ジョン・グレイ博士のベストセラー「男性は火星から、女性は金星からやって来た」のタイトルに象徴されるほど、男女には明らかな相違が存在する。いや、「明らかな相違」というのは、余りに控えめな表現かもしれない。生物としての種が完全に異なるかと思える相違が存在する、と考えるのがちょうどいいくらいだ。

私が随分以前から不思議に感じていることなのだが、男女間の驚くべき相違点の数々にも関わらず、一般的な経営の現場では、この相違がほぼ存在しないものとして運営されているのだ。それどころか、男女雇用機会均等法に象徴される、一般社会「常識」に基づくと、男女の生理や性質の相違に言及することや、男女の特筆が異なるという前提で数々の議論を行うことが、むしろタブー視されている。

「女性を活かす社会」というフレーズで喧伝された時期もあったが、これも所詮「(男性が)女性を活かす」という意味合いで使われていたに過ぎない。つまり、一つの(男性的な)価値観の枠組みを前提として、多様性を認める(フリをする)、ということだったろう。つまり、「男女差別をなくそう」、という価値観の裏返しには、「皆男性になろう」という世界観が存在したのではないか?それが言い過ぎだったとしても、「差別をなくそう」という議論は、「みんなに違いは存在しない」、「みんな同じになろう」、という議論に矮小化されているとは言えないだろうか?

さて、私はここでは、差別の議論ではなく、純粋に社会機能の議論として考えたい。・・・男女に(機能の)相違が存在するということは、目的ごとに、機能が劣る性と優れた性が存在するということを認めざるを得ないのだが、社会は(というよりも男性が)それを許さない。

男性、女性、それぞれ得意なところも、苦手なところも存在する。たとえば男性は、直感力に乏しいために(特に重要な)物事の判断が非効率で、我が侭かつ自己中心的で、人の話を聞くことよりも自分の話を聞かせることに関心が強く、一方で打たれ弱く、脆弱で、ひがみやすい。人の関心ごとに注意を払うことよりも、他人を(もっと言えば、自分以外のすべてを)自分の思う通りにコントロールすることを重要視するために、自分の思い通りに行かないことに対して、攻撃的になりがちだ。一般に、論理的な思考は、直感力に比べて著しく非効率である(と私は思うのだが)ため、論理的に物事を捉え続けなければ不安になる男性は、社会全体をどんどん非効率な方向に追いやっているように見える。

一方で、女性は直感力(すなわち判断力)に優れているにも拘らず、その機能を論理的な言語に翻訳する機能を持たないために、その判断の正しさを左脳優先の男性的な社会で(言語的に)証明することができない。「論理的に説明されないものは劣る」「目に見えないものを認めることは非合理である」と解釈する男性には、その直感力の正しさが理解できない。自分が理解できないものを認めることに対する恐れも存在する。

私は、世の中をこれほど悪くしているのは男性(的なもの)だと思うが、これは、男性が悪人だからというよりも、男性的なものの機能的必然だと思う。・・・あくまで社会をよりよくするという目的に対する、機能の優劣の問題なのだ。言葉を変えると、非直感的かつ非効率で、我が侭で、自己中心的で、ストレスに対して脆弱な男性という「機能」 が、社会運営を主導することの必然的な帰結だと思う。・・・これを男女の権力闘争議論にすり替えることから混乱が生じている。

それでは、社会を女性に受け渡せば、うまく行くのだろうか?・・・確かに現在よりはましな社会になるような気もする。例えば世界中の元首が女性になれば、戦争は随分減るのではないか? ・・・しかし、恐らくそれだけでも、相当不十分なのだ。

もし神が存在するのであれば、男女という異なる二つの性を地上に生み出した理由は、絶対に悪意ではなく、善意に基づくものだと思う。対立ではなく、調和を学ぶための、最高の仕掛けだとしたらどうだろう?一方だけが社会を主導すると、バランスを崩すように始めからできているのだ。私は、男性はアクセル、女性はハンドルの機能を分担するときに最高の結果が生まれると思っている。ハンドルから見たら、確かにアクセルは直線的で、攻撃的で、子供っぽい。しかし、その機能がなければ、どれほど正確な判断も無価値である。アクセルからハンドルを見れば、パワー不足で、感覚的過ぎて実効性に欠ける。しかし、ハンドルを信頼せずに動力だけで前に進めば、必ず事故を起こす。・・・これが丁度、今の資本主義社会の姿だ。

とても興味深いパラドックスは、アクセルはハンドルの、ハンドルはアクセルの機能を心底理解することはできないということだろう。両者は互いに信頼することができるだけなのだ。アクセルはなぜハンドルがハンドルなのかということを理解し得ない。ハンドルをハンドルとして認めることしかできないのだ。したがって、理解できなければ信頼できない、という人間関係は非生産的であるだけでなく、協調よりも分裂を生み出し、社会全体を大きく非効率にするということになる。

「理解」とは自分の世界観の内部の作業であることに対して、「信頼」は自分の「理解」を超えるところに存在する。・・・神が男女の相違を通じて、私たちに届けようとしている贈り物は、相手を「理解」するよりも「信頼」するプロセスを通じて、「理解」し得ないものに対して心を預けるということの経験と学びと価値なのではないだろうか?

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ところで、一般的な男性にとって、最も難しいことが「ハンドルを手放す」ということだ。もともとエゴの強い男性性は、人を信頼して舵取りを委ねることが、自分の力を弱くするように感じられるからである。特に資本主義社会は男性的で、人をコントロールし、自分以外のすべてを変えることで生産性をあげた人物が、社会的な力を集め、「成功者」と認識される社会だ。その社会で「成功」を収めて来た男性ほど、男女協調的な社会バランスを受け入れることが困難になる。

私が見る限り男性は、少なくとも長期的に見て(精神的に)本当に弱い存在で、調子の良いときはどこまでも舞い上がる一方で、くじけ易く、一旦心が折れるとそのまま人生を棒に振る人も少なくない。誰よりも人間的な支えを必要とする割に、エゴが強く、人間力に乏しいため、人からの注目や関心や愛情を得るためにには、権威や地位やお金が必要になる。

クラブやスナックという業態は、男性のこの特性を商業化したもので、女性のための夜の店が殆ど存在しないことは、この傾向を明確に物語っていると思う。お金を仲立ちとした、このような業態が、社会にあまりに広範囲に存在するのは、男性が本質的に女性の助けを(大いに)必要としているということの証だろう。

男性はこれほどまでに、女性の支えを必要としており、それは、男性ということそのものなのだ。後は、男性にとって、どのように女性の助けを借りるかというだけの問題であり、女性の助けなしに(男性的な)社会が存続することはあり得ないと言える。

男性にとって、女性に力を借りる方法は、基本的に二つしかない。エゴを捨てずに商業的に手に入れるか、エゴを捨てて、人間関係と信頼関係の中でそれを築くか。・・・もっともクラブ的なもの全てが商業的だとは限りらないし(極めて稀だが)、広い意味で商業的でない結婚の方が少ないくらいだ。クラブやスナック(そして意外に多くの結婚)は、「エゴを捨てずに女性的な支えを得たい」という男性のニーズを(短期的に)満たす業態と言えそうで、逆に考えると男性の人生におけるエゴの費用(コスト)は極めて高いと言える。

男性が自分の弱さを自覚し、女性の助けを必要としていることを認め、お金や力によってではなく、人間力と誠意によって女性の強力を求めるようになれば、世の中の問題の半分は解消するに違いない。

一方で、男性のエゴの強さと、子供っぽさに辟易とする女性は、「経済的な見返りでもなければ相手などしていられな い」と思えるかも知れない。正直なところ、社会の結婚率が長期的に低下傾向にある大きな理由は、男性の収入が長期的な低下傾向にあるためで、この「関係」を裏付るようにも見える。女性が打算的だというのは、確かにそういう傾向があるかもしれないが、それには、それだけの理由があるということか。

しかしながら、男性が子供であるということと、それによって自分の打算を正当化することとは本来別のものであるはずだ。確かに男性は、救い難いほど子供かも知れないが、その子供に対して「請求書」を送りつけることは、決して自分の幸福には繋がらない。女性が男性の「子供性」を、むしろ愛おしく受け止め、男性は自分の弱さを認めて、女性の支えを得るために、誠実に人間性を磨く努力をする。・・・そんな男女の人間関係がどれだけの生産性を生み出すかは、驚愕に値する。社会一般には、男女関係はコストだと考えられている。しかし、実際は、著しい生産性を生み出す、最高最大の組み合わせなのだ。

社会において、人生において、人間関係において、何かがうまく行かないと思うときは、最も近い(男女の)関係に潜んでいる、大きな可能性に目を向けることが、なによりも有効であるような気がするのだ。

【樋口耕太郎】

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