最近は教育について深く考えさせられています。例えば、昨日の新入生の演習(注:沖大は一年生からゼミがあります)。図書館の使い方の共通オリエンテーションを終えて、ミニテストをするのが学科の基本プログラムです。

オリエンテーションのときにとったメモは、ミニテストに持ち込んで参照して良い旨伝えてあるのですが、一人や二人はそのメモを忘れてくる生徒がいます。必然的に、ミニテストの20分間は、彼にとってとても非生産的で、少なからず惨めな時間を過ごすことになるわけです。

私も、学生の頃は宿題を忘れる常習犯でしたので、課題をしていない状態で、いつ先生から指名されるか怯えながら、クラスにぽつんと存在するときの惨めな気持ちが、いかに最悪なものかよく解ります。

昨日は思わず、今の私がメモを忘れた彼の立場だったら、どのような20分を過ごすだろうか?と考えざるを得ませんでした。どのような事情があろうと、メモ を忘れてしまった事実は変えられませんし、メモがなければ殆ど回答することはできず、このままでは人生の20分間をどぶに捨てることになります。

私が彼に(そしてクラスに)提案したのは、自分が理解する回答を終えた後の、「空虚な」時間の使い方です。どんな時間の使い方をしても、20分間はミニテ ストのために、そこに座っていなければならない。メモがなければ、点数も大してとれない。たとえ自分が招いたことであっても、ここまでは現実。

思考実験をしてみたらどうだろう、と。あなたの人生が、仮にあとその20分しかないとして、その20分では、かならずこのミニテストを受けなければならな いとして、あなたはどのような時間を過ごすだろう?人生最後の20分を、惨めに終えるのか、それ以外に時間の過ごし方はないのだろうか?

このような思考(問い)を経ることで、あなたの人生の貴重な20分間を、全く異なる意味において過ごすことはできないだろうか、と。

「私が、メモを忘れた君の立場だったら、この20分間で、自分が沖縄大学の図書館長だったら、生徒の立場で利用し易い施設にするために、どのような運営をするかを考えて、それを回答として記述するけどな」・・・

・・・「確かに、大半の回答は誤りになるかもしれない。点数はろくなもにはならないかもしれない。そして一方で、惨めな白紙の解答用紙を提出しても、結果としての点数は同じだろうと思う。」

・・・「両者の生徒にとって、20分ミニテストをしなければならないという人生の制約は同じ、点数も同じ(最悪だろう)、外見上は全く相違なく時間が流れて行く」

・・・「確かに外見上の現象は全く同じかもしれないが、対照的な20分の過ごし方をした二人の生徒が、全く異なる人生を歩むであろうことは断言できる。ど うせ20分この場所にいてミニテストをしなければならいという、制約は同じ、しかし全く同じ環境においても、全く異なる人生を選択できと思う。」

・・・「この20分には、そういう意味があると思う。多分、ミニテストで学ぶことよりも、このような思考実験を経て、自分の人生を選択することの方が、よほど重要な学びなのではないかな?人生、20分で学べることは、意外に多いものだよ。」

【樋口耕太郎】

沖縄大学のOBを中心に強い要望があった講座シリーズが、
加藤彰彦学長のリーダーシップで実現しました。

「社会教養セミナー」は新任教員とベテラン教員がペアを組んで、
各自の専門分野のテーマについて語ります。
今週木曜日(4月26日)は、五回シリーズの第一回目。
午後6時半から8時半の講義の後、懇親会が予定されています。

シリーズトップのスピーカーは私と、なんと新崎盛暉先生との組み合わせ。
新崎先生は、東京大学文学部を卒業後、反戦運動家として活動された
沖縄研究の第一人者です。

1995年の米軍人による少女レイプ事件に端を発した沖縄県民集会と、
大規模な反戦、反基地運動を「危険視」した日本政府は、
多様な手段を駆使して、大々的な「火消し」を行います。
その一環として、沖縄出身の学者たちが日本政府の意を汲んでまとめた、
基地肯定的なプロパガンダ「沖縄イニシアティブ」に対して、
沖縄タイムズ紙面で展開した新崎先生の反論が印象的でした。

沖縄大学で学長を務めた後、名誉教授として現在も各方面で御活躍中です。
是非御参加下さい。

参加無料、どなたでもご参加頂けます。
那覇市国場、沖縄大学本館1階の同窓会館にて。

【2012.4.24 樋口耕太郎】

ジョン・グレイ博士のベストセラー「男性は火星から、女性は金星からやって来た」のタイトルに象徴されるほど、男女には明らかな相違が存在する。いや、「明らかな相違」というのは、余りに控えめな表現かもしれない。生物としての種が完全に異なるかと思える相違が存在する、と考えるのがちょうどいいくらいだ。

私が随分以前から不思議に感じていることなのだが、男女間の驚くべき相違点の数々にも関わらず、一般的な経営の現場では、この相違がほぼ存在しないものとして運営されているのだ。それどころか、男女雇用機会均等法に象徴される、一般社会「常識」に基づくと、男女の生理や性質の相違に言及することや、男女の特筆が異なるという前提で数々の議論を行うことが、むしろタブー視されている。

「女性を活かす社会」というフレーズで喧伝された時期もあったが、これも所詮「(男性が)女性を活かす」という意味合いで使われていたに過ぎない。つまり、一つの(男性的な)価値観の枠組みを前提として、多様性を認める(フリをする)、ということだったろう。つまり、「男女差別をなくそう」、という価値観の裏返しには、「皆男性になろう」という世界観が存在したのではないか?それが言い過ぎだったとしても、「差別をなくそう」という議論は、「みんなに違いは存在しない」、「みんな同じになろう」、という議論に矮小化されているとは言えないだろうか?

さて、私はここでは、差別の議論ではなく、純粋に社会機能の議論として考えたい。・・・男女に(機能の)相違が存在するということは、目的ごとに、機能が劣る性と優れた性が存在するということを認めざるを得ないのだが、社会は(というよりも男性が)それを許さない。

男性、女性、それぞれ得意なところも、苦手なところも存在する。たとえば男性は、直感力に乏しいために(特に重要な)物事の判断が非効率で、我が侭かつ自己中心的で、人の話を聞くことよりも自分の話を聞かせることに関心が強く、一方で打たれ弱く、脆弱で、ひがみやすい。人の関心ごとに注意を払うことよりも、他人を(もっと言えば、自分以外のすべてを)自分の思う通りにコントロールすることを重要視するために、自分の思い通りに行かないことに対して、攻撃的になりがちだ。一般に、論理的な思考は、直感力に比べて著しく非効率である(と私は思うのだが)ため、論理的に物事を捉え続けなければ不安になる男性は、社会全体をどんどん非効率な方向に追いやっているように見える。

一方で、女性は直感力(すなわち判断力)に優れているにも拘らず、その機能を論理的な言語に翻訳する機能を持たないために、その判断の正しさを左脳優先の男性的な社会で(言語的に)証明することができない。「論理的に説明されないものは劣る」「目に見えないものを認めることは非合理である」と解釈する男性には、その直感力の正しさが理解できない。自分が理解できないものを認めることに対する恐れも存在する。

私は、世の中をこれほど悪くしているのは男性(的なもの)だと思うが、これは、男性が悪人だからというよりも、男性的なものの機能的必然だと思う。・・・あくまで社会をよりよくするという目的に対する、機能の優劣の問題なのだ。言葉を変えると、非直感的かつ非効率で、我が侭で、自己中心的で、ストレスに対して脆弱な男性という「機能」 が、社会運営を主導することの必然的な帰結だと思う。・・・これを男女の権力闘争議論にすり替えることから混乱が生じている。

それでは、社会を女性に受け渡せば、うまく行くのだろうか?・・・確かに現在よりはましな社会になるような気もする。例えば世界中の元首が女性になれば、戦争は随分減るのではないか? ・・・しかし、恐らくそれだけでも、相当不十分なのだ。

もし神が存在するのであれば、男女という異なる二つの性を地上に生み出した理由は、絶対に悪意ではなく、善意に基づくものだと思う。対立ではなく、調和を学ぶための、最高の仕掛けだとしたらどうだろう?一方だけが社会を主導すると、バランスを崩すように始めからできているのだ。私は、男性はアクセル、女性はハンドルの機能を分担するときに最高の結果が生まれると思っている。ハンドルから見たら、確かにアクセルは直線的で、攻撃的で、子供っぽい。しかし、その機能がなければ、どれほど正確な判断も無価値である。アクセルからハンドルを見れば、パワー不足で、感覚的過ぎて実効性に欠ける。しかし、ハンドルを信頼せずに動力だけで前に進めば、必ず事故を起こす。・・・これが丁度、今の資本主義社会の姿だ。

とても興味深いパラドックスは、アクセルはハンドルの、ハンドルはアクセルの機能を心底理解することはできないということだろう。両者は互いに信頼することができるだけなのだ。アクセルはなぜハンドルがハンドルなのかということを理解し得ない。ハンドルをハンドルとして認めることしかできないのだ。したがって、理解できなければ信頼できない、という人間関係は非生産的であるだけでなく、協調よりも分裂を生み出し、社会全体を大きく非効率にするということになる。

「理解」とは自分の世界観の内部の作業であることに対して、「信頼」は自分の「理解」を超えるところに存在する。・・・神が男女の相違を通じて、私たちに届けようとしている贈り物は、相手を「理解」するよりも「信頼」するプロセスを通じて、「理解」し得ないものに対して心を預けるということの経験と学びと価値なのではないだろうか?

*  *  *

ところで、一般的な男性にとって、最も難しいことが「ハンドルを手放す」ということだ。もともとエゴの強い男性性は、人を信頼して舵取りを委ねることが、自分の力を弱くするように感じられるからである。特に資本主義社会は男性的で、人をコントロールし、自分以外のすべてを変えることで生産性をあげた人物が、社会的な力を集め、「成功者」と認識される社会だ。その社会で「成功」を収めて来た男性ほど、男女協調的な社会バランスを受け入れることが困難になる。

私が見る限り男性は、少なくとも長期的に見て(精神的に)本当に弱い存在で、調子の良いときはどこまでも舞い上がる一方で、くじけ易く、一旦心が折れるとそのまま人生を棒に振る人も少なくない。誰よりも人間的な支えを必要とする割に、エゴが強く、人間力に乏しいため、人からの注目や関心や愛情を得るためにには、権威や地位やお金が必要になる。

クラブやスナックという業態は、男性のこの特性を商業化したもので、女性のための夜の店が殆ど存在しないことは、この傾向を明確に物語っていると思う。お金を仲立ちとした、このような業態が、社会にあまりに広範囲に存在するのは、男性が本質的に女性の助けを(大いに)必要としているということの証だろう。

男性はこれほどまでに、女性の支えを必要としており、それは、男性ということそのものなのだ。後は、男性にとって、どのように女性の助けを借りるかというだけの問題であり、女性の助けなしに(男性的な)社会が存続することはあり得ないと言える。

男性にとって、女性に力を借りる方法は、基本的に二つしかない。エゴを捨てずに商業的に手に入れるか、エゴを捨てて、人間関係と信頼関係の中でそれを築くか。・・・もっともクラブ的なもの全てが商業的だとは限りらないし(極めて稀だが)、広い意味で商業的でない結婚の方が少ないくらいだ。クラブやスナック(そして意外に多くの結婚)は、「エゴを捨てずに女性的な支えを得たい」という男性のニーズを(短期的に)満たす業態と言えそうで、逆に考えると男性の人生におけるエゴの費用(コスト)は極めて高いと言える。

男性が自分の弱さを自覚し、女性の助けを必要としていることを認め、お金や力によってではなく、人間力と誠意によって女性の強力を求めるようになれば、世の中の問題の半分は解消するに違いない。

一方で、男性のエゴの強さと、子供っぽさに辟易とする女性は、「経済的な見返りでもなければ相手などしていられな い」と思えるかも知れない。正直なところ、社会の結婚率が長期的に低下傾向にある大きな理由は、男性の収入が長期的な低下傾向にあるためで、この「関係」を裏付るようにも見える。女性が打算的だというのは、確かにそういう傾向があるかもしれないが、それには、それだけの理由があるということか。

しかしながら、男性が子供であるということと、それによって自分の打算を正当化することとは本来別のものであるはずだ。確かに男性は、救い難いほど子供かも知れないが、その子供に対して「請求書」を送りつけることは、決して自分の幸福には繋がらない。女性が男性の「子供性」を、むしろ愛おしく受け止め、男性は自分の弱さを認めて、女性の支えを得るために、誠実に人間性を磨く努力をする。・・・そんな男女の人間関係がどれだけの生産性を生み出すかは、驚愕に値する。社会一般には、男女関係はコストだと考えられている。しかし、実際は、著しい生産性を生み出す、最高最大の組み合わせなのだ。

社会において、人生において、人間関係において、何かがうまく行かないと思うときは、最も近い(男女の)関係に潜んでいる、大きな可能性に目を向けることが、なによりも有効であるような気がするのだ。

【樋口耕太郎】

関連記事: トリニティアップデイト「もうすぐゴールデンウィーク!」|女性は、幸せのプロ。

今年の沖縄はずっと梅雨かのようにじとじと続きですが、
あなたはお元気にしていらっしゃますか?

私はといいますと、この週末の土曜日から東京になんと25年ぶりに!!
行ってまいります。
東京に25年間も行ったことがない人なんて私くらいではないでしょうか!?
関西人ってなんかそういうところがありがちなんですが…。
身内の結婚式のついでに今の東京をいろいろ見てこようと思っておりますので
21日土曜日~23日月曜日の3日間、勝手ながら麗王はお休みさせていただきます。

結婚式といえば…ここのところの麗王は女性のお客さまの比率がかなり高く、
それも、結婚した~い!と望む独身女性がほとんど。そこでこんなお話を…

あるバツイチの男性が、二度目の結婚をなさいました。
一度目の結婚とは「180度違う生活」が始まって、女って本当はこういうもの
だったのかと驚いたそうなんです。
「どう違ったんですか?」とお聞きしましたら、ずばり「今すごく幸せ」と、
まるで女性のような表現から始まり、「人生ってこんなに楽しいものだったんだね」
っていうくらい楽しいんだよと、のろけるのです。
この時ハッと気づいたのは、男性が女性にプロポーズする時の古典的台詞の
「あなたを幸せにします」は、もともと無理があったんじゃないかということ。
なぜなら、「幸せ」のプロは、女性の方。
幸せを人生の目的にしてきたのはいつも、女性の方。
つまり、幸せになることにかけては、女性の方がはるかに達者なはずなのです。
だいたいが、「ボク、幸せになりたい」と口に出す男性は基本的にいないはずで、
大昔から「幸せ」は女性のものでした。
どこまでいっても「幸せ」は、女性達の、女性達による、女性達のためのもの
なのです。
なのに、男性が女性を「幸せにします」なんて、
ド素人の男性が「化粧で女をキレイにしてあげる」と言っているようなもの。
逆に言うと、私達女性もそういう男性達に「幸せにしてもらおう」と思うこと自体
間違っていたんじゃないでしょうか。
初心者の男性がいくら頑張って幸せを提案しても、
「そうじゃなくて、こうでしょ」と、だんだんイライラしてくるのがオチ。
男性に「幸せ」を託すなんて、もともと無謀すぎるのです。

さきほどの男性の再婚相手は、お休みのたびに「楽しいこと」を提案し、
毎週末イベントがあるような生活を提供してくれるのだとか。
日々のお食事も今までからしたら信じられないほど意味のある時間となり、
時間が会う日は平日の夜も落ち合って外食。二人でお料理を作りもする。
それに極めて軽いフットワークでアッという間に旅に出る。
それもありきたりの旅じゃなく、その独創性を人に自慢したくなるような
愉快な旅へ、たちまち出かける。そもそも旅というものは、行けば行くほど
クセになるから、旅と旅の間にすら、幸せを感じるようになったとも。
さらには、自分の趣味に夫を引き込むだけでなく、夫の趣味にも近づいてきて、
その本当の醍醐味を教えてくれるような新しい提案をしてくれる人でもあったそう
なのです。
基本的に、男性は自分の趣味から女性を引き離そうとするのですが、
彼女はお互いの趣味を上手に掛け合わせて、新しい「幸せ」をつくる方法を
知っていたのです。同じ趣味も一人でやるより、二人でやる方が何倍も
濃厚になること、二人でないと味わえない喜びにつなげることができるのを、
彼女に教わったというのです。
そこまでいくとひとつの「才能」で、「女性はみんな幸せ上手」というレベルを
超えています。ただ、その二度目の妻は、長い間恋人がおらず、基本的には
これまでずっと「一人」で幸せのテクニックを磨いてきたはずだというのです。
どうすれば幸せを感じられるのか、それをコツコツ形にしてきた女だと。
言いかえれば、もともと「男に幸せにしてもらおう」などという甘えはなく、
誰にも頼らずに、自分で自分に幸せを与えてきた人だからこそ、
人を幸せにするのも簡単だったのです。
女同士で楽しいことは、男と女で一緒にやってもちゃんと楽しい。
もっと楽しいかもしれない。やっぱり、「幸せになる方法」を真摯に追及してきた
女性の勝ちなのです。男に幸せにしてもらおうなどと思わずに。

女性からのプロポーズで有名なのは、故・夏目雅子さんのこのひと言でしょう。
「家に私みたいなのがいたら、きっと楽しいと思うんだけどな。」
もちろん誰が言うかによりますが、一般論としても、女性からのプロポーズで
いちばん成功率が高いのは、「私があなたを幸せにしてあげる」という
アプローチなのだそうです。女性から「私を養って」というスタンスに
なっちゃいけないのは当然のことですが、「幸せにしてあげる」と能動的に
女性から男性へ与える申し出こそが殺し文句になるのにはなるほど説得力が
あります。
良い例とは言えませんが、何人かの交際男性の死と関わりがあるということで、
長い長い裁判の結果、死刑判決が先日出た木嶋佳苗被告も、なぜああいう女性が
何人もの男性を手玉に取れたのか、ちょっと不思議に思っていたのですが、
その秘密はどうも得意とするアプローチにあったとか。
それが「私があなたを幸せにしてさしあげます」的なメールでの語りかけ。
言葉はとても丁寧だったといいいますから、本物の優しさに思えたのでしょうし、
「幸せの香り」がしたに違いありません。
もともと、男性は「幸せ」というものと距離感がある上に、
恋愛に対してとりわけ不器用な交際経験の少ない男性は、自分ではとうてい
幸せになれそうにないというコンプレックスがあるので、そのワナにハマって
しまうのでしょう。
いずれにしても、男性達にとって「この人と生きていきたい」という最大の動機と
なるのが、「幸せの香り」なのは確かです。「幸薄そうな印象」は、ある種の魅力
ではあっても、一方で危険な香りをもち、男性を知らず知らず遠ざけているはず。
男性達を無条件に惹きつけるのは、やはり
「そばにいるだけで幸せになれそうな引力」なのです。
今までそれに気づかずに「幸せにしてもらうこと」ばかり考え、
「幸せにしてくれないこと」に腹を立てている女性がいたら、早く気づいて
ほしいのです。「幸せ」は女性の得意技。自分が率先して幸せをつくって、
夫をその中に引き込む努力だけはしたいもの。それが長い人生を、本当の意味で
美しいものにするたったひとつのテクニックなのだから。
たとえばまず手始めに、おいしいお食事やワインを用意して、
やさしく楽しい言葉をかけ、一応のお食事を終えたあとも、だらだらとお食事を
続けてみてほしいのです。それが幸せの手続き。
幸せって、女性が待つものじゃなく、女性が自分の手で手づくりすべきもの。
しかも女性が男性を幸せにしてあげるなんて、いとも簡単なことなのだって、
きっと気づくはずなのです。

男性諸氏、そうではありませんか?

さぁ、もうすぐゴールデンウィーク。
あなたの大事なパートナーの方と、うんとお幸せにお過ごしくださいね!

【2012.4.19 末金典子】

沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科専任教員(准教授)就任に伴い、挨拶文を添付致しました。ご高覧頂けると幸甚です。

【2012.4.14 樋口耕太郎】