お元気ですか?
街にクリスマスキャロルが流れるころ、北風は寒くても心はウキウキしてきますね。
クリスマスはだれもが幸せを感じるシーズンです。
このクリスマス、実はキリスト教よりも古い起源をもっていることを
ご存じでしたか?
クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うものではありますが、もともとは
ローマで行われていた冬至の祝祭をキリスト教が取り入れたものだと
いわれているのです。冬至の日、昼が一番短くなりますがこの日を境に光は
また徐々に復活していきます。光の死と再生を祝うとても大事な祝祭だったようです。
クリスマスのころ、人々の希望がもう一度復活します。
贈り物をしあうのは、そのことをお互いに歓び、わかちあうため。
また、このころには、目には見えない世界からたくさんの妖精たちもやってくると
されています。
このクリスマスのシーズンにあなたの心にある希望にもう一度、目を向けてみては
どうでしょう?

文筆家の松浦弥太郎氏がヘンリー・ディヴィッド・ソローの「森の生活」について
書いておられるのを読んで懐かしくなりました。
私が読んだのは何歳の時だったかなぁ。

「気持ちのよい春の朝には、すべての人間が持つ罪は許されている…」。

私はこの一文がとても好きです。朝、目が覚めてから部屋の窓を開けたとき、
この一文を、あたかも祈りの言葉のように唱えることがあります。
そんなときは、疲れていたり、弱っているときかもしれません。
季節がいつであろうとも、気持ちのよい朝は、どこにいる誰にとっても、
心が新しく生き返り、安らぎと平和と慈愛に満ちたひとときなのでしょう。
そして夜になり、明日になれば、そんな朝は必ずまたやってくる。
なんてすばらしいのだろうと思うのです。
朝がまたやってくるなんて、当たり前すぎて、なにを言っているのだろうと
思われるかもしれませんが、当たり前のことにこそ、その一つ一つにありがとうと
感謝したい。いつもそこにある、当たり前のことが、私達の日々の暮らしを
助けてくれているからです。

今年もいろいろと不安なことや悲しいことばかりが起きる世の中でしたが、
リスが夏の間に、冬のための木の実をたくわえるように、そういった出来事にも
感謝し、麗王にいらしてくださるみなさまとの語らいのために、来年からもまた
努力を積み重ねたいと思います。

人は話すことで、心の内を整理しています。
もし私の周りに悩んでいる人がいたら、話し相手になりたいなぁと思って
19年前にはじめた麗王でもありました。
なにも意見を言わなくても、ただ話を聞くだけで、相手の気持ちが
落ち着くはずではと思ったからです。

そうして学んだことの一つは、人にやさしく接するということは、
細かく世話を焼くことではなく、その人の状態にあった態度で接する
ということでした。過干渉は、かえって相手の不安を大きくしてしまいますから。
でもこれがまたなかなか難しい。その人の状態をちゃんと知ることも、
それにみあった態度とは何かを見つけることも。

人が集まれば、その数だけ価値観や考え方があります。
自分が周りにどう見られているかを気にしすぎると、自分が感じていることや
思っていることを、素直に表現するのが難しくなってしまいます。
「私は私。あなたはあなた。」なのです。

なので、意見の食い違いを恐れてはいけないのです。
他人と意見が食い違うことはよくあること。
大切なのは、意見が食い違ったときに、お互いにどう歩み寄ることができるか
なのだと思います。

そのなかでは時に、人に傷つけられたり、人を傷つけてしまったりということも
起こってきます。傷つけられた方も、傷つけた方も、苦しまねばなりません。
そして、どれほど苦しんでも、傷は癒えないかもしれません。
他人はどこまでいっても自分の思い通りにはなりませんから。
たとえ、相手から「もう気にしてないよ」なんて言われても、そう単純には
救われないですよね。
考えてみれば、私達は人を傷つけ、嘘をつき、自分をも傷つけながら
生きていくしかないような存在です。
だから人を傷つけた苦しみを背負ったまま生きていかねばなりません。
そして、そのことをごまかさず、きちんと背負うのです。
ひとつ間違えれば、自分を守るために大切な人さえも傷つけかねない、
それが私達の実相です。
そのことに自覚的であるか、無自覚であるか、そこが分岐点なのでは
ないでしょうか。
自覚的にあろうと決意して、踏み出した一歩先に救いの扉があるように思うのです。

さて。
今年も残すところ2週間ほどとなりました。
この一年本当にお疲れさまでした。
今年もいろいろと苦労があり大変でしたね。
あなたは今どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
お疲れになっていませんか。
心配事はございませんか。
夜はよく眠れていますでしょうか。
ご病気などされていませんでしょうか。
楽しいことはありましたか。
困ったことなどありませんでしょうか。……

日々麗王に立ちながら、ふと手をとめて、こんなことばかりを思います。
あの人のお顔、この人のお顔…。
とても不安定で、不景気な今、たくさんのお店の中から、麗王を選んで
いらしてくださることが、どんなにありがたいことかと考えると、
こんなふうにみなさまのことを思わずにはいられないのです。
この前いらしてくださった時、何かひとつでもお役に立つことはできただろうか。
行ってよかったと思っていただけただろうかと、一人一人のお声を聞きに
お伺いしたい気持ちで一杯です。
いつものように麗王に行ってはみたものの今日はつまらなくて損をしたと
がっかりされないよう、みなさまの大切なお金を無駄にしないよう、
隅々まで心を配り、そしてみなさまにどんなふうに楽しく時間を
お過ごしいただこうかと深く考えながら、大きく反省もしながら、
お一人お一人の肩にそっと手を当てるような気持ちで、
これからも麗王に立たせていただきます。
みなさまのおかげで、こうしてまた一年間、麗王を続けることができました。
本当にありがとうございました。
どうか来年からもまた麗王にいらしてくださいますよう心からお願い申し上げます。

あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように。
そして、あなたがどうかこの上もなくお幸せでありますように。

【2013.12.19 末金典子】

カレンダーも残すところもうあとひと月ちょっととなりましたね~!
本当に月日の経つことの早いことったら!

今年の麗王は女性のお客さまが多くて、カウンターのお客さまのほとんどが女性
なんてことも少なくありませんでしたし、
男性でも以前のように既婚者が圧倒的というのではなく、
バツイチや(マルイチと言ったほうがいいのでしょうか)、
独身の方も多かったように思います。
そんななかでよく耳にした言葉が「出あいがない」という悩みについてでした。

でも、実際私達は毎日のように、なにかに出あっています。
それが「運命の恋人」のようなものでなくとも、道端で見かけた新しいお店や
季節の移り変わりを教えてくれる花達、はっとさせられるような誰かの優しさなど、
さまざまなものに出あい続けているわけです。
出あいは「単体」ではなく、一連の小さな出あいの連鎖が、
最終的に大きな出あいに結びついていきます。これは、特に珍しいことでは
ありません。
例えば、友達に出あうこと、親戚に会うこと、好きな仕事に出あうこと。
それが、結婚や出産などの縁に結びついていくことが、実際、非常に多いわけです。
小さな出あいを大切にすくいあげていくうちに、それらが飛び石のように、
私達を特別な出あいの場所にいつのまにか、導いてくれるのです。

私は星占いも好きなのですが、この世界では2013年の後半から来年の夏までは
「水の時間」と言われています。
水は、霊的な世界とこの世との触媒になるらしく、
だからなのか私は夏場でも毎日お風呂にしっかり浸かっていますし、
住んでいる自宅は海の真ん前にあって、海沿いの道は車にも遭わず、
途中には何本かの川も流れているなど、日課である夕方のランニングに
ちょうどいいコースになっていて、水に近いそんな暮らしを
私は結構気に入っております。
海の波が寄せては返し、川の水が流れているという景色は、
取るに足りないことですが、私にとっては、日々のささやかな癒しになっています。
気持ちが落ち着かないときや、何かあって悲しいとき、気分がすっきりしないとき、
水辺をぼんやりと眺めながらゆっくり走るのです。
あなたには、何かあった時、ぼんやりできる場所があるでしょうか。

川の流れを見ていて、いつも心に浮かぶ好きな言葉があります。
「流水不争先」(流れる水は先を争わない)という中国の教えです。
水はかたちも無く、どんないれものにもこだわりなく入ることができます。
傾ければ下に流れるようになすがままです。
自分自身が、水のように自由自在で、ゆるやかで流れるようであれという教えです。

川の流れをぼんやり眺めていると気づくのです。
まっすぐまっすぐ流れようとしがちで、頭でものごとをあれやこれやと考えて、
いつも先を争って、流れる川になることができない自分がいることを。

力を抜こうよ、
素直さや、心の柔らかさを取り戻そうよ、
何でも受け入れようよ、
と川の流れは教えてくれます。

また、星占いの世界では、水は、感情、すなわち、喜怒哀楽を表します。
感情を表に出すことを恥ずかしがる人は大勢いますが
(特に沖縄は多いような気がします)、人と人とを結びつけるものは、まさに
感情でしかありません。
もし、この先大切な出あいを望むならば、今出あったもの達に感情ゆたかな
レスポンスを返していくことこそが、心から望むものにたどり着くためのコツ、
と言うことができるかもしれません。
つまりは、出あった相手にしっかりと向き合い、恐がることなく喜怒哀楽を
しっかりと伝え、また相手の感情もしっかりと受け止め、お互いの心を
触れ合わせていくという作業です。

そして、水のようにいつも透明であり続け、流されるのではなく、
自分自身で、自由自在にゆるやかにさらさらと流れていきたいものですね。

さぁ、明日は今年のボジョレーヌーボーが解禁となる日。
日々いろんなものに巡りあい、新たな気づきを得て成長を続けている
あなた御自身への御褒美に、人生を豊かにしてくれる今年の新しいワインを
プレゼントしてあげてくださいね。

(麗王では今年もJAL国際線ファーストクラスで唯一採用された
EUオーガニック認証ボジョレーヌーボーを御用意いたしております。
酸化防止剤は入っておりませんので安心してお召し上がりください。)

【2013.11.20 末金典子】

今回の台風は来るような来ないような、のろのろ・ゆるゆる台風ですが
なんだかもう大丈夫なようですね。
そして季節は秋へ。
来週はハロウィンです。
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。
その後、多くの聖人たち(Hallow)を祝う万聖節となり、近年、欧米では
魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を回ったり
仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのこと。
このハロウィンといい、クリスマスやバレンタインデーといい、
もう日本のひな祭りやこどもの日のような「年中行事」になりつつありますね。

私の祖母や母は、関西人ということもあってか、とにかく「年中行事」や
「お祝い事」を大切にしていて、五節句やお誕生日やクリスマスなどはもちろん、
1月はお正月にやるべきことはひと通り。松の内があけると同時に七草がゆ、
11日は鏡開き…などとしきたり通りに行事を次々にこなし、
それだけでとても忙しい家族でした。またそれをいつも生き生きと楽しそうに
こなしているようでもありました。

もともと前向きでエネルギッシュな関西女達だからそういうことを楽々と
こなすことができるのだろうとずっと思っていたのですが、ある時ふと
それはまったく逆ではないかと思うようになりました。
つまり、毎月毎月確実に訪れる行事を、ひとつひとつきちんとこなすごとに、
ひょっとしたら命を浄化して、生命力を高めてくれるような作用が
あるのではないかと、そう思い始めたのです。

言うまでもなく年中行事は、そもそもが神さまをまつるために宮中で始まったもの。
宗教的な意味合いがとても強いものの、民間では豊作を祈るものだったりして、
どちらにしても人が生きるうえでの重要な意味を持たされていました。
その語源は、毎年恒例の行事を忘れないように書き記された表に
由来するということで、そこはとても人間的。でも宮中の人々はそれらを次々と
こなすことを生きがいにしていたのではないでしょうか。これほど「退屈」を
回避し、「達成感」を得ることができるものもないから。

人生の「節目」は、苦悩や試練を伴うこともあるけれど、
人はそれこそ「節目」がないとうまく生きることができません。
節も何もない1本の棒を登っていくのは不可能で、「節」があるからこそ
それを足掛かりにして、危なげなく上へ登っていくことができるのです。
だから「節目」の多い人ほど高みに昇ることができるのだと私は思います。
何のひっかかりもないつるりとした平坦な人生を生きている人は、
うっかりすると同じ場所にぼんやり居続けたりしかねません。
上へ登る気力も体力も必要ないから、身も心も生き方も脆弱になっていく。
何もない退屈な日常をただぼんやりと生きていると、前向きさもエネルギーも
いらないから、人間が輝かないのです。

だとすると、朝昼晩、1ヶ月1ヶ月、そして春夏秋冬と区切りをつけ、
別々の時間としてきちんきちんと生きる人が、生き生きしていて幸せなのでは
ないでしょうか。
その区切りもただただ暦を眺めているだけでは少しも区切られません。
そこは昔人の知恵。人をぼんやりさせないため、それぞれに意味もしきたりも
違う「年中行事」が生まれたのでしょうね。それは人間が生き生きと1年を紡ぎ、
1日1日を幸せに営むための意外な手段なのでしょう。

また、年中行事は「ひとり」でやるものではなく、そのたびに家族が集まって
お互いの無病息災を願い合います。当然のことながら絆が深まって、
その「特別な食卓」を囲むとき、人は無情の幸せを感じます。
だから「年中行事」をきちんとやる人ほど、忙しいけれど生き生きとしているし、
決してぼんやり年をとらないから、いつまでも若々しいのでしょうね。

さぁ、月末のハロウィンはあなたも子ども心に戻って楽しんでみてくださいね。
私も魔女の扮装であなたをお待ちしております!
え? 扮装しなくても魔女ですって?

麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!

猛暑の夏も少し落ち着き、お盆も過ぎて、
今月は重陽のお節句や十五夜のお月見、敬老の日・秋分の日の連休と
もう秋の訪れですね。
あなたは夏のお疲れなど出てきてはいませんでしょうか。

私はといいますと、先月の旧盆の時にお誕生日を迎え、あたたかなお誕生日会を
開いていただき、思い切って4連休の夏休みも取らせていただきました!
4日間もお休みがあると、心身ともにほっと落ち着いて、
日頃の疲れが日を追うごとにゆっくりゆっくりと出てきます。
いつもなら短い睡眠時間でもぱっと目が覚めるのに、4日間もお休みして
のんびりしているにもかかわらず、どこまでも毎日たっぷり眠れてしまうのですから
もうびっくり! 知らず知らずのうちに疲れって溜まっているものなのですね。
で、その4日間一体何をしていたのかといえば、いつものお休みの時と
なんら変わらず、たっぷり眠って、ランニングして、お風呂にゆったり入って、
手の込んだディナーを作って食べて、後はもう、観たかったDVDと
読みたかった本を心ゆくまで…の繰り返しでした。

でもそうしてのんびり過ごしていると「ぼうっと」する時がしばしばあるのです。
人間って誰しも「ぼうっと」する時がありますよね。
たとえば、会議やセミナーなどの席で話がわかりにくい時や、好きな人ができた時、
何かしら衝撃的なことが起こった時、ついつい飲みすぎてしまった翌日などには、
ぼうっとしている人が多いのではないでしょうか。
私など子供の時からいつも空想の世界に入っておりましたので、
頭の中は動いていたとは思うのですが、傍から見るとぼうっとした子供に
みえたかもしれません。

人間は一日の三分の一の時間は空想にふけっているそうですが、
ぼうっとした外見で判断してはいけないそうですよ。
心理学の研究から、脳はそのような時に休んでいるのではなく、
活発に動いていることがわかっているそうです。
私もよくランニングで海べりを走っている時やお風呂に入っている時などに
とてもいいアイディアが浮かんできたり、何かを思い出したりします。
英語では、物思いにふけっていることを「デイ・ドリーミング」、つまり
昼間に夢を見ているといいますが、夢同様すぐに書きとめておかないと
いつの間にかその時に思いついたことを忘れてしまうという事実も興味深いですね。

たとえ脳が一所懸命に回転していたとしても、傍から見てぼうっとした状態を
「心ここにあらず」とも申しますが、それでは心はどこにいるのでしょう。
脳や理性に対して心、気や魂が別に存在するのなら、ぼうっとした時に、
この心や気、そして魂は休息をとるのでしょうか。
もしかしたら、どこか素敵なところに出かけてしまうのかもしれませんね。
問題を引き起こすのも、希望を現実に変えるのも、共に同じ心の働きによるのだと
考えるとこれもまた興味深いことですね。

最近は心の病に苦しむ人の話題があとを絶ちません。
ぼうっとしたあとに「我に返る」、呆然としたあとに「気を取り戻す」などと
いいますが、心や気、魂という無形の存在にも、身体の一部分である脳と
同じように元気でいてもらわなければなりません。
あなたも秋の爽やかな青空を眺めながら、ぼうっと考える時間をつくり、
それが「良い時間の使い方ですよ~」と訴える心の声に耳を傾けるところから
ぜひ始めてみてくださいね。

私はそんなふうに夏休みの4日間をぼうっと過ごして、
ふと浮かび上がってきた言葉がありました。

「毎日ひとつ、心が躍ることをする。」

「私が82歳まで生きながらえた秘訣」とオノ・ヨーコさんが言われた言葉です。
自分自身、もしくは誰かの心が躍ることを三ヶ月間、毎日続ける。
すると、だんだん身体の調子がよくなってくるのがわかるそうです。
「そうやって、私は、82年かけて健康になったのだと思います。」と
おっしゃるのです。
あなたは心躍ることがありますか?
今ワクワク、ドキドキしていますか?

「生きながらえる」という言葉もオノ・ヨーコさんはよく使われます。
ここまで生きながらえたことが、素直に嬉しいと。
やりたい仕事がまだまだある。まだまだ知らないことがある。毎日毎日発見がある。
もっともっと生きたいと。

長生きしたい。幸せになりたい。カッコよくなりたい。健康でありたい。
それは人の根源的な願いであり、人として輝くことにほかなりません。
あなたは、その願望にきちんと向き合っているでしょうか?
あなたが輝くことが、周囲を、そして世界を変えていきます。
毎日ワクワク、ドキドキして一緒に生き続けましょう!

生きるって楽しいことですよ~。人生はいいものです。
まずそう信じること。そこからすべてが始まります。
あなたもどうぞいい人生を。心からそう願っています。

【2013.9.12 末金典子】

今年は特に暑さが厳しくて、猛暑の毎日が続いておりますが、
暑さに負けずにがんばってお仕事にお励みでしょうか。

さて、過日のことですが、麗王でもお馴染みの沖縄大学准教授・樋口先生と
お話しようと、沖縄大学に息子さんを通わせておられるお母さま達が麗王に
いらっしゃいました。
(お母さま達と言っても私よりもうんと若くお美しい方達ですが。)
お話をうかがってみると、樋口先生の授業を受けてから息子さん達が
イキイキとし始め、前向きな人生を送るようになり、
態度も激変してきたのが嬉しくて、いったいどんな授業を受けているのかしらと
興味が湧いたので、樋口先生の社会人向け「次世代金融講座」を
受講しておられるとのこと。旦那様も巻き込んで一緒に受けておられる方も
いらっしゃいます。

私も学生時代に教育学を少しばかり齧った人間なので、この方達のお話を
うかがいながら、改めて教育っていったいどういうことなのだろうと
考えました。
教育(education)という言葉の意味は、ラテン語のエド(ed)、つまり何々から
というのと、ドゥカール(ducar)、引き出すという二つの言葉からできています。
つまり、何々から引き出す、または内部にあるものを引き出すという意味です。
ということは、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
教育とは、その人がもうすでに知っていることを引き出す、
その人本来のものを引き出す、ということなのではないのでしょうか。
私達が輪廻転生を繰り返しているとすれば、私達はもうすでに何回も
学んできたはず。だから私達はそれぞれ、ものすごい知識と経験を
前世から得ているに違いありません。
きっと昔の人は、教育とは人々がすでに知っていることを見つけるのを
手伝うだけだと知っていたのではないでしょうか。
本当の私達はすべてのことをすでに知っているのかもしれません。
今改めて読んでいるプラトンの「国家論」の最終章にも出てきますが、
どうもプラトンやソクラテスもそう信じていたようなのです。

また、あるお母さまは、息子さんのことで悩んだ時期もあったけれど、
親御さんの介護をしておられる時にウツも経験され苦しまれたということでした。
女の子ばかりの姉妹の末っ子に生まれた彼女は、介護をしてあげているお母様から
「男の子を期待していたのに、あなたなんて産まなければよかった」というような
内容のひどい言葉を投げられたそうなのです。
私も父から言葉の暴力を受けた思いがあるので胸に応えました。
これまた、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
時には、血のつながった家族が本当の家族ではないことがあるように思うのです。
あなたの両親、兄弟姉妹、親類が、あなたを理解しないこともあります。
あなたに愛と思いやりを示さない場合もあるでしょう。
あなたを拒否し、残酷に扱うかもしれません。
あなたには非人間的に扱われても仕方ないような負い目はありません。
家族であろうと何であろうと、その人達の虐待的行動のターゲットに
なることによって借りを返すといったカルマ的な責任はあり得ません。
誰かを虐待し傷つけるのは、虐待する人の選択や自由意志による行為です。
虐待が当然だということは、絶対にありません。
でも、もっと成長すると、自分を本当に愛してくれる友人や知人に囲まれるように
なります。尊敬と敬意をもって愛され、大切にされることによって
得ることができる安心感を、彼らはあなたに与えてくれます。
こうした友人や知人は本当の家族となります。彼らはあなたと同じ霊的な価値観を
持っているかもしれず、あなた方はお互いに助け合いながら、良き方向へと
成長してゆくこともできます。
こうした人々は、あなたの魂の家族です。血のつながった家族から拒否されると、
魂の家族があなたを受け入れ、育て、そしてあなたにとってとても大切な家族と
なります。
血は水よりも濃いという、昔の格言があります。
これはつらい時に、たとえ友人知人があなたを見捨てても、血のつながった親類は
助けてくれるとあてにできる、という意味です。もし、本当に血は水よりも
濃いのであれば、魂は血よりも濃いのです。あなたのためにそこにいる魂の家族は
どんな時にも頼りにできるのです。

じゃあどうして実の親子は傷つけ合ったりするのでしょう?
実は、私達は両親を選んで生まれてくるそうです。
このお母さんの子供に生まれよう、この人をお父さんにしようと決め、
相手と約束して生まれてくるのだそうです。
「こんな家族の下に生れてきていやだった」と言う人が時々いますが、
これはとんでもないことで、私達はこの世界に生まれたくて、自分で親を選び、
彼らにお願いしてここへと生れて来ているのです。
もちろん親のほうにしても、お願いされるだけではなく、
「このような子供がほしい。ついてはこの人に子供として生れてきてもらおう」
と決めていたわけですから、お互いさまだとも言うことができます。
そんなこと信じられないと言う人もいるかもしれませんね。でも、最近の子供達が
このことをどんどん証明しています。
「僕はお母さんを選んで生れてきたんだ。とても優しそうな人だったから」
「お空にいたころ、どの人がいいかなぁと思ってお母さんになってくれる人を
探していたよ」
などとお話しする、小さな子供達がいっぱいいるのです。
(こういう事例の研究は社会学者・飯田史彦さんの一連の著書「生きがいの創造」
などに詳しく書かれています)
両親と子供の関係が悪いこともよくありますが、そんな親子でさえも、お互いに
選び、頼み合って親子となり、この世にやってきたのです。
子供は、自分に必要な試練を与えてくれることを期待して親を選ぶことも
あるからです。
反対に、子供のことで苦労して成長したいと願って、子供と約束してくる
お母さんやお父さんもいっぱいいます。
とくに今は、多くの人達が自分の本質や魂の世界に目覚めようとしている時代です。
親子関係から魂の目覚めと探求を始めようと、親と子供がお互いに必要な
学びのために約束し合って生まれてきています。
そう考えると、親子の関係がどうあれ、お互いに感謝し合うことが大切だと
思うことができるような気がしますよね。

人は誰でも、人とのつながりを求めているのです。つながりを確かめるために、
人はマイナスの行動にでも出てしまう生き物ですから。
生理的未成熟で生まれてくる私達人間という生き物は、
生まれてからしばらくの間、誰かの優しさをもらわないと生存できない存在
なのです。
だから、赤ちゃんは、存在をかけて必死で泣きます。
大人になった私達は、泣かないまでも、心で叫びます。
「誰か、私のこと、知っていますか!」と。
絆。つながり。
自分で生きていくことができる大人になった今でも、他者とのつながりは、
根源的に大切なものであることを本能の部分で知っているのです。

そんなこんなを週末の七夕の空を見上げながら考えました。
さぁ~、これからまたありがたくも麗王で知り合うことができたみなさんのお話を
じっくりうかがうのが楽しみになってきました!
次の連休は海の日。あなたの大切な人とぜひお出かけくださいね。

【2013.7.11 末金典子】

あれ?梅雨ってもう終わったっけ?というほどいいお天気が続いていて
気持ちのいいうりずんの頃ですね~。
でもさすがに今日はちょっと雨模様って感じでしょうか。
あなたはお元気にしていらっしゃいますか? 素敵な毎日を過ごしておいでですか?

今日はまずまずいい一日だったなぁ。私は、一日の終わりに、そう思います。
毎日そう思うのですから、かなりのんきな人間だと思われるかもしれません。
私の暮らしは、ごく普通で、特に恵まれている訳でも、幸運ばかりの人生でも
ありません。いいこともあれば、悪いこともあります。ラッキーなこともあれば、
不運なこともあります。
疲れた日。うれしい日。何もなかった日。怒りがおさまらない日。くやしい日。
悲しかった日。楽しかった日。
毎日というのは、くるくる変わり、そこには、楽しいことも、嫌なことも、
いっぱい詰まっています。
けれども、どんな日であれ、一日の終わりには、今日もまずまずいい一日だったなぁ
と思います。たとえその日に嫌なことがあったとしても、私は何かを見たり、
聞いたり、感じたりしながら、今日一日をまるごと体験し、五感と思考、
喜怒哀楽の感情を持ったひとりの人間として、今日という一日を生きたのですもの。

以前にも書かせていただきましたが、私は麗王を始めた17年前から
「今日のいい事日記」を書いています。
一日の中で良かった事をひとつ捜して書くだけです。
今、その日記をパラパラとめくってみると、
「お天気が良くて、お洗たく物がカラッと乾いて気持ちがいいなぁ」
「お客さまに、やせたね、と言われて嬉しい」
など、些細なことが多いですが、それを幸せだと感じられる喜びを知り、
また心の持ち方ひとつで毎日が変わるんだとも学びました。
どんなにちっぽけなことでも、寝る前にひとついい事を見つけると、
あぁ今日もいい一日だったなと思うことができ、感謝する気持ちが大切だと
気づくのです。
こんな日もあります。「今日はほんとサイテーなことがあったなぁ。
でもサイテーを100%経験できたし、まずまずいい日だった。」
ちょっと理屈っぽいかもしれないけど、そんなふうに、ありのままの一日を
受け止めて、素直にいい日だったと思うことができるのです。
今あらためて「今日のいい事日記」を見てみると、
今日のいい事が集まって、あっという間に17年。
私って実は17年間毎日幸せだったんだなぁなんて単純に感動してしまいました。
幸せは自分の心の中にあるもの。
幸せがやってくるのをじっと待つだけではなく
見つけ出すことのほうが大切なのだとしみじみ思いました。

毎日というのは、虹みたいなものだなと思ったことがあります。
虹はいろんな色が集まってできています。仮に色がひとつしかなかったら、
たぶん虹を見るたびに感動することはないでしょう。どんないきれいな色でも、
いつもいつも同じ色だったら、きっとすぐにあきてしまうにちがいありません。
毎日というのもそれと同じで、いろんな出来事があって、いろんな感情が
湧いてきて、だからこそ、楽しいことを楽しいと思うことができ、
悲しいことを悲しいと思うことができるのではないでしょうか。
毎日が楽しい事だらけだったら、楽しいと感じることさえ
できなくなってしまうかもしれません。
今日一日を振り返ると、どんな一日だったでしょう。
一杯のお茶がおいしかった日。自分が無価値に感じた日。猫が甘えてきて
うれしかった日。涙がぼろぼろ止まらなかった日。穴があったら入りたい日。
空がとても青かった日。
小さな事から大きな事まで、毎日というのはいろんな色を持っています。
私達はたくさんの色を通り過ぎながら、ひとつの大きな虹をかけているのでは
ないでしょうか。
もうそろそろの梅雨明けの虹が楽しみですね。

そういえば、沖縄に引っ越してきた24年前、初めて空いっぱいにかかる大きな虹を
見た日が父の日でした。父に電話をかけてその話をしたことを覚えています。
今週末の父の日にはどんな話をしようかな…。

【2013.6.13 末金典子】

ゴールデンウィークはのんびりなさいましたか?
私はといいますと、おうちでひたすらのんびりと本を読んだりDVDを観たり
お料理を作ったりして過ごし、それだけでは太る~!っと、ランニングもしっかり
こなした連休でした。

さて、この週末は母の日ですが、あなたのお母さまはどんな方ですか?

私の母は、昭和9年生まれの79歳で、学校を卒業するとすぐに祖父の代からの
洋食レストランで働き、数年前に引退するまでずっとレストランの看板として
店を切り盛りしてきた「大阪下町のおばちゃんアイドル」のような女性なんです。
以前も書かせていただいたことですが、母は子供である私が言うのもなんなのですが、
いつもすること言うことが仏さま・観音さまのような人なのです。
例えば、私が子供の頃、母と一緒に一緒にゆうげのお買い物に行く途中、
道端のお乞食さんに出会うということがありました。
すると母は、自分のお財布の中に1000円しか入っていなくても、
今日使うことができるお金を惜しげもなく全部あげてしまうのです。
それも迷うことなく間髪をいれずにさっとあげてしまうのです。
私達の夕食のお買い物にあてるお金を全て、です。
私が「なんでぇ? 今日のお夕食はどうすんの?」と聞くと、
母は決まって「お家にあるもんですませよね。」と言うのです。
「コロッケ作ってくれるって言うたのにぃ。」と恨めしく言う私に、
「こういうことを“お布施”って言うねんよ。
考えてごらん。もしもあのお乞食さんが神さまやったらどうすんのん?
それに、お布施はしてあげるんやないよ。させていただくんやで。
させていただくことによって私達の心の中に清々しい気持ちが湧いてきて
その気持ちを逆に恵んでいただいてるんやよ。
そういう世界に私達を導いてくれはるために神さまがお乞食さんの姿に
なってはるのかもしれへんやろ?
あげてるんやなくて、もらっていただいてるんやよ。」と。
はぁ~、お坊さんだったおじいちゃんにして、この娘あり、って感じですよね~。
まぁ、そんな母でしたので、レストランには、純粋に「布施名物のコロッケ」や
洋食を食べにいらしてくださる人達の他に、いろいろな悩み事を抱えた人達が、
相談やお話をなさりに連日わんさかといらして、母はただただみなさんのお話を
じっくりとうかがっていたものです。

母親がこのように家業でお商売をしていたものですから、私も子供の頃から必然
学校から帰ってきてランドセルを置いたらすぐにお手伝いです。
遊びにも行けません。限りないお皿洗いに、寸胴いっぱいのゆで卵や海老の殻むき、
ダンボール箱にいっぱいのじゃがいもやにんじんの皮むき、紙ナプキン折り、
フライ売り場の売り子さん、ウエイトレス…。
それが終わったら暖房も冷房もない倉庫で、みかん箱の机と裸電球で宿題です。
今思えば、けなげ~。 だから、私は子供の頃に誓ったことがあります。
「大人になったら絶対商売人になんてならないから!」と。
それが何の因果でしょう…。結果、自分もお商売をし、いろいろな方達のお話を
うかがわせていただく毎日を送ることになるとは…。
ただ、母と私の違うところは、私はお節介でせっかちなところがあって、
みなさんの悩みやお話をうかがううちに、解決してあげたいという想いから
「ではこうしたらどうでしょう?」なんてつい言ってしまうんです。
でも、母の日を前に、母の仕事をゆっくり思い出し気づいたことがあります。

悩みに押しつぶされそうになる人、心を病む人というのは、
もともと心が純粋で、繊細なのだと思います。
心に傷を負った時、すぐに家族や友人達の中に支えてくれる人を見つけることが
できればよいのですが、それができないと、どうしたらよいのか自分では
わからなくなって、精神状態が大変不安定になってしまいます。
そのような人達がレストランにいらっしゃると、母は、その人の話したいこと、
思っていることを全部うけとめて聞くようにしていました。
「あなたはそう言うけれど、それは間違っているわよ」とか、
「こうすればいいのよ」とか、途中で話をさえぎるようなことはしません。
そのようなことをすれば、相手は開きかけた心をまた閉ざしてしまいます。
また、ただぼんやりと聞いているだけでは、相手もなかなか話してはくれません。
そこを母は「そうやね」「それは大変やったね」と、自分をその人の身に置きかえ、
共に喜び、共に悲しむという気持ちで聞いてました。
そうすると、自分が受け入れられているという安心感からなのでしょう、
次から次へと、みなさん心の内を話しておられました。
そうして最後には、母がその人に最も伝えたいと思っていることに
自分で気がつかれ、自分で答を出しておられたように思います。

そうなのですよね。
悩みを抱える多くの人は、本当はどうすればいいのか、自分でわかっています。
ですから、ああしなさい、こうしなさいと、アドバイスめいた指示をするのではなく、
そばにいて共感し、その人が自分なりの解決の方法を見つけるのを
お手伝いすることが、私や麗王が、いらしてくださる方のためにできること、
もしくは少しでもお役にたつことができることなのではないかしらと
改めて感じました。
支えるとは共にいることであり、寄り添うこと。
そんなふうでありたいなと思っています。

あなたがお母さまから学ばれたことはなんですか?

【2013.5.9 末金典子】

もう梅雨入り!?と思ったほどじとじととお天気が悪い日が続いている沖縄ですが
あなたは毎日心晴れやかにお過ごしでしたでしょうか。

今回の麗王便りはゴールデンウィーク前ですのでいつもより少~し長めに
お送りいたします。ゆっくりお読みになってみてくださいね。

麗王という店は「会話すること」以外何もない店ということもあってか、
お客さまはみなさんとても知性的且つ個性的。
いつも感じ入りつついろいろなお話をうかがっているのですが、
たまに新しくいらしたお客さまから
「麗王のお客さまって変わった方が多いですね~。」と言われることがあります。
実は私はそういう意見を聞くと嬉しくなってしまうのです。

子供から大人になる過程で、私達は、平均的であることをまわりに強要されて
育ってきます。「協調性」と「平等性」という名の個性切りが続くと、
私達は自分自身のユニークさを忘れていきます。
社会人になっても、平均点を重視するマニュアル型の会社で働くようになると、
いよいよ完全に自分の個性を忘れてしまいます。
でも思い出してほしいのです。
もともと人は、個性あふれる存在だということを。
他人の個性をまねるほど個性が不足している人は、一人もいないのです。
個性を表現していないから忘れているだけで、なくなってはいないのです。
個性を思い出すヒントは、たとえば、あなたが感じる「違和感」の中にあるのでは
ないでしょうか。
同じような違和感を何度も感じたとき、それは眠っていた個性が無意識に
反応している可能性が高いのです。

例えば、会社員の方ならこんな違和感をお感じになられた方は
いらっしゃいませんか?

ある方がお話してくださったことですが、
新入社員の時に毎年、問答無用でアップされる売り上げ目標を達成するために、
毎日夜遅くまで残業する先輩社員に向かって、
「なぜ、毎日皆さんこんなに遅くまで仕事をするんですか?
売り上げの拡大が社員を幸せにしないのであれば、ちょうどいい売り上げ規模で
皆が無理なく仕事ができる方法を会社はなぜ考えないのでしょうか?
一体いつまでアップし続け、売り続けたらたらいいのでしょうか?」
先輩社員は、「わかってないなあ」という顔で苦笑いをして、この質問には
答えてくれませんでしたが、その方はずっとこの青臭い疑問を持ち続けておられる
ということでした。

他にもこんな違和感はありませんか?

商品をモノとして売るだけの営業アプローチへの違和感。
売り上げ至上主義から派生する、お客さまを顧みない売り込み型営業手法への
違和感。
「戦略」「戦術」「戦力」「囲い込み」「攻略」といった、お客さまに向かって
使っている「戦争用語」への違和感。
価格を下げてお客さまに満足を提供するという手法への違和感。

こんな違和感を感じてしまう自分は、「きっと変わり者なのだろう」と思って
少し落ち込みながらも、違和感を捨てずに心に秘めながら
お仕事をなさっておられませんか?
社会に出れば、不条理な出来事は日常茶飯事ですから、いちいち正論を
主張していたら組織からはじき出されます。
普通は、折り合いをつけながら、「大人」になっていくのでしょうが、なかには
主張することも妥協することもしないで、会社の内外で、「どうすればいいのか?」
の答を探し続けておられる方もいるのではないでしょうか。

でも、こういう違和感を、新しいノウハウやメッセージを生みだす重要な要素に
替えた方もいらっしゃいます。
説得話法ではなく納得話法で話し、会社の大規模な業績向上に貢献したり、
戦争用語ではなく幸福用語を使って、満足の先の感動を生みだす手法を発明したり、
商品をモノではなくコトで表現できる感動セールストークを編み出すことが
できたり。
つまりは、違和感を無視せずに、どうすればいいのかを自分なりに
追求し続けたことが、その人自身の才能の開花へとつながり、
変わり者と思っていたその人自身のユニークさに、逆に自信を持つことが
できるようになっていったのだと思います。
またそれこそが個性ということなのではないでしょうか。

少しお話は変わりますが、アメリカの俳優養成スクール「アクターズスタジオ」の
セミナーに、ゴールデングローブ主演女優賞を受賞したシャロン・ストーンが
出演した時のこと。
セミナー後の質疑応答の時間に、俳優志望の女子学生が彼女に質問しました。
「私は、女というレッテルを張られるのが嫌で、女を前面に出すのを
避けてきました。対処の方法を教えてください。」
シャロン・ストーンは、この質問に誠実に、かつ情熱的に答えました。
「何をしようと、他人はあなたを型にはめて見ます。
女はあなたの一部であり、人格の一部。色気の有無など関係ないわ。
女に生まれたからこそ、今の歩き方や話し方、考え方になったのよ。
自分の根本を否定してしまったら、生きていく上で一番大切な心の炎を
失ってしまうわ。
あなたには、すばらしい面がたくさんあるはず。
他人の目を恐れて、開花のチャンスを逃さないで。」
そのアドバイスに対して、女子学生が笑顔でこう言いました。
「明日は、タイトなドレスを着てきます!」
笑いが広がった会場に向かって、シャロン・ストーンは静かに確信を持って
言いました。
「それが自分らしいと思うことができるならね。
身体の線が出るドレスは、私は気恥ずかしいの。
それよりも、ミニスカートが私らしい。
何であれ、自分のことを考えてね。」

女=タイトなドレスではなくて、あくまで自分らしく感じることを第一義とする。
心の炎はそうして燃え続けるのだということを伝えるすばらしいスピーチだと
思いました。
自分の中に眠るすばらしい個性を開花させるには、
ステレオタイプで自分という存在を規定するのではなく、
自分らしさを常に感じることが大切なのですね。

さて、以前麗王にいらしてくださっていた女性が沖縄から東京に転勤することに
なり、2年ほど経った後、次のようなお手紙をいただきました。

典子さん お元気ですか?
折々の麗王便りを本当にありがとうございます。

東京に引っ越した時、私は東京の生活や仕事や人間関係になじめず、
またそんな自分に耐えられず、どんどん自分を追い詰めてしまいました。
自分がつまらない人間で、生きている価値がまったくないと信じ込んでいました。
何もできなくて、息をすることすら苦しかった。こんな姿を誰にも見せられない。
だから沖縄の友達とは誰とも連絡を取りませんでした。

だけどある日、もう頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もわからないうちに
典子さんに電話をかけていました。何を話したのかあまり覚えていないけれど、
とにかく東京での暮らしが辛いんだと泣きながらに言ったように思います。
そう言いながら、内心は、久し振りに電話なのに楽しく晴れやかな話もできない
自分が嫌でたまりませんでした。

私は自分が自分にしているように、典子さんも私のことを否定するのだと
思っていました。それまで頭の中で繰り返し聞いた言葉のように、典子さんも
「あなたは駄目な人間だ」と言うのだと思っていました。ところが典子さんは
私のことを否定しなかった。否定しないどころか、典子さんはそのままの私を
受け入れてくれました。私のことを差別したり、裁いたりせず、私は私のままで
いいんだと言いました。

それを聞いて驚きました。そのままの自分でいいなんて、考えたことも
なかったからです。その時に、自分を壊してしまおうとする力と、自分を必死で
守ろうとする力の間にあった壁が、パリンと割れてなくなってしまいました。
少し大げさな表現だけど、本当にパリンという音が聞こえたかのようでした。
それほど劇的に、自分の中のかたいものがその時に消えてしまったのです。

その日を境に、少しずついろんなことが変わってきました。
もう自分でない何かになろうと無理をする必要はなくなりました。
それができずに自分を責めることもなくなりました。私は私のままでいい。
そう思うと、毎日の生活が少しずつ楽しくなっていっています。

典子さん、麗王にいらっしゃるみなさんにもぜひそう言ってあげてください。
あなたはあなたのままでいい、って。

また沖縄に帰ったら麗王に寄りますね。その時にはうんと楽しく晴れやかな私で。
どうぞお元気で。

さぁ、ゴールデンウィークです。
たっぷりのお休みのなかで、ゆったりとあなた自身の個性を見つめ、感じてみて
くださいね。
そしてどうぞあなたらしい人生を歩まれますように。

【2013.4.25 末金典子】

ほんのり暖かくなってまいりましたね。お元気にしていらっしゃいますか?
日曜日は桃のお節句。おひな祭りですね。

麗王ではなぜだか毎年女性のお客さまの比率がどんどん増えつつあって、
お客さま全員が女性、なんて日もあるぐらいですので、
いつもお届けしておりますこの麗王便りも今回はおひな祭りということもあり
女性を意識して書いてみようかしらと思います。

ある女性が家族同様に可愛がっておられるワンちゃんが悪性リンパ腫で
余命一ヶ月と診断されてしまったそうです。彼女は、残る命が短いなら、
今までは栄養バランスのためにとどう見ても美味しそうではないドライフードしか
食べさせていなかったけれど、もう美味しいものを食べさせてあげたい、
そう考えて、その宣告以来、鶏のササミやブロッコリースプラウト、
椎茸を煮込んだスープなど良質のタンパク質とお野菜の手作りご飯に毎日の食事を
替えてあげたそうです。すると驚くことに、みるみるリンパの腫れがひき、
ワンちゃんはすっかり元気を取り戻したとのこと。2年経った今では
走り回るまでに復活し、お医者様もびっくり。
以来、ドライフードはもう捨ててしまったそうです。
彼女曰く「最近はオーガニックフードも多く出ていて、
実際自分で食べてみたんだけど、素材の味は全くしないし、ドライフードは
やっぱり美味しくない。かと言って病気の時のように毎日手作りも大変。
そこで見つけたのが素材の味がしっかりする美味しい無添加の犬用缶詰。
食べてみて私が美味しいと感じたので、今はそれをあげているの。」とのこと。

歳を重ねていくと、人間も動物も体力が衰え、病気にかかりやすくなるのは
仕方のないこと。治らない病気だってあると思います。
でも、やはり毎日の食べ物こそ免疫力に重大な影響を与え、
健康状態を左右するということを、さっきのワンちゃんは身をもって
教えてくれているように感じました。
そりゃあそうですよね。身体は食べる物でできているのですから。
人も動物も、良質のタンパク質とお野菜を中心に、添加物の入らない食事を
摂ることが何よりも大切なのだと思います。
ウチの猫ちゃん達も、ドライフードの時と違って、お魚やお肉などをあげる時の
喜びようは見ていて笑ってしまうほどの興奮ぶり。
それがすべてを表していると思います。
私達だって、いくら栄養バランスがいいからって毎日毎日同じ丸い粒々を
お茶碗に入れて出されてもねぇ…。

ただ、確かに自分の身体が喜び、美味しいと感じる食べ物を毎日得るには
少しお金がかかるかもしれません。でもそのぶん、一生懸命働くこと!なのだと
思います。頑張って自分で働いたお給料で、こだわった食事を毎日摂り、
楽しんで生きる。それがいちばんの健康の秘訣ではないでしょうか。
そして、できることなら彼やだんなさまと一緒に作ってみてはいかがでしょう。
二人にとって、お料理すること、食べることの楽しさが格段に
違ってくるはずですから。なぜなら、二人で作るのなら手間が半分で済みますし、
お料理って、作ることによって美味しさが倍増するものなんです。
「食べること」は、死ぬその日までずっと毎日続いていくもの。
毎日のその時間が、楽しいイベントであるのか、
ただ栄養を摂ってお腹をふくらますだけのことであるのかでは、
人生の質というものがぐっと変わってくることと思います。
また食卓で交わされる会話の質や充実感、ひいては愛情にまで影響を及ぼし、
毎日のその積み重ねが、人生のゴールにおいて全く違ったものを
もたらすことでしょう。

それにはお互いがしっかり働かなければ!
最近、若い女性達は美容や食べ歩きには興味があるけれど、自分がこれから長く
生きて行くこと、社会で力をつけることに関心が薄く、他力本願な人が多いように
感じます。
不況や雇用不安も影響しているかもしれません。でも、むしろそうならば、もっと
意識を高く持つ必要があるように思うのです。私は、結婚しても出産しても、
女性だって一生働くことが必要だと思うのです。

なぜ人は働かなければいけないのでしょうか。
子供の時は両親や友人から必要とされ、愛されることで自分の立ち位置を
確認できました。でも大人になると、社会の中での立ち位置を与えられ、
人から必要とされ、感謝されることで切磋琢磨し、視野や世界を広げていきます。
仕事は公平に社会から評価されるもの。ほめられるだけでなく、ときには
批判だって多々受けるものです。でも厳しさがあるから人は成長し、自分を正しく
客観視でき、一個人の大人としてのアイデンティティを確立できるのです。
家族から評価され、感謝されることももちろん大切。子育てで一時期仕事を
離れる人も多いでしょう。
でも、家庭内の自分だけでなく、一人の大人として自信を持ち、人として
バランスよく生きていくには仕事を持つということが計り知れない意味をもつと
思うのです。

自分の人生をどう生きて行くか。それは自分自身が決めること。
心地よく生きて行くには、最低限の収入はいったいどのくらいなのか。
どんな仕事のある人生なら心地よいのか、どんな毎日なら幸せなのか、
すべて自分が選ぶことです。今、もし納得のいかない状況にあるとしても、
それは自分が決めてやってきたことの結果です。なんでも物事は自分次第。
すべての責任は自分にあります。せっかく命を与えてもらったのに、
自分の才能を無駄に遊ばせることになるのはとっても残念です。
恋愛や結婚は、幸せへの近道じゃありません!
本当に意味で幸せを得るために、失ってはいけないもの、それは仕事です。
生きて行くってすごく大変なこと。想像を超える試練に遭遇することも
あるはずです。でもそこで高いハードルを乗り越える強さを持ち、再び幸せを
感じられるようになるには精神的にも経済的にも自立していることが
不可欠なのです。
こんな時代だからこそ、幸せになるための生き方を問いかけ、信じた道を
進みたいものですね。

さあ、日曜日は桃のお節句。ひな祭り。
今では、女の子のお祭りと考えられることが多いようですが、もともとは
この日に川で手足を洗って心身の穢れを祓い、邪気を、身代わりの人形に移し
川や海に流し、家族全員の厄をはらい、夫婦円満を願うという
行事だったそうですから、子どもが男の子だけの家庭であっても、
家族の、周りのみんなの、幸せと健康を願ってぜひお祝いいたしましょう。

【2013.2.28 末金典子】

お元気ですか? 暦の上ではもう春ですね~。
春というだけで、なんだか、ふんわり、ほんわかとした気持ちになってくるから
不思議です。
そのほんわか気分そのままに来週はヴァレンタイン・デーですね~。
前回は鬼の話なぞをお届けしてしまったので、今日はちょっとロマンチックに
愛することについて書いちゃおうと思います。

そこで、まずは呼吸のお話からなんです。

「吸うよりも、まず吐くのですよ。」
こう聞かされたときには、たじろぎました。
呼吸といえば、まずは新しい空気を胸のなかにとり入れる、
という考えでいましたから。
「吐く」ってことは二の次で、なんだか「吸う」ほうにばかり
熱心になっていたようです。
「吐いてから吸う」と教えておられるのは、自然流育児で有名な小児科医・
真弓定夫先生です。
母親の胎内にいるとき、ひとは、母体とへその緒で結ばれていたから、呼吸は
へその緒と胎盤を通じて行われるのだそうです。
生まれ落ち、肺呼吸に切り替わるときに、肺や気管のなかにたまったものを
まず吐きださなければならない。
肺の中の空気をできるだけ多く出すことによって、酸素交換の効率も
高まるのだとか。
なるほど。ひとは生まれてきてまず最初に吐き出すことから始めるのですね。
これがひとの基本ならば、欲張らずにこれからは物でもお金でも愛でも
「出してから入れる」を心がける時代かもしれません。

そういえば…往年の名女優達やココ・シャネルなど成功の人生を歩んだとされる
女性達に共通していたのは、愛されるという受け身ではなくて、愛することに
喜びを見出した人達だったということでした。
人は生きる上で愛を得たいと思うものですが、愛されたいと願っても、
そう簡単にはいきません。
でも私が感じたことは、愛されるより愛するほうが、
信じてもらうより信じるほうが、人は輝くということです。
愛する喜びは人を強くし、輝かせるのですね。

でも現実として、先のことはわからないものです。
例えば、人を好きになり、その人との愛が成就するかに保証はありません。
愛を育むにも、1年後も恋人の気持ちは変わらないだろうかと考えると
不安になりますが、それはいくら悩んでもわかりません。
また理想とする愛の形に苦心しても、相手に無理強いするわけにもいきません。

信じることも、また難しいものです。
そのため現代では、愛の関係性にリスクヘッジの考え方を持ち込む人も
いるようです。ひとりを信じて結婚を決めるより、金融商品の投資先のように
相手を複数揃え、どこにヘッジをかけるのがいいかと値踏みする、といった
具合です。これも不安ゆえの行動だと考えられますが、信頼のないところに
果たして愛はあるのでしょうか。自分の選択を信じられなければ、
愛する人のこともまた信じられないのではないでしょうか。

ちょっと唐突な例ですが、猫はとても猜疑心の強い動物です。でも一旦馴れれば、
身体をごろんと横たえて、飼い主にお腹を見せもします。この無防備な行動は
「あなたにすべて任せてもいいですよ」というサインですが、私は人間の愛も
同じだと思うのです。愛の本質は、自分自身を投げ出すことができるかにあります。
これは単なる自己放棄ではなく、自分を持ちつつ、相手に自分を
投げ出していいという心情です。
自分を投げ出すには相手を信じる必要があり、また投げ出すからこそ、
相手を信じられるようにもなります。
つまり愛は「信じる」ことに通じるのです。
だから愛は必要であり、人は誰かを愛さずにはいられないのでしょう。
かの文豪トルストイあの最後のメッセージは
「人は愛によって生かされていくもので、愛を自覚した人間の結びつきが、
この社会を支えていく。愛こそが最後の拠りどころ」というものでした。

今あなたには心から愛するひとがいますか?
その愛を深めるためにも、ここに確実に存在するお互いが深く愛を感じ合い、
今とここを、まずは精一杯生きてくださいね。
来週はヴァレンタインデー。
どうぞそんな一日をお過ごしくださいますように。

【2013.2.7 末金典子】

本土は厳寒・大雪ということで、さすがの沖縄も寒い毎日が続いていますね。
あなたはお元気にしていらっしゃいますか?

1月も早や今日で終わり、2月に入ると日曜日はもう節分ですね。
立春が一年の始まりだった昔は、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、立春前夜に行われたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
それに、新年のエネルギーは一月ではなく二月の節分を越えたあたりに
動き始めるのだとか。つまり、節分を越えると、今年のエネルギーが非常に
はっきりしてきますので、今年の幸せに向かう目標や新しいトライは、
この頃にまっさらな気持ちで始めてみるのもいいかもしれません。

ところで、年の数だけお豆をいただくのは何歳まで続けるものなのでしょう?
健康に過ごすためと申しますが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」……。
25歳あたりでもう一区切りにして欲しいものですよね~。
小さい頃には弟と一緒に「鬼は外~、福は内~」と盛大に撒いていたのですが、
母はさぞかしお掃除するのが大変だったことと思います。
大人になったら、ついお掃除のことが頭に浮かんでしまい、かなり少なめに
部屋の片隅にちょろりっと撒くようになりました。

さて、「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元は人に災いをもたらす
目に見えない隠れたものが「鬼」と呼ばれていたそうです。
おぬ(隠)鬼の姿は見えないはずなのに、いつしか見える存在としていろいろな話に
登場するようになりました。私がこの季節に毎回のように御紹介させていただく
濱田廣介さんの童話「泣いた赤鬼」もそうですし、桃太郎が犬・猿・雉を連れて、
鬼が島の鬼を懲らしめる話や、足柄山で熊と相撲を取っていた金太郎がのちに
源頼光の家来になり、酒呑童子という平安時代の京都付近で暴れまわったとされる
部下を大勢従えた強く巨大な鬼を退治するという話などもあります。

話を元に戻しますが、鬼とは、つまりは「おぬ(隠)」であり、人に災いをもたらす
目に見えない隠れたものだったのですね。
それはひいては「自分の心」とも言えなくはないでしょうか。
幸せも不幸せも、怖れや悩みや不安や喜びも、みんな自分の心が創り出すもの。
特に怖れなどのネガティブな気持ちは人を鬼にさせたりもするものです。

麗王にいらしてくださるみなさまは40代前後の方が多いのですが、
昔は「不惑」とされた40代、でも今は40代からでも望めば恋愛・結婚・出産の
可能性だってありますし、子育てが一段落して大学院を目指したり、
留学したりする人もいるように可能性がどんどん広がっている時代です。
でも現実的には、親の介護に直面したり、プレ更年期に突入したり、プチうつに
なったりと、様々な問題が発生しやすい時期でもあります。
思春期から初老期までの間に人が経験する多彩なことを、一人ひとりがそれぞれに
やっている、というのが今の40代前後の方々の現実ではないでしょうか。

自分とは違う生き方をしている人を見て、自分はこれでいいのかと
悩んでしまったり、揺れ動いたりするのは、他の人々が基準になっているから。
誰かのようになれない自分を、頑張っていない私は価値がないと
否定するのではなくて、「人は人、自分は自分」だと思うことが大切だと思います。
生き方が多様化している時代に、自分が何を選び、どう生きていくか、という
基準は自分の中だけにしかありません。

あなたの今は、過去からの努力の結果。よくやってきた自分を認め、ありのままの
自分を肯定することで、もっと生きやすく、幸せが見つけやすくなるかも
しれません。
自分の心に棲むおぬ(隠)を退治し、自分の今を肯定し、幸せの基準を自分の中に
おいてくださいね。

さぁ、日曜日は節分。
複雑な課題の多い今日この頃、厄払いはしっかりとしたいものです。
あなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
私も邪気を払うべく、豆を今までより少し多めに撒き、しっかりと年齢分
いただくことといたしましょう。
そして今年の恵方の南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを、今日を生きていることの幸せを、心から願って。

【2013.1.31 末金典子】

いつもよりは暖かめのお正月でしたが、あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私はと言いますと、ごくごくオーソドックスに、大晦日は年越しそばをいただき、
紅白歌合戦を観て今やもうついていけない流行歌のお勉強をこなし、
おせち料理をゆっくり作り、お雑煮・お屠蘇とともにいただき、
初詣には普天間神宮までランニングで行ってお参りをし、
あとは読書とDVD三昧というお正月でした。

昨年末に印象的だったのは、街行く人々の顔が、
「クリスマスだ~!」「もうじきお正月だ~!」とウキウキとあまり浮かれて
いなかったことです。
夜の松山の街も人手がめっきり少なくなって、
沖縄もやはり本格的に不景気なのだなぁと感じました。
みなさんの懐具合の方はいかがでしょうか。
そこで年の初めに「生きたお金」について考えてみたいと思います。

お金のために生きるのはいやだなぁと思います。でも、お金は必要。
お金に支配される人生は避けたいけれども、お金で不自由して、
自分のやりたいことができないのは悲しいことです。

きっと、人それぞれに、生きたお金の使い方、お金の活かし方というのが
あるのだと思います。もっとも、どのように運用すると利回りがいいか、という
類のお話ではありません。人間の世界との関わり方のどこかに、「生きたお金」
という「てこの支点」があるように思えるのです。

たとえば、人にあげるプレゼント。高いものをあげるのがポイントなのではなくて
どれくらいその人のことを考え、工夫したかということが問題になります。
お金は、どんなものにも換えられるという通用性があるけれども、むしろ、
他のものでは代え難い何かになるからこそ、生きることもあるのです。
たとえば私が今までうまくいったなあ、と思うプレゼントとしては、
社会人になって初めていただいたお給料で、
「ひなびた三島の温泉に行ってみたい」とよく言っていた今は亡き祖父母に旅を
プレゼントしたことが、かけがえのないよいお金の使い方だったと思っています。
祖父母が亡くなる前にも「あの旅は本当に楽しかった。いい思い出になった。
ありがとう。」と言ってもらえてこちらまでうれしくなりました。

お墓までお金を持ってはいけないというのはその通りで、せっかく所有していても
自分の生きている時間の中でそれをうまく活かさないと意味がありません。
預金通帳の残高を見てにんまりしていても、それだけでは幸せにつながりません。

また、「資本」のあり方についても同じことが言えます。
「資本主義」というように、何とはなしに個人の生活とは関係ない
企業経済や資本家階級の人々に関わることと思いがちですが、実際には
私達の生活に「資本」は深くかかわっています。

自分の住むところや、受けた教育も一つの資本。ある程度まとまったお金があると、
それを資本にして、自分のために注意を振り向けられます。その時間を使って、
新しい仕事に挑戦したり、各地を旅行して見聞を広げたり、他人のために何かを
してあげたりすることができます。

「種の起源」を著して進化論を開いたチャールズ・ダーウィンは、生涯定職に
就きませんでした。親から受け継いだ財産で田舎に家を所有し、そこで自然を
観察したり、資料を整理したりして人類史に残る偉業をなしとげました。
これぞ見事な「資本主義」ではないでしょうか。

資本があるということは、つまり、未来の自分に対して、さまざまなことを
積み上げていくことができるということ。日々の生活に追われるだけではない、
心の余裕とヴィジョンの艶を持つことができるということが、資本の意味。
まさに、生きたお金の使い方だと思います。

ダーウィンのようには恵まれていなくても、小さなスケールで資本を自分や他人に
投入することはできます。「ささやかな資本主義」こそが、人生を豊かに
するのです。お金は、モノを買うためだけにあるのではありません。
人間に投資して、初めてそれは「生きたお金」になるのです。
今年からの資本主義はそうありたいものですね。

さぁ、新しい年です。
新しい自分も始まります。
これってあたりまえのようですが、本当に素晴らしいことですよね~。
去年どんなにいやなことや辛いことがあったとしても、
年が明けたら、またまっさらになって、新しい年、新しい自分が始まる。
人の知恵って、とっても素晴らしいなぁと改めて思います。

さて、次の月曜日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。
朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを打ち払おうとする習わしがありました。
一方、海を隔てた中国でも、この日に7種類の菜の煮物を食べれば、万病に
かからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体し、一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事なんです。
お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとしてはとっても
おすすめです!

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

【2013.1.4 末金典子】