旭山動物園で何が起こったか(pdf)

2003年頃から全国的に注目されるようになり、メディアでも良く取り上げられている北海道旭川市の旭山動物園。2006年度の来場者は10ヶ月と20日間終了時点(1月20日)で約263万人。年度末までには280万人を超える勢いで、動物園としては長きに渡って来場者全国一だった上野動物園をついに抜いた感じです。沖縄の主要観光施設と比較すると、最大集客施設である「美ら海水族館」は年間約240万人、「首里城公園」は約250万人前後の来場者数(2005年のデータです)ですから、既にそれらを超える水準です。沖縄の場合この2施設は入場者数では突出していて、その次の主要施設である平和記念資料館は42万人に過ぎません。

北海道第二の都市とはいえ人口36万人に満たない北限の地旭川の、開業30年にして破綻寸前だった市立動物園が、1997年を境に殆ど資本をかけず大変貌を遂げ、日本一の集客数を誇る上野動物園や沖縄の人気施設を集客力で軽々と抜き去ったのです。メディアの作り出す「虚構」的な要素もたぶんに寄与している側面があるとは思いますが、それを大幅に割り引いたとしても、旭山動物園の大現象は「そもそも事業とはなんだろう」、という重大な問題提起であるように思えます。

事業的な大現象
単純な来場者数は既に驚異的ですが、事業性の観点から考えると、とんでもないほどの大現象だと思います。特に、①「施設に対する総資本投下額と来場者数との比率」という投資/収益の観点、②旭山動物園は他地域の動物園や水族館と競合しているというのが一般的な認識でしたが、このような競合の常識が全く当てはまらない現象としての、競合戦略およびマーケティングの観点、③常識的な価格理論や価格戦略の観点が全く当てはまらない点、④ある臨界点(2003年)以降の爆発的な成長のスピードのスケールが常識はずれである点、について非常に大きな経営的示唆を与えてくれる事例だと思います。

①資本投下/収益率の観点について、美ら海水族館や首里城公園へどれ程の資金が投下されたかは知りませんが、ハードから推測する限り双方とも100億円を優に超えるオーダーになるのではないでしょうか。反面、旭山動物園の快進撃の第一歩となった1997年建設の二つの施設(「こども牧場」と「ととりの村」)の開発予算はわずか1億円*(1) に過ぎず、単純に考えても100倍の資本効率が生じている可能性があります。そして、この現象は明らかにハード主導のものではありません。「事業成功のために資本は必要条件ではない」ということを示唆する非常に良い事例だと思います。

②マーケティングの観点では、「旭山動物園はいったい誰と競合しているのか」という問いが生まれます。現象を素直に解釈すると、現在旭山動物園は全く競合状態にないと思えますし、それはすなわち過去においても競合状態は存在しなかったと考えることが可能です。逆の発想では、苦境にあった旭山動物園の経営において、従来のマーケティングの常識を当てはめ、「他の動物園や水族館との競合に勝つ」ための経営を主眼にしていたら、このような現象は決して起こらなかっただろうとも思えるのです。「事業の成功と競合・競争戦略は実は無関係ではないか」という仮説が現実味を帯びます。

③価格戦略の観点では、現在580円の入場料を例えば倍にしようが入場者数に大きな影響があるとは思いづらいですし、逆に価格を下げたとしてもそれが理由で入場者数が増えるとは思えません。現実には本土から飛行機代、宿泊代の合計何万円もかけて旭山動物園を訪れる顧客が多数に存在します。この現象をどのように理解したら良いでしょうか。

④成長のスピードに関する累乗的な加速化の概念はこれだけでひとつの経営的なテーマになります(「加速度成長モデルと経営」を参照ください)。一般的な経営論の分野ではあまり議論されないテーマですが、今後の市場環境では頻繁に見られる現象になると同時に、経営上の重要な概念としての認識が広まると思います。旭山動物園はその非常に典型的な事例として特筆する価値があると思います。

旭山動物園の特徴
旭山動物園の成功の要因として一般に挙げられている点は、第一に、動物たちが元来持っている性質(生態)をどのように顧客に見せるかを重視した「行動展示」の手法だと説明されています。その内容は既に大量のメディアや書籍によって詳細に説明されていますが、例えばペンギンの水槽にチューブ型の通路を通してペンギンがあたかも空を飛んでいるように見せる工夫、高いところに登るヒョウの生態を利用して頭のすぐ上にヒョウが寝ているような演出をする工夫、非常に高い場所を危なげなく移動するオランウータンの生態を利用した地上17mの「うんてい」、大きな深度差をこともなげに上り下りするアザラシが移動する垂直アクリルトンネルなど、どれもが今まで見たこともないユニークな展示方法で実に楽しめます。

反面、旭山動物園には特別に「目玉」動物がいるわけではありません。どこの動物園にもいるアザラシやペンギンが動物園のヒーローであると同時に、地元の動物を中心に展示する方針が採られ、3分の1は北海道産であることも大きな特徴です。

その他に僕が感じた特徴は、第二に、動物が非常にきれいであること。野生の動物を洗うことは不可能ですので、恐らく動物にストレスが少ないことが原因ではないでしょうか。第三に、看板や動物に関する解説分が大量に掲示されていること。その殆どが手書きなどの手作りで、その文面や内容もありきたりのものではなく、動物をよく理解している人が丁寧に構成したものだということが感じられること、などです。

旭山動物園の成功
行動展示の手法と、動物たちの生態を見せるために考え抜かれた施設は確かに際立っていますが、それにしても、なぜこの施設と、手作りの看板がこれだけ人を感動させるのでしょうか。また、仮にこのような施設の設定と運営が成功の秘訣だったとしても、一般的な「組織管理」によってこれを実現することはほぼ不可能という印象を持ちます。旭山動物園の組織と人材にはどのようなパワーが働いているのでしょうか。この二つの問いに決まった答えはないと思いますが、旭山動物園のスタッフと動物園の今までの出来事を理解することで、各人がその答えを導くヒントになると思います。昨年末旭山動物園に訪れ、複数の関連書籍に目を通してみましたが、旭山動物園に特徴的なポイントがあることに気がつきます。関連書籍からの引用とあわせて以下にまとめてみました。

1.自由な従業員
飼育係は担当動物の飼育全般はもちろん、飼育する動物の選択、動物の見せ方、動物の情報をいかにお客さんに伝えるかについても任されています。

『例えば飼育係を決めるとき、動物園によっていろんなやり方があるだろうけど、一番多いのは上司からの命令でしょう。だけど旭山動物園は違う。合議制というか、やりたいもん勝ちというか、とにかく命令は一切ない。意欲のあるやつはどんどん仕事ができるし、やりたくないやつはやらなくてもいいという、厳しい意味での自由な職場だった。上司が責任を持ってくれるなら多少のヘマは許されるかもしれないけれど、旭山動物園は最初から判断も責任も丸投げさ。それが怖い。でも、そのおかげでみんな凄く訓練されたと思う。』

『ほかの人に代えることができない、そういう仕事を私自身もやろうと思うし、それを、ほかの職員にも求めている。わたし(小菅さん)から、ああしなさい、こうしなさいという指示は出しません。各飼育係が責任者として当然の努力をする。旭山動物園にいる動物が幸せに暮らせるか否かはすべて、それぞれの担当飼育係の責任なんです。動物が一日一日を楽しく暮らせて、長生きできるようにするのが飼育係の責任だし、担当動物の情報をお客さんに伝えるのも、すべて各担当飼育係の責任。これは、私たち旭山動物園の飼育係の昔からの伝統ですからね。』

『旭山動物園では、自分の担当している動物をどう飼育し、それをどう見せるかというのは全部、担当者に任せられている。ほかの動物園だったら、上司の許可なくてはできないんでしょうけど、うちにはそんな窮屈な決まりは全くない。もう、やったもん勝ちです。』

2.理想を追い、自分を知り、自分が人の役に立つ方法を理解していること
動物園のあり方、動物園の存在意義、理想の動物園、動物園がどのように人の役に立つか、について非常に長い間語り合い、検討し合い、その具体的なイメージを共有しています。

『平成に入ってからも、入場者数は落ち込み続け、最低限の予算しかつかない旭山動物園の冬の時代は続いていた。そんなある日、菅野(前園長)さんは小菅さん(現園長)を呼び出して、こう切り出した。「お金がないとばかり言っていられない。お金はないけれど、できることから始めようじゃないか。小菅さん、あんたが中心になって、飼育係みんなで考えて、アイディアをまとめてくれないか。」月に1回だった勉強会は、やがて週一回へと増えていった。それでも足らずに、仕事の合間、昼食の時間、仕事が終わってから夜遅くまでと、毎日のように動物園とは何か、動物とは何か、命とは何かという話をしていた。』

『今から比べると時間だけは十分にあった。だから私たちは、魅力的な動物園にするにはどうすればいいのかということを、毎晩のように話し合っていました。特に私(菅野)とあべさん、飼育係の牧田さんは年が近いので、3人で牧田さんの家に集まっては夜中まで話をしました。そうやって議論を重ねていくうちに、最終的に動物園の存在意義とはなんなのかというところに行き着いたんですよ。動物園は人間にとっても自然にとっても存在理由がないといけない。そういうことから、動物園のあり方を毎日話し合うようになっていきました。』

3.できることから実行すること、人と向き合うこと
長い間お金がない時期が続いたにも拘らず、むしろそれゆえに、何にも頼らない自分自身になにができるかを見つめ、少しずつ実行されています。また、これらの小さな行動の積み重ねは、自己満足ではなく、お客さんと向き合う形でなされています。

『そこで飼育係たちは、旭山動物園にいる動物たちの魅力、素晴らしさを伝えるために、自分たちが担当する動物の獣舎の前に立ち、動物たちの魅力を入園者に向かって語り始めた(1986年より)。それが、今でも旭山動物園の「名物」となっている「ワンポイントガイド」だ。「飼育係が直接お客さんに動物の解説をするなんて、当時の動物園業界では考えられないことだった。だけど、園長なんかよりも、その動物の担当者の話の方が絶対に面白いに決まっている。だって毎日見ているんだから。動物の知識は凄いのに人前で話すのが苦手な飼育係もいた。でも、ワンポイントガイドは、飼育係全員がやることに意味があったんだ。」(あべさん) 飼育係同士で約束したのは、雨が降ろうと槍が降ろうとワンポイントガイドは絶対に休まないということだった。それ以来現在までただの1回も休んだことはない。ある雨の強い日、入園者が4人しかいない日もあった。その、たった4人の客を飼育係たちが囲んでガイドしたこともあったという。』

『僕たち飼育係が凄いと思ったことは、お客さんにとっても凄いことだし、僕たちが当たり前だと思っていたことを、へえっと驚いてくれることもあった。お客さんが何を見たいと思っているのか、何が凄いと感じているのかを肌で感じてきたことが、今の仕事の原点になっていったと思います。』

『旭山動物園はもういらないって言う声も強くなってきていたけれど、どんなに市役所が動物園はいらないといったって、多くの市民が味方してくれれば、動物園がなくなることはないわけですから。旭山動物園のオーナーは市役所ではなく市民なんです。その市民を味方につけるために、私たちは、動物の魅力を語らなければならないと必死だったんです。』(小菅さん)

『ワンポイントガイドだけではない。動物園の看板はすべて手書きで、各飼育係が毎日のように更新した。』

4.自分たちのしたいことをする
現状の制約に流されず、自分たちが考える理想の動物園を堂々と長い時間をかけて生み出し、具体的なイメージに描きあげています。

『こんなことを言うと菅野さんに怒られそうですが、僕たち飼育係は、カネがなくても楽しかったんだよ。好きな動物たちの世話ができて、飼育係としての誇りを持って仕事をしていたからね。ないものはない、だったら、ないなりにできる方法が絶対にあるはずだ、と考えるようになったわけ。』(あべさん)

『当時は、確かにカネがなかった。よくその頃は旭山動物園の冬の時代だとか、お金がないことが「負のイメージ」として捉えられているけれど、やっている僕らは全然関係なかった。誇りを持ってできる仕事があるということほど、幸せなことはないからね。小菅さん、牧田さんと毎日のように動物園とは何ぞやという話をしていた。そういう話の中で辿りついたのは、一番大事なことは動物園の哲学を持つということ。』

『そんな頃小菅さんとあべさんのもとに、園長の菅野さんがやってきた。「もう何年かしたら、あなたたちの時代が来るのだから、今のうちに将来の動物園像をまとめておきなさい。」小菅、あべ、牧田、坂東さんが中心となって将来の動物園像をまとめることにした。「それぞれに担当を決めて、じゃあお前はアザラシ、お前はホッキョクグマとか。それで、将来のホッキョクグマ舎はこうだって言うようなアイディアを持ち寄って、話し合ったんだ。それをレポートとしてまとめていったわけ。僕は絵が得意だったから、そのレポートをイラストに起こしていったんだ。」(あべさん)』

『このとき描かれたのが「奇跡を起こした14枚のスケッチ」として有名なイラストだ。「私たちの考える理想の動物園は、動物が幸せに暮らせて、それを見ているお客さんも幸せになれる施設。そして私たち人間が動物への恩返しとして、彼らが地球から絶滅しないようにするための働きをする施設というものでした。そのために動物園が見失ってはいけないものは、動物の魅力を多くの人に伝えるということです。動物の素晴らしさをお客さんに伝えることによって、その価値をみんなで共有し、地球の野生動物をいかに守るかということを訴えることができるのは、動物園だけなんですよ。だから動物園の存在意義はそこにある。動物がいるからこそ、私たちは心豊かに過ごしていけるんだとか、動物がいるからこそ自分たち人間も生きていけるんだということを、少しでも多くの人たちが考えてくれるようになることが、動物園の最大の存在意義だと考えた。この考えをベースに、私たちはいかに動物たちが快適に、そして幸せに暮らしていけるか、そして、生き生きとした動物たちをお客さんに見てもらえるかを具体的に考えていった。魅力的な動物園にするには、それぞれの施設を、こう配置して変えなければいけない。そのためにはどうすべきかと、延々とスケッチを描いていったんです。」(小菅さん)』

『画用紙の上には次々と「夢の動物園」が描かれていった。それは楽しい作業だったと、当時のメンバーはみんなそう振り返る。とはいえ、展示施設を新設するどころか補修のための予算さえ認められない現状では、文字通り「夢物語」でしかなかった。』

『スケッチに描いた理想の施設は予算など度外視していたよ。いつ現実のものになるかという確約もないからね。でも、だからこそ純粋に理想を追求できたんだと思う。そして、これまで頭の中で考えてきた理想像を、レポートやイラストなどで具体化して持つことによって、自分たちに飼育係としての誇りや仕事に対する自信がますます強くなったような気がする。北の果ての小さな、カネのない動物園だけれど、目指す動物園はどこにも負けないっていう自信がね。』(あべさん)

5.真実を語ること、隠しごとのないこと
廃園のリスクを負いながら、市民を裏切らないことを優先し、伝染病の現状を公開し、逃げずにその対処を行った歴史があります。

『1993年からの1996年までの4年間は、旭山動物園が閉園に最も近づいた年である。キタキツネによって媒介され、人間にも伝染するエキノコックス症によって人気者のゴリラとワオキツネザルが死亡。この事実を公表することは、動物園唯一の味方である市民を動揺させ、最低入場者数を更新している旭山動物園に致命的なダメージを与える可能性がありました。しかし菅野さんと小菅さんは公表を決断し、記者会見に臨んだ。2人は事実を何一つ隠すことなく伝えた。「確かに危険な病気ではあるが、正確な知識と適切な対応を取れば人に感染する危険性は殆どないということ。早期診断で治療法があること。事実を隠すと市民は裏切られたと思うでしょうからね。せっかく動物園の味方になってくれ始めた市民の信頼を裏切るようなことは絶対にしたくなかったんです。」』

『結局新聞社は人にもすぐ感染するといイメージでいたずらに不安を煽る記事を1面トップに掲載。旭山動物園に行けばエキノコックスに感染する、という風評が広がった。会見後、旭山動物園の事務所には問い合わせや苦情の電話が殺到。子供の体調がおかしいと、泣きながら訴える母親もいた。結局その年は、通常の冬季閉園より2ヶ月早い8月末に、旭山動物園の歴史上初の早期途中閉園となる。』

『あの時は菅野さんと小菅さんを改めて見直した。だって、普通は逃げるよ。隠す事だってできたんだから。実際にそういう動物園もあったしね。それをあえて、正直に話して、袋叩きにあって、それでも戦い抜いた。加えて、前代未聞の大事件の渦中にあっても、飼育係たちが動物園本来の仕事をしっかりこなしていたからこそ、2人も心配しないで戦えたんだと思う。』(あべさん)

6.行動展示の哲学:演出のないありのままの凄さ
人間が動物の価値を決めない。動物本来の魅力をありのまま伝える努力。地元の普通種を中心に展示。3分の1は北海道産。

『アザラシは確かに珍しい動物ではないけれど、表情豊かで本当に面白い動物なんですよ。こんなに面白いのに、何でその魅力がわかってもらえないんだろうと悔しかったんです。客寄せパンダという言葉がありますが、その言葉通り、動物園はこれまでパンダやコアラ、ラッコなどの話題動物を飼育して客を呼ぼうとしてきた。でも、それは人間が勝手に動物の価値を決めるということです。その結果、日本の動物園は行き詰ってしまった。どんな動物でも、みんな素晴らしい生き物です。それは飼育係である僕たちが一番よく知っている。だからブームを追いかける、これまでの日本の動物園の姿勢への反省もこめて、あえて地元の動物である普通種のアザラシをやりたいと思ったんです。』(坂東さん)

『考え方は至ってシンプル。動物には面白い側面が沢山ありますが、従来の展示方法ではそれが伝わらなかった。それは博物館のように動物の「姿」を見せていただけだからです。僕たちは動物の持っている習性や能力を伝えたかった。アザラシ館も彼らが水平だけではなく垂直に泳ぐ修正を知っていたから生まれた発想です。居心地の良い場所を作り、そこで生き生きと能力を発揮する動物を見て人が感動する。その感動から動物や自然環境の問題に少しだけ思いをはせる。それが旭山動物園の考える行動展示なんです。これからも、いわゆるスター動物といわれているようなものではなく、身近な動物たちの魅力を引き出していき、それを見てもらうだけですよ。海にも陸にも生き物がいるんだという、当たり前のことを当たり前にやって見せるだけ。それ、初めて胸が張れる。今の動物園の発想とは徹底的に逆に行ってやろうと思っています。徹底的に普通種で。普通種の動物でも、こんなに魅力的なんだということを追求していきたい。それが認められるようになれば、日本の動物園の考え方も変わってくると思いますから。』(坂東さん)

旭山動物園が問う「事業とは」
以上に挙げた6つの項目が「旭山動物園成功の要素」というつもりはありません。しかし、少なくとも旭山動物園での出来事は、一般的な企業社会の常識を疑い、「事業とは何か」をもう一度考える大きなヒントになるのではないかと思います。

【2007.1.29 樋口耕太郎】

*(1) この年以降毎年のように追加されている施設には新たな予算が組まれています。いずれにしても他施設とは比較にならない程の高収益率であることに変わりはありません。

参考文献・資料:
小菅正夫 『旭山動物園園長が語る命のメッセージ』
週刊SPA!編集部編 『旭山動物園の奇跡』
坂東元著 『動物と向き合って生きる』
旭山動物園監修 『幸せな動物園』
主婦と生活社編 『感動!旭山動物園』
『プロジェクトX 挑戦者たち 第IX期 旭山動物園 ペンギン翔ぶ~閉園からの復活~』

信じるということ・伝えるということ(pdf)

本稿は概念的に、「信じるということ」と対になるものです。前稿では、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているかが事業において非常に重要な要素であるとし、「信じる」ということの意味についてコメントしました。同様に、本稿では「伝える」ということの意味を経営的な観点で考察します。経営の現場において「伝える」ということの意味は「機能させる」という結果を目的とするため、本稿のテーマは機能(機能させるための伝達)の問題であるともいえます。

一般的な企業経営において、「何を伝えるか」についての議論は溢れているように感じます。例えば、「どのような価値観を共有するか」、「どのようなルールを徹底するか」、「どのような人材が評価されるか」、などです。経営はメッセージの内容、すなわち「何を伝えるか」は重要視して吟味するのですが、メッセージの伝達については比較的機械的な対処をしがちではないでしょうか。反面、現実の事業においては、メッセージの内容もさることながら、それと同様またはそれ以上に、メッセージがどのように伝わるか、どれだけ伝わるか、どこまで伝わるか、誰から伝わるか、という点が非常に重要なのです(後述します)。

最近の事例では、1910年の創業以来100年近くの歴史がある株式会社不二家の食品衛生管理上(現実には人災だと思いますが)、企業倫理上の問題が表面化しています。不二家の経営理念は、『常により良い商品と最善のサービスを通じて、お客様に、おいしさ、楽しさ、便利さ、満足を提供し、社会に貢献することが不二家の使命である』、とされていることからも、メッセージの内容が問題でないことが明らかです。たまたま不二家の例を挙げましたが、今時どこの企業も立派な経営理念や運営ガイドラインを持っていることは珍しいことではありません。つまり、どの企業も何を伝えるかということは大方申し分ない状態にあるのです。やはり問題は、そもそも伝えるとはどういうことか、そして、どのようにして伝える、かという点に集約するように思えます。

伝えるということ
一口に「伝える」と表現されることも、その解釈は多様かつ曖昧です。代表的なパターンは、「伝える」とは、「文書化・回覧すること」と考える人、「受信者がメッセージの意味を理解したこと」と考える人、「メッセージ受信者の同意を得ること」と考える人、などではないでしょうか。しかしながら、メッセージの伝達は経営的に機能して始めて意味を持つと考えるべきでしょう。「経営的に機能する」とは、受信者がメッセージを起因とした行動を起こす、という意味です。上記の事例、「文書化・回覧する」、「メッセージ受信者がその内容を理解する」、「メッセージ受信者の同意がある」、というだけではこの意味で「経営的に機能する」とは全く限らないため、どのようなメッセージの伝達の仕方が人を動かすか、という観点から「伝える」ということの意味を定義することが最も合理的だと思います。

以上の前提で、僕はメッセージが受信者に、①理解され、②共感され、初めてメッセージが「伝わった」と解釈するべきではないかと思っています。別の表現では、受信者が「そうそう!」と感じる状態が「伝わる」ということだと定義するのです。これは前述の、「文書化・回覧すること」「メッセージ受信者がその内容を理解したこと」「メッセージ受信者の同意を得ること」とは相当異なる概念で、「伝わる」ということの意味を、「物理的な情報の伝達」とは考えずに、「人を動かす共感の伝達」として捕らえています。

「そうそう!」で繋がる
目には見えませんが、「そうそう!」の繋がりで「メッセージを伝える」ことの効果は相当なものです。第一に、メッセージ受信者の主体的な行動が著しく促される点です。「同意」と「納得」は似て非なるものです。特に、コミュニケーションを、単なる情報伝達ではなく事業機能のひとつとして捕らえると、両者の間には相当な隔たりがあります。前者は「理解と利害」によるもので、後者は「そうそう!」による繋がりです。そして、人は「同意」したときよりも「納得」したときの方が遥かに行動力を伴い、大きな力を発揮します。物事を機能させることを重要視するならば(すなわち経営的な観点では)、コミュニケーションにおける相手の納得感が何より重要ではないでしょうか。

なお、「納得」は心の問題なので、メッセージ受信者の外側からは全く見分けがつきません。場合によっては本人が「同意」を「納得」と誤解しているケースも珍しくありません。例えば、気乗りのしない仕事を命じられた社員が、「この仕事をしなければ自分の評価が下がる」から合意する場合と、「この仕事は自分に与えられたチャンス」だから合意する場合では、前者が「同意」であり、後者が「納得」と考えられるのですが、実際にはどちらもあの社員は「納得した」と解釈されがちです。

第二の効果は、事業の運用効率が圧倒的に高まる、具体的には履行管理が殆ど不要になる点です。「同意」によってメッセージが「伝達」されるケースでは、メッセージの「伝達」だけでは履行が保証されないため、そのメッセージの内容を履行する当事者や責任者が特定され、メッセージの発信者がその履行や進捗を管理することになります。伝達、履行、履行管理、進捗管理が別々に機能する必要が生じるのです。これに対して、「そうそう!」によってメッセージが伝達される場合は、その瞬間から履行管理が事実上不要になります。一般的な経営の現場では、指示を出した後、その指示が的確に履行されるかどうかの履行管理に相当な意識と労力が投入されていることを考えると、その効率の差は莫大なものです。

第三の効果は、恐らく最大の効果だと思います。「そうそう!」の繋がりが組織的に機能し始めると、メッセージの伝達が連鎖する現象が生じ、経営の労働効率が極めて高まる(つまり、経営者がとても暇になるということでもありますが…)のです。抽象的な表現なので、この説明だけでイメージすることは難しいかもしれませんが、このテーマの詳細は別の稿に譲ります。

「そうそう!」コミュニケーションの原則
それでは、「そうそう!」のコミュニケーションが実現するためには原則があるのでしょうか。僕の経験と直感によるところが多いのですが、経営の現場において伝達効率の高い(「そうそう!」)メッセージには、伝える内容よりも、①誰が伝えるか、②それが本気(真実)であるか、③行動と一貫しているか、がより大きな意味を持つような気がします。

誰が伝えるか
これは誰しもが日常的に経験していることかもしれません。親が口を酸っぱくして「勉強しなさい」というよりも、自分が憧れている(例えばクラブの)先輩が、勉強することの重要性を一言二言語るだけで、俄然と勉強をする気になった、といった経験は誰にでもありそうです。これは経営者でも、営業マンでも、教師でも、親でも、相手に何か伝えたいと考えるとき、メッセージの説明自体に時間をかけるよりも、相手との信頼関係の構築に時間をかけた方が遥かに効率的だということを示唆しています。そして、信頼関係の構築に最も重要なことは、そもそも信頼に値する人格を持つかどうか、ということに集約するような気がします。

これに対して、「それでは信頼に値しない人は、メッセージを発するべきではないのか」という議論になりそうですが、経営的にはこのような議論をするよりも、この事実をどのように事業に応用するかを考えることが建設的だと思います。すなわち、より信頼に値する人をリーダーに登用する組み(人事考課と運用)、従業員が信頼に値する人になるような成長機会を提供する環境(このような機会を事業的に最優先する仕組み)、を経営が整備することで従業員の幸福度が高く、かつ経営効率の高い事業環境を実現することができます。この経営的な仕組みの詳細は本稿のテーマではありませんので、別の稿に譲ります。

本気であるか
そのメッセージが「本気」であるということは、それ以外に優先する別の意図がない(あるいは、同様の意味ですが、政治的でない)、という意味であり、また、そのメッセージに対して経営がコミットする意思の強さを意味します。

行動とメッセージの法則
メッセージが伝達力を持つために(「そうそう!」伝達するために)、メッセージの発信者の行動以上に重要な要素はないかもしれません。そして、ある人が発するメッセージと、その人の行動との間には、次のような法則があると思います。

(i) 行動は言葉よりも遥かに強いメッセージである。行動で裏付けられた言葉は非常に強力なメッセージとなる。どんなに小さな行動でもメッセージ伝達機能を持つ。例えば、稟議や支出の決済なども、重要なメッセージを伝達するために非常に有効である。
(ii) 行動と言葉が矛盾するとき、行動によるメッセージが優先して伝わる。同時に「メッセンジャーの言葉にはうそがある」、というメッセージが同時に伝わる。
(iii) すべての行動はメッセージである。そして、行動は二種類のメッセージ伝達効果がある。すなわち、言葉通りのメッセージを行動で強化する効果。言葉と矛盾するメッセージを伝え、メッセンジャーの「うそ」の存在を伝える効果。このとき、行動をしないという行為も行動であり、メッセージを発しない瞬間は存在しない。

実務への応用
以上、「伝える」ということの概念を考察し、情報の伝達という矮小化された行為ではなく、事業がより機能する伝達という、経営的な考え方を紹介しました。また「メッセージ」の概念についても、文書・口頭による「指示」という従来の、これも矮小化された範囲ではなく、情報発信者の行動および行動とメッセージの一貫性も含めた捕らえ方をしています。例えば、このような考え方に基づくと、人事考課、支出決済、人事異動、新規事業、広告宣伝などに限らず、経営者の決断や行動そのものが常にメッセージになるのです。この状態を「休まるときがない」と考えるか、「メッセージを伝達するチャンスに溢れている」と考えるかは、それぞれの経営者の価値観次第だと思います(また、このような概念で物事を捉えながら、経営者が精神的に少しも疲弊しない方法も存在するのです。…これも本稿のテーマではないので、別の稿に譲ります)。

そして、このような概念でコミュニケーションを捕らえるのは、これが経営効率を著しく高めるからです。僕が従業員約250名のサンマリーナホテルの経営を担当したときは、従業員とのコミュニケーションを深めようと色々試行錯誤を経験しました。パート職員を含む全従業員一人ひとりと面接をしたり、メッセージを回覧・掲示してもらったり、カードを送ったり、部署ごとの飲み会やビーチパーティーにに誘ってもらったり、いつでも従業員が僕に直接相談できる時間と場所を設けたり…。ある時点から、ひょっとしたらコミュニケーションの概念は今まで認識していたものよりももっともっと広いのではないか、また、メッセージをより効率的に伝達するためには、メッセージを繰り返すことなどとは根本的に異なった法則が存在するのではないかと考え始め、実行に移した頃から、爆発的に効率が高まったのを感じました。

【2007.1.25 樋口耕太郎】

性善説の経営を実現するためには、単に従業員のよい行いを期待するだけではなく、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を経営が積極的に整える作業が必要ではないか、というのが「性善説の経営科学《中編》」の基本的な論旨でした。また、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を提供するということは、従業員が気持ちに余裕を持てるような物理的状況を整備する(無理なシフトを組まない、余裕を持って人を配置するなど)仕組みが必要だと述べました。

あまり一般的な認識ではないかも知れませんが、このような「整備」の大半は財務的的には「投資」と同義でもあり(当然のことですが、シフトに余裕を持たせたり人員を増やすことは費用が生じます)、これによる直接・間接の効果(リターン)や影響の多面的なイメージを把握してバランスを取ることができれば、経営効率が爆発的に高まるというのが私の経験です。このような「投資」効果は一般的に数量化することが困難で、例えば収支計画などでこれが数量的に表現されることはありません。そのため一般的な経営者の「事業のパズル」からははずれがちだと思うのですが、精緻に数量化できないからといって財務的でないとは限りません。むしろきちんと数量化されない財務的経営行動(収益を生じる経営行動)は事業の現場に溢れています。 ・・・経営者がイメージする「事業の生態系」と財務収益の繋がりは、事業経営の中でも特に重要なテーマだと思いますが、本稿の主要テーマではないので、この論点についての詳しい議論は別の稿に譲ります。

経営者が変わるとサービスが変わる
しかしながら、従業員にとって最も大きな「環境」は経営者の価値観そのものでしょう。性善説の経営を実現しようとするとき、経営が従業員の善意を信じ行動することで生じる変化の大きさと成果には本当に驚かされます。よく、「従業員は経営者の鏡」と言われますが、つくづくその通りではないかと思います。鏡をいくら叩いても磨いても鏡に映るその姿は何も変わりません。鏡の中の姿を変えたいときには、自分を変えることが何よりも効果的なのです。同様に、従業員が思いやりを持って人に接するようになるためには、経営者が従業員に思いやりを持って接すること以上に効果のある方法はないのではないかと思います。

むしろ検討すべきは、「経営が従業員の善意を信じ行動する」ということの具体的な意味です。この解釈次第ではまるで異なる結果になってしまいますし、性善説の経営の運用に問題が生じたり、効果が思うように上がらなかったりする場合は、原因の殆どがこの点に集約するのではないかと思います。経営者が従業員の善意を信じて行動する方法は無数にあると思いますが、私が経験した一例をご紹介します。

UG
ホテル業界には「UG」というコードがあります。これはUndesiable Guest(望まれざるゲスト)の略称で、例えば宿泊料金の支払を行わずにチェックアウトしたり、無銭飲食をしたことのあるゲストがこれに該当します。ホテルチェーンなどではUGのパーソナルデータをグループホテル間で共有し、このような事故の再発を防止するのです。チェーンの他のホテルでUGが発生するとそのデータが回覧されて来ますので、それをプリントアウトしてフロントデスクの裏やオフィスの掲示板に掲示されることになります。

経営的な観点で考えると、物事にはすべからく二面性があり、両者を特定した上で定性的・定量的に比較し判断することが効率的です。一般的に、UG管理をすることのマイナス面は殆どないかせいぜいデータを管理・回覧する手間であることに対して、プラス面は、UGの存在によって、沖縄という地域性やサンマリーナの顧客属性では、年間最大2件10万円程度の損失が生じる可能性があるため、UGリストを共有することで少なくともこの損失の一部を防ぐことができる、と考えられるのだと思います。

確かに「目に見える現象」はこの考え方の通りで過不足ないのですが、「目に見えない現象」を含めるとマイナス点は相当なものです。すなわち、サンマリーナに宿泊する年間14万人のお客様(の大半に)対して、ほんの少しであってもフロント担当者が「この顧客はUGではないか?」という懸念を抱いて接することになる点、また何か小さなトラブルが生じたとき、ホテル担当者がUGの可能性を疑いながら顧客に接することになる点、経営が実質的に「全ての顧客を疑え」というメッセージを従業員に対して発している点、経営が「顧客を大事にする」というメッセージを従業員に伝達している場合は、これと矛盾する仕組みのために組織の価値観が混乱すること、などです。特に、人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析がありますが、これがその通りだとすると顧客を疑いながら思いやりをかけるということは、そもそも生理学的にも不可能なことかもしれないのです。 ・・・もちろん、「目に見えないことは存在しない」という考え方を選択する場合には、以上のポイントはなんらマイナス点ではありえないので、どちらを経営の現実と考えるかは、まさしく経営者の価値観次第ということになります。

UGの廃止
私はサンマリーナホテルの経営を担当していたときに、このUGリストというものを始めて知り、その意味を従業員に確認した後にこのシステムを全廃しました。想像通り、社内にはこの決定によってUGを見逃し、ホテルが損失を被るかもしれないと心配する向きもありました。組織(実際には「責任者」)というものは、ダメージの多寡にかかわらず「事故」というものを嫌い、他の物事とのバランスの如何に関わらず完全に排除しようとする傾向があります。事故の発生は担当者の「責任」になるというのが一般的な企業慣習であるためです。

サンマリーナではUG廃止に際して、次のような趣旨の通達を同時に発表しています。『お客様が皆さんに言った言葉は100%正直な内容であると信じて行動して下さい。このような皆さんの行動の結果としてホテルに損失が生じた場合、会社は個人の非を一切問いません(ただし、事故報告書の提出は欠かさないで下さい)』 これは例えば、「自動販売機に入れたお金が1,000円戻ってこない」と顧客が自己申告した場合、機械を開けるまでもなく、即刻1,000円を顧客に払い戻す手続きをして下さい、という意味です。そして、「UG」が発生した場合は次のような「対策」をすることに決め従業員に伝えました。『もしお客様が何らかの理由で正当な支払を行わずホテルを立ち去る場合でも、お客様が支払をしていないという事実は全く無視して、やはりお客様に思いやりをもって接するよう心がけてみてください。また、そのお客様が再度ホテルにいらっしゃった場合も、過去の事実を全く無視して、その他のお客様と同様に接してください。傍目にはどんなに明らかなように見えても、実は見かけからは想像もつかない、やむを得ぬ事情がお客様にあるかも知れません(見かけと実際が異なることはよくあるものです)。言葉は悪いのですが、お客様に騙されても構いませんし、同じお客様に何回騙されても構いません。』

フロント担当を中心としたホテル職員で、本当は顧客を疑いたいと思っている人は殆どいません。顧客はみな善意であると信じて接する方がよほど気持ちが楽ですし、人にやさしくできますし、自分も楽しい時間が過ごせるからです。しかし、彼らのプロとしての義務感が、その業務を全うするために、少しではありますが確実に自分の心に負荷をかけることを強いているのです。この心の負荷は僅かなものですし、もちろん目に見えないものですが、その「小さな」心の負荷が軽くなることで従業員がどれほど元気になったかは、傍からみているだけでも本当に感動的でした*(1)。この変化を顧客が感じないわけはありません。実際、ゲストコメントの内容と量の変化にはっきり現れています。それ以降は、年間14万人の顧客に対して疑いを持たずに、気持ちに大きな余裕を持つ社員が0人から250人(全従業員数)に増えたと考えてもそれほどの誇張ではないと思います。経営的には、「人の善意を100%信じることで、個人的に損失を被るかもしれない」という従業員の恐れを取り除くしくみを提供したことになります。

性善説の経営と事業性
突飛な例に聞こえるかもしれませんが、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の冒頭に登場するミリエル司教は、一晩泊めてあげたにも拘らず銀の食器を盗んだジャン・バルジャンに対して、断罪することではなく、彼を肯定し、彼の心の中の善意を信じて銀の燭台を手渡すことで彼の人生を永遠に変えました。9年後ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メール市の市長になり、福祉の整った善政を行いこの地方を非常に豊かにするきっかけは、わずか200フランの銀の燭台だったのです。もちろん本人は自覚していなかったと思いますが、ミリエル司教は優れた「投資家」であったとも言えるのです。

我々が一人の顧客に10回騙されれば、その顧客はその後、沖縄やホテル業界や社会の善意を信じて人生を送れるかもしれません。ホテルで年間5万円の予算を組む(損失を見積もるということですが)ことで万が一にもそのような人を「手助け」できるのであれば、ホテルや我々の仕事が人の役に立てるかもしれません。もちろんこの方針によってこのような「UG」を善人に変えようと考えているわけでもありませんし、現実にはその機会さえ殆どないかもしれません。しかし、このような信念が従業員に伝わるとき、組織が根本的に変化することを経験しました。

以上の考え方は性善説の価値観に基づくものですが、実は「きれいごと」に終わらない経営的(財務的)な裏づけが存在し、このような経営行動は極めて事業効率の高い判断である可能性があるのです。会社が被る損失は、仮に1回につき5万円の損失だったすると、10年間で10回騙されても年間5万円です。これに対して、顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップするという調査*(2) があります。従業員の善意に共感し、リピートする顧客がどのくらいであるかを数量化することはできないものの、直感的にこのインパクトをイメージすると、僅か5万円の「投資」(機会損失)で得られるリターンは信じられない程の収益率を生むことが想像できるとおもいますし、その後のサンマリーナの収益はこの仮説を一部裏付けていると思います*(1)

【2007.1.22 樋口耕太郎】

*(1) 趣旨を分かりやすくするためにこのような単純な表現にしていますが、正確に表現すると、もちろんUGを廃止しただけではこのような効果は生じません。その他多くの細かい経営判断を性善説の価値観でバランスよく対処することで一貫性が生じ、最終的にこのような結果をもたらすというイメージです。

*(2) Frederich Reichheld, “The Loyalty Effect” (Harvard Business School Press, 1996). 売上高利益率の低い(すなわち、オペレーションレバレッジの高い)ホテルのような業態では、事業的な成果がこのようなレバレッジ効果を伴って顕在することがあります。この調査による「顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップする」という水準は僕の個人的な実感ともおおよそ一致します。

「性善説の経営科学《前編》」では、「人の正直さは各人の人間的な性質による」という一般認識に対して、「正直さの多くは状況や環境に依存する」可能性と、この性質が経営に示唆する内容について述べました。このように、人間の性格は一貫的なものだと思い込む傾向を、心理学では「根本的属性認識錯誤(Fundamental Attribution Error)」と呼ぶそうです。人は他人の行動を解釈するとき、その性格的な特徴を過大評価し、状況や環境の重要性を過小評価するということを意味しています。どうやら人間の脳は状況的なヒントよりも人に関するヒントの方に敏感に反応するように調律されているようなのです。したがって、性善説の経営を実行するとき、従業員が正直に行動するような状況や環境を経営が整えることの重要性は高く、それこそが経営者が積極的に分担すべき仕事である。そしてその環境整備として最も効果が高い作業は「経営が従業員の善意を信じ、行動することそのもの」であろう、というのが前回の論旨でした。本稿では、性善説の経営に必要な環境整備とサービス事業への応用の可能性についてコメントします。再びマルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』からの引用です。

「善きサマリア人」の実験
『90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)立ち止まらずに「道に反対側を通り過ぎていった」。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、「近寄って傷の手当をし」宿場まで連れて行った。』ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。

ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。

ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか? それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」 ②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、職業としての聖職者と宗教的使命の関係を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。 ③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。

さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」

この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。』

以上の実験結果は、ある意味当然かも知れません。よく、「人間は自分が幸福でなければ人を幸福に出来ない」、「顧客満足度は従業員満足度から」、「衣食を足りて礼節を知る」などといわれることがありますが、含意はこの実験結果とおおよそ符合します。逆に考えると、神学生たちの善き性質を引き出すためには、彼らが人助けをする機会に「恵まれた」とき、彼らの時間や気持ちに余裕のある環境を整備することが効果的であると考えられ、これが性善説の経営を実行するヒントになります。

サービスの現場では…
以上をサービス業の経営に当てはめると興味深いことになります。従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接するためには、従業員の「サービス能力」や、優しい性質や、共有した価値観や、気の利きようや、経験や、そしてお金と時間をかけた社員教育よりも、現場において従業員が「急いでいない」という状況、あるいは気持ちに余裕がある環境の方がよほど大きな影響をもたらす可能性があるのです。

翻って、世の中の一般的なサービス企業は、従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接する、あるいは少なくともそのフリができるようになるように(現実にはこのケースが大半かも知れませんが…)莫大な費用と時間と人材を投入します。このような、例えば人事評価制度を整備したり、有能な人材を選別したり、価値観を共有したり、研修をしたり、個人の「能力アップ」をサポートしたりする作業は、概して売上に直接結びつかない一般販管費ですので、企業価値と収益に直接のインパクトを与える、財務上重大なコストです。しかしながら、ダーリーとバッソンの実験結果が示唆することは、従業員が思いやりを持って顧客に接するという結果を導くために、経営が費やすこれらの作業や費用は、実のところあまり効果がないかも知れないのです。そして、「(気持ちが)急いでいない従業員」の方がよほど多くの善きサマリタンを生み出し顧客に感動を与えるかも知れないのです。

従業員が気持ちに余裕を持って顧客と接することができる環境とは、例えば余裕を持った人員配置(人数そのものを増やす)、柔軟で緩やかなシフト、期限を決めた仕事をしないこと、進捗状況の確認という名の下にプレッシャーがないこと、などを意味すると思いますが、これらはいずれも現代経営の価値観の中では「無駄」「非合理」「規律が取れていない」「管理されていない」と解釈され、真っ先に削減や合理化の対象になります。すなわち、一般的なサービス事業の現場で起こっていることは次のように解釈することができます。

①経営は「無駄」を排除するために、「適正な」人材配置を行い、可能な限り無駄な従業員やシフトをなくす努力を重ねます。のんびりしている従業員がいる現場やシフトは見直され、遠からず配置人員数が減らされることになるでしょう。収益に対応した売上等の目標の進捗はこま目に管理され、目標に遅れがあるときには責任者に対して厳しい指摘がなされるかもしれません。

②これによって、従業員が顧客に対して思いやりや善意を持って接するための最大の要因、すなわち「気持ちの余裕」、がことごとく現場環境から消滅していきます。

③反面、顧客に対して思いやりを示すことが経営から現場に対して強く求められ続けます。それにも拘らず、「合理性の追求」や「無駄の排除」によって、従業員が思いやりを発揮できる状況が現場環境からどんどん減少していきますので、現場従業員は経営からの(思いやりを示せという)要求と、自分の(余裕のない)本心がどんどん乖離することを感じるでしょう。

④これに伴って、現場は効率的に「思いやりを示すフリ」をする方法を習得して対処しますが、そのうちにこのような状態があまりに一般化してしまい、現場の従業員も本当の思いやりと思いやりのフリの区別が分からなくなってしまいます。一方、経営は一般的に従業員が顧客に示す本心からの思いやりと、思いやりのフリを区別しません。

⑤同時に経営は(経常利益と企業価値を直撃する)多額の費用と時間を投資して、企業理念と価値観をプロモートしてみたり、「優秀な人材」を確保し、人材開発、能力開発、研修、などの人事研修システムを整備します。

冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、ひょっとすると現代の一般的な経営が胸を張って実行している行為は、従業員が顧客に対して思いやりを発揮する環境を「合理化」の元に非常な努力を持って削減し、効果の低い「人材投資」に莫大な費用と時間と人材を投下し、企業収益と企業価値を大幅に減じているだけなのかも知れません。・・・なるほど、多くの人が「ビジネスは戦いだ」と感じるのは当然でしょう。

【2007.1.17 樋口耕太郎】

「信じるということ」で表現しようとしたことは、経営において、仕組みを運用する立場(主に経営者)の意識や価値観が事業に与える影響です。経営論では目に見える仕組みに意識が集中しがちなのですが、私の個人的な経験と実感では、目に見えない経営者の価値観は相当大きな変数だと思えます。例えば、「従業員ロッカーにカギを設置する」という決定で、カギ管理のルール、費用、従業員のモラルへの影響など、が目に見える仕組みの議論、経営者がカギを設置する際の真意、が目に見えない価値観の議論です。経営者がどのような真意でカギを設置しようが、現場にカギが設置されることに変わりはなく、その事業的な効果に影響を与えない、と考えるのが「常識」だと思いますが、これに反して、経営者の真意によって事業の成果が異なる、ということを経営科学的に説明できるのではないかと思っているのです。本稿では経営における「性善説」をテーマとし、①そもそも経営における性善説とはなにか? ②性善説の経営は(どのようにして)可能か? ③性善説の経営が効果的であると合理的に考えることが可能か?という三つの問いにひとつの回答を試みました。

正直さは環境に依存する?
雑誌『ニューヨーカー』のスタッフ・ライターである、マルコム・グラッドウェル著『なぜあの商品は急に売れ出したのか』は、流行が生まれるときの爆発的な現象を心理科学的な側面から分析した興味深い本です。グラッドウェルはその中で、人間の心の状態は一般的に認識されている以上に外部環境に影響されると主張しています。ひとつの実証として次のような(少々意地悪な?)実験の事例が挙げられていますので引用します。

『ニューヨークを本拠とする二人の研究者、ヒュー・ハートショーンとM・Aメイが1920年に行った一連の画期的な実験がある。二人の研究者は、8歳から16歳まで、なんと約11,000人の生徒を対象にして、正直さを測るために考えられた、数え切れないほど様々な種類のテストを、数え切れないほど様々な状況で実施した。

例えばそのひとつとして、当時の教育研究所が開発した単純な適正テストが使われた。数学のテストでは、「砂糖の値段が1ポンド10セントであるとき、5ポンドではいくらになるか」というような問題が出され、余白に答えを書くようになっている。このテストでは通常の所定時間のほんの一部しか与えられないので、多くの問題が未回答のまま回収され、採点される。翌日は、問題は異なるが、難易度は同じ程度のテストが再び行われる。しかし今度は、監視を最小限にとどめ、自己採点をするように伝えられる。

言い換えると、ハートショーンとメイは良心を刺激する仕掛けをしたわけだ。正解が手元にあり、未回答の問題がたくさん残っていれば、生徒たちはいくらでもカンニングすることができる。ハートショーンとメイは、前日のテストの結果と比べて、それぞれの生徒がどれくらいカンニングしたかを判断することができる。その結果は最終的に三冊の分厚いファイルに収められた。

結果は予想にたがわず、こういうテストでは多くのカンニングが起こるということだった。カンニングが可能なところでテストした場合、平均すると「正直」な採点の50%も得点が高くなった。だが、カンニングのパターンと子供たちの属性に関して意味のある傾向は存在しないことがわかった。はっきりと特定できるカンニング・グループがあるわけでも、正直な生徒のグループがあるわけでもない。また、これらの条件、例えばテストの問題とか、テストを実施する状況、をひとつでも変えれば、カンニングする子供も変わってしまうのだ。

そこでハートショーンとメイは結論する。正直さというようなものは人の性質を決める根本的な特徴でもなければ、「一貫した」特徴でもない。正直さのような特徴は、状況に大きく左右されるものである。大多数の子供たちは、ある状況におかれれば人をだますが、別の状況ではそうではない。この調査で試されたテスト状況から判断する限り、ある任意の状況で子供が人をだますかどうかは、知性とか年齢とか家庭環境などの条件に一部しか依存していない。ハートショーンとメイの調査が示唆しているものは、「固有の性格という観点だけから判断し、状況の役割をなおざりにすると、人間の行動を決定している真の原因を見誤る」ということである。』

性善説の経営科学
もちろん、この調査を根拠に「環境だけが人間の正直さや行動を決める」と考えるのは偏りすぎでしょう。長い目で見れば正直な人間はやはり正直な一生を送るものです。しかしながら、人間の正直さはその人の性質や努力によるものだけではなく、環境による影響が大きい、特に我われが一般的に認識しているよりも大きい、という示唆は経営的に重要なものです。従業員が正直であることの要素は、恐らく「本人の性質によるもの」、「本人の努力によるもの」、「企業などの環境によるもの」、の三種類によると思われますが、経営者の立場では、従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける、ことが経営合理的であると考えられるためです。すなわち、性善説の経営を実行するということは「人間の根源的な性質は何か」という大上段の議論に決着をつけるようなことでも、従業員の人間性のみに帰す問題でもありません。従業員の正直な行動を促すために経営が果すべき役割の認識であり、実際にその作業を実行することだと思います。私の経験では、その認識と行動が現実の事業的成果を大きく左右するのです。

表現が堅苦しくなってしまいましたが、要は性善説の経営が成立するためには環境的な前提が必要で、その環境を整備するのは(少なくとも一部は)経営の役割であり、その前提とは、「従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける」ということです。従業員の性善説を漠然と信じても成果が上がらず、何かしら従業員から裏切られた気持ちになった経験を持つ経営者は少なくないと思いますが、自分自身に対して、人が正直でいられる環境を自分は十分に整備していたか、そしてそもそもそのような環境とはいかなるものか、と問うことは意味があるかもしれません。私が個人的に学んだことは、従業員の環境を整えず(経営ができることをせずに)従業員の性善説を漠然と信じても自分が勝手に裏切られた気持ちになるだけ。性善説の経営を実現するためには、人の善意を信じることは第一ですが、その善意が顕在化するために経営ができることを特定し、行動すること、だと思いました。性善説の経営には科学が必要なのです。以下、冒頭の「従業員ロッカーのカギ」を設置するケースを考えてみます。

カギは善人のためにかける
どこで読んだか忘れてしまったのですが、「ユダヤの知恵」のひとつとして「カギは悪人のためではなく、善人のためにかけるのだ」という考え方があるそうです。もしある人が悪意をもって物を盗もうとするときは、鍵があろうとなかろうと結局壊してでも手に入れるため、カギの有無はあまり意味がありません。反面、カギをかけるということで善人が出来心を起こすのを防ぐことができ、実質的にはこの効果の方が圧倒的に重要だ、という意味だと思います。

従業員ロッカーのカギのケースは、実はサンマリーナホテルで私が経営を担当していたときに実際に起こったことです。長年勤めていた従業員が同僚のロッカーを荒らし、盗難を働いていたことが明らかになり、経営幹部の間でどのように対応をすべきか深く議論しました。議論の焦点は業務上の対処でも、彼の処分でもなく、彼とどのように向き合うかであり、そのときヒントになったのは例えば、「彼が自分の息子だったらどうするか」という問いでした。よき親は子供の心の一番底にある善意を最後まで信じると思われたためです。

物理的な対応はカギの整備、ということでしかありませんでしたが、われわれが最も重要視し、できるだけ多くの従業員に伝えようと試みたメッセージはその背後にある価値観でした。ユダヤの知恵の話を伝え、サンマリーナではカギは善人(すなわち全ての従業員)を守るためのものと定義しました。会社においてカギを設置することの唯一の意味は、従業員を管理したり、あるいは盗難を減らすことすら一義的な目的ではなく、善意ある従業員に、会社で可能な限り正直な時間を送ってもらいたいためであること、そして、今回盗難を働いた社員を「守る」ことが出来なかった責任の一端は経営にあることを、各リーダーに直接伝えたのです。(この事件をきっかけに退社した)この社員のこと、その後家族との関係はどうなっただろう、生活はどうなっただろうと今でも考えることがあります。

このような事例の成果を数量化したり因果関係を特定することは恐らく不可能ですが、仮にこの対応以降盗難が減少した場足(すなわち従業員の性善説的な性質が顕在化したとして)、それはカギを設置したこと自体に加えて、カギを設置することの意味(すなわち善人を守るためにカギを設置する)が従業員に伝わった、という効果が少なからず含まれるのではないかと思っています。

【2007.1.13 樋口耕太郎】

昨日はありがとうございました。
またお目にかかることができてとてもうれしかったです!

以下は昨日皆さんにお送りさせていただいた「麗王便り」です。
日野さんのアドレスを登録し忘れておりまして1日遅れてしまいました。
読んでみてくださいね。

おめでとうございます!
新しい年が始まりましたね~。
1年のスタートの月を“睦月”といいます。
この1年も、家族みんなが幸せでいられますように、そんな願いが広がるから
でしょうか、1月の旧暦名は“互いに睦まじく”人と人がにぎわい、
顔を合わせあって睦み合うことから“睦月”というのだそうです。
古くから伝えられるお正月遊びの凧揚げも、そんな願いが天高く届くよう、
始められたのかもしれません。
“睦月”の意味あい通り、1月は日頃の感謝をあたためながら、いろんな人と
会い、楽しく過ごしたいものですね。
様々な人と和やかに睦み合い、いろんな会話を交わせば、
その中から今年の幸運が流れ込んでくるような気がします。

そして、今日は“鏡開き”の日です。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使うのだそうです。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
今日食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
麗王でも温かいおぜんざいに入れてご用意いたしておりますので、ぜひ
お召し上がりくださいね。

かつては国民的休日として、街が静まり返るほどに、誰もがそれぞれの家庭で
団らんを楽しんでいたお正月でしたが、現代では、普段と変わらずにお店が
営業するなど、あたかも旧年の延長。
でも、やはり1月は、街にお琴の音が流れていたり、しめ縄や門松が
飾られていたりと、「和」を「日本」を、感じさせてくれます。

その「日本」、ある意味では、外国の人の方が、より理解し、愛しているのでは、
と思うことさえあります。

四方を海にかこまれた、その小さな島国は、春夏秋冬の美しい風景に彩られて
ひとりのイタリア人青年をとりこにしました。
いまから半世紀以上も前の昭和30年代、フォスコ・マライーニ氏と日本との
出会いは、のちに一冊の写真集「海女の島・舳倉島」に姿を変え、世界中の
人々に愛されるベストセラーになりました。

マライーニ氏にとって日本は神秘の国でした。
日本の人々は、小川のせせらぎや森の大樹、ときには米びつや酒樽のなかにまで
神の姿を見いだし、手を合わせて祈る。
教会も、聖書も、ロザリオも見あたらないのに、そこらじゅうに神々の息吹を
感じる。
私の住む沖縄もまさしくそういうところです。

とりわけマライーニ氏を感心させたのは、
日本の人々の、ものの憐れを知る心――。
自然を最上のものとして敬い、畏れ、感謝し、
自然の木々や鉱物、土からつくった道具や「もの」のなかにまで命を見いだし、
慈しむ「心」。
役目を終えた「もの」をも憐れむ、針供養や人形供養などの美しい習慣はいまも
私たちの暮らしに確かに根づいています。

あの日、マライーニ氏の心を強くとらえた日本の姿はいまも、
そのままでしょうか。
ファシズムに抗議して投獄されたこともある高潔なマライーニ氏は、2004年6月
永眠されました。
晩年、イラク戦争やテロの惨状を目にしては、「こんな世界は見たくない」と
涙されていたといいます。

美しき日本の心を、大地や海を、守るために、
子どもたちの未来に「平和」をつむぐために、
いまこそ、愛と、勇気と、夢を――。
そして「あたりまえのこと」を。

今年はそんな気持ちで過ごしてゆこうと思っています。
あなたもたくさんの希望を夢を、胸に、スタートをきってくださいね。

今年はもっともっと、あなたとの大切な時間をやさしさで包めますように。

ごく最近の小さな変化ですが、昨年末に近づいたあたりから大衆的な雑誌(例えば先日目にしたのは「JJ」です。)のトレンドが、伝統回帰、うわべよりもしっかりとした中身、物質よりも心に焦点を置き始めたような気がします。数年前まではガングロ、最近ではパリス・ヒルトンや倖田來未が紙面を埋め尽くし(彼女たちに偏見があるわけではありませんが…)ていたモード誌がこのような正統派スタイルを堂々と取り上げ始めるのは、僕の記憶にある限り初めてです。少なからずびっくりすると同時に、これはとても大きな変化の兆しではないかと勝手に想像しているところです。このような社会の意識変化によって、今年あたりから誠実な生き方を表現することがだんだん「かっこいい」と評価されるようになるかも知れません。

経営の概念が広がる
経営の世界でも、目に見える物事のみを前提とした、矮小化された「合理性」だけではなく、目には見えないが非常に広範囲な物事に注意を払う(例えば人間関係、心、価値観などです)ことで、逆説的ですが、より合理的な事業評価が可能になるという認識が広まるのではないでしょうか。例えば、僕は以前から、経営科学において経営者の個人的な価値観や生き方がもっともっと重要視されるべきではないかと考えています。経営者個人の人生や価値観は目に見えにくいということもあり、従来の経営科学のフレームワークからは殆ど無視されていますが、現実には経営者個人の価値観や人生観が事業に莫大な影響を与えることは誰の目にも明らかです。つまり、このような一見目に見えないが厳然と実態が存在している物事を含めて認識する「広い経営概念」を前提として、経営における合理性が議論されるべきではないかと思います。この場合前提が従来のフレームワークとは根本的に異なり、また比較にならないほど広範囲(従って莫大な潜在事業性)をカバーすることになりますので、正しく活用すれば飛躍的な成果を生み出す反面、従来の価値観からは非常識極まりないものと見えるのです。

以上の前提で、経営者の個人的な価値観のうち、「信じる」ことと「伝える」ことに注目してみました。つまり、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているか、が事業において非常に重要な要素である、という考え方です。本稿ではまず「信じる」をテーマにしました。「伝える」についても非常に掘下げ甲斐のある良いテーマなのですが、分量が多くなりすぎるために別の稿に譲ります。このテーマは個人的なものと経営的なものが非常に重なるため、本稿においても僕の個人的な経験や価値観に触れていますが、この点ご了承いただければと思います。

僕にとって「信じる」ということ
およそ3年前に沖縄で事業を開始してからは素晴らしい経験の連続です。その中でも、いくつかの経営的に重要な決断において、突き詰めて行くとどれも「合理的」な判断に基づいて「信じる」ことが不可能なものばかりだった、という経験をしました。例えば、ある判断が正しいという合理的な理由を見つけられないまま重要な決断をせざるを得なかった、というような事態です。そのときに思ったことは、自分が理解できる範囲のことを「信じる」のは比較的容易な作業。でもそれは本当に「信じて」いるのではなく、それが「分の良い選択」であることを確認しているに過ぎないのではないか、そして「信じている」という言葉の多くは、実は「分析している」という意味に過ぎないではないかということです。このような「分析」は、自分の認識と経験の範囲内における「合理的な」選択である以上、自分の過去の経験や現在の認識を超えることはできません。

現時点の僕にとって「信じる」という行為は、価値あると思えることに対して捨て身になること、すなわち、そこに一見何の合理性も無く、また現在の自分の能力や経験に基づいて理解、分析することができない状態であっても、その成功や正しさを継続的に確信するということです。このような判断は自分の経験や認識を超えることが多く、自分で正否を理解できる合理性が必然的に存在しないため、その正しさの確度を分析することは不可能です。つまり、この時点でその信念が正しいという確証は存在し得ないのです。このような状態(正否の判断不能な状態)において人や物事を「信じる」ためには、突き詰めると、言葉は悪いですが、その対象(人)に「騙される」、あるいは「破綻(必ずしも事業破綻とは限りません)を今の時点から受け入れる」というような自己作業が必要です。これによって「Aさんのことを信じていたのに…」ということは起こり得なくなり、ほぼ100%自己作業というか結構苦しい自分との戦いになります。

このような、一見わけもわからないものに対して自分を「危険に曝す」行為が多くの人にとってとても分が悪いことのように思えるのは理解できるのですが、少なくとも僕の経験においては、逆説的ですが、これほど爆発的な力と結果を引き起こす、すなわちとても合理性のある、そしてこれほど事業性を生む行為はないというのが経験による実感です。

供養における「信じるちから」
先日、奈良薬師寺の高田好胤管長(1998年遷化)の本を読んでいて、釈迦が最後の時期に受けた供養(お坊さんは、皆が尊敬の意をこめて提供する食物を受け取って生活するのですが、このことを「供養」を受けると言います。)の食べ物が傷んでいたために体調を大きく崩し、これが直接の原因となって死期を早めてしまう、というくだりがありました。釈迦はこの供養を行ったチュンダが最後の供養者になってくれたことに感謝した後にお亡くなりになります。

供養を受けるということは本来命がけ、自分の身を相手に預ける行為そのもので、これはまさしく「信じる」ことそのものだ、と感じました。これは大げさに言えば、合理的な根拠なしに(少なくとも目に見える状態ではない中)、自分の人生を担保に差し出すことであり、真剣に取り組むことができれば感動的なくらい誠実な行為になり得ます。

金脈の話と「信じるちから」
以前東京で働いていたとき、ある若手の営業マンが売上が伸びずに苦しんでいて、個人的に相談を受けたので、小さなアドバイスをしたことがあります。「今積み上げている努力は金脈(売上)を掘り当てるためにスコップで穴を掘る作業のようなものです。金脈にあと1センチで到達するかも知れないし、あと1キロ掘り下げなければならないかも知れない。けれど、1センチ前の時も、1キロ前の時も、掘っている人の不安な気持ちや暗中模索の状況は全く同じです。ですから、どこに金脈があるか、あとどれだけ掘れば金脈にあたるのかという議論には殆ど意味がなく(どの道分かりませんので)、この先に金脈があると信じて努力をし続けることができるかどうか、自分の成功を信じ続けることができるかどうか、つまり信じるちからを持ち続けることが一番重要だと思う」という内容です。

いつも思うのですが、僕のイメージとして、98%くらいの人間は自分のことを過小評価、それも著しく過小評価していると思っています。98%という数字が仮にその通りだとすると、これは自分を信じることがそれだけパワーを必要とするということだと思います。なぜこれほど自分を過小評価する人が多いのかといえば、それだけの比率の人が、目に見えること、目に見える他人の評価が自分の実力(潜在力)だと自ら納得(誤解)してしまうからでしょう。確かに、例えば30日間でも穴ばかり掘っていたら、大概の人間は萎えてしまって諦めます。周りの人も親切な人ほど「無駄なことは止めた方がいい」と優しくアドバイスをくれたり、また一般には「やっぱりその程度」と白い目で見てプレッシャーを与えたりします。

ある村での干ばつの話
細かい内容は忘れてしまいましたが、以前どこかで読んだ本の中で、このような感じのお話がありました。

『ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい。」長老は答えます「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」

村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか。」それを聞いた長老は答えました。「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか。」』

長老の言う「信じる」ことと村人の「信じる」ことは似て非なるものだと思います。多くの事業(や人間関係)において、ある価値観をスローガンにしながら、「傘を持たない」経営がなされているケースは珍しくありません。

野茂英雄と「信じるちから」
ご本人とは一度もお会いしたことはありませんが、僕は日本の野球界で最も偉大な選手は野茂英雄だと思っているのです。野茂が日本人として始めて大リーグで成功したとたん、日本人大リーガーが続出したのは誰でも知っていることですが、冷静に考えてみると、野茂が大リーグに挑戦する前(before ノモ)と後(after ノモ)で日本プロ野球界のレベルは殆ど変わっていない筈。つまり、日本人が大リーグで活躍できたかどうかは能力の問題ではなく、できると思えるかどうかが重要だったということなのでしょう。野茂が発揮したのは「信じるちから」そのものだと思います。近鉄への退路を絶って野茂が大リーグに挑戦したとき、彼以外にこれだけの成果を上げることができると考えた人はいなかったと思いますし、彼自身にとっても自分自身を信じることは、一見何の合理性も無いことだったはずで、さぞや苦しかっただろうと思います。

「after ノモ」では、日本人大リーガーが続出しその多くが大活躍します。イチローは安打の世界記録を達成しますし、井口はチームのワールドシリーズ優勝に大きく貢献します。最近では松坂に60億円の値札がつくなど(この辺は非常識極まりないと個人的には思うのですが…)のニュースもありました。このため大リーグが日本人にとってあまりに面白くなってしまい、日本のプロ野球、特に巨人の人気が凋落します。日本テレビの男性アナウンサーは巨人戦の中継では必ずスーツを着用するという伝統があるほど日テレにとって重要であった巨人戦の視聴率の下落が止まらず、昨年は一部放映を取りやめるという「大事件」になっています。これをひとつのきっかけとして長期に亘って安泰だった日本テレビの業界での地位も大きく影響を受け、日本のメディア業界全体の再編が緒に就いた感があります。日本のメディア業界の再編を最も促した人物は、氏家さんでも、ホリエモンでも、三木谷さんでも、まして村上さんでもなく、野茂英雄ではなかったでしょうか。

もちろん野茂本人はそんなことを目的にしてもいませんし、想定もしていなかったと思います。しかし逆に結果を求めなかったからこそ、自分の心からやりたいことを、自分ができることから行動したからこそ、他人に一切求めず自分の責任を全うしたからこそ、結果として多くの人に実質的に多大な影響を与えたのだと思います。野茂はもっともらしい社会の常識や、他人からの評価と戦って、全く違う信念を持ち続けた人なはずで、このような人こそが皆に「やればできる」と思える成果を提供し、社会を動かすことができるのだと思います。これが「信じるちから」の本当の威力であり、隠された莫大な事業性のイメージです。

「マトリックス」における信じるちから
映画「マトリックス」は本当に凄いです。主人公ネオがマトリックスから人類を解放する救世主かどうかが、まだコンピューターに支配されずに抵抗を続けているわずかな人間たちの間で大きな問題になります。ネオを救世主だと信じ続けるモーフィアスは、仲間から変人扱いされます。

物語の中で、ネオが救世主かどうかを確信したいがために、モーフィアスはネオをオラクルという予言者のところに連れて行きます。オラクルはネオと二人きりになった時、ネオに対して、「あなたが救世主かどうかは、あなた自身が感じるはず。あなたはそうだと思えますか?」と問い、ネオは「違うと思う」と。オラクルは同時に「それにも拘らず、モーフィアスはあなたが救世主だと固く信じ続けているがゆえに、近い将来、自分の命と引き換えにあなたのことを守ろうとするだろう。そのときにどうするか(自らを犠牲にするか、モーフィアスを見殺しにするか)はあなたの選択」とだけ告げます。

結局ネオは救世主であった(正確には救世主に「なった」のだと思います。理由は後述。)のですが、それではなぜオラクルは「ネオは救世主ではない」という予言をしたのでしょうか?この謎は、1999年に初めて映画を見て以来2004年にその答を思いつくまでの実に5年間、僕を悩ませました。5年越しの僕の結論は、真の予言者は「正しいことを告げる人」ではなく、「正しいことに導く人」だということです。これはつまり、正しい苦労をさせる人(その「苦労」がたとえ死や別れであっても)、と言うことも意味します。ネオには救世主になる「可能性」があったが、それを引き出すためには、その時点のオラクルの言葉を心から信じ、かつ身を犠牲にするという通過儀礼(体験を通した学び)が必要。オラクルが単に「あなたは救世主だ」と伝えただけでは、ネオはその通過儀礼を果たすことができません。また、モーフィアスが、ネオのことを盲目的に信じ続けることをしなければ、これもやはりネオが通過儀礼を果たすことはできなかったでしょう。つまり、オラクルは、モーフィアスの信じるちからを見抜き、ネオが自分の「誤った」予言を信じることを見抜き、これを勘案してネオに「命がけの選択肢」を手渡したのです。この「命がけの選択肢」のパラドックスは、自分の命を引き換えにすることで、ネオは救世主という新たな「命」を得るのです。この意味で、ネオを救世主に「した」のは、ネオとモーフィアス、二人の信じるちからによるところが大きいと言えます。あるいは、ネオとモーフィアスの信じるちからによって、ネオが救世主に「なった」と言う方がより適当かも知れません。もっと言えば、ネオは、信じるちからがあったから救世主になった、もっともっと言えば、信じるちからを持つものが救世主になる、ということかも知れません。

ポイントは、ネオが信じた予言自体は「誤り」だった、ということです。信じるちからは、信じる対象が正しいかどうかに関りなく、信じるということ、それ自体でとても大きな力を発揮する、ということへの示唆だと思えるのです(それこそが「信じる」ということの意味なのだと思います。)。

翻って考えると…
世の中には「何を信じるか」に関する情報に溢れています。数々の経営理論、評論、書籍、「専門家」のコメント、教育、法律、慣習、(編集も含めた)ニュース、映画、雑誌、流行、宗教…。しかしながら、そもそも「信じるとはなにか」ということは滅多に議論されません。

人それぞれ「信じる」ことの意味は違いますし、違って当然です。特段どれが正しいということもないと思います。ただし、経営者がなにかを「信じる」とき、それが実のところどういう意味であるかは事業に大きな影響を与えることになりますので、この意味を自覚的に理解することは色々な面で大きな手助けになるでしょう。あなたが経営者だとしたら、例えば自分のパートナーや部下を「信じる」とき、それは突き詰めるとあなたにとってどういう意味なのでしょうか?

【2007.1.3 樋口耕太郎】