本土は厳寒・大雪ということで、さすがの沖縄も寒い毎日が続いていますね。
あなたはお元気にしていらっしゃいますか?

1月も早や今日で終わり、2月に入ると日曜日はもう節分ですね。
立春が一年の始まりだった昔は、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、立春前夜に行われたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
それに、新年のエネルギーは一月ではなく二月の節分を越えたあたりに
動き始めるのだとか。つまり、節分を越えると、今年のエネルギーが非常に
はっきりしてきますので、今年の幸せに向かう目標や新しいトライは、
この頃にまっさらな気持ちで始めてみるのもいいかもしれません。

ところで、年の数だけお豆をいただくのは何歳まで続けるものなのでしょう?
健康に過ごすためと申しますが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」……。
25歳あたりでもう一区切りにして欲しいものですよね~。
小さい頃には弟と一緒に「鬼は外~、福は内~」と盛大に撒いていたのですが、
母はさぞかしお掃除するのが大変だったことと思います。
大人になったら、ついお掃除のことが頭に浮かんでしまい、かなり少なめに
部屋の片隅にちょろりっと撒くようになりました。

さて、「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元は人に災いをもたらす
目に見えない隠れたものが「鬼」と呼ばれていたそうです。
おぬ(隠)鬼の姿は見えないはずなのに、いつしか見える存在としていろいろな話に
登場するようになりました。私がこの季節に毎回のように御紹介させていただく
濱田廣介さんの童話「泣いた赤鬼」もそうですし、桃太郎が犬・猿・雉を連れて、
鬼が島の鬼を懲らしめる話や、足柄山で熊と相撲を取っていた金太郎がのちに
源頼光の家来になり、酒呑童子という平安時代の京都付近で暴れまわったとされる
部下を大勢従えた強く巨大な鬼を退治するという話などもあります。

話を元に戻しますが、鬼とは、つまりは「おぬ(隠)」であり、人に災いをもたらす
目に見えない隠れたものだったのですね。
それはひいては「自分の心」とも言えなくはないでしょうか。
幸せも不幸せも、怖れや悩みや不安や喜びも、みんな自分の心が創り出すもの。
特に怖れなどのネガティブな気持ちは人を鬼にさせたりもするものです。

麗王にいらしてくださるみなさまは40代前後の方が多いのですが、
昔は「不惑」とされた40代、でも今は40代からでも望めば恋愛・結婚・出産の
可能性だってありますし、子育てが一段落して大学院を目指したり、
留学したりする人もいるように可能性がどんどん広がっている時代です。
でも現実的には、親の介護に直面したり、プレ更年期に突入したり、プチうつに
なったりと、様々な問題が発生しやすい時期でもあります。
思春期から初老期までの間に人が経験する多彩なことを、一人ひとりがそれぞれに
やっている、というのが今の40代前後の方々の現実ではないでしょうか。

自分とは違う生き方をしている人を見て、自分はこれでいいのかと
悩んでしまったり、揺れ動いたりするのは、他の人々が基準になっているから。
誰かのようになれない自分を、頑張っていない私は価値がないと
否定するのではなくて、「人は人、自分は自分」だと思うことが大切だと思います。
生き方が多様化している時代に、自分が何を選び、どう生きていくか、という
基準は自分の中だけにしかありません。

あなたの今は、過去からの努力の結果。よくやってきた自分を認め、ありのままの
自分を肯定することで、もっと生きやすく、幸せが見つけやすくなるかも
しれません。
自分の心に棲むおぬ(隠)を退治し、自分の今を肯定し、幸せの基準を自分の中に
おいてくださいね。

さぁ、日曜日は節分。
複雑な課題の多い今日この頃、厄払いはしっかりとしたいものです。
あなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
私も邪気を払うべく、豆を今までより少し多めに撒き、しっかりと年齢分
いただくことといたしましょう。
そして今年の恵方の南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを、今日を生きていることの幸せを、心から願って。

【2013.1.31 末金典子】

バブル最盛期の野村證券の営業で地獄のような3年間を過ごした後、27歳で初めて米国へ。日本では肩で風を切っていたが、島国での営業成績が何の自慢にもならない世界で、自分がいかに金融を知らないか、いかにビジネスに無知であるかを、嫌というほど思い知らされて愕然とした。

昼間の仕事がどれほど膨大にあろうと、私には、夜学に通って、一刻も早く金融知識を身につける以外の選択肢はなかった。ウォール街では学位はともかく、MBA同等以上の知識がなければ、そもそもスタートラインにすら立てない。

日本の親会社から派遣されても、現場で役に立たなければ、完全に「お客様」扱いだ。表面上は礼儀正しく接してくれはするものの、ビジネスでは完全に子供扱い。6時間続く契約交渉の席に呼ばれはするが、英語は理解できても、一言もその意味が分からない。

丁々発止、知的なボクシングを続けるプロたちの中で、6時間、ぽつんと自分だけが異空間に存在する惨めさは、当時の私には本当にこたえた。日本では「飛び抜けた」英語力も、当然ながら米国では当たり前。自分の過去がまったく評価されない場所では、前を向く以外に生き残る道はない。

お陰で、学ぶということが、当時の私には本当にリアルだった。なぜ学ぶのだろう、という迷いも曖昧さもないことは幸福なことだ。昨晩授業で学んだことが、翌日、ダイナミックな現場での理解をまた少し深める。このことの繰り返し。新しい知識の一つ一つが、宝石のように感じられた。

正直なところ、日本での学部生の頃は、おもしろいと思える授業に一度も出会ったことがなかった。あるいは、出会っていたとしても、自分がまったく気がつかなかったのかも知れない。学ぶということは、楽しみというよりも、自分に課した大事な課題のようなものだった。

それが一転、NYUでは学ぶということを純粋に楽しむことができた。私は、その時から、学ぶということの意味と目的が、学ぶことの内容以上に重要なのではないかと考えるようになっている。

そんな経験をしたのは、もう20年近く前の話だが、期せずして自分が沖縄大学で教える立場になり、この想いが蘇ってきた。

現在大学が直面している最大の問題の一つが、意味と目的を失っているということではないだろうか。高度経済成長期から現代までの学生は、学ぶということそのものに迷いがあっても、学位を取得すれば、ある程度将来が約束された。

誰にとっても、学ぶ理由は、学ぶことそのものも然ることながら、学位とキャリアがもたらす、実質的な結果によって明瞭だったのだ。

しかしながら、今や誰しもの目に明らかなように、そんな社会は既に存在しない。どれだけ良い大学の良い学位を取得しても、どれだけ資格を持っていても、それが生活や地位を殆ど保証しない。

確かに、この変化は重大なものだが、一方で、私たちにとって、近代において初めて、学ぶということの本当の意味に向き合う、最高の機会が到来していると思うのだ。

日本の高等教育の現場は、今まで、学ぶということの本質に向き合わずに来たのだが、その裏返しとして、今後先端を走る大学とは、偏差値の高さも然ることながら、学ぶことの意味を見いだし、形にし、伝えることのできる大学だろう。

それはすなわち、生きることの意味、考えることの意味、人と関わることの意味、事業ということの意味、経営ということの意味・・・人の役に立つということの意味、自分であるということの意味、地域を豊かにするということの意味・・・に向き合うということだろう。

立場がリーダーシップではない。規定が運営ではない。組織が人事ではない。取得した単位が学びではない。科目が専攻ではない。財務が経営ではない。私たちの未来には、新たな大学教育のパラダイムが必要とされている。

【樋口耕太郎】

いつもよりは暖かめのお正月でしたが、あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私はと言いますと、ごくごくオーソドックスに、大晦日は年越しそばをいただき、
紅白歌合戦を観て今やもうついていけない流行歌のお勉強をこなし、
おせち料理をゆっくり作り、お雑煮・お屠蘇とともにいただき、
初詣には普天間神宮までランニングで行ってお参りをし、
あとは読書とDVD三昧というお正月でした。

昨年末に印象的だったのは、街行く人々の顔が、
「クリスマスだ~!」「もうじきお正月だ~!」とウキウキとあまり浮かれて
いなかったことです。
夜の松山の街も人手がめっきり少なくなって、
沖縄もやはり本格的に不景気なのだなぁと感じました。
みなさんの懐具合の方はいかがでしょうか。
そこで年の初めに「生きたお金」について考えてみたいと思います。

お金のために生きるのはいやだなぁと思います。でも、お金は必要。
お金に支配される人生は避けたいけれども、お金で不自由して、
自分のやりたいことができないのは悲しいことです。

きっと、人それぞれに、生きたお金の使い方、お金の活かし方というのが
あるのだと思います。もっとも、どのように運用すると利回りがいいか、という
類のお話ではありません。人間の世界との関わり方のどこかに、「生きたお金」
という「てこの支点」があるように思えるのです。

たとえば、人にあげるプレゼント。高いものをあげるのがポイントなのではなくて
どれくらいその人のことを考え、工夫したかということが問題になります。
お金は、どんなものにも換えられるという通用性があるけれども、むしろ、
他のものでは代え難い何かになるからこそ、生きることもあるのです。
たとえば私が今までうまくいったなあ、と思うプレゼントとしては、
社会人になって初めていただいたお給料で、
「ひなびた三島の温泉に行ってみたい」とよく言っていた今は亡き祖父母に旅を
プレゼントしたことが、かけがえのないよいお金の使い方だったと思っています。
祖父母が亡くなる前にも「あの旅は本当に楽しかった。いい思い出になった。
ありがとう。」と言ってもらえてこちらまでうれしくなりました。

お墓までお金を持ってはいけないというのはその通りで、せっかく所有していても
自分の生きている時間の中でそれをうまく活かさないと意味がありません。
預金通帳の残高を見てにんまりしていても、それだけでは幸せにつながりません。

また、「資本」のあり方についても同じことが言えます。
「資本主義」というように、何とはなしに個人の生活とは関係ない
企業経済や資本家階級の人々に関わることと思いがちですが、実際には
私達の生活に「資本」は深くかかわっています。

自分の住むところや、受けた教育も一つの資本。ある程度まとまったお金があると、
それを資本にして、自分のために注意を振り向けられます。その時間を使って、
新しい仕事に挑戦したり、各地を旅行して見聞を広げたり、他人のために何かを
してあげたりすることができます。

「種の起源」を著して進化論を開いたチャールズ・ダーウィンは、生涯定職に
就きませんでした。親から受け継いだ財産で田舎に家を所有し、そこで自然を
観察したり、資料を整理したりして人類史に残る偉業をなしとげました。
これぞ見事な「資本主義」ではないでしょうか。

資本があるということは、つまり、未来の自分に対して、さまざまなことを
積み上げていくことができるということ。日々の生活に追われるだけではない、
心の余裕とヴィジョンの艶を持つことができるということが、資本の意味。
まさに、生きたお金の使い方だと思います。

ダーウィンのようには恵まれていなくても、小さなスケールで資本を自分や他人に
投入することはできます。「ささやかな資本主義」こそが、人生を豊かに
するのです。お金は、モノを買うためだけにあるのではありません。
人間に投資して、初めてそれは「生きたお金」になるのです。
今年からの資本主義はそうありたいものですね。

さぁ、新しい年です。
新しい自分も始まります。
これってあたりまえのようですが、本当に素晴らしいことですよね~。
去年どんなにいやなことや辛いことがあったとしても、
年が明けたら、またまっさらになって、新しい年、新しい自分が始まる。
人の知恵って、とっても素晴らしいなぁと改めて思います。

さて、次の月曜日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。
朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを打ち払おうとする習わしがありました。
一方、海を隔てた中国でも、この日に7種類の菜の煮物を食べれば、万病に
かからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体し、一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事なんです。
お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとしてはとっても
おすすめです!

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

【2013.1.4 末金典子】