1989年のバブル華やかりしころ、私は新卒で野村証券に入社し、岐阜支店営業課に配属になった。バブル時代の証券営業は激烈だった。野村証券は当時日本でもっとも厳しい会社の代名詞とされていたが、実際に入社してみてその評判に違いはなかった。
ある金曜日の夜、ようやく仕事を終え、新入社員同期4名で、柳ヶ瀬(岐阜市の歓楽街)に飲みに行こうということになり、そちらの方向に連れ立って歩いていた。すると、向こうから営業課の吉川課長がずんずんと歩いてきて、私たち新入社員のことに気がつくと、声をかけてくれた。
「おぅ、お前たち飲みに行くのか」
「ハイ!」
すると、吉川さんはおもむろに自分の財布を取り出し、一瞬の躊躇もせずに1万円を「ピッ」と取り出すと、私たちに差し出して言った。
「これ、飲み代の足しにしろ。お疲れ!」
吉川さんは、そう言い残すと、さきほどの勢いで、またずんずんとどこかへ歩いて行った。
これはもう、20年以上前の話だが、なんといっても、お札を差し出すときに、彼がまったく躊躇しなかったことが、強く私の心に残っている。それは単に、彼の気前がいいということではなかった。吉川さんの意識は、新入社員の私たちの心に向けられていたからだ。
野村証券の社員であれば、誰しも営業の厳しさを痛いほど経験している。新入社員が人生をかけて必死に努力している姿に対して、「金曜日の夜に報酬があるのは当然だろう」、という気持ちが彼の行動に現れていた。それを私たちが受け取ることが、当然であるかのようなそぶりだったのだ。その1万円札を通じて、「いまの辛さも、お前たちの頑張りも、ちゃんと分かっているぞ」といってくれているような気がしたのだ。
お札の額面は1万円だったかも知れないが、私たちにとってその価値は明らかに1万円を超えていた。私はこのとき吉川さんから、お金は、使い方次第で額面以上の価値が生まれるということを学んだ。
それ以来20年間、このことを時折思い出すたびに、1万円以上の価値が生まれた理由は何だったのだろうか、自分にはそのようなお金の使い方ができているだろうか、と考えている。
【樋口耕太郎】