前回のエントリーで紹介した『サンマリーナの人事フレームワーク』は、現代の企業経営の常識とおおよそ正反対の価値観と言えます。具体的には、 

会社の将来に関するビジョン構築を従業員に委ねたこと。すなわち、経営者が自分のビジョンを実行するために企業組織へ働きかける、と言う考え方を廃止し、従業員が心からしたいことの集積が、企業の事業であると正反対に定義したこと。これによって、従業員の望むホテルを実現することが経営者の仕事になりました。
反面、経営はこの様な人事フレームワークを施行することで、「企業が選択する価値観」についてリーダーシップを取ったこと。
人事は従業員の人生をよりよくするために、会社と経営が従業員に対して行う「奉仕機能」である、と定義したこと。
人事から「指示・管理機能」(すなわちペナルティ機能)を取り去ったこと。
従業員を自由にするだけではなく、各人が自由に行動するための障壁を会社が理解し、それを一人ひとりに対して取り除く手助けを積極的に行う機能を強調したこと、などです。

以上のフレームワークを前提に人事考課基準を定めたのですが、そのプロセスは、本質的に重要だと思えるもの以外の全ての評価項目を捨て去る作業でした。僕の結論は、(1)人間的な成長、(2)どれだけ人の役に立ったか、だけが本質的な基準であるというもので、実際この2つの基準だけで、評価、昇給、昇進、賞与を含む全ての人事考課を行いました。これは建前でも、言外の意図があるわけでもありません。本当にこの基準だけで人事考課を運用してみると良くわかるのですが、一見曖昧にみえるこの基準が、実用的かつ効果的であるのです。

このようなフレームワークと考課基準で人事を運用するにあたって、一般的に懸念された点は、(i)どの組織にも「質の低い」人材が存在するが、従業員を自由にするとそのような人材がどんどん仕事を放棄する現象が生じないか、あるいは「有能な」社員のモチベーションを下げることにならないか、(ii)実際にどのようにして評価(運用)するのか、例えば、個人のどのような状態がA評価になるのか、(iii)従業員がしたいことだけをする、従業員にホテルのビジョンを委ねる、というのは現実に機能するのか、事業計画や戦略との整合性はとれるのか、でした。本稿では前者(i)について、次稿では後者(ii)(iii)についてコメントします。まずは、このテーマに関連して、ひろさちや著『仏教に学ぶ八十八の知恵』からの抜粋をご紹介します。

思いやりのこころ
娘は中学二年である。クラスメイトに、病弱な子がいるという。病弱というより、たぶんに精神的なものらしい。体がだるい、あちこちが痛む……といっては、学校を良く休むのである。一種の登校拒否であろうか。
家が近くのものだから、娘は毎朝、彼女をさそいに行く。もしも彼女が休んだ日には、夕方、彼女の家に訪ねて、「明日は行こうね」とはげましに行っているらしい。日課のようにしています――と、妻が私に報告してくれた。夕食のときであった。
「佳子」――と、わたしは娘に語りかけた。「いいことをしているね。それはいいことだと、お父さんも思う。けれどもね、少し考えておいてほしいことがあるんだ」
(どこまでわかってくれるだろうか……)
そう思いながら、ちょっと慎重に、ことばを選びつつわたしは話した。たしかに、学校を休むということは、よくないことだ。だから、弱気になった友だちを一日でも休みが少なくなるようにとはげましてあげるのはいいことである。あなたは今そう思っているだろう。自分のしている行為に、何の疑問も持っていないはずだ。なぜなら、自分のしていることに、どこにもまちがいがなさそうだからである。
だけどね、佳子。ちょっとだけでいいから、考えてみて欲しい。その学校をよく休む子は、休んだほうがしあわせじゃないんだろうか……とね。休むのはよくないことだ、とお父さんも思う。でも、よくないことであっても、そうしないと生きてゆけないことが、この世の中にはいっぱいあるんだよ。だれもがだれも、いいことをできるわけがない。弱い人もいるんだ。精神の力が弱くて、つい学校を休む子もいる。よくないことだと言われたって、弱いんだからしかたがないんだよ。
お父さんが言いたいのは、そこのところなんだよ。自分はいいことをしている、友だちを助けてあげている、と考えたとき、どうしても相手の立場がわからなくなるものなんだよ。自分にもまちがいがないから、相手をせめることになりやすい。お父さんには、それがいちばん心配だ。どうしたらいいんだろう、こんなときには……。お父さんだって、わからない。
「ただね、”学校を休むことぐらいは、たいして悪いことじゃないワ”と、あなたの心の中でちょっと考えるくらいのゆとりがほしいんだ。”本当に悪いこと”なんて、この世の中にありそうもないのだからね。たとえあったとしても、そんなもの、人間に決められることじゃないよね。なぜなら、人間はやはり弱いんだから、自分もいつかはまちがいをするものね。お父さんはそう思うんだ。それがお父さんの忠告だよ」
娘は、中途半端な顔をした。無理もない。正しいことをやりましょうと、人間を鋳型にはめ込むがごとき教育をうけているのだから、わたしのこんな考えは理解できるはずがない。わたしは急がずに、これからときどきそんなことを話してゆきたいと思っている。いつかわかってくれるだろう……、と信じている。いや、わかってもらわないと、やはり困るのだ。なぜなら、他人に対する思いやりのこころを、わたしは娘や息子にもってらいたいと望んでいるのだから……。

経営合理性を考える
ひろさちやさんの事例は、近所の女の子は従業員、ひろさんの娘さんは経営者、学校へ行くことは仕事をすること、と置きなおすと、企業社会でよくある議論になります。どの企業にも、やる気を失ったり、要領が悪かったりするために、決められたガイドラインに沿って成果をあげることが非常に不得意な社員(あるいは、よくあることですが、「有能な」社員でも、そのような時期は周期的にやってくるものです)がいますが、企業社会において、この様な社員が、仕事をしたくないからという理由で仕事をしないことは許されないことと考えられています。そのような社員がどれだけ正直な人間でも、どれだけ良い性格であっても、それどころか、大概の場合はいかなる理由があるにせよ深く考慮されることはありません(世の中の殆どの企業は、表面上はどのような企業理念を掲げようと、「従業員第一」の経営を行っているところは殆ど存在しないのです)。

これは、仕事をしなければ成果が上がらず、ひいては企業価値がさがる、という前提に基づいており、「常識的」な考え方です。いかなる理由であっても従業員が仕事をしなくなれば、その従業員の人件費と、その労働によって得ることができたであろう機会損失が、経営的に生じます(実際は、程度やタイミングやその他の状況にもよりますが、他の従業員がカバーすることによって、機会損失はあまり生じないケースも少なくありません。)。加えて、「悪貨は良貨を駆逐する」という考え方に従うと、「能力のない」従業員を経営が放置することで、その他の従業員のモラルが下がることを未然に防止することができると考えられがちです。

以上の考え方は、確かに「常識的」ではありますが、本当にこの考え方が合理的かどうかを理解するためには、上記のような「個別の問題」として捉えるだけでは不十分でしょう。経営者にとってより重要な課題は、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」、という個別の経営行為が、「事業という生態系」全体において合理性を持つのだろうか、という問いである筈です。

生態系で何が起こっているか
これに対して、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」経営行為は、「事業という生態系」においては、次のような現象が生じていると考えられます。第一に、一見「合理的」な受験勉強によって、「学ぶこと」という最大の報酬をどぶに捨てている、という比喩と同様、従業員にとって「仕事を楽しむ」という、仕事をすることの最大の報酬を消失させてしまいます。これによって、当該従業員の「金色の仕事」を「鉛色の仕事」に変換する効果があります。第二に、「やる気の湧かない従業員」とは、実は全従業員が該当する、という点です。どんなに有能な社員も、その労働時間の全てがやる気に満ちているということはあり得ません。したがって、経営のこの様な対応は、経営者が認識しているか否かに関わらず、「経営は従業員の(生産性という)一面しか必要としていない」というメッセージを全従業員に伝達する効果があります。これは、すべの従業員は条件付きで必要とされる、すなわち、従業員よりも優先される何かが存在する、というメッセージでもあります。第三に、「生産性を伴った従業員しか必要とされない」、というメッセージと、「従業員を大事にします」というメッセージが経営から同時に出される場合、全従業員に対して「経営のメッセージには嘘がある」というメッセージを伝達する効果があります。第四に、「従業員は限定的に必要とされるのみである」というメッセージと、「経営には嘘がある」というメッセージが伝達されることによって、従業員が「自分と会社に嘘をつく」現象が生まれ、やがて常態化します。つまり、従業員の立場では、「経営がありのままの自分を評価しないため、経営が評価する人物像を『自分』と表現する」必要が生じ、更に、経営者自身のメッセージに嘘が含まれていることを知り(感じ)、企業において嘘が許容されるという意識になるのです。

この様な「生態系への影響」は、殆どの場合目に見えないものばかりで、多くの場合このような「ダメージ」を数量化することは困難です。反面、「個別の問題」は誰の目にもはっきりしているため、対処方法は明らかに思えます。更に、「個別の問題」があまりに明らかに見えるために、株主やその他の「権威者」から経営に対するプレッシャーもかかりやすく、経営者はこれらの権威者にはっきりと反論することが困難です。これに反論するためには、目に見えないものを合理的に説明する必要があるからで、大半の経営者にとってほぼ不可能な作業です。このため、経営者は株主などに対して、ある意味嘘(言わない嘘を含む)をつく必要が生じ、経営者にとって経営情報の一切を開示することは、「経営の存続に関わる」、という悪循環が生じます。

三つのメリット
反対に、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」ことを一切止め、前掲ひろさちやさんの人間関係に関する考え方を経営にそのまま応用すると、「事業の生態系」にどのようなことが生じるでしょうか。少なくとも三つの点において大きなメリット(事業価値)が生まれる可能性があります。第一に、企業から嘘が大幅に減少する点です。従業員の意思と意欲を最優先すると、従業員が企業に対して、そして更に重要なことに、自分に対して嘘をつく必要がなくなります。これによって従業員の仕事の大半は「金色の仕事」となり、ひいては企業の売上の大半が「金色の売上」となり、企業価値を高めることになります。加えて重要なこととして、この様な、嘘の少ない生態系においては、経営者が従業員に対して嘘をつく必要性も薄れるため、経営者がこの環境を適切に活かす意思がある場合、経営効率が高まります。

企業における嘘(政治)の存在は、多くの企業において、恐らく最大の「簿外費用」のひとつでありながら、企業に与える実質的なダメージの大きさと、経営的な重要性は殆ど認識されていないという印象を受けます(この詳細については別の稿で紹介します)が、このメリットによって、嘘による莫大なロス(費用)を削減する効果があります。

第二に、思いやりの連鎖が顧客に伝わります。ひろさちやさんのアプローチは、「相手をありのままに受け入れ裁かない」、という思いやりの本質を示していると思います。事業は人間関係そのものですので、経営においても同様の原理がそのまま適用します。すなわち、経営が従業員をありのままに受け入れると、経営の思いやりが従業員に伝わり、従業員は顧客をありのままに受け入れるようになり、従業員の表も裏もない思いやりが顧客に伝わります。このときの顧客の喜びようは、傍から見ていてもとても感動的です。このアプローチは、企業が顧客に対して本当の思いやりを示すために、経営が実行できる殆ど唯一の方法ではないかと思うのですが、同時に効果的な手法でもあります。反対に、経営から条件付きで必要とされている(世の中の大半の)従業員は、顧客を条件によって区別するようになります。例えば、よりお金を落としてくれる顧客、クレームの少ない顧客、手間のかかる要望の少ない顧客…、を優遇することになるでしょう。企業のこの様な対応は、「差別化戦略」などと呼ばれ、最近ではむしろ流行の経営戦略なのですが、このアプローチが「事業の生態系」において本当に合理性を持つのかは疑問です。確かに虚栄心の強い顧客にはある程度効果的かもしれませんが、企業の応対の裏に、隠された別の意図が含まれているということは、多くの顧客がすぐに見抜いていしまいます。

第三に、「事業を取り巻く生態系」の価値を最大化する可能性があります。この点については、本稿の趣旨ではありませんので深く触れませんが、「事業の生態系」はさらに「事業を取り巻く生態系」の一部であり、その大きな生態系の価値を最大化することで、「事業の生態系」に価値が生まれます。現代の経営理論には「サプライチェーン・マネジメント」のように、企業の物理的な枠組みを超えた、商品の生産から販売までの経済活動の効率を最大化する、という考え方がありますが、従来の事業の概念をより広い視野から捉えるという一点においては共通しています。トリニティの「事業を取り巻く生態系」理論は、例えばサンマリーナのオーバーブッキング対策などで実践されています。以下は、『今、愛なら何をするか』Article 4.「トリニティ経営に関するQ&A」からの引用です。

『少々テクニカルな事例になりますが、一般的な沖縄のホテルでは、不測に稼働率が高まるとオーバーブックという現象が起こり得ます。具体的には200室の客室に対してそれ以上の予約が入ってしまうと、希望するお客様に対して一部特典付きで他のホテルに宿泊を御願いするということになります。もちろんオーバーブックをした送客ホテルが費用を負担して次の受入れホテルでのグレードアップをしたり、食事の特典をお付けするなどの対処を行い、お客様にはむしろ喜んでそちらを選択いただくように務めるのですが、その際に送客ホテルが負担する費用は相当な額に上ることがあります。

一般的な慣習として、他人の不幸は密の味ではないですが、送客ホテルがお客様の移動先を探す際、受入れホテルは宿泊料を言い値で請求することも多々あり、これが更に送客ホテルの大きな費用負担を招いていました。「競合ホテル」という認識の基にはこのような対応がむしろ当然だと思います。

サンマリーナはこの問題に対処するために、他のホテルの立場を優先してみました。他のホテルがオーバーブックをしてサンマリーナに送客を希望する場合、当方に空室がある限りにおいて、先方の言い値(原価)でお受けするように方針を決め販売担当に伝えました。すなわち、サンマリーナを受入れホテルとする場合、送客ホテルはグレードアップや特典追加をお客様に提供できるにも拘らず、差額の費用が発生しないことになります。すると多くの周辺ホテルは、サンマリーナが送客する際においても非常に安価で対応していただけるようになり、この方針を定めた年度よりサンマリーナではオーバーブックによる費用がほぼゼロとなり、サンマリーナにとっての経済効果は約1億円分の売上増加に相当するインパクトがありました。

サンマリーナでは、いわゆる他社を競合相手とは考えず、助け合うことのできるパートナーと考えたため、それがそのまま事業における現実となりました。財務的にも、昨年度まで「競合他社」と呼ばれていたものが、この年からサンマリーナの簿外資産に変ったと考えることができます。このような発想の切り替えによって、サンマリーナは実質的に保有客室(200室)以上の顧客を受け入れることが可能になったと考えることもできます。』

こどもアドバイザリーボード
少し脱線気味のコメントになりますが、次のホテルプロジェクトにおいては、企業経営について、小学校低学年位のこどもに、各部署のマネジャーが事業報告を行いアドバイスを求める、「こどもアドバイザリーボード」を試してみたいと思っています。ボードメンバーは従業員の子供か宿泊客から選抜すると更に盛り上がりそうです。冗談ぽく聞こえるかもしれませんが、まじめに運用すると非常に面白い結果が生まれるのではないかと予想しています。小学校低学年生は、分別がある程度ついていると同時に、ものごとの嘘を鋭く見抜くことのできる年齢です。また、マネジャーは自分の担当する事業を小学生に理解できるように説明する必要が生じますので、自分の事業の本質を深く理解し、かつ平易な言葉で表現する作業が強いられるのです。

【2007.6.5 樋口耕太郎】