経営バランス(pdf)

本稿では経営バランスが実際の経営の現場でどのように機能するのか、というテーマでコメントします。経営バランスは、例えば価格戦略(ここでは概ね単価の増加を意味します)の武器になり得ます。価格戦略における価格の増加が事業収益に与える影響は莫大であり、適切に応用することができれば、潜在的な事業価値を一気に収益として顕在化させたり、事業の成長を大きく後押しする原動力になります。このメカニズムは非常に単純で、特に売上高利益率が比較的低い労働集約型サービス業(例えばホテル)などではその傾向が顕著です。仮に、売上10億円、利益が売上の約10%程度のホテルを想定すると、1億円が利益になるわけですが、この事業の単価を10%上昇させると、売上は11億円、販管費の上昇を便宜的に無視すると、利益は2億円に倍増することになります。単純にモデル化していますが、単価の増加が企業収益に与える激しいインパクトをご理解頂けるでしょうか*(1)

単価と収益の激しい関係
このように表現すると、商品の単価を上げることで事業収益を増加させることはとても簡単なことのように感じられるかもしれません。例えば、毎年約14万人のお客様が宿泊するサンマリーナホテルで、一人一泊当たりの単価を1,000円上げることができれば、利益が1.4億円増加することになります。2005年の時点でサンマリーナの経常利益が約1.3億円でしたので、これだけで利益が倍増するイメージです。現実には、単に単価を上げただけではほぼ間違いなく顧客数が減少します。特に一人当たり1,000円の平均単価は、この業界では破格の増加と考えられるでしょうから、これによって恐らく10%から20%前後の顧客が失われるのではないでしょうか。年間14万人が宿泊する客室売上10億円のホテルでは、お客さま一人当たり7,100円(10億円÷14万人)の宿泊料を頂戴していますが、単価を1,000円上げて8,100円にする代わりに、顧客数が20%減少し11.2万人となると、逆に売上は約9億円(8,100円×11.2万人)に減少してしまいます。このホテルの単価変更前の利益が1億円程度だとすると、その全てが吹き飛んでしまうことになり、一般的な経営者が単価を不用意に上げることに恐怖を感じるのはこの理由によるものです。これは単純なモデルですが、現実のリゾートホテル収益構造の本質を表現しています。単価を1,000円を増加させるということは、利益を100%減少させることも、100%増加させることも可能なのです。

一筋縄ではいかない単価増
結局のところ、多くの事業ではこのような単価の上昇を達成するために莫大な経営資源と時間を投下しているとも言えるのです。例えば沖縄のリゾートホテルでは、客室やロビーを中心に大改装を行ったり、レストランのテーマを変更してみたり、より高級な宿泊プランを開発してみたり、アメニティを一新してみたり、研修プログラムを開発してみたり、経営者を交代してみたり…。いずれも費用(ときには多額の費用)を伴うことばかりですが、このような費用を投下しながら、実際に顧客数を減らさずに単価を増加させることができたケースはむしろ例外的ではないでしょうか。そして、顧客数を減らさずに単価を増加させることができなければ、投下した資金は砂に水をまくように、文字通り費用として消滅してしまうことになります。

例えば、ホテルの質の向上と、ひいては宿泊単価の増加を目的として、メインダイニングのコンセプトをより高級なものに変更し、内装をシックなものに変更し、食材の質を高め、コンサルタントを通じてコンセプトとメニューを一新し、料理長や責任者を入れ替えたとしても、それだけではこのメインダイニングの成功が保証されるものではありませんし、ましてホテルの格や宿泊単価が上がるとは限りません。現実には、より質の高い商品とサービスの提供を開始したのに売上がそれほど上がらず、投資額に見合った利益が確保できず、却って企業価値を下げるだけというケースが溢れています。

以上ゆえに、一般的な経営者がとりがちな選択は、①単価を下げ、顧客数を増やし、売上を伸ばすことで(利益率を下げながら)利益を確保する、②典型的には人件費などの費用を削減し(事業の成長力を低下させながら)利益を確保する、ものとなります。両者に共通することですが、短期間で確実に利益を生み出すことができる反面、事業の長期的な成長余力と企業価値を毀損するという問題を自らの選択によって生み出してしまうのです。

バランスが価値を顕在化する
より良いものを提供すれば、顧客は以前より高い評価をしてくれそうなものですが、質のいい商品を提供してもそれだけは事業のコストを増加させ、企業価値を下げるだけの結果に終わってしまうのはなぜでしょう。その原因が経営バランスの差ではないかというのが僕の仮説です。そして、より高い経営バランスを生むための要素は以下の通りだと思っています:

第一に、演出がないこと、嘘がないこと、自分に正直であること。ある経営者は、自分なりの強いこだわりを持って良いものを提供したにも拘らず、思うような成果を生むことができませんでした。「これほど良いものを提供しているのに…」と顧客を恨みたい気持ちでいっぱいです。別の経営者は、「本当に人を感動させるサービスは利益と採算と演出を頭の片隅に置きながらの状態では生まれない。お客様と接するときには売上のことなど考えていない」と言います。前者は、「これだけのことをしたのだから、顧客は評価すべき」と無意識に考えているように思え、彼にとって顧客へのサービスは、実質的に顧客との「取引」です。後者は自分に正直な経営者だと思います。自分が顧客にしたいこと、自分がしてもらったら嬉しいことを考えて心のままに実行するに過ぎません。

第二に、一貫性。企業内に矛盾がなくなるほど高い経営バランスが達成されると思います。企業理念などの価値観が一つに修練しており、かつその通りに実践されている企業は非常に高い一貫性を持つといえます(現実には、最近では企業理念を掲げない企業の方が珍しいのですが、その価値観に沿って運用されている事例は、殆ど存在しないように見えます)。なお、一貫性の完成度合いが高まるあたりで、経営バランスの効果が急激に高まるイメージがあります。

第三に、事業構造的に、経営バランスを取りにくい業態が存在すると思います。上記の二つの条件、嘘がないこと、一貫性、を持ちにくい構造を有する事業形態、具体的には、①低価格を比較優位とする事業、②上場企業、③情報の不均等を収益源にしている企業、が該当するような気がします。①については、経営バランスは基本的に事業の量的な拡大ではなく、質的な価値を顕在化する際に有効な概念で、低価格を武器とした量的拡大を目指す事業に適用しにくいのではないかと思います。②については、『トリニティの企業金融論』 『次世代金融論』で詳細に説明していますので、そちらをご参照頂けると幸甚です。③情報の不均等を収益源にしている企業は、『売上論』で紹介した「金色の売上」比率が低い企業を指します。情報の不均等を収益源にしているということは、価値観や言動の一貫性を導入することが構造的に困難だということは容易に想像が付くと思います。

経営バランスと資本投下
一般的なホテル経営者は、追加投資→価値の上昇→価格上昇→資金回収、をイメージして資金投下を行うのですが、現実には追加投資が思うように価値の上昇につながらず、資金回収が困難になり、企業価値が減少し、こらえ切れなくなるとそれを埋め合わせるために単価を下げて、企業価値を更に下げながら売上を確保する、という悪循環を招きがちです。

これに対して、経営バランス高めることを最優先すると、自然に顧客数が増加し稼働率が上昇します。また、経営指標にはっきり現れないために目に見えにくいのですが、より重要なこととして、経営バランスの水準が高まると顧客層(お客様の質)が高まる現象が生じます。こうなると無理やり単価を上げようとしなくても、需要のバランスを取るために価格を上昇させることが、顧客を含むステイクホルダー全員のメリットとなるのです。この状態で追加投資を行うと、企業価値を爆発的に向上させることができます。経営バランスを応用した価格戦略のプロセスが、一般的なケースと比較していかに効率が高く、リスクが少ないか(実質的には殆どリスクはありません)、ご理解できるのではないかと思います。

【2007.9.14 樋口耕太郎】

*『経営バランス』は本稿で終了です。

*(1) さらに、この事業を買収対象として金融的に(…すなわち事業そのものを金融資産として売買するという意味ですが)収益化するには、この事業を利益1億円の20倍(20億円)で取得し、単価を上げ、収益を2億円に増加したあとに同じ倍率(20倍)で売却すると売却額40億円、すなわち20億円の売買利益を生むことになります。米系を中心とした投資銀行やプライベートエクイティファンドが不動産投資や企業買収を繰り返すのはこのメカニズムによるもので、現場不在・金融主導の企業買収がこれほど広がっている大きな理由の一つです。