大学経営の最近のトレンドのひとつは、リベラルアーツ(Liberal Arts: 教養)教育への関心が高まっていることだろうか。就職率100%で有名になった秋田の国際教養大学など、教養教育をウリにしている大学の急成長が各種メディアで取り上げられていることがその一因だろう。入学者の大幅な定員割れが大問題になって久しい大学経営の現場にあって、学力の高い学生をヤスヤスと集め、入学定員をラクラク確保し、就職氷河期においても名だたる大手企業から引く手あまたという事例が、経営難に喘ぐ学長、理事長の関心を引くのだと思う。 多くの大学で、「国際教養」を冠した名称の学部・学科が新設・強化されているが、早稲田大学や上智大学が新設した国際教養学部、法政大学のグローバル教養学部などもこのスタイルで、典型的に100%英語教育、留学必修などのプログラムが導入されている。日本におけるこれらの動きは、学問や教育についての本質的な議論によるというよりも、大学経営の「成功事例」を起点にしているように見える。
アメリカ社会におけるリベラルアーツ大学は、学士限定、少人数で、全米に150校程度 存在し、個別の専門分野に偏ること無く、社会の全体最適のために学問を指向する。オバマ大統領の卒業校として話題になったオクシデンタル、スティーブ・ ジョブズが入学したリード・カレッジ、ヒラリー・クリントンやクリントン政権で国務長官を務めたマデレーン・オルブライトの出身校ウェルズリー大学など、 リベラルアーツ大学は社会に大きな影響を与える逸材を少なからず輩出している。リベラルアーツ大学の卒業者数は、全大学の僅か1〜2%でありながら、歴代大統領を12名も輩出しているし、最近10年間のノーベル賞受賞者53名のうち、実に12名がリベラルアーツ大学出身である。「教養教育」のパワーに目を見張らざるを得ない。
そもそも、教養教育とは何だろうか?私も教養教育には、専門教育以上に大いなる価値があると信じている一人だが、私の超解釈では、「世の中は見かけと違うから」ではないかと思う。物事が見かけ通りに機能するのであるならば、専門教育が全体最適を導くはずなのだが、現実の人生や社会の法則は、まったく正反対と言って良い。最悪に見える出来事が人生最高の転機になったり、合理的だと思った処置が想定外の要因によって非効率になってしまったり、ある目的のために 行った行動が、まったく異なる結果をもたらしたりすることは、誰もが、そして何度も経験していることだ。見かけと違う、真の法則を導くために、そして、実社会において直面する様々な問題を乗り越えるめには、物事に対する深い洞察が必要で、その洞察を得るためには、多様な知識や、深みのある解釈や、物事のつながりや、因果関係の広がりを理解しなければならない。変数を繋ぎ合わせ、視点を変え、思考を深め、行動を通じて、現実社会で応用しなければならないの だ。逆に考えると、ちょっと乱暴な言い方だが、「世の中は見かけと違う」というメッセージを発するものであれば、教養教育と言えなくもない。
教養教育は社会のエリートのために施されてきた歴史があり、教養とはエリートのものだという常識が強固に存在するのだが、私はそれはまったく根拠のないことだと思っている。先日も沖縄大学で教養教育の可能性を議論していた時に、ある先生が、沖縄大学の学力水準ではとても教養教育は不可能だと断言していたが、世の中が教養教育をどのように定義しようと、取り敢えず私には関係ない。
その意味で、私は私なりの「教養教育」を試みている。もう4年半くらい続けている「次世代金融講座」も、沖縄大学での講義も、あるいは事業再生の現場でも、私が基本的に行っていることは一つだけだ。「事実」と「その解釈」。皆が共有できる事実を挙げ、これを「常識」とはまったく異なる視点から解釈することは、「世の中は見かけと違う」ということを思考するプロセスだ。事実はひとつでも、解釈が異なれば問題解決のための合理的な道筋が異なる。人にとっての 合理性が変われば行動が変わり、後は皆が勝手に人生を変えて行く。これは、教養を学ぶということの一つの形だと思うのだ。
このアプローチの素晴らしさは、異なる解釈を提示するだけで後は相手の思考に委ね、人をコントロールする必要がないということだ。人の意見や行動を変えようとすることほど、無駄なエネルギーを要し非効率なことはない。人は「事実」を変えようとするが、「解釈」を変えた方がよほど効率と生産性が高い。だから 本当の意味で教養を学んだ「エリート」は、自分に向き合う習慣があり、生産性が高いのではないだろうか。
【樋口耕太郎】