「ギノワンチュー、ウシェーテー、ナイビランドー」
意外な一言を、沖縄県の宜野湾市長選挙から4日ほど経った宜野湾市での現地取材で、市民の一人から「こんな風に私らは今回の選挙のことを言っていたんですよ」と聞かされた。どこかで聞き覚えのある言葉なのだが、最初は何を言っているのかよく分からず、少し考えて、ハッとした。
Rodrigo Reyes Marin/アフロ
これは琉球語で「宜野湾の人を、ばかにしては、いけません」という意味である。
同時に思い起こしたのが2015年5月、那覇市のセルラースタジアム。反辺野古新基地建設のための県民集会で、集まった3万人の人々に、翁長雄志知事が吐き出した言葉は「ウチナンチュー、ウシェーテー、ナイビランドー(沖縄の人を、ばかにしては、いけません)」だった。このとき、安倍首相に向けて放たれた翁長知事の一言に会場がぐらりと揺れた感覚は、きっと生涯忘れないだろう。おそらくは沖縄政治史に刻まれる一言である。
それから1年と経たないいま、ところを変えて、今度は、翁長知事に向けて、ブーメランのように、この言葉が語られていたとすれば、あまりにも皮肉な話である。しかし、今回の宜野湾市長選における「オール沖縄」陣営の立てた志村恵一郎候補が喫した予想外の大敗を説明するには、辺野古問題を強引に争点にしようとしたオール沖縄陣営に対する「宜野湾の人を、ばかにするな」という市民の感情抜きには、どうしてもうまく説明がつかない。
宜野湾市には、辺野古移設問題の原点である海兵隊の普天間飛行場がある。人口はおよそ10万人。その市長選で、志村恵一郎候補は、自民・公明が推す佐喜真淳候補に、得票率で10ポイント以上、票数で6千票近い差をつけられた。事前の「接戦」予測を大きく裏切る惨敗だった。
翁長知事と「オール沖縄」陣営が、宜野湾市民にここまで拒否された理由は決して複雑なものではない。それは「戦うべきではない選挙で、戦えない候補を持ち出し、戦えない戦略で戦った」からだった。
(以下略)
宜野湾市長選の敗北「翁長時代」終わりの始まりか
(2016年02月04日 Wedge Report )野嶋剛より転記。
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先日野嶋さんと会話していて再認識させられたことは、「オール沖縄」とって宜野湾市ほど部の悪い選挙区はないということだ。
沖縄ではとても口にしにくいことだが、「オール沖縄」と宜野湾市は構造的に重大な利益相反関係にある。明らかな因果関係として、「オール沖縄」が辺野古移設を阻止すれば、宜野湾市にとって20年近く戦ってきた「危険性除去」をほとんど振り出しに戻すことになるからだ。これが、「オール沖縄」の最大の矛盾点であり、この問題に対してどのように向き合うかが、「オール沖縄」の理念と哲学を示すことになる。
これが形として現れたのが今回の宜野湾市長選挙だったろう。選挙結果のことではない。どちらが「勝った」から「正しい」とか「民意」だとか、それぞれの陣営の利害に沿った後付けの議論ではなく、選挙という行動に表れる人間と組織の理念の問題だ。こちらの方が、選挙結果よりもよほど重要だと思うのだ。
もともと、宜野湾市において、市政最大の争点で重大な利益相反を抱える「オール沖縄」が候補者を出すということ自体、極めて難しい決断であったはずだ。志村氏が辺野古移設阻止を最大の争点にして選挙を戦うということは、(少なくとも一部の宜野湾市民からは)「オール沖縄」が辺野古移設阻止という自身の目的を実現するために、宜野湾市に「基地を押し付ける」選択をし、その実現のために「落下傘のような」候補者を擁立した、と映るからだ。
この気持ちが「ギノワンチュー、ウシェーテー、ナイビランドー」という先の発言に現れたのだろう。ショッキングな言葉である。多くのメディアで「ウシェーテー」は「ないがしろにしてはいけません」と穏やかな日本語に翻訳されているが、沖縄方言のニュアンスはもっと激しい語感がある。英語的に言えば 「Don’t fuck with me」に近いだろうか。「オール沖縄」がこれほどまでに戦っている「日本政府が沖縄に基地を押し付けている」理不尽な構造が、そのまま宜野湾市に対する 「オール沖縄」の選挙行動に現れてしまっていたとしたら、これほど悲劇的なことはない。
これが理念の重要性なのだ。理念なき反対運動は決して持続しない。「オール沖縄」とはいったい何のための戦いなのだろう。市民のための戦いなのだろうか、市民とは誰のことなのだろうか、何を勝ち取ろうとしているのだろうか。「オール沖縄」が沖縄のアイデンティティを体現する運動であるならば、理念に向き合う重大な転機なのではないだろうか。
【樋口耕太郎】