サーチエンジン、掲示板、アップローダ、動画掲示板、SNS、携帯電話とメール、ブログ、eメール、ウェブサイトなどは現在進行中のデジタル情報革命の代表選手たちです。20年くらい前まではITという言葉もなく、コンピューター・ネットワーキングといえばなんとなくサブカルチャー的な扱いを受けていた面影は今どこにもありません。現在のデジタル情報革命は文字通り革命と呼ぶにふさわしい影響をごく一般的な人たちの生活と社会に広範囲に生み出しています。まだ一般的な認識になっているとは言えませんが、この現象が今後経営、特にサービス事業に対して与える影響は想像を絶するインパクトとなるでしょう。この革命的な現象と多大な影響を勘案せずに事業戦略を検討することはほとんど意味がなくなるのではないでしょうか。

情報のフラット化
その中でも特筆すべき現象は、ブログ、SNS、アップローダや掲示板などの広がりによって、一次情報(編集されていない情報)の量、伝達コストの安さ、拡散性、スピードが著しく高まっていることだと思います(デジタル情報革命がもたらすこれらの現象を仮に「情報のフラット化」と表現することにします)。フラット化現象における大きな特徴は、①「真実の情報」と、「広告情報」(いわば飾った情報)では、その伝達範囲、スピード、コストに著しく格差が生じる、すなわち情報の質によって拡散性が大きく異なること、②「俯瞰的な真実」や「状況証拠」によって情報の真偽が評価される。また「証明されない真実」によってより深い真実が伝播する(以下に説明を試みます)、ということだと思います。

真実は光速で伝播する
前者(①)については僕のイメージでは少なくとも数十倍、ひょっとしたら100倍くらいの効率差があるような気がします。飾らない真実は誰もが積極的に伝えようとするものです。広告は費用を払う人しか伝達する人がいない(誰も広告の意図に沿った噂はしません)ということもひとつの構造的な要因かもしれません。別の表現では、「真実は本質的に拡散するものである」+「デジタル情報革命はその真実のもつ本質を、極めて効率的かつテクニカルにサポートする」という二つの原理が重なった現象と理解することができるかもしれません。

そして、情報が大きな拡散性を持つかどうかは、その情報が真実かどうかだけがポイントとなり、その情報が会社(情報元)にとって都合がよいものかどうかという点は全く勘案されません。また「真実」であってもどこか飾られていたり(要は厳密な意味で真実ではないということですが)、「ウソだと知らなかったふり」をしてもあまり効果がありません。集合体としてのネット利用者がこの辺の虚飾を見抜く力は驚異的だと思うことがあります。よかれ悪しかれ、掲示板、顧客コメント、口コミ情報、社員のブログでのコメントなどから伝わる情報がどんどん増えていますしこの傾向は増加する一方だと思います。個人の名前で検索すると本人すら知らないさまざまな情報がヒットしたりもします。もちろんこのような情報は断片的なものですが、俯瞰的に見ると意外なくらい真実を伝える可能性があります。

ホテルなどサービス業の利用顧客の評判はリアルタイムで誰もが知るようになっています。現場での真実が伝わるコストが激減し伝達のスピードと範囲が著しく高まっているため、ごまかし、誇張広告、うそ、不誠実、その場しのぎはマイナスどころか、事業の存続そのものを脅かし始めています。後を絶たず報道されている多くの不祥事も、事業上の過失よりもそれらの隠蔽が明らかになることで決定的なダメージを生んでいるケースがあまりに多く見られます。逆に考えると、真実はあっという間に伝わるので、誠実できちんとした事業であれば、実に安価に、広告もいらずに事業が爆発的に伸びるということになるでしょう。

より深い真実が伝播する
後者(②)については、例えば「証拠とするには足りないが、状況やニュアンスにより真実だと多くの人が直感できる」現象が更に意味を持ち始めるということです。例えば(あまりいい例が思いつかなかったのですが)、社内で不倫している男女が実際に不倫していると証明されるためには現場を目撃されるなどが必要ですが、二人の雰囲気をなんとなく感じたり、いつも同じ時間に二人がいなくなることを知っている同僚は、目撃写真がなくても真実を知ることができます。奥さんの方はそれこそ女の直感で、証拠があろうとなかろうと真実を知る力が厳然と備わっています。これと似たイメージで、ネットの世界での真実は、法廷での証拠には事欠きますが十分に真実を伝える威力があります。冷静に考えてみると証明できるということと、それが真実であるということは全く別の問題で、証明できない真実は世の中に山ほど存在しますし、人と争うことを前提にさえしなければそもそも証明する必要はどこにもないのです。逆の面では、「ウソだと証明されなければ構わない」という事業姿勢は今後致命的になるということでしょう。

この現象によって、多くの人が真実そのものを深く正確に理解するという効果が生まれます。逆説的ですが、論理的な実証を積み上げてたどりつく証明可能な「真実」と、複合的な視点と俯瞰的な視点から直感的に認識できる「真実」とでは、後者の方がよほど深い真実にたどり着くことになると思います。例えば先般のライブドア事件でも、ネットで取得できる多様な情報(無論玉石混交ですが、それでも複眼的に見ると真実が見えてきます)に関心を払うだけでも、その政治的、経済的、アンダーグランド的背景に何が起こっているかが立体的に理解できる人には理解できると思うのですが、実際の法廷の現場で「真実」が明らかにされるまでには何年かかるか想像できないくらいです(それどころか明らかにされないことが大半でしょう)。つまり「人を裁く」という目的を手放しさえすれば、真実はより深く正確に早く認識できるということかもしれません。「人を裁かない」ことによって経営効率が著しく上がる、ということの一現象だと思います。

フラットな情報環境が経営に与える影響
現実的には、このような現象に対して経営が具体的に対応する必要が生じるということです。いまのところ、情報管理や社内規定などのテクニカルな作業やしくみによって対応しようとする経営者が一般的だと思いますが、このようないわば対処療法的な対応では遠からず限界に達することになり、近い将来自分自身と会社の成り立ちそのものを変化させなければ結局解決しないという認識に至ることでしょう。つまり「いかに臭いものに蓋をするか」(世の中では「情報管理」と呼ばれています)、あるいは「問題が起こっても言い訳できる体制をいかに構築するか」(同様に、世の中では「危機管理」と呼ばれているみたいです)という発想から、「勇気を持って臭いの根元をキレイにするしか解決方法は存在しない」という認識へと変化してくると思います。リーダーが会社の中の真実をどんどん吸い上げて開放していかなければ企業の存続自体が困難になり、会社が自浄作用としてクローズ情報を開放する現象が起こってくるような気がします。なお、このときもっとも抵抗を示すのは経営者自身である可能性が高く、この問題は経営者個人の非常にパーソナルな問題に振り代わるでしょう。

具体的な影響の第二は、非常に突飛な発想に聞こえるかもしれませんが、企業(少なくとも一部業種)において、販売行為・マーケティング・広告宣伝が消滅する(すくなくともその重要度が著しく低下する)可能性です。企業のうそのない「あり方」そのものが最大の広告・営業機能を果たすようになるためです。僕が経営を担当していた時期のサンマリーナホテルでは、社内に「うそ」が少なくなり、社員と顧客の間に真実の関係が増えると同時に、広告宣伝費用が全く不要になるという「非常識な」現象が起こっています。

そして第三に、正直でうそのない事業とサービスが、企業にとって成長(あるいは存続)の必要条件になるということです。ところが、いざ「うそのないサービス」を実行しようとしても、「企業方針の決定」、「指示伝達」、「進捗管理」など、今までの経営作業によって達成することはできないのです。組織というものは、「うそをつかないようにしましょう」という指示を出すだけでは全く機能しません。今までの一般的な経営者は、会社のすべてを変えることはあっても、自分を変えることなど考えもしなかった人ばかりですし、取締役会や株主もこのような経営者の価値観を評価する傾向が強かったと思います。このような経営者はこれからの経営環境の変化に直面し、経営という職務を果たしながら非常に個人的な問題に向き合う機会が提供されることと思います。

【2006.11.29 樋口耕太郎】

価格ってなんだ?・所有することの価値(pdf)

僕が子供の頃、昭和40年代前半の盛岡市は素朴なところがたくさんありました。東北縦貫道(高速道路)、東北新幹線、駅ビルのショッピングセンターは開発されていませんでしたし、自宅から学校へ通うバスは1時間に1本あるかないか、バス賃は大人30円こども15円、母親が車の免許を持っていたことが比較的珍しいと言われ、オート三輪のトラックがよく走り、少し町から外れると未舗装の道路だらけ、盛岡から宮古方面へ行く汽車(盛岡では電車と呼びません)はディーゼルの3両編成で無人駅もちらほら、僕の自宅の近所は「新興分譲地」ということでしたが、当の住宅は数件がまばらに立っているだけの状態が何年も続き、周囲は一面のリンゴ園、目の前は豚小屋と鶏小屋だったので、毎朝鶏の声がよく聞こえました。カラーテレビも比較的新しく、白黒の家庭も珍しくありませんでした。

代理電話
現在、電話帳で(代)といえば会社などの代表電話を意味しますが、当時は「代理電話」の意味で使われるのがむしろ普通だったような気がします(おかげで、僕はかなり後になるまで(代)の意味を「現代的に」理解していませんでした)。電話を持っていない家庭がまだ珍しくなかったので、ご近所さんにお願いして「代理電話」の係になってもらい、そのご近所さんの電話番号を知人に連絡したり、学校などの名簿に載せてもらったりしていました。僕の近所に住んでいた老夫婦(子供の目にはそう見えました)の家にも電話がありませんでしたので、僕の家がそのおばちゃん、おじちゃんの代理電話の係という状態がしばらく続きました。

おばちゃんに電話がかかってくると、先方にちょっとお待ちください、と言ってから僕がおばちゃんを迎えにいきます。近所といっても家がまばらな状態ですのでおばちゃんの家に行って一緒に戻ってくるまでたっぷり10分くらい、ひょっとしたらもっとかかっていたかも知れません。その間電話をかけた人は辛抱強く待っているのです。呼び鈴というのもあまり一般的ではなかったので、「おばちゃん、電話だよ」と声をかけます。電話を呼びにいくくらいのことではたいした会話にはならないのですが、それでも「こうちゃん学校は楽しい?」「うん」程度のことはあったと思います。

数年たっておばちゃんの家にも電話が通り、僕の家の代理電話の係は終わりになりました。母親が、おばちゃんの家にも電話が来て便利になってよかったね、と言っていたような気がします。でも、その時以来僕はおばちゃんと話すことはなくなりました。もちろん以前もたいした内容のある会話をしていたわけではないので、だからといって何か不都合があるわけではないのでしょうし、それどころかおばちゃんはもっと沢山の人と自由に話すことができるようになったに違いないのですが。このことは長い間ぼんやり気になっていることのひとつです。

所有価値から利用価値へ
高度成長期以降、消費者はモノを所有することが生活を豊かにする、自分と家族を幸せにすると信じ、それはあまりに自明のことのようでした。これは個人でも家庭でも企業経営でも同様の考え方だと思います。忘れがちなのは「モノをひとつ所有するたびに、人間関係がほんの少しずつ分断される」というメカニズムが働くという点でしょう。モノが個人と社会をどれだけ豊かにしたかを評価するのは各人ですが、人間関係の分断という性質も含めて、所有することの価値を評価するべきではないかと考えています。

そして、これからの社会では利用価値が見直されるのではないでしょうか。これは利用行為が所有によって分断されている人間関係を再び結びつける可能性を秘めているからです。イメージで言えば例えば家電や一部施設を共有する集合住宅の分譲など、ある意味不便な環境を、人間関係本位のうまいバランスでプロデュースすることができれば意外と大きなビジネスになるかもしれないと思います。

一般的な認識ではないと思いますが、利用価値は所有価値と比較して著しく経済合理性が高いという特徴があり、今まで企業経営で注目されてこなかったのが不思議なくらいです。利用価値を事業的に活用するとき、これは財務的にオフバランス資産(含み資産)を増加したことと同様の効果があります。そこから収益を生むことができれば、投下資本(ゼロ)に対する利益率は無限大となり、飛躍的に事業効率を高める可能性があるためです。

【2006.11.26 樋口耕太郎】

那覇地区のホテル開発ラッシュ(pdf)

ここ5年くらいの沖縄地区のホテル業界で注目される動きは、①那覇市内のビジネスホテルの大量供給、②外資系資本による大量買収、③高級リゾート(を狙った)開発、でしょうか。これらにはそれぞれ理由があると考えられますが、よく問い合わせを受ける那覇市のビジネスホテルについて分析しました。

市場概要: 大量供給が需要増とバランス
沖縄本島のホテル開発は2000年から2004年にかけて約20軒(約3,000室)の供給が生まれていますが、この約7割が那覇市内のビジネスホテルだそうです。全国的に見ても異常事態と言えるくらいの大変な開発ラッシュですが、2005年以降もそのトレンドは継続しています。

通常これだけ大量供給がなされると収益性の低下が懸念されますが、今のところ沖縄ブームを追い風とした強固な需要増加によってかなりの底固さを示しています。那覇市内の平均客室稼働率は、2001年の9.11以降上昇傾向にて推移しており、2003年に過去最高の80%程度を達成した後、2003年から2004年にかけて4%程度低下していますが、ADR(客室単価)の上昇によりイールド*(1) はむしろ微増し、市場全体で見た場合の収益性は確保されているようです。

供給サイドの事情
僕の個人的な市場観では、今後も3~5年くらいの間、那覇市内の宿泊特化型のビジネスホテルの供給は依然として増加し続けると思っています。沖縄への観光客がこれほどの増加傾向にあり、需要が伸びていれば当然のようですが、僕はむしろ供給サイドにその主な理由があると思っています。

沖縄都市部は未だに不動産市場の縮小(不況)が継続しており、底打ちまでには早くとも1・2年くらいかかるのではないかという気がします。東京やその他の地域でも起こったことですが、不動産物件は不況時には好況時とはまた違った意味の売買が増加する傾向があります。不動産不況時には、所有者の、破綻、資金繰りニーズ、事業縮小、テナントの退去による不動産事業収益の減少等の理由によって物件が売りに出され、好況期の時以上に町並みがどんどん変わっていく原因となります。不動産不況期の売買は、一般に、売買後の再開発が前提になっているという特色があります。長い間売買されていない不動産や破綻にともなう不動産はそのまま継続的に利用するよりも、再開発を行った方が資産価値が高まるからです。このとき市場は下降傾向にありますので、売買の買い手が作成する収支計画等は硬めに設定され、それから逆算された控えめな売買価格になる傾向があるのですが、逆にそれが売買市場と賃貸(ホテルの場合は室料)市場価格の下落を招き、マーケットが落ち着くまでの間、スパイラル的に下落を続けます。これに加えて、売買=再開発を意味するため、不況期にかかわらず(というより、上記の理由によって、不況期であるがゆえに)不動産供給が著しく増加します。そして、このように売買→再開発がなされるときはその市場において最も価値の高い不動産が多量に開発されます。

東京では高級マンション、那覇ではビジネスホテル
不況期の東京であれば坪350万円くらいの新築高級マンションがそれに該当し、過去10年間は東京の都心部にこのようなマンションが乱立し、東京都心部で人口が急増した大きな原因となっています。これに対して、人口30万人に対して観光客年間500万人の窓口になっている那覇市の大きな特徴は、上記前提における最高利用不動産はマンションではなくビジネスホテルであり、一昨年くらいから那覇のビジネスホテルがとてつもなく増えている理由はこのように説明できると考えています。

不況時の東京の不動産市場を見て、何でこれほど深い不況なのにさんざん不動産開発がなされるのか始めは不思議でした。不動産金融理論の「常識」では、不動産の売買価格が再調達価格(総開発コスト)を上回る、すなわち好景気のときに新規開発が起こるとされていますので、全く理屈に合わないように見えました(こんな感じで、過去において常識というものが役に立った記憶がありません)。

要は必ずしもホテル事業や賃貸事業が上向くと考えて不動産開発がなされているわけではないのです。そして、不況型の不動産売買が落ち着きを見せるまでこの傾向は必然として継続し、誰もとめることができません。幸い沖縄地区の観光客がこれまた著しく増加しているため、このような供給サイドの理由はあまりクローズアップされず、大量供給がそれほど目立った問題にはなっていないようです。ポイントは、このような供給サイドはゆっくりとしたトレンドとして推移するのですが、需要サイドはテロ、食事や文化のブーム、ミュージシャンやテレビドラマなどをきっかけにしてちょっとした市場の変化で大きく伸縮する傾向があるような気がしますので、このような構造を意識しながら事業計画を構築することがプラスになると思います。

【2006.11.24 樋口耕太郎】

*(1) イールド: RevPAR(Revenue per available room)と言われることもあります。客室単価に稼働率をかけたもの。例えば、客室単価10,000円×稼働率75%=イールド7,500円というような計算で表現されます。一般的に部屋あたりの売上効率を評価する際によく利用されています。概念的には稼働率を100%にするための単価と考えることもできます。

事業経営はルービックキューブと似ていると思うことがよくあります。短期目標と長期目標、収益、ファイナンス、税務会計、投下資本と回収、営業、運営、エンジニアリング、人材、販管費と変動費、顧客層と評判、単価と稼働率、市場環境などの多面体をバランスよく組み合わせて、もっとも大きな企業価値に導くイメージです。難しさでありおもしろさは、パズルの一面を動かすと必ずその他の面にも何らかの影響を与えるため、パズル全体の立体的なイメージを常に捉えながら経営に当る必要があるという点です。例えばどんな優れた企画を導入しても、見事な改装投資をしても、バランスが崩れると思うように効果(収益)が現れません。

ボルネオ島のお話
労働集約的サービス業で売上高利益率の低いホテルなどの業態では個別の経営判断の可否よりも全体のバランスを保つほうが企業価値に与える影響が特に大きく、個別の「正しい」経営判断の集積が必ずしも企業価値の最大化をもたらさないという性質が顕著ではないかと思います。この点は重要度の割にはあまり一般的な認識になっていないと以前から感じていて、この重要性のイメージをうまく伝える表現方法はないものかと考えていたところ、ドネラ・メドウズ+デニス・メドウズ著「地球のなおし方」という本(すばらしい本です!)の中でいいお話を見つけましたので引用します。1950年代のボルネオ島で実際にあった話だそうです。

『ある村でマラリアが大流行しました。マラリアは蚊が媒介する病気なので、世界保健機構(WHO)がDDTを大量に撒きました。蚊はみんな死んでマラリアの流行は終焉しました。ところがその後、民家の屋根がぼろぼろと落ち始めたのです。DDTを撒いたので、民家の屋根に住んでいたスズメバチがみんな死んでしまい、イモムシを食料源としていたスズメバチがいなくなったため、イモムシが大繁殖して茅葺きの屋根を食べ、それで屋根が壊れてしまったのです。困った植民地政府はトタンの板を配って屋根を葺くよう指導しました。トタン屋根は確かにイモムシには強いのですが、ボルネオ島は熱帯なので毎日のように猛烈なスコールが降ります。この雨がトタン板の屋根に当たるすごい音のために村の人々が不眠症になってしまいました。

また、DDTを撒いたことで、蚊と一緒にたくさんの虫も死にました。死んだ虫をヤモリが食べ、今度は大量のヤモリが死にました。そのヤモリをネコが食べました。こうして食物連鎖に伴ってDDTが濃縮され(生物濃縮といいます)、高濃度のDDTを摂取したネコがどんどん死んでいきました。ネコがいなくなって今度はネズミが大繁殖を始めました。ネズミが増えると今度は別の伝染病が流行しそうになりました。まさにWHOが「自分でまいた種」といったところですが、これを刈り取るためにWHOはなんと・・・、14,000匹のネコにパラシュートをつけて空から撒いたそうです。』

ほとんどの経営判断は個別に正しい
このお話をすると誰もが大笑いします。お話として出来事を俯瞰的にイメージすると面白いことになっているので当然です(それに14,000匹のネコがパラシュートで降りてくるところを想像してもかなり楽しいです)。でも、重要な点は、個別の対策を実行する立場まで視点を狭めるとWHOや植民地政府の対策は全て正しいと言えるのです。「ほとんどの経営判断は個別に正しい」というのがポイントで、このため俯瞰的には笑い話としか思えないような経営判断が事業再生の現場では個別大量になされがちです(私も経営者としてかなりDDTを撒いた経験があります)。

このイメージで企業経営を素直に解釈すると、個別の経営判断の可否と企業価値の間に必ずしも意味のある相関性がないという可能性が生じます。生態系としての事業を理解しないでなされる経営判断は企業価値に悪影響(時には非常に大きな悪影響)を与える可能性が高く、反対に、個別の判断が事業の生態系にどのような影響を与えるかを注意深く認識しながらなされるとき経営効率は非常に高まるのではないでしょうか。

例えば、沖縄のホテルでは資本投下がうまく企業価値の増加につながらない事例が少なからず存在します(というより珍しくありません)。あるホテルでは4年間にわたって6億円もの改装資金を投下しながらイールド(RevPAR)が全く上昇しなかったケースがありました。常識的に考えると6億円もの新規投資を行えば企業価値が上昇するのは当然であるべきなのですが、このケースでは6億円が(収益を生む)投資ではなく(経済的な見返りがない)費用として消費されたことを意味します。この事例は経営のバランスのとり方しだいで企業価値にどれだけのインパクトが生じるか(あるいは生じないか)を理解するよいヒントになると思います。

「DDTの被害」を受けやすいホテル業
ホテルの経営は一見個別の判断がしやすいという特質があるかもしれません。誰でもホテルを利用したことはありますし、そのときに顧客の立場で感じる改善点にはそれぞれ真実が含まれているものです。ホテル経営に関する基本的な手法は体系が比較的整然としていて理解、実行しやすいため、「改善」のために実行すべきことは明らかであるようにも見えます。また、ホテルは経営者不在のまま運営者によって実質的に経営されているケースも多く、運営者としての立場で個別判断がなされる傾向もあると思います。

このような個別の判断は、生態系全体としてみたときに価値を生むとは限らないのですが、経営者の個別判断は往々にして具体的でかつ単独では「正しい」ことが多いため、現場の職員はこのような対応が別の問題を引き起こす可能性を直感的に感じていたとしても反論することが困難です。ホテルの組織がはっきりとしたピラミッド型であることが一般的であるため、現場からの反論をより難しくしている面もあると思います。

バランスすることのパワー
天秤棒でもヤジロベエでも、バランスする前に必要なパワーといったんバランスした後に必要な力の差は相当なものです。私の個人的な経験ですが、沖縄で事業再生を開始した当初はよく言えば「ハンズオン・マネジメント」、現実は「DDTの大量撒布」で経営的な効果を上げようと相当の試行錯誤と悪戦苦闘を経験し、金融業界仕込みの一日16時間労働で大量のエネルギーを浪費することになります。細部にわたり現場を理解し、即断即決で大量の問題に対処しながら長時間働く姿は、東京ではなにかしら「デキル男」のイメージと重なりますが、あいにく沖縄ではこんなマネジャーを誰もかっこいいとは思わないのです。

そんな沖縄で事業再生を経験することができたのは非常に幸運だったと思います。私のようなやり方には誰も共感しない事業環境で、過去の自分の常識が役に立たなかったため、全く異なる発想を強いられたからです。紙面の関係でその「超非常識」な発想による事業再生の詳細はご紹介しきれないのですが(もしよろしければ弊社ウェブサイトwww.trinityinc.jp をご覧いただければと思います)、結果は驚くべきものでした。方針を180度転換してから3ヶ月もたたないうちに、私のみならず主要な幹部社員たちは従業員に対してほとんど指示を出す必要がなくなってしまいました。私の業務時間もかつての16時間から一日3時間もあれば足りるようになり、一方で顧客の評判、代理店からの評判、地元の評判が急上昇。そしてついには売上と利益も順調に伸び始めたのです。これは個別の問題への対処よりも全体のバランスを優先することで非常に大きな事業効率が生まれた可能性を示唆しています。10倍の成果を生むためには10倍楽をしなければならないということが真実であれば、一つの経営手法として非常に有効な事例となるかもしれません。

おわりに
事業を生態系として捉え、その全体のバランスをとりながら企業価値を高めていくことが、従来型のマイクロ・マネジメントやハンズオン・マネジメント手法と比較して非常に効率が高いということを実証し始めている経営者が世界的に少しずつ現れているように思いますが、これらの経営者が概して地球の生態系にも事業的な関心を払っていることは偶然ではないような気がします。

『季刊 事業再生と債権管理』2007年1月号(115号)掲載 【樋口耕太郎】

去る10月30日に日銀沖縄支店、沖縄会計士協会、沖縄弁護士会が主催する沖縄事業再生研究会の月例勉強会で1時間半の時間を頂戴し、「サンマリーナホテルの再生事例」と題して講演をさせて頂きました。

講演後の質疑応答の際に頂戴した質問の一つに、「サンマリーナホテルではなぜ客室単価を上昇させる価格戦略を取ったのか。ある温泉地域の事例では、反対に価格を下げ競合他社が疲弊することで自社のポジションを優位に導くというケースもあります。」というご質問がありましたので、その選択にいたる根拠を回答させて頂きましたが(サンマリーナホテルにおける価格戦略については、ウェブサイトの「ケーススタディ:サンマリーナホテル」を参照ください)、価格戦略の基本である、そもそも価格とはなんだ?というテーマについてコメントすることはできませんでした。この議論は掘り下げ甲斐のあるテーマですので、補足してコメントしたいと思います。

価格とはなにかを誰も知らない?
価格とは何か、価格は誰が決めるか、価格はどのような性質を持つかなど、価格についての基本的な議論が経営の現場においてなされることは殆どないと思われます。経済学の価格理論といえばせいぜいミクロ経済学の需給曲線から説明が始まるのが一般的で、需要供給に関連する価格決定が主要な研究テーマとなっているのですが、そもそも需要とは何か?のような価格についての根本的議論は多くの事業家や経済人は経験していないのではないかと思います。特に経済学は前提条件が多い学問といわれているそうですが、そうであるならばなお更その前提条件についての研究が少ないことが不思議に思えます。

僕も今まで長い間、このような知識的な枠組みにあまり疑問を持ったことはありませんでしたし、今まで誰もこのような疑問を呈した人にお会いしたことはありませんでした。しかし、現実に自分がサンマリーナホテルの経営を担当し、経営のあり方、事業のあり方、価格決定について直面し、これらについて考えれば考えるほど、多くの疑問が生じてきました。価格とは何だろうか?価格が何であるかを理解しているのは誰だろうか?価格についての理解が現状の程度にとどまっていることで実際の事業に障害が生じていることはないだろうか?価格を上げるということ、下げることの事業的な意味はなんだろう?

価格は買い手が決める
価格に関する特徴のひとつは、価格は常に買い手によって決まるということだと思います。売り手ができることは「値札をつける」という行為のみですので、これをもって売り手が価格を決定しているように解釈されがちですが、値札をつける行為は価格が決定されるということとは根本的に異なります。買い手には常に「買わない」(あるいは他のものを買う)という選択肢が存在しますので、買い手が売り手の設定した価格に納得がいかない場合は売買が成立せず、この場合売り手の設定した値札は意味を失います。

一般に、「値札をいくらにするか」を定める行為が企業における「価格戦略」と理解されていることが多いのではないでしょうか。この行為は現実には「値札戦略」と呼ぶべきものでしょう。買い手が価格を決定する前提では、買い手が意図とする最高価格と売り手がつける値札の間には直接の関係はありません。より本質的な問いは、価格決定はあくまで買い手によってなされるということを認識した上で、その決定要因が何か?その決定要因に影響を与える事業行為はなにか?そのような事業行為を組織的に行うためになにをすべきか?などだとおもいます。

不良債権と価格決定
価格決定に対する考え方次第で、事業戦略と結果(場合によっては国家政策にも)に大きな影響があることを実感したのは、1997年3月以降日本でも活発になった不良債権の売買案件に携ったときです。不良債権の売買価格は当初売買市場が未成熟だったこともあり、常に買い手が価格を決定するという原理を実感するに十分でした。

当時、日本における不良債権売買は誰しもが初体験の取引ですので、おっかなびっくり、かなり保守的に入札価格を設定するところから始まります。余談ですが不良債権の回収を行う外資系企業の責任者の家が放火されたとか、オフィスにネコの生首が送られてきたとか、世界中で噂になったのもこの時期です。時間の経過と共に不良債権投資は当初想定されていたほどリスクがない(どころか殆どリスクがない)ということが明らかになるにつれて入札価格は急速に上昇していくのですが、その間売られる不良債権の質にそれほど大きな差はなかったと思います。買い手の不良債権に対する認識の変化が入札価格の急速な上昇のほぼ唯一の原因でした。

不良債権が安価に売却されればされるほど、銀行に対して公的資金(つまり税金)が投入される額が増加し、投入された税金の多くは投資家である外資系投資銀行やファンドの利益となり、この莫大な利益に対して当時は日本国内で税金が課せられることもなく、こともあろうに投資家の本国(米国など)で課税され膨大な納税がなされている、という非常識な循環が生まれていましたので、この問題を解消するためには一刻も早く売買価格を上昇させ公的資金の投入額を最小限に抑えることが重要なポイントであるべきでした。すなわち国家レベルでの不良債権の価格戦略が何兆億円という税金の使い道を大きく左右する局面だったといえると思います。

価格が買い手によって決定されるという原理を重要視した場合、買い手の数や資金量を増やし、制度の整備などを通じて買いやすさを促進するなど、需要サイドの政策が最も重要であるという発想になるはずです。ところが、当時は売り手が価格を決定するという発想が根強かったせいかどうか、売り手である銀行に対する対処があまりに強調されていたように思います。恐らく日本がとるべきであった金融政策は、高い利益を求める外国資本ではなく安価な日本の金融資産を可能な限り大量に不良債権投資に振り向けるためのしくみ作りを最優先するべきだったと思います。この仕組みづくりに最も活躍できる力を持っていた日系大手証券会社がこの時期に全く機能しなかったことは残念です。

価格決定が売り手によってなされるか、買い手によってなされるかという基本的な問いと認識の違いによって、現実の事業や国家政策の舵取りと、そこからもたらされる成果に著しい差が生じるということだと思います。

価格とは?
「価格は常に買い手が決める」という考え方が仮に正しいとして、そもそも価格とは何でしょう?僕は価格は顧客の意思によって売り手との間で成立する経済行為を表彰する「足跡」に過ぎず、実体を伴わないと考えています。雪山のウサギが経済行為の実体で、ウサギの足跡が価格という感じです。多くの経営理論ではウサギの足跡が経済実体のほぼ全てであるという前提で経済活動を分析しているように思えますが、実際に理解し経営に応用すべきはウサギそのものについてではないでしょうか。そして、ウサギの正体は「顧客の気持ち」だと思います。

一般的な経済理論の考え方の欠点は、ウサギの足跡(価格)を実体として分析を行うため、分析結果が経済行為の本質(ウサギ)と乖離しがちなこと、具体的には、足跡がなければ実体は存在しない、という考え方が基本であるため、足跡を残さないウサギについての分析が完全に無視されること、といえるかも知れません。このような考え方を前提とすると、売り手が商品を提供(供給)し、その商品価格の水準によって顧客が機械的に消費行動を起こすという考え方が採用されがちですが、このような機械的な価格決定モデルは、次善の策とは言え、経営に際して合理的な分析ツールといえるのでしょうか。

例えば、商品は気に入ったのだが従業員の態度が好ましくなかったために買わない多くの(潜在)顧客、同じ商品を買った顧客でも、喜んで人に勧める顧客と、「二度と来るか」と心に決めて立ち去る顧客、都心のデパートで商品を見つけた時は気が向かなかったが、後にリゾートのショップで同じものを見た時には気前よく山ほど買い込んだ顧客、など、このような事例は誰しもが日常的に経験していることだと思いますが、これらの違いはいずれも経済分析の中では存在しないものとして完全に無視されています。現実にはこのような「足跡を残さない」顧客は、実際に購買行動を起こした顧客の何倍も存在するのではないでしょうか。

「足跡を残さない」顧客がどこにどのくらい存在するかを数量的に把握することはほぼ不可能ですが、それが存在しないと考えることは別問題であり、経営的にも非効率です。今まで足跡を残さなかった顧客と実際に購買を行った顧客の合計が売り手の顧客であり、前者は後者の数倍存在するという認識が経営の効率を飛躍的に高める可能性があります。

このような「顧客」を前提とするとき、価格は顧客の気持ちを表彰したもの、すなわち顧客の気持ちがウサギの正体と考えられないでしょうか。経済活動の実体は顧客の気持ちであり、売上とは顧客の価値観と売り手の価値観の接点であり、この接点を選択するのは(上記における大きな意味での)顧客であり、この接点が価格と売上によって表彰されると考えられないでしょうか。このような価格についての考え方を前提にサービス事業を見直すと、経営行動が根本的に変化するというのが僕の経験です。

【2006.11.18 樋口耕太郎】

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ウェブサイト作成の辞退者が続出
このウェブサイトは完成するまでに実に10ヶ月を費やしています。トリニティの会社設立が今年2月3日ですが、それとほぼ同時にウェブサイトを作成しようと考え、自分たちのつてや、紹介を頂いたりしながらウェブサイト作成をして頂ける方とお会いし始めました。作成に関心を持っていただいた方には、実際にお会いして、僕たちがウェブサイトを通じて(あるいはウェブサイトに関わらず)伝えたいこと、伝えたくないこと、僕たちがこのような事業を行うことに至った経緯や出来事、僕たちの事業の目的、なぜそのように考えるか、などを2・3時間くらいかけてお話します。長時間話すのが良いというわけではないのですが、トリニティの事業の背景を聞いてもらおうと一旦話し始めたら最後、気がつくとかなり時間が経ってしまっていることもしばしばで、一部おもしろがって聞いて頂いた方はいるかも知れませんが、内心閉口していた方も少なくなかったかも知れません。

何社に話を聞いていただいたか正確に覚えていませんが、結局みごとなくらいに軒並み断られました。やんわりお断りいただくのはいい方で、人によっては二度と連絡を頂けなかったり、かなり間の悪い間隔があって相当食い違った気まずいプレゼンテーションになってしまったり。始めは熱心に聞き入っていただける方も、だんだんとクライアント(僕)の暑苦しさに押されて、「これは厄介なものに足を踏み入れてしまった」と考えられたかどうだか。

このような惨憺たる状態に陥ったため、数ヶ月経った頃にはウェブサイト作成はほぼあきらめていました。積極的に依頼先を探すことをすっかり止めてしまったころに、今回の作成者、株式会社クリエイターズユニオン の吉田正男さん、打田武史さんに偶然お会いしたことから、ようやくウェブサイトの完成に至ります。クリエイターズユニオンはCMや映画などの芸術的な映像作成が主力ですが、彼らのように映像技術とデジタルメディア双方を理解する質の高い社員を擁しています。美しく機能的な作品を生み出すだけでなく、クライアントの考えにじっくり耳を傾け、より良いものは何かを一緒に追求する真摯な姿勢が本当にすばらしいと思いました。

代理店泣かせ
実は、このような経験は初めてではありません。サンマリーナホテルの経営をしていた時に独自の新聞広告のシリーズを行おうと考え、多くの広告代理店さんと今回のウェブサイト作成と似たような状況に陥ったことがありました。また、細かいことでは名刺の作成ひとつでも印刷会社さんにさんざん作業をさせてしまったことがあります。昔からクリエイターや業者さんにとっては「無理難題かつ意味不明の仕事を発注する不可解かつ悩ましいクライアント」のようです。

僕たちが広告などを発注するたびに「悩ましいクライアント」現象が起こる原因はなんとなく分かっています。一般的な広告代理店業務は「クライアント企業や商品のイメージを高める目的で、ウソにならない範囲で(あるいは多少のウソが混じっても)お化粧をして消費者に伝える作業」、でありがちな反面、僕たちはウェブサイトでも、新聞広告でも、名刺ひとつでも、メディアと広告が果たすべき最大の役割は、企業の本心を表現することだと考えているためだと思います。僅かな違いのようですが、両者は根本的に異なる性質のものです。興味深いことに代理店の方からは「おっしゃることは分かりますが、本当に伝えたいことはなんでしょう?」という趣旨の質問を頻繁に受けました。どうやら僕たちの「本心」が本当に本心だということが信じられなかったようです。

僕たちの考えに基づいて広告(やウェブサイト)を構成するということは、広告代理店(やウェブサイト作成者)にとっては、消費者の視点よりも企業の自然な在り方への理解を優先し、「プロの仕事」をするよりも企業に共感する必要が生じ、納期を厳守するよりも自分らしく楽しく作業することを優先し、優れたデザインやスタイルを生み出すよりもウソのないありのままの企業の考え方を深く理解する必要が生じます。つまり、「企業のお化粧をそぎ落とし、企業の真実を探し、理解し、そのエッセンスを抽出して広告というメディアで表現する作業」といえると思います。こんな話になってくると、大概のクリエイターさんは、「訳がわからん」という気持ちになってくるのも確かに無理ありません。

真実と広告効果
このような「こだわり」には事業的な根拠があります。既に始まっている今後の社会では、情報の質、特にその情報が真実であるかどうかによって、伝達される範囲、速度、コストに想像を絶するほどの差が生じるためです。

そして、情報の伝達範囲、速度、コストが大きく変化するということは、企業における販売とマーケティングのあり方が根本的に変るということを意味します。僕は、ひょっとしたら販売とマーケティングの概念が近い将来殆ど不要になるのではないかと考えており、その可能性を勘案しながら事業戦略を構築しています。実際僕が経営を担当していた頃のサンマリーナホテルではこの点に途中から気がつき広告宣伝を大幅に削減したのですが、ホテルの評判の向上に伴って顧客が増加し続ける現象が生じています。現在の一般的な企業において販売とマーケティングがどれほど重要な経営課題として位置づけられているかを考えれば、その変化が企業に与えるインパクトは相当なものになるでしょう。

シンプルな経営
真実であるということは飾られてないということでもありますので、ウェブサイトなどの作成に当って、いかに情報をそぎ落とすかということが重要な作業になりました。重要なことは、広告が真実であるためには、経営そのものがシンプルにデザインされていなければならないと言うことを意味し、広告とメディアが事業と経営と一体化する現象が生じます。事業と経営のあり方そのものが広告、販売、マーケティング機能を持つと表現した方が正確かも知れません。このような企業では、今まで事業の一部門だった広告機能が限りなく経営に近くなることになるでしょう。

経営において、いかに加えるかというテーマに取り組み実行することは比較的容易ですが、運営機能の一部を効果的にそぎ落とす決断は非常に難しいものです。しかしもし実行可能であるならば、効果的にそぎ落とされた運営は、極めて効率の高い事業構造と結果を生み出すでしょう。また加えることは比較的試行錯誤が可能ですが、そぎ落とすためには、本当に事業の細部かつ全体のバランスについて知り尽くしていなければ実行することは困難だという面白みがあります。

例えば、5つのレストランを有する高級ホテルよりも、ひとつのレストランで高級ホテルを経営する(もちろん顧客満足度はあまり変わらずにと言う前提です)方が一般に難しく、もしこれが可能であれば事業効率は飛躍的に上昇します。情報管理にコストと人材を投入するよりも、開示されても全く支障のない事業運営をする方が遥かに高い事業効率を生み出します。人事上の不公平を是正するために細かい規定を構築、運用するよりも、全面開示を前提に運用を行う方がよほど会社を強くします。人事評価を正確にするために人事考課の基準を複雑にするよりも、いっそ一つか二つくらいに減らしてしまった方がフェアな人事が実現します。

バークシャー・ハサウェイ
バークシャー・ハサウェイ はこのような経営イメージが少し重なる会社で(もちろん会社の規模や実績は比較になりませんが)今回のウェブサイト作成に当ってもバークシャーのサイトをいろいろ参考にして見ました。バークシャーは投資家ウォーレン・バフェット氏が経営する上場会社(ニューヨーク証券取引所)で、連結総資産2100億ドル(約27兆円)、連結総売上810億ドル(約10兆円)という、破格に成功した投資会社の代表銘柄でありながら、一貫して本社をネブラスカ州オマハという田舎都市に置き、連結従業員約19万人を擁しながら本社職員は役員を入れて17名であるなど、非常に独特な価値観によって経営されています。ホームページをご覧になって頂ければ明らかですが、飾り気のない(ダサい?)実質本位の構成は却って新鮮に感じます。デザイン的には美的でも何でもないのですが、企業の在り方を表現するという視点においては、考え抜かれた無駄のない構成だと思います。日本の大企業がこのように素朴なホームページを作成することを想像できるでしょうか。

バークシャーの年次報告書は金融業界や経営者からも毎年注目されていますが、そぎ落とすということが経営においてどのように価値を生むかについて考えるいい参考資料でもあります。年次報告書の中でもバフェット氏が書いているchairman’s letterは特に有名で『バフェットからの手紙』という書名で日本語も出版されています。

【2006.11.11 樋口耕太郎】