正直であることが、(倫理的には勿論のこと)経営合理性の観点からも経営者の必要条件だとして、優れた経営者であるためのクオリティはどのようなものでしょうか*(1)。僕は、人間関係の局面において常に三つの行動を選択する者が優れたリーダーであり、更に、この「三つの行動原則」と「経営バランス」を両立する者が経営者として相応しいと思っています。

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。

これは、今までにも繰り返し登場している「愛の定義」であり、優れた …すなわち企業価値を最大化する… リーダーの定義は、「人間関係のあらゆる接点において、愛を選択する者」、と表現することもできるのです。仮に、「愛が事業性を生む」 …すなわち「三つの行動原則」が企業価値を最大化する… ことが現実であるならば、人間関係の接点で …すなわち企業の実体において… 愛を選択する者がリーダーとして機能するのはむしろ当然のことでしょう。「三つの行動原則」(すなわち愛)を人間関係のあらゆる局面で選択する者が理想的なリーダーであるとして、このような人物を仮に「マスター」と呼ぶことにしましょう。そして、「経営バランス」を習得したマスターが理想的な(すなわち経営合理的な)経営者としての機能を果すのです*(2)

トリニティ経営における「愛」について比較的誤解されがちな点をコメントします。第一に、愛の行動原則がリーダーの基準であるといっても、ダライ・ラマやマザー・テレサをリーダーにすべき、という意味ではありません。そんなことを言い出したら社会の大概の組織は成り立たなくなってしまい、それこそ合理性を欠いてしまいます。第二に、愛は「人間の性質」ではなく、「行動原則」として定義されており、人間性を評価・格付けするためのものではありません。したがって、リーダーもその人の不断の行動によって選別されることになります。第三に、上の三つの行動原則を「愛」と定義していますが、これはトリニティ経営のフレームワークの中で、この行動原則を「愛」と呼ぶことにした、また逆に、「愛」をそのように定義したという意味であり、「真実の愛とはなにか」、といった哲学的、宗教的、人間学的な議論とは異なるものです。そして、第四に、この行動原則をじっくり見て頂ければ分かりますが、どの内容も、そうしようと思いさえすれば、全ての人が(意外に簡単に)実行できるものばかりです。例えば、三つの行動原則で行動する際、嫌いな人を好きになる必要も、自分のしたくないことをする必要も、自分に嘘をつく必要も、他人を変える必要もありません。

マスターの人物像
人間関係の全ての局面において愛を選択する人物は、例えばどのような行動をとるのでしょうか。理想的なマスター経営者のイメージと人物像を具体的に表現することにします。念のため繰り返しますが、以下は「経営者かくあるべし」というものではありません。人間関係の接点で「三つの行動原則」を常に選択する人物はどのようなイメージの人物か、という趣旨でまとめています。「これらの要件を満たさなければ経営者として資質を欠いている」という意味ではなく、「マスター経営者であればこのような行動を取るであろう」という具体的なイメージに過ぎません。例えば、指示を出す経営者(後述参照下さい)は、マスターに比べれば確かに非効率かも知れませんが、不適切とは限らないのです。

第一に、マスターは、なによりも正直な人物です。現在の企業社会では、「法律に違反していない」、「後でばれる嘘をつかない」、「自分の真の意図を隠し通す技量をもつ」、という条件を満たすと「正直」、「誠実」、あるいは少なくとも「まじめ」な経営者と呼ばれるのではないでしょうか。当然ながら、これは本来の意味で正直であることとは無関係です。そして言動の一貫性。正直であるためには、経営者が発する言葉と真の意図が一致している必要があるのですが、経営者の真の意図は、言葉よりも何よりもその行動によって強力に伝達するため(『伝えるということ』参照下さい)、経営者の言葉と行動が一貫していることが正直であることの必要条件といえるのです。

例えば、事業における問題解決は、経営者の重要な仕事と一般に認識されていますが、問題を解決したかどうかもさることながら、問題を解決するために取った経営者の行動自体が従業員に対して重要なメッセージを伝達してしまう可能性があります。収益のプレッシャーを常に受けている一般的な経営者は、問題解決のプロセスという行動よりも、問題「解決」という結果そのものを優先しがちです。プロセスにおける一貫性(つまり正直さ)が失われるという、目には見えないけれども極めて大きな副作用については、矛盾点を隠蔽しながら目をつぶる、といった状況ではないでしょうか。企業の中外で日常的に為される、いわゆる「穏便な対処」の数々はこのパターンに該当しますが、たとえ声を上げてこれに異論を唱える従業員がいなくても、大半の従業員は行動から透けて見える経営者の真意をしっかり感じているものです。このような経営者は、言葉と矛盾する自らの行動によって、「自分は嘘つきだ」と社内に宣伝しているようなものです。「企業理念が浸透しない」、「自分の意図が従業員に伝わらない」、「従業員の意識改革が必要だ」と嘆く経営者は少なくありませんが、その最大の原因が経営者自身の行動にある可能性は殆ど考慮されません。 …この問題を解消する方法自体は非常にシンプルです。経営者が問題を収めるために行動するのではなく(つまり、問題「解決」を目的とするのではなく)、直面した問題に「三つの行動原則」で対処すること(つまり、プロセスを目的とすること)で、言動の一貫性を表現することができます。

第二に、マスターは、リーダーシップと権限は全く別のものだということを理解しており、リーダーシップを発揮するために権限を必要としません*(3)。一般的な組織における「権限」は、「権限が及ぶ範囲の人に対して、その意思とは異なる行動を、指示などによって強要する機能」と、「強要した行動が実行されない場合には、ペナルティを課す正当性」、を実質的に意味し、これらが付与されていることを象徴的に表したものが「地位」だと思います。勿論このメカニズムには一定の合理性があります。例えば、「有能」な人物がリーダーに選別されているという前提では、その「有能」な価値観と判断に多くの従業員が(黙って)従う方が、「合理的」であり、それを短時間かつ確実に実行するしくみが「権限」という機能です。リーダーになるためには地位と権限が必要だと考える人は一般的ですし(例えば、「もう少し権限があればもっと良い仕事ができるのに」と考えている中間管理者は少なくないと思います。僕には、そのような発想自体が良い仕事を妨げている最大の原因だと思えますが…。)、殆どのリーダーには実際に地位と権限が与えられていることから、権限と地位はリーダーであることの要件と考えられています。つまり、現代社会においては、従業員にその意思と異なる行動を強要することがリーダーシップの実質的機能であり、反対勢力にペナルティ課す権力を有している人物が「地位のある人物」として恐れられるため、これは一種の警察権と言えます。全ての警察権は「正義」をその根拠としますが、その「正義」は大方経営者側(と資本家側)に存在するというのが、現代企業社会の現状です。…多くの人が「偉くなりたい」と考えるのは、要はこの権力を手に入れたい、ということでしょう。

これに対して、「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」*(4)ことを行動原則としているマスター経営者は、例えば従業員に「指示」を出すことなく経営機能を果すことができる人物です。事業運営に際して、基本的に従業員の意に反することをさせる必要を感じないため、警察権(権限)を一切必要としません。 …この点が一般的な経営者から理解されることは稀かも知れません。特に、現場をよく理解し実績を上げている「有能な」経営者は、処理しなければならない問題を山のように抱え、時間に追われ、収益と成果実現のプレッシャーを受けながら日々決断と実行を繰り返す日常において、指示をしないということは、会社を放置することに等しいと感じるに違いありません。 …これに対して、マスターは、会社を放置するどころか指示や警察権よりも遥かに強力かつ効果的な方法(仮に「フォース」と呼びましょう。)でリーダーシップを発揮します。それは従業員との人間関係の全ての接点において、第一に、真実を明らかにすることであり、第二に、自分ができることを実行することであり、第三に、従業員の役に立つことであり、そして第四に、必要なときには「手放す」ことです。

「指示」という分かりやすい概念に対して、この四つの「フォース」は御伽噺であるかのように、抽象的で現実味がなく、まして実効性があるとはとても思えないかも知れません。しかし、企業経営のフレームワークにおいて一般的でない(ように見える)、というだけで「フォース」の効果は日常生活に溢れています。例えば、イソップ物語の『北風と太陽』*(5)は、警察権(北風)とフォース(太陽)の効果の違いについてのお話でもあります。問題や原因となる相手を一切変えようとしない方が、よほど効果的に変化をもたらすことができるということを象徴的に表現しています。そして、四つの「フォース」の要素は「三つの行動原則」が形を変えたもので、本質的に前述した定義による「愛」と同義です。すなわち愛がいかに人間関係において、ひいては事業においてパワーを発揮するかということのメカニズムを示しています。「フォース」の効果についての詳細は、別の稿に譲ります。

第三に、マスターは、人の役に立つことのうち、自分が心からしたいことを、できることから実行する人物です。物事には、人の役に立つこととそうでないことがあるとして、このそれぞれに対して、自分が心からやりたいこととそうでないことが存在します。つまり人は誰しも、①人の役立たずに、自分もしたくないこと、②人の役に立たずに、自分がしたいこと、③人の役に立ち、自分がしたくないこと、④人の役に立ち、自分も心からしたいこと、の四種類の行動パターンのどれかを無意識に、しかし常に選択しています*(6)。「常に人の役に立つ行動を優先する」とだけ言うと、何かしら説教じみていて、場合によっては偽善的に感じられるのですが、④を選択することで、自分が心からしたいことをしながら、人の役に立つ行動を優先することが現実に可能になります。

初めは人の役に立つ範囲も小さいかも知れませんが、このような視点で従業員との人間関係に向き合い、自分の役割を模索する経営者は、いずれどこかの時点で、「従業員がいなければ自分も自分の役割も無価値である」こと、「従業員を活かすことが自分を活かす最高の手段である」こと、そのためには、逆説的ですが、「自分をなによりも活かす必要がある」こと、というバランスを理解するようになるでしょう。そのときには、自分が心からしたいことと人の役に立つこと、すなわち、自分を活かすことと人を利することは、対立する概念ではなく、一つのものだと感じるはずです。このようなマスター経営者は、行動に私心がなく、最も人の役に立つ人物でありながら、最も自分の好きなことだけを追求する人物で、人に対して正直なだけでなく、自分に対しても嘘をつくことがありません*(7)。西郷隆盛はこのような人物を次のように表現しています。

『命も要らず、名も要らず、位も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。また、このような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。』

【2007.11.15 樋口耕太郎】

*(1) 「優れた経営者であるためのクオリティ」といっても、世の中の経営者かくあるべし、という意味では全くありません。今まで多くのエントリーでコメントしてきたトリニティ経営の世界観による経営環境を前提とするとき、経営科学的に最も機能する経営者のクオリティはどのようなものであるか、という観点から「優れている」という意味です。

*(2) これを前提とすると、リーダーと経営者の選別基準とプロセスは非常にシンプルになります。第一に正直な人材をその行動から判断・選別し、第二に「愛の行動原則」に沿ってその人の行動を評価して人事考課を行い、第三にその中から経営バランスを習得した人物を経営者として選別するものです。これによって、人事考課、人材育成と個人の成長、リーダーの選別、経営者の選別、機能的な組織運営、企業統治(コーポレート・ガバナンス)の全てが一つのプロセスに統合され、非常にシンプルかつ明確な価値観によって、人事の一切と、更には理想的な企業統治を同時にかつ合理的に運用することができます。すなわち、「トリニティのリーダーシップ論」のメカニズムを運用することは、人事、組織運営(≒経営)、企業統治が一つの原則で統合されるという意味でもあるのです。

*(3) マスターは、リーダーシップを次のように解釈します。

・リーダーは権限を持ちません(仮に権限を付与されていても必要としません)。
・リーダーの役割は、「いかに自分らしく、人の役に立つか」のみです。
・リーダーとは、奉仕する能力が相対的に高い人物とその役割に対する呼称であり、タイトルや地位とは無関係です。
・リーダーにとって、タイトルや地位は能力は特権や褒章ではありません。また、競争によって「勝ち取る」性質のものでもありません。活用して何かの役に立たせるためのツールのようなものと言えるでしょう。

*(4) 「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」という行動原則は、「従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」、という意味でもあります。この議論の詳細については『トリニティの人事論《その5》』を参照下さい。

*(5) 『北風と太陽』

北風と太陽が、どちらが強いかで言い争っていました。議論ばかりしていても決まらないので、それでは力試しをして、旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めよう、ということになりました。北風が、初めにやりました。
北風は思いきり強く、「ビューッ!」と、吹きつけました。
旅人は震え上がって、着物をしっかり押さえました。
そこで北風は、一段と力を入れて「ビュビューッ!」と、吹きつけました。
すると旅人は、「うーっ、寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」と、今まで着ていた着物の上に、もう1枚重ねて着てしまいました。
北風はがっかりして、「きみにまかせるよ」と、太陽に言いました。
太陽はまず初めに、ポカポカと暖かく照らしました。そして、旅人がさっき1枚余計に着た上着を脱ぐのを見ると、今度はもっと暑い、強い日射しを送りました。ジリジリと照りつける暑さに、旅人はたまらなくなって、着物を全部脱ぎ捨てると、近くの川へ水浴びに行きました。

人に何かをしてもらうには、北風のように、無理矢理ではうまくいきません。太陽のように、相手の気持ちになって考えれば、無理をしなくても人はちゃんと動いてくれます。

*(6) 例えば、上場した後も自分の持ち株を手放したがらず、自分の職(地位)に執着を持つオーナー経営者は、②に該当しそうですし、自分を殺しながら平和や真理という「正義」を語る組織宗教家は、③に近いかもしれません。偏見と風刺を交えたイメージでは、①はやくざと政治家とコンサルタント、②はベンチャー企業経営者とファンド投資家と外資系証券マン、③は官僚と宗教家とボランティア、の行動パターンと言ったら出来の悪いジョークになるでしょうか(勿論ここに上げたどの業界にも、誠実で立派な人は少なからず存在します)。

*(7) 本稿をドラフトしているときに、ある方から、「何が相手の役に立つかどうかを、他人である自分が判断できるのだろうか」、という質問をお受けしました。確かに、何が相手のためになるかは、本当の意味では分かりません。相手にとって良かれと思ってしたことが、逆の効果を生むということは、あまりに一般的なすれ違いです。それよりも、相手のためになるということにどれだけ真剣に向き合い、行動したか、ということの方がよほど大きな意味を持つと思います。

例えば、人が人を深く感動させるとき、あるいは人生において大きな影響を与えるとき、その共感が本物であればあるほど、何がどのタイミングでどのような作用で心に響くかどうかを予想することは実質的に不可能です。何かに真剣に向き合った人の一言や深い生き方から搾り出された一つのしぐさが、共感した人の人生を永遠に変えることがありますが、この効果自体を目的としたり演出しようとした時点で、目論見どおりに機能することはなくなるでしょう。

これが三つの『行動』原則として定義されている理由の一つでもあります。すなわち、何が正解かは建設的な問題提起ではなく(どのみち分かりませんので)、相手の立場に立って何が正解かを誠実に求めて行動すること自体が価値を生み出すという考え方です。そして、重要なことですが、「三つの行動原則」の全てを同時に適用すること、 …単に相手の役に立つということだけでなく、自分の行動は相手に対しても自分にとってもほんとうに嘘がないだろうか、自分は無意識にでも言外にでも相手に対して実質的に何かを要求したり裁いたりしていないだろうか、いま、愛なら何をするだろうか、 …と考えながら試行錯誤するプロセス自体が、人間関係において(したがって、事業において)成果を生みます。そのような意識で相手に接した結果、相手のためにならなかったと思える状況が生じた場合でも、自分にはもう一つ学ぶべきことがあった、ということに過ぎないと思います。

…蛇足のコメントですが、最近は「さりげなく感動を演出する」サービスが一流とされているようですが、演出できる範囲のサービスで人間がほんとうに共感したり感動したりするものか、僕はかなり疑問を感じているのです。