現代社会の企業や組織において、従業員はどれだけ働いても幸福になりません。これは、幸福の実現が難しいからではなく、目的と手段を混同しているからではないでしょうか? 問題解決でも、経営計画でも、事業戦略でも、組織改革でも、でも、それが組織のほんとうの「目的」として相応しいかどうかを突き詰めて考えている経営者に、私は殆どお会いした記憶がないのですが、それは偶然ではないと思います。

ほんとうの目的を特定するために私が試みるアプローチのひとつは、現在の超・高望み、自分の中の究極の目標が120%実現した世界を想像してみることです。沖縄大学の同僚が先日、「どんなに綺麗ごとをいっても、母校の学力水準が低ければ、やはり胸を張れない自分がいる」とおっしゃっていました。私は、 「沖縄大学が数年後、2位以下を大きく引き離した沖縄随一の教育水準に到達し、入試難易度、志願倍率、偏差値、就職率、沖縄県政への人材輩出度、その他すべての面において、琉球大学を遥かに超える存在になったとして、それは、ほんとうに、私たちが望むことでしょうか?それが実現したとき、私たちは琉球大学よりも幸福になっているでしょうか?」と申し上げました。「必死で努力した数年間の後、今度は東京大学に対して、かつて我々が琉球大学に抱いていた気持ちを投影し直すだけにならないでしょうか?」

・・・現代に生きる私たちの大問題は、「私たちの思いどおりにならない現実」にあるのではなく、「私たちの願望は、私たちを幸福にしない」ということではないでしょうか? 自分のやりたいことがあり、貫くべき正義があり、それらの実現を妨げる制約が「問題」と定義され、その「問題」を取り除くプロセスが 「問題解決」だとされています。しかし、前述の通り、その「実現すべきこと」とは、ほんとうに価値のあることなのでしょうか? 排除すべき「問題」は、本当に私たちに有害なものでしょうか?

もっとも典型的なものは「経済成長」でしょう。私たちの社会は随分長い間、経済成長が社会問題の万能薬であるかの如く振る舞ってきましたが、どれだけ一人当たりのGDPが増加しても、私たちの幸福度は上昇しないどころか、低下し続けているという事実があります。自然を破壊し、人を飽くなき労働に駆り立て、家族を分断し、共同体を解体し、社会を疲弊させながら、人々の幸福にも寄与しないのであれば、私たちは一体何のためにそれをしているのでしょう?この問いに答えることができる政治家や経済学者はどこかにいるのでしょうか?

私たちは、お金を稼ぐのも、偏差値を上げるのも、結婚するのも、就職するのも、人間関係を改善するのも、おいしいものを食べるのも・・・それらのすべては、つきつめると、誰しもが幸せになりたいという「目的」のための「手段」であるはずなのですが、現実には殆どの場合、それ自体が目的となってしまっているように見えるのです。大学経営でも同じで、教育改革、組織改革、ナントカ改革、対策、管理・・・そのすべてが目的化している以上、学生と教職員の幸福という最も肝心なことは、永遠に先延ばしされています。

私の発想では、シンプルに、その逆をすればよいと思うのです。ひとり一人が幸せになるために、経営のすべて、仕事のすべてを行うということ。それがどんなに小さなことであっても、当たり前の日常業務に思えても、もう一度自分の仕事や、人間関係を見直して、いま、この作業が、目の前の人を、あるいは、その他大勢を長期的かつ本質的に幸せにするだろうか? つまり、「いま、愛なら何をするだろうか?」を人間関係のあらゆる接点において問い続けること。そして、 自分の言葉や行動が、人を幸福にしないのであれば、それがどれだけ重要なものに思えても、それを停止するということです。

そして、経営がすべきことは、この一見突飛な発想を肯定すること、みんなのこの作業を応援して背中を押すこと。みんなを勇気づけること、怖れを取り除くこと、結果に責任を取ること、これだけです。このような見方で、日常業務を見直すと、私たちがやるべきこと、やめるべきことが随分はっきりしてくると思うのです。

【樋口耕太郎】