27日の誕生日に、フランス人、ティエリー・デデュー作の絵本『ヤクーバとライオン』を読んだ。
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舞台はアフリカ奥地の村。この村の男子が成人するための通過儀礼は、槍と盾だけでライオンと戦うこと。ライオンを倒して帰ることで一人前の名誉ある戦士として認められるのだ。
成人の祭りの日、ヤクーバも野に向かい、一頭のライオンと出会う。ところが、そのライオンは伏したまま、立ち上がろうともせず、ヤクーバに目で語りかけてくる。
「見てのとおり、わしは傷ついている。夜通し手強い相手と戦って、力も尽き果てた。お前がわしをしとめるのは、たやすいことだろう。」
「お前には、二つの道がある。わしを殺せば、立派な男になったといわれるだろう。それはほんとうの名誉なのか。 もうひとつの道は、殺さないことだ。 そうすれば、お前はほんとうに気高い心を持った人間になれる。 だが、そのときは、仲間はずれにされるだろう。 どちらの道を選ぶか、それはお前が考えることだ。」
ヤクーバは立ちすくみ、夜通し悩み考え、ついに夜明けが近づいたとき、ライオンをそのまま残して村に帰る。
ヤクーバが手ぶらで戻ってきた瞬間から、村には冷たい空気が流れた。村人から蔑まれたヤクーバは、勇士たちの戦列からはずされ、牛たちの世話係を命じられる。
絵本の最後のページは、ヤクーバの寂しそうな表情と、印象的な言葉で締めくくられている。
「たぶん、そのことがあったからだろう。村の牛たちは、二度とライオンに襲われることはなかった。」
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私たちの社会は、どれだけライオンをしとめたかで、その人の成果や収入や人格まで評価されると言ってよい。その過程で、傷ついたライオンを、殆ど何の勇気や努力も要せずにしとめたとしても、社会は私たちを「勇者」として受け入れる。実際にライオンをしとめるだけの力があろうとなかろうと、社会は殆ど関知し ない。
しかしながら、力尽き果てたライオンにとどめを刺すだけの行為が、その栄誉に値しないことは明らかだ。その事実は、多くの場合、誰にも知られることはないが、自分だけはその嘘を知っている。
一方で社会から受け入れらないということは、殆どの人にとって最大の恐怖のひとつだ。その怖れから逃れるためであれば、命を懸けて猛獣と戦うことを厭わないほどのものなのだ。明らかに、人は、猛獣と戦う恐ろしさよりも、人から蔑まれる恐怖を強く感じている。
ヤクーバとライオンの物語は、真の勇気とは何かを私たちに突きつける。もっとも恐ろしいものに立ち向かう心、自分を偽らない心、人の目よりも自分の目に正直であり続ける心。殺さない勇気。自分の名誉のために、社会の名誉を捨てる勇気。
歳をひとつ取る、ということの意味は、真の勇気に一歩近づくものでなければならないと思う。自分はそんな一年を送っただろうか、今日はそんな一日だっただろうか、明日はもう一歩先に行くことができるだろうか。このことを、ひとときも、忘れない心を持ち続けられますように。その心を持って、すべてのひとに、 どの瞬間も、接することができますように。
【樋口耕太郎】