なぞなぞをひとつ。

ある島には、常に真実を語る修行僧と、常に噓をつく詐欺師しかいない。あなたは重要な分岐点に立っており、一方は成功へ、一方は破綻へとつながっている。 そこにふたりの男が現れた。一方は修行僧、もう一方は詐欺師だが、どちらがどちらかは分らない。どちらの道を選択するべきか、あなたは一回だけ質問ができる。あなたは何と問うだろう?

実は、私たちの人生は、まさにこのような状況そのものだ。私たちが直面する様々な問題を解決するためには、真実と噓を見分けなければならないのだが、その難しさは、

①「真実を生きる人」と「噓を生きる人」が社会に混在していて、両者はほとんど見分けがつかないこと
②噓はあらゆる方法によって隠されていること
③しばしば、噓をついている本人が自分の噓を忘れていること
④したがって、単に噓を明らかにすると、大きなトラブルになり得ること

という現状にある。

これは、クレタ人のパラドックス、または、エピメニデスのパラドックスと呼ばれてよく知られている。クレタ島出身の哲学者クノッソスのエピメニデス(紀元前600年ごろ)は、次のような金言を残した。

「クレタ人はみなうそつきである」

この文は真だろうか。偽だろうか。

仮に、エピメニデスが言うように、「クレタ人はみな噓つきである」とすると、この言葉を発したエピメニデス自身もクレタ人であるため、「クレタ人はみな噓つきである」という彼の言葉そのものが噓になる。つまり、クレタ人は正直だということになり、論理が破綻するのだ。

さて、「クレタ人はみなうそつきである」と発言をしたのは、常に真実を語る修行僧だろうか?それとも、常に噓をつく詐欺師だろうか?そもそもこの人物はクレタ人だろうか?それとも、外国人だろうか?この人物が、あなたの従業員だったら、友人だったら、上司だったら、配偶者だったら、あなたはどのように接するだろう?そして、どのようにして人間関係の真実にたどり着くだろう?

このクレタ人のパラドックには、いくつかの回答パターンが存在するが、私の答は、そもそもこの人物が嘘つきかどうかということを見極めることをやめて、まず、「あなたが一番したいことは何ですか?」と聞くことにしている。そして、その人の望むことを、自分のできる範囲で、そして、ここがミソなのだが、できる限りの力で、全力で、サポートするのだ。

常に真実を語る修行僧だった場合、私は彼の夢の実現に、リアルに手助けができる。そして、常に噓をつく詐欺師だった場合、その人物が「望む」と口で言ったこと、しかし、本心からはまったく望まないことを、猛烈なパワーで手助けすることになる。結局、相手がどんな人物であれ、同じように接することが答えだと言うのが私の考えだ。

【樋口耕太郎】