お元気ですか?

実は、私、先月病気で倒れてしまいました。
仕事お休みさせていただくこと1ヶ月と2週間。
その間、多くの方に大変御迷惑をおかけしてしまいました。
本当にごめんなさい。でもおかげさまで、今日より、ようやくまた、
元気に再開させていただくこととなりました。

何の病気に罹ったかと申しますと、皇太子妃・雅子様が罹られて有名になった
「帯状疱疹」という病気なんです。この病気、御存知でしょうか?
私達が小さい頃にかかった水ぼうそうのウイルスは、実は長い間体に潜んでいて
よほどの疲労や大きなストレスが溜まった時に、免疫力が落ち、そのウイルスが
また復活するのだそうです。
そしてそのウイルスは、神経節から出て活動を再開し、皮膚に帯状の水ぶくれを
つくります。この水ぶくれ自体はそんなに激しい痛みではないのですが、
厄介なのは、体中の神経に直接針で突き刺されているような疼痛や激痛が、
体中を24時間襲うことなんです。
また、首から上にこの疱疹が出てしまうと、顔面神経痛や失明、聴力への影響が
出るなど大変恐い病気でもあるそうです。

この厄介な病気に私も罹ってしまい、仕事を5月11日から6月25日まで
お休みさせていただいていたという訳なのです。
この間にご連絡をくださった方、本当にすみませんでした。
御迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。
また、たくさんの温かい励ましやお見舞いのメール、お電話など
本当にありがとうございました。

20代の頃よりの2足のわらじ生活。睡眠時間も4時間あればいいほうという
毎日でした。気が緩むお正月休みやゴールデンウィークにはどっと熱が出たり
寝込んだり、ということがあったとはいえ、大きな病気もせずに
頑張ってこられたことが健康への過信となっていたのかもしれません。
長年の疲れやストレスを、その時その時で、自分ではしっかりと
解消していたつもりでも、実はどっさりとたまっていたのかもしれません。
それに、今やもう、ちょっぴり(!)ですがトシでもありますし…。
だからちょっとショックでもあり、ビックリもしました。
そういえば去年のこの月も4日間ほど寝込んでしまっておりましたっけ。

それにこの帯状疱疹。痛いなんてもんじゃぁありません!!!!!
神経に直接針で突き刺されているような痛みですから、
高圧電流をバシッバシッと流されているような鋭い痛みが1日中続きます。
疱疹が出始めて72時間以内に治療を開始した私でこうなのですから、
治療が遅れた人になるとさらに痛みが激しいらしく、麻薬を処方される
そうです。前兆としては、体のあちこちがピリピリッと痛みます。
思い当たる方は、是非すぐにでもゆっくり休養なさってくださいね。

というわけで、このお休みは激痛に耐えに耐えた辛い毎日でした。
でもこうも思いました。
このウイルスが出てくれたからこそ、自分の体のSOSに気付くことが
できたんだと。
もっと大事に至っていたかもしなかったんだと。
「痛み」ということだって、イヤなことだけれど、
仮に、人がもしも「痛み」というものを失くしてしまうことができたとすると
どうでしょう?
ストーブなどに触ってしまっても、痛みがなければ、そのまま手を焼き続けて
しまいます。
体をケガしても病気をしても、痛みがなければ、
気付かなかったり、放っておいてしまったりして、腐ったり、死んでしまったり
するのではないでしょうか。
そう考えると「痛み」を感じるということはとても大切なことですよね。

あなたも痛いところはありませんか?
心は悲鳴をあげていませんか?

しっかり感じてあげてください。
しっかり耳をすませてあげてください。

自分の感覚を感じることができたり、
自分の声を聞くことができる人は、自分だけなのだから。

ところで、
このお休みの後半は、人間ってこんなに眠ることができるの?!というぐらい
眠りに眠り、ベッドでず~っと横になっていたり、ぼ~っとしていたり。
すると、何故か子供の頃のことをたくさん思い出しました。
夢にも同じシーンが出てきました。

おばあちゃんの家の近くにかなり大きな池がありました。
にわか雨が通り過ぎると、あたりは池のつづきのように濡れ、
そこには子どものころせつないほどわくわくした、あの「夕方」がありました。
「雨やんだ。行ってくるね」
そう言っておばあちゃんの答えを確かめる間もなく、家を走り出た気持ちを
思いだします。
水面に、小さな黒いものが浮かんで、いえ、浮かぶというよりは、
すべっているといったほうがいいかしら。とにかくたくさん泳いでいるそれは、
「アメンボ!」
古い友だちにばったり出会ったような懐かしさです。
「元気だった?」
小学校の理科の時間に、アメンボのような虫たちが、水に浮かんで泳ぐのは
「表面張力」によるのだと教わりました。理科はからきしだめでしたが、
水に棲む生物、それからアメンボやミズスマシみたいにか弱いけれども
きっぱりした生き物に興味があったので、「表面張力」のことはおぼえています。
大人になってからは、グラスにビールをなみなみと注いでもらって、
「やあ、表面張力だあ」
なんていうときしか思いださなくなりましたが。そうでした。表面張力は
アメンボやミズスマシにとって必要欠くべからざる環境条件なのでした。
(アメンボみたいに生きたい)
ふとそんな思いが湧きました。
なんでも力ずくで片づけようとしないで、肩肘張って頑張り過ぎないで、
肩の力を抜いて、深呼吸して、そして、
表面張力みたいな自然な力を頼みにしたいな、と思ったのです。
スーイスイって。

誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を、慈しんであげてくださいね。
感謝して大切に扱ってあげてください。
そしてどうか心のどんな小さな声も聞き、
大切に、大切にしてあげてくださいね。

いつもあなたがお健やかでいらっしゃいますように。

【2008.6.26 末金典子】

資本主義の第一の幻想: 「金融・資本市場は効率的なしくみである」、は資本主義を支える金融・資本市場のメカニズムが、著しく、といって差し支えないほど非効率であるという大問題の裏返しです。

金融とは、資本を余分に保有している人から、資本を必要とする人に融通する、お金の流通機能です。効率的な金融とは、流通コストが低く、投資ニーズと運用ニーズがうまくマッチングする仕組みであるべきです。突き詰めて考えると、世の中の金融資本の大半は個人が保有しており、その資本を最終的に運用する主な主体は企業ですので、1,500兆円といわれている日本の個人金融資産を、できるだけ流通費用をかけずに、可能な限り直接企業に提供するしくみが、最も効率的な金融市場のイメージといえるでしょう。これを前提とすると、例えば、社会的に効率の高い証券取引市場は、個人投資家が極小額の売買委託手数料、運用委託手数料、投資顧問料(および税金*(1))で、株主利益を享受できるものといえます。別の表現では、企業の税引き後利益の額を、可能な限りそのまま個人株主に分配するメカニズムが、効率の高い、社会的に理想的な金融機能です。世の中の金融専門家が喧伝する株式投資の「常識」とはかなり結論が異なりますが、(i)専門家に運用を任せず、(ii)流動性が極小で、(iii)超長期の、(iv)直接投資・保有を行う個人投資家が増加するほど理想的な金融機能を果すわけで、逆説的ですが、現在の金融機能そのものの極小化が最も金融効率を高める、ということを意味します。・・・この件は後に詳述します。

40%の手数料
上記(i)~(iv)は、金融業の常識を知る人にとっては馬鹿げた議論に聞こえるかも知れませんが、現実に投資家と企業が実質的に負担している巨額の金融流通コストを直視すると、それ程非常識な論点ともいい切れないことがご理解頂けるかも知れません。現在の証券取引市場のメカニズムでは、企業の税引き利益が個人投資家に届くまでに・・・非常に大掴みの推定ですが・・・ざっとその40%*(2) 前後が金融専門家の手数料として消えてなくなるイメージです。例えば、5億円の税引き後利益(当期利益)を生み出す上場企業A社があります。A社の株価が、ごく平均的に、当期利益の20倍(PER20倍、益利回り5%)で評価されるとすると、株式時価総額は100億円(5億円×20倍)です。このとき、A社株式の年間売買回転率が100%、平均売買手数料が往復1%とすると*(3)、株主が支払う株式売買委託手数料の合計額は年間1億円です。更に、生命保険、損害保険、年金、投資信託などにお金を預けている人は、恐らく自覚もないままに、金融専門家を通じてA社株式を保有しています。運用報酬を毎年投資額の1%支払うとすると*(4)、ここでも株主全体で年間1億円。先の株式売買委託手数料と合計して2億円が「流通」費用として資本市場に吸い取られるイメージです。金融専門家たちに支払われる2億円という額は、A社が1年間の事業活動で稼ぎ出した税金支払後当期利益の実に40%に相当し、個人投資家に渡るお金は残りの60%に過ぎません。

・・・株式投資でお金持ちになる人は殆どいない、あるいは「個人投資家の9割は損をする」と言う人もいますが、個人投資家には始めから「40%」のハンディがあるとすれば、むしろ当然と言えるかも知れません。株式投資は「高リスク」という一般的な認識は、全く正しいといえるのですが、これは必ずしも株式という資産がリスキーなのではなく、資本市場というメカニズム(あるいは金融専門家)が株主のリスクを高めているだけなのかも知れません。そして、既存の資本市場がこれほど非効率であれば、新たな概念でより効率の高い市場を生み出すことは、実は容易なことではないかと思うのです。

株式の流動性について
現在の株式市場は出来高の多い(つまり売買回転率の高い)銘柄や、機関投資家が上位株主を占める銘柄が優良とされており、上記の議論とは文字通り正反対の価値観が市場参加者の常識とされています。しかしながら、一般的事実として、誰が株主かということ、すなわち株主の質は企業経営に非常に大きな影響を与えます。出来高が高いということは、毎日大量の株主が会社を離れていくということを意味します。本来最も重要な事業パートナーである株主が、毎日頻繁に入れ替わり、事業を深く理解せず、短期的な株価の変動が最大の関心事であるような会社と、事業に誠実な関心を持ち、長期的な企業の成長を応援する会社では、根本的な点において何かが決定的に違う筈です。これは未上場企業であれば常識的な発想なのですが、上場会社に同様の原理が適用すると考える経営者は意外なほど少ないようです。上場会社であっても、株主の質に注意深く意識を払い、好ましい株主と長期的で良好な関係を維持することは重要な経営課題ではないでしょうか。このような考え方に基づくと、もちろん無条件ではないにせよ、事業的な観点からも、株の売買は活発でない方が好ましい、流動性は少ないほど好ましい、という発想が可能です。常識はずれの考え方のようですが、世の中には大成功事例が存在します。バークシャー・ハサウェイ社(ニューヨーク証券取引所にて上場)はその時価総額(株式時価総額は約20兆円超)に比較して著しく売買高が少ない企業です。その株主は、驚くべきことに毎年その98%が前年と同じメンバーであり、株主の恐らく90%はバークシャー株式が最大保有銘柄である投資家によって所有されており、実質的に大半の株主は個人であり、機関投資家の保有比率はこの規模の他者と比べても例外的に小さい、という特殊な株主構成を有しています。個人投資家が長期株主になることを選択するのであれば、機関投資家を通さずに直接の株主になった方が、圧倒的に経済効率が高いということは言うまでもありません。この件に関するより詳細な議論は2007年4月1日のエントリー『トリニティの企業金融論』31~40ページ(VII. 株価、時価発行増資、配当政策、IR)を参照下さい。

金融主権社会の弊害
金融が実体経済よりも重要視される社会は、尻尾が胴体を先導する犬のようなものです。企業の事業活動と付加価値の創造に直接寄与しない金融専門家が、事業活動から生まれた最終果実の「40%」を受け取るような市場メカニズムは、金融が本来果すべき、事業の黒子としての役割を完全に逸脱しています。米国では、2007年時点で全民間労働人口の5%を占めるに過ぎない金融セクターが、企業利益全体の40%、株式時価総額の20%を占めています*(5)。一義的に富を生まない金融セクターが、全米企業利益の40%を占めている現状は、企業の税引利益の「40%」を流通手数料として吸い上げる資本市場の姿に呼応するかのようです。

金融専門家に税引き後利益の「40%」を支払うということは、企業にとっては「40%」余分に収益を、しかも税引き後の収益を上げなければならないということを意味します。より高い事業収益を迫られた多くの企業は、(i)M&Aや事業の拡大再生産など、資本の力を借りて収益を押し上げようとするか、(ii)労働者の賃金を減らし、より濃度の高い労働を要求し、正社員を減らし、労働分配率を下げることで事業収益の帳尻を合わせようとします。マッキンゼーが2001年に米国で行った調査では、ウォルマートが「経営革新」の模範例とされていますが*(6)、後者(ii)の典型例でしょう。組み立てラインの運転時間を短縮し、仕事量を倍にし、休憩時間を短縮すれば、確かに名目時間当たりの生産性は上がります。つまり、より少ない賃金で、より多くの労働力を引き出す「鬼」のようなやり方が、優れた経営として評価され、権威ある「識者」によって礼賛されているのです。そのような経営手法の社会への広まりなども寄与して、全人口の5%が60%の富を保有する反面、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働く(1998年経済政策研究所のデータ)格差社会構造が生まれ、かつて世界中の羨望の的であった米国の中産階級は壊滅状態となりました。中産階級の平均所得の増加が止まってから久しく、米国の世帯は長い間、共働きと持ち家価格の上昇によってこの状況に対応してきました。僕も、少なくとも1990年代前半に、米国では専業主婦が女性にとって相当のステイタスであることを知って驚いた記憶があります。1997年7月以降のサブプライム危機は、大恐慌以来の金融危機であるとして世界中から注目されていますが、それ以上に、米国中産階級の息の根を止める最後の決定打になったことが、より本質的かつ重大な点であり、遠からずその事実が痛みを伴って顕在化するでしょう。

【2008.6.25 樋口耕太郎】

*(1) 税金は本来社会に還元されるものと考えると、各種税金(株式売買に付随する委託手数料への消費税、登録免許税、譲渡益税、配当課税など)の支払いは、社会全体から見ると必ずしも市場の効率を下げるものではありません。その意味で括弧にて表現しています。最も昨今の税金の使われ方を見るに、括弧ははずした方がよかったか、とも思いますが・・・。

*(2) 本稿で表現している通り、企業当期利益の「40%」という比率は、非常に大掴みな推定値です。市場環境によっても大きく変動するなど、正確な算定は事実上不可能と思い、乱暴に推定しましたが、そのためカギ括弧にて表現しています。僕の感覚では、当たらずといえどもそれ程遠からず、わずかに誇張気味かもしれませんが、現実のイメージを、おおよそ伝える水準ではないかと思います。税引き後利益に対する比率は、高PER銘柄については過小評価されることになります。なお、PER20倍は日本の株式市場の長期的推移から勘案すると、比較的保守的な水準ではないかという感覚です。

なお、株式のような変動商品に関する「40%」に対して、銀行預金、MRF、生命保険、年金などの確定利回り商品は更に非効率です。例えば日銀が発表している2008年4月の国内銀行の平均貸出金利1.92%に対して、5月末の店頭表示預金金利は、最も金利の高い1,000万円以上10年物定期で0.86%となっています。預金には多様な期限がありますので、銀行全体の平均預金金利がこの利率ということはあり得ませんが、仮にこの数字を採用しても、企業が銀行へ支払う金利費用の65%以上、平均預金金利を大掴みに0.5%と推定すると、実に74%が銀行への対価として支払われていることになります(もちろん銀行は預金者に対して流動性と確定利回りを保証しますので、考え方としては、銀行が受け取る収益の中には、債務者の信用リスクを銀行が負うことの対価も含まれていることになりますが、ここではその点は無視しています。また、低金利環境化においては金融専門家に対する分配「比率」が高めに算出される傾向はあります)。

また、6月23日現在の野村證券のマネー・リザーブ・ファンド(追加型公社債投資信託)は、予定利率0.378%に対して、信託報酬1%が請求されるため、単純計算では、やはり約73%(1%÷1.378%)が金融専門家への手数料として支払われます。それにしても、分配利率0.378%の投資信託の運用報酬が1%というような商売が存在すると言うこと自体驚きです。恐らくこれ以上金利を高くすると、銀行預金から大量の資金流出が生じることを防ぐための、一種カルテル価格ということだと思いますが、良い悪いは別にして、既存の金融市場の非効率さを象徴するような商品だと思います。

*(3) 証券取引市場で支払われる売買コストは、取引金額(出来高)×手数料によって決まります。株式売買委託手数料はネット証券の登場によって、著しく低下しましたが、市場平均出来高は近年急上昇していること、などを勘案して大掴みに推定したものです。

*(4) A社株主の大半がこのような機関投資家だとした想定ですが、もちろんこの想定は現実的ではありません。ただし、生命保険、年金、更にこれらの機関投資家がヘッジファンドやファンド・オブ・ファンズ経由で投資する株式などを勘案すると、金融専門家への委託報酬は投資額の1%を遥かに上回るケースも少なくありません。これらをざっくり織り込んで、時価総額の100%に対して1%と便宜的に推定しました。

*(5) “Wall Street’s Crisis” The Economist, March 19, 2008 print edition.

*(6) 『クーリエ・ジャポン』2008年3月号、バーバラ・エーレンライクのコラムより。本稿では、別途彼女の著書『ニッケル・アンド・ダイムド』も参照しました。

『第三の波』『パワーシフト』などの著書で知られる未来学者アルビン・トフラー氏は、近著『富の未来』*(1) で、「資本主義は基本的な性格の見直しを迫られているが、この「見直し」は、資本主義の根本に関わる革命的な変化を伴う。その後、残ったものは資本主義と呼べるのだろうか」、という趣旨のコメントをされています。この現象を「資本主義の崩壊」*(2) と呼ぶべきかどうかは議論が分かれそうですが、いずれにせよ、近年、特にサブプライム危機をきっかけに、一部の識者が真剣に懸念する政治経済のテーマになろうとしているのではないかと思います。

「崩壊」の引き金
1990年代の中頃以降、グローバル金融の拡大とボーダーレス化によって、今まではいくつもの「商品ブロック」と「地域ブロック」に分かれていた金融市場が一気に繋がり、事実上一つの「グローバル金融市場」が生まれようとしています。国際金融資本にとっては事業機会を大幅に増加するという(目先の)利点があるかも知れませんが、大量資本の流動性と価格変動が、大きく、かつ一様になるため、市場暴落に伴う金融危機の規模も拡大の一途となっています。

1990年代前半までの金融市場は、例えば米国では、ジャンク債市場の崩壊と帝王マイケル・ミルケンのドレクセル・バーナム・ランベール証券の破綻(1990年)、ジャンクボンドを買い込んだ貯蓄貸付組合(S&L)の大量破綻、1980年代後半から1990年代前半の不動産大不況、預金保険制度の崩壊と整理信託公社(RTC)による大量の不良債権処理、ゴールドマンサックスが破綻に瀕した住宅モーゲージ証券の暴落(1994年)、などはいずれも大規模とはいえ、内国市場の問題でした。しかし、1990年代の半ば以降、1997年のアジア通貨危機では規制の緩い地域で設立されたオフショア・ヘッジファンドが強く関与していたことが注目され、1998年8月のロシア金融通貨危機でアメリカの商業不動産の証券化市場が崩壊し、ドリームチームといわれたヘッジファンド、LTCMが破綻するなど、地球の裏側にある、全く種類の異なる市場のクラッシュが、一瞬にして別の市場に飛び火する現象が起こり始めます。グローバル金融市場の広がりと同時に暴落規模も驚くべきスピードで拡大し続けています。日米市場で連動した2001年のネットバブル崩壊、2007年7月以降のサブプライム危機は、1990年代のクラッシュと比べても破格に巨額の損失を生み出しています。更に問題なことは、市場が暴落するたびに、公的資金の拠出がほぼ習慣化してしまっていることで、これは、資本主義社会が誇る金融市場が、既に自立機能を持たないということを自ら証明しているようなものです。サブプライム危機の発生から1年近くが経過してもなお、ユーロおよびウォール街のインターバンク市場は各国中央銀行の介入なしでは機能していません。実質的に市場メカニズムが破綻し、各国中央銀行によって運営されているような状態です。

90年代中以降のグローバル金融の変容は、ポーカーゲームで負けるたびに掛け金を倍増して、損失を取り戻そうとするギャンブラーに似ています。この戦略は、資金が無限にある限りは損を取り戻すことができます。グローバル金融市場も、今のところクラッシュのたびに中央銀行や各国の協調によってシステムを辛うじて維持している状態ですが、今後益々市場が広範囲に繋がり、一様に価格変動し、巨大な資金が国境を越えて大量・高速に移動する傾向が継続すると、どこかの時点で・・・それも近い将来・・・中央銀行や公的資金が支えきれない水準のクラッシュが生じることは、必然ではないかと感じられるほどです。本来、実体経済を助ける黒子であるべき金融機能が、90年代半ば以降、すっかり国際経済の主役に躍り出ていますが、血液が決して体の代わりにはならないのと同様、金融が主役の経済は決して長くは続きません。金融が実体経済を振り回す本末転倒は、いずれ、経済全体を崩壊に導く原因となるでしょう。それはいつでしょうか。サブプライム危機が、その引き金なのでしょうか。

資本主義と金融市場
仮に、資本主義を、「資本の量が、物事をコントロールする社会の仕組み」と単純に考えてみます。キーワードは、「資本の量」と「コントロール」です。この定義に基づくと、例えば、「会社は株主のものである」という価値観が力を持つ社会は、より資本主義的といえます。そのような社会における会社は、組織であると同時に資産であるため、財務的・社会的・組織的機能は、いわゆる「資本の論理」によって決定されます。金融グローバリゼーションに伴って、企業金融の資本提供者が、商業銀行の貸付(デット)資本から資本市場やファンド資本(エクイティ)へ移行し、それに伴う企業買収が増加する傾向は、資本による企業への影響力の高まりであり、資本主義的だといえます。債権譲渡による不良債権処理は、債権を資本に転換する効果があり、資本主義的な活動です。人材派遣業の急増と労働分配率の低下は、社員の権限を株主に移転する効果があり、これも資本主義的な変化です。更に、この考え方は経済界以外にも適用可能です。日本の政治は選挙による代議制であるため、その意味では資本主義的ではありませんが、選挙に勝つためにお金が必要とされるほど資本主義的と言えます。選挙地盤は金銭価値に転換できるのれん資産と考えることができるため、二世・三世議員の増加は、より資本主義的な政治体制ということになりますし、政治が資金を投下してメディアを利用しようとするほど資本主義的になります。このように、90年代後半以降日本社会で急速に進行した、金融ビックバン、グローバル金融、厳格な不良債権処理、投資銀行と直接金融中心の市場原理至上主義、活発なIPOやストックオプションの広まり、プライベートエクイティの影響力増大、株主主権の企業統治、金融利権政治、二世・三世議員の増加、劇場政治とメディアコントロールなどはいずれも資本主義的*(3) であるという共通点を持ち、この時期以降の金融グローバリゼーションと日本社会の変容をうまく説明できるような気がします。・・・この点も後述します。

さて、現在のグローバル金融・資本市場において、お金を大量に保有する主体は、自ら資本を保有する「資本家」とは限りません。80年代以降、株式市場の主体が個人から機関投資家に大きく変容した機関投資家現象、更に90年後半以降、IPOブーム、プライベートエクイティなどのファンド、ノンリコースファイナンスなどが大幅に拡大したことによって、二十世紀前半に想定されていた「資本家」とは全くイメージの異なる金融専門家が大量の資本を管理するようになり、グローバル金融の主人公とも言える、国際金融資本が生まれます。投資銀行やユニバーサルバンクなどの大手金融機関で働く金融専門家はもちろん、一個人が大きな組織の後ろ盾を必要とせずにヘッジファンドやプライベートエクイティの運用会社を設立し、莫大な資金を運用することも一般的になりました。昨日まで証券会社で働いていたエリートサラリーマンが、何の歴史もない新会社を設立すると同時に、かつての自分の顧客から数百億円の資本運用を受託すると、ノンリコースローンの貸し手は、この何の実績もない会社に対して、取得資産のみを担保に大量の資本を貸し付けます。

このような国際金融資本の大きな特徴は、投資収益率が資本の額・・・すなわち社会における影響力の度合い・・・を決定することです。運用資産、運用方針、市場環境、個別事情などによって非常に大きな差があるため、実体はそれ程単純ではないのですが、誤解を怖れずに大雑把なイメージで表現すると、年率15%で運用する金融専門家には100億円、20%で運用する者には1,000億円の資金運用が任される感覚です。このため、国際金融資本とそれを運用する金融専門家にとって投資収益をいかに高めるかが、自らの存在意義に直結する最優先課題となります。このような金融専門家は、ファンド、M&A、資金調達などを通じて、大量の不動産、企業資産、企業経営に大きく関与し、資本主義的な存在といえます。そして、彼ら金融専門家が大量資本を調達する場がグローバル金融・資本市場であり、特に90年代後半以降、このグローバル金融・資本市場が現在の資本主義制度を支える重大な要素、という関係が成立しており、グローバル金融・資本市場がどのように変容するかが、資本主義制度の将来を決定付けるという構造になっていると言えそうです。

資本主義の四つの幻想
ところが、このような「資本の量が社会の物事をコントロールする」、すなわち、「グローバル金融・資本市場が主導する」資本主義は、その存続に関わる重大な欠陥を抱えていると思います。90年代前半に突然崩壊した社会主義体制は象徴的な事例ですが、全ての社会制度は、それがどれ程頑強に見えるものであっても、社会を豊かにしない、という矛盾が顕在化した時点で、容易に消滅します。人間が作ったもので永遠に続いているものはありません。資本主義だけが永遠に続くと考える理由はあるでしょうか。逆に考えると、矛盾を内包する社会が存続・成長するためには、そのシステムが効率的で、社会を豊かにする、という幻想が不可欠であり、現在の資本主義は四つの幻想によって支えられています。

①金融・資本市場は効率的なしくみである
②競争原理が社会の効率を高める
③経済成長が社会を豊かにする
④富の蓄積が社会を豊かにする

それぞれについて本稿で詳しく後述します。

・・・本稿での議論の一切は、例えば「資本主義は悪である」といったような、政治的主張や制度批判、資本主義崩壊の予言、その他の個人的な主義主張や隠れた意図とは無縁のものです。本ウェブサイトの内容の一切に関して一貫するテーマは、「最も効率的な事業経営に関する経営科学的な考察と分析」です。最も効率的な事業経営の実現において、現実を直視し、将来の社会・市場変容を予測する作業は重要な要素であり、本稿の議論はそのための現状認識の一つのアプローチです。また、本稿の現状認識が正しいとも、唯一のものであるとも主張するものではありません。

【2008.6.21 樋口耕太郎】

*(1) アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著 『富の未来』、山岡洋一訳、講談社、2006年6月など。特に下巻第8部「資本主義の将来」には、興味深い記述があります。

*(2) 資本主義の崩壊という表現には様々な語弊があることは事実です。二十世紀の二大社会システム、資本主義と社会主義は、いずれも政治と経済が不可分として成立したため、資本主義の「崩壊」という論調は、国体・政治・社会 制度の革命として捉えられがちで、歴史上革命に付随する血なまぐさい内戦・粛清・混乱が連想されがちです。 またこのフレーズは、怪しげな占い師や、宗教家や、金融詐欺師のセールストークに多用されたり、それらに比べると幾分まともなものであっても、売らんがための雑誌見出しや書籍マーケティングのコピーなどに使われることが少なくありません。本稿では、「資本主義の根本的な性質の変化、すなわち、資産の概念、 資本の概念、企業 の概念、組織の概念、通貨の概念、金利の概念、市場の概念、金融の概念、などの本質的な変容」という意味において使用しています。

ちなみに、論証のための事例というよりもイメージに近いのですが、現代においては政治と経済の体制変化が必ずしも連動しないケースが多く生じています。ベルリ ンの壁崩壊(1989年)と東西ドイツ統合(1990年)、ソビエト連邦崩壊(1991年)、中国における、鄧小平の改革開放政策(1978年)、社会主 義市場経済政策(1992年)、香港返還(1997年)と一国二制度の社会変動、などをみても、社会制度や政治的な枠組みの革命的変動がなくても・・・す なわち、内戦などの社会的な混乱を伴わなくても、経済制度が「一瞬」といって差し支えないほどの短期間に一変することは、それほど特別なことではありません。

ポスト資本主義の環境を想像する際、社会主義でなければ資本主義、資本主義が崩壊したら新しい社会制度、というほど単純でもない筈です。例えば、日本は「世界で最も成功した社会主義国」と揶揄されることがありますが、この表現はそ れ程的外れではありません。現在の中国が社会主義国家であるということを社会実体からうまく説明することは困難ですし、マルクス主義国家として成立した旧ソビエト連邦と、アメリカ帝国主義へのアンチテーゼとして革命を成就し、当初は必ずしも意図していなかったにも関わらず、結果として社会主義国家体制を選択したキューバではその中身は大きく異なるでしょう。日本でも90年代後半以降、グローバル金融市場の拡大と時を同じくして、社会的な格差が急激に拡大しはじめるなど、実質的な社会変容が大きく進んでおり、「世界で最も成功した社会主義国家」の看板を下ろさざるを得ない状況になりつつあるようです。恐ら く、ポスト資本主義の社会体制も決して一様ではなく、また、右から左へとページを捲るように移行するものでもなく、社会的・歴史的・文化的・経済的な背景ごとに個別のペースで様々な変容を遂げるのでしょう。

少なくとも日本においては、資本主義国家の政治的、外形的な体制を残したまま、その経済・社会構造が本質的・根本的な大変容を遂げるということかも知れません。現在の非効率なグローバル金融・資本市場の欠陥を補うような次世代金融システムが芽生え、社会で機能し始め、やがて国家財政あるいは中央銀行の機能不全、大手金融機関、国際金融資本の大量破綻、実体経済の構造不全などをきっかけに、その主体が加速度的に交代して行くようなイメージです。・・・ドミノが倒れるように。

*(3) これに対して、かつて日本社会の特徴といわれた、株式持合、正社員の終身雇用、豊かな中産階級、高い貯蓄率、護送船団方式とメイン バンク制度、などは必ずしも資本の量が物事を決めるしくみではありませんので、非・資本主義的な社会を構成する要素であり、日本の「世界で最も成功した社 会主義」というイメージに重なります。