僕が子供の頃、昭和40年代前半の盛岡市は素朴なところがたくさんありました。東北縦貫道(高速道路)、東北新幹線、駅ビルのショッピングセンターは開発されていませんでしたし、自宅から学校へ通うバスは1時間に1本あるかないか、バス賃は大人30円こども15円、母親が車の免許を持っていたことが比較的珍しいと言われ、オート三輪のトラックがよく走り、少し町から外れると未舗装の道路だらけ、盛岡から宮古方面へ行く汽車(盛岡では電車と呼びません)はディーゼルの3両編成で無人駅もちらほら、僕の自宅の近所は「新興分譲地」ということでしたが、当の住宅は数件がまばらに立っているだけの状態が何年も続き、周囲は一面のリンゴ園、目の前は豚小屋と鶏小屋だったので、毎朝鶏の声がよく聞こえました。カラーテレビも比較的新しく、白黒の家庭も珍しくありませんでした。
代理電話
現在、電話帳で(代)といえば会社などの代表電話を意味しますが、当時は「代理電話」の意味で使われるのがむしろ普通だったような気がします(おかげで、僕はかなり後になるまで(代)の意味を「現代的に」理解していませんでした)。電話を持っていない家庭がまだ珍しくなかったので、ご近所さんにお願いして「代理電話」の係になってもらい、そのご近所さんの電話番号を知人に連絡したり、学校などの名簿に載せてもらったりしていました。僕の近所に住んでいた老夫婦(子供の目にはそう見えました)の家にも電話がありませんでしたので、僕の家がそのおばちゃん、おじちゃんの代理電話の係という状態がしばらく続きました。
おばちゃんに電話がかかってくると、先方にちょっとお待ちください、と言ってから僕がおばちゃんを迎えにいきます。近所といっても家がまばらな状態ですのでおばちゃんの家に行って一緒に戻ってくるまでたっぷり10分くらい、ひょっとしたらもっとかかっていたかも知れません。その間電話をかけた人は辛抱強く待っているのです。呼び鈴というのもあまり一般的ではなかったので、「おばちゃん、電話だよ」と声をかけます。電話を呼びにいくくらいのことではたいした会話にはならないのですが、それでも「こうちゃん学校は楽しい?」「うん」程度のことはあったと思います。
数年たっておばちゃんの家にも電話が通り、僕の家の代理電話の係は終わりになりました。母親が、おばちゃんの家にも電話が来て便利になってよかったね、と言っていたような気がします。でも、その時以来僕はおばちゃんと話すことはなくなりました。もちろん以前もたいした内容のある会話をしていたわけではないので、だからといって何か不都合があるわけではないのでしょうし、それどころかおばちゃんはもっと沢山の人と自由に話すことができるようになったに違いないのですが。このことは長い間ぼんやり気になっていることのひとつです。
所有価値から利用価値へ
高度成長期以降、消費者はモノを所有することが生活を豊かにする、自分と家族を幸せにすると信じ、それはあまりに自明のことのようでした。これは個人でも家庭でも企業経営でも同様の考え方だと思います。忘れがちなのは「モノをひとつ所有するたびに、人間関係がほんの少しずつ分断される」というメカニズムが働くという点でしょう。モノが個人と社会をどれだけ豊かにしたかを評価するのは各人ですが、人間関係の分断という性質も含めて、所有することの価値を評価するべきではないかと考えています。
そして、これからの社会では利用価値が見直されるのではないでしょうか。これは利用行為が所有によって分断されている人間関係を再び結びつける可能性を秘めているからです。イメージで言えば例えば家電や一部施設を共有する集合住宅の分譲など、ある意味不便な環境を、人間関係本位のうまいバランスでプロデュースすることができれば意外と大きなビジネスになるかもしれないと思います。
一般的な認識ではないと思いますが、利用価値は所有価値と比較して著しく経済合理性が高いという特徴があり、今まで企業経営で注目されてこなかったのが不思議なくらいです。利用価値を事業的に活用するとき、これは財務的にオフバランス資産(含み資産)を増加したことと同様の効果があります。そこから収益を生むことができれば、投下資本(ゼロ)に対する利益率は無限大となり、飛躍的に事業効率を高める可能性があるためです。
【2006.11.26 樋口耕太郎】