去る10月30日に日銀沖縄支店、沖縄会計士協会、沖縄弁護士会が主催する沖縄事業再生研究会の月例勉強会で1時間半の時間を頂戴し、「サンマリーナホテルの再生事例」と題して講演をさせて頂きました。

講演後の質疑応答の際に頂戴した質問の一つに、「サンマリーナホテルではなぜ客室単価を上昇させる価格戦略を取ったのか。ある温泉地域の事例では、反対に価格を下げ競合他社が疲弊することで自社のポジションを優位に導くというケースもあります。」というご質問がありましたので、その選択にいたる根拠を回答させて頂きましたが(サンマリーナホテルにおける価格戦略については、ウェブサイトの「ケーススタディ:サンマリーナホテル」を参照ください)、価格戦略の基本である、そもそも価格とはなんだ?というテーマについてコメントすることはできませんでした。この議論は掘り下げ甲斐のあるテーマですので、補足してコメントしたいと思います。

価格とはなにかを誰も知らない?
価格とは何か、価格は誰が決めるか、価格はどのような性質を持つかなど、価格についての基本的な議論が経営の現場においてなされることは殆どないと思われます。経済学の価格理論といえばせいぜいミクロ経済学の需給曲線から説明が始まるのが一般的で、需要供給に関連する価格決定が主要な研究テーマとなっているのですが、そもそも需要とは何か?のような価格についての根本的議論は多くの事業家や経済人は経験していないのではないかと思います。特に経済学は前提条件が多い学問といわれているそうですが、そうであるならばなお更その前提条件についての研究が少ないことが不思議に思えます。

僕も今まで長い間、このような知識的な枠組みにあまり疑問を持ったことはありませんでしたし、今まで誰もこのような疑問を呈した人にお会いしたことはありませんでした。しかし、現実に自分がサンマリーナホテルの経営を担当し、経営のあり方、事業のあり方、価格決定について直面し、これらについて考えれば考えるほど、多くの疑問が生じてきました。価格とは何だろうか?価格が何であるかを理解しているのは誰だろうか?価格についての理解が現状の程度にとどまっていることで実際の事業に障害が生じていることはないだろうか?価格を上げるということ、下げることの事業的な意味はなんだろう?

価格は買い手が決める
価格に関する特徴のひとつは、価格は常に買い手によって決まるということだと思います。売り手ができることは「値札をつける」という行為のみですので、これをもって売り手が価格を決定しているように解釈されがちですが、値札をつける行為は価格が決定されるということとは根本的に異なります。買い手には常に「買わない」(あるいは他のものを買う)という選択肢が存在しますので、買い手が売り手の設定した価格に納得がいかない場合は売買が成立せず、この場合売り手の設定した値札は意味を失います。

一般に、「値札をいくらにするか」を定める行為が企業における「価格戦略」と理解されていることが多いのではないでしょうか。この行為は現実には「値札戦略」と呼ぶべきものでしょう。買い手が価格を決定する前提では、買い手が意図とする最高価格と売り手がつける値札の間には直接の関係はありません。より本質的な問いは、価格決定はあくまで買い手によってなされるということを認識した上で、その決定要因が何か?その決定要因に影響を与える事業行為はなにか?そのような事業行為を組織的に行うためになにをすべきか?などだとおもいます。

不良債権と価格決定
価格決定に対する考え方次第で、事業戦略と結果(場合によっては国家政策にも)に大きな影響があることを実感したのは、1997年3月以降日本でも活発になった不良債権の売買案件に携ったときです。不良債権の売買価格は当初売買市場が未成熟だったこともあり、常に買い手が価格を決定するという原理を実感するに十分でした。

当時、日本における不良債権売買は誰しもが初体験の取引ですので、おっかなびっくり、かなり保守的に入札価格を設定するところから始まります。余談ですが不良債権の回収を行う外資系企業の責任者の家が放火されたとか、オフィスにネコの生首が送られてきたとか、世界中で噂になったのもこの時期です。時間の経過と共に不良債権投資は当初想定されていたほどリスクがない(どころか殆どリスクがない)ということが明らかになるにつれて入札価格は急速に上昇していくのですが、その間売られる不良債権の質にそれほど大きな差はなかったと思います。買い手の不良債権に対する認識の変化が入札価格の急速な上昇のほぼ唯一の原因でした。

不良債権が安価に売却されればされるほど、銀行に対して公的資金(つまり税金)が投入される額が増加し、投入された税金の多くは投資家である外資系投資銀行やファンドの利益となり、この莫大な利益に対して当時は日本国内で税金が課せられることもなく、こともあろうに投資家の本国(米国など)で課税され膨大な納税がなされている、という非常識な循環が生まれていましたので、この問題を解消するためには一刻も早く売買価格を上昇させ公的資金の投入額を最小限に抑えることが重要なポイントであるべきでした。すなわち国家レベルでの不良債権の価格戦略が何兆億円という税金の使い道を大きく左右する局面だったといえると思います。

価格が買い手によって決定されるという原理を重要視した場合、買い手の数や資金量を増やし、制度の整備などを通じて買いやすさを促進するなど、需要サイドの政策が最も重要であるという発想になるはずです。ところが、当時は売り手が価格を決定するという発想が根強かったせいかどうか、売り手である銀行に対する対処があまりに強調されていたように思います。恐らく日本がとるべきであった金融政策は、高い利益を求める外国資本ではなく安価な日本の金融資産を可能な限り大量に不良債権投資に振り向けるためのしくみ作りを最優先するべきだったと思います。この仕組みづくりに最も活躍できる力を持っていた日系大手証券会社がこの時期に全く機能しなかったことは残念です。

価格決定が売り手によってなされるか、買い手によってなされるかという基本的な問いと認識の違いによって、現実の事業や国家政策の舵取りと、そこからもたらされる成果に著しい差が生じるということだと思います。

価格とは?
「価格は常に買い手が決める」という考え方が仮に正しいとして、そもそも価格とは何でしょう?僕は価格は顧客の意思によって売り手との間で成立する経済行為を表彰する「足跡」に過ぎず、実体を伴わないと考えています。雪山のウサギが経済行為の実体で、ウサギの足跡が価格という感じです。多くの経営理論ではウサギの足跡が経済実体のほぼ全てであるという前提で経済活動を分析しているように思えますが、実際に理解し経営に応用すべきはウサギそのものについてではないでしょうか。そして、ウサギの正体は「顧客の気持ち」だと思います。

一般的な経済理論の考え方の欠点は、ウサギの足跡(価格)を実体として分析を行うため、分析結果が経済行為の本質(ウサギ)と乖離しがちなこと、具体的には、足跡がなければ実体は存在しない、という考え方が基本であるため、足跡を残さないウサギについての分析が完全に無視されること、といえるかも知れません。このような考え方を前提とすると、売り手が商品を提供(供給)し、その商品価格の水準によって顧客が機械的に消費行動を起こすという考え方が採用されがちですが、このような機械的な価格決定モデルは、次善の策とは言え、経営に際して合理的な分析ツールといえるのでしょうか。

例えば、商品は気に入ったのだが従業員の態度が好ましくなかったために買わない多くの(潜在)顧客、同じ商品を買った顧客でも、喜んで人に勧める顧客と、「二度と来るか」と心に決めて立ち去る顧客、都心のデパートで商品を見つけた時は気が向かなかったが、後にリゾートのショップで同じものを見た時には気前よく山ほど買い込んだ顧客、など、このような事例は誰しもが日常的に経験していることだと思いますが、これらの違いはいずれも経済分析の中では存在しないものとして完全に無視されています。現実にはこのような「足跡を残さない」顧客は、実際に購買行動を起こした顧客の何倍も存在するのではないでしょうか。

「足跡を残さない」顧客がどこにどのくらい存在するかを数量的に把握することはほぼ不可能ですが、それが存在しないと考えることは別問題であり、経営的にも非効率です。今まで足跡を残さなかった顧客と実際に購買を行った顧客の合計が売り手の顧客であり、前者は後者の数倍存在するという認識が経営の効率を飛躍的に高める可能性があります。

このような「顧客」を前提とするとき、価格は顧客の気持ちを表彰したもの、すなわち顧客の気持ちがウサギの正体と考えられないでしょうか。経済活動の実体は顧客の気持ちであり、売上とは顧客の価値観と売り手の価値観の接点であり、この接点を選択するのは(上記における大きな意味での)顧客であり、この接点が価格と売上によって表彰されると考えられないでしょうか。このような価格についての考え方を前提にサービス事業を見直すと、経営行動が根本的に変化するというのが僕の経験です。

【2006.11.18 樋口耕太郎】