沖縄大学に来てから約6ヶ月。大学内部で働くことは、私にとって初めて見聞きすることばかり。考えさせられることが山ほどある。誤解していたこと、とても見直したこと、興味深く感じること・・・。お陰で毎日がとても新鮮だ。

日本でも極めて特殊な沖縄という地域の中で、最も特別な立場にある(と私は思うのだが)沖縄大学は、物理的にも、社会的にも、経営的にも、教務的にも、日本の大学教育システムと、私立大学経営の問題点が、最もデフォルメされる場所でもある。

周知のことだが、沖縄県は本土に比べて最も大学進学率が低く、いわゆる偏差値という物差しで測れば、国立私立を問わず全国最低水準であり、特に私立大学においては、定員充足率、退学率、就職率、GPA、奨学金滞納率、いずれも急速に悪化する傾向にある。

沖縄において問題が先鋭化している面はあるのだが、この現象は日本の全国的な現象だ。18歳人口は10年前(1992年)にピークを打ち、205万人から、120万人まで4割以上減少する一方で、大学の数は1985年の450校から実に1.7倍増えて780校を超える。

需要が激減する市場環境で、供給が1.7倍になれば、経営が悪化することは明らかだ。現時点で全国の私立大学605校のうち、264校が定員割れを起こしており、この状態は改善されるどころか悪化の一途である。

近年では、大幅な定員割れにより、募集停止を行う大学が出始めた。それでも、これほど急激な需給ギャップが市場に生じながら、2003年、2009年にそれぞれ(わずか)3校、5校に留まっているのは、全国的に大学への進学率が急増してきたためだ。

1990年代の初めまでは、おおよそ25%前後で推移していた大学進学率は、18歳人口の激減を「相殺」するかのように急上昇し続けており、右肩上がりに現在の約55%まで一直線に倍増し、今後も(少なくとも暫くは)上がり続ける様相だ。

結果として、驚くべきことに、18歳人口がこれほど減少する中で、少子化がこれほど大きな社会トレンドである中で、大学への入学者数は、いまもって増加傾向にあるのだ。

つまり、バブル崩壊以降、現在に至るまでの約20年間、それまでの時代には大学進学を考えなかった高卒就労者、専門学校生、短大生が、一斉に大学に入学し始め、増え続ける大学の定員を辛うじて埋めてきたのだ。

それでも18歳人口の減少率には追いつかずに、大学の定員倍率は下がり続け、大学進学希望者=大学入学定員枠、すなわち、選り好みさえしなければ誰でもが大学に入学できる、「全入時代」が到来した。

以上の必然的な結果として、日本が過去全く経験したことのない規模で、高等教育に急激な質の変化が生じている。悪く言えば、乱立した私立大学が無理矢理定員を埋めるために、学生の(学力の)質をとことんまで落とした結果とも言えるし、前向きに捉えれば、高等教育の裾野が大幅に拡大したとも言える。

明治維新以降、日本の高等教育は、いわば「エリート」のために設計・運営されてきた。学生の学習意欲、IQ、知識量の水準の高さは所与であり、教員は「最高」水準の学生に十分な注意を向ければ、無条件に生産性が生まれた。社会の中で極めて特殊な属性を持つ「エリート」だけを相手にすれば良かったのだ。

日本の大学経営は官公庁並みに守られ、破綻することなどほぼ考えられず、したがって、経営機能は長らく、というよりも、大学の歴史が始まって以来、一度も必要とされたことはない。結果として、大学内部には、教員・職員を含め、経営的な視点と経験を持つ人材が殆ど存在しない。

経営リスクがゼロで、経営機能を必要としない組織が、官僚化、形式化することはことのならいであり、実際大学の「運営」とは、統合的・戦略的な視点を持たない、対症療法の連続であり、戦略的な結果を生み出す要素が組織内部にほとんど存在しない。

それでも、経営的に余裕がある時代においては、組織に多少の窮屈さはありながら、盤石な経営が揺るぐ要素はなかったのだが、ここに来て、人口動態と市場と学生の質的な変化が急激に生じている現実に対して、大学は対応すべき糸口を掴めずにいる。

学生数が定員数を下回り、学生の選択肢が増えると同時に、定員充足率、退学率、平均学力、就職率などの基本指標が悪化する。大学は目先の数字を埋め合わせるために、学生に迎合的になる。教育はサービスになり、学生はお客様だ。教員は学生からの評価を気にし、職員は退学予備学生を腫れ物扱いする。

入学希望者を増やすために、「人気」学科を設立したり、「目玉プログラム」を導入するなどの対症療法を繰り返す中で、教職員の負担は増加し、一人当たりの業務量は増加する一方だ。

学生の学力が低下し続けているため、学生には大いに情熱を注ぎ、一層の意識と時間をかける必要があるのだが、現場の教員の時間と自由度は減るばかり。そもそも、「エリート」のためではなく、「高等教育の大衆化」に合致した教育ビジョンと、具体的なプログラムの開発が必要なのだが、そのような本質に取り組む余裕はまるでない。

仕事が窮屈になり、人が減り、一人当たりの業務が増え、その中で過去誰も経験してこなかった急激な質の変化に対応しなければならないのだが、経営機能が存在しないために、組織的なバックアップは存在しない。大学における「リーダーシップ」とは往々にして形式論の管理者であり、現場の教職員はしばしばはしごを外される。

形式が尊重されると、真実が隠され、人が欺かれ、傷つき、心が折れ、最も重要な現場の活力が失われ、実際に大学の現場では鬱や休職者が増加傾向にある。大人(教職員)が元気でいられなければ、学生が活き活きと学ぶことなどできるわけがない。学生が手本とすべき大人が皆暗い顔をしているのだから。

組織の根源的な問題を特定し、それを治癒する行為以外の一切の処置は対症療法に過ぎず、疲弊した組織内部に報われない仕事を量産することになる。それでも努力しようとする現場の職員は、まるで日露戦争で二百三高地を戦う日本軍のようだ。

重要な点は、その「根源的な問題」とは、例えば生活習慣病と同じで、ひとつのことが原因ではないということ。言葉を変えれば、全てが原因であるということであり、経営の全ての要素について全体のバランスを変える必要があるのだ。

学生の裾野が急拡大したことで、学生の基礎学力の低下が著しく、現場では以前よりもすべきことが増えている。退学を減らすために学生の相談にも乗る、一緒に食事や旅行にも行くが、肝心の教育が手薄になり、授業の魅力が乏しくなり、学生も教員も意欲が減退する。

GPAは上がらず、基礎学力も伸びず、退学者は増え、大学は社会が必要とする人材を育てきれず、就職活動にも大いに支障が生じる。就職率が下がり、「出口」が不安定な大学と看做されれば、入学希望者を減らすことになり、定員がさらに割れていく。

大学の「経営陣」が焦り始めると、学科を増やしたり、減らしたり、組織を改編したり、増やしたりするのだが、目に見える形をいくら変えても、治癒にはならない。それらの全ては、結局本質を外しており、現場に無為な負担を強いる。

教育の質を高めることは、確かに本質に近い重要課題だが、殆どの場合、大学が得意とする形式論の域を出ることができず、外形的なプログラムやしくみの議論に矮小化されてしまい、形を作るのが「経営」、その他全ては現場、という分担になるだけだ。

また、仮に首尾よく教育の質を幾分高めることができたとしても、同期間において入学者の質がそれ以上に低下し続ければ、ネットの成果はマイナス。ハードルは上がる一方である。どこかでこの悪循環を断ち切らなければならず、それが経営が果たすべき役割だろう。

問題は、運営費用を削り続け、人への投資を怠ってきた結果、現在教職員のキャパシティが限界に近い状態だと言うことだ。人事、法務、戦略企画、事業開発などの機能は事実上存在しないに等しい。経営者も事務に忙殺される有様で、同時に授業も担当している。つまり、経営機能を必要としていなかった時代の構造のままなのだ。これでは、竹槍で大戦を戦えと言っているようなものだ。

このように、組織の体力が消耗している状態で、化学療法(対症療法)を施せば、効果が出る前に衰弱して、それこそ立ち直れなくなるのだが、それ以外の対処方法、すなわち本当の意味での経営を理解し、実践するものが存在しない。

私が今までに経験してきた、事業再生案件は、どれも似たような状態だとも言える。お金なし、人材もなし、アイディアもなし、意欲もなし、再生が必要な企業なのだから当たり前だ。

「何かが足りない・・・」という発想をした瞬間に再生など不可能だし、「やってみなければ分からない」ことを悠長に試す余裕は再生企業にはない。確実に、短期間で、資源を(殆ど)使わず、現場の負担を増やすのではなくむしろ減らしながら、全くゼロから付加価値を生まなければならない。

しかも、大学という組織は、最も上意下達が機能しない組織のひとつだ。無理矢理物事を変えようとすると、歪んだ政治力の行使になり、人間関係が嘘にまみれ、現場が傷つく。実は、大学とは、現場に限りなく奉仕するサーバント・リーダーシップが最も機能する組織でもあるのだ。

さらに、大学のような知的作業中心の事業体は、教職員の意欲と情熱が、生産性に著しく影響を及ぼすという重大な特徴がある。経営が指示をして現場に何かをさせるのではなく、現場が元気になるために経営資源のすべてを活用する。

大学が「学生を元気するしくみ」であるならば、教職員が最も元気でなければならず、現場教職員の悩みや怖れに真摯に耳を貸し、それがどんなに小さなものであっても、受け止め、理解し、できることから対処することがなによりも重要なことなのだ。

会議を追加するくらいなら、組織を増やすくらいなら、決まりをもう一つ作るくらいなら、一人でも多く、少しでも長く、できるだけ深く、現場の声に耳を傾けるべきだろう。そのために、自分の時間の全てを空ける。これが今必要とされる経営機能の本質であろう。

私の感覚では、贔屓目に見ても、現在のままで沖縄大学が20年後に存続している確率は10%程度だと思う。10年後であれば40%位だろうか。・・・この予測が当たるかどうかはあまり重要ではない。そういう前提で、経営機能のすべてを見直す、程よい緊張感と真摯な姿勢が重要なのだ。

そのような危機感の中から、組織に必要な、ほんとうの優先順位が見えてくる。カギは常に人であり、人の心に火をつけるのは、正直なメッセージと、愛に裏付けられた情熱でしかない。 そんなリーダーが求められている時代なのだ。

【2012.10.26 樋口耕太郎】