友人から、「限られた沖縄という地域に複数の高等教育研究機関が混在する意義とはなんでしょう」というご質問を頂きましたので、私なりの回答を試みます。

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私の個人的な考え方に過ぎませんが、そもそもいかなる高等教育機関であっても、それだけで存在意義が生じることはないと思います。私は、沖縄という地域に1つであろうと、10件あろうと、存在意義とは無関係だと思います。

この議論は、例えば、まずいそば屋が、地域に一件しかなければ、本質的な存在意義が向上するのかどうかということに似ていないでしょうか?どんなにまずかろうと、そばが食べられるという事実に意味を見いだす世界観を前提にすると、存在意義が生じることになります。

一方で、まずいそばを食べるくらいなら、別のものを食べた方が良い、という世界観に生きる場合、・・・すなわち、人生において質を重視する考え方と言えると思いますが・・・ 情熱のない、創造性のない、緊張感のない、高等教育機関に通わせるくらいなら、本土や海外に子女を送った方がましだ、と考えるでしょ う。

この議論は、地域格差などの社会問題とリンクして議論されることも少なくないと思います。「おらが村にも学校」という考え方ですが、私は正にこのような考え方が、現在の沖縄を悪くしていると感じます。たとえば、すべての村にも似たような病院、ホテル、野球場、公民館、ショッピングセンター・・・、という考え方でなされる都市開発は、まったく無個性な地域社会を生み出しています。

地域社会に特定の施設が無かったとしても、それがハンディどころか強みになることが珍しくありません。例えば、宮古島ややんばるなど、かつて貧しかった地域の出身者やその一族が、現在の沖縄社会で活躍し、重要な役割を担う人物を多く輩出しているなど、地域に教育機関が存在しなかったことが、却ってその地域 の出身者の心を鍛え、より広い世界に目を向け、ひいては社会に寄与する人材を輩出しているという事実があります。すなわち、教育機関が存在しない地域ほど 教育熱心だというパラドックスです。東京でも、活躍している人は、地方出身者が多いという印象です。

結局、「おらが村にも学校」という世界観は、教育問題ではなく、土木と補助金と雇用という本音を、表面的な教育議論にすり替えているだけなのではないでしょうか。

別の角度から表現すると、存在意義と数量を切り離すという考え方は、人生において、質を重視する生き方でもあります。私は、「数を追う」という価値観に支えられた社会(典型的には資本主義社会そのもですが)は持続性を持たないと考えています。唯一永遠の成長が可能な概念は質でしょう。その意味で、我々の社会を永遠に向上しようと考えるのであれば、質を選択する以外にないと思うのです。

さらに、逆の発想においては、たとえばある地域に「過剰」と思われるボリュームの高等教育機関が存在していたとしても、必ずしもその存在意義が薄れるとは限らないと思います。たとえば、欧米の大学都市などでは、まったく何もないほどの小さな村に、世界レベルの大学が存在する事例が珍しくないことを考えると、地域内の需要と高等教育機関の供給量は殆ど相関性がありません。むしろ、過疎地域に教育機関を誘致することで、学習環境を整え、教育の質を向上させる ことが可能です。日本でも、秋田の国際教養大学や、大分のAPUなどの事例があると思います。

地域的にも、例えば京都は人口あたりの大学数が、確か日本一だったと思いますが、地元の経済規模に対して「過剰」な高等教育機関を擁しながら、地元では「学生はん」と呼ばれて、外部から京都に学ぶ学生がとても大事にされていると聞きます。

要は、世界から人を惹き付ける魅力ある事業力の有無が、存在意義を生み出す唯一の源であり、オンリーワンの個性を発揮する魂がなければ、どのような大学であろうと無意味だと思います。

特に、既に拡散しているインターネット上の教育プログラムは、極めて優れたものが多く、価格もただ同然で、学習効果も高く、単に知識を提供するだけの教育は、完全に陳腐化すると思われます。まずは英語圏から始まっていますが、日本語圏にその影響が及ぶのも時間の問題でしょう。沖縄大学のことを振り返って、 イメージで表現すれば、我々は琉球大学や沖縄国際大学と競合しているのではなく、TEDと競争する時代が既にやってきているという認識を持つべきでしょう。「TEDには到底かなわないだろう」と考える前に、そのうえでいかに独自性を発揮するかという、まったく異なる次元のパラダイムが必要なのであり、これが、事業力の本質の一部であり、現在沖縄大学が(というより、日本の大学全般ですが)必要とする経営力だと思うのです。

この問題は、旧パラダイムでは到底不可能に感じられますが、パラダイムを転換することで、すなわち自分自身の世界に対する見方を変えることで、実は、容易に実現が可能なのです。

【樋口耕太郎】