2月27日は私の50歳の誕生日でした。人生の節目の誕生日にメッセージを下さった方々に、「生まれてくる」ということについて、私からお返しのメッセージを差し上げたいと思います。私たちは誰でも、愛の天才として生を受けます。誰の誕生日であっても、そのことをお祝いする日ではないかと思うのです。 ほんとうにありがとうございました。

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私に子供が生まれたとき、なぜこれほど子供に愛情を感じるのか、とても不思議に思った。いろんな人に聞いてみたが、納得できる答えは得られなかった。その理由を7年間考え続けて、自分なりの答えが見つかった。

確かに自分は子供を愛しているのだけれど、それは、そもそも、「子供が親を無償に愛しているからなのだ」、というのがそのときの結論だ。

子供は、親がダメ社員でも、失業中でも、嘘つきでも、犯罪者でも、それどころか、自分が虐待されていても、親をかばい、思いやり、無心で愛する存在である。私たちが一生の間、これほどの愛情を受けることは、実の親からも、配偶者からも、その他の誰からも、殆どあり得ないことだろう。・・・親の愛は決して無償ではない。一般的な子供にとって、愛が条件付であると学ぶのは、自分の親からである。

この世に生を受けたほとんどすべての人にとって、人生でもっとも大切なものは、自分に向けられる無償の愛だとすると、その無償の愛を経験することができるのは、生まれてから3歳くらいまでの期間、子供からの愛のみではないか。私たちの一生で、無償の愛を受ける機会は、この時しかないのである。

子供のために自分の命を投げ出すことができる親は少なくないが、親が子供のために命を賭けるのは、自分が子供を愛しているからというよりも、それ以上に愛されているから、ということはないだろうか?人が本当に大切なもののために命を賭けるのは、太古の歴史から何度も繰り返されてきた一般的な現象である。 自分にとって人生で最も大切な、無償の愛のためであれば、命を引き換えにするのは当然だろう。一方で、子供が親のために命を賭ける話はそれほど聞かない。 それは、やはり、子供の愛が親の愛を遥かに上回っているということではないだろうか?

私は、人は誰でも、生まれてからの3年間で、一生分の親孝行を終了しているのだと思う。人の親にとって、後にも先にも得ることができない究極の愛を、3年以上もの長期間、絶え間なく、惜しみなく注いだのだから。

子供は親に恩返しをするべきだという考え方が一般的かも知れないが、私は、親こそが一生かけて子供に恩返しをするべきではないかと思う。

夫婦の間に愛がなくなっても、子供のために仮面夫婦を続ける親は少なくない。離婚の際に子供を取り合って、血みどろの争いになることもある。両親はそれぞれ、自分こそが子供を養育するのに相応しいと考えるが、現実は、子供の愛を取り合っているに過ぎない。愛しているのは子供であって、親は子供からの無償の愛に執着しているのだ。

このように考えるようになってから、私は、世界がまったく違って見えるような気がした。

世の中には、親不孝な子供だと、自分を責め続けている人は少なくない。自分らしく、一人の人生を歩みながらも、親に対して冷たい自分に苦しんでいる人がいる。反対に、親に対する義務感でがんじがらめになって自分を見失いかけている人もいる。

自分の子供に心からの愛情を感じることができなくて、深く傷ついている親も多くいる。十分な手助けが得られない現代社会で子育てに奮闘する中、愛しているはずの子供に対して、ときには強い怒りを感じ、そんな自分を責めている親もいる。自分が愛情の薄い親だと悩んでいる人が、誰にも相談できずに苦しんでいる。離婚に際して、子供を捨てた親だという社会からのレッテルに深く傷ついている人もいる。

でも、人は誰でも、愛の天才として生まれてきているのだ。すべての人は、この世に生を受けてから3歳までの間に、一生分の親孝行を終了している。親を愛せなくても自分を責める必要はないし、親も子供を愛せないからと悩むことはない。そのように考えることができるのであれば、どれだけの人の心が救われるだ ろう。

年に一回の誕生日は、自分が愛の天才であることを思い返す日にしよう。それはきっと、誰かのためになるから。

【樋口耕太郎】