政治家が政策やビジョンを語るとき、いつも違和感を感じていたのだが、その理由を自分なりに考えてみた。私は、ビジョンには4つの要素が不可欠だと思う。

第一に、ビジョンとは社会全体に寄与するものであるべき。例えば、沖縄のビジョンとは、沖縄を良くするためのものではなく、沖縄がいかに日本と世界に役に立つか、という視点に立つべきであり、それがひいては沖縄をもっとも繁栄に導くことになる。

第二に、「量」はビジョンではない。ビジョンとは常に「質」の議論でなければならない。「観光客を1,000万人にする」というのはビジョンではない。「10年以内に月への有人飛行を実現する」ことはビジョンである。

第三に、「何を」するかはビジョンではない。「なぜ」それをするかがビジョンである。「基地返還」はビジョンではない。「基地跡地で我々が何に挑戦するか」がビジョンである。アポロ計画が人を感動させたのは、ロケットを飛ばしたからではない。もっとも困難なことに挑戦することの象徴だったからだ。

第四に、実現できないものはビジョンではない。ビジョンを実現するための具体的な方法と有効な戦略は、ビジョンの重要な一部である。なぜそれが実現できるか、合理的に説明できないものはビジョンではないということだ。

記憶にある限り、私が個人的に、ビジョンと呼ぶに相応しい政策を目にしたことがないと感じるのは以上の理由による。我々の社会を毎日少しずつ良いものにするために、「ビジョン」を語ろうではないか。

・・・その中でも、我々が特に改めなければならない考え方がある。「経済成長が問題を解決する」という大前提である。

経済成長はビジョンではない。仮に経済成長を目指すとして、それによって何を実現したいのか、がビジョンである。

そして、次に問うべきことは、「それは経済成長以外では実現不可能か?」ということだ。現実には、経済成長がなくても実現できるビジョンが非常に多いことに気がつくのではないだろうか。

ところで、沖縄県には、県がまとめた沖縄21世紀ビジョン、内閣府総合事務局の沖縄経済産業ビジョン、沖縄経済同友会の沖縄21世紀経済ビジョン、民主党の沖縄ビジョンなどなど・・・沖縄は「ビジョン」花盛りだ。

それぞれの文章を何度も読み返しているのだが、まったく日本語の意味が分からず苦労している。・・・「地域資源などの掘り起こしや磨き上げによって、それ らを地域の宝・財産として共有します。また、地域社会を構成する住民や多様な主体の連携により、共助・共創型のまちづくりを進めます」・・・「都市再生の観点から跡地利用を推進し、人と自然が調和する生活空間を回復します」・・・

これだけ曖昧かつ意味不明の日本語を並べておけば、沖縄の将来がどのようになっても、「ビジョンが実現した」といえるに違いない。結局これをまとめた人たちは、沖縄の将来を「信じて」などいないのだ。信念が存在しないから心に響かない。これが山ほどある沖縄ビジョンの最大の欠点だと思う。

【樋口耕太郎】

猛暑の夏も少し落ち着き、お盆も過ぎて、
今月は重陽のお節句や十五夜のお月見、敬老の日・秋分の日の連休と
もう秋の訪れですね。
あなたは夏のお疲れなど出てきてはいませんでしょうか。

私はといいますと、先月の旧盆の時にお誕生日を迎え、あたたかなお誕生日会を
開いていただき、思い切って4連休の夏休みも取らせていただきました!
4日間もお休みがあると、心身ともにほっと落ち着いて、
日頃の疲れが日を追うごとにゆっくりゆっくりと出てきます。
いつもなら短い睡眠時間でもぱっと目が覚めるのに、4日間もお休みして
のんびりしているにもかかわらず、どこまでも毎日たっぷり眠れてしまうのですから
もうびっくり! 知らず知らずのうちに疲れって溜まっているものなのですね。
で、その4日間一体何をしていたのかといえば、いつものお休みの時と
なんら変わらず、たっぷり眠って、ランニングして、お風呂にゆったり入って、
手の込んだディナーを作って食べて、後はもう、観たかったDVDと
読みたかった本を心ゆくまで…の繰り返しでした。

でもそうしてのんびり過ごしていると「ぼうっと」する時がしばしばあるのです。
人間って誰しも「ぼうっと」する時がありますよね。
たとえば、会議やセミナーなどの席で話がわかりにくい時や、好きな人ができた時、
何かしら衝撃的なことが起こった時、ついつい飲みすぎてしまった翌日などには、
ぼうっとしている人が多いのではないでしょうか。
私など子供の時からいつも空想の世界に入っておりましたので、
頭の中は動いていたとは思うのですが、傍から見るとぼうっとした子供に
みえたかもしれません。

人間は一日の三分の一の時間は空想にふけっているそうですが、
ぼうっとした外見で判断してはいけないそうですよ。
心理学の研究から、脳はそのような時に休んでいるのではなく、
活発に動いていることがわかっているそうです。
私もよくランニングで海べりを走っている時やお風呂に入っている時などに
とてもいいアイディアが浮かんできたり、何かを思い出したりします。
英語では、物思いにふけっていることを「デイ・ドリーミング」、つまり
昼間に夢を見ているといいますが、夢同様すぐに書きとめておかないと
いつの間にかその時に思いついたことを忘れてしまうという事実も興味深いですね。

たとえ脳が一所懸命に回転していたとしても、傍から見てぼうっとした状態を
「心ここにあらず」とも申しますが、それでは心はどこにいるのでしょう。
脳や理性に対して心、気や魂が別に存在するのなら、ぼうっとした時に、
この心や気、そして魂は休息をとるのでしょうか。
もしかしたら、どこか素敵なところに出かけてしまうのかもしれませんね。
問題を引き起こすのも、希望を現実に変えるのも、共に同じ心の働きによるのだと
考えるとこれもまた興味深いことですね。

最近は心の病に苦しむ人の話題があとを絶ちません。
ぼうっとしたあとに「我に返る」、呆然としたあとに「気を取り戻す」などと
いいますが、心や気、魂という無形の存在にも、身体の一部分である脳と
同じように元気でいてもらわなければなりません。
あなたも秋の爽やかな青空を眺めながら、ぼうっと考える時間をつくり、
それが「良い時間の使い方ですよ~」と訴える心の声に耳を傾けるところから
ぜひ始めてみてくださいね。

私はそんなふうに夏休みの4日間をぼうっと過ごして、
ふと浮かび上がってきた言葉がありました。

「毎日ひとつ、心が躍ることをする。」

「私が82歳まで生きながらえた秘訣」とオノ・ヨーコさんが言われた言葉です。
自分自身、もしくは誰かの心が躍ることを三ヶ月間、毎日続ける。
すると、だんだん身体の調子がよくなってくるのがわかるそうです。
「そうやって、私は、82年かけて健康になったのだと思います。」と
おっしゃるのです。
あなたは心躍ることがありますか?
今ワクワク、ドキドキしていますか?

「生きながらえる」という言葉もオノ・ヨーコさんはよく使われます。
ここまで生きながらえたことが、素直に嬉しいと。
やりたい仕事がまだまだある。まだまだ知らないことがある。毎日毎日発見がある。
もっともっと生きたいと。

長生きしたい。幸せになりたい。カッコよくなりたい。健康でありたい。
それは人の根源的な願いであり、人として輝くことにほかなりません。
あなたは、その願望にきちんと向き合っているでしょうか?
あなたが輝くことが、周囲を、そして世界を変えていきます。
毎日ワクワク、ドキドキして一緒に生き続けましょう!

生きるって楽しいことですよ~。人生はいいものです。
まずそう信じること。そこからすべてが始まります。
あなたもどうぞいい人生を。心からそう願っています。

【2013.9.12 末金典子】

大学経営の最近のトレンドのひとつは、リベラルアーツ(Liberal Arts: 教養)教育への関心が高まっていることだろうか。就職率100%で有名になった秋田の国際教養大学など、教養教育をウリにしている大学の急成長が各種メディアで取り上げられていることがその一因だろう。入学者の大幅な定員割れが大問題になって久しい大学経営の現場にあって、学力の高い学生をヤスヤスと集め、入学定員をラクラク確保し、就職氷河期においても名だたる大手企業から引く手あまたという事例が、経営難に喘ぐ学長、理事長の関心を引くのだと思う。 多くの大学で、「国際教養」を冠した名称の学部・学科が新設・強化されているが、早稲田大学や上智大学が新設した国際教養学部、法政大学のグローバル教養学部などもこのスタイルで、典型的に100%英語教育、留学必修などのプログラムが導入されている。日本におけるこれらの動きは、学問や教育についての本質的な議論によるというよりも、大学経営の「成功事例」を起点にしているように見える。

アメリカ社会におけるリベラルアーツ大学は、学士限定、少人数で、全米に150校程度 存在し、個別の専門分野に偏ること無く、社会の全体最適のために学問を指向する。オバマ大統領の卒業校として話題になったオクシデンタル、スティーブ・ ジョブズが入学したリード・カレッジ、ヒラリー・クリントンやクリントン政権で国務長官を務めたマデレーン・オルブライトの出身校ウェルズリー大学など、 リベラルアーツ大学は社会に大きな影響を与える逸材を少なからず輩出している。リベラルアーツ大学の卒業者数は、全大学の僅か1〜2%でありながら、歴代大統領を12名も輩出しているし、最近10年間のノーベル賞受賞者53名のうち、実に12名がリベラルアーツ大学出身である。「教養教育」のパワーに目を見張らざるを得ない。

そもそも、教養教育とは何だろうか?私も教養教育には、専門教育以上に大いなる価値があると信じている一人だが、私の超解釈では、「世の中は見かけと違うから」ではないかと思う。物事が見かけ通りに機能するのであるならば、専門教育が全体最適を導くはずなのだが、現実の人生や社会の法則は、まったく正反対と言って良い。最悪に見える出来事が人生最高の転機になったり、合理的だと思った処置が想定外の要因によって非効率になってしまったり、ある目的のために 行った行動が、まったく異なる結果をもたらしたりすることは、誰もが、そして何度も経験していることだ。見かけと違う、真の法則を導くために、そして、実社会において直面する様々な問題を乗り越えるめには、物事に対する深い洞察が必要で、その洞察を得るためには、多様な知識や、深みのある解釈や、物事のつながりや、因果関係の広がりを理解しなければならない。変数を繋ぎ合わせ、視点を変え、思考を深め、行動を通じて、現実社会で応用しなければならないの だ。逆に考えると、ちょっと乱暴な言い方だが、「世の中は見かけと違う」というメッセージを発するものであれば、教養教育と言えなくもない。

教養教育は社会のエリートのために施されてきた歴史があり、教養とはエリートのものだという常識が強固に存在するのだが、私はそれはまったく根拠のないことだと思っている。先日も沖縄大学で教養教育の可能性を議論していた時に、ある先生が、沖縄大学の学力水準ではとても教養教育は不可能だと断言していたが、世の中が教養教育をどのように定義しようと、取り敢えず私には関係ない。

その意味で、私は私なりの「教養教育」を試みている。もう4年半くらい続けている「次世代金融講座」も、沖縄大学での講義も、あるいは事業再生の現場でも、私が基本的に行っていることは一つだけだ。「事実」と「その解釈」。皆が共有できる事実を挙げ、これを「常識」とはまったく異なる視点から解釈することは、「世の中は見かけと違う」ということを思考するプロセスだ。事実はひとつでも、解釈が異なれば問題解決のための合理的な道筋が異なる。人にとっての 合理性が変われば行動が変わり、後は皆が勝手に人生を変えて行く。これは、教養を学ぶということの一つの形だと思うのだ。

このアプローチの素晴らしさは、異なる解釈を提示するだけで後は相手の思考に委ね、人をコントロールする必要がないということだ。人の意見や行動を変えようとすることほど、無駄なエネルギーを要し非効率なことはない。人は「事実」を変えようとするが、「解釈」を変えた方がよほど効率と生産性が高い。だから 本当の意味で教養を学んだ「エリート」は、自分に向き合う習慣があり、生産性が高いのではないだろうか。

【樋口耕太郎】