僕は、「良い人事」とは、「従業員の幸福感と企業の事業性(長期的な収益)がバランスする人事」だと思っています。これは抽象的な理想論に基づくものではなく、「従業員の幸福を最大化する」行為と、「(長期的な)企業収益を最大化する」行為は同一のものであり、この両者を最大化する経営バランスがどこかに存在する、という仮説に基づきます。このバランスをうまく取ることができれば企業価値の最大化(したがって長期的な事業収益の最大化)を容易に実現すことができるのです。

同様の意味ですが、本来の人事の目的は、企業価値の最大化を達成すること、すなわち戦略的かつ攻撃的な経営作業だと思います。一般的な企業における人事は管理的な業務として扱われがちで、企業価値への働きかけを意識して人事を構築する経営者はそれ程多くない印象ですが、企業価値とのバランスを意識しながら為される人事は、効果的な経営作業と言えます。個人的な経験でも、トリニティ経営を実行した以降、サンマリーナホテルにおいての僕の時間配分は、その90%以上が広い意味での人事関連でした。企業価値を意識しながら行う人事は、恐らく、経営者が企業価値を高める上で最も有効な仕事のひとつではないでしょうか。

トリニティ経営理論の考え方では、企業価値を最大化するということは、企業が持つ三つの資本(株主資本*(1)、顧客資本、人的資本)の合計の最大化を意味するのですが、三つの資本のうち、経営が最も効果的に働きかけることができるのは「人的資本」です。この意味でも、人事は企業価値の最大化を達成する上で効果的な経営作業と考えられ、その経営における重要性は計り知れないものがあります。

企業価値を高める人事
「企業価値を高める人事」と表現してもイメージしにくいと思いますので、その一例を紹介します。例えば、「金色の売上」を促す人事はこれに該当すると思います。『売上論《後編》』では、事業の本質的な強さ、すなわち企業価値の観点では、人の役に立った結果生まれる「金色の売上」と、人をごまかした結果生まれる「鉛色の売上」の二つの要素からなり、前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つ、と述べました。金色の売上は、「人が喜んで支払ったお金から構成される売上」であり、「偽りのない商品やサービスによる売上」であり、「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」であり、企業価値を高める売上です。この前提で人事を考えると、「金色の売上」を促し、「鉛色の売上」を最小限にするような人事が効果的と言えるのです。具体的には、「正直な社員を登用する人事」「オープンな人材を登用する人事」「人が喜ぶ仕事を優先する人材を登用する人事」を行うことで、「金色の売上」の比率を高め、ひいては企業価値を高めるというメカニズムが機能します。

…本稿の趣旨ではありませんが、この観点から世の中で「常識」となっている成果主義人事考課を考えると、成果主義は「金色の売上」と「鉛色の売上」を区別しないため、経営の意図とは裏腹に、企業価値の最大化に寄与しないのみならず、企業価値を毀損する大きな原因になっているかも知れません。このように考える方がむしろ現在の企業社会の現状をうまく説明できるように思えるのですが、如何でしょう。

「金色の仕事」と「鉛色の仕事」
従業員の幸福感と企業の事業性に関する僕の仮説は、「従業員の幸福感は企業の事業性を生み出す(恐らく)最大の要素のひとつである。ただし、この価値を顕在化するためには特定の経営バランスが必要である。」というものです。この前提において、①従業員の幸福感を高めるために経営は何ができるかを考え、悉く実行すること、②事業性を顕在化する経営バランスを見つけ、バランスし、維持すること、が経営の(恐らく最も)重要な役割ということになります。

従業員の幸福感を大きく左右する、仕事の質に関する概念は、経営理論のフレームワークではあまり議論されないのですが、仕事には(売上と同様に)2種類の色がついているのではないかと思います。心からしたいと思える仕事(「金色の仕事」)と、しなければならないからする仕事(「鉛色の仕事」)です。自分の好きなことを仕事にできる人は幸福な人である、というのは一般的な認識でもあり、「金色の仕事」の比率を高めることは、社員の幸福度に直結する重要な要素です。そして恐らく、特定の条件において、「金色の仕事」は「鉛色の仕事」と比べて高い成果を生むのです。「好きこそ物の上手なれ」という諺にもあるとおり、自分が心からしたいことの追求は事業性を持つのです。

これに対して、一般的な懸念は、「従業員の自由にさせたら、誰も働かなくなるのではないか」というものですが、確かに、従業員を自由にすると「鉛色の仕事」に関しては誰も働かなくなるでしょう。そして、従業員は気が向いたときに気が向いた量だけ「金色の仕事」をする、ということを意味します。したがって、冒頭の、「従業員の幸福感と企業の事業性のバランス」とは、(i)従業員が一日X時間の「金の仕事の」をしたときの成果が、(ii)一日8時間の「鉛の仕事」をしたときの成果を上回る経営バランス、と考えることができます。つまり、企業価値とのバランスを重要視した人事においては、(i)が(ii)のパフォーマンスを上回るために経営が従業員に対してできることは何かを考え、具体的に実行し、その成果を注意深く分析し、試行錯誤によって最適解を導く作業がポイントになります。そして、実際に試してみれば分かりますが、(i)が(ii)を上回る、それも著しく上回る経営的な働きかけを行うことは、それ程難しいことではありません。

具体的な課題は、従業員が心からしたいことを常に有しているわけではない点、すなわち、従業員が心からしたい仕事が見つからない場合、(i)を構成する、「金の仕事」を行う労働時間(X)がどんどん減少するという点。そして、従業員が心からしたいことが企業の目的に沿わなければ、事業が成り立たない、と言う問題です。この課題に対応する、サンマリーナ*(2) での僕の結論は、①従業員が心からしたいと思えないときは仕事そのものを停止して構わないこと、②従業員が心からしたいと思える仕事を見つける手助けをすることも、人事と経営の重要な役割であると規定したこと、③初めに経営が事業のフレームワークを設定し、それに対応する従業員の業務が規定されるという「常識的な」考え方を180度転換し、従業員が心から望む「金の仕事」の集積が、企業が行うべき事業であると定義してしまったこと、そして、④従業員が心から望む「金の仕事」のうち、人の役に立つ行為をより高く評価する考課基準を導入したことです。これによって、サンマリーナにおける従業員の仕事は、少なくとも理論的には、その100%が「金色の仕事」となる環境を整えることができました。この考え方によってまとめたサンマリーナの人事的なフレームワークは以下の通りです。以下はサンマリーナで実際に施行・運用した人事考課基準からの抜粋です。

サンマリーナの人事フレームワーク

1.会社の強さは従業員の在り方による
会社の強さ、会社の存在価値は、会社の「実績」ではなく、会社とは「何であるか」によって決まると考えられます。「社員が上げた実績」は会社の現在の実体とは何の関係もないのです。「どのような社員が居る会社か」「その社員がどのように時間を送っているか」「どのような顧客や取引先や株主とどのような関係を持っているか」が会社の実体であり、会社の真の実力を決定します。サンマリーナの人事と人事考課は、社員の人生を真に良いものにすることを通じて、会社を真に強くするためのものです。したがって、社員が何を達成したか、すなわち過去の実績や体験は真実の指標にはならず、直接の考課の対象にはなりません。純粋な社員の価値は、いま、ここで、どのような人であるか、どのようなことをする人であるか、であって、過去の再現ではないためです。

2.人事は会社が従業員の幸福に寄与するための手段
サンマリーナの人事と人事考課は、会社が社員に対して「社員はこう行動すべきである」、または「こういう社員を評価する」基準を示し、その基準によって評価するためのものではありません。人事とは、会社が社員の個人的、集合的な成長を応援し、無条件に支え、最大限奉仕するためのガイドラインです。したがってサンマリーナの考課基準は社員が人生の中で「自分はこうありたい(こう成長したい)」と考える目標と一致するべきだと考えます。

3.従業員がより幸福なあり方を選択するための手助け
職場の喜びは「何をするか」とは関係なく、「何を目的とするか」によって決まると考えられます。例えば、午前4時に起きて赤ちゃんに語りかけながらおむつを替えるお母さんや、長い一日の仕事を終えた後デートに出かける女性をみて、それが「労働」だなどとは誰も思いません。サンマリーナの人事と人事考課は、社員各人の人生の目的と考課基準を一致させる努力を通じて、社員の職場での喜び、幸福に寄与することを目的としています。例えば、同じような資質を持った二人なのに、一人は成功し、一人は失敗するとき、それは「していること」のせいではなく、「あり方」のせいかも知れません。一人は開放的で、親しみ深くて、こまやかで、親切で、思いやりがあって、陽気で、自信があって、仕事を楽しんでいます。もう一方は閉鎖的で、よそよそしくて、冷たくて、不親切で、陰気で、自分がしたことを嫌っています。サンマリーナの考課は、社員がより高い、前者のあり方を選ぶための手助けでありたいと考えます。

4.他人の役に立つほど評価されるしくみを担保
サンマリーナの考課は、社員が、個人的な利益目当てではなく、個人的な成長と人の役に立つことを目的に生きるための手助けであるように構成されています。なぜならば、それが社員個人の最大の利益であり、社員が大きく立派になれば、物質的な「利益」はあとから自然についてくる、という考え方に基づきます。一般に、社会で言う「成功」は、個人がどのくらい「得た」か、すなわちどのくらいの名誉や金や力や所有物を蓄積したかで測られています。サンマリーナの価値観では、「成功」は他の人にどのくらい「蓄積させたか(有形・無形のものを含む)」で測られます。真実は、人に蓄積させればさせるほど、本人も苦労なく蓄積することになるでしょうし、会社もそのプロセスを全面的に支持するのです。「いま、愛なら何をするだろうか?」を心に留めて、関わるすべての人に「贈り物」(ものとは限りません)をする、そのような社員の努力を、支持し応援し、評価の根幹としています。

【2007.5.26 樋口耕太郎】

*(1) ここで言う「株主資本」とは、バランスシート上で表現される資本を示します。逆に言えば、会計原則において表現される企業価値は、そのほんの一部に過ぎない、といえます。

*(2) 僕がサンマリーナホテルの代表を解任され、経営を離れてから1年半以上の時間が経過しており、現在は異なる経営者と経営方針の下に運営されているため、サンマリーナホテルに関する一連のコメントは現在のサンマリーナホテルの状況を反映しているとは限りません。