こんにちは。
お元気ですか?

今日はハロウィンですね~!
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。その後、多くの聖人たち(Hallow)を
祝う万聖節となり、近年、欧米では魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を
回ったり仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのことです。
日本では子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事が
ポピュラーなアメリカでは、大人たちも本格的な仮装に身を包み、
街中はもちろん職場にまで登場。友達や仲間同士で集まり、パーティで
盛り上がります。
大人もたまには子供に帰って遊ぶという気持ちは大切なことかも
しれませんね。

そこで私もちょっと童心に帰って……思い出したことがあります。
子供の時から引っ掛かっていたことがこれなんです……。

女の子は小さな時、ままごとをしますよね。
私も毎日のようにままごとをして遊んだものです。私がお母さん役になり、
人形を赤ん坊にして、ハンカチのおしめをとり変えたり、抱っこしたり。
お父さん役にはやはり男の子が望ましいと、私はお父さんになる男の子を
探しました。そして一つ年下のやさしくて静かな健ちゃんをままごとに
引っぱり込むことに成功した時、私はうれしくて、でもなぜだか
うしろめたかったんです。男の子がままごとを喜んでやるとは思えなかったので、
だまくらかした感じがして、いつ「やーめた」といわれるかハラハラしたから
なんだと思います。戦争ごっこをしている外の男の子に見られたら健ちゃんは
恥ずかしがるだろうとなと思いもしたり…。
それでも健ちゃんは泥まんじゅうがのっかっている木の葉を恥ずかしそうに
持ち上げて「パクパク。ああ、おいしかった」といってくれて、
私は酔ったように甘ったるい気分になりました。
ごはんを食べ終わると健ちゃんは会社へと出かけていきます。ござのへりに
ぬいだ靴をはいて「行ってくるぞ」と言い、私はござのはじに両手をついて
「お早くお帰りになって」とおじぎをし、健ちゃんは、すぐそばの木を
一回りして「ただいま」と帰ってくるのです。
ただそれだけのことでした。それだけだからすぐあきもしました。
あきても私はままごとが好きであり、健ちゃんをお父さんにする
うしろめたさとうれしさを何度も味わったものでした。

そして私が大人になり、初めて男の人に結婚を申し込まれた時(!)私は
ままごとに健ちゃんを引っぱり込んだのと同じような気がしたのです。
男は本当は結婚なんか望んでいないんじゃないか、戦争ごっこを
泥まみれになってやっていたいんじゃないか、と。
友だちの結婚式に出席してお祝いしているさなかも、はっとわれにかえって、
結婚式が大げさなごっこであり、集まって来た男たちは、木の葉っぱの上の
泥まんじゅうを「パクパク」といって食べている仲間をひやかしに
来ているようなそんな気がしたりしました。
つまりは、男って本当は結婚などせずに、ずっと自由に子供のままで
生きていたいのではないのかしら、ということを感じ続けてきたわけなんです。

それどころか、男って実は一生“子供そのもの”のままなのかもしれません。
梅佳代さんの写真集に「男子」というのがありますが、これがすごくおもしろくて、
小学生に「今から写真撮るよ~」と声をかけると、女子は可愛くちゃんと
カメラにポーズをとるのに、男子はというと、好奇心いっぱいの動物のように
レンズににじりより、定番が白眼をむいてのポーズ。あとは鼻に手を突っ込む、
道路に寝っころがる、など、とにかくおバカなポーズばかりとるんです。
この写真集はこのおバカな(つまりは照れ屋な)男子ばかりを愛情込めて
撮り集めてあるものなんですが、つまりは、男は大人になったってこういう
習性はさして変わらず、あいも変わらず照れ屋で、子どもの頃プラモデルに
熱中していた時そのままに、「へ? いまだにそんなことを?」なんてことに
熱中していたり、夢見続けていたりするものではという気が、いろいろな男性と
お話していると感じています。

そしてまた男は子供なだけではなく、とても繊細で脆くて弱い生き物だなぁと。
失恋となると、女は、別れるまでは「捨てないでぇ~」などと泣いてわめいて
大騒ぎするくせに、いざ別れてしまうと半年もするとケロッとしているもの。
でも男はそうはいきません。結構いつまでも引きずっている人が多いようです。
もしかして「女々しい」とは「男々しい」と書くのではないだろうか、
と思うぐらいに。まあ、神代の昔から、「原始、太陽は女であった」と
言われているのだもの。逆に、男はロマンティストで、神経が繊細で、生理的にも
精神的にも弱いからこそ、神様は男に腕力を与えたもうたのではないでしょうか。

自分が歳を重ねるにしたがって、自分より年上だったり、尊敬できるなと
思う人でも、何かのときにどうしてこんな子供なんだろうって感じることが
よくあります。私はそういう意味では男の人には大人を求めようとすることを
しなくなりました。そうなると逆に子供の部分がすごく愛おしくなったり
するんです。これは決して男の人をバカにしている意味ではなくて、
違う意味での尊敬感なんです。つまりは、女が「男は強いもの!」と決めつけず、
変に男に頼らずに求めずに「男は繊細で子供のように純粋で脆いもの」と
愛おしく想い、包むように愛すことができたなら、世の男女の関係って、
もっとスムーズで、素適なものになるような気がするのです。

でも、信頼できる大人の強い男性に愛されて、心から落ち着き、
安らげる関係こそ“心に優しい恋愛”だと多くの女は思ってしまうわけです。
私も以前はそう思っていました。でも今は、相手から癒されるために恋愛を
するのだとは捉えられなくなりました。
そもそも恋愛ってそんなに癒されるものじゃありませんよね。もちろん幸せな
恋愛もあるけれど、そこまでにはつらさや切なさを乗り越えなければ
ならなかったり、手に入れた後でもまた行き違いが起きたり…。
癒される瞬間があるとしたら、それは人を心から好きになれる自分に気づいた時。
その気持ち全体が、心を癒してくれるのではないかと思うんです。
つまり、他人に寄りかからず、自分の気持ちを純粋に信じた時、
「相手の愛情に癒されるのではなく、人を好きになった自分自身に癒される。」
のだと今は思います。

さてさて、今日は、純粋で子供な男性と一緒に、女性も優しく包み込むような
気持ちで、ハロウィンをわいわい楽しみましょう!

私も魔女に変装し、八ロウィンの飾り付けやかぼちゃのパイやケーキとともに
あなたをお待ちしております!

「麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!」

ハリウッド映画といえば能天気な作品の代名詞のようもに言われますが、中にはその見かけとは全く異なる普遍的なモチーフが秘められているものも少なからず存在し、アメリカという国の底力を感じることがあります。スターウォーズシリーズはその典型でしょう。1977年の第一作以来、斬新なシナリオと独創的なSFX技術が大きな話題を呼んで一大ブームを巻き起こしたのですが、僕はシリーズが大ヒットした本当の理由はそのモチーフにあると思っています。ジョージ・ルーカスの昔のインタビューで、彼がスターウォーズのシナリオを構成するときに、「世界中の神話や伝説を研究した」とコメントしていたのですが、それを聞いて納得しました。僕が勝手に考えるスターウォーズの隠れたモチーフは、第一に目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」だと思っています。

フォースの存在は目に見えませんが、それを信じる人にとっては現実であり、その力によって宇宙を動かすことも可能です(第一のモチーフ)。しかし、その力は力でしかなく、フォースを操るマスターの心の在り方ひとつで善にも悪にも利用され得るのです。逆に表現すると、善と悪の相違点は人の心の中にしかありません。ジェダイ騎士(ナイト)になるために厳しく長い修行が必要とされるのは、(信じる力を通じて)フォースの力を身につけることは勿論ですが、それ以上に善と悪の関係を理解し、自分自身を善の道におく心の在り方を学ぶためです。実際、フォースを制御する人の心が悪によって支配されるか、善によって導かれるかによって、ダークサイドに堕ち宇宙を蹂躙するダースベイダーになるか、宇宙を開放するルーク・スカイウォーカーになるか程の差が生まれるのです(第二のモチーフ)*(1)

冷静に考えると当然のことなのですが、どんなに優れた能力(フォース)を持っている経営者であっても、どんなに商売が上手な経営者であっても、それが企業価値の向上とステイクホルダーの幸福という目的に沿って利用されなければ全く意味を持たないどころか、大きな害をもたらすことになります。「羊の番をする狼」に望まれる第一の資質が能力ではなくて正直さであるということは個人の道徳と企業倫理の観点で議論されがちですが、経営合理性の議論においても極めて重要な意味を持つのです*(2)。ここから導かれる、機能する経営者の第一法則は:「正直であることが経営者の必要条件であり、この条件を満たさない者は、どれ程『能力』を有する者であろうと、いかに『実績』を上げていようと、経営機能を果す上では非効率である」。大多数の企業は、経営者の選別に当たって事業能力や企業への収益的な貢献度や実績を最重要視していますが、この方法は「能力」のあるダースベイダーを経営者として大量に選択しがちなメカニズムであり、著しく合理性を欠いている可能性があります。企業社会の現状はこれを実証しているように見えるのですが、如何でしょう。

「正直」の運用は可能か?
正直な経営者は効率的な経営機能を果し高い事業性を生む、ということが仮にその通りだったとして、現実に正直な人物を優先して組織的に選別・登用している企業はそれ程一般的ではありません。それにも関わらず殆どの企業が「わが社では既に誠実で正直な人物を経営者に選んでいる」と答えるのではないでしょうか。これらの企業にとって、正直さは選別基準として機能するためのものではなく、何らかの基準によって既に選別された経営者への枕詞になっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。営利企業の組織では、収益をもたらす者を登用したいという意識がどうしても働くため、正直さを優先する人事を行うことは相当の勇気が必要で、前述のように収益を上げる人物を「誠実な人」と呼ぶことの方がよほど簡単だということがあるかもしれません。

現代の企業社会の価値観を常識とする人にとって「正直さ」という選別基準は、一見恣意的で、組織的にはとても運用できない、という反論も予想できそうですが、正直な人材や人格の高さによってリーダーを選別し登用することは、かつての(日露戦争頃までだと思います)日本ではむしろ常識的なものだった筈です。例えば、二宮尊徳は日本が生んだ偉大なターンアラウンド・マネージャー(事業再生家)ですが、尊徳の人事哲学も「最良の働き者は、最も多くの仕事をするものではなく、最も高い動機で働く者である」という言葉が象徴するように、能力や実績よりも人格と志を優先したものでした。

このような文化の基礎となる日本の教育現場においても、正直さや徳が最重要視されていました。以下は内村鑑三著『代表的日本人』(中江藤樹)からの引用です。

『私どもが学校教育で学ぶことは、力は正義ではないこと、天地は利己主義の上に成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。その他多くのことを知った。  学校教育の目的について、第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。それを、真の人、君子と称した。  さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』

…これらの価値観が古臭いと感じられるか、普遍的であると感じられるかは様々だと思いますが、少なくとも本稿の議論は、本質においてこれらと全く同様のことを別の言葉で表現しているに過ぎません。

「正直」の実践
正直な経営者を輩出し、選別する組織環境を実現するために、例えば次のような実践が可能だと思います。第一に、大半の企業情報をオープンにすること(『売上論《後編》』を参照下さい)。これは正直な人材登用を行う際の必要条件ではありませんが、実行できればこれを含めた経営全般作業を著しくスムーズにする効果があります*(3)。一般的な経営者や経営幹部は、(特に自分たちが独占している)経営情報を開示することに激しい抵抗感を持ち、「情報開示は経営に悪影響を及ぼす」という論調になりがちです。このような状況を乗り越えて、現実に徹底した情報開示を行う経営者はごくごく少数だとは思いますが、本気でこれを実行することができれば事業へのメリットは本当に莫大です。誇張だと思われるかもしれませんが、会社に存在する問題の大半が解消するといっても良いくらいです(更に、この解消にあたって、費用は殆どかかりません)。…これも皮肉なことに、経営者と経営幹部が会社の問題の大半を生み出している、そしてその改善をもっとも阻んでいる、という一般企業の現状に符合するような気がします。

第二に、恐らく何よりも重要なことだと思いますが、自分自身が正直であること、正直に行動すること…他人に対して、そしてそれ以上に自分に対して。正直さは優れた経営機能を発揮しますが、その本質は個人の生き方です。機能を果すために正直であろうとしても、そもそも経営者がそのような生き方をしたいと望まなければ意味のある効果は生じません。要は、経営者の生き方、あり方を芯から変えなければ機能しない性質のものなのです。かくして、「正直な人間であること」、「人間関係に誠実であること」は、経営者の全くパーソナルな問題でありながら、同時に企業存続の最重要経営課題になるのです。

【2007.10.29 樋口耕太郎】

*(1) アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなる最大の原因は、彼の中の「悪」ではなく「愛」(の解釈)によるものではないだろうか…?第三のモチーフについては、後の稿でコメントします。

*(2) これから、「倫理的であることは経営合理性を持つ」、あるいはトリニティ的に表現すると「愛は極めて高い事業性を持つ」、という発想が生まれます。現代的な経営理論からは一見かけ離れる印象があるかも知れませんが、このような思想に基づく実践と事業の成功事例は意外に溢れいています。例えば、二宮尊徳の報徳思想では、徳と経済行為を同一のものと考え、関わる人々の徳を高く導くことによって数々の事業再生を成功させています。「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。」という尊徳の言葉は、この哲学を象徴しています。

さらに、二宮尊徳のみならず、西郷隆盛、上杉鷹山、山田方谷などの日本が輩出した代表的マネージャー達が一様に同様の哲学と価値観に基づいて事業・国家再生を成功させており、非常に普遍的かつ実践的な手法と言えるのです。僕は、このような実践哲学の方が、流行によって目まぐるしく移り変わりがちなアメリカ型経営理論よりもよほどリアリティがあり機能的だと思っています。これからの経営理論は東アジア的な価値観に学ぶことが多くなるのではないでしょうか。以下は再び『代表的日本人』からの抜粋です。

『「左伝」にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方次第で、盛衰、貧困、興亡、生死がある。用心すべきではないか。世人は言う。「取れば富み、与えば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。徳に励むものには、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。』(西郷隆盛)

『東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木に良く肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」』(上杉鷹山)

*(3) 高い水準で経営バランスが達成している状態は、事業の生態系が無理なく機能している状態です。このとき、事業の生態系に対して働きかける適切な経営行為は、生態系としてかみ合っている複数の事業要素に同時に効果を発揮します。例えば、このような状況で情報をオープンにすることは、情報管理の観点から優れているだけでなく、正直なリーダーの選別を前進させ、人事の公正感を高め、売上を価値のあるもの(「金色の売上」)にし、新規事業のアイディアを生み出し、顧客層を高めるなどなどの効果を生み出します。常識的には一つの事業的な目的を達成するために、一つまたは複数の経営行為が行われることが一般的ですが、トリニティ経営の発想では、一つの経営行為が複数の有効な結果をもたらすことはむしろ必然です。反対に、一つの経営行為が複数の結果を効果的に生まない状態は、適切な経営バランスが取れておらず、事業の生態系が何らかのダメージを受け、非効率な経営状態であることを強く示唆します。

経営者であることの条件を明確にする、すなわち、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という各問いに回答を出すためには、①リーダーが果すべき機能は何か(どのような機能を果すリーダーが企業価値を最大化するか)、②機能的なリーダーを選別するしくみとはどのようなものか、をそれぞれ検討することが効果的です。そして、トリニティ経営理論が機能するという前提では、この問いに対するシンプルな回答は、「より高い水準の経営バランスを取ること」であり、「高い水準の経営バランスを理解し、実現する力のある経営者を組織的に選出するしくみ」が企業に求められることになります。まず、これらを実現する要素を議論する前に、これらを阻害する構造と要因についてコメントすることにします。

経営者は狼?
前回のエントリーでコメントしたポイントですが、経営者のあり方次第で企業価値は著しく影響を受けるにもかかわらず、現実の企業社会では、経営者であることの条件(すなわち経営者が辞任する際の条件)が曖昧なまま放置され、経営者を評価するしくみと経営者を排除するしくみが殆ど機能していません。これは、現代企業社会の現実として、経営者は自分を含む全てのステイクホルダーの利害を最もコントロールしやすい立場にいること、そしてそれに対する牽制機能は事実上本人の価値観と良心のみ、ということでもあります。

言ってみれば、世の中の大半の企業は、特段の疑問も持たずに、狼に羊の番をさせているようなものです。株主(農場主)はその「対処」として、狼(経営者)がお腹をすかせないように、多額の報酬を与え(個人的には、世の中の経営者の報酬額は大方過大評価されていると思います)、従業員(羊)はほぼ無条件に狼の善意を信じようとします。皮肉な言い回しで恐縮ですが、世の中で一般的な企業統治の概念に基づいて株主と経営者の「利害の一致」を試みる作業は、まるで、有能な狼に対して、羊を食べなかったご褒美に、最高級ステーキを毎晩ご馳走するような状態です。それでもこのやり方が機能すればまだ良いのですが、通常お金持ちが最も欲するものはお金であり、「狼はお腹いっぱいであれば羊を襲わない」、という前提自体甚だ疑わしいものです。むしろ狼は、「ただそれができるから」という理由で、日常的に羊の食事を直接間接に自分の利益にすることがあまりに一般的であり、更に殆どの狼はその行為を「羊のため」または「農場のため」と表現し、場合によっては真剣に(誠実に)そう信じている者も少数ではないのです。中には自制心があり誠実に羊の番をする「誠実な」狼も社会に存在します。それでも経営者の心理としては、利益をむさぼろうと思えば出来たところを、自分はそれをしていない分、「より評価を受けるに相応しい」とどうしても思ってしまいがちです。「それができるから」という理由で利益を貪らないのは、特別な評価に値する成果ではなく、経営機能を果すための必要条件だ、と考える経営者を擁する企業は本当に幸運ですし、実際経営も非常に有効に機能するのではないかと思います。

重要なことなので、いつも繰り返しこのようなコメントをしますが、これらは一般的な経営者や、現在の企業経営のあり方や企業統治のしくみを批判しているのではありません。「経営者かくあるべし」という意見の陳述でもありませんし、経営者に相応しい人格を定義しようとしているわけでもありません。以上は、一般的な経営者がおかれている環境についての単なる現実認識の一つのアプローチであり、機能的な経営者のメカニズムと条件を分析するプロセス…このような現実を直視した上で、この環境で最も機能する経営メカニズムを見出す作業…に過ぎません。

経営者が嘘をつくとき
経営者を取り巻く環境がこのような状態では、一般的な経営者が、①経営者自身の利害と企業の利害を曖昧にし、②自分の利害となる数々の言動について、「従業員のため」「会社のため」「株主のため」と表現したくなるのは、むしろ構造的な必然と言うべきでしょう。より問題を複雑にしているのは、意外に多くの経営者はそれが会社のためになると本気で(ときには「誠実に」)考えている点です。経営者が真剣に語ることに対して、一部の従業員が直感的におかしいと感じても、組織の「権力者」に対して明確に反論することは非常に困難です。かくして、経営者の意図は会社の意図ととなるのですが、実際、最近の経営論では、経営者の意図が従業員に広く浸透している企業ほど「良い企業」と考えられているようです。

逆に考えると、経営機能を分析する際に、経営者個人の問題と経営(企業価値)の問題を明確に分離して認識することが有効ではないでしょうか。例えば、特に大きな会社に務めたことがある方なら誰でも経験があると思いますが、決算期や月末になると営業キャンペーンを行ったり、決算セールを行ったり、特に営業現場は相当慌しくなるのが常です。僕はずいぶん前から、これはいったい何のためなのだろうと漠然とした疑問を感じていました。もちろん、そんな疑問を実際に口にしたら、上司からは「会社のために決まっているだろう。お前は会社から給料を貰っているじゃないか」と言われるに決まっていますし、大体「やる気がない腑抜けた社員」と思われるに違いありません。でも、例えば、お客さんにとっては来月買う方が都合が良いのに、会社の都合でお願いして売上を前倒しすることが本当に意味のある仕事なのか、釈然としませんでした。反面、会社にとって重要な営業キャンペーンで成果を上げれば上げるだけ、賞与や昇給や昇進によって評価されることも事実で、「これは自分のためになることだ」と納得しようとしたこともありました。仮に同様の質問を経営者にぶつけると、恐らく回答は、「今期の収益目標の達成は会社が成長するための必要条件であり、競合他社に打ち勝ち業界ナンバーワンの座を維持するための利益であり、株主に対して会社が約束したものであり、これを達成することによって従業員の昇給と生活が確保できる」、という趣旨が返ってくるのではないでしょうか(もっとも、社員がそんな質問をした時点で、会社から相当な「異端」扱いされると思いますが、それはそれとして)。

しかしながら、…あくまで一つの事例としての議論ですが…会計上の期間収益を確保する行為と企業価値を高める経営行為は似て非なる概念です。例えば決算直前にディスカウントで在庫を処分し売上や会計上の期間収益を確保する行為は、もっと高い値段で売れるものを敢えて安売りするということですので、むしろ企業価値を低下させる可能性が高いのです。反面、一般的な経営者(特に上場企業の経営者)は、単年度決算(場合によっては四半期決算)に責任を持ち、この進捗状況によって自らの評価や進退が決定されるしくみになっています。すなわち、企業価値を高めるために適切な経営行為と、経営者の(進退を決する)個人的な事情とが真っ向から対立する状況が日常的に生じているのです。このように背反する選択肢に直面する場合、一般的な経営者は、ほぼ間違いなく会計上の予算達成を優先し、そしてそれを会社のため、成長のため、従業員のため、と表現して全従業員に達成を義務付けるでしょうし、達成に非協力的な社員は人事上ペナルティを課されることになります。会計上の期間収益の最大化が必ずしも企業価値の最大化を伴わないのであれば、期間収益の最大化を会社全体の目標にする行為は、やはり経営者の「個人的な事情」というべきですし、それを経営者が「会社のため」と表現するのは「嘘」以外の何者でもないと思います*(1)

以上の議論は、「企業は会計上の期間収益目標を設定するべきではない」という意味ではありませんし、収益目標を無視して経営者の立場が維持できるというような現実離れの議論をしたい訳でもありません。この目標設定は企業価値を必ずしも最大化せず、経営者の個人的な利害を優先する結果になる、という事実を表現しているに過ぎず、それ以上の意味もそれ以下の意味もありません。…これも現実認識の一つのアプローチです。

【2007.10.21 樋口耕太郎】

*(1) 「嘘」という言葉は一般に倫理的、道徳的価値観を伴って使われるため、少なからず感情的な反応を引き起こすことが一般的ですが、ここでは(というよりも「トリニティ経営」に関する議論全般において)、単純に「ある人や組織が本質的な目的としている結果と、その目的を達成するための行動について為される説明が異なること」という意味で使用しています。したがって、例えば「経営者の嘘」と言う時、その際に経営者に悪意があるかどうかという点は問題にしていません。これは、経営環境において、経営者が「嘘」をつくとき、それが悪意によるものか、無知や誤解によるものか、あるいは善意に基づくものかどうかは、経営的にあまり差異がない(どの道従業員には「嘘」として伝わりますので…)、という前提によるものです。この定義に従うと、自分自身や企業の本質的な目的を自覚的に認識していない経営者は、経営行為において頻繁に「嘘」をついてしまう可能性が非常に高まることになります。

事業環境において経営を機能させるのがリーダーだとすると、リーダーシップのない経営は、ガソリンの切れた車のようなものですし、経営を理解しないリーダーはハンドルのない車を運転しているドライバーのようなものでしょう。経営論はリーダーシップ論と一体のものとして捉えられるときに最も機能するはずで、世の中の経営論の数々がリーダーシップ論と対で語られないことは合理性を欠くのではないかと思うことがよくあります。別の表現では、事業と経営に関する多くの議論は、突き詰めるとリーダーがいかに行動し、いかに在るか、という選択を効果的に行うためにあるべきものではないかと思います。どんなに優れた経営理論の数々も、それらがリーダーによって機能的に実行されなければ意味をなさないからです。

経営とリーダーシップが一体のものであるという前提においては、事業をどのように定義するか次第で、「有効」なリーダーシップの形は幾通りも存在し、事業で機能するリーダーシップを定義するためには、「事業とは何か」という問いに回答しなければなりません。本稿でリーダーシップ論を取り上げる前に、経営とは、事業とは、売上とは、経済活動とは、マーケティングとは、などなどに関する数々のエントリーを必要としたのはこのためです。それぞれの概念は個別のものではなく、全てで一つのことを表現しようとしており、本稿のリーダーシップ論は、「トリニティ経営」が経営合理性をもつという前提において、これを機能させるために最も有効なリーダーシップとそのしくみを規定するという趣旨で構成しています。

経営者の最も重要な仕事
経営者が果すべき多くの機能の中で、何よりも重要なことは、経営者であることの条件を明確にすることだと思います。言葉を変えると、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という問いに対して、可能な限り明確に経営者自身が回答するという作業です。そして、この問いに回答を示すということは、経営者自身の辞任条件を明確にすることを意味します。

経営者に就任して初めにすべきこと、そして、経営者として最も重要な仕事は、自分が辞任する条件を特定し、少なくとも役員にその内容を伝えることであり(会社法の構成を突き詰めて考えると、取締役の最大にして唯一の仕事は経営者を罷免することです*(1))、経営者が常に考えるべきことは、自分の存在は従業員と企業のために最適か、企業価値を最大化するか、という問いであるべきです。経営者の存在が従業員と企業のためにならず、企業価値を最大化しない状況において、経営者が交代すること自体が最も適切な経営判断であるということはあまりに単純な原理なのですが、この原理が実際に機能している企業は現実には殆ど存在しないのではなでしょうか。つまり、現代企業社会においては、企業において最も重要な経営機能(=経営者)が果すべき、最も重要な仕事(=経営者の辞任)が事実上全く機能していないのです。この一点だけをとっても、社会中の企業がハンドルのない車を運転しているようなもので、企業社会が現在のような状態になってしまっているのは、むしろ当然のことかもしれません。

企業社会の「常識」を良く知る経営者にとって、以上の論点はあまりに突飛で、現実にはとても機能しないと感じられることと思います。しかし、もし可能であるならば、これが「常識的」か「現実的」かという観点を無理やりにでも一旦脇に置いて、仮にこのようなしくみが現実に機能した場合、経営効率は高まるだろうか、という純粋な経営機能と経営効率の観点から考えてみていただければと思います*(2)

産業再生機構でCOOを勤められた冨山和彦さんの最近の著書に『会社は頭から腐る』というタイトルの本がありますが、実際、企業における問題の大半(特に大きな問題)は経営者自身が原因だと思います。仮に経営者が会社の最大の危機をもたらすのであれば、経営者を排除するメカニズムは、企業経営上最も重要なテーマであるはずです。そして、経営者を排除する上で最も効率の高い方法は辞任に勝るものはありません。

経営者が辞任すべきとき
経営者の辞任条件を明確にするために、①経営者の役割(仕事)は何か、そして、②経営者の成果をどのように評価(自己評価も含む)するか、という議論が必要です。反面、企業において最も重要な人事考課は経営者に対するものである筈なのですが、経営者の評価基準とその運用方法が明確な企業は、これも稀だと思います。

トリニティ経営理論における、最も効果的かつ合理的な経営者とは、①企業において最も人間的な成長を遂げ、②企業内の誰よりも人(ステイクホルダーに対して)の役に立つ存在であり、結果として、(i)真実であること、隠し事のないこと、(ii)相手に一切要求せず、ありのままを受入れ裁かないこと、(iii)自分を活かし、相手のためになることを、できることから実行すること、が特徴的な行動となります。

したがって、経営者は、以上のクオリティが満たされなくなったと考えられるとき、社員やその他のステイクホルダーから必要とされなくなったとき、あるいは会社において最も人の役に立つ機能を果せなくなったときに辞任することが最適な経営判断と言えるでしょう。…企業経営が経営者自身の人格や価値観に大きく影響されるのはこのようなメカニズムによります。

【2007.10.8 樋口耕太郎】

*(1) リーダーシップ論は現実の企業統治において機能しなければ実践的経営論の意味を為さないため、経営論、リーダーシップ論と、企業統治に係る現行法との関係を理解することは非常に重要です。現在の会社法上の構成において、代表権のない取締役が法律的に持つ権限は取締役会において賛否(特に反対)意見を述べることのみであり、反対意見を主張するためにできる最大の行為は辞任です。すなわち、取締役の最大の仕事は、経営者が辞任/継続するか否かに係る意見を表明すること、そして究極的には辞任によって意見を主張すること、…つまり、取締役にとっても辞めることが最も重要な仕事と言えるのです。この論点に関する詳細な議論は『トリニティの企業金融論』の「企業統治」のセクションをご参照下さい。

*(2) 恐らく経営者以外の従業員に同じ問いをすると、比較的抵抗なく賛同する人が多いと思います。これは、経営者の個人的な立場と利害がいかに合理的な経営判断の妨げになるかという分かりやすい事例かもしれません。