今日のメニューは「年越し有機そば」と「有機ほうれんそうと梅干のチャーハン」。
茹で上げた出雲の有機そばを、かつおと利尻昆布の合わせだしを作り、
煮た揚げと有精卵の卵で月見きつねそばに。
薄味仕上げの有機ほうれん草のおひたしを先に作り、汁気を絞って
炊き立てごはんと炒め合わせ仕上げに無添加梅干のたたいたものを混ぜたチャーハンに
有機の柴漬けを添えて。
あまりにおなかがすきすぎていて写真を撮ることを忘れ一気に食べてしまいました!

【末金典子】

年越し有機そばは、本格派奥出雲そば専門店本田の有機出雲そばを使用(サンエーハンビータウン)。有機そば粉と有機小麦粉を原料とした5割そばです。有機そば粉はカナダ、中国産、有機小麦粉は北米、トルコ産。一般にそばをゆでると臭みが出ることがありますが、これは添加物によるもの。このそばは本来のそばの香りが楽しめます。

有機ほうれん草はサンエーハンビータウンの有機コーナーで購入。

梅干しはどこのスーパーにもたくさんの種類が並んでいます。サンエーハンビータウンでもざっと50種類の梅干しが売られていますが、そのすべての商品を確認すると原材料が、梅、しそ、塩、のみで、添加物が使用されていないものはたった一種類しかありません。

ごはんは、岐阜県下呂産の「龍の瞳」(有機JAS)を、ハリオ製フタがガラスの炊飯鍋で炊いたもの。チャーハンと言えば、残りの冷や飯を使用する人も多いと思いますが、敢えて炊きたてのごはんを惜しげなく使うのがおいしいのです。

【樋口耕太郎】

なぜ私たちが食に関心を持つのか、おいしいレジスタンスを参照下さい。

安全且つ美味しいものをとほぼ毎日自宅で二人で手料理を作っています。
毎回の食材には、できる限り有機無農薬野菜を揃え、
お肉は、紅豚や、無投薬の刀根鶏や、
無投薬オーガニックの尾崎牛やニュージーランド牛などを使用し、
化学性の調味料は一切使わず、有機の調味料などで味付けをするなど、
無添加のこだわりのメニューです。ごはんは、NHKでも紹介され
ますます手に入りにくくなった突然変異でできたという昨今話題の貴重な
「龍の瞳有機JAS大粒米」を送ってもらって、土鍋で炊いています。

今日のメインメニューは
「ナチュラルビーフ・ペッパーステーキ」です。
我が家は今日が今年の仕事納め。
一年のお互いを労って特別なステーキを。
オーガニックのあらびきブラックペパー。ただ、それだけをまぶしつけた
ナチュラルビーフをよ~く熱したオールクラッドのフライパンで焼きつけます。
よいお肉なのでうまみがグッとくる一品です。

【末金典子】


写真をクリックすると拡大できます。

▶ナチュラルビーフはニュージーランド産のオーシャンビーフを試してみました。ロースの芯の部位だけを使ったリブロースです。スローフード専門のネットショップ「ハイ食材室」から取り寄せ。

ウェブサイトの説明文より:「広大で豊かな自然環境のかな飼育され(牛にストレスとためない環境=お肉が硬くならない)、 とさつ前、150日~180日の間小麦を主体とした飼料を与え飼育されます。よってその運動量によりお肉に刺しが入り、そして穀物飼育を行うことにより、 甘みのある肉質になるのです。つまり強制的にトウモロコシなどを与え強制的に刺しを入れこんだお肉ではないのです。あくまでも自然環境の中で、自然に健康 的に育った牛のみをご提案させて頂きます。」

▶有機ペッパーはS&Bの有機ブラックペッパー粗挽きはサンエーコンベンションシティの有機コーナーで購入(なぜかサンエーハンビータウンでの扱いはありません)。コショウなど香の物はオーガニックを使用すると料理全体がぐっと引き立ちます。片面にペッパーをふって、こちらの面から焼きつけます。

▶写真右に見える有機フレンチマスタードはドイツで1947年創業のツヴァルゲンヴィーゼ社製(ホットマスタード)。昔ながらの製法で石臼で丁寧に挽いて作られたもの。たっぷりのマスタードに包丁で叩いたパセリを散らしています。お肉にマスタードを付けながら頂きます。自宅の近所でよく利用するグリーンリーフ(北谷町)で購入しましたが、現在は取り扱いがないので他の商品または仕入れ先を検討中です。

▶付け合わせは、ブロッコリーを茹でてから、トマト、ズッキーニ、ベーコンと一緒に炒めたもの。野菜は入手できるときは必ず有機を購入しますが、タイミングが合わなければ国産を選びます。有機トマト、有機ズッキーニはときどきサンエーハンビータウンなどで置いています。

ベーコンは添加物が多く使用されがちな食品の代表格で、注意して購入しなければほぼ確実に着色料、保存料などが添加されています。ベーコンがメインの料理のときはネットで取り寄せますが、付け合わせなどの場合は、サンエーハンビータウンでグリーンマークブランド無塩析のベーコンスライスを購入します。

オリーブオイルフレスコバルディ・ラウデミオを 使っています。ラウデミオは、トスカーナの生産組合「リ・オリバンティ」が自ら制定した厳しい基準に合格したエキストラヴァージンオリーブオイルだけに与 えられる名称で、現在35種類のラウデミオが生産されています。中でも800年続いているフィレンツェの名門フレスコバルディ公爵家のワイン/オリーブ農 園で生産されるオリーブオイルは世界最高品質と言われています。香りが高く、スパイシーで、上品なコクがあり、私もこれに勝るオリーブオイルを経験したこ とがありません。500mlで4200円と高価ですが、その価値は十分にあります。

お米は、末金のコメントにもありました、岐阜県下呂温泉でとれる「龍の瞳」。 様々なコンテストで何度も日本一に選ばれているお米で、驚くほどの瑞々しさとハリがあります。いくつかの種類が販売されていますが、私たちはその中でも有 機JAS米を年間予約して、送付してもらっています。今年も11月から新米が発売されていますが、このお米は水分を多く含むため、新米はより大きな粒でさ らにおいしさが際立っています。

▶最近は土鍋炊飯がブームのようですが、私たちはハリオ製フタがガラスの炊飯鍋で炊いています。この土鍋は実に扱いやすく、電気炊飯器並みの手軽さで、最高に価値のある買い物のひとつになりました。土鍋で炊いたごはんは電気やIHの炊飯器とは比較にならないおいしさで、一度経験されると二度と手放せなくなると思います。

飲み物はいつも料理に合わせることにしています。和食には有機緑茶、中華には有機ウーロン茶、韓国料理には有機コーン茶といった感じです。今回のステーキには、ムソーの有機ストレートアップルジュースをドイツ産の天然炭酸水ゲロルシュタイナーで割って頂きました。アップルジュース100%有機果汁であることはもちろんですが、ストレートは濃縮還元とは比較にならないおいしさです。炭酸水も天然のものがやはり個性と味があって、安価な炭酸水とはまったく別物です。いずれもサンエーハンビータウンで購入できます。

【樋口耕太郎】

なぜ私たちが食に関心を持つのか、おいしいレジスタンスを参照下さい。

「たべる毒薬」

私とパートナーの末金が農業と食について深い関心を持つようになって9年ほどが経ちますが、食の現実を知れば知るほど、私たちが「食べていると思っているもの」と「実際に食べているもの」が、どれだけ乖離しているかに愕然とすることの連続です。私たちの食べものは惨憺たる状態にあります。

私たちが毎日食べているもの、子どもたちに与えているものの大半は、コストを削るために極力低価格の素材で作られています。その質の低さにも関わらず、私たちに「食べたい」「もっと食べたい」と思わせるために、糖分と脂肪分と塩分がふんだんに添加されるため、命を支えるはずの食品が、体を蝕む最大の要因になっています。現代の食品製造技術では、ほとんどどのような素材であっても「おいしい」味に変えてしまうことができます。食欲をそそる香りを加え、食感を豊かにし、見た目に美しく、コクと旨味を加え、簡単に用意できて、便利で、流通・保存を容易にするために大量の食品添加物が駆使されます。私たちの食は、薬品で味が整えられていて、カロリーたっぷりで「おいしく」感じるのですが、質と栄養素と素材は劣悪で、食品というよりも、「たべる毒薬」に近いと思うことがあります。

幸せな社会は幸せな食事から

私たちは、社会をよりよくするために、自分自身が行動することにこそ最大の価値があると考えています。社会を変えるために、まず自分が変わる。理想の社会を目指すのであれば、自分こそが、まず、理想社会を生きるべきでしょう。同様に、理想の食を考えるのであれば、何よりも自然で、安全で、おいしく、エネルギーに溢れ、愛情に満ちた毎日の食事をとることが何よりも大切だと思うのです。私たちにとって理想の食事を深く丁寧に追求することは、効率重視の価値観によって愛情が常に後回しにされがちな現代社会への「おいしいレジスタンス」なのです。

そのような動機から、積極的かつ頻繁に買い物に出るようになり、スーパーでの買い物の際に食品の成分表示を確認するようになり、有機無農薬野菜を優先して食べるようになり、無農薬のお米を取り寄せ、牛乳を吟味し、飲み物に注意を払い、塩、砂糖、醤油、なたね油、ごま油、オリーブオイル、味噌、酒、みりん、酢、スパイス、ハーブ、豆板醤、甜麺醤、コチジャン、オイスターソース、バターなどを始めとした調味料、ハム、ソーセージ、肉、魚、チーズ、たまご、漬け物、梅干し、パスタなど食材の一切を見直し、新鮮な素材を使って、自分たちで美味しく料理し、味わい楽しみながら食べはじめたところ、文字通り人生が変わりました。

明らかな変化は、短期間で体がびっくりするほど若返ったことです。子どもの頃から毎年必ず何回かは病気に臥せっていたことが噓のように、一切病気にかからなくなりました。風邪を引くのは当たり前のことだと思っていましたが、どうやら、風邪を引かないことの方が当たり前だったようです。「おいしい毒薬」を食べることを止めれば、本来の健康な状態に回復するということでしょう。以来私の医療費はほとんどゼロで、ありがたいことに医療保険は払い損の状態が続いています。自分が健康になれば、その保険料が誰かの役に立ちますので、それだけで向社会的と言えるでしょう。

単に病気にならなくなっただけではなく、体に力がみなぎり(回復し)、疲れなくなり、夜は深く眠り、朝は溌剌と起き、学ぶことへの意欲が増し、仕事がさらに楽しくなり、情熱的に働き、人間関係に恵まれ、不安がなくなり、ストレスを感じなくなり、愛に溢れ、幸せで、生産性の高い人生を送っています。お世辞も混じっていると思いますが、多くの人から年齢よりも相当若く見られますし、美容室では髪と頭皮の若々しさを褒められ、白髪もいまのところ目立たず、週何日かは6キロを苦もなく走る体力があります。

おいしいレジスタンス

私たちは、毎月およそ50冊程度の雑誌に目を通していますが、その中で、おいしそう!試してみたい!とひらめいた料理のレシピをストックして、その中から毎日必ず違う料理を二人で作って食べています。少なくとも年間300日300食の異なる料理を作るのですが、私たちはこのような生活をもう8年以上続けていますので、これまで恐らく2400種類の異なるレシピを作って食べていることになります。

食べることは、単にカロリーを獲得することではありません。私たちの人生を豊かにし、ひいては幸せな社会を実現する強力な市民運動でもあるのです。このような趣旨で、沖縄大学でも「観光と食」という講義を開講し、学生たちに「おいしいレジスタンス」の実践を勧めているのですが、私が講義でこの話をするたびに、学生たちからは私が具体的にどのような食事をとっているのか、興味津々で問い合わせを受けることが多くなりました。そこで学生たちにより具体的なイメージを伝えるために、そして、今までの私たちの実践をよりインスピレーショナルな形で表現するために、私たちの「今日のごちそう」を紹介することに致しました。

これだけの回数を重ねていくと、料理を美味しくする要素がだんだんと分ってきますし、レシピを作っている料理研究家の方々の意図や経験の深さや考え方が理解できるようになってきます。単なる料理ブログではなく、食材の内容、調達先、価格、料理の考え方などをまとめ、「おいしい市民運動」の実践の場としていこうと思っています。

【樋口耕太郎】

「王国全土を崩壊させようとした力のある魔法使いが、全国民が飲む井戸に魔法の薬を入れたの。その水を飲んだものはおかしくなるように。

次の朝、誰もがその井戸から水を飲み、みんなおかしくなったわ。王様とその家族以外はね。彼らには王族だけの井戸があり、魔法使いの毒薬は撒かれていな かったから。そこで心配した王様は安全を図り、公共の福祉を守るためにいくつかの勅令を発布したの。でも、警察官も、警部も、すでに毒の入った水を飲んで いたから、王様の決定を愚かだと思って、従わないことにしたの。

王国の臣民がその勅令を耳にした時も、みんな、王様がおかしくなって、バカげた命令を下しているんだって確信したの。彼らは城まで大挙して押し寄せ、その勅令の破棄を求めたわ。

絶望した王様は、王位から退く心づもりでいたけど、女王が彼を引き止めて言ったの。『さあ、みんなと同じ共同井戸の水を飲むのよ。そうすれば、みんなと同じようになるはずだから』。

そして彼らはそうしたの。王様と女王様は狂気の水を飲み、すぐに不条理なことを口走り始めた。彼らの臣民は、すぐに悔い改め、王様がすごい知恵を見せている今、このまま国を統治させようではないか、と思ったの。

その国は、近隣諸国よりもおかしな行動を取っていたけど、それから平和な日々を送り続けた。そしてその王様はその最後まで国を支配することができたとさ」

パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より

*   *   *

・・・井戸の水を飲んだ人たちは、自分たちが正気だと信じている。しかしながら、その「正気」の根拠は、「他の皆も同じように行動している」、ということ以外には存在しないのだ。

「井戸の水を飲んだ人」が作る(資本主義)社会では、まだ水を飲んでいない「精神患者」を隔離し、井戸の水を飲ませ、社会に復帰させることが「治療」とされ、そのために膨大な社会費用が支出されている。

・・・私はどうしてもこう考えずにはいられない。「治療すべき対症は個人ではなく社会そのものであるということはないのだろうか」、と。・・・そしてもちろん、私のこの発想は、明らかに統合失調症のそれと一致するのだ。

*   *   *

「自分の世界に住んでいる人はみんな狂っていることになるのよ。多重人格者、精神異常者、マニアのように。人と違うだけでね。

… まず、時間も空間もなく、あるのはその二つを合わせたものだと言っていたアインシュタインがいたでしょ?

それから、世界の反対側にあるのは大きな溝ではなく、大陸だと固執したコロンブスがいるでしょ?

人がエベレストの山頂に到達できると信じていたエドムンド・ヒラリーがいるでしょ?

それに、それまでと全く違う音楽を創り、全く違う時代の人みたいな格好をしてたビートルズもいたでしょ?

そんな人たちと、他にも何千という人たちは、みんな自分の世界に住んでいたのよ」

パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より

*   *   *

私はむしろ、沖縄に「狂人」が少ないことの方が問題だと思っているのです。

アップルCM『クレイジーな人たちがいる』

【樋口耕太郎】

今月投開票された衆議院選挙において、沖縄選挙区で自民党が全敗した。知事選や衆院選での辺野古移設への反対派の勝利は、どのような沖縄県民の民意を代表しているのか、多くの人はその意味を量りかねているように見える。

沖縄選挙区の特徴であり問題点は、常に「基地撤去」か 「経済発展」かという二者択一に論点が矮小化してしまうことだろう。論点が常に単純化されてしまうのは、政治家が票を取るためであり民意とは無関係だ。かくして選挙のたびに、沖縄にはあたかもそれ以外の民意が存在しないかの様相となってしまうのだが、これは誤りだ。選択肢が二つしかないもののひとつを選んだからと言って、それが選択者の望みとは限らない。争点の支持・不支持は有権者の「表現のひとつ」 に過ぎず、往々にして民意は争点とは別のところにある。

一般に、「革新系」に票が投じられるのは、現県政に対する不満による。どれだけ「経済発展」を遂げても、一括交付金を獲得しても、基地返還跡地を開発しても、沖縄の社会問題は悪化する一方だ。一向に所得が上がらず、共同体は解体し、労働環境が悪化し、教育が劣化し、健康が悪化し、環境が破壊され、街並が美しさを失い、沖縄らしさが失われ、閉塞感は増し、県内格差は拡大し続けている。今回の選挙結果は、社会に対して漠然と違和感を持つサイレント・マジョリティが辺野古移設反対の流れに合流したことの結果ではないかと思う。

象徴的なのは、先の知事選で普天間飛行場を擁する宜野湾市の投票結果が翁長氏21,995票、仲井真氏19,066票であったこと。宜野湾市にとって普天間飛行場の「危険性除去」よりも重要なことが他に存在したということになる。大半の沖縄県民が基地返還を望んでいるのは当然だが、どのように返還を望むか、そして返還ということの優先順位はけっして一枚岩ではない。・・・争点が単純化されすぎることで見失われがちな民意を理解するためには、このような現象を冷静に見つめることが有効だ。

辺野古移転の推進派(前知事、自民党ら)の敗北の主な理由は、彼らが宜野湾市の、そして沖縄県民の民意を読み違えたことだろう。本当に社会を良くするための真っ当な政策を望んでいたサイレント・マジョリティ(民意)が、「危険性除去」という選挙スローガンに嫌気がさしたとも言えそうだ。

単純な二者択一の視点から離れ、保守革新の立場と政策を超え、普天間移設問題には何らかの発想の転換が必要だろう。「辺野古移設撤回」が実現しても「経済発展」を遂げても、それだけで県民は幸せにならないからだ。むしろ県民が幸せでないからこそ、基地反対運動が高まっているのではないか?

例えばよく選挙公約に上げられる、経済成長、安定した仕事、生活費の確保、待機児童ゼロなどの実現は不幸の解消には役立つが、県民を幸福にすることはない。「人の不幸を解消することと、人を幸福にすることは、 まったく別の要素である」。経営心理学の世界ではフレデリック・ハーズバーグが唱えた「二要因理論」という概念がそれで、人間の不幸を解消しても、それだけで人を幸福にすることはできないのだ。

不幸を解消することの最右翼が「お金」である。経済成長で貧困を脱して豊かになれば、不幸は解消するが、決してそれだけで社会は幸福にならない。政治や行政に関わる方々は、この心理学的社会学的事実をぜひ理解してもらいたいと思う。

県民の幸福とは、ひとりひとりの生きがいに関わる変化から生まれる。例えば月曜日が楽しみな仕事であり、柔軟な労働時間であり、家族とのより長い時間であり、家族が一緒に食べる健康的で安全な食事であり、人の役に立つ役割を持つことだ。

一見無関係のようだが、単なるスローガンでない県民の幸せを、具体的かつ徹底的に追及することが、沖縄の基地問題を含む、多くの問題を解消することに繋がるだろう。

*本稿は、沖縄タイムスデジタル版に掲載された。【2014.12.24 樋口耕太郎】

お元気ですか?
街にクリスマスキャロルが流れるころ、北風は寒くても心はウキウキしてきますね。
クリスマスはだれもが幸せを感じるシーズンです。
このクリスマス、実はキリスト教よりも古い起源をもっていることを
ご存じでしたか?
クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うものではありますが、もともとは
ローマで行われていた冬至の祝祭をキリスト教が取り入れたものだと
いわれているのです。冬至の日、昼が一番短くなりますがこの日を境に光は
また徐々に復活していきます。光の死と再生を祝うとても大事な
祝祭だったようです。クリスマスのころ、人々の希望がもう一度復活します。
贈り物をしあうのは、そのことをお互いに歓び、わかちあうため。
また、このころには、目には見えない世界からたくさんの妖精たちもやってくると
されています。
このクリスマスのシーズンにあなたの心にある希望にもう一度、
目を向けてみてはどうでしょう?

さて。
今年も残すところ10日ほどとなりました。
この一年本当にお疲れさまでした。
今年もいろいろと御苦労があり大変でしたね。
あなたは今どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
お疲れになっていませんか。
心配事はございませんか。
夜はよく眠れていますでしょうか。
ご病気などされていませんでしょうか。
楽しいことはありましたか。
困ったことなどありませんでしょうか。……

日々麗王に立ちながら、ふと手をとめて、こんなことばかりを思います。
あの人のお顔、この人のお顔…。
とても不安定な世の中の今、たくさんのお店の中から、麗王を選んで
いらしてくださることが、どんなにありがたいことかと考えると、
こんなふうにみなさまのことを思わずにはいられないのです。
この前いらしてくださった時、何かひとつでもお役に立つことはできただろうか。
行ってよかったと思っていただけただろうかと、一人一人のお声を聞きに
お伺いしたい気持ちで一杯です。
いつものように麗王に行ってはみたものの今日はつまらなくて損をしたと
がっかりされないよう、みなさまの大切なお金を無駄にしないよう、
隅々まで心を配り、そしてみなさまにどんなふうに楽しく時間を
お過ごしいただこうかと深く考えながら、大きく反省もしながら、
お一人お一人の肩にそっと手を当てるような気持ちでありたいと
麗王を続けさせていただいて今年で19年が過ぎました。

「継続は力なり」といいますが、継続するにはコツがあります。
そのコツのひとつがリセットなのです。
リセット無くして、継続無しといってもいいでしょう。
言うなれば、リセット上手であれば、コツコツとマイペースで
何事も続けられるということです。

さて、ではリセットとは何でしょう。
何かを頑張って続けていくと、必ずどこかで行き詰まります。
行き詰まるのは自然なことだから気にすることはないのですが、
それまで順調だったことが行き詰まることでそうではなくなるので
やめたくなってしまいます。もはやこれまでかと。もういい、さあ、次と。
でもその時こそリセットの出番なのです。

まずは一息つくこと。
そして、それまで使いこんだ気持ちとか考え方、想い、習慣など、
自分がこだわっていたいろいろを、元にあった場所に戻すような感じで、
これはここ、あれはここ、それはここというように片付けてみます。
片付けをしながら、なんだこれ?というようなもので、無くてもよさそうなものは
ポイと捨ててしまえばいいのです。

そうすると、行き詰まった時に散らかりまくっていた心の中が、だんだんと
整ってきます。
そうなのです。行き詰まるということは、心というひとつの部屋の中が
いろいろなもので散らかってしまうことなのです。
そしてリセットとは、自分の心と向き合い、ちょっと整理整頓して片付けること
なのです。
いらないものは捨てて、いつかまた使う大事なものは、次にまた使う時に
困らないように、あった場所に戻しておくというように。

その片付けですが、実際どうすればよいかとお思いでしょうか。
一番よいのは、ゆっくりじっくり何かをするのがよいのです。
たとえば、時間や手間のかかるお料理を作ってみるとか、
大工仕事をしてみるとか、絵を描いてみるとか、長い距離を歩くのもいい。
こんなふうにいろいろなことを忘れて、2時間くらい無心になることをすると、
自然と心の中の片付けがされるものです。
ゆっくり息を吸って、ゆっくり息を吐くことを思い出しながら。

片付いたら、何かをすぐに始めるのではなく、まずはリラックスして
休憩することです。
この休憩というのが大事。やめるのではなく休憩。
まわりがどんなに自分を追い抜いていこうと気にせず休憩。
あせらずあわてない。

休憩してぼんやりしていると、心の中に自然と浮かんでくることがあります。
想うもの、欲しいもの、したいこと、見たいこと、知りたいことなど。
それこそが行き詰まった先へ行くための、新しい地図であり手がかりです。
あとはそれを心に置いて、「さてと、また始めよう」とリスタートすればいい。

リセットとリスタートというのは、仕事や趣味でも大事なことだけど、
恋愛関係や人付き合いでも同じことなのです。

今回のこのテーマは、IT事業家で沖縄にも長く関わっておられる
尾関茂雄さんが先月40歳を迎えられた時にブログにとても素敵な文章を
綴っておられて、そのなかでも触れておられますが、
麗王にいらしてくださった時に、以前経営なさっていた六本木の「Birth」という
お店を、「Re Birth」としてもう一度オープンするんですよ、と
お話しなさっていたので、私はみなさんにこんなふうなことをお伝えしたいな~
というヒントをいただいたというわけなのです。

リセットするのにちょうどいいお正月休みです。どうぞのんびりなさってくださいね。
そしてまた新年から素敵なリスタートをきってください。
あなたがどうかこの上もなくお幸せでありますように。

みなさまのおかげで、こうしてまた一年間、麗王を続けることができました。
本当にありがとうございました。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

【2014.12.22 末金典子】

撮影:初沢亜利

はじめに

本稿では、2014年の衆議院選挙に関する細かな分析は完全に割愛した。選挙において私たちがどのような行動をとるかは、私たちが社会をどのように解釈するか次第だ。このため、本稿は沖縄社会の基本的な構造についてのモデルを提示する構成となっている。沖縄選挙区に関心のない読者には適さないようにも見えるが、「沖縄問題はそのまま日本問題の縮図であり、日本と沖縄は入れ子構造になっている」、という前提で捉える場合は一定の意味を持つだろう。本稿は、提示した社会モデルが正しいと主張するためのものではなく、仮にこの社会モデルによって沖縄が直面する問題の多くを説明できるのであれば、読者はどのような意見を持つだろうか、どのような行動をとるだろうか、と問いかけるためのものだ。


サイレント・マジョリティ

2014年の沖縄県知事選挙は翁長雄志氏の圧勝で幕を閉じた。現職仲井真弘多氏との実質的な一騎打ちは、翁長氏が優勢と予想されていたが、ふたを開ければ、投票終了時刻と同時と思えるほどのタイミングで翁長氏が当選確実とし、二期務めた現職仲井真知事に10万票以上の差で圧勝した。最大の争点となったのは、米軍普天間飛行場の返還・移設問題だ。仲井真氏は、普天間飛行場の「危険性除去」をアピールし、一方の翁長氏は「辺野古の埋め立て阻止」に焦点を当てて選挙を戦った

投開票日の夜遅く、自民党の議員から電話があった。「今回の選挙でともかくショックだったのは宜野湾市で負けたこと。普天間飛行場を地域住民に取り戻すために、ここまで努力してきたのに……」お膝元の宜野湾市民が翁長氏を支持したことで、自分たちの努力が否定されたように感じたのだろう。仲井真氏と自民党は「民意」を読み違えたのだろうか? そうだとするならば、宜野湾市の民意とは、ひいては沖縄の民意とは何だったのだろう?

辺野古以外の移設先は現時点において存在しないため、「辺野古移設反対」というカードの裏側には、「普天間飛行場の返還を(実質的に)行わない」、という判断が不可分に結びついている。翁長氏を支持した有権者の多くが辺野古移設に反対しているのは明らかだが、翁長氏はそれ以外にも、基地返還に対して冷静な層を多く取り込んだ可能性がある。辺野古移設反対の熱気に包まれた選挙だったが、実は、基地返還にクールなサイレント・マジョリティが、翁長氏躍進の原動力となっていたとしたらどうだろう。沖縄県民にとって、普天間飛行場の返還を行わないという判断は、苦渋の選択ではなく、なんらかの積極的な意思表示であるという可能性だ。そうだとすると、普天間飛行場の危険性除去を訴えて選挙を戦った自民党は、民意から外れた戦略によって敗北を喫したことになる。

撮影:初沢亜利

それを示唆する根拠の第一は、宜野湾市の投票結果だ。有権者7万1000人に対して、翁長氏2万2000票、仲井真氏1万9000票であり、今回の知事選挙で宜野湾市は普天間飛行場の返還を(実質的に)望まなかった*(注)と言わざるを得ない。宜野湾市が基地返還を望んでいないのであれば、沖縄県全体では推して知るべしではないか。

*(注)宜野湾市が普天間飛行場の返還に積極的でない理由として指摘される点は、基地が戻ってきたら多額の軍用地代が消失し、多数の地主が困るというもの。しかし、普天間飛行場の3000人の地主は宜野湾市の有権者数7.2万人の4%強に過ぎず、これだけで今回の選挙結果を説明することは難しい。

第二は、辺野古移設に伴う「埋め立て申請の承認撤回または取り消し」を確約した候補者が喜納昌吉氏だけだったという点だ。翁長氏は「承認撤回を求める県民の声を尊重し、辺野古新基地を造らせません」と述べるにとどめ、最後まで「撤回または取り消し」を公約にしなかった。その結果は、翁長氏の得票36万に対して喜納氏7800票沖縄の民意が辺野古移設断固反対、埋め立て絶対阻止であるならば、喜納氏の票が翁長氏の僅か2%という選挙結果は説明しにくいように思われる。

第三は、辺野古移設撤回のそもそもの可能性だ。2009年に政権を奪取した民主党鳩山由紀夫首相は「最低でも県外」と発言して、本人の地位どころか政権を揺るがせる遠因をつくってしまった。一国の首相が実現できなかったことを一県の知事ができるとは思いづらい。翁長氏が埋め立て申請の承認撤回を確約していないのは、その難しさを良く知っているからだ。有権者の中にもそう考えている者は多く、必ずしも辺野古撤回を目的としていなかった層が翁長票の中に相当数含まれていると考えるべきだろう。

撮影:初沢亜利

選挙後も多くの有識者、候補者、市民と会話を続けているが、私が会話した沖縄人たちの多くは、驚くほど基地問題に関してクールだ。「沖縄の問題は基地だけじゃない」、「中部の方々には気の毒だが、都市部で生まれ育った私の中に基地問題は存在しない」、「沖縄の社会問題は、経済発展によって減るどころか増加している」、「本土復帰以来、沖縄がどんどん沖縄ではなくなっていくような気がする」などなど……。彼らの言葉を聞きながら、私は、沖縄のサイレント・マジョリティとは、基本的な社会の方向性、つまり、沖縄が本土並みを目指して進んできた振興計画のあり方と、それが生み出した環境問題格差問題共同体の分裂など、今の社会の現状に疑問を持っている層ではないかと感じた。積極的な翁長票というよりも反仲井真・反自民票の流れが顕在化したのではないか。サイレント・マジョリティの望みは、辺野古反対でも、経済成長でも、一括交付金でもない、もっと素朴な沖縄社会を求めているのではないだろうか。その意味で、今回の知事選での勝利者は存在しないのかもしれない


社会は「豊かに」なったか?

これまでの沖縄の「発展」のあり方を、虚心坦懐に見直してみよう。沖縄県政が本土復帰以来追い求めてきた「本土並み」とは、補助金とコンクリートで日本の平均を目指すという意味だった。選挙では辺野古の埋め立てに伴う環境破壊が問題になったが、沖縄は復帰以来海岸線を容赦なく埋め立ててきた歴史を持つ。結果として現在の沖縄本島で、嘉手納以南に自然のビーチは事実上残されていない。

宜野湾市では1980年代の西海岸埋め立て事業で、もっとも経済価値のある海岸線をコンクリートの護岸で固め尽くしている。現在の街並は倉庫とラブホテルとパチンコ店とショッピングセンターが連なる様相だ。宜野湾市民が普天間返還後のイメージに重ねあわせたとしても不思議はない。

豊見城市豊崎糸満市西崎・潮崎与那原町東浜もおおよそ同時期の埋め立てだが、美しい海岸線を個性のない街で塗り替えてきた。浦添市では昨年1キロ近くもあるキャンプキンザーの美しい自然の西海岸をコンクリートで埋めてしまったが、その後どのような開発をするべきかの青写真はまだない。沖縄では土木工事に伴う高率の補助金(工事代金の最大95%)を獲得することが目的化し、埋め立てのための埋め立てが止まらない。良い街を造るということは、はじめから埋め立ての目的ではないのだ

せっかく返還された基地の再開発も同様だ。1987年に返還された200haを超える米軍牧港住宅地区の再開発によって誕生した那覇新都心おもろまちは、基地返還後の経済波及効果のモデルケースとして取り上げられることが多いが、その街並は減歩率が不足して道路面積が十分に確保できず、日中は渋滞で車では出ることも入ることもままならない。目抜き通り、沖縄県の顔とも言うべき県立博物館・美術館の正面に、パチンコ店と量販店と低価格のビジネスホテルが連なる街並を見て無念と感じる県民は少なくない。長年基地返還のために戦って、県民が手に入れようとしていたものはこんな街なのだろうか。

撮影:初沢亜利

今年から開発が始まっている北谷町キャンプ桑江返還跡地北側地区38haは、あっという間に雑然とした街並に変化した。今後南側68haの返還を控えているが、その変化を見届けるのが不安になる。会話をしていたある沖縄人の言葉が心に刺さった。「どれだけ基地が返還されても悲しい街ができるだけ、基地返還が怖い」と。

発展を遂げていると言われている沖縄の観光産業も、来訪客数と観光収入は増加しているが、観光客一人当たりの滞在日数と消費額の低下に歯止めがかからない。沖縄本島の魅力はどんどん褪せて観光事業者の利益率は低下を続ける。沖縄の観光産業は今やもっとも低所得で、もっとも臨時職員比率が高く、もっとも労働者の流動性が高い業種の代表格になってしまっている。従業員が幸せでなければ、思いやりで顧客に接することはできない。観光立県を支える観光産業の現場には夢がなく、疲弊している

成長著しいとされる「IT産業」も、その実体は大半がコールセンターなどのBPO(外出し事業)であり、人件費が安いという理由で沖縄が選ばれている業態の典型だ。本土大手企業が低価格の沖縄子会社に単純作業を投げ、東京本社では付加価値の高い業務を行う分担が出来上がっている。沖縄の従業員は、将来上がる見込みのない低賃金で働き続けるだけでなく、発展性のない単純作業をくり返すことが求められているため、十分な学習機会が得られず、やる気を失い、人材が育たず、マネージャーはいつまでたっても本土からの派遣で賄われる

沖縄は豊かになったか?答えは、あなたがどの階級に属するかによってまったく異なる。復帰以来40年を経過した沖縄振興計画は、土木事業を中心に経済の「量」的拡大を見事に達成したものの、「質」を置き去りにして環境を毀損し、美しい街を奪い、観光資源を消費し、拡大する一方の格差社会の中で県民の大半は低賃金に喘いでいる。沖縄振興のなにかが間違っていたのだろうか?


基地経済「5%」の謎

今後ますますアジア経済圏が成長する中で、 人件費の安さではなく、人材とイノベーションと産業の付加価値によって社会を支えなければならないのだが、沖縄はこの流れに逆行することで自らの付加価値を低下させている。それにも関わらず沖縄経済が日本の地方都市の中でも絶好調であるように見えるのは、基地関連の莫大な補助金が存在するからだ。

沖縄の基地経済を語る上で、沖縄の「基地関連収入」は県民総所得の「5%」程度まで縮小し、現在の沖縄経済はほとんど米軍基地に依存していないという議論が存在する。沖縄県庁、学識者、マスコミなどが一貫してこれを支持し、先の知事選では仲井真、翁長両氏がくり返し引用するなど、沖縄ではこの論旨がほとんど無批判に受け入れられている。

「沖縄は基地経済に依存していない」と主張できれば基地反対の声が強くなりやすいため、この数字は政治的に利用されてきた。しかしながら、この「基地関連収入」は沖縄経済の補助金依存度を計る指標としてはミスリーディングで、ほとんど事実ではないとすら言える。「5%」の根拠となる「基地関連収入」は一般に、 (1)軍用地料 (2)軍雇用者所得 (3)軍人・軍属消費支出(米軍などへの財・サービス) の合計額と定義されているが、沖縄に米軍基地が集中していることの「見返り」として提供されてきた有形無形の補助金、税制優遇、観光プロモーションなどの一切はこの中にカウントされていない

顕著な例では、辺野古移設への事実上のバーターとして沖縄に提供される一括交付金など、年間3000億円を超える沖縄関連予算あくまで沖縄「振興」予算であって、「基地」関連経済ではないという解釈だ。よって先の計算からはまるまる除外されている

沖縄自立経済の代表格とされる観光産業においても、那覇空港を発着する国内便の着陸料、空港施設利用料、燃料税が1997年から大幅に減額され、この年から沖縄への観光客数は急カーブを描くように上昇して15年間で倍増したこの税制優遇措置が観光客の増加に寄与したことは明らかだが、この効果も先の計算には入っていない

ビールや泡盛など、沖縄で生産・販売される酒類には酒税の減免措置があり、軽減分は復帰から2009年までの累計で約1060億円であるこの優遇措置によって支えられている酒造産業が地域に及ぼす経済効果、雇用で支えられる生活、教育、消費支出なども計算外だ。 その他、沖縄経済の隅々に浸透している補助金経済のほとんどは、この「5%」にカウントされていない。このように考えた場合の基地依存型経済の規模は 「5%」どころか、県民総所得の相当規模を占めると考えるべきだろう。正確な統計は存在しないが、私の感覚では少なく見積もっても県民総所得の25%、恐らくは50%前後が順当な水準ではないか。そうだとすると沖縄県庁が主張する「5%」の10倍である。

撮影:初沢亜利

県内格差の構造

大量の補助金がこれほど狭い地域に投下されているにも関わらず、沖縄では最低賃金で働く労働者数、非正規社員数、平均所得、平均家計収入、完全失業率いずれも全国最低水準である。いったいぜんたいこれだけの補助金はどこに消えているのだろう? 回答のひとつが県内格差である。沖縄の平均所得は日本で最低水準だが、年収1000万円以上の対人口比は全国第9位だ。沖縄は一般に言われているような単純な「貧乏県」ではなく、日本最大の「超・格差県」なのだ。沖縄と本土の格差はよく議論に上るが、沖縄問題の本質はこの県内格差にこそある。沖縄県内において、補助金の「川上」に位置する保守層が補助金経済の多くを享受する構造が存在する。県内格差を生み出し、維持しているメカニズムは沖縄の内部にあるのだ。

例えば先月、沖縄県内の有名泡盛メーカーが役員4名に4年間で20億円近くの報酬を支払い、沖縄国税事務所から申告漏れを指摘されていたという報道があった。 この泡盛メーカーは戦後間もなく創業した老舗で、従業員40人弱の中堅企業である。先にも述べたように、沖縄で製造・販売される泡盛は、沖縄振興特別措置法によって酒税が35%減免されているために安価で求めやすい。この減免措置によって沖縄の酒造メーカーは大いに潤っているのだが、内実はそれだけの補助金が激しい格差を生み出す原動力になってしまっている。沖縄全体の振興が目的であるはずの補助金や税制優遇措置が、一部の保守層に傾斜的に配分されている典型的な事例だ

酒税軽減の特別措置は過去8回延長されているが、その延長運動はオリオンビールと県酒造組合連合会で組織する県酒類製造業連絡協議会が中心となり、 日本政府に対しては沖縄県知事が交渉を行ってきた。酒税軽減措置は、本土復帰の激変緩和策および沖縄振興政策の一環ではあるものの、現実的には沖縄側が基地反対を唱えることで更新が続けられてきた面があることは否めない。例えば先に示した「基地依存度5%」という数字が県民の基地反対の声を高め、政府に対して酒税などの特別措置を継続する圧力となり、沖縄の保守層が既得権を維持することにつながる。「5%」が政治的に利用されてきたとはそういう意味だ

基地反対の精神はまったく正しいことだし、米軍基地が沖縄に集中している現状はどのような論理によっても正当化できるものではないが、一方で、沖縄で基地反対の声が強くなるほど、政府は躍起になって補助金を増額し、その多くが県内の保守層に集中して、格差がさらに拡大し、経済的にも精神的にも真の自立から遠のき、基地経済への依存をさらに深めるという皮肉な連鎖が続いている。

そう考えると、「5%」という数字は、沖縄の自立の象徴というよりもむしろ、本土への経済的依存を促すマジックワードとして機能している。同様に、辺野古移設問題のように基地反対の声が高まるほど、補助金が増額され、結果として保守層が富み、格差が拡大するが、これは基地の固定化を目指す日本政府の意図とも一致する。

撮影:初沢亜利

悪意なき独占

とても酷い言い方に聞こえると思うのだが、沖縄の保守層は(必ずしもそれを意図としなくても、結果的に)多額の補助金を不均等に分配する役割を果たすことで、沖縄内部に激しい格差を生み出す原動力になってしまっている。沖縄の労働者は全国でもっとも低い賃金で働いているが、彼らは保守層が経営する事業に安価な労働力を提供することで、結果として保守層の既得権を支えている。保守層の立場では、自分たちが富を蓄え、県内格差が拡大するほど安い労働力が手に入り、自分たちの経営がさらに安定するという皮肉な図式だ

——私は、沖縄の社会構造と米軍基地が復帰以来40年間を経過してもいまだに維持されている理由を正確に理解したいと望んでいるのであって、特定の誰かを批難したいわけではない。実際のところ、保守層が従業員や地域に資本を還元しようと思っても、独特の人間関係のバランスで成り立っている沖縄社会において、それほど事は単純ではないのだ。

例えば、先日私の友人の医師が開業することになった。経営に関して相談を受けたので、私は、何よりも従業員の働きやすさを優先するようにとアドバイスした。可能であれば正社員だけで運営し、業界水準以上の給与を支払い、労働時間や福利厚生を手厚くすることを勧め、彼らの声に注意深く、頻繁に耳を傾 け、従業員の自主性と成長を重んじることが、莫大な生産性を生み出すことを説明した。社会はこれから大きく変化する。今はきれいごとに聞こえるかもしれな いが、人を何よりも大切にする経営が遠からず報われるようになる。その方向に経営の舵を切るのは、重要な経営戦略である、と。

私のアドバイスに納得した友人医師が手厚い待遇で従業員を募集したところ、同業者から様々な妨害を受けた、と私に語ってくれた。沖縄では革新者に対してやんわりと、曖昧な言葉で、ときには無言で、目には見えない暴力的な圧力がかかることが珍しくない。「おまえのところだけ従業員に高い給料を払っていいカッコすれば周りが迷惑する。沖縄社会のバランスを乱すものは悪である」といった声だ。

恐らくこのようなことも理由のひとつだと思うのだが、沖縄は企業経営者の大半が2代目、3代目であり、成功した創業者が非常に少ない地域だ。それが悪平等であったとしても、競争の芽を潰し、新しいものの誕生を妨げる社会風土が根強く存在する。ひとりで事を起こすことは難しく、親しい間柄、特に血縁内の「承諾」なしで強行すれば、重要な人間関係を壊すことになる。緊密な血縁者から十分な協力が得られなければ、小さな沖縄のマーケットで事業は成り立たない

血縁社会沖縄では、自分の身内に忠誠を誓うのは重大なルールである。多くの人は仕事よりも、友人関係よりも、親戚同士の関係を優先し、本土で暮らしている沖縄人が沖縄に戻ってくる理由はたいてい家庭の事情だ。血縁を大事にしているということももちろんあるが、それ以上に、このルールを破れば沖縄社会で居場所を失ってしまう。沖縄には模合(もあい)という頼母子講が根強く存在するが、30年間毎月続いているような模合も珍しくない。親密さの現れということ以上に、続けなければやはり人間関係に重大な亀裂が入る可能性がある。沖縄人が常に身内を優先することで、外部から見れば筋が通らない振る舞いをしたとしても、他に仕様がないのだ。同様に、沖縄の保守層が自分たちの身内の利害を何よりも優先させることは当然の行動原理であり、逆に、そのように振る舞わなければ、彼ら自身も居場所をなくすことになる。

敢えて先の泡盛メーカーの経営者の立場を代弁するならば、仮に従業員に十分な報酬を与えると「あそこはやたら羽振りが良い」と噂になって、経営上さまざまな不都合が生じる可能性がある。 経営者のご都合のようにも見えるが、周囲とのバランスが崩れれば経営そのものが成り立たないというジレンマが存在する。かくして沖縄の賃金は全国最低水準で相場が形成される。ただでさえ事業収益の確保を最優先する経営者が、相場以上の給与を積極的に支払うインセンティブは生まれない。沖縄の企業で働く従業員の給与が一向に上がらないのは、事業的な理由も然ることながら、そもそも報酬を積極的に上げようと考えている、あるいは、上げることができると考えている経営者がほとんど存在しないことが原因だろう。

復帰以来40年以上沖縄県政が様々な政策を試みているにもかかわらず沖縄県民の所得がいつまでも上がらないのは、このような社会構造を見落としているか、あるいは看過しているためではないか。いずれにしても、誰かが積極的な悪意を持ってこのような構造を引き起こしている訳ではない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」というが、誰もが自分が守るべきもののために、目の前の利害を積み重ねた結果なのだ。

撮影:初沢亜利

現状維持の社会

沖縄の保守層は、補助金経済が継続し、県内格差の勝ち組として独占的な地位を獲得している現状に痛痒を感じないため、現状維持を図ろうとするインセンティブがどうしても生じる。変化が少ないほど好都合で、新たな取り組みに消極的であり、外部からの参入を嫌う。企業内部でも英断派は出世しづらく、敵を作らない決断の少ない穏やかな人物が経営を引き継いでゆく。保守層にとっては現状を守ることが重要だから、おもろまちも、宜野湾西海岸も、北谷町桑江も、泡瀬干潟も、浦添西海岸も、過去のやり方で問題にならない。むしろ、異なる発想で開発を試みたり、より良いものを生み出そうと奔走したりすると、周囲から無言の圧力が加わって社会から浮き上がってしまうどれだけ基地が返還されても、いつも通りの雑然とした街になっていくのはこのような理由による。繰り返しになるが、沖縄の保守層も血縁組織の内部に生きている。一人が「このやり方はおかしい」と感じたとしても、緊密な人間関係の輪を乱すリスクをとって単独行動を起こすことは極めて難しい。

結果として、沖縄経済はイノベーションを生み出す力を失ってしまった。創業社長またはそれに匹敵する新規事業分野を開拓し、本土市場でも競争力を持ち、補助金に頼らず、オンリーワン企業として活躍していける沖縄企業はほとんど存在しない。生産性を生み出すことができなければ補助金に頼るほかはなく、創造的な仕事がなければ人材は育たず、大半の県民が低所得で生活し、生活の質が低下し、依存の構図が深まり、教育が劣化し、社会問題の数々が広がり、県内格差が深まる。

このような沖縄の社会問題が生み出された原因は、沖縄の政治が過去40年間にわたって、人材の「質」を高めるよりも、補助金による「量」的な経済成長を何よりも優先してきたからである。経済成長優先、補助金中心の沖縄振興計画は、保守層の基盤を安定させる一方で、基地の固定化を望む日本政府の意図に適っている。そのような明確な意図はないかもしれないのだが、保守層にとっての基地問題とは、解決を目的とするものではなく、社会の現状維持のための手段になってしまっている。

一方で、革新と呼ばれている人たちの基本的な世界観は、沖縄の社会問題のほとんどは本土との対立構造に起因するという認識に基づいているために、沖縄の内部に現状維持を望む強い動機が存在すると言う真実にたどり着かない。 対本土あるいは反基地に対する感情が高まるほど、日本政府からは「火消し」としての補助金増額がなされて基地依存の基本構造が強化されると同時に、本土 vs沖縄という分りやすい対立構造の中に本当の問題が隠されてしまうため、結果として保守層を利して現状維持に力を貸してしまっている。

真に革新するべきは、沖縄内部の格差であり、個人の創造性を殺してしまう社会圧力であり、人を育てきれない風土であり、有能な人材を活かすことができない組織のあり方である。

撮影:初沢亜利

動機の高さで選ぶリーダー

先の知事選では、サイレント・マジョリティが動いた。彼らが本当に突きつけたNOは、現状維持を目的としてきたこれまでのリーダーシップに対してだったのではないか

あと数年もすれば団塊の世代が70代に突入し、就労人口の減少と相まって日本の労働環境は劇的に変化する。介護問題、年金問題、医療問題など大問題の数々があらゆる産業を直撃するとき、県内格差が進みすぎた沖縄でこれまでの社会構造を維持することは難しいだろう。そのときに何よりも必要とされるのが、新たなリーダー像である。

沖縄は社会全体のために奉仕するリーダーを輩出しにくい社会だ。社会の全体最適を優先すると自分の血縁組織からは「裏切り」に映るため、どうしても身内を優先せざるを得ない。その結果が今の沖縄の姿である。自分にとって大切な人のために働くことは容易なことである。可哀想だと思う人に優しくすること、自分を評価してくれる人のために尽くすこと、気心の知れた人に思いやりを示すことも別段難しいことではない。しかしながら、自分と利害が対立する人を助けること、自分の主義主張と異なる人のために働くことこそが、リーダーのリーダーたる所以なのだ

沖縄から基地がすべてなくなっても、それだけで私たちの社会は決して豊かにならない。補助金をどれだけ獲得しても、天に届くまで経済成長を成し遂げても、である。社会のために心を尽くす人材、高い動機に突き動かされて生きるリーダーをこの沖縄社会で発掘し、育てることができるかどうかに未来がかかっている。

撮影:初沢亜利

*本稿は、ポリタス に掲載された。 【2014.12.14 樋口耕太郎】