まだまだ暑さの続く毎日ですがお元気にお過ごしですか?

私ごとで恐縮ですが、先月の19日に40代最後のお誕生日を迎えました。
えええ~~~っ、もう? っていう感じです。
あなたも自分の年齢ってそんなヘンな感じがしませんか~?

で、約半世紀の自分のこれまでの人生ってどんなだったかしらと
ちょい振り返ってみました。

私の人生とは……なもの!

あなたなら……には何を入れられますか?

私にとっては、「すべてが、今この瞬間の積み重ね」であったように思います。

例えば、人生の何かに立ち向うとき、自分を奮い立たせるためには、
今やるべきことに集中して一生懸命やるだけしかありません。
過ぎてしまった過去や、まだこない未来を思い煩っても仕方ありませんものね。
でも、たま~に孤独や寂しさを感じた時などは、逆に「何もしない」ようにも
しています。今必要だからあるんだと、敢えて感じ、受け入れるように
しているんです。
どちらも今を大切にすることだと思います。

そして…、今を積み重ねていって、いつかは、どの人の人生にも最後には
「死」がやってきます。

NHKのドキュメンタリーで「無縁死」という現象が取り上げられ、大反響を
呼びました。番組では、家族も友人もなく孤独に死に、無縁仏として葬られた
人たち、あるいはそんな最後を予期して怯える人たちの人生がクローズアップ
されていました。すると、30代、40代のまだ若い世代が「無縁死」という
キーワードに敏感に反応しました。日本では、この世代に独身者が圧倒的に
増えています。親が死ねば一人になってしまう。血縁、地縁から切り離されて、
都会の片隅でたった一人、死を迎える人の姿が「他人事じゃない」と、深刻に
受け止められたわけです。

私も含めお客さまの女性達や友人も、アラサー、アラフォー、
アラフィフの独身者だらけ。そういう人たちに、無縁死について聞いてみると…
これはまた意外にも数人から、「そんなのあたりまえ。別に恐くない」という
答えが返ってきたのです。
たとえば私の友人に、トルコ大学で教鞭をとっている同級生がいるのですが、
彼女には恋人もいるにはいるけれども、違う国に住んでいて、会うのは
三ヶ月に一度程度。二人の間に将来の話は全く出ないという状態なのです。
でも彼女はそれをよしとしていて、相手を縛る気も頼る気もないし、
今のままでいい。好きなことはやってきたし、いつ死んでもいい。――
そんなふうに言うんです。実際、何年か前トルコ大地震があった時、
何日か連絡が取れず、周囲を冷や冷やさせ、一ヵ月後に帰ってきて
「それで死んじゃったら、それはそれでしょう」とケロっとしていました。
そんな彼女のことを考えていたら、「無縁死」っていうのは、
実に主観的な言葉だなとすら思えてきました。
つまり、予期される自分の死を、「孤独で寂しい死」と捉えれば、それは
「無縁死」になりうるのですが、そう捉えなければ、そうではない

いうことですよね。

また、家族・親子という縦の繋がりを失っても、人には横の繋がりが残ります。
友人、知人、ご近所との、ささやかといえばささやかな繋がり。
家族を持たず、あるいは家族を失って年老いたとき、友人と濃く深い繋がりが
持てればそれに越したことはありませんが、たとえ淡いものであっても、
人との横の繋がりを大切にして、自分なりにその中で居心地良く生きられれば、
人は自分を孤独だと感じないですむのかもしれません。
98歳で天寿をまっとうされた宇野千代さんが、晩年、新聞のコラムの文章に、
「愛はいたるところにある」と書いておられました。
近所の人が朝、自分に挨拶してくれる、その気持ちの中にも愛はある。
隣の夫婦が月に一度くらい自分の髪を切りに来てくれる、その行為の中にも
愛はある。その愛に感謝しつつ生きていきたい」と文章は綴られていました。
たくさんの人が独身のまま老いを迎えるであろうこれからの日本では、
人との横の繋がりが何よりも大事なことであると思います。

そして、やっぱり最後には、自分を救うのは、自分自身の心でしかないのでは
ないでしょうか。
今、家族のいるあなたも私も、もしかしたら死ぬ時には一人かも
しれないのだから。
それまでに、周囲にあるささやかな愛を大切に育み、
心豊かに生きていけるように、今この瞬間の積み重ねを大事にしてゆきたいなと、
誕生日にあらためて思ったことでした。

心で手を繋いでくださるあなたに心からの感謝と愛をこめて。

P.S. 連休の敬老の日には、周りにいらっしゃるお年寄りに温かな気持ちを
注いであげてくださいね。私も昭和一桁生まれの両親を労いたいと
思っています。

【2010.9.17 末金典子】