前稿、競争原理がもたらした社会(次世代金融論《その6》)について、補足すべきことが四点あります。第一に、前述の通り、競争原理は必ずしも社会効率を高めないのですが、だからと言って、競争原理が「悪」であるとも限りません。消費者としての我々が多様なサービスを安価に利用できるのも、インターネットを通じて膨大な情報を検索・送受信できるのも、新しい事業にどんどん挑戦できるのも、明らかに競争原理がもたらした恩恵です。同様に、アメリカの40年~50年代に象徴されるような規制社会が今よりも好ましいという意味でもありません。その時代には確かに十分な収入と安定した職場が保障されていたかもしれませんが、硬直的な人事組織、能力や人間性が考慮されにくい社会の序列、個人の自由よりも優先される組織の方針、創造性よりも安定性が求められる社会には弊害も少なくありません。

さらに、「世界経済の生態系」にまで視点を広げると、先進国での競争原理の浸透が、全く別の役割を果たしていることが分かります。先進国社会のスピードと流動性が高まり、雇用が不安定になり、労働分配率が激減し、中産階級が崩壊し、著しく格差が拡大する一連の過程の裏側で、先進国のグローバル企業はサプライチェーン(≒仕入れ)の相当部分を、相対的に費用の安い中国、インド、ラテンアメリカを始め、世界中の発展途上国にアウトソースしました。これが世界経済に人類史上かつてあり得なかった規模の成果を生み出します・・・世界中が豊かになり始めたのです。過去15年間で世界経済の規模は2倍以上に拡大して54兆ドルに迫り、同時期の世界貿易は133%伸びました。超資本主義が世界に提供するサプライチェーンは、発展途上国に莫大な利益をもたらすと同時に、消費財の価格を継続的に低下させ、低インフレと経済成長が、恐らく経済史上初めて両立します。この20年ほど、おおむね適切だったと言えそうな金融・通貨政策の効果も加わり、トルコ、ブラジル、インドネシアまで多くの国々を苦しめてきたハイパーインフレがおおむね収束しました。・・・以上の成果として、世界の貧困は今まで人類が経験し得なかった範囲とスピードで激減しています。世界人口の8割を占める国々で貧困が減り、1981年の時点で、地球上の全人口の40%を占めていた世界の貧困層(1日1ドル以下で生活する人たち)が、2004年には14%に低下し、2015年までには12%へ下がるとみられています。今まで「援助」や「支援」の名の元に、多くの人々が散々時間と費用をかけて達成し得なかったことを、超資本主義がわずか20年間で実現してしまったのです。もちろん、貧困問題は完全に解決したわけではありません。特に50の最貧国に住む、世界の最底辺の10億人は、今でも深刻な状態です。しかし、世界全体では、かつてなく希望が持てる状況になっています。

また、超資本主義は、先進国において、過去、いかなる政治も人権運動も成し得なかった均等社会を、短期間で生み出しつつあるという効果があります。激烈な競争環境におかれた企業では、能力以外の理由で従業員を差別するゆとりがなくなったためです。人種、民族、男女差別は、企業と経営者にとって大きなコストを伴う「ぜいたく」な行為となり、アメリカでは教育水準の高い黒人やヒスパニックの多くがアメリカの中流階級へと上昇し、さらにその一部は上流階級へと移動しました。同様に、女性たちも専門職や管理職の地位へと上がってきています*(1)

第二に、競争原理と超資本主義によって、著しい格差、雇用不安、地域社会の不安定化、環境悪化などの様々な、そして中には非常に深刻な社会的弊害が生じているのですが、本稿の議論の目的はその原因となる「悪玉」を見つけることではありません。・・・賃金を極限まで削るウォルマート、利益のために消費者の健康を害するマクドナルド、四半期決算に戦々恐々として従業員を省みない経営者、会社の解体と従業員の大量解雇を事業計画に盛り込むファンド、資本市場の公共性を気にも留めない投資銀行、ウォール街の意向を無視できない政治家、アメリカの意向を無視できない日本の政治家などなど・・・。怒りの矛先を向けたくなる対象は世の中には多く存在しますが、社会の生態系全体で考えると、それぞれの「悪玉」も、超資本主義社会の大きな潮流に適用するために、それぞれの選択をせざるを得ない事情があると考えるべきでしょう。

社会で何か大きな問題が生じるたびに、「悪玉」が特定され、これに制裁を加えることで、問題「解決」とされることが少なくありません。しかし、例えばウォルマートやマクドナルドや市場原理至上主義の政治家など、分かりやすい「悪玉」をスケープゴートとして批判し、(恐らく長い闘争の末に)仮に何らかの規制や罰則を適用することができたとしても、このような制裁は、せいぜい社会のガス抜きに役立つか、良くて小さな問題の対症療法に過ぎず、社会の生態系の根本的な問題解決には殆ど効果がありません*(2)。大きな問題の原因を明らかにして、根源的な治癒を行うためには、現実を直視した現状認識と、社会生態系への理解が何よりも重要であり、これが本稿のアプローチです。現状認識の過程で事実を明らかにするプロセスは、誰かへの痛烈な批判と解釈されてしまうこともあるのですが、それは本稿の意図とするものではないのです。

第三に、ライシュ教授の超資本主義モデルを利用すると、多くの、一見不可解な経済現象(特に、ニューエコノミーと呼ばれた現象)がうまく説明できるように思います。例えば、従来の経済理論によれば、失業率が一定水準以下になると、インフレを併発する筈なのですが、過去20年間の日米マクロ経済においては、このセオリーが当てはまりませんでした。なぜ日本の金利が一向に上がらないのか、経済成長が進行しながら物価が下がり続ける原因はなにか、一般国民が最近までの好景気を殆ど実感できないのはなぜか、などの問いについても同様です*(3)

第四に、超資本主義と経済のグローバリゼーションが、世界中から貧困を激減させ、人種差別や偏見を減らし、より平等な男女関係を社会にもたらしたという事実は、経済が、社会の質を高め、人間関係を改善する、という機能を持つことを示唆しています。このような機能をなんと呼ぶべきか迷いますが、家庭における社会教育機能であり、道徳的規範の推進機能であり、ある種の政治機能であり、宗教が果たす機能の一部でもあるでしょう。経済の目的は、「社会と人を物質的に豊かにすること」とするのが、「常識」なのかも知れませんが、そのような認識は経済の(潜在)機能を、したがって、企業と経営者の社会的機能を、著しく矮小化している可能性があるのです。

そして、特筆すべきは経済がもたらす社会変革の効率の高さでしょう。過去20年間で生じた貧困や社会的偏見の解消を、援助活動や社会運動や政治・外交などによって達成しようすると、どれほどのエネルギーが必要とされるかを想像するだけで、そのパワーをイメージすることができます。ずいぶん昔から、なぜ大学では政治と経済を一緒の学部で教えるのだろうか、と不思議に思っていたのですが、ひょっとしたら、先人がこのような経済の本質を学術的な分類に反映したためかも知れません。

【2008.8.16 樋口耕太郎】

*(1) 本稿のその他のセクションも含めて、 Fareed Zakaria, “The Post-American World (邦訳未刊), W.W.Norton & Co., 2008.4.、 ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』、雨宮寛・今井章子訳、2008年6月、東洋経済新報社(原題:Supercapitalizm: The transformation of business, democracy, and everyday life)、 ロバート・ライシュ著『アメリカは正気を取り戻せるか』、石塚雅彦訳、2004年11月、東洋経済新報社(原題: Reason: Why reberals will win the battle for America)、 ロバート・ライシュ著『勝者の代償』、清家篤訳、2002年7月、東洋経済新報社(原題: The Future of Sucess: Working and living in the new economy)、を参照しています。

このような社会の良い側面もまた、別の問題の原因となっています。世界経済がグローバル化し、貧困が激減し、発展途上国が急速な経済成長を遂げたことによって環境問題が深刻化し、世界の穀物・食糧相場、原油価格が高騰しています。更に、貧困の絶対数は減少しているかも知れませんが、過去30年間の世界の格差は拡大しているという事実があります。この間、世界経済は年2.3%成長していますが、経済的に最も富める国と貧しい国との格差は30年前の10倍になっています。・・・生態系のすべての要素は他の要素に影響を及ぼす存在であり、いかなる要素も独立し得ません。生態系は「すべてでひとつ」なのです。

*(2) 社会の生態系をより良いバランスに導く作業において、「悪玉」成敗は重要事項ではありませんが、だからと言って、「悪玉」がしばしば犯す反倫理的、反同義的、反社会的な行為を見逃しても構わない、ということにはなりません。

*(3) なお、彼の理論に加えて、企業が目先の利益を最優先しがちな超資本主義環境において、食料品・加工食品などに関する物価下落の要因は、添加物の大量利用、農業の化学化による「生産効率」の向上と、商品の実質的な質の低下が大きく寄与しているのではないか、と個人的に疑っています。食品の質を大幅に落とすことで価格も下がりますが、質の低下は物価に反映されにくいためです。