誰しもが「自分の好きなことをせよ」、という。しかし、このシンプルなメッセージの意味するところは深い。例えば、自分の今までを振り返っ て、「好きだから」という理由で何かを選択したことがあっただろうかと考えて見るのだが、実は一つもなかったということに気がついて、驚いている。

確かに、自分は、100%自分のしたいことを選んで来たと思う。そして、選んだことの殆どを、心から愛したと思う。しかし、好きだから、という理由で選択したことは、一度もないのだ。

大学の進路を選んだときも、その他の殆どの学生と同様、実は中身などよく解らなかったし、卒業後の就職先に野村證券を選んだ理由も、当時日本でもっとも厳しい会社だとされていたからだ。それでも想像を超える厳しい仕事の詳細を事前に知っていたら、間違いなく選んでいなかっただろう。

ウォール街に勤務することになったときも、「不動産金融」という分野に、特段の関心はなかった。今でこそ花形という見方も可能だが、当時、投資銀行の社員が不動産ファイナンスなど、亜流のビジネスを担当している、と悩んだものだ。

12年間お世話になった野村を離れて移籍したレーサムも、私が共同経営を担当した4年間は、日本の不動産流動化ビジネスの先端を走った時期があったが、参画する前は、中古マンションのセールス会社の域を出ず、随分垢抜けない会社に加わったなという気分を味わったりもした。

自己資金で取得したサンマリーナホテルも、別にホテルを所有することや運営することが好きだったわけではない。むしろ、ホテルに強いエゴやこだわりがあり、ホテル事業を好きな人が投資したら、きっと失敗するだろうと思っていた。

多くの人が、「大好き」という理由で訪れる沖縄も、私の場合、好きだという理由で住むようになったわけではない。取得したサンマリーナホテルが偶然沖縄にあったということがきっかけだ。

事業再生専業会社、トリニティ株式会社を起業するまで、会社の経営をしたいと思ったことは、一度たりともなかったし、多くの青年のように、社長になることが夢だったこともない。

有機野菜の流通業、ダイハチマルシェの再生を手がけた理由も、決してその分野を目指していたからではなかった。

4月からお世話になっている沖縄大学も、過去にその職を望んでいたわけではなく、有り難いご縁を頂いたにすぎない。

しかしながら、断言できるのだが、私はそれまで関わってきた全ての会社や、組織や、チームや、仕事を心から愛して来たし、その瞬間ごと、それぞれの仕事に関わったことの幸せを、とても強く噛み締めた来た。

結果として、全ての瞬間を全力で過ごす自分や、自分の役割を深く愛していた自分が、心から好きだったのだと思う。

私の経験から思うのは、別に仕事(自体)を好きになる必要はないと思う。それどころか、好きなことを選ぶと言うことの意味は、嫌いになれば辞めてしまうということだ。そんな一貫性のないことで人に信頼されるとは考えにくい。

どんな仕事であっても、どんな地域に住んでいても、瞬間瞬間の自分が好きでいられるような、そんな選び方をするべきではないかと思うのだ。

【樋口耕太郎】

Smoking Kid (Thai Health Promotion Foundation)|このCMで、子供は自分を映し出す鏡になっている。自分の姿を見て、はっとさせられる瞬間。若者たちがメモを読んだ後に、顔色が変わる姿が印象的だ。

このCMは、単に禁煙キャンペーンとして意味があるだけではない。我々の人生において、最も重要なことの一つが、「鏡を見る」ということ、「自分に向き合う」ということだからだ。

我々の社会では、ものごとに妥協して生きることが当たり前になっている。相手を責めなければ、自分も責められることがないだろうから、人間関係は曖昧なほど心地よい。

自分も含め、付き合う相手がグレーであっても、周りがグレーなら、みんな白でいられる。みんないい人、自分もいい人。「甘さ」は「優しさ」にすり替えられるし、「逃げ」も「自分探し」、「やりたくない」ことも「検討中」ということで丸く収まる。

努力をしたくなくても、いい人でいさえすれば、やんわりと善意を装っていれば、社会が何となく助けてくれる。加害者にならなければ、被害者でいさえすれば、誰かが同情してくれる。すべてが曖昧。持続性はないが、刹那的だが、その瞬間、何となくバランスは取れている。

そんなグレーの中に、一点の白が生じると、社会は大いに衝撃を受け、大混乱を来すのだ。たった一点の白のせいで、自分たちが、社会全体が、急に薄汚れたも のに見えるからだ。その原因は、もともと自分が薄汚れているからに他ならないのだが、殆どの人は、その「白」が原因だと思う。

余りに理想論に聞こえるその姿は、社会の現実からかけ離れているため、始めは無視していれば良い。しかし、白は白であるだけで力を持つのだ。真実の力は弱まることがない。だんだんと無視できなくなると、社会は白を嘲笑しはじめる。それでも、力をつけてくると、本気で潰そうと挑んでくる。

グレーの群れは、白を見て、心から怒りを感じて激高する。自分たちの社会の破壊者に見えるからだ。そして、それは、ある意味正しいのだ。しかし、グレーの人たちが目にし、憎しみを抱くものは、白の姿ではなく、白い鏡に映った自分の(薄汚れた)姿そのものだ。

この曖昧な社会において、純粋であり続けるものは何でも、社会に対する強烈な鏡として機能する。先のCMで、子供にはっとさせられるのは、子供という純粋な鏡に映し出された、自分の薄汚れた姿を見せられるからだ。

相手が子供だから、社会的に、純粋だという認識が一般的な対象だから、はっとする。しかし、これが、大人だったらどうだろう。はっとするよりも、激しい怒りが先にくるのではないだろうか。逆切れして殴りつけることだってあるかもしれない。

我々がこの社会で純粋に生きるということの意味は、このような怒りを引き受けることを意味する。そして、純粋に生きるということの、それだけの怒りを引き受けるということの、最大の理由は、まさにその怒りを発しているその人の人を癒し、社会を、少しでも豊かにするためなのだ。

【樋口耕太郎】

まだ梅雨も明けきらない気候ですが、みなさんはお元気に楽しい日々を
お暮らしでしょうか。

日曜日は父の日ですね。
母の日に比べるとなんだか盛り上がりに欠ける父の日なので、
お父さんにしっかりありがとうを伝えてあげてくださいね。

先月の母の日の麗王便りでは、母から教えられた「成長すること」について
書かせていただいたのですが、
父の日は何を書こうかしら…去年は一体何を書いたんだっけ…と読み返してみると、
去年は父の「のんき」について書いていました。さぁて今年は…と考えつつ、
ここのところ読んでいる脳科学者の方のいろいろな本をぱらぱらめくっていると
ふと思いついたことがあったので、その茂木健一郎さんのエッセイを
少し御紹介いたします。

「心の美しさは、ずっと変わることができるということの中にある。
何歳になっても、新しいことに出会って感動することさえ忘れなければ、
未知のものとの出会いを大切にしその楽しみに向き合っていれば、
健やかな美しい心を保つことができる。
「変わらない美しさ」というよりはむしろ、
「ずっと変わることができる」ということが私達の人生を豊かにしてくれるのだ。

そして、その豊かさに満ちた人生を送るために必要なことは、

まずは「行動する」こと。
いつかはいいことがないかと夢見ていても、幸せは向こうからやってこない。

次に「気づく」こと。
恵みをもたらす未知のものと出会っても、その存在に気づかなければ、
意味がない。

最後に、「受け入れる」こと。
今までの人生観や価値観にこだわって、せっかくの出会いを受け入れなければ、
すべてが水の泡になってしまう。」

なるほど! と思うのですが、歳を重ねるにつれて難しくなってくるのが、
この最後の「受け入れる」ことではないでしょうか。
今までの自分のやり方でいいのだと固執していては、
確かに大切な変化のきっかけをつかみ損なってしまいがちですし、
心が歳を取ってしまいます。
心の美しさってつまりは、何歳になっても淀まずに変わることのできる柔軟さ、
ということなのでしょうね。

このようなことを考えていて、思い出したのです。
父にプレゼントでもらった本・博物学者ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」。
生涯にわたってさまざまな著作を世に送り出したワトソンですが、若き日々を書いた
この本は、独特の感性に満ちていて美しい名著です。

ワトソンは、インドネシアの島に調査にでかけます。ある時、船で夜の海に出ると、
暗闇の中、ワトソンが乗った船を、たくさんの光が包み込みました。
その光達は、まるで生きているかのようにふるえ、脈動し、響き合います。
それは、イカ達の巨大な群れでした。
イカ達が、発光しながら、まるで群れそのものがもう一つの巨大な生きもので
あるかのように、ワトソン達が乗った船を包み込んでいたのでした。
ワトソンはその体験を通して考えます。イカの眼球は、非常に精巧に出来ている。
世界のありさまを、詳細に映し出している。ところが、イカの神経系は、それほど
発達していない。なぜ、見たものをそれほどよく「理解」できないのに、目だけは
発達しているのか。
ワトソンは、一つの考え方に思い至るのです。
イカ達は、ひょっとしたら、もっと巨大な何ものかのために、周囲の様子を
見ているのではないか。個体を超え、ひょっとしたら種さえも超えた、
巨大な生態系、自然そのもののために。
個体間の、あるいは種を超えた生物間の複雑で豊かな相互作用が
明らかにされた現在、ワトソンの考え方は、荒唐無稽であるとは決して言えません。

人間には、はっと気づく瞬間というものがあって、その前後で、本当に世界が
変わって見えるものです。問題は、自分が出会ったものを受け入れられるかどうか。
ワトソンと同じ体験をしても、「ああ、イカか」と深く考えないで
通り過ぎてしまう人もいるかもしれません。自分の経験が潜在的に持つ意味を
「受け入れる」ことができたからこそ、ワトソンは変わることができたし、
その後のさまざまな仕事の礎とすることができたのではないでしょうか。

子供の頃、この本のようにクリスマスやお誕生日にプレゼントをもらうのが
すご~く楽しみでした。あの頃のわくわく感、まるで、そのことによって
自分の人生が変わってしまうのではないかと思うほどの喜び。
そんな飛び上がるような気持ちを、私達はいつまでも忘れないでいたいものですね。

人生なんてこうだ、こんなものだと、決めつけてしまってはもったいないでは
ありませんか。
いつも、心のどこかに、「贈りもの」のための場所を空けておく。
そして思わぬ出会いがあったら、ちゃんと立ち止まって、それを受け入れる。
そんな心の余裕がある人は、いつまでも若く美しい心なのだと改めて思いました。

父からもらったのは本でしたが、云わば、人生そのものが「未知の贈りもの」
だったのだなと今では思っています。

日曜日はどうぞ温かな感謝の日をお過ごしくださいね。

【2012.6.14 末金典子】