お元気ですか?
寒くなったり、ゆるんだり、じとじとしたりの毎日ですが、
体調を崩されたりなさっておられませんでしょうか。

明日は立春の前日で、節分ですね。

私はこの日がくるたびに、偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出し、いつも御紹介しているのですが、このお話を知らない人が
意外に多いと聞いて吃驚するんです。
私はこのお話がもう大好きで、毎年毎年この日がくると、自分の心に
思い起こさせるためにも、このお話を読み返すことにしています。
あなたも御存知であるかもしれませんが、是非新たな気持ちで
お読みいただけたらと改めて御紹介させていただきます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、
濱田廣介の鬼はそうではありません。
人間と仲良くしたくて仕方がないんです。
それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」
という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く、却って誰も
寄ってこないんです。一旦嫌われると、人間社会というものはそんなふうに
徹底して冷たいものですよね。
この悩みを親友の青鬼に相談すると、青鬼は赤鬼のために一役買おう、と
言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ君が来て僕をやっつければ、人間は
君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。
赤鬼はそれでは君に申し訳ないと言うのですが、青鬼は、君がそれで人間と
仲良くなれたらそれは僕も嬉しいと言うんです。
それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。
でも、万が一、二人が仲良しでいるところを人間に見られると、
赤鬼はまた疑られる。だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と
書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だからです。
「義」もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているからです。
「感謝」もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を
思ってくれる友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず、青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。
相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
また、青鬼は赤鬼が自分の思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりするのはエゴでしか
ありませんよね。

実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
暮らしの根幹が揺さぶられるような時代に、私達は生きています。
資本主義は疲弊し、アメリカの問題を日本が一番被り、10年以上も続くであろう
という不況の風が吹き荒れています。
それとともに、たくさんの人々が職を失い、異常な犯罪が増え続けている
今の世の中です。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。

でも、そんな世にあっても、友情や善意は必ず存在するのです。
いえ、こんな時代だからこそ「情」や「義」や「愛」といった心を大切に
しなければならないのです。

確かにこんな世の中だからと、不安になったり、イヤなことが起こるような気が
したりしますよね。
それが世の常であり、人生とはそんなものですから。
でも、よくないことと同じくらい素晴らしいことが起こることも確かです。
ついては、建設的なことに焦点を合わせ、物事の明るい面を見たいものです。
青鬼のように、許し、思いやり、寛大になり、信じましょう。

私は青鬼ほどにはまだまだ「無私の心」で友人や多くの方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、
と思うか思わないかでは、相当な違いがあると思っています。
私、今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、明日は節分。

立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。
また、「まめに=健康に」とか、面白い説がいろいろあります。
折りにふれ、季節にふれて、健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
この日は、子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。
「今日からは暦の上では春よ。」という母の言葉に、
なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の柔らかさには、
妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、母と同じ台詞を
投げかけるだろうと思います。
私、この「暦の上では」という言葉が好きなんです。
どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だかあったかくなる美しい日本語
ですよね。

明日はあなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・西南西に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2010.2.2 末金典子】