加速度成長モデルと経営(pdf)

経営科学の分野ではあまり注目されていない概念でありながら、経営の現場ではとてつもなく重要な要素のひとつに「予測」という作業があります。予測は経営判断の一部を構成しますので、(同様の意味ですが)全ての経営判断には前提となる予測が含まれており、また予測を含まない経営判断はバックミラーを見ながら車を運転するようなもので、意味がありません。これほど重要な概念なのですが、例えば経営分析の一連の作業などでは、過去と現状の分析に膨大な時間と手間をかけながら、予測に関しては単純に過去のトレンドを採用する、などの比較的機械的な扱いを受けていることが少なくないような気がします。

成長予測の重要性
予測の概念の中でも、企業の中長期戦略やプロジェクトの売上予測など、経営の根幹に大きく関わる「成長の予測」は特に重要性が高いと言えます。単純に発想すると、企業活動は対外的な売上と、社内的な費用から成り立っていますが、一般に、費用の中には売上に連動する変動費が含まれているということもあり、収益を生んでいる企業においては費用の額よりも売上の額の方が大きいということもあり、売上の成長率の方が費用の成長率に比べて収益に与えるインパクトが遥かに大きいのです。したがって、これも単純化した発想ですが、社内に関連する、すなわち費用に関連する全ての予測よりも、対外的な、すなわち売上や戦略に関連する予測、すなわち成長予測が特に重要性を持つと考えます。

一般的な成長予測は「年%成長」と表現されるように、単純に「計算上の成長率の想定」と認識されることが多いのではないでしょうか。しかし、成長予測の本質は「近くの公園の野良猫は1年後、5年後に何匹になるだろうか。」「全国のサッカーのクラブチームは1年後、5年後にいくつになるだろうか。」「この街の人口は1年後、5年後、10年後どのような推移になるだろうか。」「インターネットの利用者数は1年後、5年後に何人になるだろうか。」などの質問について、現象を深く理解した上で導かれる社会的な洞察ではないかと思います。そして、一見雑多に見える多様な社会現象にも、ある一定の条件の下で特定の成長パターン、つまり「加速度成長モデル」が存在するのではないか、更にそのモデルは一般的に考えられているより相当一般的な現象なのではないか、と思うのです。

加速度成長モデル
一般的な成長イメージ、つまり経済成長のような「等速度成長モデル」と一般的な認識ではないが、意外に事例の多い「加速度成長モデル」。一見小さな相違のようですが、この二つのモデルは驚くほど異なる結果を生み出します。特に加速度成長モデルは次のようなイメージに近いと思います。

『ここに大きな紙があります。それを1回折りたたみ、更にそれをまた折りたたみ、最終的に50回折りたたむとします。こうして折りたたまれた紙はどれくらいの高さになるでしょう?…答えは、ほぼ太陽までの距離に相当する高さになるそうです。そして、更に重要なのは、ある意味当然ですが、49回折りたたんだ時点では太陽までの距離の半分のところまでしか積みあがっていないのです。』

実は成功といえる現象の多く、ひょっとしたら大半は、加速度を伴って実現することの方が一般的なのではないか、そしてその傾向自体も年々加速しているのではないかと思います。もしこの想定が正しければ、このようなイメージを持って行う経営とそうでない場合は、結果におのずと大きな差が生じることになります。

過小評価される成長イメージ
反面、経営戦略、シンクタンクなどの調査機関、あるいはSF作家のイマジネーションでさえ、未来のシナリオを描く際に想定する発展の速度は現在とほぼ同じ、あるいは少し速まるくらいと想定されることが一般的です。1950年代前半、権威ある科学者達は人間が月に到達するには少なくともまだ50年を要するだろうと予測しました。必要な科学技術の進歩はそれだけの時間を必要とすると考えたためです。実際はわずか15年、1969年7月20日にアポロ11号のニール・アームストロング船長が月に降り立ちます。彼らは科学技術の進歩が加速する効果を十分に勘案していなかったのです。

1950年にユニバック社が行った市場分析では、「予見できる未来」においてコンピューターが世界中で5台あればすべての需要を満たせるだろう、と結論付けています。数年後、IBM(当時はインターナショナル・ビジネス・マシーン社と呼ばれていました。)の創業者トム・ワトソンが成長しつつあったコンピューター市場を調査し、「市場が小さすぎて参入する価値がない」と判断した話は有名です(もちろん、その後この考えを修正し、現在のIBMがあります)。

その他、金融市場の発展(?)による企業上場の加速化、インターネットの爆発的成長、商品のライフサイクルの短期化、学校崩壊のスピード、M&A による企業統合のスピード、不動産流動化市場の加速度、などなど、加速度成長モデルが当てはまる現象の方がむしろ一般的なのではないかと思えるくらいです。

加速度成長モデルにおける臨界点と爆発的拡散現象
成果が大きく花開くとき、成し遂げようとするエネルギーと同じペースで結果がもたらされるとは全く限りません。よく「ブレイクする」という表現が使われますが、物事の成果は一見「ある日突然」「理由も分からずに」「爆発的に」生じることが少なくないのです。

1980年代から90年代初頭にかけてのニューヨークは犯罪が溢れていました。1990年が犯罪のピークで、僕が野村證券のニューヨークオフィスに赴任した1992年のニューヨーク市では2,154件の殺人事件、626,812件の重罪事件が発生しています。それが突然「何の前触れもなく」収束したのです。この後の5年間で殺人事件は64.3%減少し770件に、重罪事件は355,893件にほぼ半減しました。地下鉄では、1990年代の初めと終わりでは重罪事件の発生は75%も少なくなっています。もちろん市の治安対策や景気の向上など、要因となる社会的な変化は存在しましたが、状況が改善されるにつれて犯罪が徐々に減っていったわけではありません。激減したのです。この時期他の都市でも犯罪件数は減っています。しかし、これほど大きな落下現象を示した都市は他にありません。

シャープがアメリカで汎用ファクシミリを発売したのは1984年です。初年度の売上は全米で80,000台でした。それからファクスはビジネスの世界にじわじわ浸透し、1987年に1,000,000台の販売を記録し「ブレイク」、1989年には2,000,000台が販売されました。

最近注目度の高い北海道旭川市の旭山動物園では閉園の危機にさらされた1996年の入場者数は260,822人、その翌年から革新的な新規施設が徐々に追加され着実に入場者数を伸ばしますが、7年後の2003年には823,896人の入場者数で全国的に「ブレイク」。その後1,449,474人(2004年)、2,067,684人(2005年)、今年2006年には2,520,302人(約9ヶ月終了時点)で入場者数日本一の上野動物園を抜くと思われます。

セブン-イレブンの有名な高密度多店舗出店(ドミナント)戦略はこの現象を経営に応用している一例だと思います。セブン-イレブンの新しい地域への出店開始直後は、一店舗あたりの平均日販はあまり伸びません。その地域での店舗数が一定レベルまで増えると顧客の認知度や心理的な距離感がにわかに縮まり、日販のカーブが急速に立ち上がるようになります。セブン-イレブンがドミナント戦略を創業以来続けているのは、ひとつにはそうした現象を理解しているためです。1995年のセブン-イレブン大阪進出はこのよい事例です。大阪はダイエー系だったローソン(現在は三菱商事系)の地盤で圧倒的な強さを持っていました。大阪府内800店舗の陣容の前にセブン-イレブンも進出当時は業績が中々伸びず苦戦しましたが、その後300店舗を越えたあたりから集客力が急激に伸び始め、ついには関西地域でも一店舗あたり平均日販でトップになりました。

加速度成長モデルに基づく経営
このような加速度成長モデルが一般的な現象だという前提で、より合理的な企業経営は次のようなものだと考えられます。

第一に、従来の発想による進捗管理が意味を持たなくなるという可能性です。例えば、明らかなことですが、加速度成長を前提とするとき、10ヶ月で10の目標に対して毎月1/10づつ進捗を管理することには合理性がありません。もしも前述の「折り紙モデル」による成長率が達成されるときは、9ヶ月目5.0、8ヶ月目2.5、7ヶ月目1.25の進捗でしかないのです。

第二に、特に初期におけるプロジェクトの事業規模は殆ど問題ではなくなる可能性があります。イメージで言えば新たな加速度成長プロジェクトや事業を2人で開始することは、そのやり方次第で100人の事業に匹敵するという感じでしょうか。例えば、加速度成長モデルのプロジェクトが生み出すインパクトを、特に初期における事業規模で判断することは全く意味がありません。前述の等速度成長プロジェクトとの比較事例では、例えば5ヶ月終了時点で、等速度成長プロジェクト5に対して、加速度成長プロジェクトは僅か0.3125の進捗でしかなく、10ヵ月後には同等の成果、11ヵ月後にはその倍の成果を生じる可能性を秘めているにも拘らず、等速度成長プロジェクトに対して1/16の成果しか生んでいないと判断されることになります。逆に考えると、加速度成長プロジェクトが5ヶ月目終了時点で目標の1/32の事業規模であったとしても、等速成長プロジェクトよりも遥かに事業価値を持つ可能性があるのです。

第三に、新たな事業やプロジェクトにおいて、その規模や資本力よりも、加速度成長が生じるための「要素」を有しているかが重要なポイントになる可能性があります。そして、加速度成長が達成されるためには「要素の全てが揃っている」のではなく「余計な要素がないこと」が重要ではないかという気がしています。プロジェクトに要素を沢山付加することはその純度を低めてしまうため、本当に必要なものだけを残しその他を切り捨てる作業が重要性をもつのではないかと思います。このイメージはオセロゲームに似ています。コーナーを取得することができれば、ゲームの初期には圧倒的に負けているように見えても後半から猛烈に追い上げることができます。このためには、どれだけ多くコマを取るかよりも、どのコマを取るかが極めて重要になるのです。

第四に、これが最も重要な点だと思うのですが、大成功を前提として初期の事業やプロジェクトを構成することが非常に合理性を持つ可能性があります。もちろん100倍の売上を想定して初めから資本投下を行うという意味ではありません。例えば、非常に初期の頃から爆発的な成功を想定して資本構成を考えたり、税務申告や会計を整備したり、取締役の構成を十分に検討したりするイメージです。これは「成功のためのポジティブシンキング」という趣旨ではなく、加速成長モデルの事業環境を前提とした経営合理性の議論であると思います。

【2006.12.31 樋口耕太郎】

参考文献:
ピーター・ラッセル著『ホワイト・ホール・イン・タイム』。月面着陸やIBMの事例などはこの書籍からの引用です。人類と宇宙の進化についての本ですが、物理学とスピリチュアリティを進化という超長時間軸で融合させた、分析的かつインスピレーション溢れる内容です。今年僕が読んだ約250冊の本の中でブック・オブ・ザ・イヤーというべき一冊です。

マルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』。ニューヨークの犯罪、や米国シャープの事例はこの書籍からの引用です。爆発的な拡散現象がどのようなメカニズムによって生じるかの分析もなされています。

勝見明著『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」』。セブンイ-レブンのドミナント戦略に関する引用はこの書籍によります。

トリニティのサービス論(pdf)

前回までのエントリーで紹介した「顧客体験」という概念と、その概念を利用した「商品としてのサービス」の認識をベースに、これらを実際のサービス戦略にどのように応用するかというテーマでコメントしようと思います。戦略とは差別化するということでもありますので、本稿では差別化すべき対象、つまり世の中の「一般的なサービス戦略」との比較についてもコメントします。

「顧客のコメント」について
その前提として、「一般的なサービ戦略」の基礎となっている顧客満足度を評価する際に重要視される顧客のコメントやクレームについての考え方をご紹介します。始めに、「顧客体験」と「顧客の声」の違いについて触れたいと思います。サービス業において顧客の経験や満足度を理解する重要な「窓」として顧客が残すコメント、アンケート、クレームがあり(以下、「顧客のコメント」と総称します。)、一般に顧客満足度を評価するために重要な一次情報として利用されています。トリニティのサービス論では、商品としてのサービスを評価する際に、このような「顧客のコメント」よりも、「顧客体験」という考え方を優先しているのですが、その理由は両者とも顧客が経験したサービスを顧客の価値観で表現するという点においては共通しているものの、いくつかの重要な点において異なるためです。

第一に、コメントを残す顧客やクレームを起こす顧客は極めて例外的と言って良いほどの少数派であることです。ホテル業界では、ひとつのコメントの背後には同様の意見を持つ100人の顧客がいるといわれることがありますが、決して誇張ではないと思います。まして「小さい傷」を問題視してコメントに残す顧客は殆ど存在しないと思いますし、本人ですら自分の気持ちに気づかないことがむしろ一般的ではないでしょうか。

第二に、顧客は何に満足したかを正確に表現するとは限らないためです。サンマリーナホテルでの興味深い事例ですが、トリニティ経営を導入し経営的・人事的な仕組みの全てを構築し直し人間関係を最優先する運営を開始した後、従業員に対するコメントももちろんですが、その時点では殆ど目立った改装などを行っていなかったにも拘らず、「とてもきれいな施設ですね。」などのホテルのハードに対する好意的なコメントが急増した事実があります。また、レストランなどでも、顧客は食事の味自体よりも会話の楽しさや従業員を含むレストランの雰囲気の方が記憶に残る傾向があると思います。そして、このように楽しい時間を過ごしたレストランは「おいしいレストラン」と口コミで伝えられることになります。

第三に、同様にクレームはその内容自体に顧客の真意があるとは限りません。不満が生じた直接の原因よりも、従業員に感情を伝えやすい出来事をクレームのねたにすることが少なくないと思います。例えば、「トリニティのサービス論《前編》」でのカプリチョーザでの事例では、ラストオーダーの時間を間違えたことについて僕(顧客)が指摘をした、とレジの従業員は考えがちだと思いますが、僕の本心はラストオーダーの時間が合っていようとなかろうとお店の顧客に対する配慮の不足を伝えたかった、というようなことです。

もちろん「顧客のコメント」は顧客の満足度や感想を伝える重要なツールであり続けると思いますが、以上の特質を理解し、コメントの背後にある顧客の意図を感性で補いながら評価することでより正確なサービスの現状認識が行えるのではないかと思います。

「一般的なサービス戦略」
世の中のサービス戦略を一般化することは難しいので、代表的なパターンをやや断片的に列挙し、これを仮に「一般的なサービス戦略」とします。また、顧客との直接の接点を持つ現場の裏には、商品力、流通力、費用のコントロール、情報システムなど、縁の下の力持ちがきわめて重要な役割を果たすことが珍しくありませんが、ここでの論点では、顧客と企業の直接の接点に関するものごとに限定しました。また、セグメンテーション(顧客の属性を分類して販売に役立てる手法)やターゲティング(顧客の属性に対応した商品やサービスの提供を行う手法)などのマーケティング概念も、顧客と直接の接点を構成しないためこの論点では無視しています。

第一のパターンは、顧客にとって新鮮な驚きや感動を演出するサービスパッケージで、競合他社に先行・差別化し、かつ費用対効果が合理的な演出を継続的に更新する方法です。このパターンでは顧客にとって一般的ではないアイディアを常に提供する必要があります。例えばホテルでさりげなく用意する子供用の歯ブラシ、子供のネームが入ったお風呂スポンジ、話題の先端を行くアメニティ、シーズンごとのイベント、流行のメニュー・・・。

第二のパターンは、担当者の専門性を高度に磨くサービスパッケージです。例えば1万人の顧客の名前を覚えているコンシェルジュであったり、顧客の意図の先を読む配慮であったり、言葉遣いのトレーニングであったり、跪いてオーダーを取る教育などです。

第三のパターンは、「施設は永遠に完成しない」に象徴されるように、施設を常に追加・更新し顧客に対して新鮮な環境を提供するサービスパッケージです。業態のこまめな変更、定期的な改装、新型施設の導入などが該当し、多額の資本投下を伴うことが少なくありません。

これらのサービスパッケージを実現するために、現代の企業が投下している経営資源は、研修施設、その運営費用、講師やスタッフの人件費、受講する社員の機会損失、会議・ミーティング費用、サービスにかかる広告宣伝費、企画費用と人件費、サービスシステムの導入・運営費用、施設への継続投資、デザインやコンサルティングなどのソフトコスト、などが該当し、一般的な企業(特に大企業)において投下される費用は莫大なものです。

「一般的なサービス戦略」を顧客の観点から考える
以上を前提に、「一般的なサービス戦略」がどのような考え方で構成されているかをまとめると、①上記第一から第三のパターンによるサービスの向上に努め他社との差別化を図る、②その際多額の支出を積極的に行う、③顧客からのコメントは、このようなサービス戦略の進捗、現状把握、他社とのサービスの比較評価を行うために活用する、④ネガティブな顧客コメントやクレームをなくすることが重要な目標。一般的な企業は、このような考え方でサービスの差別化が達成されると認識しているのではないでしょうか。

サービス業の立場で考えると、スターバックスはタリーズやひょっとしたらドトールと競合していると考えるのが一般的だと思います。この考え方の前提は、競合とは顧客がコーヒーを飲みたいと考えたときに選択されるかどうかであり、逆の発想では、「コーヒーを飲みたい気持ちになった」人を競合戦略における対象顧客と認識していると思います。

反面、顧客の立場で考えると、まずコーヒーを飲むことを心に決める、第二にどこで飲むかを決める、という順位で意思決定を行うことはそれほど多くないのではないでしょうか。もちろん、コーヒーを飲むことを決めてからお店を選択する顧客も必ず存在しますし、このような顧客に限定して考えれば、上記のような発想でサービス戦略を構築することの合理性はあると思います。しかし、マーケット全体で考えた場合、特に潜在的な顧客もその概念に含めた場合(「マーケティングはどうなる?」を参照ください)、「コーヒーを飲む決断」は顧客の意思決定の上位には存在しないどころか、例外的ではないかと僕は疑っています。つまり、「コーヒーを飲む顧客がスターバックスを選択する」ケースよりも、「単に顧客がスターバックスを選択する」あるいは「スターバックスだからコーヒーを飲む」ケースの方が遥かに現象として大きい、特に潜在的な顧客(足跡を残さないウサギ)も含めると莫大な規模になるのではないでしょうか。

この考え方が仮に正しいとすると、「コーヒーを提供するプロセス」としてサービスを捕らえ差別化する戦略は、経営的に非効率である可能性が生まれます。例えばスターバックスが顧客コメントやクレームなどの反響で良い顧客満足度を達成し、他社(つまり他のコーヒーサービス)と差別化することができたとしても、(全体としての)顧客の立場ではこのような比較は意思決定に殆ど影響を与えていないかもしれないのです。そして、「コーヒーを飲む」意思決定が初めに来ない、莫大数の顧客が比較する対象は「顧客の日常体験」であり、サービス事業者が本来差別化すべきは、「顧客の日常体験」と「企業における顧客体験」である、すなわち実質的な意味で従来の概念による競合は存在しない、というのが僕の考え方です。

「一般的なサービス戦略」の現状
前二回のエントリーで「顧客体験」という概念を紹介しましたが、翻って考えると顧客の現代社会におけるサービス体験は過去30年悪化し続けていると思います。現代サービス業の一般的なサービスパッケージには、お金を払っているにも関わらず、物理的な対価(例えばコーヒー)と引き換えに、言われなく非難され、ウソをつかれ、質問を無視され、人間性を無視され、間抜け扱いされる顧客体験が含まれるところまで悪化してしまいました。あたかも「自尊心があるなら消費するな」と罵倒されながらも泣く泣く消費を行っているようなものです(「トリニティのサービス論《前編》」を参照ください。)。外出から自宅に帰ってくるとどっと疲労感を感じるのは無理もない気がします。

反面、「顧客の日常体験」すなわち学校や職場や友人関係や家族との人間関係では、サービスの現場で経験するような、小さいけれどもこれほど傷だらの経験をするものでしょうか。もちろん大きな個人差はありますし、生活環境によっても多大な差がありますし、社会全体としてもこのような「顧客の日常体験」は急速に悪化する傾向にあります。「夫婦喧嘩で家を飛び出して、スターバックスで一息つく」などというパターンでは、企業での「顧客体験」が「顧客の日常体験」に比較して差別化されていることになります。しかし、概して現代のサービス業が提供しているサービスパッケージ(企業における「顧客体験」)は「顧客の日常体験」と比較してどんどん悪化しており、差別化するどころか現状は乖離し続けているように思えます。(本稿の主題ではありませんが、現代社会では「顧客の日常体験」もどんどん悪化しています。一例として「所有することの価値」をご参照ください。しかし、それ以上に企業との顧客体験が悪化しているというイメージです。)

これに対して企業の現状は、①潜在的な顧客(足跡を残さないウサギ)をほぼ無視して、矮小化された顧客群(まずコーヒーを飲むことを決めた顧客)を前提に、サービス戦略を構築する、②矮小化された(「顧客体験」の概念を無視した)サービスを競合他社から差別化するために、莫大な経営資源を投下する、・・・というサービス戦略を突き進んでいるように見えます。しかしながら、企業が莫大な経営資源を投下して向上しようとしているサービス戦略は、顧客の購買行動において、本来差別化するべき「顧客の日常体験」との格差を縮小する機能をあまり果たしていないため、実質的な戦略として非常に非効率である可能性があるのです。

戦略としてのサービス
トリニティのサービス論において、このように一見エキセントリックとも思えるほど厳格な現状認識のアプローチを取る理由は、第一にそれが現実であることと、第二にこのような現状認識が著しく経営効率を高めるからです。

トリニティのサービス論では「顧客の日常体験」と比較した、企業における「顧客体験」の向上が、最も重要なサービス戦略の目的だと考えます。例えば、特別な「サービス」を付加する努力よりも、顧客を非難したり、馬鹿にしたり、無視したり、ウソをついたりしないこと、そしてその仕組みを企業で構築し組織的に運用することが経営的に最も効率の高いサービス戦略だという考えです。

この戦略の利点は、①「一般的なサービス戦略」が要求する莫大な経営資源の投下が殆ど不要になり、資本効率が著しく高まります。②莫大な潜在顧客にアクセスすることが可能になり、営業効率を著しく高めます。③そして恐らく最も重要なことですが、企業との「顧客体験」も「顧客の日常体験」の一部を構成しますので、「顧客体験」をよりよいものにすることで、「顧客の日常体験」、つまりささやかながら顧客の人生そのもの、をより良いものにする直接の役に立ちます。

仮に以上の前提が正しいとき、皆さんがサービス業の経営者であったら、どのようにしてこの戦略を実行・運用しますか?

【2006.12.25 樋口耕太郎】

ホテル事業という生態系・生態系を理解する(pdf)

オフィス近くのウォーキングコースは安良波(アラハ)ビーチ、サンセットビーチを通って美浜アメリカンビレッジの海岸沿いの防波堤を現在開発中のフィッシャリーナ地区まで抜ける往復およそ5キロのルート。毎日表情が違う西海岸名物のサンセットを見ながらのウォーキングは僕の大好きな日課のひとつです。

テラスレストランとノボリ
このルートは国民年金健康センター「サンセット美浜」のすぐ横を通ります。この施設は第三セクターが経営する(恐らく)複合リゾートで、美浜と言う抜群のロケーションの海岸沿いざっと1万坪くらいの敷地に、プール、テニスコート、レストラン、会議室、宿泊施設を備えた多目的な建物です。特にプールには長さ100mと35mの2本のウォータースライダーが設置され遠目にも迫力満点でシーズン中は地元の家族連れにも大人気。宿泊施設はこの広大な施設にわずか21室と、民間プロジェクトでは決して叶わない贅沢さです(皮肉ではないです、念のため)。海岸の防波堤に視界を遮られない2階のレストランは、西海岸に面した広めのテラスが売り物のひとつで、視界一面の水平線と、夕暮れ時にはすばらしいサンセットを見ながらカクテルを・・・といったことが似合いそうな雰囲気。テラスにはガーデンチェアとパラソルがセットしてあってなかなかの感じです。

先日のウォーキングのこと、テラスレストランにふと目をやると、昨日まではなかったノボリのようなものが三本四本・・・。ノボリの文字を読んでみると「年末年始の宴会受付中」という内容でした。ノボリに罪はないのですが、それにしてもこのロケーションの、このセッティングの、レストランの一番眺めのよいテラスに林立するカラフルなノボリ(確か三色ありました)・・・。

僕の目には確かに違和感のある光景でしたが、半官半民施設では特段珍しいことでもないと思います。このような状態に対して「だから親方日の丸は商売意識が薄い」とか「民間の競争原理が働いていない」とか揶揄されることが一般的なのかもしれませんが、通り一遍の批判よりも、例えば自分がサンセット美浜の経営者だったらどのような行動をとるだろうかと考えることで建設的な意識の使い方ができると思います。

マイクロ・マネジメントによる対応
「あなたが経営者だったらどう対応するか?」というテーマに対して、大方の人はノボリの撤去を指示するところからはじめるのではないでしょうか。実際僕もサンマリーナホテルで同じような対応をした経験があります。それどころか、どうせやるなら徹底的に実行しようと思い、まずアシスタントを伴って自ら全館をくまなく回り、客室、基本設備、廊下、公共スペース、屋外、宴会場、レストラン、海浜、調理場などなどのロケーション別にこのような「ノボリ撤去」の作業リストをこと細かく特定してデータベースの作成を指示しました。具体的には物品の撤去、レイアウトの変更、備品の移動、色の塗り替え、修理・取替え、デザインの変更などを指示する内容で、第一次リストだけでも150項目くらいあったと思います(その後第二次、第三次・・・とリストが追加されていく仕組みです)。そしてそれぞれの項目ごとに詳細なワークオーダーシートを作成し、そのシートには現場のデジタル写真、責任者の名前、作業に必要なコスト、対応期限を特定しました。作業費用の支出の際に現場が混乱しないように運営予算との整合をとり、ワークオーダーシートの当初見積もりの範囲内であれば年間の運営予算に影響を与えないよう調整を加えました。またプロセス管理として、このデータベースを幹部職員で共有し、ワークオーダーシートには現場からの進捗の報告、経営からのコメント、責任者の承認欄を設け稟議形式で回覧しました。

この管理方法を設計し、実行に移した時は内心満足感を感じたものです。これだけの作業を短期間で構築し、自分のイメージどおりに管理が進み、あとは一つ一つ改善されるのをチェックしていくばかり…。少なくとも理論上は、作業内容、作業場所、責任者、予算、期限がきちんと特定されており、その進捗を管理する仕組みが出来上がっているので、全く問題なく作業が完了するはずでした。

アトリウムの窓
150もの作業がリストアップされているものの大半は問題なく消化されていきます。ところが事業の生態系はそれほど単純なものではありませんでした。ワークオーダーの中でもっとも容易と思われた作業のひとつに「アトリウムに面しているレストランの窓を常時開放するように」という項目がありました。レストランの窓際の席にお客様が座ったときに、アトリウムの空気が直接感じられた方が開放感があるのではないかと僕が思ったのです。今考えると特段重要な指示だとも思えないのですが、当時は個人的な趣味もあり、ホテル全体のイメージチェンジのスタートラインであるという気負いもあり、むしろこのようなことからきちんと実行してほしいと強く感じていました。ワークオーダーシートの稟議の承認も完了し、現場にはその方針が伝わっているはずです。

ところが、何日たってもなかなかイメージどおりに開放された状態にならないのです。時には窓が閉まっていたり、開放しているときでも完全に開放されていなかったり、時間によって、あるいは従業員のシフトによって状況がまちまちです。直接指示するのも大人気ないような気がしましたが、こだわりもあったため直接現場に指示をしたり、それでも改善されないので責任者を通じて連絡したり。結局この窓が完全に常時開放状態になるまでおよそ4週間かかりました。

生態系を理解する
僕にとってこの「アトリウムの窓事件」はなかなかの衝撃でした。少なくとも自分がやろうとしていることの何かが根本的に間違っているのだとはっきり感じました。そして窓を開放するという単純な作業が組織においてなぜこれほど難しいのか考えはじめました。ホテルは長時間体制で仕事をしていますので、大体2~3つのシフトに別れています。加えて全従業員のおおよそ1/3~1/4は常にお休みを取っていますので、どのような情報でも伝達するまでに時間がかかるということもあります。しかし最も重要な点は、従業員には従業員の事情があるということです。例えば、窓を開放していると、夕方のアトリウムでの演奏時間には食事をしているお客様の会話がしにくくなったり、アトリウムから風が不必要に吹き込んだり、清掃の後にはうっすらと塩素のにおいがしたり…、その割には窓を開けた開放感といっても知れている、という判断が働いているのです。

つまり、窓が開放されない原因は「従業員のお客様に対する思いやり」だったのです。そのような事情(生態系)を知らない僕は、現場に対してお客様へ不自由を強いる趣旨の指示をしたのみならず、データベースとプロセス管理によって従業員の行動を監視し、更には自らの行動(指示)によって「お客様への思いやりよりも上司からの指示を優先するように」という実質的なメッセージを4週間にわたって伝え続けていたということになります。

サンセット美浜の従業員も「商売意識が薄いから」ノボリを立てたのではなく、商業意識によって、その質はともかくも、売上を少しでも上げたいという責任感においてノボリを立てていたのかもしれないのです。

生態系のメカニズム
以上の前提で、現場のメカニズムについての僕の仮説は次のとおりです。たとえば「窓が閉まっている」、「ノボリが立っている」という問題が起こると、私たちはすぐに「窓を閉めるために何をしたら良いか」あるいは「ノボリを撤去するべき」という解決策を考えようとしがちです。この問題は氷山にたとえると海水面の上に見えている先端部分「できごと」です。水面上に見えている「できごと」は生態系のほんの一部であって、その下には「行動パターン」があります。「夕方以降のシフトでは窓が閉まりがち」といったことです。そしてこの「行動パターン」を生み出すのが「構造」です。たとえば、夕方以降窓が閉まりがちなのはアトリウムで音楽の演奏があること、またその音がレストランに響くなどといったことです。そして、以上の前提として意識・無意識レベルの価値観、すなわち「お客様が心地よい環境を提供するために心配りをしたい」という従業員の気持ちが存在するのです。

さて、テラスレストランのノボリの件、「あなたが経営者だったらどう対応しますか?」

【2006.12.4 樋口耕太郎】

「トリニティのサービス論《前編》」では、サービス提供者の事情を勘案しない「顧客体験」が商品としてのサービスである、という考え方を紹介しました。「顧客体験」は意外に掘り下げがいのあるテーマですのでこれを補足したいと思います。

ディズニーでの「顧客体験」
1年以上前になりますが、東京ディズニーランドに行った際の個人的な「顧客体験」をご紹介します。当時6歳3歳の子供を連れて3人でディズニーシーに行った時のことです。週末だったので非常識なくらい混んでいました。

ランチタイムのレストランはどこも凄い混みようなのですが、小さい子供が一緒のときはあまり食事の時間をずらすことができません。食事の内容は二の次三の次で少しでも混み具合が少なそうなところを選んで、カフェテリア方式のチャイニーズレストランに入りました。運よくというか悪くというか、このタイミングで雨が降り始めたのでレストランは更に混雑の度合いを増すのですが、子供をつれている僕は他に移動するという選択肢も実質的になくなりました。列に並び始めてから間もなく、小さい方の子供が寝てしまいます。この時の僕の作戦は、①下の子を寝かせておける席を確保する、②三人分の食事を取って、起きている二人(上の子と僕)だけでゆっくり食事を済ませる、③下の子が起きるまで食事をしながらのんびり待つ、④下の子が起きた時点で彼の食事を済ませてからテーマパークに復帰、ということに決めました。

作戦は決まったのですが、実行するのはそれほど容易ではありません。寝てしまった下の子を片手で抱いて、三人分の食事をトレー(二つです!)で取り、支払を済ませ、子供を寝かせながら長い間時間をつぶせる条件が揃った座席を、激混みの中で確保するのは神業に近いものがあります。レジでもたもたしているうちに僕の後ろには怒りの視線を投げかける沢山のお客さんの列ができていました。空腹、疲労、混雑、雨、レジの渋滞、が重なる状態では皆が怒るのも無理はない感じです。

そのとき、レストランの担当の女性が僕のところに来てくれて、トレーを持ち「お席までご案内します。」と声をかけながら席まで先導してくれました。笑顔「マル」、言葉遣い「マル」、タイミング「マル」、トレーを持つ機転「マル」。恐らくこの女性は人事考課も高評価ではないかと思います。実際手を貸していただいてとても助かりました。

…それにも拘らず僕の「顧客体験」は落胆したものでした。小さく傷ついたといったら大げさでしょうか。なぜなら、彼女の優しい言動とは裏腹に「列を先に進ませたい」という本当の意図がはっきり理解できたからです。目に見える全ての「サービス」は非の打ち所がありませんし、恐らく彼女は人間的にも優しい人で、僕にも善意で接してくれたと思うのですが、不思議なことにどんなに態度が丁寧でも、顧客には裏腹の真意が分かるものなのです。そして皮肉なことに、彼女の言動は顧客への親切心であり、会社に対する彼女の誠意でもあり、列の後ろに並んでいた他のお客様への配慮でもあり、従業員として当然の行動でもあるのです。

感じ方には個人差がありますので、僕の感覚が一般的ではないという可能性は大いにあります(というより珍しくありません)が、ここでは僕の感覚が一般化できると仮定してお読みいただきたいと思います。その前提で、なぜ彼女の善意が顧客を傷つけるのでしょう?僕の考えでは、彼女は僕に対して思いやりを「目的」ではなく「手段」として利用したからだと思います。列をスムーズに進ませるという、彼女の本当の、かつ隠れた目的を達成するために、「思いやりの言動」を手段として僕を先導したのです。つまり、彼女は意図とせず(というより何の疑いも持たず)に僕にウソをついているのです。それに気がついた瞬間、テーマパーク全体の「演出された優しさ」を感じてしまい、とても気持ちが醒めてしまいました。

「顧客体験」の経営科学
このような出来事は実に「取るに足らないこと」です。それどころか一般的には「ディズニーで経験した丁寧なサービスの話」以外の何ものでもありません。このような「小さな傷」について言及するのは大人気ないことですし、こんなことをいちいち人に話すと偏屈に聞こえます。「じゃあ、どうしたいの?」といわれるのがオチでしょう。現実的にもサービス業でこれほどの対応をしてくれるところは多くありませんので、企業の立場としては彼女のサービスに文句をつけられたら「そんな無茶な」と感じるに違いありません。顧客の立場でも「小さく傷ついた」といってもこれを理由にクレームする顧客はまず存在しないと思います(そもそもクレームしようとしても企業に落ち度はありませんので、言いがかりにしか聞こえないと思います)。要は、社会の中では少なくとも表面上、誰も問題にしていないのです。

反面、「誰も言及しない顧客の小さな傷」は明らかに現象として存在しています。それどころか同様の「顧客体験」はびっくりするほど一般的かつ頻繁に生じているのではないでしょうか。サービス担当者や企業が顧客に対してウソをつくことは、あまりに一般的な現象になっているため、顧客にとって所与のものになっているかのようです。言葉と笑顔はとても丁寧だが、なぜか優しさが感じられないスチュワーデスやホテルの対応…。本心が違うのに無理に思いやりを(善意で)演出するサービス担当を見ると、こちらが気が引けるくらいです。サービス業の常識では、「心で泣いても顧客への誠意として笑顔を見せるのがプロ」だとされているようですが、僕はこの考え方の経営合理性に疑いを持っています。

ディズニーでの出来事を経営的に分析すると、次のようなポイントがあげられると思います。①彼女の、表面上すなわち目に見える全ての現象は非の打ち所がありません。②したがって従来の人事考課方法では必ず高評価になります。③同様に、クレームが発生する余地はほぼありません。それどころか一定数の顧客を感動させると思います。④反面、トリニティのサービス論の考え方に基づくと、彼女が実質的に顧客に伝えているメッセージは、「顧客の気持ちを最優先しなくてもよい」、「顧客をロジスティクス(物流)の対象としても構わない」、「優しい言葉と態度を見かけの手段として、別の目的を達成しようとしても構わない。」ということになります。

現代サービスの現場
とても厄介なことに、このようなケースでは顧客体験が感動を伴うものになるか落胆したものになるかはサービスの「外見」からは全く区別がつきません。つまり見かけが全く同じ(少なくともそう見えます)でありながら、根本的に正反対の顧客体験を提供する「商品としてのサービス」が現場に混在しているということになります。そして、世の中で優れたサービスを提供するといわれている企業ほど、この区別が非常につきにくくなっています。逆の発想では、世の中で良いとされるサービスとは、この区別を極限までなくす作業と考えることもできます。この前提では、現代経営における「優れたサービス」は「顧客体験」を向上するためではなく、このような区別を「うまく隠す」ための作業であり、その作業に莫大な経営資源を割いている可能性が示唆されます。そしてこの区別を隠すことができれば、少なくとも表面上非の打ち所のないサービスが提供され、企業の「本心」(例えばロジスティクスの効率化)が顧客にはっきり伝わらない限りにおいて顧客を感動させ、クレームは皆無になり、アンケートによる「顧客満足度」は向上します。皮肉なことですが、この区別が少なくなるほど、つまり「優れた」サービスを提供するほど、表面上の優しい言動と本心の乖離が大きくなります。不機嫌な気持ちで不機嫌な態度をとるよりも、本心と異なる丁寧な態度をとる方が、言動と本心の乖離が大きいということです。これはもちろんサービス担当者の善意と誠意と熱意の結果なのですが、現象として顧客に対するウソを拡大するという効果を生んでいます。

仮にこのような現状認識を前提とすると、一般的な現代のサービス業の経営は、①顧客の小さな心の傷は所与のものとして無視する、②サービス担当者の本心と言動の乖離に気づかない顧客を、主に顧客満足度向上の対象とする、③企業はこのような対象顧客に対して、サービス担当者の(必ずしも意図と一致しない)「言動」をより良いものにするように努める。④このとき従業員の心の在りかについては評価の方法などがないため経営システム上おおよそ無視する。⑤以上の事業目的に沿った従業員のトレーニングを行う、⑤本心と乖離した「言動」をカバーするため、あるいは他社と差別化を行うため、新たなサービスの仕組みを常に付加する、⑥以上の結果として「対象顧客」の満足度が向上し、クレームが減少する。

前回と同様の繰り返しになりますが、以上は非難でも中傷でも、批判ですらありません。ひとつの現状認識のアプローチに過ぎません。上記の考え方が仮に正しかったとしても、現在のサービス業のシステムが次善の策であることには変わりありませんし、事業として大きな効果があることは明らかです。

さて、以上のような現状認識はあまりに非現実的で意味を成さないものでしょうか?このような現状認識を前提とすると、経営の課題は今までと変わるでしょうか?経営はこのような課題にどう対処することができるでしょうか?次回のエントリーはこれまでの議論を前提としたサービス戦略についてです。

【2006.12.23 樋口耕太郎】

サービス理論というものが経営科学の分野で存在するかどうか詳しく把握していないのですが、少なくともあまり一般的であるとはいえないと思います。しかし、これだけ社会的にサービス業の比率が高まり(現在日本のGDPの約70%はサービス業によります)、人々の生活に決定的な影響を与えるようになっている中、サービス理論がきちんとまとまっていないことは意外なことだと以前から感じていました。本稿ではトリニティのユニークなサービス論をご紹介します。まずは、最近の個人的な経験から。以下の、事例はいずれも過去2週間以内の出来事で、日常的にそれほど珍しいことではありません。

先日車を当て逃げされてしまったので、東京海上日動に電話をかけました
僕: 「自宅前の駐車場で、当て逃げをされてしまったようなのでご連絡しています。」
保険の受付担当: 「それは、大変でございました。警察へ被害届はなされましたでしょうか。」
僕: 「いいえ、まず先に御社にご連絡しています。」
保: 「あーっと、まだされていない・・・(「なんで先にしていないのか」という非難めいたトーン)。それでは、この後できるだけ早く被害届をなされてください。」
僕: 「分かりました。警察に被害届をした際に、何か控えなどを頂いておく必要がありますか?」
保: 「それは警察の作業ですので、こちらでは分かりかねます。」
僕: 「えっと・・・、そういう意味ではなくて、後に保険の処理を行う際に御社が必要とされるものがないかをお聞きしたかったのですが。」
保: 「それにつきましては、後ほど担当のものがご連絡いたしますので、その際にお尋ねください。」
僕: 「警察への被害届はその後でいいのですか?」
保: 「ですから・・・、警察へはできるだけすぐにお届けください。」
僕: 「あの・・・、繰り返しで申し訳ないのですが、その際、御社が保険の支払を行うために何か必要な資料など、警察から発行していただくようなものがあるのかどうか、ご存じないでしょうか?」
保: 「お客様。警察での手続きは私では分かりかねます。」

*     *     *     *     *

保険会社の担当者: 「今回担当させて頂きます○○です。始めにお断りする必要があるのですが、当て逃げで保険をご利用される場合、次回からトウキュウが下がってしまいますので、この点ご了承ください。」
僕: 「?」
保: 「お客様、ご了承いただけますでしょうか?」
僕: 「すみません、おっしゃっていることをご説明いただけますでしょうか。」
保: 「お客様は現在7等級でございますが、今回保険をご利用になりますと3等級下がってしまうということをご了承頂く必要があります。」
僕: 「あの、等級とおっしゃるのは年間保険料金の基準になっているものでしょうか?3等級下がると次回からの年間保険料はいくら上がるかご存知ですか?」
保: 「お調べして折り返しお電話差し上げます。」

週末はカプリチョーザで食事をしました
ウェイトレス: (ウェイトレスは跪いてオーダーを受ける。)「・・・それではご注文を繰り返します。トマトとガーリックのパスタ・・・。以上でよろしいでしょうか。」
僕: 「はい」
(その後注文は間違ってサービングされる)

*     *     *     *     *

ウ: 「ラストオーダーです。何か追加でご注文はございませんか?」
僕: 「いいえ、結構です。」
ウ: 「ポイントカードをお持ちでしたらお預かりいたしします。お支払は現金でよろしいでしょうか。」
僕: 「現金でお願いします。」(ポイントカードを差し出す)
ウ: 「お預かりいたします。ごゆっくりどうぞ。」
(この時点は10:30pm。メニューでラストオーダーの時間を確認すると11:00pm。お店のドアにはなぜか「ラストオーダー10:30pm」とある。その後は従業員一丸となって片付けを始める。食器を片付けるものすごい音。水の追加やその他ウェイトレスにお願いしたいことがあっても殆ど関心を示さない。)

*     *     *     *     *

(レジにて)僕: 「ラストオーダーは11時ではないんでしょうか?片付けの音がうるさくて楽しく食事をする気分ではなくなってしまいました。」
ウ: 「えっ。ラストオーダーは10時半です。」
僕: 「メニューには11時と書いてありましたよ。」
ウ: 「メニューにそう書いていますか?そんな筈はありません。」(メニューを確認し始める)
僕: 「メニューを確認していただく必要はありません。ラストオーダーが何時であろうと、食事中にお勘定の話しをされたり、とても騒々しい雰囲気で片づけを始められたり、それ以降は顧客にも全く注意を払わずに、ちょっとひどいと思いますよ。「ごゆっくり」なんて言葉だけのサービスはおやめになったらいかがですか?」

*     *     *     *     *

ウ: (そしておつりの受け渡しは最近チェーン店ではお決まりのパターン・・・。レジの向こうで確認のために二回お札を数える。その後、)「お客様、ご確認ください。始めに大きい方から、1千、2千、3千円と・・・」(結局僕はウェイトレスが3回お札を数えるのを見ることになりました。)

ミスドで深夜のおやつを調達…
僕: (トレーにドーナッツを2つ取りレジへ。時間は11:30pm。お店の営業時間は12時まで。)「これと、ホットカフェオレをお願いします。」
店員さん: 「これからの時間はお持ち帰りのみになりますがよろしいでしょうか?あと、ホットカフェオレは本日終了してしまいました。」
僕: 「・・・」

カフェ・ラテのないスタバ?
僕: 「ホットのカフェラテをショートでお願いします。」
店員さん: 「お客様、スターバックス・ラテになりますがよろしいでしょうか?」
僕: 「・・・」
店: 「商品はあちらの黄色いランプの下からお出しします。」
(僕はこの時、このスタバをほぼ毎日、1ヶ月間以上利用していましたので、この店員も含めてほぼ全従業員は僕の顔を何度も見ています。)
僕: 「・・・」

現代の「サービス」
上記は僕の日常的なサービス体験ですが決して特別な事例ではありません。毎日毎日どこに行ってもほぼ例外なく、多かれ少なかれ似たような経験をするのです。確かにどれも小さなことばかりといえば全くその通りで、いちいち目くじらを立てる方が大人気ないようなものばかりです。

反面、一般的な社会生活で、このような不可思議な「サービス」を経験せずに消費することは、いつの間にかとても難しくなっていることに気がつきます。僕の質問を普通に聞いてくれる保険のオペレーター、一回伝えただけでオーダーを理解してくれるウェイトレス/ウェイター、お釣りのお札を三回確認せずに食事ができるレストラン、営業時間が本当に営業時間のお店、自分のオーダーの意味を普通に理解してくれるコーヒーショップは、現代社会では臨むことのできない贅沢になってしまったようです。このような企業と消費者との掛け合い(というよりも、僕は企業の暴力に近いと感じるのですが)があまりに日常茶飯になっているので、消費者も今ではすっかり麻痺してしまい、「それが当たり前」と妙に納得していて、これらの事例が「おかしい」とすら感じない人もいる筈です。また、疑問を感じている人もあきらめてしまっているように見えます。

上記の「サービス」の事例で明らかに共通していることは、従業員の意図はどうあれ、少なくとも現象として「誰も顧客のことを気にかけていない」ということでしょう。

サービスってなんだ?
サービス事業において、第一に明らかにすべきものは「企業が提供しているサービスは何か」、すなわち「その企業の商品が何か」ということだと思います。サービス業は無形の人間関係を商品化する業態ですので、その商品を定義することは容易ではないかもしれませんが、それにしても、これほどサービス業が現代社会で中心的な役割を果たしていることを考えると、肝心の「商品」であるサービスがなにか、そして商品をどのように評価・把握するか、という点はびっくりするほど曖昧です。すなわち、多くのサービス企業は自社商品がなにかをはっきり把握していないように見えるのです。そして、商品としてのサービスが曖昧であれば、「良いサービス」についての基準も曖昧にならざるを得ません。漠然と「儲かっている会社のサービスが良いサービス」と認識されているのが現状ではないでしょうか。

サービスとは何か?という基本的な問いに対する回答は、少なくとも二つのアプローチが可能です。サービスの提供者(企業)が定義するサービスと、顧客が現場で感じるサービスです。そして現状は、商品としてのサービスは殆どの場合、前者、つまり企業が定義しているものによると思います。例えば、スターバックスでは「affordable luxury」がサービスの重要なコンセプトになっていますが、スターバックスでは単にコーヒーを提供するのではなく、顧客にとって「手に届く贅沢を経験する場」である、という考え方をするためです。そして、スターバックスの商品としてのサービスは、顧客のこのような経験であると考えられています。

トリニティのサービス論
トリニティのサービス論における「商品としてのサービス」の定義は、後者のアプローチ(顧客が現場で感じるサービス)に基づいています。すなわち企業としての目的とは全く切り離された「顧客の経験」を商品として把握・認識します。したがって、トリニティのサービス論では、その良し悪しを問わず、企業やサービス担当者が顧客に対して行った行動と、顧客に向けられた意図によって実質的に伝達されるメッセージを素直に解釈します。

解釈のポイントは、①企業やサービス担当者がどのような事情でサービスを提供したかは一切勘案しません。②企業やサービス担当者が行った行動を重要視し、一連の行動は一般的に解釈するとどのような意味をもつか、したがってどのような意味を伝達するかを検討します。③企業やサービス提供者の行動と意図が異なる場合は、いずれか企業側の利害となるメッセージが顧客に伝達されると仮定します。④企業やサービス担当者の行動と意図と言葉に矛盾がある場合、企業のウソが顧客に伝達されると考えます。

顧客体験をイメージするときは、それがあたかも商売と全く関係のない普通の人間関係でなされたものと想像するとインスピレーションが沸きやすいかも知れません。自分の友人や恋人などから同じ言葉や態度が発せられたとしたらどう感じるかを想像するのです。

以上の前提で前述の企業の「商品としてのサービス」を評価すると例えば以下のようになります。

東京海上日動:
担当者は決まり文句のように「それは大変でございました」と応対した後、「なぜ始めに警察に届け出ていないか」と顧客の初期動作を実質的に批判しています。その根拠は、顧客が保険加入時に「熟読するべき」と指示されたパンフレットに、「事故の際には至急警察に届けよ」と記載されているためだと思われます。反面、顧客はある意味信頼感の表れとして、第一に保険会社に連絡しています。保険の受付担当者は自分が顧客に指示している警察への被害届の詳しい内容を理解していません。また、被害届に関して自社が必要とする資料を理解していません。反面、その事実を実質的に隠すことで顧客にウソをついています。また、保険料の基準となる等級に関する説明は、顧客に理解させるためというよりも、説明を行ったという既成事実を作ることが目的のようです。したがって、その等級の変化による費用の差額が顧客にとって最も重要な情報であるにもかかわらず、それを顧客に提供することはいわれなければ関心がありません。

この行動によって、東京海上日動が消費者に伝えているメッセージは、「企業は自分の商品を知らなくても構わないし、知らないという事実を隠しても構わないが、顧客はそれを知らなければ非難の対象になる。」「顧客の企業に対する信頼感よりも、つつがなく自分の事務処理を進めるほうが重要である。」「顧客に言葉では思いやりを伝えながら、行動で裏切ることは全く構わない。」「顧客の質問にきちんと回答することには関心がない。」「顧客の手間や不安を減らすことには関心がない。」「顧客に有益な情報を提供するよりも、将来クレームが起こらないための連絡を行い既成事実を作ることが重要。」

カプリチョーザ:
ウェイトレスは跪いてオーダーを受けたあと、少数のオーダーを敢えて繰り返していますが、その後注文は間違ってサービングされます。ラストオーダーの時間が経過した後は、跪いてオーダーを取っていた先ほどの雰囲気は消滅し、顧客が食事中であろうと精算作業(の一部)を要求します。その後お水の追加など、実質的なサービスは全面停止します。厨房では食器の片付けるものすごい音に対する気遣いはありません。以上と同時にウェイトレスは顧客に「ごゆっくりどうぞ。」と声をかけています。レジではラストオーダーの時刻に対する指摘に対して、顧客に謝ることよりも先に自分が正しいという証拠を示すためにメニューを確認し始めます。おつりのお札を渡す際、実質的に顧客へ3回確認を強制しています。

この行動によって、カプリチョーザが消費者に伝えているメッセージは、「顧客に言葉や態度で思いやりを伝えながら、実質的な行動で裏切ることは全く構わない。」「顧客にウソをついても構わない」「顧客はラストオーダーの時間まで顧客として接するが、それ以降は全く関心を払わなくて構わない。」「優しい言葉をかけてさえいれば、時間を過ぎた後は顧客に早く帰るようにプレッシャーをかけても構わない。」「顧客の気持ちよりも自分が間違っていないことの方が重要である。」「顧客は3回お札を数えなければクレームを起こすかもしれない。あるいは、3回お札を数えなければ枚数を正確に数えられない、と企業は考えている。」

ミスタードーナツ:
営業時間終了の30分前になると、顧客が店内で食事をすることを実質的に拒否しています。売れ残りが生じると思われる商品(ホットカフェオレ)については、新たに作ることを拒否しています。

この行動によって、ミスタードーナツが消費者に伝えているメッセージは、「実質的な営業時間に関して、顧客にウソをついても構わない。」「商品の売れ残りと廃棄は顧客にウソをついても避けるべき。」

スターバックス:
誰が考えても同じものだと思えるメニューの名前を(カフェラテ)、正確な商品名で呼び直しています。また、何度も来店している顧客に対して、明らかに一度言えば理解できることを来店のたびに何度でも繰り返しています。

この行動によって、スターバックスが消費者に伝えているメッセージは、「顧客は商品名を正しく理解しなければならない。」「何度来店しようが、あなたには関心がない。」

トリニティのサービス論による現状把握
これらが上記企業の、少なくとも特定のケースにおける「商品としてのサービス」です。冗談みたいに聞こえますが、そのサービス・パッケージには、お金を払っているにも関わらず、言われなく非難され、ウソをつかれ、質問を無視され、人間性を無視され、間抜け扱いされる顧客体験が含まれています。そしてサービスはあまねく個別の体験であるため、この「サービス」は特定のケースではありながら厳然と企業が販売した「商品パッケージ」であると思います。

このように考えると、ひょっとしたら一般的なサービス業の現状は、たまたま(例えば)99%の顧客が声を上げていないだけで、「自尊心が少しでもあるなら消費するな」と顧客にいわんばかり(というより、それ自体が実質的なメッセージ) の状態なのではないでしょうか。素直に解釈すると、サービス業の現状はサービス担当者と顧客の人間関係によって付加価値を生むどころか、サービス担当者の提供する「サービス」が、物理的な商品(例えばコーヒーやドーナツ)の価値を減価させる最大の要因となっている可能性があります。顧客はこのような自尊心にかかる障害を乗り越えて購買行動を起こしており、その姿はまるで鮭の川登りのような悲壮感があります。傷つき障害を乗り越えて実際の購買にたどり着く顧客は氷山の一角であるかもしれない、という仮説が俄然現実味を帯びてくるような気がします。反面、サービス担当者が物理的な商品を減価させている大きな要因だとするならば、企業の立場としても従業員に関心を払うよりも、店舗や特典やサービスの仕組みづくりにお金とアイディアを集中させたほうが合理的と考えてもそれは全く当然のことで、これは仮説ですがこのようにしてサービス業の悪循環が生じているのではないでしょうか。

トリニティのサービス論の考え方
念のためにコメントしますが、以上は非難でも中傷でもありません。企業には経営上の物理的な制約がありますし、そのような現象が起こる事情も理解できます。ここでの論点は「問題発見」ではなく、あくまで「現状認識」なのです。そして現状認識はトラブルシューティングのツールでもありながら同時にその何倍もの意味で最大のマーケティングであり攻撃的な経営作業になり得ます。例えば、これが仮に事実であれば、これほどのグッド・ニュースはないと思います。企業が大量のコストをかけて新たな顧客を探すまでもなく、企業とニアミスを起こしていながら購買行動を起こしていない莫大な顧客が、既に、すぐ傍に、大量に存在することを意味するからです。この莫大なニアミス顧客にアクセスするために必要な第一歩は、企業が現実を直視した現状認識を行い、自らの認識と行動を変えることだけです。

以上のような考え方や評価方法について、少々エキセントリックに感じられる方がいるかもしれませんが、一見厳格なアプローチを取る理由は、サービス業が顧客に経験を提供する事業であるならば、顧客の購買意識に影響を与える経験の全てが商品と考える方がむしろ自然だからです。「顧客の経験と価値観」という大きな氷山のほんの一角が「購買」という顕在的な行動です。企業が自社商品を正確に認識するにあたって、水面下に存在する莫大な氷の塊(すなわち現象に表れない顧客の経験と価値観)を対象として認識しないことの方が不自然ではないでしょうか。

また、トリニティが考える顧客の範囲や定義は、一般的なマーケティングの考え方と比較して広範囲です(この考え方については「マーケティングはどうなる?」で触れています)。より体系的なトリニティのマーケティング論の紹介は別の稿に譲りますが、トリニティのサービス論とマーケティング論が同根の考え方で構成されていることをご理解いただけると思います。具体的には、企業にとっての顧客は商品を購入した者だけではなく、例えば「商品に関心があったが店員の印象が悪かったため購入を止めた、または追加でオーダーしなかった者」など(つまり産卵までたどり着かなかった大量の鮭、または足跡を残さない大量のウサギ)を含むと考えるためです。そしてむしろ、このような「ニアミス」顧客の方が、実際に購買行動を起こした健在顧客よりも遥かに大量に存在すると考えているためです。

企業はうそをついている
同様の考え方を「企業全体のあり方と顧客の関係」へ適用範囲を拡大すると、サービス業の現状認識においてもう一点重要なことが理解できます。いささかショッキングな言い回しになりますが、企業が顧客に、(そうならざるを得ない事情は別にして)少なくとも結果としてウソをついている、それもほぼ日常的にウソをついている、ということです。あまり適当な例ではないのですが、分かりやすいので上記各社のサービスに関する企業理念をご紹介します。

東京海上日動経営理念 「お客様に最大のご満足を頂ける商品・サービスをお届けし、お客様の暮らしと事業の発展に貢献します。」
頑張るカプリチョーザ 「あなたの笑顔は私の幸せ。全てのお客様に最高にご満足いただけるよう、スタッフ一丸となって頑張ります。」
ミスタードーナツの企業理念 「客の心を心とせよ」
スターバックスの行動指針 「顧客が心から満足するサービスを常に提供する」

この点は重要なので繰り返しになりますが、以上は非難や中傷でないことはもちろん、批判ですらありません。厳密な現状認識を行うためのひとつのアプローチです。これが唯一のアプローチであったり、最良のアプローチだと主張している訳でもありません。当然にして、このことで上記企業に直接・間接に何らかの損害を与えることは微塵も目的にしていませんし、表現に省略や意訳はあったとしても事実以外の記述は一切ありません。偏見を排除した記述を誠意を持って心がけているつもりです。

さて、仮に以上がサービス業の現状だとして、あなたが経営者だとしたらどのように対応するでしょうか。

【2006.12.20 樋口耕太郎】

トリニティのホテル金融論(pdf)

「トリニティのホテル金融論《前編》」では、「ホテルを破綻させないための運営の最低水準は、総投資額を物件の残存耐用年数で割った額に等しい単年度事業収益を税引き後で生み出すこと(事業収益は金利支払前、減価償却費差引き後)」である、とコメントしました。ホテル運営者の立場からは一見突飛な発想に感じられる可能性が高いのですが、不動産金融の世界ではむしろ常識に近い発想だといえます。これは資産売買が想定されない事業環境から、売買市場が生まれ金融メカニズムが機能し始める過渡期にはどの業界にも一様に生じる認識のギャップです。不動産流動化のマーケットでは90年代のアメリカ、2000年代の日本でも同様のことが起こっています。

不動産金融の考え方
金融的な見方が一般化しているオフィスなどの収益不動産物件では、築年が経過している中古物件は取引に際してどんどんキャップレート*(1) が上昇するなど、実質的に前述の「理論」と同様の市場原理が機能しています。「あと5年で取り壊しだろう」、と思われる老朽物件でも年間キャッシュフローの5倍までの価格で買うことができれば(キャップレート20%ということになります)、少なくとも物件が朽ち果てるまでに元本は回収でき、実際に不動産売買市場ではこのような考え方を基本にして値段が決まります。

ホテルがオフィスなどの不動産物件と異なる点は、①従業員が大量に存在すること、②躯体が物理的に維持されたとしても機能の陳腐化によって資産価値が大きく減価する可能性があること、③不動産などと比べて売上高利益率が非常に低く事業リスクが高いこと(「運営レバレッジが高い」と表現されることもあります)、④資産の所有形態についても不動産というよりも事業としての特性が強く法人税等の負担がかかりやすいこと、という性質がありこのため資産評価に対するプレミアムは不動産以上に要求されるはずです。

日本のホテル金融の特殊性
この考え方において、ホテルがその他の不動産と最も異なるのは従業員の存在です。残存耐用年数5年の不動産であれば、5年で投資資金を回収してしまえば不動産が朽ちても投資は完了しますが、ホテルの場合は従業員が存在するため、原則として建物を建て直して事業を継続しなければなりません。この物件建て直しと事業の再開が実現できなければ事業はその時点で破綻してしまいます。したがって、ホテル事業ではこの再開発の資金調達を前提に単年度の収支を逆算しなければならない点が、単純な不動産金融と決定的に異なるというのが僕の考えです。

このような考え方をする人は現状殆ど存在しないのではないかと思うのですが、恐らくその理由は、①日本ではホテルが現在まで一般的な売買の対象とされていなかったこと、②アメリカの考え方をそのまま適用していること、によるのではないかと思います。前者については、収益物件として第三者に売却された(第一号とは言いませんが)事実上の幕開けとなった案件は2000年のリーガロイヤルホテル成田(現成田ヒルトン)の案件以来だと思います。したがって近年急速に増加しているとはいえ、まだ5・6年分の事例しかありません。後者については、ホテル金融理論が生まれたアメリカでは従業員の解雇が(日本と比較して相対的に)一般的な現象であり、ホテルの建物が老朽化して廃業・取り壊しとなってもこのような問題はそれほど深刻な問題を引き起こさないという考え方から、アメリカ型の金融理論のフレームワークには勘案されていないのではないかと推測しています。

金融的に表現すると、不動産投資は将来のどこかで元本の価値が消滅するワラント投資に似ていますが、日本のホテル資産に関して言えば、従業員の存在と事業継続の原則のために、将来ワラントの元本が消滅する不動産的な性質のみならず、満期時に新たな追加投資を行う義務が投資家に(実質的に)課せられている、というイメージです。ただし、ここでの「追加投資」すなわち物件の再開発は投資家の法的な義務ではありません。事業の継続と従業員の雇用を前提とした場合、「実質的に」必要であるという性質に過ぎないため、あとは経営者と投資家の価値観によります。そして、経営者が事業の継続と従業員の雇用と生活を尊重するという選択をするのであれば、単年度事業の課題として対処されるべきで、トリニティのホテル経営論に沿った事業運営が重要になってくるという考え方です。

前回の質問への回答
なぜ外資系に代表される投資家はこれほど大量に高い簿価で資産を取得し続けるのでしょうか?また、現実には上記の運営水準を単体でクリアしていないホテルが少なくないと思うのですが、なぜそれでもホテル事業が成り立っているのでしょう?というのが前回の質問でした。答えは簡単で、単独のホテル収益以外からその差額の埋め合わせがなされている、つまり将来の資産の実質的な転売や収支の補填などによって他の投資家や事業が実質的に負担しているからです。

そのいわば利益「付け替え」の手法はいずれも金融によるもので、いくつかのパターンがあります。第一に、親会社が実質的に負担する。第二に、継続的な追加資産の買収やM&Aによって資金調達を可能にする。第三に、上場などの外部資金調達(つまり実質的な転売)によって充当する、が代表的なものです。

第一の、親会社などが負担するパターンの典型は、大手エアライン系、電鉄系、旅行会社系、かつての建設会社系などのホテルチェーンにおいて、単独ホテルの収益が前述の理論的なガイドラインに満たない場合でも、資本力のある親会社からの潤沢な出資・貸付・債務保証などによって資金提供がなされるものです。単独資産での収支が合わないことはあまり議論されず、「事業シナジー」という概念で説明されることが多いのではないでしょうか。確かに考え方としては、単独ホテルの収益力の不足分を超える「事業シナジー」が生まれる場合、合理的な経営判断になりえるのですが・・・。「シナジー」って結局なんでしょう?

第二の、継続的な資産買収やM&A は、良きにつけ悪しきにつけ最近特に注目度の高い手法です。このメカニズムはホテルなどの資産買収であろうと企業のM&Aであろうと基本的に同じです。例えば、売上20億円、理論的な企業存続の収益ガイドラインが年間4億円で、実際には2億円の収益しかないホテル会社があったとします。これでは将来のどこかの時点で破綻する可能性が高いので、この経営者は対応策として新しいホテル投資案件を探すことにします。程よく見つかった新規案件もやはり同様の規模で買収価格40億円、売上20億円、収益ガイドライン4億円に対して、実際の収益が2億円だったとします。

冷静に考えれば、この投資を実行することはマイナスの上塗りになりそうなものですが、金融市場が理性的に機能することを期待してはいけません(少なくとも僕の印象はそうです)。新規案件のファイナンスにおいて、買収価格40億円を全額借入金で賄い、40億円に対して3%、1.2億円の金利支払が生じるとして、売上は20億円から40億円に倍増すると同時に、この追加負担が年間2億円以下で済む場合一株あたりの利益も確実に増加します。そうすると、企業が発表する事業のシナリオ次第では、「急成長企業」ということになり株価が上がり、より高い株価で資金調達・・・という循環が出来上がる可能性があります。このとき借入金も同様に急増するのですが、「資産(事業)の急拡大」と見られるか、「有利子負債の膨張」と見られるかは(この場合両者は同じことなのですが)、みんなの雰囲気というか、アナリストの気分次第というか、IR のイメージと会社の雰囲気次第みたいなところがあります。

マイナスにマイナスを加えてもどこかで破綻する可能性は減少するどころか増加するだけなので、必ずどこかの時点で立ち行かなくなることは明らかでありながら、金融市場では全く逆の評価がなされ、「注目の成長企業」といったイメージが少なくとも一定期間継続します。「金融」に強い関心を持つ多くのベンチャー企業家はこのメカニズムを理解しており、IT、急成長市場のイメージとこのメカニズムを重ねて、市場から大量の資本を調達します。どこかで破綻する可能性が高い構造でありながら、その際にババをつかむのは一般の株式投資家ということになります(ライブドアへの株式投資で実感した方は少なくないのでは?)。このような「成長企業」は収益力の実態がなくとも増資や株式公開で投資家から集めた現金の内部留保があればとりあえず企業の破綻は避けられますので、ひとつの事業手法?として少なくとも今のところ機能しています。このためこのような事業ならぬ「お金集め」を事実上の本業とする企業は増える一方です。その結果、実質的な事業付加価値を生まず、利益と現金しかない「成長企業」と(中には利益すらない会社もありますが)、短期間で「成功」した経営者が大量生産される・・・といったら皮肉が過ぎるでしょうか。逆に考えると米国を起源に、現在これほどM&A が活発になっている理由の相当比率はこのメカニズムに起因します。

第三のパターンは、投資銀行や投資ファンドが得意とする金融手法です。金融の世界も酒屋さんと同じで小売と卸売りが存在します。突き詰めて考えると問屋さんの目的は転売することですが、不動産金融の場合も同様です。金融の世界の問屋さんは投資ファンド(プライベート・エクイティといいます)が代表的で、この事業の目的はやはり転売することです。例えば不動産やホテルを大量に仕入れ、これをREIT(リート:不動産投資信託)などにまとめて株式市場などに上場しますが、これは一般投資家(リテール)に株式という形で不動産を転売する事業です。より高い価格で転売することが目的であれば、「単独ホテルを破綻させないための収支ガイドライン」はあまり関心ごとにはならないのです。そして上場した後は、上記第二のパターンを活用することが可能ですので、なかなか息の長い「成長」を遂げることができます。

補足とまとめ: トリニティのホテル金融論の使い方
トリニティのホテル金融論では、投資家の資本的な制約(投資簿価)を基準として、単体のホテル事業を破綻させないための最低運営水準を明確にし、運営的なガイドラインとして表現しなおしました。これは、ホテル投資家と運営者の業務分担の中で、ホテル運営者が最低限果たすべき運営上のガイドラインを規定したもの、あるいは、投資家の資本的な制約を運営的な指標で表現し直したもの、という意味でもあります。したがって、正確に表現するならば、「理論」というよりも合理的かつ実質的な経営のガイドラインというべきものです。

例えば、このようなガイドライン収益を運営者が達成しても、投資家が資金を内部留保しなければ再開発は実現しない可能性が高いことからも分かるように、このガイドラインは投資家と運営者のルールではなく、ひとつの財務的な分担基準です。運営者がこのガイドライン収益を達成できなければ、単独で事業を存続することはどこかの時点で不可能になる可能性が高い反面、その差額について投資家が別途資金の調達を行うなど、必要な役割分担が明らかになります。あるいは、一般的な運営水準をはるかに超える投資条件(高い投資簿価)で案件をスタートした場合でも同様ですが、このような状況は、先に説明した三つの「利益付け替え」スパイラルに踏み込んでいるということをお互いに確認することができますので、自制を働かせたり、運営サイドと投資サイドの現実的な責任分担や対策を再確認する目的にも利用できるのではないかと思います。

現在のホテル業界においては運営者と投資家それぞれの事業分野に関する専門的な相互理解が十分ではないという印象があります。双方の専門家はそれぞれに学習と経験を積んでいるからこそ、その協力関係において相乗効果が生まれるのであり、双方がお互いのことを一から学習しなければならないとしたら、これは非効率ですしお互いの価値を高めることにもならないと思います。このようなガイドラインによって、実質的かつ効果的に、双方の人材が事業の価値観を共有し、しかし異なる専門性を分担するための橋渡しになるのではないかと考えています。

【2006.12.14 樋口耕太郎】

*(1) キャップレート(Cap Rate): 不動産の資産評価において、物件が生み出す収益を基準にして資産評価を行う方法(収益還元法)で広く利用される「収益還元率」。投資家が不動産投資に際して要求する単年度利回りと考えることもできる。「物件からのキャッシュフロー(減価償却前、金利支払前、税前の営業利益)÷キャップレート=資産価格」の関係にあり、収益倍率の逆数でもある。例えば、年間1億円のキャッシュフローを生む物件が20億円で取引されたとき、この物件のキャップレートは5%(1億円÷20億円)であり、この投資家はこの不動産物件を投資するに当たり、投資額に対して5%の収益が妥当と評価した、というおおよその意味を持つ。キャッシュフロー(フロー)を資産評価額(ストック)に変換する、すなわち収益をキャピタライズ(資産化)するという意味において、Capitalization Rateが語源。

「ホテル事業という生態系」では、経営上の課題を個別に捉えて対処するよりも、事業という生態系を理解し全体のバランスをとりながら対処することが経営効率を著しく高める、という趣旨のコメントをしました。これに加えて、ホテルのように資本集約的な事業では、資本の回収サイクルと事業収益のバランスをとること(建物・基本設備・什器備品投資の回収サイクルと単年度ごとの事業収支や資金繰りのバランスをとること)が劣らず重要だと思います。資本コストとキャッシュフローのバランスと表現することもでき、これは金融的なテーマでもあります。これらのイメージをかっこよく表現すると、事業の生態系(「空間」)と資本の回収サイクル(「時間」)のいわば「時空バランス」をとりながら最適解を求め続ける四次元パズル、という感じでしょうか。

破綻させない経営
僕はホテル金融においてなによりも重要なことは、「事業を破綻させない」ということだと思っています。そして企業が破綻に至る時の「金融的な分岐点」の把握が必要だと感じました。すなわち、ホテルはどのようにして破綻するのか、その原因は何か、ホテル事業の最大のリスクは何か、どのようにしたら回避できるのか、という問いに対して自分なりの明確な回答を出す作業です。不思議なもので、「破綻しない経営」をしっかり心がけていると、非常に収益力の高い事業経営が実現できるような気がします。

ホテルの破綻事例や運営が行き詰って資産を手放すケースの多くはこの金融バランスの見誤りに起因しているのではないでしょうか。不動産投資・運用事業の最大のリスクは借換えにあると言われていますが、ホテル事業の場合はそれに加えて、有限な建物の耐用年数と永続すべき事業のバランスをいかにとるか、という特殊なテーマが加わります。これらの金融バランスは事業の命運を分けるテーマだと思うのですが、一般的なホテル運営の現場ではそれ程の認識はないように思いますし、金融のメカニズムをよく理解して運営を行っている総支配人も今のところあまり多くはなさそうです。

トリニティのホテル金融論
だからといって、現場で活躍するべきリーダーが小難しい金融理論を一から勉強する必要はありません。僕がホテル会社の社長だったら、総支配人に最低限望む金融的理解は基本的に一点だけです。

「ホテルを破綻させないための運営の最低水準は、総投資額を物件の残存耐用年数で割った額に等しい単年度事業収益を税引き後で生み出すこと。」 ここでいう事業収益は金利支払前、減価償却費差引き後です。なお、この額に支払法人税と減価償却費を足したものがGOP*(1)です。

そして、この考え方のポイントは三つです。①例えば、40年で回収しなければならない資本は、各年度でその1/40を回収できなければ、会社が破綻に一歩近づくということ、②全ての資本コストは税引き後で負担するということ、③全ての資本コストは運営によってのみ賄われること。

この点を十分に認識しながら経営をするだけで、破綻を回避することができるホテルは驚くほどの数になると思います。このポイントを絞っているのは、おいしい料理と同じで、効果的な金融を実行する際に最も重要なものは、テクノロジーや手法ではなく素材、つまり事業収益とキャッシュフローだと思うからです。これをしっかり生み出し正直な経営を行っていれば、技術の進歩した現代金融において資金調達に不自由することは考えづらいという考え方がベースにあります。

例えば土地の取得簿価10億円、建築コスト30億円(総投資額40億円)、年間売上20億円の新築ホテルで、建物の実質耐用年数が40年だとすると、単純に考えて年間1億円(40億円÷40年)の税引き後現金を生み出さなければ、いずれどこかの時点で破綻するという前提で各年度の事業を計画・実行するのです。計算の際、減価償却分は同額を追加投資・修繕維持に充てる想定として、この計算からは除外します。つまり、この例では経常利益2億円(減価償却後、金利支払前、法人税前)=法人税1億円*(2)+資本コスト1億円という水準、すなわち単年度の経常利益が最低2億円なければいずれどこかの時点で破綻する、つまりこの水準が会社を破綻させない最低限度の運営水準であるという認識で経営を行うということです。

ちなみに、この会社の減価償却費が年間1億円だとすると、税前営業キャッシュフローは3億円、税引き後のフリーキャッシュフローは2億円、ホテル運営者が重要視するGOP は3億円、GOP比率は15%(3億円÷20億円)という計算になります。なお、この運営水準では投資家が受け取る余剰利益は実質的にないという考え方ですので、事業的に価値を生むためには、この水準を運営実績がどれだけ上回るかが評価対象となります。

なお、この原則はホテル事業が賃貸によるものであろうと、自社所有によるものであろうと同様に適用します。この資本コストはホテル事業に付随するものであり、誰が負担するかどうかは別として運営利益を原資として負担せざるを得ないためです。

非常識?
このルールは、ホテル経営の具体的なイメージを持たない方が聞くと「そんなものか」と思われる程度かもしれませんが、総支配人などホテル運営経験をお持ちの方にとっては奇異に感じられるのではないでしょうか。第一に、資本回収にかかる資本コストを税引き後で計算する点。第二に、これと関連して、減価償却費が損金として(税引き後扱いで)計上され、それに対応する現金が企業に内部留保されるのに、なぜわざわざ税引き後の資本コストが別途必要と考えるのか。第三に、土地なども合わせた総投資額を物件の残存耐用年数で割るのか、なぜ減価しない土地の取得額も含めるのか、そしてなぜ簿価や再調達価格ではなく総投資額を基準にするのか。第四に、同様の計算であればなぜ単にGOP15%を目指す、というガイドラインではいけないのか、が代表的な疑問ではないでしょうか。

資本コストを税引き後で計算する理由
第一の疑問について、経営者が土地取得費用と建設コストを全額借入金で賄いホテルを開発した、と想定すると分かりやすいと思います。前出の例では借入金40億円を返済するための資産(つまりホテル)の実質的な耐用年数が40年であれば、この年限内で返済しなければ債務不履行が生じるのは明らかです(建物が老朽化してなくなってしまった後では返済原資を生むことができません)。そして当然のことながら、借入金の元本は税引き後のキャッシュフローから充当しなければなりません(税務署は借入金元本の返済を損金扱いにしてくれませんので)。

また、上記のように借入をする必要がない程の大富豪が、全額自己資金で同様のプロジェクトを行ったとしても、基本的に考え方は変わりません。投資家が全額自己資金で40億円の投資を行い、税金を支払った後の資本コスト(年間1億円)を40年間で回収したとして、投資家の投資収益は0%であり(投資額と同額を40年で回収しただけですから)、これなら国債か定期預金をしていた方がよっぽど賢い投資ということになりそうです。投資収益0%以下で資本を提供する投資家は基本的に存在しないという考え方に基づくと、やはりこの水準が事業存続の最低水準になるのではないでしょうか。

なお、以上の計算において、投資家が土地建物の総額を借り入れるために差し入れるであろう債務保証のコストや借入金利などは除外して計算していますので、まさに破綻に至らないための最低水準の目安であるということがお分かり頂けるのではないでしょうか。

減価償却費を資本コストの計算から除外する理由
第二の疑問について、建物を必要とするホテル業の宿命として資産の営業価値が毎年減価することは避けられません。減価償却費はこの営業価値を維持する目的で支出されるべきで、この費用は建物躯体の回復費用というよりも運営費用の一部として常に見積もられるべきだと思います。現実には、単に資産の維持・回復だけではなく、施設・備品の機能が陳腐化するため、グレードアップを含む継続的な追加投資によって始めて営業価値の現状維持が可能であるという状態がむしろ一般的で、減価償却費の範囲内でこのような追加投資を成功させるのはそれほど容易ではありません。

なお、その実質的な営業価値の減価が税務・会計的な減価償却額と同等であるとは全く限らないのですが、いたずらに前提を増やして経営的に直感しづらい複雑な推定額を算出するよりも、これらを便宜上同等のものとして計算するものです。また、概念的には、40年目終了時点には減価償却の範囲内で追加投資してきた資産価値が物件に付随すると考えられますが、躯体の取り壊しを想定したときにはやはり除却扱いせざるを得ないという一応の考え方をしています。

総投資額を基準に考える理由
第三の疑問について、土地の取得費なども合わせた総投資額を(建物の残存耐用年数の期間内で)回収すべき資本の額とする根拠ですが、残存耐用年数、つまりプロジェクトが収益を上げることができる期間内に、土地・建物の取得に要した資本を全額回収すると想定するためです。この場合、耐用年数が経過し、建物が取り壊された時点では担保設定のない(担保余力のある)土地が残り、これによって再開発の資金調達余力が生まれるという想定によります。

GOPを基準にしない理由
第四の疑問について、トリニティのホテル金融理論の計算式で求められる最低事業収益とGOPは似て非なるものです。シンプルな例として、このホテルが開業20年後に売却され、新たな投資家の手に渡ったケースを想定します。売買価格が開発時の簿価と全く変わらないと仮定したとき、このホテルは新しい投資家にとっても総投資額40億円というプロジェクトになりますが、建物の築年数は既に20年が経過しています。

実質的な耐用年数は残り20年ですので、上記の計算によって、経常利益4億円-法人税2億円=資本コスト2億円(40億円÷20年)、すなわち最低4億円の税前、償却後、金利前営業利益を生む必要が生じます。前例と同様に減価償却を便宜上年間1億円とすると(中古物件については税務・会計上加速償却が認められていますが、ここでは無視します)、GOPは5億円、GOP比率25%という水準が新たな企業存続の最低ラインということになります。

その他、GOPを基準にする欠点は売上高にリンクしているという点です。資本の回収という長期的な事業の存続に関する概念は単年度の売上高ではなく、資産の取得簿価にリンクしたものであるべきだと思いますし、GOP比率は売上が上昇すると下がってしまう可能性もあります。

サンマリーナホテルの事例
僕が経営を担当していたサンマリーナホテルは、総投資総額約28億円、建物残存耐用年数20年、年間売上20億円でしたので、年間1.4億円(28億円÷20年)の税引き後、金利支払前、減価償却後の事業収益が早急にクリアすべきひとつのターゲットと考えていました。実際には繰越欠損金を利用したこともあり、2年目で約1.3億円の税引き後利益(税前相当では約2.5億円に相当します)を達成し、短期間で最低ラインをおおよそクリアすることができ、余裕を持って成長イメージを構想できるようになりました。

ちなみに、個人的には残念なことですが、その直後サンマリーナホテルは親会社の方針転換によって推定約57億円という高値であっさり売却されてしまいました。企業存続の最低ラインをクリアする経営を実行することで、大きな企業価値が生まれることを計らずも証明してしまった形です。反面、これによって新しい投資家がクリアすべき運営水準は年間2.9億円(57億円÷20年)と倍増したことになります。更に推定10億円以上の追加投資を検討しているとされていますので、これを加えると当初の約250%の予算、年間3.4億円(67億円÷20年)の事業収益が(いずれも、税引き後、金利支払前、減価償却後)破綻を回避するための最低ラインとして現場に降りかかることになります。

このように、ホテル資産は売買時において資本家と従業員の間に最大のコンフリクトが生じるのですが、資本家はこのメカニズムを従業員に対して明らかにしていないように思えます。僕はこのような理由でホテルは可能な限り売買するべきではない、特に高い簿価で取得するべきではないと思っています。

全ての資本コストは運営によってまかなわれる
以上の考え方は一般的なホテル運営者から見れば甚だしく非常識に思えるかも知れません。先出の投資額40億円の例では昨日までGOPの最低目標は3億円15%であったのが、21年目に入り、オーナーが代わったというだけで、その水準が一夜にして5億円25%に跳ね上がるのですから。しかし現実には、新築のホテルと築20年のホテルで運営目標が同じということの方が理屈に合わないような気がします。

結局、(その他の条件に全く変化がない場合)築21年目のホテルを開業当時と同じ額で取得した新しい投資家がそのような投資/収益構造を自ら招いているのです。そのような投資家の事情は運営者とは無関係という考え方が一般的であることは理解できます。しかしながら、考えれば当たり前のことなのですが、資本家の投下資本は資産の売却を行わない限り、運営によってしか、それも税引き後の運営収益によってしか回収することはできないのです。したがって、それが運営上どんなに理不尽に見えるものであれ、資本家が下した決断は運営によってしか帳尻を合わせることはできないという現実を運営の前提条件として認識することが、事業を破綻から回避する有効な方法だと思います。

次回?に続く…
では、以上が事実だとして、なぜ外資系に代表される投資家はこれほど大量に高い簿価で資産を取得し続けるのでしょうか?また、現実には上記の運営水準を単体でクリアしていないホテルが少なくないと思うのですが、なぜそれでもホテル事業が成り立っているのでしょう?これは広い意味で金融的なメカニズムが働いているためです。詳細については別の稿で解説したいと思います。

【2006.12.11 樋口耕太郎】

*(1) GOP: Gross Operating Profitの略称。営業利益(税前・金利支払前)に資本コスト(地代家賃+法人税+減価償却費)を足し戻して計算されます。ホテル運営会社とオーナーの間で運営手数料を設定する際にこの指標を基準に決められることが多く、一般的にホテル運営者がオーナーに対して「責任を持つ」指標と考えられています。

*(2) 法人実効税率: 資本コストの算出において、実際にはもう少し少ない率が適用するのですが(実効税率は法人ごとに異なります)、日本内国法人の実効税率を50%として計算することにしています。日本の債務残高、地方公共団体その他隠れ債務の額とそれぞれの財政事情をみれば、(特に40年間の見積もりにおいて)将来の増税の可能性を無視するほうがむしろ不自然だと思うからです。

一般的なマーケティングの目的は、突き詰めると「顧客を見つけることと、顧客に自分を知らせること」ではないかと僕なりに解釈しています。

マーケティングが重要視される理由
殆どのビジネススクールでマーケティングが基礎科目とされていることや、世の中でマーケティングを業としている専門家の数の多さや手法の多様さから明らかなように、マーケティングが重要な経営課題であるというのは非常に一般的な認識だと思います。そして、現代経営の理論や実践においてこれほどマーケティングが重要視されていることの裏返しとして、「企業は顧客を知らない」「顧客は企業を知らない」という事実があると思います。企業は顧客を知らないからこそいかに効率的に顧客を知り、顧客にアクセスし、最終的な販売にたどり着くかという技術が価値を持ちます。同様に、現在までは顧客も企業を良く知りませんでした。顧客の立場で企業について理解しようとしても会社案内などを取り寄せる、などの手段があったかもしれませんが、これは非常に例外的で、コストも時間もかかるため消費者でそんな手間をかける人はめったにいません。結果として、企業側が莫大な費用をかけて提供する広告やブランドのようなマスメディアを通じてしか企業を知りえなかったと思います。別の表現では、企業が顧客を知るためのコストと顧客が企業を知るためのコスト(いずれのコストも企業側が負担していました)が非常に大きかったため、この費用負担を効率化するためにも、論理的、経営科学的な分析やアプローチが重要視されていたということだと思います。

マーケティングに関する素朴な疑問
このような従来型のマーケティング理論や手法に関して以前から疑問に思っていたことがあります。いずれもマーケティングやマーケティング・リサーチの前提に関する、人から笑われそうなくらい基本的な疑問なのですが、次世代のマーケティングについて自分が考え、経営方針を策定するための重要なヒントとなっているものです。なお、このような疑問を発したからといって僕は「マーケティングかくあるべし」と考えているわけではありません。たまたま自分はこういう考えを前提として経営を行っているということに過ぎず、その他のいろいろな考え方や手法がそれぞれ意味を持つ可能性は常にあると思います。

マーケティングでは顧客のニーズを分析し、顧客を特定し、そのような顧客のニーズに合ったサービスを提供する、というアプローチがとられることが一般的だと思います。しかしながら僕の疑問は…

第一に、そもそも顧客は自分のニーズを理解しているのだろうか?
第二に、そもそも顧客を特定することに意味があるのだろうか?
第三に、そもそも顧客のニーズに合うサービスや商品を提供することは意味のあることだろうか?

第一の疑問: 顧客のニーズについて
僕の理解では、マーケティングの主要作業のひとつは「顧客(群)の特定」だと思うのですが、ここでいう顧客とは主に自社商品を購入する意思(顕在的なニーズ)を持っている消費者を意味します。

これに対して、僕の疑問の第一は、マーケット・リサーチが対象とする顧客の「顕在的ニーズ」は、顧客ニーズのほんの一部に過ぎないのではないか、つまり顧客は自分のニーズのほんの一部しか自覚していないのではないか、ということです。僕の仮説では、顧客には自分で欲しいものをはっきり自覚している「顕在的ニーズ」と、商品を体験して初めて「ああ、これが欲しかった」と自覚する「潜在的ニーズ」が存在すると思います。後者(潜在需要)の典型は例えば発売当時のソニーのウォークマンなどです。録音機能のついていないテープレコーダーは当時世の中に存在していませんでしたので、当然にして消費者はウォークマンに対するニーズを顕在的に自覚することはなかったと思います。

マーケティング・リサーチにおいて顕在的ニーズ、すなわち数量的に評価できるものを主な分析対象とするのはある意味当然のアプローチです。そしてこのような顕在的ニーズの分析に際してマーケティング手法は非常に有効である可能性は高いと思います。しかし、素朴な疑問の第一を感じた根拠でもあるのですが、僕には「潜在的ニーズが顕在的ニーズに比較して破格に大きいのではないか」、また「破格に大きいが目に見えない潜在的ニーズに対して、汎用的にアクセスする手法が存在するのではないか」と思えるのです。この仮説が双方ともに真実であるとするならば、顕在的ニーズを中心とする分析やそれを前提とした事業的な対応は経営的に見て著しく効率を欠いてしまう可能性があります。

第二の疑問: 顧客の特定について
第二の疑問は、マーケティングの考え方というよりも手法に対する疑問かもしれません。マーケット・リサーチの一般的な手法として、過去のデータやアンケートなどを通じて、自社商品に対してニーズをもつ顧客(群)を特定する作業があると思いますが、これは「バックミラーを見ながら車を運転する」イメージに少し重なります。この考え方は、雪山にウサギ狩りに出たときに、ウサギの足跡を追うことで獲物を見つける可能性が高まるという考え方で、非常に合理的であるように思えます。しかしながら、この手法においては「足跡を残さないウサギは存在しない」という処理をせざるを得ません。ひょっとしたら少し麓(ふもと)に下りた雪のない場所にウサギの大群が存在するかもしれないということは全く無視されてしまいます。

もちろん足跡を残さないウサギを特定する方法があれば、誰も苦労はしないのかもしれませんが、これも第一の疑問と同様に、「足跡を残すウサギよりも足跡を残さないウサギよりの方が破格に大きな規模で存在する」、「足跡を残さないウサギに汎用的にアクセスする方法が存在する」という二つの仮説が真実であるとき、ウサギの足跡を追いかける方法は効率のよい狩りとはいえません。

第三の疑問: 顧客のニーズに合わせて商品を提供するということ
第三の疑問は、事業のあり方に関する根本的な疑問といえます。マーケティング・リサーチの手法は「顧客のニーズを特定しそのニーズにあった商品を提供する」、というのが常識的な考え方だと思います。これに対して、素朴な疑問の第三は、「顧客のニーズにあった商品を企業が提供する行為を顧客はどれだけ望んでいるのだろうか」というものです。例えば、沖縄のホテルの新規開発や「リポジショニング」に当たって顧客の属性やニーズを分析してそれに「合う」コンセプトを構築し、そのテーマにあった事業を行うことが一応のパターンといえると思いますが、その結果沖縄らしいホテルがほとんど存在しないという状態が生じているような気がしてなりません。ことの良し悪しではなく、より大きな市場という意味合いにおいて、これは本当に顧客が望むことなのだろうか、という疑問です。

例えば、長期にわたり成長を続け一大産業となったファミリーレストランも、顧客のニーズを非常によく捉えた典型的な業態だと思います。顧客の利用状態から、顧客ニーズに合致した業態であることは明らかですが、これは顧客がもっとも望んでいる業態なのでしょうか。もちろん、顧客がこれ以上のものを望むとも望まずとも、これだけの市場を獲得しているのであれば実質的なマーケティング手法として全く問題がない、という考え方は全く合理的なものです。しかし、三度同様の発想に戻りますが、それ以外の顧客の潜在的ニーズがこの事業規模と比較しても破格に大きな規模で存在しているとしたら、また、その潜在的ニーズに汎用的にアクセスする手法が存在するとしたら、現在のマーケティングとは全く異なる発想によって事業戦略を構築することの合理性が非常に高まると思います。

次世代マーケティング
つまり、現在のマーケティングの手法は、市場を科学的に分析しようとしているというよりも、合理的、科学的に説明、分析、数量化できる範囲を、逆に「市場」と定義しているように見えるのです。ところが、以上のようなマーケティング手法が威力を発揮した市場環境が、ここ10年くらいから次第に、そして昨年ぐらいから急激に変化しているように感じます。もう既に、現在の顧客は企業が提供する広告などに頼らず、ただ同然の多様な情報源によって企業を非常によく知るようになっています。このため、企業が顧客を知るためのコスト(マーケット・リサーチや顧客データベースの構築費用)や顧客に企業を知ってもらうためのコスト(広告宣伝費・販売促進費)は事業的に意味を失う可能性が高まっています。「企業が顧客を知らない」という状況には依然として変化がありませんが、ネットなどを通して顧客が企業を知るためのコストがほぼゼロになっているため、企業が顧客を知るために費用をかけるよりも、顧客に企業を見つけてもらう方が格段に効率的になりつつあるのです。すなわち、次世代マーケティング環境では ①企業は顧客を知らないが、顧客は企業を知っている、②顧客は企業がどう見てもらいたいかとは全く異なる情報によってありのままの企業を知る、という現象が常態化するのではないかと思います。

最大のポイントは、次世代のマーケティング環境において企業は「足跡を残さない大量のウサギ」にほとんどコストをかけずにアクセスする機会を得るということです。より正確には、足跡を残さない大量のウサギは誰か、どこにいるか、ということを企業が全く知らなくても、大量のウサギがほとんどただ同然のコストで企業を積極的に見つけてくれるようになるのです。

以上の変化はきわめて革命的な意味を持ちます。すなわち、①従来のマーケティングが認識する市場の概念が根本的に変化し、対象範囲が飛躍的に拡大します、②企業は顧客を知る必要がなくなります、また同様の意味ですが、顧客を知るための努力は事業的に非効率になります、③企業は自分を顧客に知ってもらう努力をする必要がなくなります、また裏腹の現象として、企業が顧客に伝えたいように自分のイメージを伝えることは、それが真実でない限り事実上できなくなります。

以上が次世代のマーケティング戦略を検討する上での前提条件ではないかと思っています。このような事業環境が仮に訪れるとして(僕は既に訪れていると思っているのですが)、あなたが経営者だったら、どのような「マーケティング戦略」を構築するでしょうか?

【2006.12.8 樋口耕太郎】

何人かの方々に社名の意味について聞かれました。トリニティという言葉は比較的一般的なものですのでご存知の方は多いと思いますが、英語で「三位一体」という意味で、世の中には他にも沢山のトリニティが存在します。数年前にヒットした映画マトリックスのヒロインでネオと一緒に人類を救う伝説のハッカーの名前はトリニティです。アルマゲドンで文明が滅んだ遠未来を描くトリニティ・ブラッドというアニメもあります。トリニティというスピリチュアル系の雑誌も最近比較的流行しているようですし、ビジネスの世界ではカネボウの事業再生の受け皿となった持ち株会社名はカネボウ・トリニティ・ホールディングス株式会社、日本風に言えば「三和株式会社」といったところでしょうか。Jリーグの大分トリニータは商標登録の関係で現在の名前になる前は大分トリニティでした。

海外では、ウォール街と旧ワールドトレードセンターに隣接するニューヨーク最古の教会がトリニティ教会です。この教会の墓地には初代財務長官のハミルトンや蒸気船を発明したフルトンらが埋葬されているそうです。欧米には「トリニティ・カレッジ」がいくつもあります。核廃絶を求めた「ラッセル=アインシュタイン宣言」で知られる論理学者・数学者・哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルが学んだケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジをはじめ、ウェールズ大学のトリニティ・カレッジ、100年以上の歴史を持つロンドンの音楽院の名門トリニティ音楽院、その他エリザベス一世が創立したアイルランド最古のダブリン大学トリニティ・カレッジ、カナダのオンタリオ州ポートホープ、アメリカではコネチカット州ハートフォードにも・・・。調べていけば恐らく他にも沢山存在しそうです。

トリニティという名称を思いついたきっかけ自体は直感的なものです。起業のときに3ヶ月近くも散々考えた末、オフィス近くにある風力発電の三枚羽を見ていたときに頭に浮かびました。ただし、この言葉の意味合いを考えると、シンプルでありながら、実に味のある深い言葉だということをしみじみ感じており、とても気に入っています。

トリニティが象徴する重要な概念は「バランス」です。一見それぞれが独立していたり、対立するように見える(三つの)物事を、ひとつのまとまりとして、つまり調和とバランスのとれた集合体として捉えることで、まったく異なった水準の付加価値を生むことができるかも知れないというイメージがあります。「心と体と魂」、「心技体」、「顧客・従業員・株主」、沖縄のホテル業界であれば「ホテル・航空会社・旅行代理店」、沖縄の文化では「うちなーんちゅ(沖縄人)・ないちゃー(本土人)・米軍」・・・。特にトリニティ経営理論では従来の「ヒト・モノ・カネ」という財務諸表上だけの矮小化された概念ではなく、「顧客資本・人的資本・株主資本」のようにバランスシートを超えた企業価値を認識し、そのより大きなバランスをとることがポイントの一つになっています。また、トリニティの概念のすばらしいところは、三つの独立した存在の調和をとるだけではなく、これらの姿を変えた三つの要素が実は利害を全く一にした同一の存在である、という意味を含んでいることです。

また、沖縄において(実際はどこでもそうだとは思うのですが)スピリチュアリティが生活と、したがってビジネスの一部であることもインスピレーションになっています。以上を、パートナーの末金はこのように表現しています:

「例えば、重力が宇宙をまとめる糊だとしたら、バランスこそが宇宙の秘密を解く鍵となる。バランスは私たちの心と体と感情に、私たちの存在の全てのレベルに関係している。私たちは何をする場合でも、それをやりすぎることも、やらなさすぎることもありうるということ、そして生活や習慣の振り子が大きく一方に振れたときには、必ずもう一方にも振れるということを、バランスは私たちに思い出させてくれる。」

トリニティという名称の命名において、はっきりした「三つのもの」というのは特定されているわけではありません。ただしそれゆえにより深くよりシンプルにより重要な点において意味を持つ、ということはあるかも知れません。

【2006.12.2 樋口耕太郎】