もう梅雨入り!?と思ったほどじとじととお天気が悪い日が続いている沖縄ですが
あなたは毎日心晴れやかにお過ごしでしたでしょうか。

今回の麗王便りはゴールデンウィーク前ですのでいつもより少~し長めに
お送りいたします。ゆっくりお読みになってみてくださいね。

麗王という店は「会話すること」以外何もない店ということもあってか、
お客さまはみなさんとても知性的且つ個性的。
いつも感じ入りつついろいろなお話をうかがっているのですが、
たまに新しくいらしたお客さまから
「麗王のお客さまって変わった方が多いですね~。」と言われることがあります。
実は私はそういう意見を聞くと嬉しくなってしまうのです。

子供から大人になる過程で、私達は、平均的であることをまわりに強要されて
育ってきます。「協調性」と「平等性」という名の個性切りが続くと、
私達は自分自身のユニークさを忘れていきます。
社会人になっても、平均点を重視するマニュアル型の会社で働くようになると、
いよいよ完全に自分の個性を忘れてしまいます。
でも思い出してほしいのです。
もともと人は、個性あふれる存在だということを。
他人の個性をまねるほど個性が不足している人は、一人もいないのです。
個性を表現していないから忘れているだけで、なくなってはいないのです。
個性を思い出すヒントは、たとえば、あなたが感じる「違和感」の中にあるのでは
ないでしょうか。
同じような違和感を何度も感じたとき、それは眠っていた個性が無意識に
反応している可能性が高いのです。

例えば、会社員の方ならこんな違和感をお感じになられた方は
いらっしゃいませんか?

ある方がお話してくださったことですが、
新入社員の時に毎年、問答無用でアップされる売り上げ目標を達成するために、
毎日夜遅くまで残業する先輩社員に向かって、
「なぜ、毎日皆さんこんなに遅くまで仕事をするんですか?
売り上げの拡大が社員を幸せにしないのであれば、ちょうどいい売り上げ規模で
皆が無理なく仕事ができる方法を会社はなぜ考えないのでしょうか?
一体いつまでアップし続け、売り続けたらたらいいのでしょうか?」
先輩社員は、「わかってないなあ」という顔で苦笑いをして、この質問には
答えてくれませんでしたが、その方はずっとこの青臭い疑問を持ち続けておられる
ということでした。

他にもこんな違和感はありませんか?

商品をモノとして売るだけの営業アプローチへの違和感。
売り上げ至上主義から派生する、お客さまを顧みない売り込み型営業手法への
違和感。
「戦略」「戦術」「戦力」「囲い込み」「攻略」といった、お客さまに向かって
使っている「戦争用語」への違和感。
価格を下げてお客さまに満足を提供するという手法への違和感。

こんな違和感を感じてしまう自分は、「きっと変わり者なのだろう」と思って
少し落ち込みながらも、違和感を捨てずに心に秘めながら
お仕事をなさっておられませんか?
社会に出れば、不条理な出来事は日常茶飯事ですから、いちいち正論を
主張していたら組織からはじき出されます。
普通は、折り合いをつけながら、「大人」になっていくのでしょうが、なかには
主張することも妥協することもしないで、会社の内外で、「どうすればいいのか?」
の答を探し続けておられる方もいるのではないでしょうか。

でも、こういう違和感を、新しいノウハウやメッセージを生みだす重要な要素に
替えた方もいらっしゃいます。
説得話法ではなく納得話法で話し、会社の大規模な業績向上に貢献したり、
戦争用語ではなく幸福用語を使って、満足の先の感動を生みだす手法を発明したり、
商品をモノではなくコトで表現できる感動セールストークを編み出すことが
できたり。
つまりは、違和感を無視せずに、どうすればいいのかを自分なりに
追求し続けたことが、その人自身の才能の開花へとつながり、
変わり者と思っていたその人自身のユニークさに、逆に自信を持つことが
できるようになっていったのだと思います。
またそれこそが個性ということなのではないでしょうか。

少しお話は変わりますが、アメリカの俳優養成スクール「アクターズスタジオ」の
セミナーに、ゴールデングローブ主演女優賞を受賞したシャロン・ストーンが
出演した時のこと。
セミナー後の質疑応答の時間に、俳優志望の女子学生が彼女に質問しました。
「私は、女というレッテルを張られるのが嫌で、女を前面に出すのを
避けてきました。対処の方法を教えてください。」
シャロン・ストーンは、この質問に誠実に、かつ情熱的に答えました。
「何をしようと、他人はあなたを型にはめて見ます。
女はあなたの一部であり、人格の一部。色気の有無など関係ないわ。
女に生まれたからこそ、今の歩き方や話し方、考え方になったのよ。
自分の根本を否定してしまったら、生きていく上で一番大切な心の炎を
失ってしまうわ。
あなたには、すばらしい面がたくさんあるはず。
他人の目を恐れて、開花のチャンスを逃さないで。」
そのアドバイスに対して、女子学生が笑顔でこう言いました。
「明日は、タイトなドレスを着てきます!」
笑いが広がった会場に向かって、シャロン・ストーンは静かに確信を持って
言いました。
「それが自分らしいと思うことができるならね。
身体の線が出るドレスは、私は気恥ずかしいの。
それよりも、ミニスカートが私らしい。
何であれ、自分のことを考えてね。」

女=タイトなドレスではなくて、あくまで自分らしく感じることを第一義とする。
心の炎はそうして燃え続けるのだということを伝えるすばらしいスピーチだと
思いました。
自分の中に眠るすばらしい個性を開花させるには、
ステレオタイプで自分という存在を規定するのではなく、
自分らしさを常に感じることが大切なのですね。

さて、以前麗王にいらしてくださっていた女性が沖縄から東京に転勤することに
なり、2年ほど経った後、次のようなお手紙をいただきました。

典子さん お元気ですか?
折々の麗王便りを本当にありがとうございます。

東京に引っ越した時、私は東京の生活や仕事や人間関係になじめず、
またそんな自分に耐えられず、どんどん自分を追い詰めてしまいました。
自分がつまらない人間で、生きている価値がまったくないと信じ込んでいました。
何もできなくて、息をすることすら苦しかった。こんな姿を誰にも見せられない。
だから沖縄の友達とは誰とも連絡を取りませんでした。

だけどある日、もう頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もわからないうちに
典子さんに電話をかけていました。何を話したのかあまり覚えていないけれど、
とにかく東京での暮らしが辛いんだと泣きながらに言ったように思います。
そう言いながら、内心は、久し振りに電話なのに楽しく晴れやかな話もできない
自分が嫌でたまりませんでした。

私は自分が自分にしているように、典子さんも私のことを否定するのだと
思っていました。それまで頭の中で繰り返し聞いた言葉のように、典子さんも
「あなたは駄目な人間だ」と言うのだと思っていました。ところが典子さんは
私のことを否定しなかった。否定しないどころか、典子さんはそのままの私を
受け入れてくれました。私のことを差別したり、裁いたりせず、私は私のままで
いいんだと言いました。

それを聞いて驚きました。そのままの自分でいいなんて、考えたことも
なかったからです。その時に、自分を壊してしまおうとする力と、自分を必死で
守ろうとする力の間にあった壁が、パリンと割れてなくなってしまいました。
少し大げさな表現だけど、本当にパリンという音が聞こえたかのようでした。
それほど劇的に、自分の中のかたいものがその時に消えてしまったのです。

その日を境に、少しずついろんなことが変わってきました。
もう自分でない何かになろうと無理をする必要はなくなりました。
それができずに自分を責めることもなくなりました。私は私のままでいい。
そう思うと、毎日の生活が少しずつ楽しくなっていっています。

典子さん、麗王にいらっしゃるみなさんにもぜひそう言ってあげてください。
あなたはあなたのままでいい、って。

また沖縄に帰ったら麗王に寄りますね。その時にはうんと楽しく晴れやかな私で。
どうぞお元気で。

さぁ、ゴールデンウィークです。
たっぷりのお休みのなかで、ゆったりとあなた自身の個性を見つめ、感じてみて
くださいね。
そしてどうぞあなたらしい人生を歩まれますように。

【2013.4.25 末金典子】

友人から、「限られた沖縄という地域に複数の高等教育研究機関が混在する意義とはなんでしょう」というご質問を頂きましたので、私なりの回答を試みます。

*   *   *   *   *

私の個人的な考え方に過ぎませんが、そもそもいかなる高等教育機関であっても、それだけで存在意義が生じることはないと思います。私は、沖縄という地域に1つであろうと、10件あろうと、存在意義とは無関係だと思います。

この議論は、例えば、まずいそば屋が、地域に一件しかなければ、本質的な存在意義が向上するのかどうかということに似ていないでしょうか?どんなにまずかろうと、そばが食べられるという事実に意味を見いだす世界観を前提にすると、存在意義が生じることになります。

一方で、まずいそばを食べるくらいなら、別のものを食べた方が良い、という世界観に生きる場合、・・・すなわち、人生において質を重視する考え方と言えると思いますが・・・ 情熱のない、創造性のない、緊張感のない、高等教育機関に通わせるくらいなら、本土や海外に子女を送った方がましだ、と考えるでしょ う。

この議論は、地域格差などの社会問題とリンクして議論されることも少なくないと思います。「おらが村にも学校」という考え方ですが、私は正にこのような考え方が、現在の沖縄を悪くしていると感じます。たとえば、すべての村にも似たような病院、ホテル、野球場、公民館、ショッピングセンター・・・、という考え方でなされる都市開発は、まったく無個性な地域社会を生み出しています。

地域社会に特定の施設が無かったとしても、それがハンディどころか強みになることが珍しくありません。例えば、宮古島ややんばるなど、かつて貧しかった地域の出身者やその一族が、現在の沖縄社会で活躍し、重要な役割を担う人物を多く輩出しているなど、地域に教育機関が存在しなかったことが、却ってその地域 の出身者の心を鍛え、より広い世界に目を向け、ひいては社会に寄与する人材を輩出しているという事実があります。すなわち、教育機関が存在しない地域ほど 教育熱心だというパラドックスです。東京でも、活躍している人は、地方出身者が多いという印象です。

結局、「おらが村にも学校」という世界観は、教育問題ではなく、土木と補助金と雇用という本音を、表面的な教育議論にすり替えているだけなのではないでしょうか。

別の角度から表現すると、存在意義と数量を切り離すという考え方は、人生において、質を重視する生き方でもあります。私は、「数を追う」という価値観に支えられた社会(典型的には資本主義社会そのもですが)は持続性を持たないと考えています。唯一永遠の成長が可能な概念は質でしょう。その意味で、我々の社会を永遠に向上しようと考えるのであれば、質を選択する以外にないと思うのです。

さらに、逆の発想においては、たとえばある地域に「過剰」と思われるボリュームの高等教育機関が存在していたとしても、必ずしもその存在意義が薄れるとは限らないと思います。たとえば、欧米の大学都市などでは、まったく何もないほどの小さな村に、世界レベルの大学が存在する事例が珍しくないことを考えると、地域内の需要と高等教育機関の供給量は殆ど相関性がありません。むしろ、過疎地域に教育機関を誘致することで、学習環境を整え、教育の質を向上させる ことが可能です。日本でも、秋田の国際教養大学や、大分のAPUなどの事例があると思います。

地域的にも、例えば京都は人口あたりの大学数が、確か日本一だったと思いますが、地元の経済規模に対して「過剰」な高等教育機関を擁しながら、地元では「学生はん」と呼ばれて、外部から京都に学ぶ学生がとても大事にされていると聞きます。

要は、世界から人を惹き付ける魅力ある事業力の有無が、存在意義を生み出す唯一の源であり、オンリーワンの個性を発揮する魂がなければ、どのような大学であろうと無意味だと思います。

特に、既に拡散しているインターネット上の教育プログラムは、極めて優れたものが多く、価格もただ同然で、学習効果も高く、単に知識を提供するだけの教育は、完全に陳腐化すると思われます。まずは英語圏から始まっていますが、日本語圏にその影響が及ぶのも時間の問題でしょう。沖縄大学のことを振り返って、 イメージで表現すれば、我々は琉球大学や沖縄国際大学と競合しているのではなく、TEDと競争する時代が既にやってきているという認識を持つべきでしょう。「TEDには到底かなわないだろう」と考える前に、そのうえでいかに独自性を発揮するかという、まったく異なる次元のパラダイムが必要なのであり、これが、事業力の本質の一部であり、現在沖縄大学が(というより、日本の大学全般ですが)必要とする経営力だと思うのです。

この問題は、旧パラダイムでは到底不可能に感じられますが、パラダイムを転換することで、すなわち自分自身の世界に対する見方を変えることで、実は、容易に実現が可能なのです。

【樋口耕太郎】