資本主義の第三の幻想は、「経済成長が社会を豊かにする」、という常識の嘘です。経済学は前提条件の多い学問とされているそうですが、それらの前提条件については、重要なものほど単に「所与」とされているような気がします。「経済成長の有益性」はその典型といえるでしょう。オーストラリアの経済学者クライブ・ハミルトンは、彼の著書『経済成長神話からの脱却』*(1) で、次のように述べています。
経済成長の有益性は自明のこととされているので、経済学の教科書でそれのどこが有益なのか調べようとしても簡単にはいかない。どこでもいいから大学の教科書を開いてみれば分かるが、経済学の定義としていきなり、わずかな資源で無限の欲求に対してできるだけ大きな満足をもたらすにはどうすればいいかを研究するものだと書いてある。ここでは「欲求」は消費によって満たされるものだとされ、教科書の前半はもっぱら、消費者が自身の「幸福」を最大化しようとする行動の分析に当てられる。本来は人間だったものがいつの間にか「消費者」にされ、人間の欲求は商品によって定義されてしまっている。これに続けて、人間を最も幸せにできる唯一の方法は、より多くの商品を提供することだと書いてある筈だ。いいかえれば、目的は経済成長だということになる。教科書の後半はマクロ経済の話だろう。こちらの目的は要するに、政府がどのように経済を管理すれば、やがて成長率を最大にできるかを理解することにある。
経済成長フェティシズム
「経済成長の有益性」を所与として、いかにして経済成長を実現するか、に関する経済学的研究が山のように存在し、社会的にも政治的にも経済成長が最重要視されています。現代社会において、所得の向上が幸福をもたらし、経済成長がよりよい社会を作ることは「自明」であり、GDP*(2) が繁栄の指標として議論の余地なく受け入れられています。GDPの成長が好調であれば、与党は選挙で大勝して政治家は胸を張り、逆に成長率が鈍化すると、野党を含め、ありとあらゆるメディアや評論家が、政府はいかに無能で社会に多大な被害を及ぼしているかと激しく攻撃します。政府の経済政策やマニフェストは、それが経済成長を達成するか、というほぼ一点で評価されるといって差し支えないくらいです。政治的な議論においても、世の中の多く問題は経済成長によって万能に解決されると考えられているかのようです。失業者対策、ホームレス問題、外国人雇用、若年雇用不足、公共施設の予算不足、税収不足、収入格差の拡大、少子高齢化、高齢者の福祉、環境問題、食料自給率の低下、農業の衰退・・・。延々と続く社会問題のリストに対して、過去何十年もの間、政治家や経済学者やマスメディアや事業家の回答は常に、「経済成長でみんなが豊かになれる」というものでした。そして、「経済成長」とは単にGDPの成長を指すことが一般的ですので、これらの問題がGDPの成長によって、完全に解決せずとも向上すると考えられています。
経済学では100年以上、経済成長が社会を豊かにし、所得の増加が消費を増やし、人間の幸福は財の消費量の増加関数だと仮定してきました。しかしながら、この命題は一度もシステマティックに実証されたことはないそうです*(3)。所得が上がることで幸福度が大きくなるのであれば、①豊かな国の国民は、貧しい国の国民よりも幸福である、②同じ国のなかでは、お金持ちの方が貧乏人よりも幸福である、③人はお金持ちになるほど幸福になる、という関係が成り立つ筈なのですが、既に存在する大量の調査・研究による「状況証拠」は、それらをことごとく否定しています。前掲ハミルトンは、経済成長に対する「信仰」を、現代社会のフェティシズムと表現しています。以下は彼の前掲書からの引用ですが、1930年代から1940年代のパプアニューギニアで実際に盛り上がったカルト宗教に言及し、経済成長神話(Growth Fetishizm)の本質を説明しています。
1930年代から1940年代のパプアニューギニアでは、物質的に豊かなすばらしい新時代を予感した宗教運動が盛り上がった。人々が信じたのは、超自然の存在がもたらす「カーゴ」が新時代を創始するということだった。どこからともなくやってくる飛行機や船が、植民地の役人に荷物(カーゴ)を運んでくるのを観察することで始まった信仰だ。ときにはこの、「カーゴ・カルト」の信者が象徴的な滑走路や倉庫を作ってカーゴの到来に備え、伝統的な生活の手段を、信仰の邪魔になるとして捨て去ってしまうということもあった。
これを未開の民の迷信と笑うのは簡単だが、カーゴ・カルトと現代の経済成長フェティシズムは、実はとてもよく似ている。どちらも物質的な資産に魔力を認め、それを所有することで地上の天国が実現できると考える。それを達成するのがより多くの富、より多くの金銭だ。どちらにも預言者がいて一般大衆に信仰を説き、これからもより多くのカーゴが、より多くの金銭が到来して、信じる者に至福の境地をもたらすと説得する役割を担っている。カルト信者を支配する植民地の高官は大量のカーゴの所有者と定義され、経済成長フェティシズムに冒された人々の支配者は、大量の金銭の所有者と定義される。そしてどちらの場合も、同じようにカーゴまたは金銭を手に入れることで、誰もがそのエリート層に加わることができるという信仰が広く行きわたっている。先進国の人々はカーゴがどこからともなく現れるのではなく、生産する必要があると知っている点で違っているというかもしれないが、多くの人々は財産がどこからともなく、たとえばマルチ商法や宝くじや株式市場や脱税や、そのほか無数の「一攫千金のチャンス」で手に入れることがあると思っている。一攫千金のチャンスをものにするという内容の本を書いただけの人間が、その本の売り上げで一攫千金を実現したなどという話さえあるほどだ。そしてカーゴ・カルト信者と同じように、先進国でも多くの人々が伝統的な生活の手段を進んで放棄している。九時五時の仕事を捨てて、マナ(訳注: 昔、イスラエルの民がエジプトから脱出する際、荒野で神から与えられたという食物)を追い求めているのだ。
経済成長は人を幸せにしない
経済成長を社会の至上目的としてきた結果、先進諸国では戦後60年以上に亘って高レベルの経済成長が継続し、平均実質所得が何倍にもなるほどの成長を遂げました。特に超資本主義以降の成長は著しく、1980年に10.1兆ドルだった全世界の名目国内総生産(GDP)が、2000年には31.7兆ドル、2006年には48.3兆ドルと、25年間でおよそ5倍に拡大します。この間世界のGDPは年率6.2%で成長したことになります*(4)。
日本でも、高度成長期を経て、社会全体が高度経済成長と大量消費の要請に合うように再構築され、人々はお金を使えば使うほどもっと使うように、という更なる圧力を受けるようになります。『三丁目の夕日』の時代と現在を比べて、約50年かけて「奇跡的な」経済成長を遂げた今、人々はより幸せに暮らしていると言えるでしょうか。ちょうどこのドラマの舞台になっている、1958年(昭和33年)から1991年を対象とした調査によると、この期間に日本の一人当たり実質GDPは6倍に増大しましたが、自己申告による幸福度平均は全く増えませんでした。米国でも1946年以来、同様の調査が継続しており、実質所得は当初の3倍に増加していますが、「所得にはとても満足している」と回答している人の割合が42%から30%へ、12%も減少しています。所得が何倍にも増えたにも拘らず、それに満足する人が減少するのであれば、社会全体として、どうして経済成長をここまで追い求める必要があるのでしょう*(5)*(6)。
革命的な人事と経営スタイルで知られる、ブラジルのセムコ社のリカルド・セムラー社長*(7) が、MITでの講演 でジョークを飛ばしています。「自動車業界は100年前と現在では殆ど本質的な変化がない。100年前のフォードは、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗り、時速30kmで走行していた。そして、100年間と数千億円を超える膨大な研究開発費を費やした現在も、金属の車体、4つのタイヤ、ハンドル、内燃エンジン、ギア、4人乗りで、時速27kmで走行している」。最後の「時速27km」というのは、交通渋滞や信号停止などを含めた実質的な走行速度を揶揄しています。
経済成長によって社会をよりよくする試みは、ほぼ全面的かつ必然的に失敗したと言うべきでしょう。セムラー社長のジョークのように、車の性能が破格に高まる反面、都市部の渋滞に収拾が付かなくなってしまい、経済成長そのものが病んだ社会を作り出し、所得が増えると同時に別の社会構造が生まれ、至るところで富の利点が相殺されています。お金持ちになるという過程そのものが問題を引き起こし、世界で最も裕福な筈の国民が、自分たちは惨めだと感じているのです。恐らく最も深刻な問題は、経済成長が社会を豊かにする事実が存在しないにも関わらず、経済成長がこれほど社会で重要視されているということは、社会において、世の中をよくしようと考えている人が実質的に殆ど存在しないことを意味する、ということです。いったい何を間違ってしまったのでしょう?
成長の構造
経済成長には、例えば、環境と両立しないという重大な問題があります。現在の経済は自然環境や土壌や化石燃料という再生不能な「資本」を日々取り崩し、これを収益として認識することで経済成長を達成しています*(8)。もしも企業が自己資本を取り崩して、その額を利益に計上していれば、まともな会計士であれば粉飾決算を指摘するでしょうし、経営者であればその企業が順調だなどとは考えないでしょう。自分が既に持っているものを、利益として計上する行為は、蛸が自分の足を食べて空腹を満たすようなものだからです。資本主義のシステムは、このような「粉飾決算」を前提に全てが成立していますが、この現象は経済成長によって等比級数的に加速するため、最終的にはどこかの時点で一気に破綻を迎えることになります。
このような現象は、自然環境や化石燃料に限らず、有限の環境下で無限の成長を追及する資本主義の構造的な問題で、現代社会の至るところに同様のパターンが生じています。あまりよい例ではないかもしれませんが、この原理は、物質的に有限な人体と、等比級数的に増加するウィルスの関係に似ています。ウィルスは人体に寄生して、本質的な生産活動をしませんが、人体のエネルギーを取り込んで等比級数的に増加します。しかしながら、人体の成長は有限かつ物質的に逓減するため、いずれ寄生しているウィルスが人体を食い尽くすことになります。ウィルスは人体なしで自ら存続し得ませんので、自らの成長によって、自らの存在の拠り所とするシステム(人体)自体を崩壊させ、結局自分自身を含む全てが破綻します。「自然環境と資本主義社会」、「人間性と現代経営」、「農業と工業」、「土壌と化学肥料」、「実体経済と金融資本」など、いずれも「人体とウィルス」の関係にあり、本質的に全く同じ問題を抱えています。これは資本主義における「成長」という現象の構造的問題であるため、このパラダイムの内部で解決することができません。システムの崩壊を防ぐためには、どこかの時点で物質的成長パラダイムそのものを放棄し、質的な成長に移行する以外に解決方法は存在しません。
経済成長の原因
所得の増加が人々を幸福にせず、経済成長が社会を豊かにしないことが事実だとしても、人々がこのような社会の被害者だと単純に考えることは、適切ではないかもしれません。所得の増加と人々の幸福感について、前掲クライブ・ハミルトンは重要な事実を指摘しています。前掲書から二箇所引用します。
経済成長が継続するためには、人々の欲望が所有しているものよりも大きくなければならず、個人が常に自分の持っているものに不満を感じていることが決定的に重要になる。経済成長は人々の欲求を満たして幸福を増進するものだったはずだし、経済学は少ない資源を最もうまく使って福利を最大化するための学問だったはずだが、現実は、人々が不満足であり続けないかぎり経済成長を持続することができない。つまり、経済成長は幸福を作り出すものではなく、不幸に因って維持されるものなのだ。このような資本主義が生き延びようとすれば、人々を常に不満足なままにし続けなくてはならない。
* * * * *
ジュリエット・ショアの著書『浪費するアメリカ人』によると、年収が10万ドル(約1,000万円!)を超える家庭の27%が、必要なものを全て買うゆとりがないと話しているという。「全体として、世界でもっとも豊かな国々の国民の半数以上は、必要なものを全て買うゆとりがないと考えている。しかもそれは貧しい方の半数だけではない」。さらに年収が5万ドルから7.5万ドルの層の1/3以上が、基本的に必要なものを買うだけで収入が殆ど飛んでしまうと答えている。2002年にオーストラリアで行われた同種の調査では、上位20%の富裕層のうち46%が、必要なものをすべて買うゆとりがないと答えている。またショアはアメリカ人に「すべての夢をかなえるために必要な年収はどのくらいか」と尋ねた結果を紹介している。1986年にもっとも多かった回答は5万ドルだったが、8年後にはそれが10.2万ドルに上昇していた。
人々は経済成長によって少しも幸福になっていないのですが、人々はその被害者であるという以上に、原因そのものだということではないかと思います。「幸福ではない」、「十分ではない」、「お金が足りない」、という人々の価値観*(9) が、社会にこれほどの弊害を引き起しながらも、経済成長を強力に誘引し続ける恐らく最大の原因であり、世の中の多岐に渡る問題の原因は、「お金があれば、幸せになれる」という、人々の信念(幻想)に起因している、と考えられるのです。そして、この仮説がもし真であるならば、「幸せになれば、お金がついてくる」という信念へパラダイムを転換することで、社会の多岐に亘る問題を一気に、そして劇的に改善することができる筈です。
【2008.12.16 樋口耕太郎】
*(1) クライブ・ハミルトン著『経済成長神話からの脱却』嶋田洋一訳、2004年11月、アスペクト社、49p。英語オリジナルは2003年に発表された「Growth Fetish」。
*(2) 経済成長の概念で重要な役割を果たしているGDPは、この複雑な問題を更に悪化させる原因にもなっています。GDPが経済成長の実体を測る上で、最も適当な指標だと信じて疑わない人が大半ですが、GNPはもともと二つの世界大戦と大恐慌時代、あまりにも大きな景気循環の波に翻弄された政府が、経済を管理するためにもっとましな手法を必要としたために開発された経緯があります。国民経済計算のシステムを開発したクズネッツ本人は、GNPの限界を強く認識しており、GNPなどの数値を繁栄の指標として扱うことに繰り返し警鐘を鳴らしています。例えば、1934年の議会証言において「国民の幸福度を国家の収入から推し量ることは殆どできない」と述べています。1962年には、「国民経済計算の構造と利用の仕方は再考しなくてはならない」と書くまでになりました。「経済成長の量と質、費用と収益、短期と長期の違いは、はっきりと区別しなければならない。更なる成長を目的とするならば、何を何のために更に成長させるのかを特定する必要がある」。いずれの警告も無視されたまま、現代に至っています。
*(3) 私は経済学の研究体系を網羅的に理解しているわけではないので、このコメントについては、上武大学大学院、池田信夫先生の『池田信夫blog』、2008年12月5日エントリー「幸せってなんだろう」を参照しました。月間200万PVを超える経済ジャンルの人気ブログですが、池田先生の直線的な発言に賛否両論あるのも事実です。
*(4) Mapping Global Capital Markets, Fourth Annual Report, January 2008, McKinsey Global Institute.
*(5) ハミルトン前掲書。本書の2章においては、経済成長と所得の増加が人々の幸福に結びつかない、という実証研究が山ほど紹介されています。状況証拠としては十分といったところでしょうか。彼の結論は以下の通りです。
以上、ここまで見てきた証拠から、大まかに次のような結論を導くのは論理的に妥当なところだろう。国民所得があるレベル以上になると、豊かな国の人々も貧しい国の人々より幸福というわけではなくなる。どの国においても、裕福な人々が普通の収入の人々よりも幸せなわけではない。人は裕福になっても幸福になるわけではない。この結論は日常の食料や家や医療にも事欠く非常に貧しい人々にもそのまま当てはまるわけではないが、基本的な結果として、裕福な国で経済成長によって国民所得が向上しても国民の幸福度は上がらない、という事情に変化はない。さらにいえば、成長を最大化するための経済構造や政策は、貧しい人々の生活を改善するための手段を犠牲にすることになる。
*(6) ダイアン・コイル著『ソウルフルな経済学』室田泰弘・矢野裕子・伊藤恵子訳、2008年12月、インターシフト社、158p からの孫引きです。オリジナルの研究は、Easterlin, R.A. 1995. “Will raising the income of all increase the happiness of all?” Journal of Economic Behaviour and Organization 27(1):35-47. 以下補足です:
以上は日本を含む先進国における傾向です。貧困国ではGDPが伸びればそれだけ幸福度も増加します。年間一人当たりGDPが1万~1.5万ドルがひとつの境界で、それを超えると平均所得の額は、国民の人生への満足度の上昇にあまり関係がなくなるようです(前掲ダイアン・コイル158p)。
*(7) リカルド・セムラー社長とセムコの経営は、リカルド・セムラー著『奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ』岩元貴久訳、2006年2月、総合法令出版 (原題:The Seven-Day Weekend: Changing the Way Work Works)、 リカルド・セムラー著『セムラー・イズム 全員参加の経営革命』岡本豊訳、2006年10月、SB文庫(原題:Maverick: The Success Story Behind the World’s Most Unusual Workplace)などに詳しいのですが、一言で表現すれば、企業に関わる人の幸福を重視した人間中心の経営を目指し、企業の成功を利益や成長だけで測ることを放棄し、経営からコントロール機能を取り去り、社員が職場を自分が働きたいと思える場所にすることと、社員の直感を何よりも重要視することで、外部資本を使わずに年間40%の成長を続けながら、従業員の離職率が実質的にゼロという実績を持つ「異色」企業というべきでしょうか。セムコでは、
・組織階層がなく、公式の組織図が存在しません。
・ビジネスプラン、企業戦略、事業計画がありません。
・会社のゴール、企業理念、長期予算がありません。
・決まったCEOが不在ということもよくあります。
・副社長、CIO、COOがいません。
・標準作業を定めず、業務フローもありません。
・人事部がありません。
・キャリアプラン、職務内容書、雇用契約書がありません。
・誰もレポートや経費の承認をする人がいません。
・作業員を監視・監督していません。
セムコと云えども、資本主義の成長パラダイムから完全に逸脱したわけではないと推測しますが、それでも、質的成長へのパラダイムシフトのインスピレーションを与えてくれる事例だと思います。
*(8) エルンスト・シューマッハー著『スモール・イズ・ビューティフル』小島慶三・酒井懋訳、1986年4月、講談社学術文庫、を参照しています。オリジナルは1973年に発表され、第一次オイルショックのタイミングとも重なって、世界のベストセラーになった古典的名著で、30年以上前に書かれたとは思えない新鮮さがあります。
エルンスト・シューマッハーは1911年ボン(ドイツ)生まれの経済学者・思想家・ジャーナリストです。ケインズから高く評価され、彼の後継者とみなされた時期もありました。英国・ビルマ・インド各政府の経済顧問、英国石炭公社顧問、有機農業を推進する土壌協会会長、共同体経営を試みるスコット・バーダー社顧問などを勤めるほか、ガンジーの思想に強く影響を受けて東洋社会への関心を強め、1955年ビルマ大統領の経済顧問としての赴任をきっかけに自ら仏教徒となった異色の経済学者です。環境・資源・技術・資本・労働をバランスした、理想的な経営組織・企業形態を生涯追及した実践家です。
*(9) 神戸女学院大学の内田樹(たつる)先生の人気ブログ、『内田樹の研究室』の最近のエントリー「窮乏シフト」に、幸福感とお金に関する秀逸な記述がありました。合わせてご参照下さい。