一般に、私たちは「問題解決は難しい」と考えていると思います。でも、ほんとうにそうでしょうか? 実は、殆どすべてのケースにおいて、問題が解決する時は「簡単に」解決しています。確かに、社会には未解決の問題が山積みですが、解決した問題を振り返ってみると、解決までの苦労とは裏腹に、結局最後は簡単に問題解決がなされているということはないでしょうか。言葉を変えると、問題解決への長い道のりは、問題解決方法を見つけるまでの、試行錯誤のことを言い、問題解決自体は、ほんの僅か(簡単)なのだと思うのです。簡単な方法でしか問題解決することはできない、すなわち、問題解決自体は常に簡単である、という発想が成り立ちます。

これはちょっと禁煙に似ています。実は、苦労して、意思の力でタバコを止めた人は殆どいません。タバコをやめた時は、殆どの人が簡単に止めていますし、止められないときにのみ、禁煙が難しく、どこまでも意思の力が必要だと感じるのだと思います。禁煙に成功した人に話を聞くと、それまで、試した100回の禁煙は「難しくて」失敗したかも知れないけれど、成功した一回は、例外無く「簡単だった」と。禁煙は難しいものです。誰もが、100万回でも禁煙に失敗します。しかしながら、誰にとっても、例外無く、成功するのは(簡単な)たった一回の禁煙なのです。

同様に、殆どの経営者は、「経営は難しい」と口にしますが、少なくとも私の経験では、それはまったく事実ではありません。経営は極めて簡単なものですし、 再生しない組織など殆ど存在しません。経営を難しくしている経営者が存在するだけです。組織の中で、経営が難しいと言いふらしているのは、多くの場合経営者自身です。経営者が経営を激務だとか、難しいとか言いたがるのは、それによって自分の居場所が安定するからで、多くの従業員はその経営者の言葉を信じているという悲劇性(喜劇性?)があります。

そして、一般的な経営者が、経営における問題解決に成功しないのは、問題解決が難しいからではなく、そもそも、ほんとうの問題を知らない(特定していない)からでしょう。その証拠に、経営者に対して、「組織のもっとも重要な問題、これが解決すれば殆どの問題が解決するような、最大のカギは何か?」と聞いてみると、どんなに言葉を飾ろうと、その問いを突き詰めた先には、結局「分からない」という趣旨の回答が帰って来ます。それでも正直に「分からない」と答えるのはかなり誠実な方で、十中八九「経営はそんなに単純ではない」「あなたは、経営の本質を理解していない」「あなたは、経営がいかに激務かを知らな い」・・・といった答えを聞くことがになります。彼らは「いかに経営が難しいか」を説明しながら胸を張りますが、その発想こそが、「ほんとうの問題を特定することには関心がない」と告白しているようなものでしょう。そして、この世の中で、ほんとうの問題を知らずに、問題解決ができる経営者はいないのです。

現在選挙真っ最中ですが、どの政党にも共通しているのは、それぞれのマニフェストが100%実現したとして、豊かな理想社会がイメージできないという点で しょう。同様に、どの組織にも、経営計画・戦略が存在しますが、仮に、現在の経営方針が100%実現したとしても、残念ながら組織の明るい将来が開けるとは思えないものばかりです。それならば、そもそも、なぜそれが経営の目標なのでしょう?・・・問題解決を妨げている最大の問題は、私たちが問題を知らないということなのです。

すなわち、問題解決をする前に、そもそも論として、ほんとうの問題を特定するという根源的なプロセスが必要になるのですが、なぜ、これほど自明なことが、 殆どの組織でなされないかと言えば、組織の問題の大半の原因は、経営者自身によるものだからです。経営者は、自分以外のすべてを変えることで「問題解決」 を図ろうとする人種ですが、それは、ほんとうの問題(つまり経営者)の特定を避けるために、もっとも有効だという側面があります。以上の理由から、一般的な組織のなかで、ほんとうの問題解決をもっとも避けているのは、経営者であり、問題解決の試行錯誤のために大半の時間が費やされ、組織に無駄な仕事が増え、従業員は疲弊し、出口のない坂を下るような、二百三高地を戦うような現場が生まれているのです。そんな状態で、どれだけ問題解決を図っても、なるほ ど、「問題解決は難しい」といい続けて、経営者は任期を無事全うすることになります。テレビドラマ『坂の上の雲』で、日本海海戦を指揮して、当時世界最強水準のロシアのバルチック艦隊と戦い、奇跡の勝利を日本にもたらした、参謀秋山真之の台詞「無識の指揮者は殺人犯である」がリアリティを持ちます。

自分の「常識」から抜け出し、経営者が真剣に自分自身を変える決意をした瞬間、いかなる組織も短期間で再生します。禁煙と同じで、人が変わるということはとても難しいことですが、変わる時には、いつも簡単に成功するのです。ほんとうの問題は、誰にとっても辛い現実ですが、それから目を伏せると大きくなり、 向き合って直視すると溶けてなくなります。組織の再生でまずすべきことは、ほんとうの問題をまず見つめるということなのです。

【樋口耕太郎】

今年は特に暑さが厳しくて、猛暑の毎日が続いておりますが、
暑さに負けずにがんばってお仕事にお励みでしょうか。

さて、過日のことですが、麗王でもお馴染みの沖縄大学准教授・樋口先生と
お話しようと、沖縄大学に息子さんを通わせておられるお母さま達が麗王に
いらっしゃいました。
(お母さま達と言っても私よりもうんと若くお美しい方達ですが。)
お話をうかがってみると、樋口先生の授業を受けてから息子さん達が
イキイキとし始め、前向きな人生を送るようになり、
態度も激変してきたのが嬉しくて、いったいどんな授業を受けているのかしらと
興味が湧いたので、樋口先生の社会人向け「次世代金融講座」を
受講しておられるとのこと。旦那様も巻き込んで一緒に受けておられる方も
いらっしゃいます。

私も学生時代に教育学を少しばかり齧った人間なので、この方達のお話を
うかがいながら、改めて教育っていったいどういうことなのだろうと
考えました。
教育(education)という言葉の意味は、ラテン語のエド(ed)、つまり何々から
というのと、ドゥカール(ducar)、引き出すという二つの言葉からできています。
つまり、何々から引き出す、または内部にあるものを引き出すという意味です。
ということは、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
教育とは、その人がもうすでに知っていることを引き出す、
その人本来のものを引き出す、ということなのではないのでしょうか。
私達が輪廻転生を繰り返しているとすれば、私達はもうすでに何回も
学んできたはず。だから私達はそれぞれ、ものすごい知識と経験を
前世から得ているに違いありません。
きっと昔の人は、教育とは人々がすでに知っていることを見つけるのを
手伝うだけだと知っていたのではないでしょうか。
本当の私達はすべてのことをすでに知っているのかもしれません。
今改めて読んでいるプラトンの「国家論」の最終章にも出てきますが、
どうもプラトンやソクラテスもそう信じていたようなのです。

また、あるお母さまは、息子さんのことで悩んだ時期もあったけれど、
親御さんの介護をしておられる時にウツも経験され苦しまれたということでした。
女の子ばかりの姉妹の末っ子に生まれた彼女は、介護をしてあげているお母様から
「男の子を期待していたのに、あなたなんて産まなければよかった」というような
内容のひどい言葉を投げられたそうなのです。
私も父から言葉の暴力を受けた思いがあるので胸に応えました。
これまた、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
時には、血のつながった家族が本当の家族ではないことがあるように思うのです。
あなたの両親、兄弟姉妹、親類が、あなたを理解しないこともあります。
あなたに愛と思いやりを示さない場合もあるでしょう。
あなたを拒否し、残酷に扱うかもしれません。
あなたには非人間的に扱われても仕方ないような負い目はありません。
家族であろうと何であろうと、その人達の虐待的行動のターゲットに
なることによって借りを返すといったカルマ的な責任はあり得ません。
誰かを虐待し傷つけるのは、虐待する人の選択や自由意志による行為です。
虐待が当然だということは、絶対にありません。
でも、もっと成長すると、自分を本当に愛してくれる友人や知人に囲まれるように
なります。尊敬と敬意をもって愛され、大切にされることによって
得ることができる安心感を、彼らはあなたに与えてくれます。
こうした友人や知人は本当の家族となります。彼らはあなたと同じ霊的な価値観を
持っているかもしれず、あなた方はお互いに助け合いながら、良き方向へと
成長してゆくこともできます。
こうした人々は、あなたの魂の家族です。血のつながった家族から拒否されると、
魂の家族があなたを受け入れ、育て、そしてあなたにとってとても大切な家族と
なります。
血は水よりも濃いという、昔の格言があります。
これはつらい時に、たとえ友人知人があなたを見捨てても、血のつながった親類は
助けてくれるとあてにできる、という意味です。もし、本当に血は水よりも
濃いのであれば、魂は血よりも濃いのです。あなたのためにそこにいる魂の家族は
どんな時にも頼りにできるのです。

じゃあどうして実の親子は傷つけ合ったりするのでしょう?
実は、私達は両親を選んで生まれてくるそうです。
このお母さんの子供に生まれよう、この人をお父さんにしようと決め、
相手と約束して生まれてくるのだそうです。
「こんな家族の下に生れてきていやだった」と言う人が時々いますが、
これはとんでもないことで、私達はこの世界に生まれたくて、自分で親を選び、
彼らにお願いしてここへと生れて来ているのです。
もちろん親のほうにしても、お願いされるだけではなく、
「このような子供がほしい。ついてはこの人に子供として生れてきてもらおう」
と決めていたわけですから、お互いさまだとも言うことができます。
そんなこと信じられないと言う人もいるかもしれませんね。でも、最近の子供達が
このことをどんどん証明しています。
「僕はお母さんを選んで生れてきたんだ。とても優しそうな人だったから」
「お空にいたころ、どの人がいいかなぁと思ってお母さんになってくれる人を
探していたよ」
などとお話しする、小さな子供達がいっぱいいるのです。
(こういう事例の研究は社会学者・飯田史彦さんの一連の著書「生きがいの創造」
などに詳しく書かれています)
両親と子供の関係が悪いこともよくありますが、そんな親子でさえも、お互いに
選び、頼み合って親子となり、この世にやってきたのです。
子供は、自分に必要な試練を与えてくれることを期待して親を選ぶことも
あるからです。
反対に、子供のことで苦労して成長したいと願って、子供と約束してくる
お母さんやお父さんもいっぱいいます。
とくに今は、多くの人達が自分の本質や魂の世界に目覚めようとしている時代です。
親子関係から魂の目覚めと探求を始めようと、親と子供がお互いに必要な
学びのために約束し合って生まれてきています。
そう考えると、親子の関係がどうあれ、お互いに感謝し合うことが大切だと
思うことができるような気がしますよね。

人は誰でも、人とのつながりを求めているのです。つながりを確かめるために、
人はマイナスの行動にでも出てしまう生き物ですから。
生理的未成熟で生まれてくる私達人間という生き物は、
生まれてからしばらくの間、誰かの優しさをもらわないと生存できない存在
なのです。
だから、赤ちゃんは、存在をかけて必死で泣きます。
大人になった私達は、泣かないまでも、心で叫びます。
「誰か、私のこと、知っていますか!」と。
絆。つながり。
自分で生きていくことができる大人になった今でも、他者とのつながりは、
根源的に大切なものであることを本能の部分で知っているのです。

そんなこんなを週末の七夕の空を見上げながら考えました。
さぁ~、これからまたありがたくも麗王で知り合うことができたみなさんのお話を
じっくりうかがうのが楽しみになってきました!
次の連休は海の日。あなたの大切な人とぜひお出かけくださいね。

【2013.7.11 末金典子】

2013年7月4日 10:02

【浦添】松本哲治市長は3日までに、非常勤ポストの「政策アドバイザー」を新設し、沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科准教授(観光学専攻)で株式会社トリニティ社長の樋口耕太郎氏(48)を起用する方針を固めた。今月中にも委嘱する。

樋口氏は、松本市長同様、キャンプ・キンザー沖の西海岸埋め立て計画見直しに前向きな立場。国際金融や事業再生に携わってきた経験から、西海岸とキンザー跡地の一体的な利活用などについて助言する。

樋口氏は、1965年盛岡市生まれ。筑波大学比較文化学類卒。ニューヨーク大学経営学修士課程修了。米国野村証券、レーサムリサーチ(現レーサム)、グランドオーシャンホテルズ社長兼サンマリーナホテル社長を経て、2012年4月から沖大准教授。沖縄経済同友会常任幹事。

松本市長は、埋め立て済みの西海岸第1ステージで企業誘致を進める一方、第2ステージ(コースタルリゾート計画)や第3ステージ(物流拠点整備計画)については「ゼロベースで議論」する考え。

沖縄タイムスの取材に対し「樋口氏の助言をもとに、市民との議論を深めていきたい」と話している。