経営者であることの条件を明確にする、すなわち、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という各問いに回答を出すためには、①リーダーが果すべき機能は何か(どのような機能を果すリーダーが企業価値を最大化するか)、②機能的なリーダーを選別するしくみとはどのようなものか、をそれぞれ検討することが効果的です。そして、トリニティ経営理論が機能するという前提では、この問いに対するシンプルな回答は、「より高い水準の経営バランスを取ること」であり、「高い水準の経営バランスを理解し、実現する力のある経営者を組織的に選出するしくみ」が企業に求められることになります。まず、これらを実現する要素を議論する前に、これらを阻害する構造と要因についてコメントすることにします。

経営者は狼?
前回のエントリーでコメントしたポイントですが、経営者のあり方次第で企業価値は著しく影響を受けるにもかかわらず、現実の企業社会では、経営者であることの条件(すなわち経営者が辞任する際の条件)が曖昧なまま放置され、経営者を評価するしくみと経営者を排除するしくみが殆ど機能していません。これは、現代企業社会の現実として、経営者は自分を含む全てのステイクホルダーの利害を最もコントロールしやすい立場にいること、そしてそれに対する牽制機能は事実上本人の価値観と良心のみ、ということでもあります。

言ってみれば、世の中の大半の企業は、特段の疑問も持たずに、狼に羊の番をさせているようなものです。株主(農場主)はその「対処」として、狼(経営者)がお腹をすかせないように、多額の報酬を与え(個人的には、世の中の経営者の報酬額は大方過大評価されていると思います)、従業員(羊)はほぼ無条件に狼の善意を信じようとします。皮肉な言い回しで恐縮ですが、世の中で一般的な企業統治の概念に基づいて株主と経営者の「利害の一致」を試みる作業は、まるで、有能な狼に対して、羊を食べなかったご褒美に、最高級ステーキを毎晩ご馳走するような状態です。それでもこのやり方が機能すればまだ良いのですが、通常お金持ちが最も欲するものはお金であり、「狼はお腹いっぱいであれば羊を襲わない」、という前提自体甚だ疑わしいものです。むしろ狼は、「ただそれができるから」という理由で、日常的に羊の食事を直接間接に自分の利益にすることがあまりに一般的であり、更に殆どの狼はその行為を「羊のため」または「農場のため」と表現し、場合によっては真剣に(誠実に)そう信じている者も少数ではないのです。中には自制心があり誠実に羊の番をする「誠実な」狼も社会に存在します。それでも経営者の心理としては、利益をむさぼろうと思えば出来たところを、自分はそれをしていない分、「より評価を受けるに相応しい」とどうしても思ってしまいがちです。「それができるから」という理由で利益を貪らないのは、特別な評価に値する成果ではなく、経営機能を果すための必要条件だ、と考える経営者を擁する企業は本当に幸運ですし、実際経営も非常に有効に機能するのではないかと思います。

重要なことなので、いつも繰り返しこのようなコメントをしますが、これらは一般的な経営者や、現在の企業経営のあり方や企業統治のしくみを批判しているのではありません。「経営者かくあるべし」という意見の陳述でもありませんし、経営者に相応しい人格を定義しようとしているわけでもありません。以上は、一般的な経営者がおかれている環境についての単なる現実認識の一つのアプローチであり、機能的な経営者のメカニズムと条件を分析するプロセス…このような現実を直視した上で、この環境で最も機能する経営メカニズムを見出す作業…に過ぎません。

経営者が嘘をつくとき
経営者を取り巻く環境がこのような状態では、一般的な経営者が、①経営者自身の利害と企業の利害を曖昧にし、②自分の利害となる数々の言動について、「従業員のため」「会社のため」「株主のため」と表現したくなるのは、むしろ構造的な必然と言うべきでしょう。より問題を複雑にしているのは、意外に多くの経営者はそれが会社のためになると本気で(ときには「誠実に」)考えている点です。経営者が真剣に語ることに対して、一部の従業員が直感的におかしいと感じても、組織の「権力者」に対して明確に反論することは非常に困難です。かくして、経営者の意図は会社の意図ととなるのですが、実際、最近の経営論では、経営者の意図が従業員に広く浸透している企業ほど「良い企業」と考えられているようです。

逆に考えると、経営機能を分析する際に、経営者個人の問題と経営(企業価値)の問題を明確に分離して認識することが有効ではないでしょうか。例えば、特に大きな会社に務めたことがある方なら誰でも経験があると思いますが、決算期や月末になると営業キャンペーンを行ったり、決算セールを行ったり、特に営業現場は相当慌しくなるのが常です。僕はずいぶん前から、これはいったい何のためなのだろうと漠然とした疑問を感じていました。もちろん、そんな疑問を実際に口にしたら、上司からは「会社のために決まっているだろう。お前は会社から給料を貰っているじゃないか」と言われるに決まっていますし、大体「やる気がない腑抜けた社員」と思われるに違いありません。でも、例えば、お客さんにとっては来月買う方が都合が良いのに、会社の都合でお願いして売上を前倒しすることが本当に意味のある仕事なのか、釈然としませんでした。反面、会社にとって重要な営業キャンペーンで成果を上げれば上げるだけ、賞与や昇給や昇進によって評価されることも事実で、「これは自分のためになることだ」と納得しようとしたこともありました。仮に同様の質問を経営者にぶつけると、恐らく回答は、「今期の収益目標の達成は会社が成長するための必要条件であり、競合他社に打ち勝ち業界ナンバーワンの座を維持するための利益であり、株主に対して会社が約束したものであり、これを達成することによって従業員の昇給と生活が確保できる」、という趣旨が返ってくるのではないでしょうか(もっとも、社員がそんな質問をした時点で、会社から相当な「異端」扱いされると思いますが、それはそれとして)。

しかしながら、…あくまで一つの事例としての議論ですが…会計上の期間収益を確保する行為と企業価値を高める経営行為は似て非なる概念です。例えば決算直前にディスカウントで在庫を処分し売上や会計上の期間収益を確保する行為は、もっと高い値段で売れるものを敢えて安売りするということですので、むしろ企業価値を低下させる可能性が高いのです。反面、一般的な経営者(特に上場企業の経営者)は、単年度決算(場合によっては四半期決算)に責任を持ち、この進捗状況によって自らの評価や進退が決定されるしくみになっています。すなわち、企業価値を高めるために適切な経営行為と、経営者の(進退を決する)個人的な事情とが真っ向から対立する状況が日常的に生じているのです。このように背反する選択肢に直面する場合、一般的な経営者は、ほぼ間違いなく会計上の予算達成を優先し、そしてそれを会社のため、成長のため、従業員のため、と表現して全従業員に達成を義務付けるでしょうし、達成に非協力的な社員は人事上ペナルティを課されることになります。会計上の期間収益の最大化が必ずしも企業価値の最大化を伴わないのであれば、期間収益の最大化を会社全体の目標にする行為は、やはり経営者の「個人的な事情」というべきですし、それを経営者が「会社のため」と表現するのは「嘘」以外の何者でもないと思います*(1)

以上の議論は、「企業は会計上の期間収益目標を設定するべきではない」という意味ではありませんし、収益目標を無視して経営者の立場が維持できるというような現実離れの議論をしたい訳でもありません。この目標設定は企業価値を必ずしも最大化せず、経営者の個人的な利害を優先する結果になる、という事実を表現しているに過ぎず、それ以上の意味もそれ以下の意味もありません。…これも現実認識の一つのアプローチです。

【2007.10.21 樋口耕太郎】

*(1) 「嘘」という言葉は一般に倫理的、道徳的価値観を伴って使われるため、少なからず感情的な反応を引き起こすことが一般的ですが、ここでは(というよりも「トリニティ経営」に関する議論全般において)、単純に「ある人や組織が本質的な目的としている結果と、その目的を達成するための行動について為される説明が異なること」という意味で使用しています。したがって、例えば「経営者の嘘」と言う時、その際に経営者に悪意があるかどうかという点は問題にしていません。これは、経営環境において、経営者が「嘘」をつくとき、それが悪意によるものか、無知や誤解によるものか、あるいは善意に基づくものかどうかは、経営的にあまり差異がない(どの道従業員には「嘘」として伝わりますので…)、という前提によるものです。この定義に従うと、自分自身や企業の本質的な目的を自覚的に認識していない経営者は、経営行為において頻繁に「嘘」をついてしまう可能性が非常に高まることになります。