毎週水曜日、農場で泥まみれになってハタラク援農プロジェクトを始めてから約5ヶ月が経過した。毎週畑でハタラクたび、大きな気付きやインスピレーションや学びを得ることにいつも驚かされる。私の先週のインスピレーションは生産性ということについて。今までで最も生産性の高い一日だったからだ。

僅か4名、実労5時間、延べ20時間の労働で、実に1000坪(1/3ha)をゆうに超えるジャガイモ畑の植え付けを完了した。ひと畝に400個の種イモを植え付け、それが約30畝、1万2000個の種イモだ。4ヶ月後の収穫までに、これが仮に5倍に増えると6万個のジャガイモになる。

収穫したジャガイモ、一個平均200グラム、卸への売値が40円だとすると、20時間相当の労働で、実に240万円前後の売上を作ったことになる。単純に計算して時給12万円、年間2000時間労働に換算すると、一人あたり2億4000万円の所得になる。

もちろん、誰もこのようなペースで働き続けることは不可能だし、畑のコンディションや耕作面積の制約や天候や作業の段取りやチームワークの問題などなど、単純計算のとおりにはならないのだが、それにしても、この生産性の異様な高さはなんだろう?

一般に、農業は生産性の低い産業だと理解されている。毎週畑に出て、知力と体力を総動員して全力で農作業の試行錯誤をしながら、私はこの常識はまったく根拠がないものだと確信するようになっている。

日本の農業は弱いから保護しなければならない、補助金を与えなければならない、自由競争経済から保護しなければならない・・・。政治経済のすべてはこの前提によって立つのだが、仮に、その前提がまったく恣意的なものだとしたらどうだろう。

例えば、現在大きな議論となっているTPPの問題も、まったく異なる前提で、まったく異なる合理性に従った、まったく異なる議論が可能かも知れない。それどころか、日本の政治経済の前提が根源から転回する可能性を秘めているのだが、そのヒントは、毎週訪れる畑の中にある。

着眼大局、着手小局。日本の政治経済やマスメディアの表舞台で農業を語るよりも、心の通った仲間と畑に出て、自分自身の知力と体力の限界に挑みながら生産性を追求する方が、本当の解に近いような気がしてならない。

農業の現場に深く関わって分かったことは、農業とは驚くほどの生産性をもった業態だと言うことだ。考えてみれば、種を蒔いて4ヶ月で収穫。初期投資を殆ど必要とせず、僅か4ヶ月後に現金で回収、しかも、一粒の種から(作物によるが)100倍以上に増える産業など他に存在しない。

一般的な農家は経営学を学んでいる訳でもない、財務に明るい訳でもない、しかし、何十年もその業を営むことができる。裏を返せばそれほど事業的に安定し、生産性が高く、運営が容易な産業なのだ。

どんなハイテクIT企業、金融工学、投資、製造業、サービス業を見ても、これに比するだけの恵まれた事業形態を探すことは容易ではない。そういう目で見ると、確かに飲食業など、毎日のように廃業する業態と比べると、農家の廃業率は非常に低いと言えるだろう。

最大の問題は、農家であれ、農協であれ、行政マンであれ、政治家であれ、農業に関わる殆どすべての人たちが、「農業の生産性は低い」という世界観を持っているということではないか?

先のジャガイモの植え付けの莫大な生産性を見て、端で見ていた農家や「農業の専門家」たちはただただ驚愕していたが、私に言わせれば、いわゆるきちんとした大手企業や、市場で先端を走るビジネスの世界で、当然になされている原理と知性とチームワークを発揮しただけの話なのだ。

本来は、生産性の著しく高い農業に対して、生産性が低いという常識(世界観)を持って対処すれば、著しい余剰価値が生まれて、逆に誰も働かなくなる。結果として、現場(農家)の生産性が著しく低下するのは当然の原理なのだ。

こんなことを言えば、批判を受けるかも知れないが、農業の生産性が低い(ように見える)のは、農業そのもののせいではなく、農家の(世界観の)せいだ。農業の生産性が低いという世界観で仕事に向かえば、そのイメージは現実になり、確かに「生産性の低い農業」が生まれる。

その「現実」を所与として、社会の枠組みを構築すると、現代農業と現在の我々の社会のようになる。次世代農業の解が、既存社会のパラダイムの外に存在すると私が考える所以である。

ダイハチマルシェ便り「躍進を遂げるじゃがいも隊」http://t.co/EjuEO6GJ|たかが植え付けと思うなかれ。農業生産の大原則は、植え付けの量を決して上回ることはできないということ。植え付けをどこまでも追求するということは農業生産の本質のひとつでもある。

【樋口耕太郎】 (2011年11月6日のツイッターより)