『第三の波』『パワーシフト』などの著書で知られる未来学者アルビン・トフラー氏は、近著『富の未来』*(1) で、「資本主義は基本的な性格の見直しを迫られているが、この「見直し」は、資本主義の根本に関わる革命的な変化を伴う。その後、残ったものは資本主義と呼べるのだろうか」、という趣旨のコメントをされています。この現象を「資本主義の崩壊」*(2) と呼ぶべきかどうかは議論が分かれそうですが、いずれにせよ、近年、特にサブプライム危機をきっかけに、一部の識者が真剣に懸念する政治経済のテーマになろうとしているのではないかと思います。

「崩壊」の引き金
1990年代の中頃以降、グローバル金融の拡大とボーダーレス化によって、今まではいくつもの「商品ブロック」と「地域ブロック」に分かれていた金融市場が一気に繋がり、事実上一つの「グローバル金融市場」が生まれようとしています。国際金融資本にとっては事業機会を大幅に増加するという(目先の)利点があるかも知れませんが、大量資本の流動性と価格変動が、大きく、かつ一様になるため、市場暴落に伴う金融危機の規模も拡大の一途となっています。

1990年代前半までの金融市場は、例えば米国では、ジャンク債市場の崩壊と帝王マイケル・ミルケンのドレクセル・バーナム・ランベール証券の破綻(1990年)、ジャンクボンドを買い込んだ貯蓄貸付組合(S&L)の大量破綻、1980年代後半から1990年代前半の不動産大不況、預金保険制度の崩壊と整理信託公社(RTC)による大量の不良債権処理、ゴールドマンサックスが破綻に瀕した住宅モーゲージ証券の暴落(1994年)、などはいずれも大規模とはいえ、内国市場の問題でした。しかし、1990年代の半ば以降、1997年のアジア通貨危機では規制の緩い地域で設立されたオフショア・ヘッジファンドが強く関与していたことが注目され、1998年8月のロシア金融通貨危機でアメリカの商業不動産の証券化市場が崩壊し、ドリームチームといわれたヘッジファンド、LTCMが破綻するなど、地球の裏側にある、全く種類の異なる市場のクラッシュが、一瞬にして別の市場に飛び火する現象が起こり始めます。グローバル金融市場の広がりと同時に暴落規模も驚くべきスピードで拡大し続けています。日米市場で連動した2001年のネットバブル崩壊、2007年7月以降のサブプライム危機は、1990年代のクラッシュと比べても破格に巨額の損失を生み出しています。更に問題なことは、市場が暴落するたびに、公的資金の拠出がほぼ習慣化してしまっていることで、これは、資本主義社会が誇る金融市場が、既に自立機能を持たないということを自ら証明しているようなものです。サブプライム危機の発生から1年近くが経過してもなお、ユーロおよびウォール街のインターバンク市場は各国中央銀行の介入なしでは機能していません。実質的に市場メカニズムが破綻し、各国中央銀行によって運営されているような状態です。

90年代中以降のグローバル金融の変容は、ポーカーゲームで負けるたびに掛け金を倍増して、損失を取り戻そうとするギャンブラーに似ています。この戦略は、資金が無限にある限りは損を取り戻すことができます。グローバル金融市場も、今のところクラッシュのたびに中央銀行や各国の協調によってシステムを辛うじて維持している状態ですが、今後益々市場が広範囲に繋がり、一様に価格変動し、巨大な資金が国境を越えて大量・高速に移動する傾向が継続すると、どこかの時点で・・・それも近い将来・・・中央銀行や公的資金が支えきれない水準のクラッシュが生じることは、必然ではないかと感じられるほどです。本来、実体経済を助ける黒子であるべき金融機能が、90年代半ば以降、すっかり国際経済の主役に躍り出ていますが、血液が決して体の代わりにはならないのと同様、金融が主役の経済は決して長くは続きません。金融が実体経済を振り回す本末転倒は、いずれ、経済全体を崩壊に導く原因となるでしょう。それはいつでしょうか。サブプライム危機が、その引き金なのでしょうか。

資本主義と金融市場
仮に、資本主義を、「資本の量が、物事をコントロールする社会の仕組み」と単純に考えてみます。キーワードは、「資本の量」と「コントロール」です。この定義に基づくと、例えば、「会社は株主のものである」という価値観が力を持つ社会は、より資本主義的といえます。そのような社会における会社は、組織であると同時に資産であるため、財務的・社会的・組織的機能は、いわゆる「資本の論理」によって決定されます。金融グローバリゼーションに伴って、企業金融の資本提供者が、商業銀行の貸付(デット)資本から資本市場やファンド資本(エクイティ)へ移行し、それに伴う企業買収が増加する傾向は、資本による企業への影響力の高まりであり、資本主義的だといえます。債権譲渡による不良債権処理は、債権を資本に転換する効果があり、資本主義的な活動です。人材派遣業の急増と労働分配率の低下は、社員の権限を株主に移転する効果があり、これも資本主義的な変化です。更に、この考え方は経済界以外にも適用可能です。日本の政治は選挙による代議制であるため、その意味では資本主義的ではありませんが、選挙に勝つためにお金が必要とされるほど資本主義的と言えます。選挙地盤は金銭価値に転換できるのれん資産と考えることができるため、二世・三世議員の増加は、より資本主義的な政治体制ということになりますし、政治が資金を投下してメディアを利用しようとするほど資本主義的になります。このように、90年代後半以降日本社会で急速に進行した、金融ビックバン、グローバル金融、厳格な不良債権処理、投資銀行と直接金融中心の市場原理至上主義、活発なIPOやストックオプションの広まり、プライベートエクイティの影響力増大、株主主権の企業統治、金融利権政治、二世・三世議員の増加、劇場政治とメディアコントロールなどはいずれも資本主義的*(3) であるという共通点を持ち、この時期以降の金融グローバリゼーションと日本社会の変容をうまく説明できるような気がします。・・・この点も後述します。

さて、現在のグローバル金融・資本市場において、お金を大量に保有する主体は、自ら資本を保有する「資本家」とは限りません。80年代以降、株式市場の主体が個人から機関投資家に大きく変容した機関投資家現象、更に90年後半以降、IPOブーム、プライベートエクイティなどのファンド、ノンリコースファイナンスなどが大幅に拡大したことによって、二十世紀前半に想定されていた「資本家」とは全くイメージの異なる金融専門家が大量の資本を管理するようになり、グローバル金融の主人公とも言える、国際金融資本が生まれます。投資銀行やユニバーサルバンクなどの大手金融機関で働く金融専門家はもちろん、一個人が大きな組織の後ろ盾を必要とせずにヘッジファンドやプライベートエクイティの運用会社を設立し、莫大な資金を運用することも一般的になりました。昨日まで証券会社で働いていたエリートサラリーマンが、何の歴史もない新会社を設立すると同時に、かつての自分の顧客から数百億円の資本運用を受託すると、ノンリコースローンの貸し手は、この何の実績もない会社に対して、取得資産のみを担保に大量の資本を貸し付けます。

このような国際金融資本の大きな特徴は、投資収益率が資本の額・・・すなわち社会における影響力の度合い・・・を決定することです。運用資産、運用方針、市場環境、個別事情などによって非常に大きな差があるため、実体はそれ程単純ではないのですが、誤解を怖れずに大雑把なイメージで表現すると、年率15%で運用する金融専門家には100億円、20%で運用する者には1,000億円の資金運用が任される感覚です。このため、国際金融資本とそれを運用する金融専門家にとって投資収益をいかに高めるかが、自らの存在意義に直結する最優先課題となります。このような金融専門家は、ファンド、M&A、資金調達などを通じて、大量の不動産、企業資産、企業経営に大きく関与し、資本主義的な存在といえます。そして、彼ら金融専門家が大量資本を調達する場がグローバル金融・資本市場であり、特に90年代後半以降、このグローバル金融・資本市場が現在の資本主義制度を支える重大な要素、という関係が成立しており、グローバル金融・資本市場がどのように変容するかが、資本主義制度の将来を決定付けるという構造になっていると言えそうです。

資本主義の四つの幻想
ところが、このような「資本の量が社会の物事をコントロールする」、すなわち、「グローバル金融・資本市場が主導する」資本主義は、その存続に関わる重大な欠陥を抱えていると思います。90年代前半に突然崩壊した社会主義体制は象徴的な事例ですが、全ての社会制度は、それがどれ程頑強に見えるものであっても、社会を豊かにしない、という矛盾が顕在化した時点で、容易に消滅します。人間が作ったもので永遠に続いているものはありません。資本主義だけが永遠に続くと考える理由はあるでしょうか。逆に考えると、矛盾を内包する社会が存続・成長するためには、そのシステムが効率的で、社会を豊かにする、という幻想が不可欠であり、現在の資本主義は四つの幻想によって支えられています。

①金融・資本市場は効率的なしくみである
②競争原理が社会の効率を高める
③経済成長が社会を豊かにする
④富の蓄積が社会を豊かにする

それぞれについて本稿で詳しく後述します。

・・・本稿での議論の一切は、例えば「資本主義は悪である」といったような、政治的主張や制度批判、資本主義崩壊の予言、その他の個人的な主義主張や隠れた意図とは無縁のものです。本ウェブサイトの内容の一切に関して一貫するテーマは、「最も効率的な事業経営に関する経営科学的な考察と分析」です。最も効率的な事業経営の実現において、現実を直視し、将来の社会・市場変容を予測する作業は重要な要素であり、本稿の議論はそのための現状認識の一つのアプローチです。また、本稿の現状認識が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。

【2008.6.21 樋口耕太郎】

*(1) アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著 『富の未来』、山岡洋一訳、講談社、2006年6月など。特に下巻第8部「資本主義の将来」には、興味深い記述があります。

*(2) 資本主義の崩壊という表現には様々な語弊があることは事実です。二十世紀の二大社会システム、資本主義と社会主義は、いずれも政治と経済が不可分として成立したため、資本主義の「崩壊」という論調は、国体・政治・社会 制度の革命として捉えられがちで、歴史上革命に付随する血なまぐさい内戦・粛清・混乱が連想されがちです。 またこのフレーズは、怪しげな占い師や、宗教家や、金融詐欺師のセールストークに多用されたり、それらに比べると幾分まともなものであっても、売らんがための雑誌見出しや書籍マーケティングのコピーなどに使われることが少なくありません。本稿では、「資本主義の根本的な性質の変化、すなわち、資産の概念、 資本の概念、企業 の概念、組織の概念、通貨の概念、金利の概念、市場の概念、金融の概念、などの本質的な変容」という意味において使用しています。

ちなみに、論証のための事例というよりもイメージに近いのですが、現代においては政治と経済の体制変化が必ずしも連動しないケースが多く生じています。ベルリ ンの壁崩壊(1989年)と東西ドイツ統合(1990年)、ソビエト連邦崩壊(1991年)、中国における、鄧小平の改革開放政策(1978年)、社会主 義市場経済政策(1992年)、香港返還(1997年)と一国二制度の社会変動、などをみても、社会制度や政治的な枠組みの革命的変動がなくても・・・す なわち、内戦などの社会的な混乱を伴わなくても、経済制度が「一瞬」といって差し支えないほどの短期間に一変することは、それほど特別なことではありません。

ポスト資本主義の環境を想像する際、社会主義でなければ資本主義、資本主義が崩壊したら新しい社会制度、というほど単純でもない筈です。例えば、日本は「世界で最も成功した社会主義国」と揶揄されることがありますが、この表現はそ れ程的外れではありません。現在の中国が社会主義国家であるということを社会実体からうまく説明することは困難ですし、マルクス主義国家として成立した旧ソビエト連邦と、アメリカ帝国主義へのアンチテーゼとして革命を成就し、当初は必ずしも意図していなかったにも関わらず、結果として社会主義国家体制を選択したキューバではその中身は大きく異なるでしょう。日本でも90年代後半以降、グローバル金融市場の拡大と時を同じくして、社会的な格差が急激に拡大しはじめるなど、実質的な社会変容が大きく進んでおり、「世界で最も成功した社会主義国家」の看板を下ろさざるを得ない状況になりつつあるようです。恐ら く、ポスト資本主義の社会体制も決して一様ではなく、また、右から左へとページを捲るように移行するものでもなく、社会的・歴史的・文化的・経済的な背景ごとに個別のペースで様々な変容を遂げるのでしょう。

少なくとも日本においては、資本主義国家の政治的、外形的な体制を残したまま、その経済・社会構造が本質的・根本的な大変容を遂げるということかも知れません。現在の非効率なグローバル金融・資本市場の欠陥を補うような次世代金融システムが芽生え、社会で機能し始め、やがて国家財政あるいは中央銀行の機能不全、大手金融機関、国際金融資本の大量破綻、実体経済の構造不全などをきっかけに、その主体が加速度的に交代して行くようなイメージです。・・・ドミノが倒れるように。

*(3) これに対して、かつて日本社会の特徴といわれた、株式持合、正社員の終身雇用、豊かな中産階級、高い貯蓄率、護送船団方式とメイン バンク制度、などは必ずしも資本の量が物事を決めるしくみではありませんので、非・資本主義的な社会を構成する要素であり、日本の「世界で最も成功した社 会主義」というイメージに重なります。