手を離す ― ロープのたとえ話
思い込みにしがみついている心は、ロープにすがりついている人に似ています。
もし手を離したら、落ちて死んでしまうと思って、自分の命のために一本のロープにしがみついています。両親や教師や他の沢山の人たちがそう教えたからです。そしてまわりを見まわすと、みんなも同じようにしがみついています。
彼に手を離しなさいと誘いかけるものは何もありません。
そこへ、一人の知恵のある婦人がやってきました。彼女は、しがみついている必要はない、そのような安全は幻想にすぎず、人を今いるところから動けなくしているだけだと知っていました。そこで、彼女は男を幻想から解き放ち、自由になるのを手伝う方法はないものかと考えました。
彼女は男に、本当の安全や、より深い喜びや、真の幸福、心の平和について話しました。そして、もしロープを握っている手の指を一本だけ離せば、それを味わうことができるのよ、と言いました。
「一本だけですね、喜びを味わうためだったら、それぐらいの危険はおかしてもいいな」と男は考え、最初のイニシエーションを受けることに決めました。指を一本離すと、彼は今までにない喜びと幸福と心の平和を味わいました。
しかし、それも長続きはしませんでした。
「もう一本指を離せば、もっと大きな喜びも幸せも心の平和もあなたのものよ」と彼女は言いました。
彼は自分に言いました。「これは前よりも難しいぞ。本当にできるだろうか。大丈夫だろうか。自分にそんな勇気があるのだろうか」彼は躊躇し、それから指の力を少し抜いて、どんな感じか試してから、思い切って指をもう一本離しました。
落ちずにすんだので彼はほっとしました。そしてもっと幸せで、心が平和になったことに気がつきました。
でも、もっと幸せになれるのでしょうか。
「私を信じなさい。今まであなたをだましたことがありましたか。あなたがこわがっているのもわかります。あなたの頭が何と言っているかも知っています。こんなことは気違いじみている。今まで習ってきたことに反するじゃないかって言っているのでしょう。でも、私を信じて下さい。私を見てごらんなさい。とても自由でしょう。絶対に安全だと約束します。あなたはもっと幸せになれます。そしてもっと満たされた気持ちになれますよ」と彼女は言いました。
「僕はそれほど、幸せと心の平和を望んでいるのだろうか」と彼は自問しました。「今まで一生懸命にしがみついてきたものを、全部手放してしまうだけの覚悟ができているのだろうか。原則的にはイエスだ。しかし、それが安全かどうか確信ができるのだろうか」こうして彼は自分の中の恐れを見始めました。恐れの原因を考え始め、自分が本当に何が欲しいのか探し始めました。少しずつ、ゆっくりと、彼の指から力が抜け、リラックスし始めました。彼は、自分にはできる、とわかったのです。そして、そうしなければならないことも知っていました。彼が握りしめていた指を離すのはもう時間の問題でした。そして、指を離してみると、もっと大きな平和の感覚が彼の内部に染みわたってゆきました。
「彼は今や一本の指でぶら下がっていました。理屈では、指がニ、三本しか残っていない時に、すでに落っこちていてもいいはずでした。しかしまだ落ちていません。「しがみついていること自体、まちがっているのだろうか」と彼は自問しました。「僕はこれまでずっとまちがっていたのだろうか」
「最後の一本はあなた次第よ」と彼女は言いました。「私はもうこれ以上助けられません。ただ、あなたの恐れはどれも根拠がないということだけは覚えておいて下さい」
自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。
何も起こりませんでした。
今までいた場所にそのままいました。
そしてそれがなぜか、彼はやっとわかりました。彼はずっと地面の上に立っていたのです。
地上を見渡した時、彼の心は真の平和で満たされたのでした。そして彼は、自分がもう二度と再びロープにしがみつくことはない、と知っていました。
(ピーター・ラッセル著、山川紘矢・亜希子訳、『ホワイトホール・イン・タイム』

ロープを手放したマスターたち
ピーター・ラッセルのロープのたとえ話は、経営やリーダーシップという観点に限らず、人生の諸問題の本質が象徴的に示されているような気がして、とても印象深い話の一つです。「捨てる(ロープを放す)」という、一見どのように考えても損だと思える行為が、なぜ最大のパフォーマンスを生むのか、ということが比喩的に、しかし非常に分かりやすく表現されているのではないでしょうか。トリニティ経営のフレームワークにおける「ロープ」は、例えば、収益の増加が企業価値を高める、事業の量的拡大が成功をもたらす、経営者が事業と従業員をコントロールすることが合理的である、目に見える合理性の追求が事業効率を生む、という「常識」に基づいた経営者の確信(思い込み)です。これらは自明とされ、一般的な経営者がこのような考え方を「捨てる」ことはあり得ませんし、文字通り自分の命と存在意義と生活を賭けてしがみつくべき最優先事項です。これに対して、マスターは「ロープ」を放すことを選択した人たちです。彼らによるリーダーシップは、事業の量的拡大と収益の追求を手放すことが事業の質を高める最大のポイントであり、事業の質的向上が事業価値の最大化と事業の成功をもたらす、従業員に奉仕する経営者が最も合理的な事業経営を達成する、合理性の追求は目に見えない実体を認識することで著しく効率的になる、という世界観を前提とするということでもあり、世の中で「常識」とされている膨大な経営作業が、実は企業価値を高めるための必要条件とは限らないという確信によってなされるものです。

「捨てる」ということ(再び)
前稿では、人が正直であるためには、自分の何か大事なものを「捨てる」覚悟が必要だ、とコメントをしましたが、「捨てる」ということは、正直であるためだけに限らず、あるいは経営においてのみならず、物事の革新、ブレイクスルー、悟り、ひらめきなどの根源であり、人生における学びと成長に非常に重要な役割を果していると言えないでしょうか。誰にでも似たような経験があると思いますが、初めて補助輪なしの自転車に乗って足を地面から離したとき、足が震えるほど緊張しながらも勇気を振り絞って初めて人前でスピーチをするとき、ずっと好きだった彼女に思い切って告白するとき、恐怖を乗り越えて初めての宙返りを成功させたとき、夏の大会の絶体絶命の場面で開き直るとき、営業で初めての取引を成立させたとき…。自分の殻を破るときはいつも自分の中の何かを「捨てる」ことによって新たな境地を切り開いて来たのではないでしょうか。非常に逆説的な表現ですが、ロープを手放すことで地に足が着くように(正確には、地に足が着いていたことを悟る、ということですが。)、どうも人生には「捨てることによって活かされる」というメカニズムが組み込まれているような気がするのです。

何かを選択するということは、それ以外のものを「捨てる」ということですし、反対に、人が何かを「捨てる」とき、その人は必然的にに他の何かを選択していると言えます。そして、自分にとって重要なものを手放す覚悟なくして真剣な選択をすることは困難であるため、「捨てる」ことができるか否かは、優れたリーダーであるための重要なクオリティなのです。「経営者がすべき最も重要な仕事は、必要なときに辞任すること(トリニティのリーダーシップ論《その1》参照下さい。)」と述べましたが、それを現実に実行できる経営者は人生において学びを経たマスターです。マスターが人間関係の接点で選択する三つの行動原則は、その見かけと異なり、非常に積極的な人生の選択を意味するため、これらを実行するためにも「捨てる」という作業が必要となるのです*(1)

リーダーシップとは幸せであるということ
トリニティ経営の世界観では、誰もが自分が心からやりたいこと以外のことをする必要がありませんし、人に対してそのように求めることもありません。このような組織におけるリーダーの役割は「人の役に立つ」ということのみです。逆に表現すると、人の役に立つものがリーダーに選別され、リーダーとしての唯一の仕事が人の役に立つということなのですが、リーダーであっても、自分の心からやりたいこと以外のことをする必要はありません。リーダーは自分が心からやりたいことをしながら …すなわち自分を活かしながら… 人のためになるという選択を行う者であり、それが可能であることを自らの人生で実証する者と言えます。先のように、「捨てることによって活かされる」ことが仮に人生のメカニズムであるならば、捨てるという稀有な能力によってリーダーとなり、その行為を通じて誰よりも人の役に立ちながら、しかし自分が誰よりも活かされる、ということが現実に起こり得るのではないかと思います。すなわち、最も捨てることを厭わず、最も人の役に立つものが、最も幸福になる、ということが合理的に成立するのです。

【2008.1.28 樋口耕太郎】

*(1) このように、マスターは、いわば「捨てる」ことによってリーダーに選抜されるのですが、社会における一般的なリーダーは「得る」ことによって選抜されています。例えば、役員などへの昇進はサラリーマン生活のゴールではなく、更なるチャレンジと新たな任務を果たすためのスタートに過ぎないと思うのですが、現在の企業社会(特に大会社)では、取締役昇進というとなにか長年の勤務に対するご褒美のように考えている人や、重要なゴールに到達したと解釈されがちであるような気がします。この場合、地位やタイトルは「ご褒美」なので、自分はそれを保有する権利がある、あるいは権限を与えられたことの印、と考えたくなるのも無理はないかも知れません。このようなタイプの方々は、「捨てる」ことを最も苦手とする人であり、色々な局面で自分を正当化しがちですし、経営とは利害の調整を行うことと、人に指示をすることだと信じているようです。

…このようなテーマはとかく人格的、哲学的、倫理的、道徳的問題で議論されがちなのですが、経営科学的には、経営合理性を議論すれば足りると思いますし、トリニティ経営のフレームワークを前提とすると、「得る」ことで選別するリーダーは非効率だと考えられます。

おめでとうございます!

お正月はいかがお過すごしでしたか~?
私はごくごくオーソドックスに、
年末に日頃気になっていた所のお掃除をし、手の込んだお料理をゆっくり作って
味わい、年越しそばをいただき、紅白歌合戦を観て今やもうついていけない
流行歌のお勉強をこなし、おせち料理を作り、
三が日は、お雑煮・お屠蘇をいただき、初詣に行き、ランニングもしっかり
こなし、ぐっすり眠って初夢を見たお正月でした。

そして、年末のお便りでご提案させていただいた通りに、自分でも
何もしない日を作ってみようと、ボーッと自分自身を見つめ直すがごとく
いろんなことを考えたり物思いに耽ったりして何日か過ごしてみました。
そうすると、以前にも書いて笑われてしまいましたが、小学校の時の
さんすうの問題で「ある人がリンゴを買おうとしたら…」なんて問題で
「ある人」のことがひどく気になり始めるという私の性質上、
普段とりあえず放っておいたいろんな気になることが出てくるわ出てくるわ…。
たくさんの方が思っていらっしゃることとだぶるかもしれませんが、
ご紹介してみます。

まずは「粒タイプ」のガムのこと。
いちどスキップしながらあれを口に放り込んで、気管に詰まらせてあやうく
死ぬところでした。あのような恐るべき殺人兵器が白昼堂々と
売られていることに慄然とします。スムーズに気管に吸い込まれるように
つるつるに仕上げた表面。両端を平たくつぶした流線型。ぴったり気管に
フィットする大きさと形。そこには明確な殺意が感じとれるではありませんか。
さらに恐ろしいのは、まったく同じような形と名前とパッケージのキャンディが
往々にして同じメーカーから発売されているという事実です。
キャンディをガムとまちがえて思い切り噛んだことによる歯及び顎への衝撃
および精神的ショック、といった惨事が、報道こそされないが全国で多数
発生していると思うのですが、その責任をクロレッツはどう取るつもり
なのでしょうか。
…なーどとまるでクレーマーのように大袈裟にブリブリしてみたり…。

「ロボコップ」について。
あの、顔の下半分だけ生身なところがいやです。境い目が何だか痛そうで
すごくいやなんです。なぜあんなむごいことをするのでしょうか。いっそ全部
ロボットにしたほうがすっきりするのに…。やっぱりあそこの部分は髭が
伸びるのでしょうか。だとしたら、毎日「ウィーン、カシャン、ウィーン」
などといいながら剃っているのでしょうか。……

「根掘り葉掘り」の「根掘り」はともかく、「葉掘り」って何なの?
それを言うなら「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは、いったい何が
焼けているの?
「首の皮一枚でつながっている」って、それってすでに死んでいるのでは?
……

ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、頭のスクリーンに、ぜんぜん別の
イメージが現れることがありませんか?
先日も「オムニバス」という言葉を言うか聞くかした瞬間、巨大な蓮の上に
金髪の子供が乗っている絵が現れていることに気がつきました。どうやら
小学校時代より愛用していた植物図鑑の「世界のめずらしい植物」のページに
載っていた「オオオニバス」と関係があるらしいのです。
「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速200キロぐらいの猛スピードで
泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満するのです。
また「ほとけさま」という言葉には、菊の形の落雁の映像が誘発されます。
これはたぶん子供の頃、祖母の家に遊びに行ったとき、祖母が「仏様が」と
言いながらお仏壇を指さす先にいつも落雁が供えられていて、幼い私は
しばらくその落雁を「ほとけさま」だと思い込んでいたからだと思います。
「眉毛」は西郷隆盛の顔を呼びます。これは、やはり「眉毛」と「睫毛」の
区別に長年苦しんだ幼い私が、「西郷さんの太い眉毛」とフレーズにして
覚えていたせいでしょうか。
言葉が無意識のうちに別の形に変換されていることもあります。
私の頭の中では以前「エリック・クラプトン」は「エリック・フランプトン」
に、「たかしまや」は「たかましや」に、「鉄筋コンクリート」は
「鉄筋キンクリート」に、「シフォンケーキ」は「マフィンケーキ」に、
常に置き換えられていて、どうやっても消去することができないので、いつか
実際に言ったり書いたりしてしまわないかと心配です。

TVをボーッと観ていると大相撲の映像。ここでもまた何十年来の疑問である
「男性の乳首問題」について否応なしに考えさせられました。
思えば、人体においてこれほど役に立たない部位もちょっと他にありません。
男女の役割が未分化だった頃の名残りだとかいう説もありますが、男は狩猟、
女は育児という役割分担ができてからいったい何千年経ったと
思っているのでしょうか。いい加減あきらめて退化してもよさそうなものでは
ないでしょうか。だいたいこの手の一見もっともらしい説は、どれも怪しい。
髪の毛は頭を守るためにあるとか、乳房は前からみたお尻であるとかいう説に
したって、それらなしで立派に幸せにやっている人が大勢いらっしゃることを
思うと、どうも説得力に欠けるのです。

胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、
そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのですが、
それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。
あれがひどく気になるんです。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、
いつももどかしく思うのです。どうやらどんな薬でも、薬関係の
コマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようです。
いったい何を彼らは恐れているのでしょうか。全部きれいになくしてしまうと、
「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるので
しょうか。たぶんいるんでしょう、私のようなのが。ナーンテ!

同じようなものでありながら、「髪」に比べて「毛」は不遇ですよね~。
「髪」は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを
担当しているのに、「毛」ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと
ろくなことがありません。「剃髪」には厳かな響きがありますが、「剃毛」は
なんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の
毛の乙女」とは言ってくれません。「毛」は体毛の総称であり、「髪」は言わば
その一部署にすぎないのだから、「毛」はもっと優遇されてしかるべき
ですよね…。

ここからは私のお友達のお話ですが。
彼女は「おおよその見当」というものがつけられない人なんです。
お料理のレシピで「適量」とか「あとは適当に味をみながら」などと
書いてあるともうそれだけでパニックになるんです。どれくらいが「適量」
なのかが、まるでわからないから。「ここから200メートルほど先を右」などと
言われると、茫然とするしかないそうです。なぜ200メートルなどという、
自分の身長の100倍以上もあるような距離が実感としてわかるの?と。
彼女に体感できる距離は25メートルまでで、それはお察しのとおり、小学校の
プールの長さです。そこでまず小学校のプールの大きさを記憶の中から呼び出し
(それと一緒に、思い出さなくてもいい塩素の匂いや、紫色の唇や、
進級検定のときのドキドキまで蘇らせつつ、だそう。
さすが私の友達だけあるなぁ)、それを目測で道路の上に一つ、二つ、三つ…
と並べていくそうですが、五つあたりでもう目がわからなくなるそうで、
人はいったいどうやって「だいたいこんなものであろう」という判断を
つけるのだろうかといつも思っているんだとか。

ところで。
これまで書いてきたような事は、他愛ない新春お笑いネタのようなものばかり
でしたが、昨年もたくさん書かせていただいたような、
「今、この国の状況はかなり変だ」と真面目に思うようなことの数々についても
今年も、みなさんから「うざい」と思われても引き続き書いていこう、
話し合っていこう、と思っています。

勿論、話すことというのはそんな重たく、面倒くさい事ばかりでは
いけないと思います。こちらもくたびれます。生きる楽しさ(例えば愛、
遊び、こころ)を話し合うのは勿論のことです。でも生きる苦しさ(例えば生命、
生活苦、病気)から目をそらしてもまたいけませんよね。日常生活を思えば
解ります。私たちは一日中楽しいわけでも、一日中苦しいわけでもありません。
楽しみの中に時折苦しさや悲しさが訪れ、苦しい最中にふと、喜びが訪れたり
します。喜びの絶頂の時、既に悲しみの種は蒔かれていますが、よく見れば
絶望のどん底の時、既に喜びの芽は必ず芽吹いています。生きるということは
そういうことなのだと思うのです。

私は話したり書く勇気がある限り、たとえみなさんに届かなくても声を限りに
「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を伝えようと思います。それは自分自身が
「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことなのです。何故なら
自分が正面切って自分の命と向かい合っていなければその楽しさや苦しさを
表現できるはずなどないからです。

さて、では世の中にはそういう私の声がきちんと届くかというと残念ながら
そう簡単なことではありません。「選挙宣伝カー」の件も「しおかわ橋」の
件も「添加物」の件も徒労だったかもしれません。

言葉というものは「価値観」が違うと伝わらないからです。どれ程心を尽くし、
深い言葉を重ねたところで、価値観が違う人には理解しようがありません。
また、人の価値観を理解することは難しいものです。自分には自分の価値観が
あるからです。でも、あなたの価値観以外にもこういう考え方がありますよ、
と伝えることは大切なことのような気がします。そのことによって人生の目が
拡がることがあります。事実、私はお客さまやお友達の言葉から、また映画や
本や音楽などから凝り固まった自分の考え方以外にもこういう素敵な考え方、
感じ方があるのか、と目から鱗が落ちる思いでで教わることは多く、それが、
以後の自分の人生をうんと明るく強くしてくれていることも確かだからです。

普段いろいろな方達とお話させていただいているとそうでもないのに、
ここのところ、世間の価値観と、どうにも噛み合わないことが多いのです。
ことに生命について、心の有様について、お金に対する考え方、また、
遊びに対する感覚や意識。親、友達、恋愛について。どれもこれもです。
それは単に私が年齢が上がってきて理解できないということだけでは
ないはずです。人々自身もまた生命や心といった「自分」に迷い、
理解できていないのではないでしょうか。

今年もそんなことについてお伝えしてゆこうと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

さあ、新しい年ですよ!

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今日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体。一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとして
おすすめです。
ぜひ召し上がってみてくださいね。

そして、金曜日は“鏡開き”の日。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使います。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
この日に食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
この日はおぜんざいにして、ぜひお召し上がりくださいね。

【2008.1.7 末金典子】

『トリニティのリーダーシップ論《その3》』では、スターウォーズには重要なモチーフが少なくとも三つ存在し、その一つ目は、目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」ではないか、とコメントしました。特に「この世の善と悪を分けるものは何か」という三つ目のモチーフについては、アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなるプロセスにヒントがあると感じて以来、彼がなぜダークサイドに落ちたのかということについて色々考えずにはいられませんでした。そして、現時点での僕なりの結論は次の通りです。

善人がダークサイドに落ちるとき
第一に、アナキンは母親を愛し、妻(パドメ・アミダラ)を愛する人間であり、彼がダークサイドに落ちた原因は、彼が「悪」であったからではなく、むしろ彼の深い「愛」*(1) に起因しているということです。第二に、悪の象徴であるダース・シディアスが、善良なアナキンを、あるいは後のダース・ベイダーが、善良なルークをダークサイドに誘惑する方法は、善人の強い「愛情」*(1) を裏づけとした復讐心などを駆り立て、怒りと恐れに身を委ねるように仕向けるのです。第三に、それがたとえ悪に向けられた正義の義憤であったとしても、善人がこの怒りに負けて相手を叩き潰(コントロール)したときに自分もダークサイドに落ちる、というメカニズムが表現されているのではないでしょうか。特に、①フォースは知識と防御のみに利用するべきもので、これを攻撃の手段としたときにダークサイドに落ちるとされていること(エピソードV)、②ルークが修行の最中、怒りと恐怖に負けて、想像上のダース・ベイダーを打ち倒したとき、倒された相手の姿は自分自身であったこと(同)、③ルークが修行の最後にダース・ベイダーと対決し、自分の怒りや恐れを制御することを学ばなければ、ジェダイ騎士になることができないとされていること、すなわち、どんな「正当性」があっても他人をコントロールせず、怒りや恐れではなく常に愛によって行動することを学ぶことでジェダイ・マスターになること(エピソードVI)、④エピソードVIのサブタイトルは、当初「ジェダイの復讐」とされていたのですが、ジェダイは復讐をしない、という根拠により「ジェダイの帰還」に変更された経緯があります、はいずれも第三のモチーフに関する僕の分析と整合性を持つように思います。

攻撃はダークサイドへの道
ダークサイドに陥る原因は、優しさの有無ではなく、正義の有無ではなく、恐れと怒りを制御できるかに依るということだと思います。恐れと怒りは自分の心の中で生まれるものですが、人は往々にしてその原因が自分以外にあるように感じてしまうものです。そして、恐れと怒りに負けた瞬間、人は自分自身の中にある原因に向き合うことを放棄し、他人を攻撃(要求)する行為に及び、ダースベイダーとなって世の中の無数の問題を引き起こす原因となります。スターウォーズは大きな物語として構成されているため、ダースベイダーは特別な人格と思われがちですが、神話や伝説には相当なリアリティが含まれています。現実の社会には無数のダースベイダーが存在しますし、たとえ「善良」な人であっても一日に何度もダースベイダーとして振舞ってしまうのが人間というものかも知れません。それどころかより善良で、より正義感の強い人ほど、そして自分に正当性があると思える時ほど、ダークサイドに落ちやすいのです。例えば、人に裏切られたとき、それがひどい裏切りであるほど相手に報復をする「正当性」に抗することは難しくなりますし、事故の被害者が加害者に厳刑を望むことは、社会的にも許容される「正義」で、これに法の裏づけがあればなおさらです。この自分の心の中の恐れと怒りを他人に向けたとき人はダースベイダーとなり、自分と向き合うことでジェダイとなるのです。したがって、ジェダイにとっては、「なにが正義か」という議論にあまり意味がなく、「人に要求せずに自分と向きあう」という自己作業が何よりも重要だということになります。自分と向き合うことは、誰にとってもとても苦しい作業なのですが、ジェダイはこのプロセスを通じて自分の幸福と、そして自分の幸福を通じて他人の幸福を生み出す存在なのだと思います。どこから引用したのか、自分でも忘れてしまったのですが、次のような素敵な挿話があります。

神はこの世を創ったとき天使たちを集めてこういった。
「私は自分の姿に似せて人間を創る。彼らは想像性に溢れ、知的で善良だ。神聖なもののすべてが生まれながらの権利として彼らのものになる」
天使たちは言った。
「でも、彼らがその真実を知っていたら、人生がうまくいきすぎて退屈になるでしょう」
「ならば、私はその真実を一番高い山の頂上に隠そう」と神は言った。
「人間たちは簡単に一番高い山に登る方法を見つけるでしょう」と天使たちは言った。
「ならば、大海の一番深いところに沈めよう」と神は言った。
「人間は一番深い大海に潜水する方法を見つけることでしょう」と天使たちは言った。
そのような頭の良い生き物から真実を隠すのはどこがいいかという話し合いに熱がこもっていった。雲の中、月の上、遠い銀河の中…。やがて神はすばらしいアイディアを思いついた。
「わかった。」私は真実を人間の心の中に隠そう。そこは彼らがいちばん最後に探す場所だろうから」
天使たちは拍手した。そこで神はそうした。

オビ=ワンの死の謎
さて、スターウォーズには四つ目のモチーフが存在することに、ごく最近気がつくのですが、僕を最も悩ませたスターウォーズ最大の謎は、ジェダイ騎士であるオビ=ワン・ケノービがダースベイダーと戦って「死ぬ」とき(エピソードIV)、オビ=ワンは自ら最後の戦いを放棄して、敢えてダースベイダーに自分を殺させることを選んだように見える点です。この一瞬のカットは本当に長い間僕を悩ませました。初めてこのシーンを見たときからつい最近まで、実に25年以上に亘って、なぜ彼があのような死に方を選択したのかがずっと気になっていたのですが、最近ようやく僕なりの一つの結論に辿り着きました。

「ジェダイ騎士がフォースを防御のみに利用する」とは、マスターが(自分の正義や愛を根拠として)自分以外の誰かに何かを要求しないということであり、マスターの心の中に生じる怒りや恐れの原因を他人に求めない、ということの比喩だと思います。マスターは人間関係の接点で相手に一切要求をしないため、他人からの攻撃に対して反撃で対抗することはできない(しない)のですが、現実的な問題として、マスターは、恐れや怒りの原因を他人に求める世の中のダースベイダーたちの攻撃の対象になりがちです。この状態において争いを避け、問題を解決する最も効果的な方法は、自分が身を引く(相手の思うようにさせる)ことであり、これを実践する者がジェダイであり、オビ=ワンの死はこれを象徴しているのではないかと思います。

「捨てる」ということ
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが、自分自身にとって最も効率的という発想は、相当常識はずれに聞こえるかもしれませんが、自分が「死ぬ」、あるいは「死」という表現に語弊があるならば、「自分が重要だと考えるものを捨てる」ことによって莫大な効果を生み出す事例は世の中にも、一人ひとりの人生の中にも溢れています。

僕は高校を卒業するまで岩手県の盛岡市で過しました。履歴だけを見れば、小中学校は国立大学教育学部付属の一環校、高校は県下有数の進学校ということではあるのですが、成績は小中高いずれも常に最下層の20%~40%あたりが僕の指定席で、高校入試に失敗し、世の中では珍しい(もっとも私立高校の少ない岩手県ではそれ程珍しいことではないのですが)中学浪人を経て高校に進学しました。中学時代の野球部のチームメイトが高校の野球部では皆僕の先輩となり、彼らから厳しい「指導」を受けることになります。中学校の数学の先生は野球部の監督でもあり、高校受験志望校に対して僕の成績があまりにひどいことに呆れていたと思います。期末テストのひどい点数の答案を僕に返すときの、先生の嫌味交じりの顔つきが今でも印象的です。その後クラスで答え合わせをします。答え合わせの際、もし採点の修正がある場合は先生に申告し、点数を訂正してもらうのですが、当然にして修正を申告する生徒の殆どは点数を上方修正することが目的でした。その中で、僕はそれ程深く考えもせず、採点の誤りに気がつくとそれが上方であれ下方であれ申告することが習慣となっていましたので、余計に変わった生徒と思われていたかもしれません。高校受験も後半戦となり、僕なりの追い込みが奏功し成績も上向きになり始め、勉強への真剣味が増すほどに期末テストの点数と内申書が気にかかる時期になりました。この、折角調子が出始めた時期、僕にしては相当力を入れて勉強して、少なからず結果を期待した数学の期末テストで、やはり散々な点数を取ってしまいました。更に答え合わせで下方修正箇所を見つけてしまい、このときばかりはそのまま黙っていようかどうか一瞬迷ったのですが、結局落胆しながらも先生にこの修正を申告しました。普段僕のことをあまり好きではない先生も、ひょっとしたら今回はこの潔さを褒めてくれるのではないかとぼんやり考えたりもしましたが、僕が修正箇所を申告すると先生は「これ以上下がるのか」と一言。そんなときの先生の表情はなかなか忘れられないものです。

ちょっと前、このときのことを(なぜか)オビ=ワンの死と重ねて考えたことがありました。思い至ったのは、数学の期末テストの答え合わせで僕が下方修正箇所に気付いた瞬間から、答案の修正申告を先生に決意するまでの一瞬は、いわば自分にとってなにか重要なことを「捨てた」瞬間だったのではないかということです。そう考えると、確かに、正直に行動することは、自分の大事なものを捨てる覚悟をすることなのです。期末テストの答案の下方修正申告を決めたとき、僕は、期末テストの点数を高く維持し内申書を少しでもよくしようという気持ちを「捨てて」います。それは、高校合格という目標のために積み上げている階段を数段放棄する決断、と言えば大袈裟に聞こえますが、少なくとも主観的な自分の意識の中では、この階段という、そのときの自分にとっては恐らく最も重要な「モノ」の一つを現実に「捨てる」という「行動」なのです。翻って、それがどんなに小さなものであっても、人が正直なことを決断するとき…、例えば、遊んでいてお母さんの大事な陶器を壊してしまったことを告白する瞬間、学校でのいたずらが問題に発展したときに「自分がやりました」と先生に名乗り出る瞬間、内定が取れないのではないかという不安を抑えて、就職活動で履歴書に偽りのない内容を書こうと決めた瞬間、苦しいノルマを背負い、この商品が売れなければ目標数値が達成できないという恐怖を堪えながら、お客様には偽りのない商品説明を行う瞬間、自分の利害を離れて会社全体のために戦略的な大型投資を決断する、あるいは取りやめる決断をする瞬間、会社の本決算を賭けた大きな案件が今期内に成立しないかもしれないと役員会で報告する瞬間…、どの瞬間も全く同じメカニズムが働いているような気がします。

正直であるということと捨てるということに、このような重大な繋がりがあるという発見は、僕にとっては非常に大きな出来事で、逆に表現すると、正直であるためには捨てる覚悟が必要だと言う気付きでもあります。そして、「捨てる」勇気と決断は、オビ=ワンとジェダイの持つ勇気と決断でもあり、見かけの重要性とは無関係に、全ての正直な決断の局面で全く同様のメカニズムが機能します。このため、小さな正直が実行できなければ、正直な経営を行うことは困難ですし、小さな正直を実行できる勇気は、事業における最大の決断と同様の意味を持ちます。少々大袈裟な言い回しに聞こえるかもしれませんが、数学の答案の下方修正を決断した瞬間は、僕の人生におけるとても重要な決断がなされた瞬間でもあるのです。少なくとも僕の場合、このような小さな勇気の数々によって、その後の人生がどれ程豊かになったか、また、もし小さな勇気を持たなかった場合のその後の人生を想像すると、本当に本当に重要なことだと思えるのです*(2)

明治維新のジェダイたち
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが最も効率的である、ということが最大限に実証された時代は、日本の幕末から明治維新ではないでしょうか。僕は個人的に、飛鳥時代と幕末・明治維新は、日本の歴史において最も重大な二つの転機だと思っているのですが、特に明治維新前後の時代は資料も豊富で、知れば知るほどどんどん引き込まれてしまいます。この時代は「捨てる」ことを決意した多数のジェダイが存在したことが大きな特徴です。明治維新という事実上の国家の大革命の真ん中で、例えば江戸城の無血開城や大政奉還という偉業が実現した奇跡は、「捨てる」ことによって多大な社会的損失を未然に防いだ行為の典型で、日本が世界に誇るべき史実の一つだと思います。これらが成立した影には、西郷隆盛、勝海舟をはじめ、勝海舟の全権使者として事実上交渉をまとめた山岡鉄舟、最終決断を行った十五代将軍徳川慶喜、家老板倉勝静、江戸城無血開城に先駆け自藩備中松山藩を無血開城した板倉勝静の懐刀備中松山藩家老山田方谷*(3)など、数々のジェダイが存在しています。

現代の「成功者」の定義は、おおよそ「多額のお金を得たもの」「有名になったもの」「権力を持つもの」という程度に成り下がってしまいました。人間関係を最も大事にするマスターは、社員をはじめ多くのステイクホルダーのために力を尽くし、自分が最も大事にするものを「捨てる」勇気をもつジェダイです。マスターによるリーダーシップは、その見かけに反して(一見穏やかで、弱々しく見えます)極めて効率が高く、そして何よりもそのような生き方が経営者自身を幸福にします。このような経営者が本当の成功者として若者の目標となり、社会的に尊敬される年になれば良いと思います。

【2008.1.2 樋口耕太郎】

*(1) 別の機会で詳細にコメントしようと思いますが、アナキンの「愛」を含め、一般に「愛」と理解されているものの大半は、「執着」に過ぎないことが多いような気がします。少なくとも本稿の愛の定義では、愛は他人に一切要求しないものであり、愛することによって相手を自由にします。相手に対して何かを求めることは相手の自由を奪う行為であり、愛ではなく単なる執着と呼ぶべきものでしょう。逆に表現すると、世の中で、あまりに多くの執着(他人に対する要求)が愛の名を借りて為されているために、非常に多くの問題が生じているのだと思います。この違いを理解することは非常に重要な意味をもちます。

*(2) このように書くと、なにやら美しいのですが、もちろん勇気を発揮できずに終わった無数の人間関係も同様に経験しています。ひょっとしたら、正直に行動できなかったことの方が多かったかも知れません。それでも何回かに一回発揮することができた小さな勇気は、僕のその後の人生を遥かに豊かにしたとは言えると思います。

*(3) 山田方谷(ほうこく)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)が生んだ幕末の偉人で、歴史上あまり知られた人物ではありませんが、その偉大な功績は知れば知るほど底知れず、なぜこの人物が歴史の中に埋もれているのか僕には全く理解でません。方谷の人生をハイライトすると、とても一人の人物によってなされたとは思えないほど多様かつ重大な実績を残しています。

そして、方谷の本当の物凄さは、彼が為し遂げた一流の成果を、いとも簡単に捨て去ったことにあります。例えば方谷が整備した松山藩の農兵隊は、恐らく当時の日本としては最強水準で、方谷が松山城を無血開城しなければ、北越戦争を凌ぐ戊辰戦争の大戦になっていたに違いありません。通常軍備は戦うためのものと解されていますが、方谷は最強軍備を「捨てる」ことで、全く異なる政治的価値を生み出しています。また、彼ほどの実績と能力と洞察をもった偉人が、歴史に埋もれている理由の一つは、彼が自分自身を歴史から「捨てた」ことによるのではないかと思います。彼は備中松山藩の藩民を救うために、藩主板倉勝静にある意味反する行動をとっています(この両者には強い信頼関係があったとは言え、方谷は主君である勝静を事実上軟禁しています)。彼はこの一件について自分を歴史から捨て去ることで、君主への筋を通しながら藩民を救うという難題を両立させたのではないかと思います。

方谷は、末期とはいえ身分制度の厳しい封建時代に、農民出身でありながら備中松山藩の家老として藩政の全権を揮い、恐らく日本で最も優れた事業再生家であり(僕は、二宮尊徳や上杉鷹山を凌ぐのではないかと思います)、殖産興業を実現した政治家であり、通貨のメカニズムに精通した財政家であり、ケインズが登場する80年以上前にケインズ政策を実践したマクロ経済的洞察力を持ち、幕末時流を正確に読む戦略家であり、長州奇兵隊の十年も先に農民を中心とした西洋式の農兵隊を組織し、当時の日本において恐らく最強水準の兵力を整備し、その兵力は長州奇兵隊を遥かにしのぐと恐れられた軍事家であり(有名な高杉晋作の奇兵隊は、方谷の農兵隊を見た久坂玄瑞がこの兵力に衝撃を受け、長州でこれを真似たものです)、明治維新のクライマックスである江戸城開城に先駆けて、藩民を戦火から救うために備中松山城無血開城の英断を単独で行い、徳川慶喜の大政奉還の上奏文を起草した哲学家・文章家であり、封建の時代に生きながら藩民を守るために政治を行った君子であり、政治家として成功を収めながら私財の一切を開示して蓄財をせず、更に明治維新後も新政府から異例の出頭依頼を再三再四受けながら、その後一切の社会的地位を捨てて自ら農民に戻って田畑を耕し、時代の表舞台から自ら身を引いた人物です。

方谷と松山城無血開城に関する逸話で、備中松山藩のジェダイの死によって、大勢の藩民が救われた挿話があります。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜と共に夜陰にじょうじて江戸に逃れる直前の藩主板倉勝静(かつきよ)は、今まで勝静を護衛してきた熊田恰(あたか)にひとまず国元へ帰れと命じた。神影流の達人で師範役の熊田恰が護衛役の百五十余人の弟子をつれて船十四艘を雇い、混乱する大阪を出帆したのは一月七日のことであった。不運な彼等は連日の西風の強風に妨げられ難航を重ねて、ようよう玉島の備中松山の飛地にたどりついたのが十七日。突然、武装した百五十余名もの敗残兵が上陸してきて、玉島が騒然とした空気に包まれたのは言うまでもないことである。一月十七日といえば、松山城が無血開城を決め、松山藩士が城下街の外へ撤退作業を進めていた最後の日だった。

備前岡山に隣接する玉島に上陸した熊田恰の動静は、たちまち備前藩の知るところとなった。城の留守部隊のほぼ全軍が備中松山の玉島領土を包囲し銃砲を向けた。町内は阿鼻叫喚、右往左往の避難者の混乱で名状しがたい惨状と化した。鳥羽伏見の残党をおめおめ逃がしたとあっては、備前岡山の面子がつぶれてしまう。熊田部隊は完全に周囲を遮断され、文字通り袋の鼠そのものとなった。一月二十一日、玉砕覚悟の熊田恰のもとに、二人の雲水に身をやつした密使が方谷の密書をおびてしのんできた。
「百五十名の命にかえて死ね。」

火花を散らした二つの藩のぎりぎりの妥協線から生まれた結論であった。(中略)

備前岡山藩主池田茂政は、熊田恰の自決を武士の亀鑑と称揚して、目録をそえて金十五両と米二十表を熊田家に贈った。備中松山藩士達に対する感情処理である。死して熊田は家老格を追贈された。年は四十四歳だった。戦火を免れた玉島市民は、羽黒山の頂に祠を建てて熊田恰を祀った。御神体は熊田の遺刀であった。

深山渓谷の長瀬の自宅で山田方谷は見事な熊田恰の最後の様子を聞いた。人前では泣かぬと言われた方谷が涙を流した。死ぬことを覚悟してきた方谷が生き残り、方谷の意をくんだ熊田恰が死んだ。百五十余名の熊田の部下は、彼の自決によって助命された。玉島の住民も又戦火をのがれることが出来た。尊い犠牲である。義と名誉のためには生命を棄てる武士道の時代、死なずに生きる道を選ぶ方がはるかに辛い苦痛を引きずることになる。求めた死に場所を天から拒否され、心ならずも生き残った老残の身には、落城した藩民の前途がずしりと重くのしかかっていた。(矢吹邦彦著『炎の陽明学 -山田方谷伝-』

山田方谷に関連して、方谷を生涯の師と仰いだ河井継之助も、その極めて高い能力に比してアンバランスな小藩越後長岡藩にこだわり続けた幕末の異才です。彼も「死ぬこと」が最大の効果を生むことを理解していた一人で、それが分かる挿話を引用します。

「殿様が将軍さまの御身辺をおまもりになるために上方へのぼられる」
継之助は城内にいて出陣の総指揮をとった。
「お供は六十人」
と、継之助は人数を限っていた。出陣とはいえ、服装は陣笠、陣羽織、義経袴、手甲脚絆に皮足袋といった火事装束に似たかっこうを継之助は指定した。いわば半戦闘服であった。
槍、鉄砲はもたない。
が、それは人目にめだたぬよう荷駄に梱包した。鉄砲はことごとく継之助自慢の最新式洋式銃であり、あつくこもをまいてわからぬようにした。
「六十人とはいえ、いざとなれば五百人の威力があるのだ」
と、継之助は自分の補佐役である三間市之進にもらした。
随行の士は、選抜方式をとった。幹部はことごとく気骨と才腕のあるものをえらび、士はことごとく武芸達者をえらんだ。
この夜、城の御三階に六十人をあつめ、
「京大阪には何者が横行しているか。口に尊王をとなえ、腹いっぱいに不平を蔵し、乱をのぞみ、おのれの名を知られんことを望んでいる連中ばかりである。朴歯の高下駄をはき、長大な刀を帯び、鳶肩をいからせ、目を鷹の目にすごませ、路上を横行し、暗殺暴行を事としている。それが、いわゆる尊王の士だ」
と、明快に規定した。
「が、それらの挑発に乗るな」
と、継之助は意外なことをいった。彼らが斬りかかってくればおとなしく斬られよ、死ね、と継之助はいった。
「さればこそ勇気のある者を選んだのだ」
という。かれらの挑発に乗れば将軍もわが藩公も朝敵にされる。それほど京はむずかしいのだ、と継之助はこの一点に念を押した。

いよいよ今夜上洛ときまった日の午後、継之助は一同をあつめてふたたび訓戒した。
「斬られよ」
という、例の訓戒である。
京は、無警察状態であった。幕府の警察組織はすでに京をひきはらっていた。新撰組も伏見へ退去したし、町奉行は大阪へ去り、京都守護職(会津藩)も大阪にひきあげており、市中を巡回するものは、薩摩、長州、土佐、芸州、尾張、あわせて五藩、いわゆる宮門守護藩の藩兵だけであった。徳川直系の越後長岡藩の藩主と藩兵が京には入れば、かれらは昂奮し、あるいは衝突事件がおこるかもしれない。かつ、市中を横行する者は、新政府樹立をきいて京に馳せ集まってきたいわゆる勤王を称する浮浪の徒で、かれらは好んで挑戦してくるに違いない。
「斬られよ」
というのはそのことであった。
「いっさい刀を抜くな。つかにも手をかけるでない。おとなしく斬られてしまえ」
と継之助はいう。
「もしもだ」
と、念を入れていった。それに応戦すればかれら薩長はその事件を言いがかりにして長岡藩主牧野忠訓を「朝敵」にし、さらに上様に累を及ぼさせ、徳川討伐のよき口実にするであろう、ということであった。(司馬遼太郎『峠』