先日NHKドラマ「坂の上の雲」の総集編が放送された。海軍大学校における秋山真之の就任挨拶の台詞が話題になっているようだ。

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「ここに、戦術の講究を開催するに先立ち、諸君に明らかにしておく。私から戦術を学ぼうと、思わんでください。学んだ戦術はしょせん借り物でありますから、 いざという時に応用が効かん。したがって、みなが個々に、自分の戦術を打ち立てることが肝心であります。

然るにまず、あらゆる戦術書を読み、万巻の戦史を読み解いてみる。どう戦えばよいか、原理原則は自ずと引き出されてこよう。

実に我々指揮官が、乗員全員の命を預かっておる。すなわち、我々が判断ひとつ間違えば、無益に多くの血が流れる。実戦ともなれば、身を切るような判断を次々と迫られる。苦闘の連続です。私自身、己の足らざるに時として戦慄します。無識の指揮官は殺人犯なり。

我々を信頼して死を顧みず、働く部下たちを決して犬死させてはならんのであります。もし自分がその場の指揮官だったらどうするのか。いかにすれば正しい判断が下せるようになるのか。その答えを求めて、皆と一緒に考えていくのが私の授業です。」

(NHKドラマ「坂の上の雲」より)

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リーダーとマネージャーは根本的に異なる概念なのだが、一般に、この違いはよく理解されていないように見える。マネジメントは甲板を掃除するにあたり、その作業が整然と、最小限のコストで、最大の効果を生むよう、ヒト・モノ・カネをコントロールする機能である。リーダーシップは、その船が沈みかかっているかどうかを認識し、もしそうであるならば、甲板にいる全員の作業を即刻止めさせ、船底で水を食い止める作業を始める機能である。

マネージャーの「正解」は、部分最適解であり、リーダーシップの世界観、すなわち、全体最適の概念に照らし合わせると、もっとも非効率な作業であるかも知れない。

問題は、マネージャーは、自分が「正しいこと」をしていると誠実に信じていることであり(実際、彼は「正しいこと」をしているのだ)、リーダーは、ときにマネージャーの「誠意」と反対の決断を行わなければならないという点だろう。現場からは「非常識」、場合によっては「裏切り」と捉えられるかもしれないし、リーダーの「誠実さ」に疑問符が呈されたり、中には「頭がおかしい」と解釈されることもある。

それでも、リーダーが舵を切るのは、乗員全員の命を守るためだ。リーダーシップの本質とは、大量の選択肢の中から、正しい一つの選択を見つけるための知性と洞察力であり、それを実現する智慧と行動力のことだ。それがどれほど魅力的に感じられても、ほんとうに正しい一つの選択肢以外に対して、NOというのがリーダーの最も重要な仕事のひとつだ。誰しもがいやがる、重いNOを言うためには、心の中に燃えるような信念がなければならない。

リーダーシップが存在しないマネジメント組織では、有能なマネージャーの存在が却って組織の崩壊を早めることがある。沈みゆくタイタニックの甲板を「効率よく」掃除するようなもので、現場には報われない仕事が大量生産される。

リーダーシップの欠如は、マネジメントで補うことができないため、現場は部分最適を求める作業で埋め尽くされ、経営者は、「正しい」ことをしているのに、なぜ思うように機能しないのかと、いぶかしがる。多くの場合その原因は現場にあると結論づけられるが、自分は「正しい」ことをしているのだから、ある意味論理的だ。

マネジメント経営が、少なくとも長期的に機能しないことは、構造的な必然なのだが、問題が生じる度に、「予想外の市場変化」「不幸なアクシデント」「現場の人材不足」「取引先との予期せぬトラブル」などと説明されるのは、ニュースヘッドラインのお決まりパターンと言って良い。

逆に考えれば、沈まない(と考えられている)船にリーダーシップは不要である。(恐らく、日露戦争以降の)政治家や役人に、リーダーが存在しないのは、むしろ当然のことであり、規制された環境の中で、長きに渡って右肩上がりの成長を遂げてきた日本の経済界も、一般的にはリーダーを必要としてこなかったと言えそうだ。

例えば、電力、航空、金融などの典型的な規制業種や財閥の系列企業はもちろん、一般的な上場企業にもリーダーは不在だった。日本で上場企業の破綻が日常的になったのは、ほんの最近(恐らく95年前後以降)のことである。かなり乱暴に表現すると、日本という国において、リーダーシップという機能は、高度成長期以降それほど必要とされてこなかったのかも知れない。経営者といえばマネージャーのことであり、リーダーシップという概念は含まれていない。

経営が安定しており、リーダーシップを必要としない組織が、官僚化、形式化することはことのならいであり、実際「経営判断」とは、統合的・戦略的な視点を持たない、対症療法の連続であり、真に戦略的な結果を生み出す要素が組織内部に存在しない。

それでも、経営的に余裕がある時代においては、組織に多少の窮屈さはありながら、盤石な経営が揺るぐ要素はなかったのだが、ここに来て、人口動態と市場の質的な変化が急激に生じ、利益が急速に失われている現実に対して、政治、行政、経営者らは対応すべき糸口を掴めずにいる。

我々が直面している、経済、政治、財政、医療、教育、農業など、ありとあらゆる社会問題は、見かけのような問題ではなく、本質的にリーダーシップの問題なのではないか?マネージャーたちがいくら「解決」しようとしても、社会が混乱する一方であるように見えるのは、私だけだろうか?

例えば、90年代の野村證券NY本社。私が働いていた不動産金融部門は、600億円の利益をたたき出し、一時期全世界の野村グループの半分の利益を、たった一部門で賄っていた。今振り返ると、それはリスクを取り過ぎていた結果なのだが、誰も舵を切ることはできなかった。利益があり過ぎたのだ。一時期は、日系企業でありながら、ウォール街の大手を制して、不動産証券化市場のトップを走っていたこの部門は、後に、1999年のロシア金融危機に伴う債券の暴落によって、1000億円前後の損失を出し、ほぼ一夜にして崩壊する。

マネージャーは、利益を生み出している部門から撤退できない。個人の利益と立場の維持を目的として働いているためだ。リーダーは、自分のやるべきことと、 個人的な利益をまったく別のこととして認識する。自分が泥を被ろうと、金銭的に損であろうと、評判が傷つこうと、それよりも重要なことがあるのだ。

日本ではガリバーと呼ばれ、先進的な人材を輩出し、業界のトップを走ってきた野村證券ですら、当時から既にリーダーシップは存在しなかったのだ。それから約10年。2008年のリーマンショックに端を発した国際金融危機で、野村證券NYは再び数千億単位の巨額損失を被る。デジャ・ヴュかとも思えるその記者会見において、当時の古賀社長は「絶対に予測不可能な市場の変化」による損失であると説明していたのが印象的だった。

念のために申し上げるが、私は今でも心から野村證券を愛するOBの一人である。逆に、あれほど市場の先端で勝負していた野村證券でさえリーダーシップ不在なのだと、考えるべきだと思っている。それほど、この国におけるリーダーシップの問題は深く、かつ、目に見えない。

「坂の上の雲」で描かれた、秋山真之が輝いて見えるのは、リーダーという存在が社会から消滅してしまっていることの裏返しのように感じられる。リーダーとは、自分の損得とはまったく異なる価値基準で生きる者たちの総称である。どれだけ自分が傷つこうと、どれだけ損な役回りであっても、信念にしたがって行動する。本当の意味でその人のためになることであれば、本人から嫌われることも厭わない。誰に評価されなくても、不可能に見えても、全く滑稽に見えても、大義のために自分のできることを毎日突き詰めて生きる。散々厳しい生き方を歩みながら、誰にも評価されず、人知れず社会から消えて行くことを、覚悟して生きる。そんな無名の人たちのことなのだ。

【樋口耕太郎】

随分ひんやりしてまいりましたね。先月まではまだ暑くて、窓を開けて眠っていて
泥棒に入られてしまった私も、防犯の意味だけではなく寒さのためもあって
今では窓をしっかり閉めて眠っております!

さて、その泥棒騒ぎの件では、みなさまからたくさんのお見舞いのお言葉や
麗王にわざわざいらしてくださっての励ましをいただき
本当にありがとうございました。
現金などは盗まれてしまいましたが、改めて自分にとっての財産とは何なのかを
考え、感じることができました。

この事件、私にとっては結構ショックな出来事でした。
「私が防犯を怠っていたからこうなったんだ」「普段の行いのいけないところが
こうしたことを招いたんだ」などと随分自分を責めたりもしました。
犯罪学でいうと、私のように泥棒に遭った人だけではなく、暴力を受けている人や
レイプに遭った人など犯罪に遭った人は一様に自分を責めるのだそうです。
それは「私にどうしてこんなにひどい事が起こったんだろう」というつらい心の
一つの落としどころとして「自分のせいで」と理由付けをするのだろうと
日本銀行の杉本支店長が教えてくださいました。なるほど。

一方、泥棒に入った犯人の方はというと、刑事さんのお話によると、
意外と罪の意識などはなく、一日に何軒も泥棒に入ったりして稼いでは
その日暮らしをしているのだとか。
こういう人は心理学でいう、つらいからという理由で簡単に仕事をやめてしまう
人達や麻薬や覚醒剤に溺れる人達に多い「快楽型人間」そのものです。
「快楽型人間」にとっては、努力は苦しみ以外の何ものでもなく、
努力のない人生こそが幸せな人生なのです。
でも人間は、努力なしではけっして幸せには生きられないのではないでしょうか?

こう考えていて、昔観た「トワイライト・ゾーン」のエピソードを思い出しました。
ドラマの主人公は、逃走中に殺された残酷な犯罪者です。彼は殺された直後、
ある天使に迎えられます。その天使は、彼のあらゆる願いを叶えるために、そこに
送られてきました。その男は、自分が天国にいることが信じられません。
犯罪者としての過去を忘れてはいないからです。でもすぐに、その幸運を受け入れ、
自分の願いを列挙しはじめます。
するとそれらは、すべて叶えられます。どんなに多くのお金を求めても、そんなに
ぜいたくな食べ物を求めても、すべて与えられます。美しい女性達を求めると、
彼女達が現れます。まさに、これ以上は望みえない生活に思われました。
ところが、彼はあるころから、何でも思い通りになるその生活に、喜びを
見いだせなくなります。努力不在の生活が、退屈でたまらなくなったのです。
そこで彼は、やりがいのある、挑戦的な仕事がほしいと天使に訴えます。
すると天使は、この場所では、ほしいものをなんでも与えられるが、ほしいものを
手に入れるために働く機会だけは例外だと答えます。
努力目標が何一つないまま、この犯罪者はイライラを募らせます。そしてやがて、
がまんが限界に達し、その場所を離れて「別の場所」に行きたいと訴えます。
つまり、この犯罪者は自分が天国にいるものと信じていて、そこがいやに
なったので地獄に行きたいと考えたのです。
ここでカメラが天使の顔を大映しにします。
天使の優美な顔が、いかにも邪悪そうな顔に変わります。そして、悪魔の不気味な
笑い声を上げながら、彼は言います。「ここが、その別の場所なのだよ。」

目標も、挑戦すべきことも、努力もない快楽主義的な人生は、私達をけっして
幸せにはしません。
私達は、谷間にいようと、頂上にいようと、くつろぐのではなく、より上を
目指すように作られているのだと思います。

人間は誰かに喜ばれるために生まれてきます。
そして喜ばれている自分を発見して成長する生き物です。
人間の成長は、もっと喜ばれる人になりたい、何をすれば喜ばれるだろうかと
考えることで生じます。
これからの時代は大変厳しくなることと思います。今までの常識も通用しません。
それでもどんな時代でも共通する生き方があります。
それは喜ばれている人間は常にどんな社会構造になっても必要とされるので、
喜ばれるために新しいことを考え、もっと何かができるだろうと考え行動すること
なのだと思います。
また誰かに喜ばれている人間の役割は、仕事の役割と同じです。
仕事の役割はお客さまに喜ばれることなのですから。
仕事の中にこそ実現する人生があり、だれかに喜ばれる自分をつくることこそ
人生なのです。
つまりは仕事をすることは自分の時間を誰かの喜びに変えることなのですね。
こう考えたら、先日の泥棒さんもなんだか気の毒な感じさえしてきました。

最後に、いやな事が起こった時、いつも私がいつも繰り返し唱える八木重吉さんの
「ゆるし」という詩を御紹介いたします。

神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまへにささげたい

与えられる物事の一つ一つを、ありがたく両手でいただき、
自分しか作ることのできない花束にして、笑顔で、神さまに捧げたいと
思っています。

さぁ、明後日の木曜日は今年のボジョレーヌーボーが解禁となる日です。
一生懸命働き、喜ばれているあなた御自身への御褒美に、今年の新しいワインを
プレゼントしてあげてくださいね。

(麗王では今年はJAL国際線ファーストクラスで唯一採用された
EUオーガニック認証ボジョレーヌーボーを御用意いたしております。
酸化防止剤は入っておりませんので安心してお召し上がりくださいね。)

【2012.11.13 末金典子】