円高が進んでいます。円がドルに対して急騰したのは、1985年のプラザ合意、1995年3月の超円高についで3度目ですが、共通しているのは米経済の危機的状況でしょう。プラザ合意はレーガンの双子の赤字、1995年は米国債の債務不履行が真剣に懸念され、今回は国際金融危機から端を発し、アメリカ経済と財政が急速に悪化し、基軸通貨ドルが崩壊するのではないかという懸念です。この背景には何か法則があるのか、プラザ合意を振り返ることでひとつの仮説を提示します。

1985年9月22日、ニューヨークにあるプラザホテルで開催された先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)における決定事項は、通称「プラザ合意」と呼ばれ、新自由主義経済下での最も重要なグローバル経済政策の一つです。この会議では、G5各国が協調して円高・ドル安に誘導することに合意し、1985年に1ドル240円だった円は、1988年までに120円に切り上げられ、日本経済を支える主力の輸出産業は「円高不況」を生き残るために相当な経営努力を強いられます。自分の商売において、競合する他社が僅か2年の短期間に全く同じ商品を半額にすることを決めたとして、会社全体がどんな大騒ぎになるかは想像に難くありません。多少乱暴な言い方をすれば、プラザ合意の含意は日本の富をアメリカへ大量に移転する取り決めです。イメージを大掴みに表現すると、「1985年以降、日本の労働者は労働時間の半分をアメリカの国家財政、大企業(主としてグローバル輸出産業)、富裕層(大減税の原資として)、軍事費のために働くことを約束した。これを埋め合わせるため、日本人は血の滲むような努力を払って生産性を2倍にし、国際競争力を維持した」ということです。日米貿易額約17兆円(1988年)相当に係る通貨半額切上のインパクトは計り知れず、経済的な「第二の敗戦」と表現する人もいるほどです。

更に、日本からアメリカに富を移転し、アメリカは国防費を大量に増額したという事実を繋ぎ合わせると、これは実質的に日本国民がアメリカの防衛費の相当額を負担する行為であり、タカ派といわれた中曽根内閣の考え方にも合致するように見えます。つまりは、日本が世界の軍事費の相当額を実質的に負担していたということであり、当時の中曽根首相が、日本の軍事費をGDPの1%まで増額(1985年のGDP315兆円、軍事費3.1兆円)するといって批判されたり、現在の日本が思いやり予算で4,000億円もの費用を米軍に支出している! という「目に見える」議論が、なにやら相当瑣末なものに感じられるくらいです。
それではなぜ日本政府はアメリカに対して自分たちの有り金の大半を差し出すようなことをしたのでしょうか?中曽根内閣はアメリカに一方的にしてやられるほど、頭が弱かったのか、腰抜けだったのか、あるいは、相当な弱みを握られていたのでしょうか?これは私の推測に過ぎませんが、当時のレーガン政権が「スターウォーズ計画」などに象徴される急速な軍備拡大を推し進めたのは、ソ連の財政破綻が起こり得ると判断したためではないかと思います。冷戦下の緊張した軍拡競争において、ソ連がアメリカに後れを取ることは許されませんので、それがどれほど財源を必要とするものであっても、推し進めざるを得なかったソ連側の事情は想像に難くありません。ソ連の正確な財政事情はもちろん公表されていませんので、レーガン政権はCIAルートで確保した諜報を元にしていると想像できます。通常、国家の経済政策・軍事政策の根幹を、信頼に足るかどうかの保証もない諜報によって構築することは、尋常な決断ではないといえますが、当時のブッシュ(父)副大統領は元CIA長官を務めた経歴があり、諜報を経済政策の根拠にする状況としては最低限の要件があったように思えます。

それでも、アメリカ一国でソ連を打倒するほどの軍備拡張を行うことは、相当な財政負担を生じ、当時財政・貿易の双子の赤字はアメリカ経済を大きく揺るがすほどの水準に膨れ上がりました。この目的を達成するためには、どうしても日本の経済的な援助が必要だったのではないでしょうか。このような背景がもしあったのであれば、中曽根首相が日本としてもアメリカの力になることを決断し、プラザ合意、また後にはブラックマンデー後の国内金利引き締めを延ばすことで(これはその後100兆円の不良債権を作ったバブルの原因のひとつになります)、日本経済をまるごとアメリカに提供し、冷戦時代の西側諸国を経済的に支える役割を担ったのではないでしょうか。中曽根首相は大正5年生まれ。海軍士官として戦争を戦い、戦友の死を山ほど見てきた人物が、そのような決断をすることは自然なことだったかも知れません。日本の存在と協力がなければソ連の財政破綻は生じなかったか、あるいはずいぶん後になっていたかもしれませんし、アメリカ自体が財政危機に見舞われ、冷戦の行方そのものも大きく変っていたかもしれません。つまり、ソ連の財政破綻と冷戦の終結において、日本は重大なカギを握っていた可能性があるのです。

以上は、もちろん多分に推理・推測を含んでいますし、あるいは全く的外れな想像かもしれませんが、少なくとも経済を理解することが社会の本質的な動きを捉えるためにいかに重要であるか、つまり、社会を大きく動かす鍵を取得するために、金融・経済に関する深い理解と洞察がどれほど近道であるか、のイメージを提供すると思います。・・・例えば、沖縄の基地問題に関しても、先日アメリカの議会でこの財政難の折、海兵隊が沖縄に駐留する必要があるのか、という議論が起こっているという報道がありましたが、このような声がひとたび潮流となれば、沖縄の米軍基地が経済的な理由で完全撤退することも、あっけないほど簡単に起こり得ます。社会の生態系を立体的に捉えることで、そのような可能性がより具体的にイメージできるようになるのではないでしょうか。

【2010.8.25 樋口耕太郎】

盛岡(岩手県)出身の私が、沖縄にとても深い縁が生まれてから6年。沖縄は間違いなく、日本でも最も県民意識の高い地域のひとつで、食事をしても、お酒を飲んでも、人が集まると必ず沖縄についての話になると言っていいくらいです。青い空、青い海、ゆったりした県民性。日本語が通じる「外国」。日本で最も守られた市場。米軍基地の街。政治的に利用され続けた地域。補助金が降り注ぐ経済。模合という巨大金融文化・・・。さまざまな方がさまざまな価値観と表現で「沖縄」を語ります。聞く度に、どの観点も興味深く、それらは確かにそれぞれ重要な要素なのですが、私には、やはりステレオタイプの域を超えず、「沖縄の本質」、と云うべきものとは何か違っているような気がしていました。

このことがずっと頭にひっかかりながらの6年間、「沖縄らしさ」とはなにか、ということを私なりに考え続けてきましたが、沖縄社会の真髄は「人を変えないこと」、ではないかと思い至っています。「社会はかくあるべし」、という規範が人を縛るのではなく、「自分は自分」、という人々の集合体として社会が構成されているような、そして各人の生き方がどのようなものであれ、人の生き方には関知しない、・・・結果として、他人をあるがままに受け入れる(放っておく?)土壌が、社会の本質を構成しているのではないか、と思うのです。コンビニの店員が、スローモーションのようにレジを打っていても、観光客が傍若無人に振舞っても、米兵が夜中に騒いでも、特段注意するでもなく、あるいは、不義理な人が模合を崩そうと、場合によっては詐欺行為を働こうと、そんな人たちでもなんとなく居場所があるような社会は、まさに「真髄」といったところ。

また、沖縄社会は、社会的な地位や肩書きに捉われず、人間性をずばりと見抜く鋭い感性を持つ人が多いことが重大な特徴のひとつです。人を変えようとしない代わりに、自分を変えようとする人には敏感で、その「危険」を感じると、一言も発せずにいつの間にか遠ざかって寄り付こうともしません。

翻って、本土経済、世界経済、資本主義は、人を変え、組織を変え、市場を変えることで成長を遂げてきました。経営者は自分以外の全てを変えることが自分の仕事だと固く信じ、競争に遅れそうな人を叱咤し、指導し、時には誠意と優しさをもって、人の人生に最大限干渉し、影響力を行使します。この社会で成功者といわれ、目覚しい成果を挙げてきた人は、ほぼ例外なく、多くの人や物事をコントロールすることで「生産性」を上げた人物です。

本土復帰以来38年、星の数ほどの本土系企業、あるいは外資系企業が、沖縄に進出してはことごとく失敗し、実質的な意味において、沖縄で成功したと言える企業がいまだに存在しない最大の理由はここにあるのではないかと思います。一般に、沖縄は本土の価値観、すなわち、資本主義の世界観に基づく、コントロール主体の事業経営や、スタイル重視のマーケティングが全くといっていいほど機能しない社会であり、例えば、そば一杯が売れる理由が本土とは本質的に異なるのです。

この事実を素直に解釈すると、沖縄には、資本主義とは異なる、横の人間関係を中心とした「第二の経済」が存在し、その原理を理解するインサイダーと、その原理に気が付かないアウトサイダーが入り乱れて市場が構成されているように見えます。必然的にアウトサイダーには継続性がなく、いずれ撤退を余儀なくされ、結果として日本で最も守られた市場が形成されています。沖縄は、日本最大の、そして恐らく世界最大の「第二の経済」圏である、と云えるのです。

現在、時代が大きな変換期を迎え、社会の構造や価値観が根底から変容し、本土的、資本主義的な経済構造が機能不全を起こしはじめています。今までの常識、価値観、序列、経営理論、事業モデルが破綻し、どのように事業、経営、戦略、人事を考えれば良いのか、についての新たな、そして合理的な実践行動モデルが必要とされはじめていますが、その鍵は、沖縄が最も得意とする、「第二の経済」が握っているという可能性はないでしょうか。

私が試みた当時、本土からは「正気の沙汰ではない」と云われた、サンマリーナホテルの、「人間関係をなによりも優先する愛の経営」が、実践において極めて高い経営合理性を持つのと同様、資本主義的な価値観からは「非効率」で「遅れている」と考えられていた沖縄の社会や人間関係が、今後の全く新しい社会の構造において、もっとも合理的に機能することが、次第に、やがて激流のように明らかになるでしょう。

【2010.8.8 樋口耕太郎】