日本の端沖縄から資本主義社会を眺めていると、色んなことがずいぶん違って見えることがあります。そんな発想で資本主義社会を逆さまから解釈してみました。冒頭は、資本主義の基本構造を示す(と私が考える)思考実験です。西暦元年に100円を預金して年5%の複利で運用したとき、2009年のお正月の預金残高を計算すると、
336,452,092,272,630,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000円
になります*(1)。世界最大の銀行は日本のゆうちょ銀行ですが、総資産は「僅か」
196,000,000,000,000円
(196兆円)に過ぎませんので、この膨大な預金を受け入れることができる銀行は、地球上において到底存在し得ませんし、人類がどれほどの経済成長を実現したとしても、この利息を賄うことはできません。この単純な算数が明らかにすることは、私たちが依って立つ資本主義社会の経済システムがいかに荒唐無稽なものであるか、そして、我々が当たり前と思っているお金と利子の存在自体が社会においていかに持続性を持たないか、という重大な事実です。
また、時給1,000円で年間3,000時間働くと年収は300万円ですが(因みに、2009年度の経済財政白書によると、日本における年収300万円未満の雇用者が、全労働人口の過半数に達しています)、西暦元年から2008年間のこの労働者の合計賃金は、
6,024,000,000円
(約60億円)、5%でお金を運用した「資本家」の預金額との差は、実に、 55,851,940,948,311,800,000,000,000,000,000,000倍であり、これは労働者と資本家の所得の差でもあります。特に1990年代以降、世界の先進国では社会格差の問題が表面化していますが、資本主義が強烈な格差を生み出すのは、政治学、経済学以前の問題として、このような、利子のメカニズムに付随する構造的な問題と考えるのが自然ではないでしょうか。・・・社会格差の問題は、一般的に批判されているようなまずい政治の舵取りの結果、という要素も確かにあるかも知れませんが、上記を前提とすると、政治批判・経済論争すら対症療法についての議論に過ぎません。政治を批判しすぎるのも、政治に期待しすぎるのも、本質的な病理の特定と治癒を遅らせることになるのではないかと思います。
異端の資本主義論
以上を前提とするとき、我々が問うべき質問は、資本主義がこれからどうなるか?ではなく、なぜ今まで崩壊していなかったか?ということかもしれません。・・・「資本主義は持続性のない自滅的なシステムである」、というマルクスの言葉が想起されますが・・・。そしてその問いに対するひとつの回答として、「我々が資本主義と呼ぶ体制が未だ崩壊していない理由は、今までは社会主義的であったから」、あるいは、「社会主義の存在によって資本主義は(辛うじて)維持されてきたから」、という発想が可能です。
中産階級は国家そのものである、といえるほど、中産階級の強さが国家の安定と経済発展と共同体の緊密さと人間関係の強さにとって重要で、社会が均質になるほど経済圏としても、政治体としても、文化としても繁栄する、という仮説を考えてみます。20世紀以降の資本主義社会をリードしてきたアメリカ*(2) が最も経済力を持ち、最も豊かだった1950年・60年代は、アメリカが最も社会主義化(他に適切な言葉がないので一応このように表現します)していた時期です。・・・個人所得税の最高税率は90%でしたし、上位0.1%の大金持ちが、国民年収総額の何%を占めているかに関するピケッティとサエズの調査*(3) では、1930年代の6%から1950年代には2%まで急低下しています。「超・資本主義」*(4) で第二位の経済大国の役割を果たしてきた日本の国体は、太平洋戦争の敗戦を経てアメリカによって「作られ」ますが、アメリカが建国以来最も社会主義化していた「1945年前後」に「敗戦を迎えた」という二つの事実は、ある意味でその後の日本にとっては幸運なことであり、奇跡といわれた日本の経済復興の重要な要素ではなかったでしょうか。日本は「世界で最も成功した社会主義国」と揶揄されていた時期もありましたが、このジョークは本質を突いているのかもしれません。
一方、社会主義国家は「社会の諸悪の根源である資本家」を排除するために民間資本を取り上げ、私有財産を認めない、という基本政策を取ります。だからといって、社会から資本が消えてなくなることはなく、結局誰かが資本を「所有」しなければなりません。20世紀の社会主義体制の最大の矛盾であり欠陥は、民間の資本家から資本を取り上げ、国家という世界最大の資本家を生み出してしまったことではないでしょうか。1950年・60年代において、アメリカや日本などの「資本主義」国家は、本質的に平等な社会主義的社会であり、同じくソ連などの「社会主義」国家は、本質的に最も格差の激しい資本主義的社会であったため、資本主義的な「社会主義」国家(ソ連)が、より社会主義的だった「資本主義」国家(アメリカ、日本などの西側諸国)より先に崩壊した、というのが私の仮説です。社会主義の失敗は、社会全体でお金に向き合うことを放棄して、国家という「金庫」に閉じ込め、これを少数が管理する仕組みを構築してしまったこと、すなわち、お金の本質を理解して活用する社会工学の欠如が、システム崩壊の本質なのだと思います。
1991年12月25日、ソ連の崩壊によって冷戦が終り、「社会主義」の脅威がなくなったアメリカと西側諸国では、60年以上眠っていた資本主義のメカニズムが本格的に「覚醒」します。その直後、1990年代中頃から急速に資本主義が先鋭化してマネー資本主義を生み、サブプライム、そして世界金融危機に繋がっているように見えます。資本の論理が社会格差を急速に拡大させ、共同体を分断し、人間関係を崩壊させていくプロセスは、あたかも滝つぼに向かって全力でオールを漕いでいるようにも見えます。
過去60年以上に亘って資本主義社会を牽引してきたアメリカは、常に日本の先行指標でしたが、資本の論理が社会にもたらしたその凄惨な現状は、かつて日本が憧れた国とはまったく別の姿になっています。アメリカの中産階級は過去50年間、「共同体の崩壊 → 大家族の崩壊 → 核家族の単位へ → 夫婦共働き → 核家族の崩壊 → 母子家庭」 という道筋を辿りながら、家計収入と社会的な支えをどんどん失ってきました。特にアメリカでは90年代以降、家計の金融資産が底を突き、生活するための収入が不足したため、家計の貯蓄率がマイナスとなり、不動産ローンや消費者金融によって将来収入を取り込んだところ、昨年からのサブプライム危機によってとどめを刺された形です。現在アメリカの失業率は10%を超えて上昇中ですが、1年間以上職を探している人は統計から除外されるため、実質的には17%を超えているという推定もあります。「市場原理」の導入によって、政府が社会保障の代わりにお金を借りやすくすることで「自己責任」にした結果、ローン会社は潤い、借金をを返せなくなった人が急増。いざ返せなくなると社会的なセーフティーネットが大幅に縮小されており、社会に復帰できるインフラが存在せず、中間層が貧困層に、貧困層が最下層に落ち込んでいく、ドミノ倒しのような現象が起きています。
俄かには信じ難いようですが、アメリカで最後に残ったセーフティーネット、食糧配給券の受給者が過去最高、全国民の12%に達し、更に1日2万人のペースで増え続けています。ワシントン大学の最近の調査では、およそ半数の米国民が、20歳になるまでに少なくとも1度、黒人の子どもは実に90%がフードスタンプを受けていることが明らかにされました。これほど食糧支援が急務となっているのは大恐慌以来で、食糧を確保するという、あまりに基本的なことさえままならないのがアメリカの現実です。
遅々として進まない医療改革の議題の中心は、4,700万人にも上る無保険者ですが、保険に加入していても医療費の自己負担分が収入の1割以上を占める人が2,500万人も存在し、ただでさえ低い収入を強く圧迫しています。更に、劣悪な健康保険が大量に横行しているために、保険に加入していながら保障を受けられない人も水面下で大量に生じています。最低限の生活がままならない大半の国民にとって、病気になるということは、かなりの確率で破産を意味します。ハーバード大学が2005年に実施した全米1,700強の破産事例の調査によれば、破産の約半数は医療問題に起因しており、破産者の75%は医療保険に加入していたといいます。医療費が支払えずに破産した人々の多くは大卒で、マイホームを持ち、責任ある仕事についていた中流層でした。それが病気になった途端に、医療費の支払と、住宅ローンの支払の二者択一を迫られ、やがて自宅を追われることになります。子を持つ親の立場で、子どもが病気になった際、医療費の支払を拒むことは困難です。
更に、囚人が市場原理に組み込まれています。米国の凶悪犯罪は減少している中、統計上の犯罪率が上昇しているのは、貧困ゆえの「犯罪」が急増しているためです。例えば、スピード違反で切符を切られ、裁判所に出頭する際、罰金を支払うお金を持っていれば保護観察処分を免れますが、貧困ラインの生活を送っている多くの国民にとって、数百ドルの罰金を工面することは大問題です。そうなると、罰金に加えて、月35ドルの監督手数料を民間委託会社に支払う必要が生じるなど、支払総額がどんどん膨れていくしくみです。滞納している罰金と手数料の支払ができなければいずれ刑務所に送られるため、警察の目を避け仕事を探すのも怖いながら、仕事がなければもちろん罰金も払えません。現在多くの州では州法が改正され、ホームレスであるということが犯罪とみなされて逮捕される状態になっています。刑務所に収容されている囚人は地域住民としてカウントされるため、囚人が増えれば連邦政府からの助成金が増える仕組みです。囚人は刑務所内で時給僅か12~15セント程度の超・低賃金で働いていますが、それが企業のアウトソーシング先になっています。米国の刑務所では、入所と同時に手数料と言った名目で多額の借金を負わされ、刑期を終えても借金漬けの状態で出所するため、貧困のために犯罪に走り、すぐに刑務所に逆戻りという循環に陥っています。その結果、アメリカの囚人人口は30年前の3倍を超え、米国の成人45人に一人が保護観察或いは執行猶予中、世界の囚人の25%がアメリカ人という、凄惨な社会事情になっている反面、刑務所は民営化され、もっとも儲かるビジネスのひとつとなり、施設の土地建物は証券化されて人気金融商品になっています*(5)。
アメリカも日本も、目先の金融・財政政策*(6) が治癒そのものであるかのごとく行動しているように見えますが、「国家そのもの」ともいえる中産階級が燃えかすのようになってしまった社会で、どのようにして景気が「回復」し得るのか、大きな疑問を感じます。現在のアメリカは、常に明日の日本でした。我々はこの資本主義の構造問題に対して、何ができるのでしょうか。
マルクスの社会学
社会主義の提唱者として知られるマルクスですが、彼の業績の本質は、当時の世界人口の半数に影響を与えた著書『資本論』を通じて、資本主義の構造分析を行ったことです。マルクスが生きた資本主義社会の時代、1850年頃のヨーロッパの社会状況は筆舌に尽くしがたいほどひどいものでした。労働者は凍えるほど寒い工場で1日14時間も働かされていました。賃金はひどいもので、安物の酒で支払われることもざらで、子供や妊娠している女性も働きに出なければならなかっただけでなく、沢山の女性が資本家相手に売春をして生活費の足しにしなければなりませんでした。同じ時代に、資本家は昼は馬で遠乗りをして、風呂に入ってさっぱりした後、フルコースのディナーを食べ、暖かい広間でバイオリンやピアノを弾いたりしていました。 (・・・まるでデジャヴュのようです。格差が進んだ最近のアメリカ社会にずいぶん似ていないでしょうか?やはり、資本主義は、社会主義の存在によって、相当緩和・健全化されていたのではないかと思えます。)
資本主義社会で対立する二つの階級、資本家と労働者の違いは、生産手段を持っている者と持っていない者の違いです。マルクスは、どうすれば資本主義社会から共産主義社会に移れるかを考えるために、資本主義の生産方式をとことん分析しました。マルクスは、資本主義の生産方式は多くの矛盾を抱え、理性にコントロールされていない自滅のシステムであり、どの道滅びると考えていました。・・・資本主義社会は労働者は資本家の利益のために働き、働けば働くほど、資本家が得をするシステムであり、労働者が事実上、資本家の奴隷となるように組織されていると結論付けました。労働者が作った商品の販売価格から労働者の賃金やそのほかの生産コストを引いた残りが儲け(マルクスはこれを「剰余価値」と呼びました)ですが、もともと労働者が作り出したこの剰余価値を、労働者ではなく資本家が手に入れる仕組み、すなわち搾取のしくみが資本主義の基本構造です。剰余価値を労働者から搾取した資本家は、この儲けを新たな資本として、商品をもっと安く作るために、工場を最新式にし新しい機械を買います。機械が生産性を生み、労働者は不要になり、資本家は労働者を減らし人件費を削減することで、更なる利益を手にします。しかしながら、ベルトラン*(7) が言うように、「価格が限界費用に収斂する」激しい競争の中で商品の競争力を維持するためには、どんどん価格を下げざるを得ず、利幅が縮小する中で、僅かな儲けをますます生産手段につぎ込み、更に労働者への分配率が減らされていくという、悪循環が必然的に生じます。社会に失業者が増加して社会問題が深刻化し、労働者はとても貧しくなって、最後には何も買えなくなってしまいます。結果、社会全体の購買力が低下し、商品が売れなくなり、資本家は自滅することが運命付けられているシステムだという解釈です。
マルクスの考えは、このような資本主義が崩壊した後は、生産手段が全ての人々のものに、すなわち、剰余資本が全ての人々に配分される、社会階級のない共産主義社会が生まれる。人々はそれぞれが能力に応じて働いて、それぞれが必要に応じて支払われる。労働は資本家のためではなく、労働者自身のためのものになる。資本主義の崩壊は予想ではなく、構造的必然だ、というものでした。
インターネットは社会主義?
不思議なことですが、サブプライムと国際金融危機を直接のきっかけに資本主義社会が「傾きつつ」ある中、僅か10数年前から我々の社会に彗星のように現れたインターネットとデジタル情報化社会の変容は、あたかも「周回遅れ」で、マルクスが予言した社会に(少なくともその一部が)符合する変化を生じているように見えます。第一に、ネット社会における起業コストは、僅か10年足らずで想像を絶するほど下がっています。夫婦でまじめに開業した一軒のパン屋さん、一軒のケーキやさんが、高品質の商品を追求し、開業から数年で高い評価を受けた後、ブログを通じてネット販売をはじめ、やがてネット企業から全国的に取り上げられたりするようなことはあまりに一般化しており、質の高いものを真剣に生産する情熱があれば、生産手段や事務所は自宅で、流通はネットで全国アクセスが容易に可能であり、初期投資額は小額で済みます。世界にひとつしか存在しない個性的な企業は、わざわざ営業所を置かなくても、地球の裏側からでもお客さまが見つけてくれるため、「二番煎じの大企業」と 「超・個性的な田舎の小企業」では、逆説的ですが、後者の方が圧倒的に広い商圏を持つようになるのです。これは、マルクスの言う、「生産手段が労働者自身のものになる」現象そのものです。第二に、現代社会で最も付加価値が高いとされる商品は、広い意味での情報であり、従来型の製造業、つまり、資本集約、マーケットシェア、独占的な価格決定力などを強みとする、単純な第二次産業の事業価値は今後低下する一方でしょう。これは、資本家が資本家であることの比較優位が低下していることを意味します。第三に、知的財産や情報産業は、遅かれ早かれネット上に集約されることになるでしょう。かつて1セット10万円以上した百科事典(トップシェアはブリタニカ)が、マイクロソフトのCD-ROMエンカルタで1万円に、そして無料のウィキペディアへと変遷する過程で、かつての1,200億円市場が実質的に1億円市場に「縮小」したり、新聞の個人広告が無料のネット広告(クレイグズリストなど)に置き換わる事例は、インターネットが既存の「リアル」ビジネスをいかに短時間で激しく侵食するかを端的に表すものです。ネット上の商品は基本的に全てデジタル情報であり、限界費用がゼロのものばかりです。「競争市場における商品の価格は限界費用に収斂する」というベルトランの法則に従うと、これらの大半は、遅かれ早かれタダで不特定多数の利用者に提供されることになるでしょう。百科事典や個人広告の他、既に音楽は殆どタダ同然ですし、映画もそうなりつつあります。これも、マルクスが言う、「全ての人がその所得の多寡によってではなく、その必要性に応じて必要な商品が必要なだけ手に入る社会」そのものなのです。
インターネットの世界はこれからも激しく変容を遂げながら進化することが確実です。その重大な変化が社会にどのようなインパクトを与えるのか、予想することは容易ではありませんが、その複雑系システムは、豊かな人間関係と、格差の少ない次世代社会を構築するための、重大なカギになる可能性があると思います。
お金を使うということ
資本に関するもうひとつの重大なテーマは、お金の使い方です。人類は未だ、人生の幸福を損なわずに富を活用する方法を知りません。多くの人は、それが問題だという認識すら持っていないようですが、世の中に膨張し続けている膨大な額のお金を、社会と個人のために適切かつ有効に使うノウハウ(社会工学)の欠如こそが我々社会の大きな問題で、「次世代金融」は、この根源的な課題を クリアするものでなければなりません。
お金を使うことは、お金を稼ぐことよりも格段に難しいものです。「嘘だろう」と思われるかも知れませんが、これは事実です。その証拠に、世の中にお金を大量に稼いだ人は数多く存在しますが、(投資ではない)有効な使い道を開発した人は殆ど存在しません。例えば10億円を、人間関係を壊さずに、また、お金を渡す人の人生を狂わせずに完全に消費することは、相当な知恵と人間力を必要とします。あなたが10億円を消費しようと思っていることが知れれば、その瞬間からあなたに正直に接する人間は殆どいなくなり、今までの人間関係は一変します。そもそも、人が別の意図を持ち始めたことに気が付くことすら容易ではありません。・・・その瞬間から、あたかもスポットライトを浴びて逆光で客席が全く見えない、資本家の立場で人生を送ることになるのです。「お金持ちが幸せな結婚をすることは殆ど不可能」、というのは、ウォーレン・バフェットの言葉ですが、一般的なお金持ちにとって最も得難く、そして恐らく一生獲得できないものは、正直な人間関係です。最近亡くなったマイケル・ジャクソンは、お金によって不幸になった人の典型で、彼が短い生涯の間に抱えた訴訟は仰天するほどの数ですが、これらは全て、突き詰めると誰かが彼のお金を必要としたために生じたものです。
人間を生かしも殺しもする、お金という人生と社会の劇薬を健全に消費するためには、人間と社会とお金に対する洞察が欠かせません。その第一は、「突き詰めると、お金は人に使わざるを得ない」という点でしょう。政治家が公共工事に大量のお金を投下するとき、あるいは、お金持ちが銀座のフランス料理店で一本40万円のロマネコンチのボトルを空けるとき、彼らは「人」に対してお金を使っているという認識はないかも知れませんが、そのお金は一銭残らず誰かの手に渡っているのです。我々がお金を使うとき、何かモノに対して消費したと感じるのは幻想でしょう。消費行動は、それが直接間接であるかを問わず、どこかの誰かと必ず「やり取り」をしているため、お金を使う行為は広義の人間関係と理解することができます。
第二は、お金の支払いは、「支払う額も然ることながら、支払い方が重要」ということです。その人の人間力を大きく超過する額を支払えば、その人を却って破綻に導くことになりかねません。例えば、「沖縄にはお金がない」、と誰しも声を揃えるのですが、私の感覚では、沖縄の最大の問題はむしろお金があること、正確には、(お金を活かして使うという意味での)「生産性」を超える額のお金がありすぎることであり、その象徴がコンクリートの塊に成り果てた島の姿であり、58号線に連なるお城のようなパチンコ店であり、そこに行けばいつでも見かける大地主さんたちの人生でしょう。宝くじで大当たりした人が人生を誤る確率は高いといわれていますし、私も株式上場を果たして億万長者になった経営者が身を持ち崩す事例を数多く見てきました。社会でお金がこれほどまでに制御不能に陥っている大きな理由のひとつは、お金を活かす使い方との対比によって捉えられていないからだと思います。つまり、我々が健全かつ大量にお金を消費するためには、モノではなく、資本ではなく、投資ではなく、お金の使い方に関するノウハウと人間力が健全に向上されなければなりません。
第三は、「お金を扱う主体」に関する観点です。現代社会において、お金を扱う主体を大掴みに民間部門と公共部門に大別して観察すると、①民間企業は、結局、どのようにことばを飾っても儲けることを目的としており、社会を良くする事業活動については事実上無関心であり、自壊する資本主義が滝つぼに向かって進む、最大の原動力になっていること。特に、殆どの民間部門は、「儲けること」と「儲かること」の根源的な違いを混同しており、儲けること=社会のため、と主張して論点を混乱させているように見えます。反面、②公共部門は、本来お金を有効に使うという、もっとも難しいテーマを担っているにも関わらず、社会の根源的な問題を全く特定することができず、またその意思もないため、社会最大の「劇薬」とも言うべきお金を、対症療法的に大量かつ殆ど無作為にぶちまけている状態であること、でしょう。これに加えて、最近一部では、NPOを中心とした社会企業家の活動が、この両者の問題を解決することが期待されているのだと私は解釈していますが、彼らがその形式ではなく、社会の生態系の本質を見つめなければ、結局「明日どうやって食べていくか」、という、単なる①の「貧乏バージョン」に成り下がってしまう可能性があり、実際多くがそのような状態に陥っているような気がします。
私は、次世代社会に向けて、①儲けるだけの民間部門と、②無駄遣いするだけの公共部門、とは異なる、第三の事業主体がどうしても必要だと考えており、その事業主体はポスト資本主義社会をデザインする役割を担うことになるでしょう。その事業主体の青写真と次世代社会のバランスを特定した者と事業体と地域が、現代社会の問題を治癒し、次世代を切り開くリーダーとなるに違いありません。
【2010.5.12 樋口耕太郎】
* * * * *
*(1) 我々の日常とはあまりにかけ離れているので、これを読める人は殆どいないと思いますが、因みに、3載3645正2092潤(かん)2726溝3000穣 (穣は1京の1兆倍の単位)と読みます。思考実験のための計算ですので、金利にかかる税金、金利の水準変化、インフレーションなどの諸条件は勘案していません。前提について議論の余地が多々あることは事実だと思います。
*(2) アメリカが世界の覇権を奪取する前の帝国主義は、植民地政策に象徴されるように、他者から収奪することで発展してきましたが、アメリカはちょうどこの真逆、世界中から物資や商品を購入することでリーダーシップを発揮するユニークな覇権国家となります。その背景として、1929年の大恐慌を期に世界中で社会主義国家が急増する中、共産圏が拡散する脅威に対抗するために、帝国主義時代のように他者から表立って収奪することができなかったという事情がありそうです。この基本構造によって、その後のアメリカ経済は、ドル基軸通貨を要とする金融経済、海外からの競争を呼び込むグローバリゼーションという、現代に繋がる二大潮流を持つことになったのだと思います。いかにアメリカ経済が強大だとしても、世界中から物資を長期間に渡って買い続けることは不可能ですので、アメリカはこれに対処するためにドル基軸通貨という大発明を生み出します。以後、アメリカは自国紙幣を刷るだけで、世界中から無尽蔵に物資を購入することができるもの凄い仕組みを手にし、また、ドルを基軸通貨として維持するために、世界中から商品を購入して国外にドルを流通させる必要が生じます。したがって、ドルが基軸通貨であるということ、アメリカが輸入大国であるということ、貿易赤字体質であるということ、競争原理が社会の原理であること、グローバリゼーションを志向すること、通貨政策においてドル高が基本政策であること、金融を中心に経済が動くこと、は全て同根の構造によるものです。
なお、世界の原油(特に中東産)はドルによって決済されるものが大半です(した)ので、どの国も原油が欲しければまず自国通貨をドルに換えなければならないという事情があります。このことがドルの通貨価値を相当かさ上げしていることは間違いありません。例えば、2003年3月、アメリカを主体とした有志連合がイラクに侵攻して勃発したイラク戦争は、サダム・フセインが大量破壊兵器を開発していたため、イラクがテロリストを支援していたため、あるいは、アメリカにとって原油資源の安定確保のため、などといわれることが多いのですが、私は、アメリカにとってのイラク戦争の最大の目的は「ドル防衛」ではなかったかと思っています。2000年11月より、フセインはイラク産原油の決済をドル建てからユーロ建てに変更しました。フセインの行為は、彼がどれほど意識していたかどうかは別にして、中東が産出する大量の原油がドルを支え、ひいてはアメリカ経済を支えるという、「ドルを機軸としたアメリカ資本主義」の基本構造を切り崩す、すなわち、アメリカの琴線に直接触れる行為です。
原油のドル決済は、アメリカにとっては、「ドルを印刷するだけで、原油を無尽蔵に手に入れる」ことができる、物凄いしくみです。世界経済の生態系は、最大の国際商品である原油がドル建てであるがゆえに、世界中の財の取引もドル建てで決済され、ドルの需要が高まることで、ドルの基軸通貨が維持されている、というバランスになっているため、原油のドル決済は、「ドルを機軸としたアメリカ資本主義」の要中の要となっています。仮にドルが原油の決済通貨でなくなれば(あるいはその比重が低下すれば)、ドルの暴落は避けられません。アメリカのアキレス腱はドルの信頼性であり、この信頼が大きく揺らぐと、世界からアメリカに集中していた資本が逆流し、米国内の長期金利が上昇し、景気に大ブレーキがかかり、不動産を含む金融資産価格は更に大暴落し、経済が大混乱に陥る可能性があります。当時のブッシュ政権の立場では、フセインを追放し、イラク原油のユーロ決済を阻止しなければ、アメリカはドル基軸通貨という莫大な利権を失うと同時に、アメリカ経済の基礎を崩壊させる可能性を生じてしまうため、大量破壊兵器があろうとなかろうと、国際世論を敵に回そうと、その他のどんな理由があろうとなかろうと、この戦争(侵攻?)は不可避であったと私には思えます。イラクに大量破壊兵器が存在する、という情報は結局CIAの「誤報」だったとされ、アメリカ政府は自国諜報部門にその責任を負わせていますが、それすらも計算の上と考える方が現実味があるかもしれません。ブッシュ政権はイラクを占領した後、イラク産原油の決済通貨を早々にドル建てに改めました。
更に、深読みのしすぎかもしれませんが、オバマ政権のグリーンニューディールはドルの暴落(ハイパーインフレーション)を織り込んで計画されている可能性もあると思います。政権中枢の有能な人たちが、現在の債務残高と益々悪化する経済状態を勘案し、アメリカの財政を健全な状態に戻すことは既に不可能と考えて、次善の策を検討しているとしたらどうでしょう(もし私が政策担当者だったら、その可能性は真剣に検討すると思います)。仮に基軸通貨ドルが崩壊すれば、アメリカは中東産の石油を購入する手段を失うことが予想されます。その衝撃を多少でも緩和すること、そしてまだドルが購買力を持つうちに大量に財政支出を行い、目先の景気を辛うじて支えながら、代替エネルギーの開発と普及に大量の資本を投下することが、政策の隠れた目的かもしれません。グリーンニューディールと銘打ち、環境問題とテーマを重ねることで、政府の真の意図を隠すことができますし、どの道ドルの崩壊を想定しているのであれば、極端なくらい大胆な財政支出を行っても、ある意味合理的な判断と考えることができます。
*(3) 2006年に出たピケッティとサエズという二人の経済学者の有名な論文によります。Picketty and Saez, American Economic Review, May 2006
*(4) ロバート・ライシュ著『暴走する資本主義』雨宮寛・今井章子訳、2008年6月、東洋経済新報社(原題:Supercapitalizm: The transformation of business, democracy, and everyday life)で提起されている基本概念です。この本の中でライシュ教授は、70年代以降、競争原理の浸透によって全世界的なトレンドとなった非民主的な資本主義の潮流を「超・資本主義(Supercapitalism)」と呼び、そのメカニズムを実証的にまとめています。
*(5) 以上、『クーリエ・ジャポン』2010年3月の特集記事他を参照しています。
*(6) 大恐慌後のニューディール政策に代表されるケインズ的な財政政策は、社会格差の度合いおよび最高税率との兼ね合いで議論されるべきではないかと思う のですが、寡聞にしてそのような議論を聞いたことがありません(単に私が知らないだけかも知れません)。財政政策は短期的には景気刺激対策として活用されますが、長期的には、そしてより意味のある議論として、税金による富の再配分効果に着目するべきではないでしょうか。最高税率が高い時期の財政政策は高額所得者から低所得者への再分配効果が高いはずで、社会格差が緩和することで社会の安定と発展に寄与するのであれば、ニューディール政策の本当の意義は、その後の格差解消効果にあったのかもしれません。翻って、最高税率がこれほど低下している現在において、アメリカ、日本における財政政策はより非効率な政策といえる気がします。
*(7) フランスの数学者ジョセフ・ベルトラン(1822~1890) 「競争市場において、価格は限界費用に収斂する」