前稿の議論をまとめます。お金に利子をつける習慣は、2,000年以上に亘って宗教的、道徳的、法律的に禁止されてきましたが、資本主義の誕生とおおよそ時を同じくして、「突然」社会的な常識として受け入れられるようになります。資本主義の経済活動において、モノやサービスの価格には、銀行などに支払う利子が含まれているため、お金を仲立ちとする世の中の取引という取引、事実上大半の消費活動に利息の支払が伴います。例えば、「消費税」や「金利」のように、自分が支払いを行っていることが明らかであるものに対しては、その存在を強く意識しますが、これだけ広範囲かつ高率の支払がなされていながら、モノや商品の価格に既に含まれている利子に対しては、大半の人はその事実すら知りません。この「利率」は恐らくモノやサービスの価格の40%程度に達しており、これを社会全体が負担し、「納付先」は上位数パーセントの資本家、ということになります。また、無限に複利を課していくことは、政治学や社会学以前の問題として、数学的に不可能であるため、この仕組みに持続性はありません。資本主義は、人類の歴史において初めて利子を社会的に認知したことで、これまでの「成長」を実現してきましたが、皮肉なことに、利子の存在によって自壊することが運命付けられているともいえるでしょう。この観点から、サブプライム問題に端を発した世界金融危機は必然であるという見方も可能です。

利子が社会にもたらすもの
この利子という怪物は、政治と国家運営、都市計画、事業と経営のあり方、市場のあり方、人間関係のあり方、生活のあり方、農業と食のあり方など、社会全体の想像を絶する範囲に対して、莫大かつ根源的な影響を与えていながら、そのメカニズムどころか、実体や、場合によってはその存在自体も殆ど理解されていない、という驚くべき存在です。利子というものが根源的に有する機能の第一は、強力な富の再分配機能です。お金が経済活動の中心にある「先進」社会において、当たり前のことですが、利子を支払う人と利子を受け取る人が存在します。前述のように、これだけの莫大な利子を社会全体が負担しているとして、実際に負担しているのは誰で、受け取っているのは誰かという、富の再分配に関する問題です。

1982年にドイツで行われた研究は、利子を媒介として、社会階層間で富がどのように移転するかを明らかにしています*(1)。この研究では、ドイツ全国民を収入の水準に応じて10グループ(それぞれ250万世帯)に分けました。この年ドイツの金利水準は5.5%でした。この1年間に10のグループ間でやり取りされた利子の総額は延べ2,700億ドイツマルクと測定されました。それぞれのグループが受け取った利子の額から支払った利子の額を差し引くと、グループ別の利子の収支が求められます。収入の低いグループから順に、-1.8 -3.4 -4.8 -5.0 -5.3 -5.9 -5.0 -4.7 +1.7 +34.2 (単位:10億マルク)でした。この調査によると、トップ10%のクラスが、残り90%の世帯から342億マルクを受け取っており、80%の下層階級から、10%の上層階級の人口へ、体系的な富の移動があったことがはっきり分かります。しかも、この富の移転は、利子が有する純粋な価値移転機能によるもので、個人の能力差、勤勉さの格差とは全く関係がありません*(2)

第二は、競争を促進する機能です。もともとお金というものは、了解のもとに作られた等価交換の手段で、この機能を仲立ちとすると、二者間の物々交換に限らず、大きな規模で第三者と様々な価値のやり取りができる、とても便利なものです。価値の交換は基本的に等価交換が原則であるため、例えば10人が10の価値の商品を保有している社会において、10のお金が流通して価値の交換が行われると、この10人の社会における1年後の社会的な価値の合計はやはり10です。ところがある日、この社会に「資本主義」という仕組みが導入されて、お金に利子が付されることになりました。これによって、1年後には10に対して例えば1の金利を支払わなければならなくなり、結果として9の価値を10人で分けざるを得なくなります。この「椅子取りゲーム」に敗れた一人は、恐らく自宅を差し押さえられたりするのでしょう。今まではお互いに必要なものをお互いの出来る範囲で与え合っていた10人の社会に、競争原理が導入された瞬間です。年末には自宅を失い、家族を路頭に迷わせるかもしれないという怖れが、10人全員を激しい競争に駆り立て、人々は猛然と働き始めますが、年末には必ず誰かが破綻することに変わりはありません。ベルナルド・リエターの前掲書(69p)では次のように表現されています。

『銀行があなたに10万ドルの住宅ローンを貸すとき、銀行は元金をあなたの口座に振り込むが、銀行は今後20年前後のうちに合計20万ドルが帰ってくることを同時に期待している。もし、その額を返せなければ、あなたは家を失うことになるだろう。あなたの銀行は利子をつくらない。銀行はただ、あなたに元金を持たせ、その上乗せの10万ドルを誰か他人から獲得するための戦いに送り込むだけなのだ。他の銀行も同じことをしており、このシステムであなたが10万ドルを獲得するためには、誰かが確実に破産するようになっている。簡単に言えば、あなたが利子を払うとき、他の誰かの元金を使っていることになる。言い換えれば、お金を求めて人々は競争し、失敗者は破産によって罰を受ける仕掛けである。中央銀行の金利決定にはいつも注目が集まるが、その理由の一つはここにある。つまり、金利を上げるという行為は、近い将来、破産の数が増えるということを意味する。(中略)要約すると、私たちはただ交換をスムーズに行うための手段を得たいだけなのに、現在の金融システムは私たちに借金を負わせ、お互いに競争させることになっている。こうしてみると、この世界が多くの人にとって「厳しい世の中」であることも説明がつく。』

第三は、社会を終わりなき経済成長に駆り立てる機能です。前述の10人の社会は、1年間に何も新たな価値が生産されない、という単純な前提によりますが、現実には人口が増え、商品が生産され、生産のための設備に投資がなされ、お金の量が増える、などの「経済成長」が生じ、その成長で得た一部が利子の支払に充てられます。逆にいえば、経済成長を実現しなければ、椅子取りゲームに負けた人から順に一人ずつ破綻することになります。ところがこの場合、10の経済価値が存在していた利子導入前(資本主義経済の前)の社会と、経済成長によって11の経済価値が生まれた利子導入後(資本主義経済)の社会では、すなわち経済成長を遂げた前と後では、金利1の支払を差し引くと、住人の生活水準は全く変わりません。つまり、この社会の住人が来年も同じ水準の生活を送りたければ、少なくとも利子の分だけ経済成長をしなければならず、利子は「現在の生活水準を維持するために、最低限これだけの成長が必要である」という「必要成長量」を決定しているということになります。私たちの常識では、経済成長は資本主義社会の維持に不可欠であり、成長しない社会は良くて衰退、場合によっては崩壊すると考えられていますが、それはそもそも社会の成立要件などではなく、利子の存在が、永遠に続く経済成長を社会に強いているに過ぎないのかも知れません。

我々は、毎年毎年飽くなき経済成長を実現するために、再生不能な大量の資源を消費し、自然と環境を破壊し、まだ利用できる物資やまだ食べられる食品を大量に廃棄し、自分を奮い立たせて激しい競争に立ち向かい、過密な都市を形成し、国家の屋台骨である中産階級を崩壊させ、人格を育てる教育の場を職業訓練校に変え、過剰な労働に耐え、健康よりもキャリアを優先し、農業を工業・化学化し、場合によっては敢えて戦争を起こし、社会を「発展」させてきましたが、この全ては利子支払のためだったのかも知れないのです。競争を加速し、経済成長に駆り立て、富の集中を生む、という利子のメカニズムは、人々をお互いに敵対させる根本的な仕組みでもあり、また、現在の資本主義はインフレと人口増なしには成り立たないとされていますが、このように解釈すると、現代の社会における様々な現象がうまく説明できるのではないかと思います。

バブルのメカニズム
バブルは金融経済が実体経済を大きく上回ったときに生じる現象だと考えると、以上のような利子のメカニズムを前提としたとき、実体経済よりも数段のスピードで金融経済が成長し、やがてバブルが生じることは、資本主義と金銭経済の構造的必然といえるでしょう。2007年に表面化したサブプライム問題を機に、長くて深い世界金融危機と、大恐慌にも匹敵しようかという世界的な経済の停滞が生じていますが、資本主義社会に内包されている強力な金利のメカニズムがサブプライム・バブルとして顕在化するプロセスは、資本主義の第四の幻想、かつ、恐らく最大の欠陥、「富の蓄積が社会を豊かにする、という常識」が深く関連しているのです。

【2009.3.19 樋口耕太郎】

*(1) 前掲マルグリット・ケネディ『金利ともインフレとも無縁な貨幣』小森和男訳、自由経済研究、1996年11月(第8)号、ぱる出版。この調査は、同じく前掲ベルナルド・リエター著『マネー崩壊』小林一紀・福元初男訳、2000年9月、日本経済評論社、71p~73pにおいても参照さています。少なくとも日本語翻訳版においては前提条件など、調査の詳細に関する記述を見つけることが出来ませんでした。もちろん、ケネディ博士が参照している調査が示唆する現象は根源的なものであり、その重要度は些かも低下するものではありませんが、利子のもつ富の再分配機能に関する分析は、そのテーマがあまりに重要なものであるため、複数年度や異なる地域、異なる金利水準における実証調査がなされることが好ましいとは思います。

*(2) 興味深いことに、累進課税や社会福祉など、先進諸国で所得の再分配の仕組みが強化されたタイミングは、資本主義が浸透し、お金に利子を付すことが社会的に認知されたタイミングとおおよそ重なっているようです。仮に、お金に利子がつかない社会が存在したとして、このような社会においては、累進課税や社会保障などの社会的な再分配機能のコストが極小で済むであろうことは容易に想像がつきます。最近の日本の事例では、悪名高き2兆円の「定額給付金」の裏付けとなる平成20年度第2次補正予算で、支給に必要な経費として825億円が計上されて話題になりました(2009年1月26日の各紙によると、その内訳は銀行に支払う振込手数料が150億円、自治体職員の残業代が233億円など)。政治的に富の再分配を行うことは、不正や既得権益の温床になるということもそうですが、それ以上に社会的なコストが非常に大きいという重大な欠点があります。すなわち、利子の存在が社会を歪めているとして、国家はそれを是正するために更に莫大な費用を必要とし、社会を二重に非効率なものにしています。

強力な利子のメカニズムが内包されている資本主義社会の中でも、アメリカのような金融主導型社会が、格差の激しい社会の代表格であることは偶然ではないと思います。よく批判されるアメリカの社会格差の水準は、2001年の時点でトップ5%の階層が全ての富の60%、トップ20%が84.4%の富を所有しています。それから約20年前の1983年の時点では、トップ20%の持分は全体の81.3%でしたので、この間に3.1%増加したことになります。この3.1%は、次の40%の階層から2.6%、ボトム40%の階層から0.6%ずつを吸い上げたものです(小林由美著『超・格差社会アメリカの真実』2006年9月、日経BP社、51p~56p)。また、2002年から2006年のデータでは、99%のアメリカ人の収入は年1%(インフレ調整後)で成長していますが、トップ1%は実に年間11%の成長を遂げ、この期間に生み出された富の約75%がこの1%の層に配分されているといいます。Between 2002 and 2006 the incomes of 99% rose by an average of 1% a year in real terms, while those of the top 1% rose by 11% a year; three-quarters of the economic gains during Mr Bush’s presidency went to that top 1%.(”Unhappy America” July 24, 2008, The Economist, print edition. 翻訳筆者)。