お元気ですか?
長雨続きから晴れた~と思ったら、また今日から雨降りが続くようです。
それに先日の99年ぶりの大きな地震! みなさん大丈夫でしたでしょうか。

さて、明日は桃のお節句ですね。
このお節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、川原や海辺で
干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

私も子供の頃、おばあちゃんと母が、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。

大阪に住む母は今でも毎年私の代わりに、家に代々伝わるお雛さまを出して
飾ってくれていて、何年か前にその様子を写真にとって送ってくれました。
毎年その写真を見ながら思い出すのは、母や、亡くなったおばあちゃんのこと。
去年はおばあちゃんの「さよなら」の話を書きましたので、
今年は母との思い出を書こうと思います。
きっとどなたにでもあるような出来事ではないでしょうか。

思い出の焦点を合わせると…ぼやけている母の輪郭。次第に32歳の母の顔が
見えてきます。

母と一緒に百貨店に行った、私が5歳のときのことです。
私が迷子にならないようにと、ずっと母は私の手を握りしめて、
離しませんでした。
母がものすごい力で私の手を握りしめているものだから、私は痛くて、
ときどき母の手をふりほどきました。ふりほどくとなんだか嬉しくて、
私は走り出す。でもすぐに母に捕まえられて。まるで手錠をかけらるかのように
ガチャンとまた母の手におさまることになるわけです。
とにかく、じっとしていられない私は、ムズムズしていました。
だって、百貨店ってなんだか、わくわくするし楽しそうなんだもん。
おもちゃ売り場にも行きたいし、屋上には遊園地もあるし、大食堂で大きな
ホットケーキも食べたいし、本売り場で絵本も見たい…。
でも結局は、母とずっと一緒にいるはめとなり、母のお買い物をしただけで
帰ることとなりました。
母が売り場に忘れ物をしたことに気がつき、走って取りに行ってくるからと、
正面玄関のすみで「ここで待つように」「どこにも行かないように」
「ぜったい動かないように」と母は私に何度も念をおしました。
動かないように、と言われても、動かないワケがありません。
ずっとじっとしていた私の体はムズムズしていたんだもん。
母が走って行くうしろ姿をみながら、私は「自分一人で家まで帰ろう」という
大冒険を思いついてしまいました。
そこからの帰り道は、5歳の足をもってして30分ぐらい。
家路は、勝手知ったる線路沿いのまっすぐ道。私の名前を呼ぶ母の声が
聞こえたような気がしたけれど、大冒険に魅せられた私は、
その声をふりきるかのように家路へと歩を進めました。

無事家に辿り着いた私は、玄関先にちょこんと座って、母が帰ってくるのを
首を長くして待っていました。母は、きっと褒めてくれるに違いない。
私はあの長い道のりを一人で帰ることが出来たのだから。
そうこうしているうちに、母がすごい形相で走ってきました。
母は「良かったあ!」と笑ったかと思うと、「なにしてたん!」と怒ったり、
「ごめんなさいは?」と叱ったり、震える手で私を抱きしめたり。
母の矢継ぎ早の言葉とコロコロ変わる態度についていけず、私は固まったまま、
母を眺めていました。
私が消えた、そのあとの百貨店では大変な騒ぎとなり、母は気が狂わんばかりに
私を探したのだといいます。だから、近所のおっちゃんやおばちゃんたちや
百貨店の人や、おまわりさんまでもがうちの玄関先に集まっていて、
私は目を丸くして、母とみんなを交互に見つめていました。
だって最初は、みんなが私を褒めてくれるために集まっているのかとも
思ったんだもの。
でもそうではなくて、母はずっとみんなに頭を下げて謝っていました。
泣いたり笑ったりしながら、謝っていました。

私の記憶の中で「謝る」という光景を見たのは、このときが最初だったような
気がします。
母は自分も頭を下げながら「ほら、みなさんに謝んなさい!」と、
私に言いました。
褒められるはずの期待の光景が、全く違ったものとなり、私はかたくなに
言葉が出てきませんでした。なぜ謝らなければならないのか、
ちっとも分かりませんでした。
集まっていた人達がみんないなくなり、私は母と二人だけになりました。
母は「一人で帰ったら危ないやろ」「どんだけ心配したか」
「みんなに迷惑かけたんやで」と、まだ私を叱っていました。
自分がどんどん悪者になっていく。こうも叱られているところをみると、
どうも私はいけないことをしたようだ。
なんだか泣いているようなワケがわからない母がかわいそうになってきました。
さいごに母は
「ごめんなさいは?」
と、また私に言いました。
だから私は、
「ごめんなさい」
と、低い声で呟いたのでした。

その後も母は私が何か失敗するたびに、
「ごめんなさいは?」
の連続です。
私は、素直に「ごめんなさい」を言うときもあれば、口を一文字にして、
大粒の涙をポロポロと流すだけの時もありました。
そんなときは、
「言いたいこともあるやろうけど、まずはごめんなさい、をゆうてちょうだい」
と、母は厳しく私に言ったものでした。
たとえ子供といえども、なぜごめんなさいが言えないのか、
自分がいかに悪くないのか、理屈を言いたいものです。自己主張の始まりでも
あるのですが。
でも母は、謝ることの出来る大人になってほしいと、
かたくなにそこは譲りません。
そのかわり、言い訳をしたいのなら、謝った後で聞きましょうという具合です。
5歳の大冒険を「ごめんなさい」のあとで聞いてくれたように。

思い返せば、新入社員時代。
ここでも「謝る」ということを徹底的に教わりました。
たとえ自分に非がなかったとしても。まず、謝る。
それでも、謝る内容が理不尽なときは素直に謝ることのできない自分もいました。
でも上司は私にどんな理由があるにせよ、とにかく謝れといううわけです。
そのおかげで、私は実に様々なことを学ぶことが出来ました。
謝ることで、相手の気持ちを想像することが出来る。
なぜこの人は怒っているのか? なぜそれはいけないことなのか?
それらを想像することによって、自分自身にとって実のある訓示が
山ほどあることに気づきました。
なぜ?という疑問を持つ習慣も身につく。
謝ったことで知らないうちに相手を傷つけていたことを知るときもある。
人の痛みを知る、ということも知る。
いかに自分が井の中の蛙であったかを思い知ったりもする。
つまりは、「ごめんなさい」や「すみません」という言葉は、
その人の負けを意味した言葉ではなく、責任を追及しただけの言葉でもなく、
自分をより成長させてくれる言葉なのだということを、
私に気づかせてくれたのでした。

乳幼児教育の先駆者、井深大さんの著書に
「感謝や尊敬や謝罪は理屈で覚えるものではない。
親が率先してお手本を示しながら、くりかえし人間社会のルールや約束ごとを、
身につけさせていくこと。これが、しつけの根本的発想」だとありました。
母のしつけも、上司の教えも、理屈抜きでした。
その有無を言わせぬ「謝るということ」は、私の礎になったと感謝しています。

でも、大人になるほど「ごめんなさい」が言えなかったりしませんか?
子供の頃にはなかった見栄やプライド。そして凝り固まった思考回路。
それらが「謝る」ということに歯止めをかけている場合が多いものだから
でしょうか。
大人になればなるほど理屈っぽくもなっていくから、
大人ほど心してかからないといけないのかもしれませんね。
本当は、大人になるって、いらないものを剥ぎとって、
スマートな心になるってことでしょう?
それを怠ると、なにかにしがみついて、頭の固い、融通のきかない、
大人になってゆき、終いには「がんこおやじ」「おばちゃん化」とかと
言われてしまうんでしょうね。
そんなことを考えると、これからも、柔らかい理性を持ちたいと思うし、
いつもまっさらな自分でいたいと思います。

あなたにとっての、まっさらな自分ってどんな人ですか?

素直な心。
優しい気持ち。
謙虚な態度。
そして謝ることの出来る人。

そんな人に、私はなりたい。

長くなってしまいましたが、
明日は古式ゆかしく、まっさらな気持ちで、ひな祭りを祝おうと思っています。
あなたもぜひ御一緒にお祝いくださいね。

【2010.3.2 末金典子】