失を見積もるということですが)ことで万が一にもそのような人を「手助け」できるのであれば、ホテルや我々の仕事が人の役に立てるかもしれません。もちろんこの方針によってこのような「UG」を善人に変えようと考えているわけでもありませんし、現実にはその機会さえ殆どないかもしれません。しかし、このような信念が従業員に伝わるとき、組織が根本的に変化することを経験しました。

以上の考え方は性善説の価値観に基づくものですが、実は「きれいごと」に終わらない経営的(財務的)な裏づけが存在し、このような経営行動は極めて事業効率の高い判断である可能性があるのです。会社が被る損失は、仮に1回につき5万円の損失だったすると、10年間で10回騙されても年間5万円です。これに対して、顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップするという調査*(2) があります。従業員の善意に共感し、リピートする顧客がどのくらいであるかを数量化することはできないものの、直感的にこのインパクトをイメージすると、僅か5万円の「投資」(機会損失)で得られるリターンは信じられない程の収益率を生むことが想像できるとおもいますし、その後のサンマリーナの収益はこの仮説を一部裏付けていると思います*(1)

【2007.1.22 樋口耕太郎】

*(1) 趣旨を分かりやすくするためにこのような単純な表現にしていますが、正確に表現すると、もちろんUGを廃止しただけではこのような効果は生じません。その他多くの細かい経営判断を性善説の価値観でバランスよく対処することで一貫性が生じ、最終的にこのような結果をもたらすというイメージです。

*(2) Frederich Reichheld, “The Loyalty Effect” (Harvard Business School Press, 1996). 売上高利益率の低い(すなわち、オペレーションレバレッジの高い)ホテルのような業態では、事業的な成果がこのようなレバレッジ効果を伴って顕在することがあります。この調査による「顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップする」という水準は僕の個人的な実感ともおおよそ一致します。

「性善説の経営科学《前編》」では、「人の正直さは各人の人間的な性質による」という一般認識に対して、「正直さの多くは状況や環境に依存する」可能性と、この性質が経営に示唆する内容について述べました。このように、人間の性格は一貫的なものだと思い込む傾向を、心理学では「根本的属性認識錯誤(Fundamental Attribution Error)」と呼ぶそうです。人は他人の行動を解釈するとき、その性格的な特徴を過大評価し、状況や環境の重要性を過小評価するということを意味しています。どうやら人間の脳は状況的なヒントよりも人に関するヒントの方に敏感に反応するように調律されているようなのです。したがって、性善説の経営を実行するとき、従業員が正直に行動するような状況や環境を経営が整えることの重要性は高く、それこそが経営者が積極的に分担すべき仕事である。そしてその環境整備として最も効果が高い作業は「経営が従業員の善意を信じ、行動することそのもの」であろう、というのが前回の論旨でした。本稿では、性善説の経営に必要な環境整備とサービス事業への応用の可能性についてコメントします。再びマルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』からの引用です。

「善きサマリア人」の実験
『90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)立ち止まらずに「道に反対側を通り過ぎていった」。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、「近寄って傷の手当をし」宿場まで連れて行った。』ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。

ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。

ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか? それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」 ②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、職業としての聖職者と宗教的使命の関係を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。 ③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。

さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」

この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。』

以上の実験結果は、ある意味当然かも知れません。よく、「人間は自分が幸福でなければ人を幸福に出来ない」、「顧客満足度は従業員満足度から」、「衣食を足りて礼節を知る」などといわれることがありますが、含意はこの実験結果とおおよそ符合します。逆に考えると、神学生たちの善き性質を引き出すためには、彼らが人助けをする機会に「恵まれた」とき、彼らの時間や気持ちに余裕のある環境を整備することが効果的であると考えられ、これが性善説の経営を実行するヒントになります。

サービスの現場では…
以上をサービス業の経営に当てはめると興味深いことになります。従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接するためには、従業員の「サービス能力」や、優しい性質や、共有した価値観や、気の利きようや、経験や、そしてお金と時間をかけた社員教育よりも、現場において従業員が「急いでいない」という状況、あるいは気持ちに余裕がある環境の方がよほど大きな影響をもたらす可能性があるのです。

翻って、世の中の一般的なサービス企業は、従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接する、あるいは少なくともそのフリができるようになるように(現実にはこのケースが大半かも知れませんが…)莫大な費用と時間と人材を投入します。このような、例えば人事評価制度を整備したり、有能な人材を選別したり、価値観を共有したり、研修をしたり、個人の「能力アップ」をサポートしたりする作業は、概して売上に直接結びつかない一般販管費ですので、企業価値と収益に直接のインパクトを与える、財務上重大なコストです。しかしながら、ダーリーとバッソンの実験結果が示唆することは、従業員が思いやりを持って顧客に接するという結果を導くために、経営が費やすこれらの作業や費用は、実のところあまり効果がないかも知れないのです。そして、「(気持ちが)急いでいない従業員」の方がよほど多くの善きサマリタンを生み出し顧客に感動を与えるかも知れないのです。

従業員が気持ちに余裕を持って顧客と接することができる環境とは、例えば余裕を持った人員配置(人数そのものを増やす)、柔軟で緩やかなシフト、期限を決めた仕事をしないこと、進捗状況の確認という名の下にプレッシャーがないこと、などを意味すると思いますが、これらはいずれも現代経営の価値観の中では「無駄」「非合理」「規律が取れていない」「管理されていない」と解釈され、真っ先に削減や合理化の対象になります。すなわち、一般的なサービス事業の現場で起こっていることは次のように解釈することができます。

①経営は「無駄」を排除するために、「適正な」人材配置を行い、可能な限り無駄な従業員やシフトをなくす努力を重ねます。のんびりしている従業員がいる現場やシフトは見直され、遠からず配置人員数が減らされることになるでしょう。収益に対応した売上等の目標の進捗はこま目に管理され、目標に遅れがあるときには責任者に対して厳しい指摘がなされるかもしれません。

②これによって、従業員が顧客に対して思いやりや善意を持って接するための最大の要因、すなわち「気持ちの余裕」、がことごとく現場環境から消滅していきます。

③反面、顧客に対して思いやりを示すことが経営から現場に対して強く求められ続けます。それにも拘らず、「合理性の追求」や「無駄の排除」によって、従業員が思いやりを発揮できる状況が現場環境からどんどん減少していきますので、現場従業員は経営からの(思いやりを示せという)要求と、自分の(余裕のない)本心がどんどん乖離することを感じるでしょう。

④これに伴って、現場は効率的に「思いやりを示すフリ」をする方法を習得して対処しますが、そのうちにこのような状態があまりに一般化してしまい、現場の従業員も本当の思いやりと思いやりのフリの区別が分からなくなってしまいます。一方、経営は一般的に従業員が顧客に示す本心からの思いやりと、思いやりのフリを区別しません。

⑤同時に経営は(経常利益と企業価値を直撃する)多額の費用と時間を投資して、企業理念と価値観をプロモートしてみたり、「優秀な人材」を確保し、人材開発、能力開発、研修、などの人事研修システムを整備します。

冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、ひょっとすると現代の一般的な経営が胸を張って実行している行為は、従業員が顧客に対して思いやりを発揮する環境を「合理化」の元に非常な努力を持って削減し、効果の低い「人材投資」に莫大な費用と時間と人材を投下し、企業収益と企業価値を大幅に減じているだけなのかも知れません。・・・なるほど、多くの人が「ビジネスは戦いだ」と感じるのは当然でしょう。

【2007.1.17 樋口耕太郎】

「信じるということ」で表現しようとしたことは、経営において、仕組みを運用する立場(主に経営者)の意識や価値観が事業に与える影響です。経営論では目に見える仕組みに意識が集中しがちなのですが、私の個人的な経験と実感では、目に見えない経営者の価値観は相当大きな変数だと思えます。例えば、「従業員ロッカーにカギを設置する」という決定で、カギ管理のルール、費用、従業員のモラルへの影響など、が目に見える仕組みの議論、経営者がカギを設置する際の真意、が目に見えない価値観の議論です。経営者がどのような真意でカギを設置しようが、現場にカギが設置されることに変わりはなく、その事業的な効果に影響を与えない、と考えるのが「常識」だと思いますが、これに反して、経営者の真意によって事業の成果が異なる、ということを経営科学的に説明できるのではないかと思っているのです。本稿では経営における「性善説」をテーマとし、①そもそも経営における性善説とはなにか? ②性善説の経営は(どのようにして)可能か? ③性善説の経営が効果的であると合理的に考えることが可能か?という三つの問いにひとつの回答を試みました。

正直さは環境に依存する?
雑誌『ニューヨーカー』のスタッフ・ライターである、マルコム・グラッドウェル著『なぜあの商品は急に売れ出したのか』は、流行が生まれるときの爆発的な現象を心理科学的な側面から分析した興味深い本です。グラッドウェルはその中で、人間の心の状態は一般的に認識されている以上に外部環境に影響されると主張しています。ひとつの実証として次のような(少々意地悪な?)実験の事例が挙げられていますので引用します。

『ニューヨークを本拠とする二人の研究者、ヒュー・ハートショーンとM・Aメイが1920年に行った一連の画期的な実験がある。二人の研究者は、8歳から16歳まで、なんと約11,000人の生徒を対象にして、正直さを測るために考えられた、数え切れないほど様々な種類のテストを、数え切れないほど様々な状況で実施した。

例えばそのひとつとして、当時の教育研究所が開発した単純な適正テストが使われた。数学のテストでは、「砂糖の値段が1ポンド10セントであるとき、5ポンドではいくらになるか」というような問題が出され、余白に答えを書くようになっている。このテストでは通常の所定時間のほんの一部しか与えられないので、多くの問題が未回答のまま回収され、採点される。翌日は、問題は異なるが、難易度は同じ程度のテストが再び行われる。しかし今度は、監視を最小限にとどめ、自己採点をするように伝えられる。

言い換えると、ハートショーンとメイは良心を刺激する仕掛けをしたわけだ。正解が手元にあり、未回答の問題がたくさん残っていれば、生徒たちはいくらでもカンニングすることができる。ハートショーンとメイは、前日のテストの結果と比べて、それぞれの生徒がどれくらいカンニングしたかを判断することができる。その結果は最終的に三冊の分厚いファイルに収められた。

結果は予想にたがわず、こういうテストでは多くのカンニングが起こるということだった。カンニングが可能なところでテストした場合、平均すると「正直」な採点の50%も得点が高くなった。だが、カンニングのパターンと子供たちの属性に関して意味のある傾向は存在しないことがわかった。はっきりと特定できるカンニング・グループがあるわけでも、正直な生徒のグループがあるわけでもない。また、これらの条件、例えばテストの問題とか、テストを実施する状況、をひとつでも変えれば、カンニングする子供も変わってしまうのだ。

そこでハートショーンとメイは結論する。正直さというようなものは人の性質を決める根本的な特徴でもなければ、「一貫した」特徴でもない。正直さのような特徴は、状況に大きく左右されるものである。大多数の子供たちは、ある状況におかれれば人をだますが、別の状況ではそうではない。この調査で試されたテスト状況から判断する限り、ある任意の状況で子供が人をだますかどうかは、知性とか年齢とか家庭環境などの条件に一部しか依存していない。ハートショーンとメイの調査が示唆しているものは、「固有の性格という観点だけから判断し、状況の役割をなおざりにすると、人間の行動を決定している真の原因を見誤る」ということである。』

性善説の経営科学
もちろん、この調査を根拠に「環境だけが人間の正直さや行動を決める」と考えるのは偏りすぎでしょう。長い目で見れば正直な人間はやはり正直な一生を送るものです。しかしながら、人間の正直さはその人の性質や努力によるものだけではなく、環境による影響が大きい、特に我われが一般的に認識しているよりも大きい、という示唆は経営的に重要なものです。従業員が正直であることの要素は、恐らく「本人の性質によるもの」、「本人の努力によるもの」、「企業などの環境によるもの」、の三種類によると思われますが、経営者の立場では、従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける、ことが経営合理的であると考えられるためです。すなわち、性善説の経営を実行するということは「人間の根源的な性質は何か」という大上段の議論に決着をつけるようなことでも、従業員の人間性のみに帰す問題でもありません。従業員の正直な行動を促すために経営が果すべき役割の認識であり、実際にその作業を実行することだと思います。私の経験では、その認識と行動が現実の事業的成果を大きく左右するのです。

表現が堅苦しくなってしまいましたが、要は性善説の経営が成立するためには環境的な前提が必要で、その環境を整備するのは(少なくとも一部は)経営の役割であり、その前提とは、「従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける」ということです。従業員の性善説を漠然と信じても成果が上がらず、何かしら従業員から裏切られた気持ちになった経験を持つ経営者は少なくないと思いますが、自分自身に対して、人が正直でいられる環境を自分は十分に整備していたか、そしてそもそもそのような環境とはいかなるものか、と問うことは意味があるかもしれません。私が個人的に学んだことは、従業員の環境を整えず(経営ができることをせずに)従業員の性善説を漠然と信じても自分が勝手に裏切られた気持ちになるだけ。性善説の経営を実現するためには、人の善意を信じることは第一ですが、その善意が顕在化するために経営ができることを特定し、行動すること、だと思いました。性善説の経営には科学が必要なのです。以下、冒頭の「従業員ロッカーのカギ」を設置するケースを考えてみます。

カギは善人のためにかける
どこで読んだか忘れてしまったのですが、「ユダヤの知恵」のひとつとして「カギは悪人のためではなく、善人のためにかけるのだ」という考え方があるそうです。もしある人が悪意をもって物を盗もうとするときは、鍵があろうとなかろうと結局壊してでも手に入れるため、カギの有無はあまり意味がありません。反面、カギをかけるということで善人が出来心を起こすのを防ぐことができ、実質的にはこの効果の方が圧倒的に重要だ、という意味だと思います。

従業員ロッカーのカギのケースは、実はサンマリーナホテルで私が経営を担当していたときに実際に起こったことです。長年勤めていた従業員が同僚のロッカーを荒らし、盗難を働いていたことが明らかになり、経営幹部の間でどのように対応をすべきか深く議論しました。議論の焦点は業務上の対処でも、彼の処分でもなく、彼とどのように向き合うかであり、そのときヒントになったのは例えば、「彼が自分の息子だったらどうするか」という問いでした。よき親は子供の心の一番底にある善意を最後まで信じると思われたためです。

物理的な対応はカギの整備、ということでしかありませんでしたが、われわれが最も重要視し、できるだけ多くの従業員に伝えようと試みたメッセージはその背後にある価値観でした。ユダヤの知恵の話を伝え、サンマリーナではカギは善人(すなわち全ての従業員)を守るためのものと定義しました。会社においてカギを設置することの唯一の意味は、従業員を管理したり、あるいは盗難を減らすことすら一義的な目的ではなく、善意ある従業員に、会社で可能な限り正直な時間を送ってもらいたいためであること、そして、今回盗難を働いた社員を「守る」ことが出来なかった責任の一端は経営にあることを、各リーダーに直接伝えたのです。(この事件をきっかけに退社した)この社員のこと、その後家族との関係はどうなっただろう、生活はどうなっただろうと今でも考えることがあります。

このような事例の成果を数量化したり因果関係を特定することは恐らく不可能ですが、仮にこの対応以降盗難が減少した場足(すなわち従業員の性善説的な性質が顕在化したとして)、それはカギを設置したこと自体に加えて、カギを設置することの意味(すなわち善人を守るためにカギを設置する)が従業員に伝わった、という効果が少なからず含まれるのではないかと思っています。

【2007.1.13 樋口耕太郎】

昨日はありがとうございました。
またお目にかかることができてとてもうれしかったです!

以下は昨日皆さんにお送りさせていただいた「麗王便り」です。
日野さんのアドレスを登録し忘れておりまして1日遅れてしまいました。
読んでみてくださいね。

おめでとうございます!
新しい年が始まりましたね~。
1年のスタートの月を“睦月”といいます。
この1年も、家族みんなが幸せでいられますように、そんな願いが広がるから
でしょうか、1月の旧暦名は“互いに睦まじく”人と人がにぎわい、
顔を合わせあって睦み合うことから“睦月”というのだそうです。
古くから伝えられるお正月遊びの凧揚げも、そんな願いが天高く届くよう、
始められたのかもしれません。
“睦月”の意味あい通り、1月は日頃の感謝をあたためながら、いろんな人と
会い、楽しく過ごしたいものですね。
様々な人と和やかに睦み合い、いろんな会話を交わせば、
その中から今年の幸運が流れ込んでくるような気がします。

そして、今日は“鏡開き”の日です。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使うのだそうです。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
今日食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
麗王でも温かいおぜんざいに入れてご用意いたしておりますので、ぜひ
お召し上がりくださいね。

かつては国民的休日として、街が静まり返るほどに、誰もがそれぞれの家庭で
団らんを楽しんでいたお正月でしたが、現代では、普段と変わらずにお店が
営業するなど、あたかも旧年の延長。
でも、やはり1月は、街にお琴の音が流れていたり、しめ縄や門松が
飾られていたりと、「和」を「日本」を、感じさせてくれます。

その「日本」、ある意味では、外国の人の方が、より理解し、愛しているのでは、
と思うことさえあります。

四方を海にかこまれた、その小さな島国は、春夏秋冬の美しい風景に彩られて
ひとりのイタリア人青年をとりこにしました。
いまから半世紀以上も前の昭和30年代、フォスコ・マライーニ氏と日本との
出会いは、のちに一冊の写真集「海女の島・舳倉島」に姿を変え、世界中の
人々に愛されるベストセラーになりました。

マライーニ氏にとって日本は神秘の国でした。
日本の人々は、小川のせせらぎや森の大樹、ときには米びつや酒樽のなかにまで
神の姿を見いだし、手を合わせて祈る。
教会も、聖書も、ロザリオも見あたらないのに、そこらじゅうに神々の息吹を
感じる。
私の住む沖縄もまさしくそういうところです。

とりわけマライーニ氏を感心させたのは、
日本の人々の、ものの憐れを知る心――。
自然を最上のものとして敬い、畏れ、感謝し、
自然の木々や鉱物、土からつくった道具や「もの」のなかにまで命を見いだし、
慈しむ「心」。
役目を終えた「もの」をも憐れむ、針供養や人形供養などの美しい習慣はいまも
私たちの暮らしに確かに根づいています。

あの日、マライーニ氏の心を強くとらえた日本の姿はいまも、
そのままでしょうか。
ファシズムに抗議して投獄されたこともある高潔なマライーニ氏は、2004年6月
永眠されました。
晩年、イラク戦争やテロの惨状を目にしては、「こんな世界は見たくない」と
涙されていたといいます。

美しき日本の心を、大地や海を、守るために、
子どもたちの未来に「平和」をつむぐために、
いまこそ、愛と、勇気と、夢を――。
そして「あたりまえのこと」を。

今年はそんな気持ちで過ごしてゆこうと思っています。
あなたもたくさんの希望を夢を、胸に、スタートをきってくださいね。

今年はもっともっと、あなたとの大切な時間をやさしさで包めますように。

ごく最近の小さな変化ですが、昨年末に近づいたあたりから大衆的な雑誌(例えば先日目にしたのは「JJ」です。)のトレンドが、伝統回帰、うわべよりもしっかりとした中身、物質よりも心に焦点を置き始めたような気がします。数年前まではガングロ、最近ではパリス・ヒルトンや倖田來未が紙面を埋め尽くし(彼女たちに偏見があるわけではありませんが…)ていたモード誌がこのような正統派スタイルを堂々と取り上げ始めるのは、僕の記憶にある限り初めてです。少なからずびっくりすると同時に、これはとても大きな変化の兆しではないかと勝手に想像しているところです。このような社会の意識変化によって、今年あたりから誠実な生き方を表現することがだんだん「かっこいい」と評価されるようになるかも知れません。

経営の概念が広がる
経営の世界でも、目に見える物事のみを前提とした、矮小化された「合理性」だけではなく、目には見えないが非常に広範囲な物事に注意を払う(例えば人間関係、心、価値観などです)ことで、逆説的ですが、より合理的な事業評価が可能になるという認識が広まるのではないでしょうか。例えば、僕は以前から、経営科学において経営者の個人的な価値観や生き方がもっともっと重要視されるべきではないかと考えています。経営者個人の人生や価値観は目に見えにくいということもあり、従来の経営科学のフレームワークからは殆ど無視されていますが、現実には経営者個人の価値観や人生観が事業に莫大な影響を与えることは誰の目にも明らかです。つまり、このような一見目に見えないが厳然と実態が存在している物事を含めて認識する「広い経営概念」を前提として、経営における合理性が議論されるべきではないかと思います。この場合前提が従来のフレームワークとは根本的に異なり、また比較にならないほど広範囲(従って莫大な潜在事業性)をカバーすることになりますので、正しく活用すれば飛躍的な成果を生み出す反面、従来の価値観からは非常識極まりないものと見えるのです。

以上の前提で、経営者の個人的な価値観のうち、「信じる」ことと「伝える」ことに注目してみました。つまり、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているか、が事業において非常に重要な要素である、という考え方です。本稿ではまず「信じる」をテーマにしました。「伝える」についても非常に掘下げ甲斐のある良いテーマなのですが、分量が多くなりすぎるために別の稿に譲ります。このテーマは個人的なものと経営的なものが非常に重なるため、本稿においても僕の個人的な経験や価値観に触れていますが、この点ご了承いただければと思います。

僕にとって「信じる」ということ
およそ3年前に沖縄で事業を開始してからは素晴らしい経験の連続です。その中でも、いくつかの経営的に重要な決断において、突き詰めて行くとどれも「合理的」な判断に基づいて「信じる」ことが不可能なものばかりだった、という経験をしました。例えば、ある判断が正しいという合理的な理由を見つけられないまま重要な決断をせざるを得なかった、というような事態です。そのときに思ったことは、自分が理解できる範囲のことを「信じる」のは比較的容易な作業。でもそれは本当に「信じて」いるのではなく、それが「分の良い選択」であることを確認しているに過ぎないのではないか、そして「信じている」という言葉の多くは、実は「分析している」という意味に過ぎないではないかということです。このような「分析」は、自分の認識と経験の範囲内における「合理的な」選択である以上、自分の過去の経験や現在の認識を超えることはできません。

現時点の僕にとって「信じる」という行為は、価値あると思えることに対して捨て身になること、すなわち、そこに一見何の合理性も無く、また現在の自分の能力や経験に基づいて理解、分析することができない状態であっても、その成功や正しさを継続的に確信するということです。このような判断は自分の経験や認識を超えることが多く、自分で正否を理解できる合理性が必然的に存在しないため、その正しさの確度を分析することは不可能です。つまり、この時点でその信念が正しいという確証は存在し得ないのです。このような状態(正否の判断不能な状態)において人や物事を「信じる」ためには、突き詰めると、言葉は悪いですが、その対象(人)に「騙される」、あるいは「破綻(必ずしも事業破綻とは限りません)を今の時点から受け入れる」というような自己作業が必要です。これによって「Aさんのことを信じていたのに…」ということは起こり得なくなり、ほぼ100%自己作業というか結構苦しい自分との戦いになります。

このような、一見わけもわからないものに対して自分を「危険に曝す」行為が多くの人にとってとても分が悪いことのように思えるのは理解できるのですが、少なくとも僕の経験においては、逆説的ですが、これほど爆発的な力と結果を引き起こす、すなわちとても合理性のある、そしてこれほど事業性を生む行為はないというのが経験による実感です。

供養における「信じるちから」
先日、奈良薬師寺の高田好胤管長(1998年遷化)の本を読んでいて、釈迦が最後の時期に受けた供養(お坊さんは、皆が尊敬の意をこめて提供する食物を受け取って生活するのですが、このことを「供養」を受けると言います。)の食べ物が傷んでいたために体調を大きく崩し、これが直接の原因となって死期を早めてしまう、というくだりがありました。釈迦はこの供養を行ったチュンダが最後の供養者になってくれたことに感謝した後にお亡くなりになります。

供養を受けるということは本来命がけ、自分の身を相手に預ける行為そのもので、これはまさしく「信じる」ことそのものだ、と感じました。これは大げさに言えば、合理的な根拠なしに(少なくとも目に見える状態ではない中)、自分の人生を担保に差し出すことであり、真剣に取り組むことができれば感動的なくらい誠実な行為になり得ます。

金脈の話と「信じるちから」
以前東京で働いていたとき、ある若手の営業マンが売上が伸びずに苦しんでいて、個人的に相談を受けたので、小さなアドバイスをしたことがあります。「今積み上げている努力は金脈(売上)を掘り当てるためにスコップで穴を掘る作業のようなものです。金脈にあと1センチで到達するかも知れないし、あと1キロ掘り下げなければならないかも知れない。けれど、1センチ前の時も、1キロ前の時も、掘っている人の不安な気持ちや暗中模索の状況は全く同じです。ですから、どこに金脈があるか、あとどれだけ掘れば金脈にあたるのかという議論には殆ど意味がなく(どの道分かりませんので)、この先に金脈があると信じて努力をし続けることができるかどうか、自分の成功を信じ続けることができるかどうか、つまり信じるちからを持ち続けることが一番重要だと思う」という内容です。

いつも思うのですが、僕のイメージとして、98%くらいの人間は自分のことを過小評価、それも著しく過小評価していると思っています。98%という数字が仮にその通りだとすると、これは自分を信じることがそれだけパワーを必要とするということだと思います。なぜこれほど自分を過小評価する人が多いのかといえば、それだけの比率の人が、目に見えること、目に見える他人の評価が自分の実力(潜在力)だと自ら納得(誤解)してしまうからでしょう。確かに、例えば30日間でも穴ばかり掘っていたら、大概の人間は萎えてしまって諦めます。周りの人も親切な人ほど「無駄なことは止めた方がいい」と優しくアドバイスをくれたり、また一般には「やっぱりその程度」と白い目で見てプレッシャーを与えたりします。

ある村での干ばつの話
細かい内容は忘れてしまいましたが、以前どこかで読んだ本の中で、このような感じのお話がありました。

『ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい。」長老は答えます「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」

村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか。」それを聞いた長老は答えました。「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか。」』

長老の言う「信じる」ことと村人の「信じる」ことは似て非なるものだと思います。多くの事業(や人間関係)において、ある価値観をスローガンにしながら、「傘を持たない」経営がなされているケースは珍しくありません。

野茂英雄と「信じるちから」
ご本人とは一度もお会いしたことはありませんが、僕は日本の野球界で最も偉大な選手は野茂英雄だと思っているのです。野茂が日本人として始めて大リーグで成功したとたん、日本人大リーガーが続出したのは誰でも知っていることですが、冷静に考えてみると、野茂が大リーグに挑戦する前(before ノモ)と後(after ノモ)で日本プロ野球界のレベルは殆ど変わっていない筈。つまり、日本人が大リーグで活躍できたかどうかは能力の問題ではなく、できると思えるかどうかが重要だったということなのでしょう。野茂が発揮したのは「信じるちから」そのものだと思います。近鉄への退路を絶って野茂が大リーグに挑戦したとき、彼以外にこれだけの成果を上げることができると考えた人はいなかったと思いますし、彼自身にとっても自分自身を信じることは、一見何の合理性も無いことだったはずで、さぞや苦しかっただろうと思います。

「after ノモ」では、日本人大リーガーが続出しその多くが大活躍します。イチローは安打の世界記録を達成しますし、井口はチームのワールドシリーズ優勝に大きく貢献します。最近では松坂に60億円の値札がつくなど(この辺は非常識極まりないと個人的には思うのですが…)のニュースもありました。このため大リーグが日本人にとってあまりに面白くなってしまい、日本のプロ野球、特に巨人の人気が凋落します。日本テレビの男性アナウンサーは巨人戦の中継では必ずスーツを着用するという伝統があるほど日テレにとって重要であった巨人戦の視聴率の下落が止まらず、昨年は一部放映を取りやめるという「大事件」になっています。これをひとつのきっかけとして長期に亘って安泰だった日本テレビの業界での地位も大きく影響を受け、日本のメディア業界全体の再編が緒に就いた感があります。日本のメディア業界の再編を最も促した人物は、氏家さんでも、ホリエモンでも、三木谷さんでも、まして村上さんでもなく、野茂英雄ではなかったでしょうか。

もちろん野茂本人はそんなことを目的にしてもいませんし、想定もしていなかったと思います。しかし逆に結果を求めなかったからこそ、自分の心からやりたいことを、自分ができることから行動したからこそ、他人に一切求めず自分の責任を全うしたからこそ、結果として多くの人に実質的に多大な影響を与えたのだと思います。野茂はもっともらしい社会の常識や、他人からの評価と戦って、全く違う信念を持ち続けた人なはずで、このような人こそが皆に「やればできる」と思える成果を提供し、社会を動かすことができるのだと思います。これが「信じるちから」の本当の威力であり、隠された莫大な事業性のイメージです。

「マトリックス」における信じるちから
映画「マトリックス」は本当に凄いです。主人公ネオがマトリックスから人類を解放する救世主かどうかが、まだコンピューターに支配されずに抵抗を続けているわずかな人間たちの間で大きな問題になります。ネオを救世主だと信じ続けるモーフィアスは、仲間から変人扱いされます。

物語の中で、ネオが救世主かどうかを確信したいがために、モーフィアスはネオをオラクルという予言者のところに連れて行きます。オラクルはネオと二人きりになった時、ネオに対して、「あなたが救世主かどうかは、あなた自身が感じるはず。あなたはそうだと思えますか?」と問い、ネオは「違うと思う」と。オラクルは同時に「それにも拘らず、モーフィアスはあなたが救世主だと固く信じ続けているがゆえに、近い将来、自分の命と引き換えにあなたのことを守ろうとするだろう。そのときにどうするか(自らを犠牲にするか、モーフィアスを見殺しにするか)はあなたの選択」とだけ告げます。

結局ネオは救世主であった(正確には救世主に「なった」のだと思います。理由は後述。)のですが、それではなぜオラクルは「ネオは救世主ではない」という予言をしたのでしょうか?この謎は、1999年に初めて映画を見て以来2004年にその答を思いつくまでの実に5年間、僕を悩ませました。5年越しの僕の結論は、真の予言者は「正しいことを告げる人」ではなく、「正しいことに導く人」だということです。これはつまり、正しい苦労をさせる人(その「苦労」がたとえ死や別れであっても)、と言うことも意味します。ネオには救世主になる「可能性」があったが、それを引き出すためには、その時点のオラクルの言葉を心から信じ、かつ身を犠牲にするという通過儀礼(体験を通した学び)が必要。オラクルが単に「あなたは救世主だ」と伝えただけでは、ネオはその通過儀礼を果たすことができません。また、モーフィアスが、ネオのことを盲目的に信じ続けることをしなければ、これもやはりネオが通過儀礼を果たすことはできなかったでしょう。つまり、オラクルは、モーフィアスの信じるちからを見抜き、ネオが自分の「誤った」予言を信じることを見抜き、これを勘案してネオに「命がけの選択肢」を手渡したのです。この「命がけの選択肢」のパラドックスは、自分の命を引き換えにすることで、ネオは救世主という新たな「命」を得るのです。この意味で、ネオを救世主に「した」のは、ネオとモーフィアス、二人の信じるちからによるところが大きいと言えます。あるいは、ネオとモーフィアスの信じるちからによって、ネオが救世主に「なった」と言う方がより適当かも知れません。もっと言えば、ネオは、信じるちからがあったから救世主になった、もっともっと言えば、信じるちからを持つものが救世主になる、ということかも知れません。

ポイントは、ネオが信じた予言自体は「誤り」だった、ということです。信じるちからは、信じる対象が正しいかどうかに関りなく、信じるということ、それ自体でとても大きな力を発揮する、ということへの示唆だと思えるのです(それこそが「信じる」ということの意味なのだと思います。)。

翻って考えると…
世の中には「何を信じるか」に関する情報に溢れています。数々の経営理論、評論、書籍、「専門家」のコメント、教育、法律、慣習、(編集も含めた)ニュース、映画、雑誌、流行、宗教…。しかしながら、そもそも「信じるとはなにか」ということは滅多に議論されません。

人それぞれ「信じる」ことの意味は違いますし、違って当然です。特段どれが正しいということもないと思います。ただし、経営者がなにかを「信じる」とき、それが実のところどういう意味であるかは事業に大きな影響を与えることになりますので、この意味を自覚的に理解することは色々な面で大きな手助けになるでしょう。あなたが経営者だとしたら、例えば自分のパートナーや部下を「信じる」とき、それは突き詰めるとあなたにとってどういう意味なのでしょうか?

【2007.1.3 樋口耕太郎】

加速度成長モデルと経営(pdf)

経営科学の分野ではあまり注目されていない概念でありながら、経営の現場ではとてつもなく重要な要素のひとつに「予測」という作業があります。予測は経営判断の一部を構成しますので、(同様の意味ですが)全ての経営判断には前提となる予測が含まれており、また予測を含まない経営判断はバックミラーを見ながら車を運転するようなもので、意味がありません。これほど重要な概念なのですが、例えば経営分析の一連の作業などでは、過去と現状の分析に膨大な時間と手間をかけながら、予測に関しては単純に過去のトレンドを採用する、などの比較的機械的な扱いを受けていることが少なくないような気がします。

成長予測の重要性
予測の概念の中でも、企業の中長期戦略やプロジェクトの売上予測など、経営の根幹に大きく関わる「成長の予測」は特に重要性が高いと言えます。単純に発想すると、企業活動は対外的な売上と、社内的な費用から成り立っていますが、一般に、費用の中には売上に連動する変動費が含まれているということもあり、収益を生んでいる企業においては費用の額よりも売上の額の方が大きいということもあり、売上の成長率の方が費用の成長率に比べて収益に与えるインパクトが遥かに大きいのです。したがって、これも単純化した発想ですが、社内に関連する、すなわち費用に関連する全ての予測よりも、対外的な、すなわち売上や戦略に関連する予測、すなわち成長予測が特に重要性を持つと考えます。

一般的な成長予測は「年%成長」と表現されるように、単純に「計算上の成長率の想定」と認識されることが多いのではないでしょうか。しかし、成長予測の本質は「近くの公園の野良猫は1年後、5年後に何匹になるだろうか。」「全国のサッカーのクラブチームは1年後、5年後にいくつになるだろうか。」「この街の人口は1年後、5年後、10年後どのような推移になるだろうか。」「インターネットの利用者数は1年後、5年後に何人になるだろうか。」などの質問について、現象を深く理解した上で導かれる社会的な洞察ではないかと思います。そして、一見雑多に見える多様な社会現象にも、ある一定の条件の下で特定の成長パターン、つまり「加速度成長モデル」が存在するのではないか、更にそのモデルは一般的に考えられているより相当一般的な現象なのではないか、と思うのです。

加速度成長モデル
一般的な成長イメージ、つまり経済成長のような「等速度成長モデル」と一般的な認識ではないが、意外に事例の多い「加速度成長モデル」。一見小さな相違のようですが、この二つのモデルは驚くほど異なる結果を生み出します。特に加速度成長モデルは次のようなイメージに近いと思います。

『ここに大きな紙があります。それを1回折りたたみ、更にそれをまた折りたたみ、最終的に50回折りたたむとします。こうして折りたたまれた紙はどれくらいの高さになるでしょう?…答えは、ほぼ太陽までの距離に相当する高さになるそうです。そして、更に重要なのは、ある意味当然ですが、49回折りたたんだ時点では太陽までの距離の半分のところまでしか積みあがっていないのです。』

実は成功といえる現象の多く、ひょっとしたら大半は、加速度を伴って実現することの方が一般的なのではないか、そしてその傾向自体も年々加速しているのではないかと思います。もしこの想定が正しければ、このようなイメージを持って行う経営とそうでない場合は、結果におのずと大きな差が生じることになります。

過小評価される成長イメージ
反面、経営戦略、シンクタンクなどの調査機関、あるいはSF作家のイマジネーションでさえ、未来のシナリオを描く際に想定する発展の速度は現在とほぼ同じ、あるいは少し速まるくらいと想定されることが一般的です。1950年代前半、権威ある科学者達は人間が月に到達するには少なくともまだ50年を要するだろうと予測しました。必要な科学技術の進歩はそれだけの時間を必要とすると考えたためです。実際はわずか15年、1969年7月20日にアポロ11号のニール・アームストロング船長が月に降り立ちます。彼らは科学技術の進歩が加速する効果を十分に勘案していなかったのです。

1950年にユニバック社が行った市場分析では、「予見できる未来」においてコンピューターが世界中で5台あればすべての需要を満たせるだろう、と結論付けています。数年後、IBM(当時はインターナショナル・ビジネス・マシーン社と呼ばれていました。)の創業者トム・ワトソンが成長しつつあったコンピューター市場を調査し、「市場が小さすぎて参入する価値がない」と判断した話は有名です(もちろん、その後この考えを修正し、現在のIBMがあります)。

その他、金融市場の発展(?)による企業上場の加速化、インターネットの爆発的成長、商品のライフサイクルの短期化、学校崩壊のスピード、M&A による企業統合のスピード、不動産流動化市場の加速度、などなど、加速度成長モデルが当てはまる現象の方がむしろ一般的なのではないかと思えるくらいです。

加速度成長モデルにおける臨界点と爆発的拡散現象
成果が大きく花開くとき、成し遂げようとするエネルギーと同じペースで結果がもたらされるとは全く限りません。よく「ブレイクする」という表現が使われますが、物事の成果は一見「ある日突然」「理由も分からずに」「爆発的に」生じることが少なくないのです。

1980年代から90年代初頭にかけてのニューヨークは犯罪が溢れていました。1990年が犯罪のピークで、僕が野村證券のニューヨークオフィスに赴任した1992年のニューヨーク市では2,154件の殺人事件、626,812件の重罪事件が発生しています。それが突然「何の前触れもなく」収束したのです。この後の5年間で殺人事件は64.3%減少し770件に、重罪事件は355,893件にほぼ半減しました。地下鉄では、1990年代の初めと終わりでは重罪事件の発生は75%も少なくなっています。もちろん市の治安対策や景気の向上など、要因となる社会的な変化は存在しましたが、状況が改善されるにつれて犯罪が徐々に減っていったわけではありません。激減したのです。この時期他の都市でも犯罪件数は減っています。しかし、これほど大きな落下現象を示した都市は他にありません。

シャープがアメリカで汎用ファクシミリを発売したのは1984年です。初年度の売上は全米で80,000台でした。それからファクスはビジネスの世界にじわじわ浸透し、1987年に1,000,000台の販売を記録し「ブレイク」、1989年には2,000,000台が販売されました。

最近注目度の高い北海道旭川市の旭山動物園では閉園の危機にさらされた1996年の入場者数は260,822人、その翌年から革新的な新規施設が徐々に追加され着実に入場者数を伸ばしますが、7年後の2003年には823,896人の入場者数で全国的に「ブレイク」。その後1,449,474人(2004年)、2,067,684人(2005年)、今年2006年には2,520,302人(約9ヶ月終了時点)で入場者数日本一の上野動物園を抜くと思われます。

セブン-イレブンの有名な高密度多店舗出店(ドミナント)戦略はこの現象を経営に応用している一例だと思います。セブン-イレブンの新しい地域への出店開始直後は、一店舗あたりの平均日販はあまり伸びません。その地域での店舗数が一定レベルまで増えると顧客の認知度や心理的な距離感がにわかに縮まり、日販のカーブが急速に立ち上がるようになります。セブン-イレブンがドミナント戦略を創業以来続けているのは、ひとつにはそうした現象を理解しているためです。1995年のセブン-イレブン大阪進出はこのよい事例です。大阪はダイエー系だったローソン(現在は三菱商事系)の地盤で圧倒的な強さを持っていました。大阪府内800店舗の陣容の前にセブン-イレブンも進出当時は業績が中々伸びず苦戦しましたが、その後300店舗を越えたあたりから集客力が急激に伸び始め、ついには関西地域でも一店舗あたり平均日販でトップになりました。

加速度成長モデルに基づく経営
このような加速度成長モデルが一般的な現象だという前提で、より合理的な企業経営は次のようなものだと考えられます。

第一に、従来の発想による進捗管理が意味を持たなくなるという可能性です。例えば、明らかなことですが、加速度成長を前提とするとき、10ヶ月で10の目標に対して毎月1/10づつ進捗を管理することには合理性がありません。もしも前述の「折り紙モデル」による成長率が達成されるときは、9ヶ月目5.0、8ヶ月目2.5、7ヶ月目1.25の進捗でしかないのです。

第二に、特に初期におけるプロジェクトの事業規模は殆ど問題ではなくなる可能性があります。イメージで言えば新たな加速度成長プロジェクトや事業を2人で開始することは、そのやり方次第で100人の事業に匹敵するという感じでしょうか。例えば、加速度成長モデルのプロジェクトが生み出すインパクトを、特に初期における事業規模で判断することは全く意味がありません。前述の等速度成長プロジェクトとの比較事例では、例えば5ヶ月終了時点で、等速度成長プロジェクト5に対して、加速度成長プロジェクトは僅か0.3125の進捗でしかなく、10ヵ月後には同等の成果、11ヵ月後にはその倍の成果を生じる可能性を秘めているにも拘らず、等速度成長プロジェクトに対して1/16の成果しか生んでいないと判断されることになります。逆に考えると、加速度成長プロジェクトが5ヶ月目終了時点で目標の1/32の事業規模であったとしても、等速成長プロジェクトよりも遥かに事業価値を持つ可能性があるのです。

第三に、新たな事業やプロジェクトにおいて、その規模や資本力よりも、加速度成長が生じるための「要素」を有しているかが重要なポイントになる可能性があります。そして、加速度成長が達成されるためには「要素の全てが揃っている」のではなく「余計な要素がないこと」が重要ではないかという気がしています。プロジェクトに要素を沢山付加することはその純度を低めてしまうため、本当に必要なものだけを残しその他を切り捨てる作業が重要性をもつのではないかと思います。このイメージはオセロゲームに似ています。コーナーを取得することができれば、ゲームの初期には圧倒的に負けているように見えても後半から猛烈に追い上げることができます。このためには、どれだけ多くコマを取るかよりも、どのコマを取るかが極めて重要になるのです。

第四に、これが最も重要な点だと思うのですが、大成功を前提として初期の事業やプロジェクトを構成することが非常に合理性を持つ可能性があります。もちろん100倍の売上を想定して初めから資本投下を行うという意味ではありません。例えば、非常に初期の頃から爆発的な成功を想定して資本構成を考えたり、税務申告や会計を整備したり、取締役の構成を十分に検討したりするイメージです。これは「成功のためのポジティブシンキング」という趣旨ではなく、加速成長モデルの事業環境を前提とした経営合理性の議論であると思います。

【2006.12.31 樋口耕太郎】

参考文献:
ピーター・ラッセル著『ホワイト・ホール・イン・タイム』。月面着陸やIBMの事例などはこの書籍からの引用です。人類と宇宙の進化についての本ですが、物理学とスピリチュアリティを進化という超長時間軸で融合させた、分析的かつインスピレーション溢れる内容です。今年僕が読んだ約250冊の本の中でブック・オブ・ザ・イヤーというべき一冊です。

マルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』。ニューヨークの犯罪、や米国シャープの事例はこの書籍からの引用です。爆発的な拡散現象がどのようなメカニズムによって生じるかの分析もなされています。

勝見明著『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」』。セブンイ-レブンのドミナント戦略に関する引用はこの書籍によります。

トリニティのサービス論(pdf)

前回までのエントリーで紹介した「顧客体験」という概念と、その概念を利用した「商品としてのサービス」の認識をベースに、これらを実際のサービス戦略にどのように応用するかというテーマでコメントしようと思います。戦略とは差別化するということでもありますので、本稿では差別化すべき対象、つまり世の中の「一般的なサービス戦略」との比較についてもコメントします。

「顧客のコメント」について
その前提として、「一般的なサービ戦略」の基礎となっている顧客満足度を評価する際に重要視される顧客のコメントやクレームについての考え方をご紹介します。始めに、「顧客体験」と「顧客の声」の違いについて触れたいと思います。サービス業において顧客の経験や満足度を理解する重要な「窓」として顧客が残すコメント、アンケート、クレームがあり(以下、「顧客のコメント」と総称します。)、一般に顧客満足度を評価するために重要な一次情報として利用されています。トリニティのサービス論では、商品としてのサービスを評価する際に、このような「顧客のコメント」よりも、「顧客体験」という考え方を優先しているのですが、その理由は両者とも顧客が経験したサービスを顧客の価値観で表現するという点においては共通しているものの、いくつかの重要な点において異なるためです。

第一に、コメントを残す顧客やクレームを起こす顧客は極めて例外的と言って良いほどの少数派であることです。ホテル業界では、ひとつのコメントの背後には同様の意見を持つ100人の顧客がいるといわれることがありますが、決して誇張ではないと思います。まして「小さい傷」を問題視してコメントに残す顧客は殆ど存在しないと思いますし、本人ですら自分の気持ちに気づかないことがむしろ一般的ではないでしょうか。

第二に、顧客は何に満足したかを正確に表現するとは限らないためです。サンマリーナホテルでの興味深い事例ですが、トリニティ経営を導入し経営的・人事的な仕組みの全てを構築し直し人間関係を最優先する運営を開始した後、従業員に対するコメントももちろんですが、その時点では殆ど目立った改装などを行っていなかったにも拘らず、「とてもきれいな施設ですね。」などのホテルのハードに対する好意的なコメントが急増した事実があります。また、レストランなどでも、顧客は食事の味自体よりも会話の楽しさや従業員を含むレストランの雰囲気の方が記憶に残る傾向があると思います。そして、このように楽しい時間を過ごしたレストランは「おいしいレストラン」と口コミで伝えられることになります。

第三に、同様にクレームはその内容自体に顧客の真意があるとは限りません。不満が生じた直接の原因よりも、従業員に感情を伝えやすい出来事をクレームのねたにすることが少なくないと思います。例えば、「トリニティのサービス論《前編》」でのカプリチョーザでの事例では、ラストオーダーの時間を間違えたことについて僕(顧客)が指摘をした、とレジの従業員は考えがちだと思いますが、僕の本心はラストオーダーの時間が合っていようとなかろうとお店の顧客に対する配慮の不足を伝えたかった、というようなことです。

もちろん「顧客のコメント」は顧客の満足度や感想を伝える重要なツールであり続けると思いますが、以上の特質を理解し、コメントの背後にある顧客の意図を感性で補いながら評価することでより正確なサービスの現状認識が行えるのではないかと思います。

「一般的なサービス戦略」
世の中のサービス戦略を一般化することは難しいので、代表的なパターンをやや断片的に列挙し、これを仮に「一般的なサービス戦略」とします。また、顧客との直接の接点を持つ現場の裏には、商品力、流通力、費用のコントロール、情報システムなど、縁の下の力持ちがきわめて重要な役割を果たすことが珍しくありませんが、ここでの論点では、顧客と企業の直接の接点に関するものごとに限定しました。また、セグメンテーション(顧客の属性を分類して販売に役立てる手法)やターゲティング(顧客の属性に対応した商品やサービスの提供を行う手法)などのマーケティング概念も、顧客と直接の接点を構成しないためこの論点では無視しています。

第一のパターンは、顧客にとって新鮮な驚きや感動を演出するサービスパッケージで、競合他社に先行・差別化し、かつ費用対効果が合理的な演出を継続的に更新する方法です。このパターンでは顧客にとって一般的ではないアイディアを常に提供する必要があります。例えばホテルでさりげなく用意する子供用の歯ブラシ、子供のネームが入ったお風呂スポンジ、話題の先端を行くアメニティ、シーズンごとのイベント、流行のメニュー・・・。

第二のパターンは、担当者の専門性を高度に磨くサービスパッケージです。例えば1万人の顧客の名前を覚えているコンシェルジュであったり、顧客の意図の先を読む配慮であったり、言葉遣いのトレーニングであったり、跪いてオーダーを取る教育などです。

第三のパターンは、「施設は永遠に完成しない」に象徴されるように、施設を常に追加・更新し顧客に対して新鮮な環境を提供するサービスパッケージです。業態のこまめな変更、定期的な改装、新型施設の導入などが該当し、多額の資本投下を伴うことが少なくありません。

これらのサービスパッケージを実現するために、現代の企業が投下している経営資源は、研修施設、その運営費用、講師やスタッフの人件費、受講する社員の機会損失、会議・ミーティング費用、サービスにかかる広告宣伝費、企画費用と人件費、サービスシステムの導入・運営費用、施設への継続投資、デザインやコンサルティングなどのソフトコスト、などが該当し、一般的な企業(特に大企業)において投下される費用は莫大なものです。

「一般的なサービス戦略」を顧客の観点から考える
以上を前提に、「一般的なサービス戦略」がどのような考え方で構成されているかをまとめると、①上記第一から第三のパターンによるサービスの向上に努め他社との差別化を図る、②その際多額の支出を積極的に行う、③顧客からのコメントは、このようなサービス戦略の進捗、現状把握、他社とのサービスの比較評価を行うために活用する、④ネガティブな顧客コメントやクレームをなくすることが重要な目標。一般的な企業は、このような考え方でサービスの差別化が達成されると認識しているのではないでしょうか。

サービス業の立場で考えると、スターバックスはタリーズやひょっとしたらドトールと競合していると考えるのが一般的だと思います。この考え方の前提は、競合とは顧客がコーヒーを飲みたいと考えたときに選択されるかどうかであり、逆の発想では、「コーヒーを飲みたい気持ちになった」人を競合戦略における対象顧客と認識していると思います。

反面、顧客の立場で考えると、まずコーヒーを飲むことを心に決める、第二にどこで飲むかを決める、という順位で意思決定を行うことはそれほど多くないのではないでしょうか。もちろん、コーヒーを飲むことを決めてからお店を選択する顧客も必ず存在しますし、このような顧客に限定して考えれば、上記のような発想でサービス戦略を構築することの合理性はあると思います。しかし、マーケット全体で考えた場合、特に潜在的な顧客もその概念に含めた場合(「マーケティングはどうなる?」を参照ください)、「コーヒーを飲む決断」は顧客の意思決定の上位には存在しないどころか、例外的ではないかと僕は疑っています。つまり、「コーヒーを飲む顧客がスターバックスを選択する」ケースよりも、「単に顧客がスターバックスを選択する」あるいは「スターバックスだからコーヒーを飲む」ケースの方が遥かに現象として大きい、特に潜在的な顧客(足跡を残さないウサギ)も含めると莫大な規模になるのではないでしょうか。

この考え方が仮に正しいとすると、「コーヒーを提供するプロセス」としてサービスを捕らえ差別化する戦略は、経営的に非効率である可能性が生まれます。例えばスターバックスが顧客コメントやクレームなどの反響で良い顧客満足度を達成し、他社(つまり他のコーヒーサービス)と差別化することができたとしても、(全体としての)顧客の立場ではこのような比較は意思決定に殆ど影響を与えていないかもしれないのです。そして、「コーヒーを飲む」意思決定が初めに来ない、莫大数の顧客が比較する対象は「顧客の日常体験」であり、サービス事業者が本来差別化すべきは、「顧客の日常体験」と「企業における顧客体験」である、すなわち実質的な意味で従来の概念による競合は存在しない、というのが僕の考え方です。

「一般的なサービス戦略」の現状
前二回のエントリーで「顧客体験」という概念を紹介しましたが、翻って考えると顧客の現代社会におけるサービス体験は過去30年悪化し続けていると思います。現代サービス業の一般的なサービスパッケージには、お金を払っているにも関わらず、物理的な対価(例えばコーヒー)と引き換えに、言われなく非難され、ウソをつかれ、質問を無視され、人間性を無視され、間抜け扱いされる顧客体験が含まれるところまで悪化してしまいました。あたかも「自尊心があるなら消費するな」と罵倒されながらも泣く泣く消費を行っているようなものです(「トリニティのサービス論《前編》」を参照ください。)。外出から自宅に帰ってくるとどっと疲労感を感じるのは無理もない気がします。

反面、「顧客の日常体験」すなわち学校や職場や友人関係や家族との人間関係では、サービスの現場で経験するような、小さいけれどもこれほど傷だらの経験をするものでしょうか。もちろん大きな個人差はありますし、生活環境によっても多大な差がありますし、社会全体としてもこのような「顧客の日常体験」は急速に悪化する傾向にあります。「夫婦喧嘩で家を飛び出して、スターバックスで一息つく」などというパターンでは、企業での「顧客体験」が「顧客の日常体験」に比較して差別化されていることになります。しかし、概して現代のサービス業が提供しているサービスパッケージ(企業における「顧客体験」)は「顧客の日常体験」と比較してどんどん悪化しており、差別化するどころか現状は乖離し続けているように思えます。(本稿の主題ではありませんが、現代社会では「顧客の日常体験」もどんどん悪化しています。一例として「所有することの価値」をご参照ください。しかし、それ以上に企業との顧客体験が悪化しているというイメージです。)

これに対して企業の現状は、①潜在的な顧客(足跡を残さないウサギ)をほぼ無視して、矮小化された顧客群(まずコーヒーを飲むことを決めた顧客)を前提に、サービス戦略を構築する、②矮小化された(「顧客体験」の概念を無視した)サービスを競合他社から差別化するために、莫大な経営資源を投下する、・・・というサービス戦略を突き進んでいるように見えます。しかしながら、企業が莫大な経営資源を投下して向上しようとしているサービス戦略は、顧客の購買行動において、本来差別化するべき「顧客の日常体験」との格差を縮小する機能をあまり果たしていないため、実質的な戦略として非常に非効率である可能性があるのです。

戦略としてのサービス
トリニティのサービス論において、このように一見エキセントリックとも思えるほど厳格な現状認識のアプローチを取る理由は、第一にそれが現実であることと、第二にこのような現状認識が著しく経営効率を高めるからです。

トリニティのサービス論では「顧客の日常体験」と比較した、企業における「顧客体験」の向上が、最も重要なサービス戦略の目的だと考えます。例えば、特別な「サービス」を付加する努力よりも、顧客を非難したり、馬鹿にしたり、無視したり、ウソをついたりしないこと、そしてその仕組みを企業で構築し組織的に運用することが経営的に最も効率の高いサービス戦略だという考えです。

この戦略の利点は、①「一般的なサービス戦略」が要求する莫大な経営資源の投下が殆ど不要になり、資本効率が著しく高まります。②莫大な潜在顧客にアクセスすることが可能になり、営業効率を著しく高めます。③そして恐らく最も重要なことですが、企業との「顧客体験」も「顧客の日常体験」の一部を構成しますので、「顧客体験」をよりよいものにすることで、「顧客の日常体験」、つまりささやかながら顧客の人生そのもの、をより良いものにする直接の役に立ちます。

仮に以上の前提が正しいとき、皆さんがサービス業の経営者であったら、どのようにしてこの戦略を実行・運用しますか?

【2006.12.25 樋口耕太郎】

ホテル事業という生態系・生態系を理解する(pdf)

オフィス近くのウォーキングコースは安良波(アラハ)ビーチ、サンセットビーチを通って美浜アメリカンビレッジの海岸沿いの防波堤を現在開発中のフィッシャリーナ地区まで抜ける往復およそ5キロのルート。毎日表情が違う西海岸名物のサンセットを見ながらのウォーキングは僕の大好きな日課のひとつです。

テラスレストランとノボリ
このルートは国民年金健康センター「サンセット美浜」のすぐ横を通ります。この施設は第三セクターが経営する(恐らく)複合リゾートで、美浜と言う抜群のロケーションの海岸沿いざっと1万坪くらいの敷地に、プール、テニスコート、レストラン、会議室、宿泊施設を備えた多目的な建物です。特にプールには長さ100mと35mの2本のウォータースライダーが設置され遠目にも迫力満点でシーズン中は地元の家族連れにも大人気。宿泊施設はこの広大な施設にわずか21室と、民間プロジェクトでは決して叶わない贅沢さです(皮肉ではないです、念のため)。海岸の防波堤に視界を遮られない2階のレストランは、西海岸に面した広めのテラスが売り物のひとつで、視界一面の水平線と、夕暮れ時にはすばらしいサンセットを見ながらカクテルを・・・といったことが似合いそうな雰囲気。テラスにはガーデンチェアとパラソルがセットしてあってなかなかの感じです。

先日のウォーキングのこと、テラスレストランにふと目をやると、昨日まではなかったノボリのようなものが三本四本・・・。ノボリの文字を読んでみると「年末年始の宴会受付中」という内容でした。ノボリに罪はないのですが、それにしてもこのロケーションの、このセッティングの、レストランの一番眺めのよいテラスに林立するカラフルなノボリ(確か三色ありました)・・・。

僕の目には確かに違和感のある光景でしたが、半官半民施設では特段珍しいことでもないと思います。このような状態に対して「だから親方日の丸は商売意識が薄い」とか「民間の競争原理が働いていない」とか揶揄されることが一般的なのかもしれませんが、通り一遍の批判よりも、例えば自分がサンセット美浜の経営者だったらどのような行動をとるだろうかと考えることで建設的な意識の使い方ができると思います。

マイクロ・マネジメントによる対応
「あなたが経営者だったらどう対応するか?」というテーマに対して、大方の人はノボリの撤去を指示するところからはじめるのではないでしょうか。実際僕もサンマリーナホテルで同じような対応をした経験があります。それどころか、どうせやるなら徹底的に実行しようと思い、まずアシスタントを伴って自ら全館をくまなく回り、客室、基本設備、廊下、公共スペース、屋外、宴会場、レストラン、海浜、調理場などなどのロケーション別にこのような「ノボリ撤去」の作業リストをこと細かく特定してデータベースの作成を指示しました。具体的には物品の撤去、レイアウトの変更、備品の移動、色の塗り替え、修理・取替え、デザインの変更などを指示する内容で、第一次リストだけでも150項目くらいあったと思います(その後第二次、第三次・・・とリストが追加されていく仕組みです)。そしてそれぞれの項目ごとに詳細なワークオーダーシートを作成し、そのシートには現場のデジタル写真、責任者の名前、作業に必要なコスト、対応期限を特定しました。作業費用の支出の際に現場が混乱しないように運営予算との整合をとり、ワークオーダーシートの当初見積もりの範囲内であれば年間の運営予算に影響を与えないよう調整を加えました。またプロセス管理として、このデータベースを幹部職員で共有し、ワークオーダーシートには現場からの進捗の報告、経営からのコメント、責任者の承認欄を設け稟議形式で回覧しました。

この管理方法を設計し、実行に移した時は内心満足感を感じたものです。これだけの作業を短期間で構築し、自分のイメージどおりに管理が進み、あとは一つ一つ改善されるのをチェックしていくばかり…。少なくとも理論上は、作業内容、作業場所、責任者、予算、期限がきちんと特定されており、その進捗を管理する仕組みが出来上がっているので、全く問題なく作業が完了するはずでした。

アトリウムの窓
150もの作業がリストアップされているものの大半は問題なく消化されていきます。ところが事業の生態系はそれほど単純なものではありませんでした。ワークオーダーの中でもっとも容易と思われた作業のひとつに「アトリウムに面しているレストランの窓を常時開放するように」という項目がありました。レストランの窓際の席にお客様が座ったときに、アトリウムの空気が直接感じられた方が開放感があるのではないかと僕が思ったのです。今考えると特段重要な指示だとも思えないのですが、当時は個人的な趣味もあり、ホテル全体のイメージチェンジのスタートラインであるという気負いもあり、むしろこのようなことからきちんと実行してほしいと強く感じていました。ワークオーダーシートの稟議の承認も完了し、現場にはその方針が伝わっているはずです。

ところが、何日たってもなかなかイメージどおりに開放された状態にならないのです。時には窓が閉まっていたり、開放しているときでも完全に開放されていなかったり、時間によって、あるいは従業員のシフトによって状況がまちまちです。直接指示するのも大人気ないような気がしましたが、こだわりもあったため直接現場に指示をしたり、それでも改善されないので責任者を通じて連絡したり。結局この窓が完全に常時開放状態になるまでおよそ4週間かかりました。

生態系を理解する
僕にとってこの「アトリウムの窓事件」はなかなかの衝撃でした。少なくとも自分がやろうとしていることの何かが根本的に間違っているのだとはっきり感じました。そして窓を開放するという単純な作業が組織においてなぜこれほど難しいのか考えはじめました。ホテルは長時間体制で仕事をしていますので、大体2~3つのシフトに別れています。加えて全従業員のおおよそ1/3~1/4は常にお休みを取っていますので、どのような情報でも伝達するまでに時間がかかるということもあります。しかし最も重要な点は、従業員には従業員の事情があるということです。例えば、窓を開放していると、夕方のアトリウムでの演奏時間には食事をしているお客様の会話がしにくくなったり、アトリウムから風が不必要に吹き込んだり、清掃の後にはうっすらと塩素のにおいがしたり…、その割には窓を開けた開放感といっても知れている、という判断が働いているのです。

つまり、窓が開放されない原因は「従業員のお客様に対する思いやり」だったのです。そのような事情(生態系)を知らない僕は、現場に対してお客様へ不自由を強いる趣旨の指示をしたのみならず、データベースとプロセス管理によって従業員の行動を監視し、更には自らの行動(指示)によって「お客様への思いやりよりも上司からの指示を優先するように」という実質的なメッセージを4週間にわたって伝え続けていたということになります。

サンセット美浜の従業員も「商売意識が薄いから」ノボリを立てたのではなく、商業意識によって、その質はともかくも、売上を少しでも上げたいという責任感においてノボリを立てていたのかもしれないのです。

生態系のメカニズム
以上の前提で、現場のメカニズムについての僕の仮説は次のとおりです。たとえば「窓が閉まっている」、「ノボリが立っている」という問題が起こると、私たちはすぐに「窓を閉めるために何をしたら良いか」あるいは「ノボリを撤去するべき」という解決策を考えようとしがちです。この問題は氷山にたとえると海水面の上に見えている先端部分「できごと」です。水面上に見えている「できごと」は生態系のほんの一部であって、その下には「行動パターン」があります。「夕方以降のシフトでは窓が閉まりがち」といったことです。そしてこの「行動パターン」を生み出すのが「構造」です。たとえば、夕方以降窓が閉まりがちなのはアトリウムで音楽の演奏があること、またその音がレストランに響くなどといったことです。そして、以上の前提として意識・無意識レベルの価値観、すなわち「お客様が心地よい環境を提供するために心配りをしたい」という従業員の気持ちが存在するのです。

さて、テラスレストランのノボリの件、「あなたが経営者だったらどう対応しますか?」

【2006.12.4 樋口耕太郎】

「トリニティのサービス論《前編》」では、サービス提供者の事情を勘案しない「顧客体験」が商品としてのサービスである、という考え方を紹介しました。「顧客体験」は意外に掘り下げがいのあるテーマですのでこれを補足したいと思います。

ディズニーでの「顧客体験」
1年以上前になりますが、東京ディズニーランドに行った際の個人的な「顧客体験」をご紹介します。当時6歳3歳の子供を連れて3人でディズニーシーに行った時のことです。週末だったので非常識なくらい混んでいました。

ランチタイムのレストランはどこも凄い混みようなのですが、小さい子供が一緒のときはあまり食事の時間をずらすことができません。食事の内容は二の次三の次で少しでも混み具合が少なそうなところを選んで、カフェテリア方式のチャイニーズレストランに入りました。運よくというか悪くというか、このタイミングで雨が降り始めたのでレストランは更に混雑の度合いを増すのですが、子供をつれている僕は他に移動するという選択肢も実質的になくなりました。列に並び始めてから間もなく、小さい方の子供が寝てしまいます。この時の僕の作戦は、①下の子を寝かせておける席を確保する、②三人分の食事を取って、起きている二人(上の子と僕)だけでゆっくり食事を済ませる、③下の子が起きるまで食事をしながらのんびり待つ、④下の子が起きた時点で彼の食事を済ませてからテーマパークに復帰、ということに決めました。

作戦は決まったのですが、実行するのはそれほど容易ではありません。寝てしまった下の子を片手で抱いて、三人分の食事をトレー(二つです!)で取り、支払を済ませ、子供を寝かせながら長い間時間をつぶせる条件が揃った座席を、激混みの中で確保するのは神業に近いものがあります。レジでもたもたしているうちに僕の後ろには怒りの視線を投げかける沢山のお客さんの列ができていました。空腹、疲労、混雑、雨、レジの渋滞、が重なる状態では皆が怒るのも無理はない感じです。

そのとき、レストランの担当の女性が僕のところに来てくれて、トレーを持ち「お席までご案内します。」と声をかけながら席まで先導してくれました。笑顔「マル」、言葉遣い「マル」、タイミング「マル」、トレーを持つ機転「マル」。恐らくこの女性は人事考課も高評価ではないかと思います。実際手を貸していただいてとても助かりました。

…それにも拘らず僕の「顧客体験」は落胆したものでした。小さく傷ついたといったら大げさでしょうか。なぜなら、彼女の優しい言動とは裏腹に「列を先に進ませたい」という本当の意図がはっきり理解できたからです。目に見える全ての「サービス」は非の打ち所がありませんし、恐らく彼女は人間的にも優しい人で、僕にも善意で接してくれたと思うのですが、不思議なことにどんなに態度が丁寧でも、顧客には裏腹の真意が分かるものなのです。そして皮肉なことに、彼女の言動は顧客への親切心であり、会社に対する彼女の誠意でもあり、列の後ろに並んでいた他のお客様への配慮でもあり、従業員として当然の行動でもあるのです。

感じ方には個人差がありますので、僕の感覚が一般的ではないという可能性は大いにあります(というより珍しくありません)が、ここでは僕の感覚が一般化できると仮定してお読みいただきたいと思います。その前提で、なぜ彼女の善意が顧客を傷つけるのでしょう?僕の考えでは、彼女は僕に対して思いやりを「目的」ではなく「手段」として利用したからだと思います。列をスムーズに進ませるという、彼女の本当の、かつ隠れた目的を達成するために、「思いやりの言動」を手段として僕を先導したのです。つまり、彼女は意図とせず(というより何の疑いも持たず)に僕にウソをついているのです。それに気がついた瞬間、テーマパーク全体の「演出された優しさ」を感じてしまい、とても気持ちが醒めてしまいました。

「顧客体験」の経営科学
このような出来事は実に「取るに足らないこと」です。それどころか一般的には「ディズニーで経験した丁寧なサービスの話」以外の何ものでもありません。このような「小さな傷」について言及するのは大人気ないことですし、こんなことをいちいち人に話すと偏屈に聞こえます。「じゃあ、どうしたいの?」といわれるのがオチでしょう。現実的にもサービス業でこれほどの対応をしてくれるところは多くありませんので、企業の立場としては彼女のサービスに文句をつけられたら「そんな無茶な」と感じるに違いありません。顧客の立場でも「小さく傷ついた」といってもこれを理由にクレームする顧客はまず存在しないと思います(そもそもクレームしようとしても企業に落ち度はありませんので、言いがかりにしか聞こえないと思います)。要は、社会の中では少なくとも表面上、誰も問題にしていないのです。

反面、「誰も言及しない顧客の小さな傷」は明らかに現象として存在しています。それどころか同様の「顧客体験」はびっくりするほど一般的かつ頻繁に生じているのではないでしょうか。サービス担当者や企業が顧客に対してウソをつくことは、あまりに一般的な現象になっているため、顧客にとって所与のものになっているかのようです。言葉と笑顔はとても丁寧だが、なぜか優しさが感じられないスチュワーデスやホテルの対応…。本心が違うのに無理に思いやりを(善意で)演出するサービス担当を見ると、こちらが気が引けるくらいです。サービス業の常識では、「心で泣いても顧客への誠意として笑顔を見せるのがプロ」だとされているようですが、僕はこの考え方の経営合理性に疑いを持っています。

ディズニーでの出来事を経営的に分析すると、次のようなポイントがあげられると思います。①彼女の、表面上すなわち目に見える全ての現象は非の打ち所がありません。②したがって従来の人事考課方法では必ず高評価になります。③同様に、クレームが発生する余地はほぼありません。それどころか一定数の顧客を感動させると思います。④反面、トリニティのサービス論の考え方に基づくと、彼女が実質的に顧客に伝えているメッセージは、「顧客の気持ちを最優先しなくてもよい」、「顧客をロジスティクス(物流)の対象としても構わない」、「優しい言葉と態度を見かけの手段として、別の目的を達成しようとしても構わない。」ということになります。

現代サービスの現場
とても厄介なことに、このようなケースでは顧客体験が感動を伴うものになるか落胆したものになるかはサービスの「外見」からは全く区別がつきません。つまり見かけが全く同じ(少なくともそう見えます)でありながら、根本的に正反対の顧客体験を提供する「商品としてのサービス」が現場に混在しているということになります。そして、世の中で優れたサービスを提供するといわれている企業ほど、この区別が非常につきにくくなっています。逆の発想では、世の中で良いとされるサービスとは、この区別を極限までなくす作業と考えることもできます。この前提では、現代経営における「優れたサービス」は「顧客体験」を向上するためではなく、このような区別を「うまく隠す」ための作業であり、その作業に莫大な経営資源を割いている可能性が示唆されます。そしてこの区別を隠すことができれば、少なくとも表面上非の打ち所のないサービスが提供され、企業の「本心」(例えばロジスティクスの効率化)が顧客にはっきり伝わらない限りにおいて顧客を感動させ、クレームは皆無になり、アンケートによる「顧客満足度」は向上します。皮肉なことですが、この区別が少なくなるほど、つまり「優れた」サービスを提供するほど、表面上の優しい言動と本心の乖離が大きくなります。不機嫌な気持ちで不機嫌な態度をとるよりも、本心と異なる丁寧な態度をとる方が、言動と本心の乖離が大きいということです。これはもちろんサービス担当者の善意と誠意と熱意の結果なのですが、現象として顧客に対するウソを拡大するという効果を生んでいます。

仮にこのような現状認識を前提とすると、一般的な現代のサービス業の経営は、①顧客の小さな心の傷は所与のものとして無視する、②サービス担当者の本心と言動の乖離に気づかない顧客を、主に顧客満足度向上の対象とする、③企業はこのような対象顧客に対して、サービス担当者の(必ずしも意図と一致しない)「言動」をより良いものにするように努める。④このとき従業員の心の在りかについては評価の方法などがないため経営システム上おおよそ無視する。⑤以上の事業目的に沿った従業員のトレーニングを行う、⑤本心と乖離した「言動」をカバーするため、あるいは他社と差別化を行うため、新たなサービスの仕組みを常に付加する、⑥以上の結果として「対象顧客」の満足度が向上し、クレームが減少する。

前回と同様の繰り返しになりますが、以上は非難でも中傷でも、批判ですらありません。ひとつの現状認識のアプローチに過ぎません。上記の考え方が仮に正しかったとしても、現在のサービス業のシステムが次善の策であることには変わりありませんし、事業として大きな効果があることは明らかです。

さて、以上のような現状認識はあまりに非現実的で意味を成さないものでしょうか?このような現状認識を前提とすると、経営の課題は今までと変わるでしょうか?経営はこのような課題にどう対処することができるでしょうか?次回のエントリーはこれまでの議論を前提としたサービス戦略についてです。

【2006.12.23 樋口耕太郎】

サービス理論というものが経営科学の分野で存在するかどうか詳しく把握していないのですが、少なくともあまり一般的であるとはいえないと思います。しかし、これだけ社会的にサービス業の比率が高まり(現在日本のGDPの約70%はサービス業によります)、人々の生活に決定的な影響を与えるようになっている中、サービス理論がきちんとまとまっていないことは意外なことだと以前から感じていました。本稿ではトリニティのユニークなサービス論をご紹介します。まずは、最近の個人的な経験から。以下の、事例はいずれも過去2週間以内の出来事で、日常的にそれほど珍しいことではありません。

先日車を当て逃げされてしまったので、東京海上日動に電話をかけました
僕: 「自宅前の駐車場で、当て逃げをされてしまったようなのでご連絡しています。」
保険の受付担当: 「それは、大変でございました。警察へ被害届はなされましたでしょうか。」
僕: 「いいえ、まず先に御社にご連絡しています。」
保: 「あーっと、まだされていない・・・(「なんで先にしていないのか」という非難めいたトーン)。それでは、この後できるだけ早く被害届をなされてください。」
僕: 「分かりました。警察に被害届をした際に、何か控えなどを頂いておく必要がありますか?」
保: 「それは警察の作業ですので、こちらでは分かりかねます。」
僕: 「えっと・・・、そういう意味ではなくて、後に保険の処理を行う際に御社が必要とされるものがないかをお聞きしたかったのですが。」
保: 「それにつきましては、後ほど担当のものがご連絡いたしますので、その際にお尋ねください。」
僕: 「警察への被害届はその後でいいのですか?」
保: 「ですから・・・、警察へはできるだけすぐにお届けください。」
僕: 「あの・・・、繰り返しで申し訳ないのですが、その際、御社が保険の支払を行うために何か必要な資料など、警察から発行していただくようなものがあるのかどうか、ご存じないでしょうか?」
保: 「お客様。警察での手続きは私では分かりかねます。」

*     *     *     *     *

保険会社の担当者: 「今回担当させて頂きます○○です。始めにお断りする必要があるのですが、当て逃げで保険をご利用される場合、次回からトウキュウが下がってしまいますので、この点ご了承ください。」
僕: 「?」
保: 「お客様、ご了承いただけますでしょうか?」
僕: 「すみません、おっしゃっていることをご説明いただけますでしょうか。」
保: 「お客様は現在7等級でございますが、今回保険をご利用になりますと3等級下がってしまうということをご了承頂く必要があります。」
僕: 「あの、等級とおっしゃるのは年間保険料金の基準になっているものでしょうか?3等級下がると次回からの年間保険料はいくら上がるかご存知ですか?」
保: 「お調べして折り返しお電話差し上げます。」

週末はカプリチョーザで食事をしました
ウェイトレス: (ウェイトレスは跪いてオーダーを受ける。)「・・・それではご注文を繰り返します。トマトとガーリックのパスタ・・・。以上でよろしいでしょうか。」
僕: 「はい」
(その後注文は間違ってサービングされる)

*     *     *     *     *

ウ: 「ラストオーダーです。何か追加でご注文はございませんか?」
僕: 「いいえ、結構です。」
ウ: 「ポイントカードをお持ちでしたらお預かりいたしします。お支払は現金でよろしいでしょうか。」
僕: 「現金でお願いします。」(ポイントカードを差し出す)
ウ: 「お預かりいたします。ごゆっくりどうぞ。」
(この時点は10:30pm。メニューでラストオーダーの時間を確認すると11:00pm。お店のドアにはなぜか「ラストオーダー10:30pm」とある。その後は従業員一丸となって片付けを始める。食器を片付けるものすごい音。水の追加やその他ウェイトレスにお願いしたいことがあっても殆ど関心を示さない。)

*     *     *     *     *

(レジにて)僕: 「ラストオーダーは11時ではないんでしょうか?片付けの音がうるさくて楽しく食事をする気分ではなくなってしまいました。」
ウ: 「えっ。ラストオーダーは10時半です。」
僕: 「メニューには11時と書いてありましたよ。」
ウ: 「メニューにそう書いていますか?そんな筈はありません。」(メニューを確認し始める)
僕: 「メニューを確認していただく必要はありません。ラストオーダーが何時であろうと、食事中にお勘定の話しをされたり、とても騒々しい雰囲気で片づけを始められたり、それ以降は顧客にも全く注意を払わずに、ちょっとひどいと思いますよ。「ごゆっくり」なんて言葉だけのサービスはおやめになったらいかがですか?」

*     *     *     *     *

ウ: (そしておつりの受け渡しは最近チェーン店ではお決まりのパターン・・・。レジの向こうで確認のために二回お札を数える。その後、)「お客様、ご確認ください。始めに大きい方から、1千、2千、3千円と・・・」(結局僕はウェイトレスが3回お札を数えるのを見ることになりました。)

ミスドで深夜のおやつを調達…
僕: (トレーにドーナッツを2つ取りレジへ。時間は11:30pm。お店の営業時間は12時まで。)「これと、ホットカフェオレをお願いします。」
店員さん: 「これからの時間はお持ち帰りのみになりますがよろしいでしょうか?あと、ホットカフェオレは本日終了してしまいました。」
僕: 「・・・」

カフェ・ラテのないスタバ?
僕: 「ホットのカフェラテをショートでお願いします。」
店員さん: 「お客様、スターバックス・ラテになりますがよろしいでしょうか?」
僕: 「・・・」
店: 「商品はあちらの黄色いランプの下からお出しします。」
(僕はこの時、このスタバをほぼ毎日、1ヶ月間以上利用していましたので、この店員も含めてほぼ全従業員は僕の顔を何度も見ています。)
僕: 「・・・」

現代の「サービス」
上記は僕の日常的なサービス体験ですが決して特別な事例ではありません。毎日毎日どこに行ってもほぼ例外なく、多かれ少なかれ似たような経験をするのです。確かにどれも小さなことばかりといえば全くその通りで、いちいち目くじらを立てる方が大人気ないようなものばかりです。

反面、一般的な社会生活で、このような不可思議な「サービス」を経験せずに消費することは、いつの間にかとても難しくなっていることに気がつきます。僕の質問を普通に聞いてくれる保険のオペレーター、一回伝えただけでオーダーを理解してくれるウェイトレス/ウェイター、お釣りのお札を三回確認せずに食事ができるレストラン、営業時間が本当に営業時間のお店、自分のオーダーの意味を普通に理解してくれるコーヒーショップは、現代社会では臨むことのできない贅沢になってしまったようです。このような企業と消費者との掛け合い(というよりも、僕は企業の暴力に近いと感じるのですが)があまりに日常茶飯になっているので、消費者も今ではすっかり麻痺してしまい、「それが当たり前」と妙に納得していて、これらの事例が「おかしい」とすら感じない人もいる筈です。また、疑問を感じている人もあきらめてしまっているように見えます。

上記の「サービス」の事例で明らかに共通していることは、従業員の意図はどうあれ、少なくとも現象として「誰も顧客のことを気にかけていない」ということでしょう。

サービスってなんだ?
サービス事業において、第一に明らかにすべきものは「企業が提供しているサービスは何か」、すなわち「その企業の商品が何か」ということだと思います。サービス業は無形の人間関係を商品化する業態ですので、その商品を定義することは容易ではないかもしれませんが、それにしても、これほどサービス業が現代社会で中心的な役割を果たしていることを考えると、肝心の「商品」であるサービスがなにか、そして商品をどのように評価・把握するか、という点はびっくりするほど曖昧です。すなわち、多くのサービス企業は自社商品がなにかをはっきり把握していないように見えるのです。そして、商品としてのサービスが曖昧であれば、「良いサービス」についての基準も曖昧にならざるを得ません。漠然と「儲かっている会社のサービスが良いサービス」と認識されているのが現状ではないでしょうか。

サービスとは何か?という基本的な問いに対する回答は、少なくとも二つのアプローチが可能です。サービスの提供者(企業)が定義するサービスと、顧客が現場で感じるサービスです。そして現状は、商品としてのサービスは殆どの場合、前者、つまり企業が定義しているものによると思います。例えば、スターバックスでは「affordable luxury」がサービスの重要なコンセプトになっていますが、スターバックスでは単にコーヒーを提供するのではなく、顧客にとって「手に届く贅沢を経験する場」である、という考え方をするためです。そして、スターバックスの商品としてのサービスは、顧客のこのような経験であると考えられています。

トリニティのサービス論
トリニティのサービス論における「商品としてのサービス」の定義は、後者のアプローチ(顧客が現場で感じるサービス)に基づいています。すなわち企業としての目的とは全く切り離された「顧客の経験」を商品として把握・認識します。したがって、トリニティのサービス論では、その良し悪しを問わず、企業やサービス担当者が顧客に対して行った行動と、顧客に向けられた意図によって実質的に伝達されるメッセージを素直に解釈します。

解釈のポイントは、①企業やサービス担当者がどのような事情でサービスを提供したかは一切勘案しません。②企業やサービス担当者が行った行動を重要視し、一連の行動は一般的に解釈するとどのような意味をもつか、したがってどのような意味を伝達するかを検討します。③企業やサービス提供者の行動と意図が異なる場合は、いずれか企業側の利害となるメッセージが顧客に伝達されると仮定します。④企業やサービス担当者の行動と意図と言葉に矛盾がある場合、企業のウソが顧客に伝達されると考えます。

顧客体験をイメージするときは、それがあたかも商売と全く関係のない普通の人間関係でなされたものと想像するとインスピレーションが沸きやすいかも知れません。自分の友人や恋人などから同じ言葉や態度が発せられたとしたらどう感じるかを想像するのです。

以上の前提で前述の企業の「商品としてのサービス」を評価すると例えば以下のようになります。

東京海上日動:
担当者は決まり文句のように「それは大変でございました」と応対した後、「なぜ始めに警察に届け出ていないか」と顧客の初期動作を実質的に批判しています。その根拠は、顧客が保険加入時に「熟読するべき」と指示されたパンフレットに、「事故の際には至急警察に届けよ」と記載されているためだと思われます。反面、顧客はある意味信頼感の表れとして、第一に保険会社に連絡しています。保険の受付担当者は自分が顧客に指示している警察への被害届の詳しい内容を理解していません。また、被害届に関して自社が必要とする資料を理解していません。反面、その事実を実質的に隠すことで顧客にウソをついています。また、保険料の基準となる等級に関する説明は、顧客に理解させるためというよりも、説明を行ったという既成事実を作ることが目的のようです。したがって、その等級の変化による費用の差額が顧客にとって最も重要な情報であるにもかかわらず、それを顧客に提供することはいわれなければ関心がありません。

この行動によって、東京海上日動が消費者に伝えているメッセージは、「企業は自分の商品を知らなくても構わないし、知らないという事実を隠しても構わないが、顧客はそれを知らなければ非難の対象になる。」「顧客の企業に対する信頼感よりも、つつがなく自分の事務処理を進めるほうが重要である。」「顧客に言葉では思いやりを伝えながら、行動で裏切ることは全く構わない。」「顧客の質問にきちんと回答することには関心がない。」「顧客の手間や不安を減らすことには関心がない。」「顧客に有益な情報を提供するよりも、将来クレームが起こらないための連絡を行い既成事実を作ることが重要。」

カプリチョーザ:
ウェイトレスは跪いてオーダーを受けたあと、少数のオーダーを敢えて繰り返していますが、その後注文は間違ってサービングされます。ラストオーダーの時間が経過した後は、跪いてオーダーを取っていた先ほどの雰囲気は消滅し、顧客が食事中であろうと精算作業(の一部)を要求します。その後お水の追加など、実質的なサービスは全面停止します。厨房では食器の片付けるものすごい音に対する気遣いはありません。以上と同時にウェイトレスは顧客に「ごゆっくりどうぞ。」と声をかけています。レジではラストオーダーの時刻に対する指摘に対して、顧客に謝ることよりも先に自分が正しいという証拠を示すためにメニューを確認し始めます。おつりのお札を渡す際、実質的に顧客へ3回確認を強制しています。

この行動によって、カプリチョーザが消費者に伝えているメッセージは、「顧客に言葉や態度で思いやりを伝えながら、実質的な行動で裏切ることは全く構わない。」「顧客にウソをついても構わない」「顧客はラストオーダーの時間まで顧客として接するが、それ以降は全く関心を払わなくて構わない。」「優しい言葉をかけてさえいれば、時間を過ぎた後は顧客に早く帰るようにプレッシャーをかけても構わない。」「顧客の気持ちよりも自分が間違っていないことの方が重要である。」「顧客は3回お札を数えなければクレームを起こすかもしれない。あるいは、3回お札を数えなければ枚数を正確に数えられない、と企業は考えている。」

ミスタードーナツ:
営業時間終了の30分前になると、顧客が店内で食事をすることを実質的に拒否しています。売れ残りが生じると思われる商品(ホットカフェオレ)については、新たに作ることを拒否しています。

この行動によって、ミスタードーナツが消費者に伝えているメッセージは、「実質的な営業時間に関して、顧客にウソをついても構わない。」「商品の売れ残りと廃棄は顧客にウソをついても避けるべき。」

スターバックス:
誰が考えても同じものだと思えるメニューの名前を(カフェラテ)、正確な商品名で呼び直しています。また、何度も来店している顧客に対して、明らかに一度言えば理解できることを来店のたびに何度でも繰り返しています。

この行動によって、スターバックスが消費者に伝えているメッセージは、「顧客は商品名を正しく理解しなければならない。」「何度来店しようが、あなたには関心がない。」

トリニティのサービス論による現状把握
これらが上記企業の、少なくとも特定のケースにおける「商品としてのサービス」です。冗談みたいに聞こえますが、そのサービス・パッケージには、お金を払っているにも関わらず、言われなく非難され、ウソをつかれ、質問を無視され、人間性を無視され、間抜け扱いされる顧客体験が含まれています。そしてサービスはあまねく個別の体験であるため、この「サービス」は特定のケースではありながら厳然と企業が販売した「商品パッケージ」であると思います。

このように考えると、ひょっとしたら一般的なサービス業の現状は、たまたま(例えば)99%の顧客が声を上げていないだけで、「自尊心が少しでもあるなら消費するな」と顧客にいわんばかり(というより、それ自体が実質的なメッセージ) の状態なのではないでしょうか。素直に解釈すると、サービス業の現状はサービス担当者と顧客の人間関係によって付加価値を生むどころか、サービス担当者の提供する「サービス」が、物理的な商品(例えばコーヒーやドーナツ)の価値を減価させる最大の要因となっている可能性があります。顧客はこのような自尊心にかかる障害を乗り越えて購買行動を起こしており、その姿はまるで鮭の川登りのような悲壮感があります。傷つき障害を乗り越えて実際の購買にたどり着く顧客は氷山の一角であるかもしれない、という仮説が俄然現実味を帯びてくるような気がします。反面、サービス担当者が物理的な商品を減価させている大きな要因だとするならば、企業の立場としても従業員に関心を払うよりも、店舗や特典やサービスの仕組みづくりにお金とアイディアを集中させたほうが合理的と考えてもそれは全く当然のことで、これは仮説ですがこのようにしてサービス業の悪循環が生じているのではないでしょうか。

トリニティのサービス論の考え方
念のためにコメントしますが、以上は非難でも中傷でもありません。企業には経営上の物理的な制約がありますし、そのような現象が起こる事情も理解できます。ここでの論点は「問題発見」ではなく、あくまで「現状認識」なのです。そして現状認識はトラブルシューティングのツールでもありながら同時にその何倍もの意味で最大のマーケティングであり攻撃的な経営作業になり得ます。例えば、これが仮に事実であれば、これほどのグッド・ニュースはないと思います。企業が大量のコストをかけて新たな顧客を探すまでもなく、企業とニアミスを起こしていながら購買行動を起こしていない莫大な顧客が、既に、すぐ傍に、大量に存在することを意味するからです。この莫大なニアミス顧客にアクセスするために必要な第一歩は、企業が現実を直視した現状認識を行い、自らの認識と行動を変えることだけです。

以上のような考え方や評価方法について、少々エキセントリックに感じられる方がいるかもしれませんが、一見厳格なアプローチを取る理由は、サービス業が顧客に経験を提供する事業であるならば、顧客の購買意識に影響を与える経験の全てが商品と考える方がむしろ自然だからです。「顧客の経験と価値観」という大きな氷山のほんの一角が「購買」という顕在的な行動です。企業が自社商品を正確に認識するにあたって、水面下に存在する莫大な氷の塊(すなわち現象に表れない顧客の経験と価値観)を対象として認識しないことの方が不自然ではないでしょうか。

また、トリニティが考える顧客の範囲や定義は、一般的なマーケティングの考え方と比較して広範囲です(この考え方については「マーケティングはどうなる?」で触れています)。より体系的なトリニティのマーケティング論の紹介は別の稿に譲りますが、トリニティのサービス論とマーケティング論が同根の考え方で構成されていることをご理解いただけると思います。具体的には、企業にとっての顧客は商品を購入した者だけではなく、例えば「商品に関心があったが店員の印象が悪かったため購入を止めた、または追加でオーダーしなかった者」など(つまり産卵までたどり着かなかった大量の鮭、または足跡を残さない大量のウサギ)を含むと考えるためです。そしてむしろ、このような「ニアミス」顧客の方が、実際に購買行動を起こした健在顧客よりも遥かに大量に存在すると考えているためです。

企業はうそをついている
同様の考え方を「企業全体のあり方と顧客の関係」へ適用範囲を拡大すると、サービス業の現状認識においてもう一点重要なことが理解できます。いささかショッキングな言い回しになりますが、企業が顧客に、(そうならざるを得ない事情は別にして)少なくとも結果としてウソをついている、それもほぼ日常的にウソをついている、ということです。あまり適当な例ではないのですが、分かりやすいので上記各社のサービスに関する企業理念をご紹介します。

東京海上日動経営理念 「お客様に最大のご満足を頂ける商品・サービスをお届けし、お客様の暮らしと事業の発展に貢献します。」
頑張るカプリチョーザ 「あなたの笑顔は私の幸せ。全てのお客様に最高にご満足いただけるよう、スタッフ一丸となって頑張ります。」
ミスタードーナツの企業理念 「客の心を心とせよ」
スターバックスの行動指針 「顧客が心から満足するサービスを常に提供する」

この点は重要なので繰り返しになりますが、以上は非難や中傷でないことはもちろん、批判ですらありません。厳密な現状認識を行うためのひとつのアプローチです。これが唯一のアプローチであったり、最良のアプローチだと主張している訳でもありません。当然にして、このことで上記企業に直接・間接に何らかの損害を与えることは微塵も目的にしていませんし、表現に省略や意訳はあったとしても事実以外の記述は一切ありません。偏見を排除した記述を誠意を持って心がけているつもりです。

さて、仮に以上がサービス業の現状だとして、あなたが経営者だとしたらどのように対応するでしょうか。

【2006.12.20 樋口耕太郎】

トリニティのホテル金融論(pdf)

「トリニティのホテル金融論《前編》」では、「ホテルを破綻させないための運営の最低水準は、総投資額を物件の残存耐用年数で割った額に等しい単年度事業収益を税引き後で生み出すこと(事業収益は金利支払前、減価償却費差引き後)」である、とコメントしました。ホテル運営者の立場からは一見突飛な発想に感じられる可能性が高いのですが、不動産金融の世界ではむしろ常識に近い発想だといえます。これは資産売買が想定されない事業環境から、売買市場が生まれ金融メカニズムが機能し始める過渡期にはどの業界にも一様に生じる認識のギャップです。不動産流動化のマーケットでは90年代のアメリカ、2000年代の日本でも同様のことが起こっています。

不動産金融の考え方
金融的な見方が一般化しているオフィスなどの収益不動産物件では、築年が経過している中古物件は取引に際してどんどんキャップレート*(1) が上昇するなど、実質的に前述の「理論」と同様の市場原理が機能しています。「あと5年で取り壊しだろう」、と思われる老朽物件でも年間キャッシュフローの5倍までの価格で買うことができれば(キャップレート20%ということになります)、少なくとも物件が朽ち果てるまでに元本は回収でき、実際に不動産売買市場ではこのような考え方を基本にして値段が決まります。

ホテルがオフィスなどの不動産物件と異なる点は、①従業員が大量に存在すること、②躯体が物理的に維持されたとしても機能の陳腐化によって資産価値が大きく減価する可能性があること、③不動産などと比べて売上高利益率が非常に低く事業リスクが高いこと(「運営レバレッジが高い」と表現されることもあります)、④資産の所有形態についても不動産というよりも事業としての特性が強く法人税等の負担がかかりやすいこと、という性質がありこのため資産評価に対するプレミアムは不動産以上に要求されるはずです。

日本のホテル金融の特殊性
この考え方において、ホテルがその他の不動産と最も異なるのは従業員の存在です。残存耐用年数5年の不動産であれば、5年で投資資金を回収してしまえば不動産が朽ちても投資は完了しますが、ホテルの場合は従業員が存在するため、原則として建物を建て直して事業を継続しなければなりません。この物件建て直しと事業の再開が実現できなければ事業はその時点で破綻してしまいます。したがって、ホテル事業ではこの再開発の資金調達を前提に単年度の収支を逆算しなければならない点が、単純な不動産金融と決定的に異なるというのが僕の考えです。

このような考え方をする人は現状殆ど存在しないのではないかと思うのですが、恐らくその理由は、①日本ではホテルが現在まで一般的な売買の対象とされていなかったこと、②アメリカの考え方をそのまま適用していること、によるのではないかと思います。前者については、収益物件として第三者に売却された(第一号とは言いませんが)事実上の幕開けとなった案件は2000年のリーガロイヤルホテル成田(現成田ヒルトン)の案件以来だと思います。したがって近年急速に増加しているとはいえ、まだ5・6年分の事例しかありません。後者については、ホテル金融理論が生まれたアメリカでは従業員の解雇が(日本と比較して相対的に)一般的な現象であり、ホテルの建物が老朽化して廃業・取り壊しとなってもこのような問題はそれほど深刻な問題を引き起こさないという考え方から、アメリカ型の金融理論のフレームワークには勘案されていないのではないかと推測しています。

金融的に表現すると、不動産投資は将来のどこかで元本の価値が消滅するワラント投資に似ていますが、日本のホテル資産に関して言えば、従業員の存在と事業継続の原則のために、将来ワラントの元本が消滅する不動産的な性質のみならず、満期時に新たな追加投資を行う義務が投資家に(実質的に)課せられている、というイメージです。ただし、ここでの「追加投資」すなわち物件の再開発は投資家の法的な義務ではありません。事業の継続と従業員の雇用を前提とした場合、「実質的に」必要であるという性質に過ぎないため、あとは経営者と投資家の価値観によります。そして、経営者が事業の継続と従業員の雇用と生活を尊重するという選択をするのであれば、単年度事業の課題として対処されるべきで、トリニティのホテル経営論に沿った事業運営が重要になってくるという考え方です。

前回の質問への回答
なぜ外資系に代表される投資家はこれほど大量に高い簿価で資産を取得し続けるのでしょうか?また、現実には上記の運営水準を単体でクリアしていないホテルが少なくないと思うのですが、なぜそれでもホテル事業が成り立っているのでしょう?というのが前回の質問でした。答えは簡単で、単独のホテル収益以外からその差額の埋め合わせがなされている、つまり将来の資産の実質的な転売や収支の補填などによって他の投資家や事業が実質的に負担しているからです。

そのいわば利益「付け替え」の手法はいずれも金融によるもので、いくつかのパターンがあります。第一に、親会社が実質的に負担する。第二に、継続的な追加資産の買収やM&Aによって資金調達を可能にする。第三に、上場などの外部資金調達(つまり実質的な転売)によって充当する、が代表的なものです。

第一の、親会社などが負担するパターンの典型は、大手エアライン系、電鉄系、旅行会社系、かつての建設会社系などのホテルチェーンにおいて、単独ホテルの収益が前述の理論的なガイドラインに満たない場合でも、資本力のある親会社からの潤沢な出資・貸付・債務保証などによって資金提供がなされるものです。単独資産での収支が合わないことはあまり議論されず、「事業シナジー」という概念で説明されることが多いのではないでしょうか。確かに考え方としては、単独ホテルの収益力の不足分を超える「事業シナジー」が生まれる場合、合理的な経営判断になりえるのですが・・・。「シナジー」って結局なんでしょう?

第二の、継続的な資産買収やM&A は、良きにつけ悪しきにつけ最近特に注目度の高い手法です。このメカニズムはホテルなどの資産買収であろうと企業のM&Aであろうと基本的に同じです。例えば、売上20億円、理論的な企業存続の収益ガイドラインが年間4億円で、実際には2億円の収益しかないホテル会社があったとします。これでは将来のどこかの時点で破綻する可能性が高いので、この経営者は対応策として新しいホテル投資案件を探すことにします。程よく見つかった新規案件もやはり同様の規模で買収価格40億円、売上20億円、収益ガイドライン4億円に対して、実際の収益が2億円だったとします。

冷静に考えれば、この投資を実行することはマイナスの上塗りになりそうなものですが、金融市場が理性的に機能することを期待してはいけません(少なくとも僕の印象はそうです)。新規案件のファイナンスにおいて、買収価格40億円を全額借入金で賄い、40億円に対して3%、1.2億円の金利支払が生じるとして、売上は20億円から40億円に倍増すると同時に、この追加負担が年間2億円以下で済む場合一株あたりの利益も確実に増加します。そうすると、企業が発表する事業のシナリオ次第では、「急成長企業」ということになり株価が上がり、より高い株価で資金調達・・・という循環が出来上がる可能性があります。このとき借入金も同様に急増するのですが、「資産(事業)の急拡大」と見られるか、「有利子負債の膨張」と見られるかは(この場合両者は同じことなのですが)、みんなの雰囲気というか、アナリストの気分次第というか、IR のイメージと会社の雰囲気次第みたいなところがあります。

マイナスにマイナスを加えてもどこかで破綻する可能性は減少するどころか増加するだけなので、必ずどこかの時点で立ち行かなくなることは明らかでありながら、金融市場では全く逆の評価がなされ、「注目の成長企業」といったイメージが少なくとも一定期間継続します。「金融」に強い関心を持つ多くのベンチャー企業家はこのメカニズムを理解しており、IT、急成長市場のイメージとこのメカニズムを重ねて、市場から大量の資本を調達します。どこかで破綻する可能性が高い構造でありながら、その際にババをつかむのは一般の株式投資家ということになります(ライブドアへの株式投資で実感した方は少なくないのでは?)。このような「成長企業」は収益力の実態がなくとも増資や株式公開で投資家から集めた現金の内部留保があればとりあえず企業の破綻は避けられますので、ひとつの事業手法?として少なくとも今のところ機能しています。このためこのような事業ならぬ「お金集め」を事実上の本業とする企業は増える一方です。その結果、実質的な事業付加価値を生まず、利益と現金しかない「成長企業」と(中には利益すらない会社もありますが)、短期間で「成功」した経営者が大量生産される・・・といったら皮肉が過ぎるでしょうか。逆に考えると米国を起源に、現在これほどM&A が活発になっている理由の相当比率はこのメカニズムに起因します。

第三のパターンは、投資銀行や投資ファンドが得意とする金融手法です。金融の世界も酒屋さんと同じで小売と卸売りが存在します。突き詰めて考えると問屋さんの目的は転売することですが、不動産金融の場合も同様です。金融の世界の問屋さんは投資ファンド(プライベート・エクイティといいます)が代表的で、この事業の目的はやはり転売することです。例えば不動産やホテルを大量に仕入れ、これをREIT(リート:不動産投資信託)などにまとめて株式市場などに上場しますが、これは一般投資家(リテール)に株式という形で不動産を転売する事業です。より高い価格で転売することが目的であれば、「単独ホテルを破綻させないための収支ガイドライン」はあまり関心ごとにはならないのです。そして上場した後は、上記第二のパターンを活用することが可能ですので、なかなか息の長い「成長」を遂げることができます。

補足とまとめ: トリニティのホテル金融論の使い方
トリニティのホテル金融論では、投資家の資本的な制約(投資簿価)を基準として、単体のホテル事業を破綻させないための最低運営水準を明確にし、運営的なガイドラインとして表現しなおしました。これは、ホテル投資家と運営者の業務分担の中で、ホテル運営者が最低限果たすべき運営上のガイドラインを規定したもの、あるいは、投資家の資本的な制約を運営的な指標で表現し直したもの、という意味でもあります。したがって、正確に表現するならば、「理論」というよりも合理的かつ実質的な経営のガイドラインというべきものです。

例えば、このようなガイドライン収益を運営者が達成しても、投資家が資金を内部留保しなければ再開発は実現しない可能性が高いことからも分かるように、このガイドラインは投資家と運営者のルールではなく、ひとつの財務的な分担基準です。運営者がこのガイドライン収益を達成できなければ、単独で事業を存続することはどこかの時点で不可能になる可能性が高い反面、その差額について投資家が別途資金の調達を行うなど、必要な役割分担が明らかになります。あるいは、一般的な運営水準をはるかに超える投資条件(高い投資簿価)で案件をスタートした場合でも同様ですが、このような状況は、先に説明した三つの「利益付け替え」スパイラルに踏み込んでいるということをお互いに確認することができますので、自制を働かせたり、運営サイドと投資サイドの現実的な責任分担や対策を再確認する目的にも利用できるのではないかと思います。

現在のホテル業界においては運営者と投資家それぞれの事業分野に関する専門的な相互理解が十分ではないという印象があります。双方の専門家はそれぞれに学習と経験を積んでいるからこそ、その協力関係において相乗効果が生まれるのであり、双方がお互いのことを一から学習しなければならないとしたら、これは非効率ですしお互いの価値を高めることにもならないと思います。このようなガイドラインによって、実質的かつ効果的に、双方の人材が事業の価値観を共有し、しかし異なる専門性を分担するための橋渡しになるのではないかと考えています。

【2006.12.14 樋口耕太郎】

*(1) キャップレート(Cap Rate): 不動産の資産評価において、物件が生み出す収益を基準にして資産評価を行う方法(収益還元法)で広く利用される「収益還元率」。投資家が不動産投資に際して要求する単年度利回りと考えることもできる。「物件からのキャッシュフロー(減価償却前、金利支払前、税前の営業利益)÷キャップレート=資産価格」の関係にあり、収益倍率の逆数でもある。例えば、年間1億円のキャッシュフローを生む物件が20億円で取引されたとき、この物件のキャップレートは5%(1億円÷20億円)であり、この投資家はこの不動産物件を投資するに当たり、投資額に対して5%の収益が妥当と評価した、というおおよその意味を持つ。キャッシュフロー(フロー)を資産評価額(ストック)に変換する、すなわち収益をキャピタライズ(資産化)するという意味において、Capitalization Rateが語源。

「ホテル事業という生態系」では、経営上の課題を個別に捉えて対処するよりも、事業という生態系を理解し全体のバランスをとりながら対処することが経営効率を著しく高める、という趣旨のコメントをしました。これに加えて、ホテルのように資本集約的な事業では、資本の回収サイクルと事業収益のバランスをとること(建物・基本設備・什器備品投資の回収サイクルと単年度ごとの事業収支や資金繰りのバランスをとること)が劣らず重要だと思います。資本コストとキャッシュフローのバランスと表現することもでき、これは金融的なテーマでもあります。これらのイメージをかっこよく表現すると、事業の生態系(「空間」)と資本の回収サイクル(「時間」)のいわば「時空バランス」をとりながら最適解を求め続ける四次元パズル、という感じでしょうか。

破綻させない経営
僕はホテル金融においてなによりも重要なことは、「事業を破綻させない」ということだと思っています。そして企業が破綻に至る時の「金融的な分岐点」の把握が必要だと感じました。すなわち、ホテルはどのようにして破綻するのか、その原因は何か、ホテル事業の最大のリスクは何か、どのようにしたら回避できるのか、という問いに対して自分なりの明確な回答を出す作業です。不思議なもので、「破綻しない経営」をしっかり心がけていると、非常に収益力の高い事業経営が実現できるような気がします。

ホテルの破綻事例や運営が行き詰って資産を手放すケースの多くはこの金融バランスの見誤りに起因しているのではないでしょうか。不動産投資・運用事業の最大のリスクは借換えにあると言われていますが、ホテル事業の場合はそれに加えて、有限な建物の耐用年数と永続すべき事業のバランスをいかにとるか、という特殊なテーマが加わります。これらの金融バランスは事業の命運を分けるテーマだと思うのですが、一般的なホテル運営の現場ではそれ程の認識はないように思いますし、金融のメカニズムをよく理解して運営を行っている総支配人も今のところあまり多くはなさそうです。

トリニティのホテル金融論
だからといって、現場で活躍するべきリーダーが小難しい金融理論を一から勉強する必要はありません。僕がホテル会社の社長だったら、総支配人に最低限望む金融的理解は基本的に一点だけです。

「ホテルを破綻させないための運営の最低水準は、総投資額を物件の残存耐用年数で割った額に等しい単年度事業収益を税引き後で生み出すこと。」 ここでいう事業収益は金利支払前、減価償却費差引き後です。なお、この額に支払法人税と減価償却費を足したものがGOP*(1)です。

そして、この考え方のポイントは三つです。①例えば、40年で回収しなければならない資本は、各年度でその1/40を回収できなければ、会社が破綻に一歩近づくということ、②全ての資本コストは税引き後で負担するということ、③全ての資本コストは運営によってのみ賄われること。

この点を十分に認識しながら経営をするだけで、破綻を回避することができるホテルは驚くほどの数になると思います。このポイントを絞っているのは、おいしい料理と同じで、効果的な金融を実行する際に最も重要なものは、テクノロジーや手法ではなく素材、つまり事業収益とキャッシュフローだと思うからです。これをしっかり生み出し正直な経営を行っていれば、技術の進歩した現代金融において資金調達に不自由することは考えづらいという考え方がベースにあります。

例えば土地の取得簿価10億円、建築コスト30億円(総投資額40億円)、年間売上20億円の新築ホテルで、建物の実質耐用年数が40年だとすると、単純に考えて年間1億円(40億円÷40年)の税引き後現金を生み出さなければ、いずれどこかの時点で破綻するという前提で各年度の事業を計画・実行するのです。計算の際、減価償却分は同額を追加投資・修繕維持に充てる想定として、この計算からは除外します。つまり、この例では経常利益2億円(減価償却後、金利支払前、法人税前)=法人税1億円*(2)+資本コスト1億円という水準、すなわち単年度の経常利益が最低2億円なければいずれどこかの時点で破綻する、つまりこの水準が会社を破綻させない最低限度の運営水準であるという認識で経営を行うということです。

ちなみに、この会社の減価償却費が年間1億円だとすると、税前営業キャッシュフローは3億円、税引き後のフリーキャッシュフローは2億円、ホテル運営者が重要視するGOP は3億円、GOP比率は15%(3億円÷20億円)という計算になります。なお、この運営水準では投資家が受け取る余剰利益は実質的にないという考え方ですので、事業的に価値を生むためには、この水準を運営実績がどれだけ上回るかが評価対象となります。

なお、この原則はホテル事業が賃貸によるものであろうと、自社所有によるものであろうと同様に適用します。この資本コストはホテル事業に付随するものであり、誰が負担するかどうかは別として運営利益を原資として負担せざるを得ないためです。

非常識?
このルールは、ホテル経営の具体的なイメージを持たない方が聞くと「そんなものか」と思われる程度かもしれませんが、総支配人などホテル運営経験をお持ちの方にとっては奇異に感じられるのではないでしょうか。第一に、資本回収にかかる資本コストを税引き後で計算する点。第二に、これと関連して、減価償却費が損金として(税引き後扱いで)計上され、それに対応する現金が企業に内部留保されるのに、なぜわざわざ税引き後の資本コストが別途必要と考えるのか。第三に、土地なども合わせた総投資額を物件の残存耐用年数で割るのか、なぜ減価しない土地の取得額も含めるのか、そしてなぜ簿価や再調達価格ではなく総投資額を基準にするのか。第四に、同様の計算であればなぜ単にGOP15%を目指す、というガイドラインではいけないのか、が代表的な疑問ではないでしょうか。

資本コストを税引き後で計算する理由
第一の疑問について、経営者が土地取得費用と建設コストを全額借入金で賄いホテルを開発した、と想定すると分かりやすいと思います。前出の例では借入金40億円を返済するための資産(つまりホテル)の実質的な耐用年数が40年であれば、この年限内で返済しなければ債務不履行が生じるのは明らかです(建物が老朽化してなくなってしまった後では返済原資を生むことができません)。そして当然のことながら、借入金の元本は税引き後のキャッシュフローから充当しなければなりません(税務署は借入金元本の返済を損金扱いにしてくれませんので)。

また、上記のように借入をする必要がない程の大富豪が、全額自己資金で同様のプロジェクトを行ったとしても、基本的に考え方は変わりません。投資家が全額自己資金で40億円の投資を行い、税金を支払った後の資本コスト(年間1億円)を40年間で回収したとして、投資家の投資収益は0%であり(投資額と同額を40年で回収しただけですから)、これなら国債か定期預金をしていた方がよっぽど賢い投資ということになりそうです。投資収益0%以下で資本を提供する投資家は基本的に存在しないという考え方に基づくと、やはりこの水準が事業存続の最低水準になるのではないでしょうか。

なお、以上の計算において、投資家が土地建物の総額を借り入れるために差し入れるであろう債務保証のコストや借入金利などは除外して計算していますので、まさに破綻に至らないための最低水準の目安であるということがお分かり頂けるのではないでしょうか。

減価償却費を資本コストの計算から除外する理由
第二の疑問について、建物を必要とするホテル業の宿命として資産の営業価値が毎年減価することは避けられません。減価償却費はこの営業価値を維持する目的で支出されるべきで、この費用は建物躯体の回復費用というよりも運営費用の一部として常に見積もられるべきだと思います。現実には、単に資産の維持・回復だけではなく、施設・備品の機能が陳腐化するため、グレードアップを含む継続的な追加投資によって始めて営業価値の現状維持が可能であるという状態がむしろ一般的で、減価償却費の範囲内でこのような追加投資を成功させるのはそれほど容易ではありません。

なお、その実質的な営業価値の減価が税務・会計的な減価償却額と同等であるとは全く限らないのですが、いたずらに前提を増やして経営的に直感しづらい複雑な推定額を算出するよりも、これらを便宜上同等のものとして計算するものです。また、概念的には、40年目終了時点には減価償却の範囲内で追加投資してきた資産価値が物件に付随すると考えられますが、躯体の取り壊しを想定したときにはやはり除却扱いせざるを得ないという一応の考え方をしています。

総投資額を基準に考える理由
第三の疑問について、土地の取得費なども合わせた総投資額を(建物の残存耐用年数の期間内で)回収すべき資本の額とする根拠ですが、残存耐用年数、つまりプロジェクトが収益を上げることができる期間内に、土地・建物の取得に要した資本を全額回収すると想定するためです。この場合、耐用年数が経過し、建物が取り壊された時点では担保設定のない(担保余力のある)土地が残り、これによって再開発の資金調達余力が生まれるという想定によります。

GOPを基準にしない理由
第四の疑問について、トリニティのホテル金融理論の計算式で求められる最低事業収益とGOPは似て非なるものです。シンプルな例として、このホテルが開業20年後に売却され、新たな投資家の手に渡ったケースを想定します。売買価格が開発時の簿価と全く変わらないと仮定したとき、このホテルは新しい投資家にとっても総投資額40億円というプロジェクトになりますが、建物の築年数は既に20年が経過しています。

実質的な耐用年数は残り20年ですので、上記の計算によって、経常利益4億円-法人税2億円=資本コスト2億円(40億円÷20年)、すなわち最低4億円の税前、償却後、金利前営業利益を生む必要が生じます。前例と同様に減価償却を便宜上年間1億円とすると(中古物件については税務・会計上加速償却が認められていますが、ここでは無視します)、GOPは5億円、GOP比率25%という水準が新たな企業存続の最低ラインということになります。

その他、GOPを基準にする欠点は売上高にリンクしているという点です。資本の回収という長期的な事業の存続に関する概念は単年度の売上高ではなく、資産の取得簿価にリンクしたものであるべきだと思いますし、GOP比率は売上が上昇すると下がってしまう可能性もあります。

サンマリーナホテルの事例
僕が経営を担当していたサンマリーナホテルは、総投資総額約28億円、建物残存耐用年数20年、年間売上20億円でしたので、年間1.4億円(28億円÷20年)の税引き後、金利支払前、減価償却後の事業収益が早急にクリアすべきひとつのターゲットと考えていました。実際には繰越欠損金を利用したこともあり、2年目で約1.3億円の税引き後利益(税前相当では約2.5億円に相当します)を達成し、短期間で最低ラインをおおよそクリアすることができ、余裕を持って成長イメージを構想できるようになりました。

ちなみに、個人的には残念なことですが、その直後サンマリーナホテルは親会社の方針転換によって推定約57億円という高値であっさり売却されてしまいました。企業存続の最低ラインをクリアする経営を実行することで、大きな企業価値が生まれることを計らずも証明してしまった形です。反面、これによって新しい投資家がクリアすべき運営水準は年間2.9億円(57億円÷20年)と倍増したことになります。更に推定10億円以上の追加投資を検討しているとされていますので、これを加えると当初の約250%の予算、年間3.4億円(67億円÷20年)の事業収益が(いずれも、税引き後、金利支払前、減価償却後)破綻を回避するための最低ラインとして現場に降りかかることになります。

このように、ホテル資産は売買時において資本家と従業員の間に最大のコンフリクトが生じるのですが、資本家はこのメカニズムを従業員に対して明らかにしていないように思えます。僕はこのような理由でホテルは可能な限り売買するべきではない、特に高い簿価で取得するべきではないと思っています。

全ての資本コストは運営によってまかなわれる
以上の考え方は一般的なホテル運営者から見れば甚だしく非常識に思えるかも知れません。先出の投資額40億円の例では昨日までGOPの最低目標は3億円15%であったのが、21年目に入り、オーナーが代わったというだけで、その水準が一夜にして5億円25%に跳ね上がるのですから。しかし現実には、新築のホテルと築20年のホテルで運営目標が同じということの方が理屈に合わないような気がします。

結局、(その他の条件に全く変化がない場合)築21年目のホテルを開業当時と同じ額で取得した新しい投資家がそのような投資/収益構造を自ら招いているのです。そのような投資家の事情は運営者とは無関係という考え方が一般的であることは理解できます。しかしながら、考えれば当たり前のことなのですが、資本家の投下資本は資産の売却を行わない限り、運営によってしか、それも税引き後の運営収益によってしか回収することはできないのです。したがって、それが運営上どんなに理不尽に見えるものであれ、資本家が下した決断は運営によってしか帳尻を合わせることはできないという現実を運営の前提条件として認識することが、事業を破綻から回避する有効な方法だと思います。

次回?に続く…
では、以上が事実だとして、なぜ外資系に代表される投資家はこれほど大量に高い簿価で資産を取得し続けるのでしょうか?また、現実には上記の運営水準を単体でクリアしていないホテルが少なくないと思うのですが、なぜそれでもホテル事業が成り立っているのでしょう?これは広い意味で金融的なメカニズムが働いているためです。詳細については別の稿で解説したいと思います。

【2006.12.11 樋口耕太郎】

*(1) GOP: Gross Operating Profitの略称。営業利益(税前・金利支払前)に資本コスト(地代家賃+法人税+減価償却費)を足し戻して計算されます。ホテル運営会社とオーナーの間で運営手数料を設定する際にこの指標を基準に決められることが多く、一般的にホテル運営者がオーナーに対して「責任を持つ」指標と考えられています。

*(2) 法人実効税率: 資本コストの算出において、実際にはもう少し少ない率が適用するのですが(実効税率は法人ごとに異なります)、日本内国法人の実効税率を50%として計算することにしています。日本の債務残高、地方公共団体その他隠れ債務の額とそれぞれの財政事情をみれば、(特に40年間の見積もりにおいて)将来の増税の可能性を無視するほうがむしろ不自然だと思うからです。

一般的なマーケティングの目的は、突き詰めると「顧客を見つけることと、顧客に自分を知らせること」ではないかと僕なりに解釈しています。

マーケティングが重要視される理由
殆どのビジネススクールでマーケティングが基礎科目とされていることや、世の中でマーケティングを業としている専門家の数の多さや手法の多様さから明らかなように、マーケティングが重要な経営課題であるというのは非常に一般的な認識だと思います。そして、現代経営の理論や実践においてこれほどマーケティングが重要視されていることの裏返しとして、「企業は顧客を知らない」「顧客は企業を知らない」という事実があると思います。企業は顧客を知らないからこそいかに効率的に顧客を知り、顧客にアクセスし、最終的な販売にたどり着くかという技術が価値を持ちます。同様に、現在までは顧客も企業を良く知りませんでした。顧客の立場で企業について理解しようとしても会社案内などを取り寄せる、などの手段があったかもしれませんが、これは非常に例外的で、コストも時間もかかるため消費者でそんな手間をかける人はめったにいません。結果として、企業側が莫大な費用をかけて提供する広告やブランドのようなマスメディアを通じてしか企業を知りえなかったと思います。別の表現では、企業が顧客を知るためのコストと顧客が企業を知るためのコスト(いずれのコストも企業側が負担していました)が非常に大きかったため、この費用負担を効率化するためにも、論理的、経営科学的な分析やアプローチが重要視されていたということだと思います。

マーケティングに関する素朴な疑問
このような従来型のマーケティング理論や手法に関して以前から疑問に思っていたことがあります。いずれもマーケティングやマーケティング・リサーチの前提に関する、人から笑われそうなくらい基本的な疑問なのですが、次世代のマーケティングについて自分が考え、経営方針を策定するための重要なヒントとなっているものです。なお、このような疑問を発したからといって僕は「マーケティングかくあるべし」と考えているわけではありません。たまたま自分はこういう考えを前提として経営を行っているということに過ぎず、その他のいろいろな考え方や手法がそれぞれ意味を持つ可能性は常にあると思います。

マーケティングでは顧客のニーズを分析し、顧客を特定し、そのような顧客のニーズに合ったサービスを提供する、というアプローチがとられることが一般的だと思います。しかしながら僕の疑問は…

第一に、そもそも顧客は自分のニーズを理解しているのだろうか?
第二に、そもそも顧客を特定することに意味があるのだろうか?
第三に、そもそも顧客のニーズに合うサービスや商品を提供することは意味のあることだろうか?

第一の疑問: 顧客のニーズについて
僕の理解では、マーケティングの主要作業のひとつは「顧客(群)の特定」だと思うのですが、ここでいう顧客とは主に自社商品を購入する意思(顕在的なニーズ)を持っている消費者を意味します。

これに対して、僕の疑問の第一は、マーケット・リサーチが対象とする顧客の「顕在的ニーズ」は、顧客ニーズのほんの一部に過ぎないのではないか、つまり顧客は自分のニーズのほんの一部しか自覚していないのではないか、ということです。僕の仮説では、顧客には自分で欲しいものをはっきり自覚している「顕在的ニーズ」と、商品を体験して初めて「ああ、これが欲しかった」と自覚する「潜在的ニーズ」が存在すると思います。後者(潜在需要)の典型は例えば発売当時のソニーのウォークマンなどです。録音機能のついていないテープレコーダーは当時世の中に存在していませんでしたので、当然にして消費者はウォークマンに対するニーズを顕在的に自覚することはなかったと思います。

マーケティング・リサーチにおいて顕在的ニーズ、すなわち数量的に評価できるものを主な分析対象とするのはある意味当然のアプローチです。そしてこのような顕在的ニーズの分析に際してマーケティング手法は非常に有効である可能性は高いと思います。しかし、素朴な疑問の第一を感じた根拠でもあるのですが、僕には「潜在的ニーズが顕在的ニーズに比較して破格に大きいのではないか」、また「破格に大きいが目に見えない潜在的ニーズに対して、汎用的にアクセスする手法が存在するのではないか」と思えるのです。この仮説が双方ともに真実であるとするならば、顕在的ニーズを中心とする分析やそれを前提とした事業的な対応は経営的に見て著しく効率を欠いてしまう可能性があります。

第二の疑問: 顧客の特定について
第二の疑問は、マーケティングの考え方というよりも手法に対する疑問かもしれません。マーケット・リサーチの一般的な手法として、過去のデータやアンケートなどを通じて、自社商品に対してニーズをもつ顧客(群)を特定する作業があると思いますが、これは「バックミラーを見ながら車を運転する」イメージに少し重なります。この考え方は、雪山にウサギ狩りに出たときに、ウサギの足跡を追うことで獲物を見つける可能性が高まるという考え方で、非常に合理的であるように思えます。しかしながら、この手法においては「足跡を残さないウサギは存在しない」という処理をせざるを得ません。ひょっとしたら少し麓(ふもと)に下りた雪のない場所にウサギの大群が存在するかもしれないということは全く無視されてしまいます。

もちろん足跡を残さないウサギを特定する方法があれば、誰も苦労はしないのかもしれませんが、これも第一の疑問と同様に、「足跡を残すウサギよりも足跡を残さないウサギよりの方が破格に大きな規模で存在する」、「足跡を残さないウサギに汎用的にアクセスする方法が存在する」という二つの仮説が真実であるとき、ウサギの足跡を追いかける方法は効率のよい狩りとはいえません。

第三の疑問: 顧客のニーズに合わせて商品を提供するということ
第三の疑問は、事業のあり方に関する根本的な疑問といえます。マーケティング・リサーチの手法は「顧客のニーズを特定しそのニーズにあった商品を提供する」、というのが常識的な考え方だと思います。これに対して、素朴な疑問の第三は、「顧客のニーズにあった商品を企業が提供する行為を顧客はどれだけ望んでいるのだろうか」というものです。例えば、沖縄のホテルの新規開発や「リポジショニング」に当たって顧客の属性やニーズを分析してそれに「合う」コンセプトを構築し、そのテーマにあった事業を行うことが一応のパターンといえると思いますが、その結果沖縄らしいホテルがほとんど存在しないという状態が生じているような気がしてなりません。ことの良し悪しではなく、より大きな市場という意味合いにおいて、これは本当に顧客が望むことなのだろうか、という疑問です。

例えば、長期にわたり成長を続け一大産業となったファミリーレストランも、顧客のニーズを非常によく捉えた典型的な業態だと思います。顧客の利用状態から、顧客ニーズに合致した業態であることは明らかですが、これは顧客がもっとも望んでいる業態なのでしょうか。もちろん、顧客がこれ以上のものを望むとも望まずとも、これだけの市場を獲得しているのであれば実質的なマーケティング手法として全く問題がない、という考え方は全く合理的なものです。しかし、三度同様の発想に戻りますが、それ以外の顧客の潜在的ニーズがこの事業規模と比較しても破格に大きな規模で存在しているとしたら、また、その潜在的ニーズに汎用的にアクセスする手法が存在するとしたら、現在のマーケティングとは全く異なる発想によって事業戦略を構築することの合理性が非常に高まると思います。

次世代マーケティング
つまり、現在のマーケティングの手法は、市場を科学的に分析しようとしているというよりも、合理的、科学的に説明、分析、数量化できる範囲を、逆に「市場」と定義しているように見えるのです。ところが、以上のようなマーケティング手法が威力を発揮した市場環境が、ここ10年くらいから次第に、そして昨年ぐらいから急激に変化しているように感じます。もう既に、現在の顧客は企業が提供する広告などに頼らず、ただ同然の多様な情報源によって企業を非常によく知るようになっています。このため、企業が顧客を知るためのコスト(マーケット・リサーチや顧客データベースの構築費用)や顧客に企業を知ってもらうためのコスト(広告宣伝費・販売促進費)は事業的に意味を失う可能性が高まっています。「企業が顧客を知らない」という状況には依然として変化がありませんが、ネットなどを通して顧客が企業を知るためのコストがほぼゼロになっているため、企業が顧客を知るために費用をかけるよりも、顧客に企業を見つけてもらう方が格段に効率的になりつつあるのです。すなわち、次世代マーケティング環境では ①企業は顧客を知らないが、顧客は企業を知っている、②顧客は企業がどう見てもらいたいかとは全く異なる情報によってありのままの企業を知る、という現象が常態化するのではないかと思います。

最大のポイントは、次世代のマーケティング環境において企業は「足跡を残さない大量のウサギ」にほとんどコストをかけずにアクセスする機会を得るということです。より正確には、足跡を残さない大量のウサギは誰か、どこにいるか、ということを企業が全く知らなくても、大量のウサギがほとんどただ同然のコストで企業を積極的に見つけてくれるようになるのです。

以上の変化はきわめて革命的な意味を持ちます。すなわち、①従来のマーケティングが認識する市場の概念が根本的に変化し、対象範囲が飛躍的に拡大します、②企業は顧客を知る必要がなくなります、また同様の意味ですが、顧客を知るための努力は事業的に非効率になります、③企業は自分を顧客に知ってもらう努力をする必要がなくなります、また裏腹の現象として、企業が顧客に伝えたいように自分のイメージを伝えることは、それが真実でない限り事実上できなくなります。

以上が次世代のマーケティング戦略を検討する上での前提条件ではないかと思っています。このような事業環境が仮に訪れるとして(僕は既に訪れていると思っているのですが)、あなたが経営者だったら、どのような「マーケティング戦略」を構築するでしょうか?

【2006.12.8 樋口耕太郎】

何人かの方々に社名の意味について聞かれました。トリニティという言葉は比較的一般的なものですのでご存知の方は多いと思いますが、英語で「三位一体」という意味で、世の中には他にも沢山のトリニティが存在します。数年前にヒットした映画マトリックスのヒロインでネオと一緒に人類を救う伝説のハッカーの名前はトリニティです。アルマゲドンで文明が滅んだ遠未来を描くトリニティ・ブラッドというアニメもあります。トリニティというスピリチュアル系の雑誌も最近比較的流行しているようですし、ビジネスの世界ではカネボウの事業再生の受け皿となった持ち株会社名はカネボウ・トリニティ・ホールディングス株式会社、日本風に言えば「三和株式会社」といったところでしょうか。Jリーグの大分トリニータは商標登録の関係で現在の名前になる前は大分トリニティでした。

海外では、ウォール街と旧ワールドトレードセンターに隣接するニューヨーク最古の教会がトリニティ教会です。この教会の墓地には初代財務長官のハミルトンや蒸気船を発明したフルトンらが埋葬されているそうです。欧米には「トリニティ・カレッジ」がいくつもあります。核廃絶を求めた「ラッセル=アインシュタイン宣言」で知られる論理学者・数学者・哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルが学んだケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジをはじめ、ウェールズ大学のトリニティ・カレッジ、100年以上の歴史を持つロンドンの音楽院の名門トリニティ音楽院、その他エリザベス一世が創立したアイルランド最古のダブリン大学トリニティ・カレッジ、カナダのオンタリオ州ポートホープ、アメリカではコネチカット州ハートフォードにも・・・。調べていけば恐らく他にも沢山存在しそうです。

トリニティという名称を思いついたきっかけ自体は直感的なものです。起業のときに3ヶ月近くも散々考えた末、オフィス近くにある風力発電の三枚羽を見ていたときに頭に浮かびました。ただし、この言葉の意味合いを考えると、シンプルでありながら、実に味のある深い言葉だということをしみじみ感じており、とても気に入っています。

トリニティが象徴する重要な概念は「バランス」です。一見それぞれが独立していたり、対立するように見える(三つの)物事を、ひとつのまとまりとして、つまり調和とバランスのとれた集合体として捉えることで、まったく異なった水準の付加価値を生むことができるかも知れないというイメージがあります。「心と体と魂」、「心技体」、「顧客・従業員・株主」、沖縄のホテル業界であれば「ホテル・航空会社・旅行代理店」、沖縄の文化では「うちなーんちゅ(沖縄人)・ないちゃー(本土人)・米軍」・・・。特にトリニティ経営理論では従来の「ヒト・モノ・カネ」という財務諸表上だけの矮小化された概念ではなく、「顧客資本・人的資本・株主資本」のようにバランスシートを超えた企業価値を認識し、そのより大きなバランスをとることがポイントの一つになっています。また、トリニティの概念のすばらしいところは、三つの独立した存在の調和をとるだけではなく、これらの姿を変えた三つの要素が実は利害を全く一にした同一の存在である、という意味を含んでいることです。

また、沖縄において(実際はどこでもそうだとは思うのですが)スピリチュアリティが生活と、したがってビジネスの一部であることもインスピレーションになっています。以上を、パートナーの末金はこのように表現しています:

「例えば、重力が宇宙をまとめる糊だとしたら、バランスこそが宇宙の秘密を解く鍵となる。バランスは私たちの心と体と感情に、私たちの存在の全てのレベルに関係している。私たちは何をする場合でも、それをやりすぎることも、やらなさすぎることもありうるということ、そして生活や習慣の振り子が大きく一方に振れたときには、必ずもう一方にも振れるということを、バランスは私たちに思い出させてくれる。」

トリニティという名称の命名において、はっきりした「三つのもの」というのは特定されているわけではありません。ただしそれゆえにより深くよりシンプルにより重要な点において意味を持つ、ということはあるかも知れません。

【2006.12.2 樋口耕太郎】

サーチエンジン、掲示板、アップローダ、動画掲示板、SNS、携帯電話とメール、ブログ、eメール、ウェブサイトなどは現在進行中のデジタル情報革命の代表選手たちです。20年くらい前まではITという言葉もなく、コンピューター・ネットワーキングといえばなんとなくサブカルチャー的な扱いを受けていた面影は今どこにもありません。現在のデジタル情報革命は文字通り革命と呼ぶにふさわしい影響をごく一般的な人たちの生活と社会に広範囲に生み出しています。まだ一般的な認識になっているとは言えませんが、この現象が今後経営、特にサービス事業に対して与える影響は想像を絶するインパクトとなるでしょう。この革命的な現象と多大な影響を勘案せずに事業戦略を検討することはほとんど意味がなくなるのではないでしょうか。

情報のフラット化
その中でも特筆すべき現象は、ブログ、SNS、アップローダや掲示板などの広がりによって、一次情報(編集されていない情報)の量、伝達コストの安さ、拡散性、スピードが著しく高まっていることだと思います(デジタル情報革命がもたらすこれらの現象を仮に「情報のフラット化」と表現することにします)。フラット化現象における大きな特徴は、①「真実の情報」と、「広告情報」(いわば飾った情報)では、その伝達範囲、スピード、コストに著しく格差が生じる、すなわち情報の質によって拡散性が大きく異なること、②「俯瞰的な真実」や「状況証拠」によって情報の真偽が評価される。また「証明されない真実」によってより深い真実が伝播する(以下に説明を試みます)、ということだと思います。

真実は光速で伝播する
前者(①)については僕のイメージでは少なくとも数十倍、ひょっとしたら100倍くらいの効率差があるような気がします。飾らない真実は誰もが積極的に伝えようとするものです。広告は費用を払う人しか伝達する人がいない(誰も広告の意図に沿った噂はしません)ということもひとつの構造的な要因かもしれません。別の表現では、「真実は本質的に拡散するものである」+「デジタル情報革命はその真実のもつ本質を、極めて効率的かつテクニカルにサポートする」という二つの原理が重なった現象と理解することができるかもしれません。

そして、情報が大きな拡散性を持つかどうかは、その情報が真実かどうかだけがポイントとなり、その情報が会社(情報元)にとって都合がよいものかどうかという点は全く勘案されません。また「真実」であってもどこか飾られていたり(要は厳密な意味で真実ではないということですが)、「ウソだと知らなかったふり」をしてもあまり効果がありません。集合体としてのネット利用者がこの辺の虚飾を見抜く力は驚異的だと思うことがあります。よかれ悪しかれ、掲示板、顧客コメント、口コミ情報、社員のブログでのコメントなどから伝わる情報がどんどん増えていますしこの傾向は増加する一方だと思います。個人の名前で検索すると本人すら知らないさまざまな情報がヒットしたりもします。もちろんこのような情報は断片的なものですが、俯瞰的に見ると意外なくらい真実を伝える可能性があります。

ホテルなどサービス業の利用顧客の評判はリアルタイムで誰もが知るようになっています。現場での真実が伝わるコストが激減し伝達のスピードと範囲が著しく高まっているため、ごまかし、誇張広告、うそ、不誠実、その場しのぎはマイナスどころか、事業の存続そのものを脅かし始めています。後を絶たず報道されている多くの不祥事も、事業上の過失よりもそれらの隠蔽が明らかになることで決定的なダメージを生んでいるケースがあまりに多く見られます。逆に考えると、真実はあっという間に伝わるので、誠実できちんとした事業であれば、実に安価に、広告もいらずに事業が爆発的に伸びるということになるでしょう。

より深い真実が伝播する
後者(②)については、例えば「証拠とするには足りないが、状況やニュアンスにより真実だと多くの人が直感できる」現象が更に意味を持ち始めるということです。例えば(あまりいい例が思いつかなかったのですが)、社内で不倫している男女が実際に不倫していると証明されるためには現場を目撃されるなどが必要ですが、二人の雰囲気をなんとなく感じたり、いつも同じ時間に二人がいなくなることを知っている同僚は、目撃写真がなくても真実を知ることができます。奥さんの方はそれこそ女の直感で、証拠があろうとなかろうと真実を知る力が厳然と備わっています。これと似たイメージで、ネットの世界での真実は、法廷での証拠には事欠きますが十分に真実を伝える威力があります。冷静に考えてみると証明できるということと、それが真実であるということは全く別の問題で、証明できない真実は世の中に山ほど存在しますし、人と争うことを前提にさえしなければそもそも証明する必要はどこにもないのです。逆の面では、「ウソだと証明されなければ構わない」という事業姿勢は今後致命的になるということでしょう。

この現象によって、多くの人が真実そのものを深く正確に理解するという効果が生まれます。逆説的ですが、論理的な実証を積み上げてたどりつく証明可能な「真実」と、複合的な視点と俯瞰的な視点から直感的に認識できる「真実」とでは、後者の方がよほど深い真実にたどり着くことになると思います。例えば先般のライブドア事件でも、ネットで取得できる多様な情報(無論玉石混交ですが、それでも複眼的に見ると真実が見えてきます)に関心を払うだけでも、その政治的、経済的、アンダーグランド的背景に何が起こっているかが立体的に理解できる人には理解できると思うのですが、実際の法廷の現場で「真実」が明らかにされるまでには何年かかるか想像できないくらいです(それどころか明らかにされないことが大半でしょう)。つまり「人を裁く」という目的を手放しさえすれば、真実はより深く正確に早く認識できるということかもしれません。「人を裁かない」ことによって経営効率が著しく上がる、ということの一現象だと思います。

フラットな情報環境が経営に与える影響
現実的には、このような現象に対して経営が具体的に対応する必要が生じるということです。いまのところ、情報管理や社内規定などのテクニカルな作業やしくみによって対応しようとする経営者が一般的だと思いますが、このようないわば対処療法的な対応では遠からず限界に達することになり、近い将来自分自身と会社の成り立ちそのものを変化させなければ結局解決しないという認識に至ることでしょう。つまり「いかに臭いものに蓋をするか」(世の中では「情報管理」と呼ばれています)、あるいは「問題が起こっても言い訳できる体制をいかに構築するか」(同様に、世の中では「危機管理」と呼ばれているみたいです)という発想から、「勇気を持って臭いの根元をキレイにするしか解決方法は存在しない」という認識へと変化してくると思います。リーダーが会社の中の真実をどんどん吸い上げて開放していかなければ企業の存続自体が困難になり、会社が自浄作用としてクローズ情報を開放する現象が起こってくるような気がします。なお、このときもっとも抵抗を示すのは経営者自身である可能性が高く、この問題は経営者個人の非常にパーソナルな問題に振り代わるでしょう。

具体的な影響の第二は、非常に突飛な発想に聞こえるかもしれませんが、企業(少なくとも一部業種)において、販売行為・マーケティング・広告宣伝が消滅する(すくなくともその重要度が著しく低下する)可能性です。企業のうそのない「あり方」そのものが最大の広告・営業機能を果たすようになるためです。僕が経営を担当していた時期のサンマリーナホテルでは、社内に「うそ」が少なくなり、社員と顧客の間に真実の関係が増えると同時に、広告宣伝費用が全く不要になるという「非常識な」現象が起こっています。

そして第三に、正直でうそのない事業とサービスが、企業にとって成長(あるいは存続)の必要条件になるということです。ところが、いざ「うそのないサービス」を実行しようとしても、「企業方針の決定」、「指示伝達」、「進捗管理」など、今までの経営作業によって達成することはできないのです。組織というものは、「うそをつかないようにしましょう」という指示を出すだけでは全く機能しません。今までの一般的な経営者は、会社のすべてを変えることはあっても、自分を変えることなど考えもしなかった人ばかりですし、取締役会や株主もこのような経営者の価値観を評価する傾向が強かったと思います。このような経営者はこれからの経営環境の変化に直面し、経営という職務を果たしながら非常に個人的な問題に向き合う機会が提供されることと思います。

【2006.11.29 樋口耕太郎】

価格ってなんだ?・所有することの価値(pdf)

僕が子供の頃、昭和40年代前半の盛岡市は素朴なところがたくさんありました。東北縦貫道(高速道路)、東北新幹線、駅ビルのショッピングセンターは開発されていませんでしたし、自宅から学校へ通うバスは1時間に1本あるかないか、バス賃は大人30円こども15円、母親が車の免許を持っていたことが比較的珍しいと言われ、オート三輪のトラックがよく走り、少し町から外れると未舗装の道路だらけ、盛岡から宮古方面へ行く汽車(盛岡では電車と呼びません)はディーゼルの3両編成で無人駅もちらほら、僕の自宅の近所は「新興分譲地」ということでしたが、当の住宅は数件がまばらに立っているだけの状態が何年も続き、周囲は一面のリンゴ園、目の前は豚小屋と鶏小屋だったので、毎朝鶏の声がよく聞こえました。カラーテレビも比較的新しく、白黒の家庭も珍しくありませんでした。

代理電話
現在、電話帳で(代)といえば会社などの代表電話を意味しますが、当時は「代理電話」の意味で使われるのがむしろ普通だったような気がします(おかげで、僕はかなり後になるまで(代)の意味を「現代的に」理解していませんでした)。電話を持っていない家庭がまだ珍しくなかったので、ご近所さんにお願いして「代理電話」の係になってもらい、そのご近所さんの電話番号を知人に連絡したり、学校などの名簿に載せてもらったりしていました。僕の近所に住んでいた老夫婦(子供の目にはそう見えました)の家にも電話がありませんでしたので、僕の家がそのおばちゃん、おじちゃんの代理電話の係という状態がしばらく続きました。

おばちゃんに電話がかかってくると、先方にちょっとお待ちください、と言ってから僕がおばちゃんを迎えにいきます。近所といっても家がまばらな状態ですのでおばちゃんの家に行って一緒に戻ってくるまでたっぷり10分くらい、ひょっとしたらもっとかかっていたかも知れません。その間電話をかけた人は辛抱強く待っているのです。呼び鈴というのもあまり一般的ではなかったので、「おばちゃん、電話だよ」と声をかけます。電話を呼びにいくくらいのことではたいした会話にはならないのですが、それでも「こうちゃん学校は楽しい?」「うん」程度のことはあったと思います。

数年たっておばちゃんの家にも電話が通り、僕の家の代理電話の係は終わりになりました。母親が、おばちゃんの家にも電話が来て便利になってよかったね、と言っていたような気がします。でも、その時以来僕はおばちゃんと話すことはなくなりました。もちろん以前もたいした内容のある会話をしていたわけではないので、だからといって何か不都合があるわけではないのでしょうし、それどころかおばちゃんはもっと沢山の人と自由に話すことができるようになったに違いないのですが。このことは長い間ぼんやり気になっていることのひとつです。

所有価値から利用価値へ
高度成長期以降、消費者はモノを所有することが生活を豊かにする、自分と家族を幸せにすると信じ、それはあまりに自明のことのようでした。これは個人でも家庭でも企業経営でも同様の考え方だと思います。忘れがちなのは「モノをひとつ所有するたびに、人間関係がほんの少しずつ分断される」というメカニズムが働くという点でしょう。モノが個人と社会をどれだけ豊かにしたかを評価するのは各人ですが、人間関係の分断という性質も含めて、所有することの価値を評価するべきではないかと考えています。

そして、これからの社会では利用価値が見直されるのではないでしょうか。これは利用行為が所有によって分断されている人間関係を再び結びつける可能性を秘めているからです。イメージで言えば例えば家電や一部施設を共有する集合住宅の分譲など、ある意味不便な環境を、人間関係本位のうまいバランスでプロデュースすることができれば意外と大きなビジネスになるかもしれないと思います。

一般的な認識ではないと思いますが、利用価値は所有価値と比較して著しく経済合理性が高いという特徴があり、今まで企業経営で注目されてこなかったのが不思議なくらいです。利用価値を事業的に活用するとき、これは財務的にオフバランス資産(含み資産)を増加したことと同様の効果があります。そこから収益を生むことができれば、投下資本(ゼロ)に対する利益率は無限大となり、飛躍的に事業効率を高める可能性があるためです。

【2006.11.26 樋口耕太郎】

那覇地区のホテル開発ラッシュ(pdf)

ここ5年くらいの沖縄地区のホテル業界で注目される動きは、①那覇市内のビジネスホテルの大量供給、②外資系資本による大量買収、③高級リゾート(を狙った)開発、でしょうか。これらにはそれぞれ理由があると考えられますが、よく問い合わせを受ける那覇市のビジネスホテルについて分析しました。

市場概要: 大量供給が需要増とバランス
沖縄本島のホテル開発は2000年から2004年にかけて約20軒(約3,000室)の供給が生まれていますが、この約7割が那覇市内のビジネスホテルだそうです。全国的に見ても異常事態と言えるくらいの大変な開発ラッシュですが、2005年以降もそのトレンドは継続しています。

通常これだけ大量供給がなされると収益性の低下が懸念されますが、今のところ沖縄ブームを追い風とした強固な需要増加によってかなりの底固さを示しています。那覇市内の平均客室稼働率は、2001年の9.11以降上昇傾向にて推移しており、2003年に過去最高の80%程度を達成した後、2003年から2004年にかけて4%程度低下していますが、ADR(客室単価)の上昇によりイールド*(1) はむしろ微増し、市場全体で見た場合の収益性は確保されているようです。

供給サイドの事情
僕の個人的な市場観では、今後も3~5年くらいの間、那覇市内の宿泊特化型のビジネスホテルの供給は依然として増加し続けると思っています。沖縄への観光客がこれほどの増加傾向にあり、需要が伸びていれば当然のようですが、僕はむしろ供給サイドにその主な理由があると思っています。

沖縄都市部は未だに不動産市場の縮小(不況)が継続しており、底打ちまでには早くとも1・2年くらいかかるのではないかという気がします。東京やその他の地域でも起こったことですが、不動産物件は不況時には好況時とはまた違った意味の売買が増加する傾向があります。不動産不況時には、所有者の、破綻、資金繰りニーズ、事業縮小、テナントの退去による不動産事業収益の減少等の理由によって物件が売りに出され、好況期の時以上に町並みがどんどん変わっていく原因となります。不動産不況期の売買は、一般に、売買後の再開発が前提になっているという特色があります。長い間売買されていない不動産や破綻にともなう不動産はそのまま継続的に利用するよりも、再開発を行った方が資産価値が高まるからです。このとき市場は下降傾向にありますので、売買の買い手が作成する収支計画等は硬めに設定され、それから逆算された控えめな売買価格になる傾向があるのですが、逆にそれが売買市場と賃貸(ホテルの場合は室料)市場価格の下落を招き、マーケットが落ち着くまでの間、スパイラル的に下落を続けます。これに加えて、売買=再開発を意味するため、不況期にかかわらず(というより、上記の理由によって、不況期であるがゆえに)不動産供給が著しく増加します。そして、このように売買→再開発がなされるときはその市場において最も価値の高い不動産が多量に開発されます。

東京では高級マンション、那覇ではビジネスホテル
不況期の東京であれば坪350万円くらいの新築高級マンションがそれに該当し、過去10年間は東京の都心部にこのようなマンションが乱立し、東京都心部で人口が急増した大きな原因となっています。これに対して、人口30万人に対して観光客年間500万人の窓口になっている那覇市の大きな特徴は、上記前提における最高利用不動産はマンションではなくビジネスホテルであり、一昨年くらいから那覇のビジネスホテルがとてつもなく増えている理由はこのように説明できると考えています。

不況時の東京の不動産市場を見て、何でこれほど深い不況なのにさんざん不動産開発がなされるのか始めは不思議でした。不動産金融理論の「常識」では、不動産の売買価格が再調達価格(総開発コスト)を上回る、すなわち好景気のときに新規開発が起こるとされていますので、全く理屈に合わないように見えました(こんな感じで、過去において常識というものが役に立った記憶がありません)。

要は必ずしもホテル事業や賃貸事業が上向くと考えて不動産開発がなされているわけではないのです。そして、不況型の不動産売買が落ち着きを見せるまでこの傾向は必然として継続し、誰もとめることができません。幸い沖縄地区の観光客がこれまた著しく増加しているため、このような供給サイドの理由はあまりクローズアップされず、大量供給がそれほど目立った問題にはなっていないようです。ポイントは、このような供給サイドはゆっくりとしたトレンドとして推移するのですが、需要サイドはテロ、食事や文化のブーム、ミュージシャンやテレビドラマなどをきっかけにしてちょっとした市場の変化で大きく伸縮する傾向があるような気がしますので、このような構造を意識しながら事業計画を構築することがプラスになると思います。

【2006.11.24 樋口耕太郎】

*(1) イールド: RevPAR(Revenue per available room)と言われることもあります。客室単価に稼働率をかけたもの。例えば、客室単価10,000円×稼働率75%=イールド7,500円というような計算で表現されます。一般的に部屋あたりの売上効率を評価する際によく利用されています。概念的には稼働率を100%にするための単価と考えることもできます。