およそ3年前に沖縄に来て以来、多くの物事をそれ以前とは全く逆の価値観で考える機会が非常に増えました。仕事の内容やパターンや人間関係も大きく変化したために、それまで溜まりに溜まった名刺を整理したことがあったのですが、約4年間でお会いした方々の名刺を集めると、段ボール箱に一杯になったことが印象的でした。この名刺の方々にお会いするために費やされた時間はざっと「名刺の枚数÷2×1時間」くらいでしょうか(お会いするときは複数の方がご一緒されることが少なくないので2で割り、それぞれのミーティングは平均1時間という想定です)。細かく計算はしませんでしたが本当に膨大な時間です。4年間でこの名刺の山からおよそ10の案件をクロージングしたわけですが、以前は「このような努力と人脈の積み重ねがあって初めて10の案件にたどり着くことができた」、と当たり前のように考えていて、その前提を疑ったことは一度もありませんでした。でも、このとき段ボール箱を見ながら感じたのは、「本当に同じ成果をあげるためにこれだけの時間が必要だったのだろうか」ということでした。嘘みたいに聞こえるかも知れませんが、現在は、全く異なった発想と、一定の原理を理解することで、ダンボール一箱の人にお会いしなくても、初めから10枚の「当たり名刺」に巡り合うことができると思っています。もしそれが可能になった場合の効率は、少なくとも100倍くらい違うのではないかと思いますが、これはトリニティのマーケティング論が応用されたときに高まる事業効率のイメージと非常に重なるのです。
また、いわゆる「攻め」の業態の営業は「千三つ」の世界だと言われることがあります。千件のお客様に断られて、三つ案件が成約するという意味です。業態によっては、この千に三つの顧客が事業の売上げの100%をもたらしているので、この意味で非常に「効果的な」事業行為と言えなくもないのですが、その反面、997人の顧客が無用の電話や訪問を受け(その中には腹立たしい思いをする人も少なくありません)、997人に営業を行うための人件費やその他の費用は商品価格に転嫁され顧客となる3人が負担することになります。また、997人は、世の中に無数に存在する営業会社から、時には同じ会社の別の営業マンから繰り返し無用の営業をかけられるということが必然として生じます。営業会社の立場では、それこそが事業行為であり、現実に(時には莫大な)事業性があり、この行為が従業員の生活と、企業成長の糧であると考えるのは当然のことですが、企業が発するメッセージという観点では、毎日何百という地域の人たち(の大半)が望まない行為を延々と繰り返しながら、一方では多大な広告宣伝費をかけ、「私たちはお客様のことを第一に考えています」と語りかけることは、何かが根本的に非効率なのではないかと思うことがあります。以上を、「メッセージ伝達の法則」に当てはめると(2007年1月25日のエントリー「伝えるということ」をご参照下さい)、「行動と言葉が矛盾するとき、行動によるメッセージが優先して伝わる。同時に『メッセンジャーの言葉にはうそがある』、というメッセージが同時に伝わる。」という現象が生じると思います(過去のエントリーでも繰り返し強調している点ですが、以上は非難でも中傷でも、批判ですらありません。経営的な観点からマーケティング、営業の事業効率を観察するにあたっての、現状認識のアプローチのひとつです)。
「待ち」のマーケティングとリレーションシップ・マーケティングのツボ
さて、「トリニティのマーケティング論《その1》 《その2》」では、①デジタル情報ネットワークの環境においては、顧客に企業を見つけてもらう「待ち」のマーケティングの効率が著しく高まる。このとき、企業がすべきことは、基本的にメッセージを掲げることだけだが、そのメッセージの内容と企業のあり方によって効果が著しく異なる。②新たな顧客を獲得するよりも、良好な人間関係を通じて、既存の顧客を失わないことの方が、圧倒的に事業効率が高い。これを達成するために最も重要な点は、企業のあり方と企業と顧客の人間関係のあり方である。という趣旨を述べました。
「待ち」のマーケティングと、リレーションシップ・マーケティングをうまく活用することができれば、いずれも爆発的な事業効率を生み出すことが可能で、今後の市場環境では重要な事業戦略のポイントになるでしょう。両者は別々の概念ですが、事業効率を生み出すためには独特ツボを理解する必要があるということ、そしてそのツボが「いかに在るか、そしていかに嘘なく表現するか」ということであることが共通しています。すなわち、「自分のあり方、正直な表現」というひとつのツボをおさえることで、二つの概念による事業効果が相乗して生まれるため、経営的にも一石二鳥のイメージです。事業をシンプルに経営するほど事業効果が高まることの一例とも言えそうです。経営論の分野で多大な功績のある故ピーター・ドラッカーの有名な言葉のひとつに、「マーケティングの究極の目的は販売行為をなくすことである」というものがありますが、もし上記の手法が成り立つのであれば、ドラッカーのいう究極のマーケティングを具体的な事業環境で実現する有効な方法と言えるかも知れません。
「待ち」のマーケティングは自分磨き
少々突飛な例ですが、女性が理想の男性との出会いを求めながら(男性が・・・でも同じことです。念のため)、「なかなか良い出会いがない」と悩むことがよくあります。正確には「出会いがない」のではなく、「自分がどんな人間であるかは別にして、自分の理想を満たし、かつ誠実なひとが自分に対して強い関心を持ってくれない」という意味だと思うのですが、これは「攻め」のマーケティングを前提としている発想で、これまでの議論を前提とすると、理想的な相手を見つけるためには必ずしも効率が高い方法とはいえません。「待ち」のマーケティングの発想に切り替えると、まず、世の中には理想の男性が溢れているという事実が現実になります(日本だけでも何千万人の未婚者がいることを考えれば、やはりその中には沢山いると考えるべきでしょう)。ただし、その数多くの理想の男性は、その女性のことを知らないかもしれないし、その女性を知り得たとしても女性の「あり方」に嘘を感じるかもしれませんし、その女性「あり方」自体に魅力を感じないかもしれません。このハードルを越える作業が「待ち」のマーケティングにおけるテーマであり、「いかに在るか、いかに正直に表現するか」という100%自己完結する作業が意味をもつのです。・・・要は「相手を探し回るより、自分磨き」ということなのですが、この考え方と行動は、正しく努力・実行すると、マーケティング的にも、人生においても非常に高い成果を生むということだと思います。
顧客は企業の鏡、従業員は経営者の鏡
では、どのような「あり方」に対してどのような顧客が惹きつけられるものでしょうか。「トリニティのマーケティング論《その1》」では、出会い系サイトの事例において、①掲示するメッセージによって返信する女性の属性が変化する、②メッセージに対する返信は、「文字通りの内容」に反応するというよりも、メッセンジャーの本心に反応する傾向がある点を指摘しましたが、これは企業の「あり方」と、惹きつけられる顧客の関係にそのまま当てはまると思います。つまり、企業の「本心」と同じ性向をもつ顧客を惹きつけるのです。
ここで言う「本心」とは、企業が意識しているかどうかには関わらず、企業の行動が伝達する、企業の本当の(多くの場合隠れた)目的を意味するという点がポイントです。例えば、企業が「どうしたら単価の高い顧客を呼ぶことができるか」、ということを強く意識して経営を行うと、高級な顧客を呼び込むことにはならず、高級を求める顧客を呼び込むことにもならず、単価が高いものに価値を見出す顧客を呼び込むことになります。非常に高価かつ似合っていない(つまり趣味の悪い?)ものを身に着けているような顧客のイメージです。単価の高いものが高級だと考えている人は少なくありませんが、高級なものと単価の高いものは本質的に異なる概念です。高級とは何かを理解できないお金持ちは、単に単価の高いものに惹かれるという傾向があると思います。同様に、企業がどうしたら高級な顧客を呼ぶことができるか、ということを強く意識して経営を行うと、高級な顧客を呼び込むことにはならず、高級を求める(いわゆるミーハーな)顧客を呼び込むことになります。そして、企業が自ら高級になろうと強く心がけて行動すると、高級になろうと努力して生活を送っている顧客を惹きつけることになります。
以上の関係は、経営者と従業員の関係にも当てはまります。高級になろうと努力する経営者には高級な従業員が惹きつけられ、高級な従業員は高級な顧客を惹きつけます。仮にこれが事実だとすると、高級な顧客をひきつけるためには、経営者自身が高級な人間になろうと自ら努力することが事業的に効果的であり、企業のマーケティングは経営者の個人的なあり方というテーマと重なることになります。
【2007.2.24 樋口耕太郎】