①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。
これは、愛の定義であり、マスターの行動原則であり、リーダーの登用基準であり、人と組織と事業を動かすリーダーシップの原動力でもあるのですが、運用に際して、(i)正直な人材は必ずしも「有能」な人材とは限らないが、有能な人材を登用せずに組織や事業がまわるのか、(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、(iii)自分が心からしたいことをしている人材が、本当に機能的と言えるのか、という三つの重要な疑問が提起されるのではないでしょうか。
善人はなまくら刀
(i)について、実際、一般的な経営者にとっては、従業員が正直かどうかに拘らず、単に「有能な」従業員を重用する方がよほど確実で、即効性があり、「合理的」な人事だと思われるに違いありません(そして、実際、世の中の殆どの企業ではそのように運用されています)。しかし、これまでの議論を前提とすると、長期的あるいは本質的な企業価値の向上においては、「有能」な人材よりも正直な人材をリーダーに登用する方がよほど効果的(かつ合理的)である可能性があり、もしそうであるならば、目先の効果に捉われずに正直な人材を組織で活かすことのできる者が、本当に力のある(成果をもたらす)経営者であると思います。
正直な従業員と「有能な」従業員の関係は、「良い売上」と「悪い売上」の関係にイメージが重なります(2007年4月16日のエントリー『売上論《前編》』をご参照下さい)。前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つという仮説ですが、この考え方は一般的な経営と人事の諸問題をうまく説明できるような気がします。人材の「能力」は収益を規定しますが、人材の「人格」は事業力と企業価値を規定します。したがって「能力」に偏重して人材を登用したり(いわゆる「実力主義」というものです)、売上の額や収益を第一に人事を考える経営者は「収益を見て事業を見ていない」状態に陥りがちで、短期的な(とはいえ、時にはこの「期間」は10年継続することもありますが)利益成長を遂げながら、企業の凋落を招くという現象が広範に生じます。そして、この仮説は、新聞を読めば明らかな事実ではないかという気がします。ごく最近の事例だけでも、船場吉兆、赤福、白い恋人、ミートホープ、コムスン…、その他僕の記憶にすぐ上がるものだけでも、大和銀行ニューヨーク支店(デリバティブによる大額損失と証拠隠滅)、シティバンク・プライベートバンキング(株価操縦やマネーロンダリングへの手助けなど)、西武鉄道(有価証券報告書の虚偽記載)、雪印、不二家、関西テレビ(発掘!あるある大事典)、三菱自動車(リコール隠し)…。きちんと調べ始めたらどれだけの量になるか想像もつきません。経営者やリーダーが正直でなかったために企業価値が大きく毀損したり、場合によって破綻に至る事例はあまりに一般的で、この異常な事態が「まあ普通ではないか」と錯覚してしまいそうなくらいです。
これに関連して、二宮尊徳は以下のような言葉を残しています。尊徳の言う「悪賢い連中」とは、有能でありながら正直でない人、すなわち能力本位で登用される一般企業の人材のイメージと重なります。
『善人はなまくら刀のようなもので、悪賢い連中を使いこなすことができない。けれども賢い君主があってこれを用いれば、善政が行われて人民は安息する。悪人は、良く切れる刀のようなもので、悪賢い連中を良く使いこなす。愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができないが、そうすれば悪政が行われて人民は困苦する。だから、わが興国安民法のごときは、悪人を退けて善人を挙用しなければ、その功業を為し遂げることはできないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻一 33)
正直であることは、なまくら刀のように即効性はないかもしれませんが、確実に企業価値を最大化する経営手段だと思います。尊徳はまた次のように表現しています。
『近頃の世の中は、嘘でも差し支えなく渡れるようだが、これは相手もやはり嘘だからだ。嘘と嘘同志だから、隙もなく、滞りもない。ちょうど雲助仲間の付き合いのようなものだ。しかし、もし嘘を持って誠に対するときは、すぐに差し支えるはずだ。例えば百枚の紙から一枚だけ取っても分からないようだが、九十九枚目まで数えれば不足する。百間の縄を五寸切っても同様、九十九間目になって足らないのが分かる。人の身代でも、一日に十文とって十五文使い、二十文とって二十五文使っていれば、年の暮れまでは分からなくとも、大晦日になってその不足が現れる。この通り、嘘は誠に対抗できないものだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「夜話」第十篇 264)
経営における人事問題の本質は、第一に、正直な人材を優先しない能力本位の人事は、短期間でほぼ確実に効果が生まれること、第二に、したがって、短期間の事業的成果を生み出す手段として非常に容易であること(逆に、「愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができない」という所以です)、第三に、正直な人材の登用は、そもそも正直かつ優れたリーダーシップの基でなければ効果的に機能しないこと、第四に、なによりも、正直な人材を機能させることが企業価値を最大化するという事実が全く一般認識になっていない、ということかも知れません。
求めない経営
(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、とは殆どの経営者が感じる疑問、…というより、ひょっとしたら恐怖に近い感情かもしれません。一般的な経営者の殆ど、特に「有能」といわれている経営者ほど、従業員と接する際の大半の時間を、「情報収集」と「決断」と「指示」に充てています。一般的な経営者が従業員に働きかける方法、決断に必要な情報収集は指示によってなされるため、指示という行為を行わなければ、情報収集ができず、したがって決断ができず、そして従業員と事業に対して働きかけ、影響を及ぼすことが出来なくなってしまいます。
サンマリーナホテルでの事例ですが、現場と従業員のことを配慮せず、教科書的な「常識」に基づいて、想いやりの乏しい(と僕には思えました)指示を従業員に対して連発していた総支配人に対して、指示というものを一切しないよう試みることを提案したことがありました。当時僕は社長でしたので、彼の上司にあたることになります。この時点では新・人事考課基準が施行され、「一切要求しない」ことがリーダーの要件と定義されており、僕が既にそうしていていたことと同様の行為を彼にも挑戦してもらうというのが趣旨です。
予想したことではありましたが、ホテル業界と企業社会の「常識」に基づいて30年以上働いてきた彼にとって、「指示をしない」という行為がどのようにしてリーダーシップ、まして総支配人という責任を果すことに繋がるのか、本当に理解に苦しんだようでした。ひょっとしたら僕からの提案は陰湿ないやがらせかも知れないと悩んだり、指示をしない自分が組織の中で無価値に思えたり、ホテルに良かれと思って行ってきた自分の努力や過去のキャリアと実績が否定されたように感じたり、仕事が目に見えて減った自分の姿がとても惨めに感じられたり、従業員から好奇の目で見られているような気がして辱めを受けているような気になったり…。彼が大きな不安と悩みに直面したであろうことは想像に難くありません。その後の彼は、傍から見ても気の毒なくらい当惑し、生気を失う期間が長く続きました。彼にとってみれば、いったい何がどんな理由で自分に起こっているのか、その目的はなんなのか、見当もつかなかったようです。恐らく、例えばこれが新入社員であればそれ程大きなことには感じられないのかもしれませんが、「常識的な」価値観に沿って優れた実績を上げ活躍してきた人ほど、「求めない経営」という発想があまりに突飛で、不条理で、非効率な考え方に思える傾向は強いはずです。両者の発想の間にはそれ程のギャップが存在するということは理解すべき点だと思います*(1)。
一切求めず人を動かす
相手に一切求めずに、相手に影響を及ぼすことはどのようにして可能なのでしょうか。論理が循環して混ぜっ返すように聞こえるかもしれませんが、①~③の愛の行動原則を実行することによってです。この行動原則は三つの形をしていますが、一つのものです。例えば、経営者が従業員との人間関係において、正直に、物事の真実を明らかにし(①)、そして、従業員本人が心からしたいことに気付き、できることから実行することの手助けをすること(③)、そして更に、そのような手助けが経営者自身にとっても心からしたいことであることであるとき(③)、経営者は従業員対して指示をする必要がなくなり(②)、あるがままの従業員が極めて大きな生産性を発揮するのです。…一言で「相手に一切求めずに人を動かす」と表現すると手品のように聞こえますが、より正確には、「相手の望むことを実行する手助けを、自分ができる範囲で行う」ということに過ぎませんので、それが機能した場合、相手が自発的に生産性を発揮するのはむしろ当然でしょう。
一般的な経営者は、自分の事業イメージを実現するために、いかに組織と従業員をコントロールするかという発想をしがちですが(指示することはその一手段です)、その拠り所は自分がそれまでに身につけた「常識」「専門性」「実績」「経験」「成果」「プライド」「地位」などです。実際、世の中の経営理論の大半は、経営者は最も合理的な判断を行うことができ(逆に、最も合理的な判断を行えるからこそ経営者であり)、この判断をいかに効果的に組織全体に浸透させ、組織を機能させるか、という前提で構成されています。これに対して、愛の行動原則に従うということは、従業員をコントロールすることを止め、従業員を自由にする決断をするということであり、自分が最も合理的な回答を持つとは限らないと言う前提に立つということであり、一般的な経営者が最も重要視する拠り所の一切を手放すことを意味するため、社会的な成果を上げた、いわゆる実績のある地位の高い人であるほど困難な作業となり、前述の総支配人のように、経営作業や従業員との人間関係以前の問題として自分自身に向き合う必要が生じ、その過程で大きな壁に突き当たることになります*(2)。
自分自身に向き合い、壁を乗り越えて、このような発想の転換を遂げた経営者の元では、必然的に個々の従業員が自発的かつ爆発的な生産性を生み出すのですが、その環境において経営者が果すべき役割は、「従業員一人ひとりの個性や組織の個性から個別に生まれる生産性を、最終的に事業的な付加価値に結びつくように事業の生態系をバランスすること」であり、その発想に経営者自身が至ったとき、高い水準で経営がバランスし、事業価値が飛躍的に高まるのです。このメカニズムの詳細と具体事例については別の稿に譲ります。
相手に求めないことの意味
相手に一切求めずに人を動かすということは、非常にパワフルな行為であり、人間関係と企業経営と社会において、極めて重要な意味を持ちます。
一般的な事業において、生産性がなく、莫大な金額が支出されながら、殆どの経営者が支出の事実をはっきり認識していない、という恐るべき二つのコストが存在すると思います。一つは「嘘のコスト」、もう一つは「争いのコスト」です。前者については今まで繰り返しコメントしてきたことですので、この場では主に「争いのコスト」(あるいは「人をコントロールするためのコスト」)についてコメントします。財務諸表のどこを見ても「争いのコスト」といった費用項目は存在しませんので、多くの経営者がその存在を自覚していない所以なのですが、具体的には、例えば、僕が経営を担当し始めたときのサンマリーナホテルでは、前オーナー側勢力の総務・管理部門と運営者であるJALホテル側勢力の営業・運営部門が事実上対立し、お互いを牽制するための有形無形の費用が至る所に生じていました。前述の通り、「争いのコスト」という費用項目はありませんが、その代わりに、機能が重なる管理職の人件費、複数の系統から指示された重複作業、情報が共有されないために費やされる機会損失や費用の二重支出などが、無数の勘定項目に分散記帳されることになります。更に、会社によっては人事的な対立を原因として、重複した事業が開始されたり、それに伴って子会社が設立されたりすることもありますので、この場合の「争いのコスト」は損益計算書ではなく、連結貸借対照表の資産項目に計上されることにもなります*(3)。
人々に争いが生じるのは、当事者がそれぞれ自分の価値観に基づいて相手をコントロールしようとする、すなわち相手に何かを求めることが原因です。そして、その行為を正当化する根拠は、殆どの場合が「正義」です。つまり殆どの争いにおいては、当事者双方に必ずそれぞれの正義が存在するという構造になっているのです。突飛な例のように聞こえるかもしれませんが、史上稀に見る大虐殺を行ったヒトラーですら、その動機は彼の価値観に基づいた正義ですし、より重要なことに、少なくとも一定期間、何百万人もの人がその「正義」を現実に支持していたのです。多くの人にとって、正義を求めることは道義的で正しいことだと考えられていますが、現実には相手をコントロールする際に自分の行為を正当化する根拠として利用されることがあまりに多く、結果として正義が争いの最大の原因となっており、正義が存在しなければこの世から争いは消滅するのではないかと思えるほどです。経営的に重要な点は、以上を前提とすると、「企業の中で最も無駄な費用の一つ(「争いのコスト」)は、自分の正義を他人にも求めるために生じる」、逆に考えると「何が正義かという意識を手放すことで、最大の費用を減じ利益を生み出す」可能性があるのです。すなわち、相手に要求しないこと(愛の行動原則の②に該当します)は事業性を生むのです。…もっとも、このように言を尽くさなくても、組織や世の中から争いごとが消滅することで、どれほど組織や社会の効率が高まるかは、誰にとっても容易に想像できるのではないかと思います*(4)。
念のためにコメントしますが、以上は、正義であること、あるいは正義を通すことが「良くない」という意味ではありません。何が正義であるか否かに関する自分なりのしっかりした価値観を持ち、行動することは本来とても有益なことだと思います。問題は、あまりに多くの組織や人間関係において、正義と執着(相手に対するコントロール欲求)が混同され、「正義によれば相手をコントロールしても良い」、更に「それは相手のためでもある(なぜならそれが「正義」だから)」と解釈されがちな点にあります。人は、自分の価値観における正義と目の前の現実が食い違うときに苛立ちを感じるものですが、更に「何かをされた」ときよりも、「何かをしてくれない」ことに大きな苛立ちを感じるため、非常に容易かつどのような相手に対してもコントロール欲求が生じる可能性があります。その結果、実体は「誰かが何かをしてくれない」ことに対する(個人的な)コントロール欲求に過ぎない感情が、「収益のため」「企業の成長のため」「よりよい社会のため」「神の意思により」といった正当性を後ろ盾に正義と呼ばれ、限りない争いを生み出し、経営資源や社会資源を大量に浪費している、という構造になってはいないでしょうか。
問題を更に深くしているのは、執着やコントロール欲求に基づいて、他人をコントロールしようとする人は、「私はあなたをコントロールしたい」とは言わずに、ほぼ例外なく「これが正義だから」「あなたを愛しているから」と表現します。一般的に「愛」と表現されているもの大半は、実は執着(コントロール欲求)に過ぎないものです。このように解釈すると、親から「愛」されているはずの子供が却って自由を失ったり、「愛」しあっている筈の夫婦がお互いを束縛しあったり、会社や経営者が「愛」しているはずの従業員がいくら働いても幸福にならない、という社会一般の現象が非常に良く説明できるような気がします。
動機の高さで登用する
(iii)自分が心からしたいことをしている人材は機能的である、ということを実証するためには、結局のところ、心からしたいことをしている従業員を実際に登用してみる以外に方法はないと思うのですが、そのためにはまず、従業員が本当に心からしたいことをしているかどうかを見極める必要があります。世の中の大半の企業は、従業員が生み出した事業的な成果に対して、それが正直な行動の結果かどうか、あるいは心からしたいことをしたことの結果かどうかの違いには関知しませんし、それが経営的に重要だという認識も殆どない状態です。しかしそれ以上に、肝心の従業員の認識が驚くほど乏しいのです。心からしたいことをすることが不適切、あるいは後ろめたく感じる、というくらいならまだ良い方で、自分が心からしたいことが分からない、あるいは、冗談のように聞こえますが、心からしたいことをするということ自体に無関心であることが珍しくありません。
従来企業では、上司の望む仕事をいやな顔一つ見せずに、熱意を持って取り組む従業員が高い評価を受けてきましたし、自分の正直な気持ちや感情に左右されずに精力的に仕事を成し遂げる人材は、人格的に優れていると考えられることが一般的でしたので、経営者が従業員に仕事をお願いすると、大半の社員は「是非やりたい」と答えますし、更に厄介なことに本人も頭ではそう信じているのです。しかしながら、僕のイメージではそのうちの9割以上は、それが心からやりたい仕事かどうかを考えもせず、経営者に対してほぼ反射的に、「熱意を持って」やりたいという意思表示をしているように思えますし、職位の高い人材ほどこの傾向が強いと思います。したがって、経営者が動機の高さで人材を登用しようと思っても、これらの障壁を乗り越えざるを得ませんし、また、皮肉なものですが、最も大きな障壁となるのは従業員という現象が生じます。
以上の前提で、サンマリーナホテルにおいて僕が従業員へプロジェクトをアサインする際の基準は、第一に、そのプロジェクトが従業員にとって本当にやりたいことかどうか確認する、第二に、やりたい気持ちの強さをもう一度認する、第三に、十分にやりたい気持ちが強い人材が現れない場合は、プロジェクトそのものを延期する、そして第四に、結果は本人に問わない、というものでした。そして、そのプロジェクトが採算にあうかどうかのバランスを取るのは経営の問題であり、担当者が責任を負うものではない、という基準を決めて実行しました。
尊徳は、『最良の働き者は、もっとも多くの仕事をするものではなく、もっとも高い動機で働く者』という言葉を残していますが、冒頭に挙げた三つの人材登用基準:
①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する、
はまさに動機の高さで人材を登用する際の基準でもあります。
【2007.12.11 樋口耕太郎】
*(1) 総支配人に対するこの対応は当時も賛否両論があり、僕にとっても重大な決断でした。当時僕と彼は組織上のナンバー1・2の関係であり、この人間関係が組織全体に与える影響は多大なものです。特に彼は僕よりもひと回り以上も年上だったということ、彼の派遣元であるホテル運営会社(JALホテルズ)との企業間の関係にも影響を与える可能性があること、彼は総支配人という機能に徹し、ある意味職務上当然の行為を、ホテルに取って良かれと思う観点から行っていたに過ぎず、常識的には彼に何の非もなかったこと、そしてなによりも、彼のプライドと、彼の価値観と、彼の人生に特別な影響を与えることが明らかだったためです。後日談としては、この決断は僕の想像を大きく超える結果を生みました。僕が宣言した三つの行動原則を、総支配人に対して例外なく適用したことを見た多くの従業員がこれに感動し、組織に大きな活力が生じたこと、そして、従業員にとっては、経営者の言葉と行動が一致するという、彼らにとっては初めての体験を通じて、信頼関係が非常に強固になったのです。総支配人との更にその後の後日談もありますが、別の機会があればご紹介することにします。
*(2) 自分の拠り所となっている一切を手放すということは、本当に容易なことではありませんが、反面実に簡単なこととも言えます。例えて言えばタバコを止めることのようなものだと思います(タバコを止めた経験のある方いらっしゃいますか?)。当事者にとって、タバコを止めることは本当に難しいものですが、禁煙を実現した人にとっては極めて容易な作業であり、逆に容易でなければ中々止められるものではありません。周りで禁煙に成功した人の話を聞くと、概して容易に止めたというような言い方をするのですが、これは偶然ではないはずです。禁煙に成功した人が10回目の禁煙で本当にタバコを止めたとしたら、初めの9回は苦しかったから止められず、10回目は容易だったから止められた可能性が高いと思うのです。
そして、タバコが止められない最大の理由は、僕は喪失感だと思います。「もし、このタバコを止めたら、もう一生タバコを吸うことができない、そうしたらタバコを吸うことで得られる楽しい気持ちも、今後二度と経験できなくなる」と言う、「失うことへの恐怖」が最大の原因ではないでしょうか。ところが、タバコをもともと吸わない人にとっては、タバコを吸うことで「得られる」楽しい気持ちなどそもそも必要としないので、このコメントがいかにも間の抜けたものに感じられる筈です。そして、タバコを止めることに成功した人は、後になって「自分は何であんなものをあれほど必要としていたのだろう」と感じることでしょう。
*(3) このように、経営の現場では、「実質的な費用」は必ずしも会計上の費用として計上されているとは限りません。別の費用項目に計上されていれば(例えば二重機能のために計上された「人件費」など)まだ分かりやすいほうですが、事例のように資産項目(とその資産から生まれる非効率な売上)として計上されていたり、機会損失や意欲損失による売上減においては、完全な「簿外費用」と言うことになります。これらはいずれも目に見える経営情報ではありませんので、経営者が事業の実体と生態系を理解しながら感性で把握し、少なくとも自分の持つイメージにおいて数量化すべき点です。経営者が現場を理解することの重要性の一つは、このような点にもあると思います。
*(4) 更に、これは非常に逆説的ですが、「相手に求めない」ことで自分の自由な行動範囲が著しく広がるという効果があります。「相手に求める」行動である限り、それが相手に対してどのような影響を与えるか、それに対する相手の意思はどのようなものか、などの確認や制約が必ず生じるのですが、「相手に求めない」行動であれば、基本的にこれらの制約は一切なくなることになります。尊徳は、これについて次のようにコメントしています。
『およそ人を利することは、相談に及ばない。餅があって、これを隣に贈るのに、何の相談が要ろう。それゆえ、人を利するものである限り、万事支障ができることはない。支障は、己を利するところに生ずるのだ。いま、農民に向かって、お前たちのために池の土手を築き、溝や堀を掘るのだといえば、誰一人として励まないものはない。工事に何の妨げも起こる訳はないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻五 411)