「トリニティのサービス論《前編》」では、サービス提供者の事情を勘案しない「顧客体験」が商品としてのサービスである、という考え方を紹介しました。「顧客体験」は意外に掘り下げがいのあるテーマですのでこれを補足したいと思います。

ディズニーでの「顧客体験」
1年以上前になりますが、東京ディズニーランドに行った際の個人的な「顧客体験」をご紹介します。当時6歳3歳の子供を連れて3人でディズニーシーに行った時のことです。週末だったので非常識なくらい混んでいました。

ランチタイムのレストランはどこも凄い混みようなのですが、小さい子供が一緒のときはあまり食事の時間をずらすことができません。食事の内容は二の次三の次で少しでも混み具合が少なそうなところを選んで、カフェテリア方式のチャイニーズレストランに入りました。運よくというか悪くというか、このタイミングで雨が降り始めたのでレストランは更に混雑の度合いを増すのですが、子供をつれている僕は他に移動するという選択肢も実質的になくなりました。列に並び始めてから間もなく、小さい方の子供が寝てしまいます。この時の僕の作戦は、①下の子を寝かせておける席を確保する、②三人分の食事を取って、起きている二人(上の子と僕)だけでゆっくり食事を済ませる、③下の子が起きるまで食事をしながらのんびり待つ、④下の子が起きた時点で彼の食事を済ませてからテーマパークに復帰、ということに決めました。

作戦は決まったのですが、実行するのはそれほど容易ではありません。寝てしまった下の子を片手で抱いて、三人分の食事をトレー(二つです!)で取り、支払を済ませ、子供を寝かせながら長い間時間をつぶせる条件が揃った座席を、激混みの中で確保するのは神業に近いものがあります。レジでもたもたしているうちに僕の後ろには怒りの視線を投げかける沢山のお客さんの列ができていました。空腹、疲労、混雑、雨、レジの渋滞、が重なる状態では皆が怒るのも無理はない感じです。

そのとき、レストランの担当の女性が僕のところに来てくれて、トレーを持ち「お席までご案内します。」と声をかけながら席まで先導してくれました。笑顔「マル」、言葉遣い「マル」、タイミング「マル」、トレーを持つ機転「マル」。恐らくこの女性は人事考課も高評価ではないかと思います。実際手を貸していただいてとても助かりました。

…それにも拘らず僕の「顧客体験」は落胆したものでした。小さく傷ついたといったら大げさでしょうか。なぜなら、彼女の優しい言動とは裏腹に「列を先に進ませたい」という本当の意図がはっきり理解できたからです。目に見える全ての「サービス」は非の打ち所がありませんし、恐らく彼女は人間的にも優しい人で、僕にも善意で接してくれたと思うのですが、不思議なことにどんなに態度が丁寧でも、顧客には裏腹の真意が分かるものなのです。そして皮肉なことに、彼女の言動は顧客への親切心であり、会社に対する彼女の誠意でもあり、列の後ろに並んでいた他のお客様への配慮でもあり、従業員として当然の行動でもあるのです。

感じ方には個人差がありますので、僕の感覚が一般的ではないという可能性は大いにあります(というより珍しくありません)が、ここでは僕の感覚が一般化できると仮定してお読みいただきたいと思います。その前提で、なぜ彼女の善意が顧客を傷つけるのでしょう?僕の考えでは、彼女は僕に対して思いやりを「目的」ではなく「手段」として利用したからだと思います。列をスムーズに進ませるという、彼女の本当の、かつ隠れた目的を達成するために、「思いやりの言動」を手段として僕を先導したのです。つまり、彼女は意図とせず(というより何の疑いも持たず)に僕にウソをついているのです。それに気がついた瞬間、テーマパーク全体の「演出された優しさ」を感じてしまい、とても気持ちが醒めてしまいました。

「顧客体験」の経営科学
このような出来事は実に「取るに足らないこと」です。それどころか一般的には「ディズニーで経験した丁寧なサービスの話」以外の何ものでもありません。このような「小さな傷」について言及するのは大人気ないことですし、こんなことをいちいち人に話すと偏屈に聞こえます。「じゃあ、どうしたいの?」といわれるのがオチでしょう。現実的にもサービス業でこれほどの対応をしてくれるところは多くありませんので、企業の立場としては彼女のサービスに文句をつけられたら「そんな無茶な」と感じるに違いありません。顧客の立場でも「小さく傷ついた」といってもこれを理由にクレームする顧客はまず存在しないと思います(そもそもクレームしようとしても企業に落ち度はありませんので、言いがかりにしか聞こえないと思います)。要は、社会の中では少なくとも表面上、誰も問題にしていないのです。

反面、「誰も言及しない顧客の小さな傷」は明らかに現象として存在しています。それどころか同様の「顧客体験」はびっくりするほど一般的かつ頻繁に生じているのではないでしょうか。サービス担当者や企業が顧客に対してウソをつくことは、あまりに一般的な現象になっているため、顧客にとって所与のものになっているかのようです。言葉と笑顔はとても丁寧だが、なぜか優しさが感じられないスチュワーデスやホテルの対応…。本心が違うのに無理に思いやりを(善意で)演出するサービス担当を見ると、こちらが気が引けるくらいです。サービス業の常識では、「心で泣いても顧客への誠意として笑顔を見せるのがプロ」だとされているようですが、僕はこの考え方の経営合理性に疑いを持っています。

ディズニーでの出来事を経営的に分析すると、次のようなポイントがあげられると思います。①彼女の、表面上すなわち目に見える全ての現象は非の打ち所がありません。②したがって従来の人事考課方法では必ず高評価になります。③同様に、クレームが発生する余地はほぼありません。それどころか一定数の顧客を感動させると思います。④反面、トリニティのサービス論の考え方に基づくと、彼女が実質的に顧客に伝えているメッセージは、「顧客の気持ちを最優先しなくてもよい」、「顧客をロジスティクス(物流)の対象としても構わない」、「優しい言葉と態度を見かけの手段として、別の目的を達成しようとしても構わない。」ということになります。

現代サービスの現場
とても厄介なことに、このようなケースでは顧客体験が感動を伴うものになるか落胆したものになるかはサービスの「外見」からは全く区別がつきません。つまり見かけが全く同じ(少なくともそう見えます)でありながら、根本的に正反対の顧客体験を提供する「商品としてのサービス」が現場に混在しているということになります。そして、世の中で優れたサービスを提供するといわれている企業ほど、この区別が非常につきにくくなっています。逆の発想では、世の中で良いとされるサービスとは、この区別を極限までなくす作業と考えることもできます。この前提では、現代経営における「優れたサービス」は「顧客体験」を向上するためではなく、このような区別を「うまく隠す」ための作業であり、その作業に莫大な経営資源を割いている可能性が示唆されます。そしてこの区別を隠すことができれば、少なくとも表面上非の打ち所のないサービスが提供され、企業の「本心」(例えばロジスティクスの効率化)が顧客にはっきり伝わらない限りにおいて顧客を感動させ、クレームは皆無になり、アンケートによる「顧客満足度」は向上します。皮肉なことですが、この区別が少なくなるほど、つまり「優れた」サービスを提供するほど、表面上の優しい言動と本心の乖離が大きくなります。不機嫌な気持ちで不機嫌な態度をとるよりも、本心と異なる丁寧な態度をとる方が、言動と本心の乖離が大きいということです。これはもちろんサービス担当者の善意と誠意と熱意の結果なのですが、現象として顧客に対するウソを拡大するという効果を生んでいます。

仮にこのような現状認識を前提とすると、一般的な現代のサービス業の経営は、①顧客の小さな心の傷は所与のものとして無視する、②サービス担当者の本心と言動の乖離に気づかない顧客を、主に顧客満足度向上の対象とする、③企業はこのような対象顧客に対して、サービス担当者の(必ずしも意図と一致しない)「言動」をより良いものにするように努める。④このとき従業員の心の在りかについては評価の方法などがないため経営システム上おおよそ無視する。⑤以上の事業目的に沿った従業員のトレーニングを行う、⑤本心と乖離した「言動」をカバーするため、あるいは他社と差別化を行うため、新たなサービスの仕組みを常に付加する、⑥以上の結果として「対象顧客」の満足度が向上し、クレームが減少する。

前回と同様の繰り返しになりますが、以上は非難でも中傷でも、批判ですらありません。ひとつの現状認識のアプローチに過ぎません。上記の考え方が仮に正しかったとしても、現在のサービス業のシステムが次善の策であることには変わりありませんし、事業として大きな効果があることは明らかです。

さて、以上のような現状認識はあまりに非現実的で意味を成さないものでしょうか?このような現状認識を前提とすると、経営の課題は今までと変わるでしょうか?経営はこのような課題にどう対処することができるでしょうか?次回のエントリーはこれまでの議論を前提としたサービス戦略についてです。

【2006.12.23 樋口耕太郎】