政治は人を幸せにするか?

政治は何のためにあるのだろう? 私は人々の幸福のためにあると思っていたのだが、少なくとも各派の選挙公約を見る限りそうではないらしい。

例えば、保守系の公約によると、アベノミクスによって雇用を創出するという、デフレを脱却するという、GDP600兆円を実現するという、待機児童を解消するという、経済成長の成果を子育て介護などの福祉分野に再分配するという。それらのすべては価値あることだと思うのだが、しかし、それらがどのようにして私たちを幸福にするかという因果関係はまったく説明されていない。「公約が実現すれば国民は幸せになる」という前提に立っているのは理解できるのだが、この前提は本当に正しいのだろうか?


Photo by Nao iizuka (CC BY 2.0)

革新系の公約もベクトルが異なるだけで同じ状況に見える。沖縄選挙区では必ず基地関連のことがらが公約にのぼる。 憲法9条を維持し、日米地位協定の改定に取り組み、オスプレイ配備を撤回させ、米軍基地返還を求め、跡地利用や基地従業員の雇用問題に取り組むという。沖縄の基地問題は日本社会の矛盾が集約されたような重大なテーマである。しかし、あえて問いたいのは、これらの公約が100%実現したら、私たちは幸せになるのだろうか?

反論される方は、少し立ち止まって考え直してみてほしい。

例えば、政治は自殺を考えている人に生きる動機を与えられるだろうか? 政治は虐待の痛みを虐待者に伝えられるだろうか? 政治はシングルマザーを正社員に登用しながら(あるいは、登用するからこそ)売り上げが増えるような企業経営を浸透させられるだろうか? 政治は手取り月12万円で働く沖縄のホテル従業員にやりがいのある仕事を提供できるだろうか? 政治は毎朝仕事にいくのが楽しみな75歳を増やすことができるだろうか?


Photo by 初沢亜利

政治は沖縄の醜い埋め立てと無粋な架橋を止められるだろうか? 政治は自立心を失った国民の魂を取り戻せるだろうか? 政治はアトピー性皮膚炎や花粉症の蔓延を治せるだろうか? 政治は農薬漬けと添加物漬けで毒薬と化した我々の食を正常化できるだろうか? 政治はインシュリンや常備薬がなければ1週間と生きられない病人だらけの高齢化社会を修正できるだろうか?

政治は子供と一緒に遊ぶ両親を増やすことができるだろうか? 政治は夫婦の絆を深めることができるだろうか? 政治は役人が公正に働く動機を生み出せるだろうか? 政治は飲み屋での知的な議論を増やすことができるだろうか? 政治は女性の役割に深い関心を持つ男性を増やせるだろうか? 政治はLGBTへの偏見を減らせるだろうか? 政治は従業員の立場で考える経営者を増やせるだろうか? 政治は思いやりを目的とした経済を実現できるだろうか?


Photo by 初沢亜利

これらすべてのことは、一人ひとりの幸せに直結することばかりだと思うのだが、これらが選挙公約でないのはなぜだろう? これが政治の仕事ではなければ、いったい政治は何のためにあるのだろう?

政治が私たちに提案することは、少なくとも私の見る限り、そして驚くことに、ほぼそれ以外のことなのだ。経済成長であり、政治改革であり、消費税率の改定であり、消費税率の維持であり、憲法改正であり、憲法の維持であり、基地の移設であり、基地の撤去であり、貧困対策の補助金であり、子育て支援の制度であり、学費補助であり、医療費の軽減負担であり、これらがそのまま公約になっている。

乱暴な一般化と批判されるかもしれないが、すべては大きな意味での資本の再配分なのだ。そして、適切な資本の再分配が実現すれば、人々が幸せになるという前提で政治が成り立っているように見える。人々が欲するお金を、政治家が再分配する。それが、はじめから政治という構造の持つ機能なのだ、と。

因果関係は逆かもしれない

実は、因果関係が逆だということはないだろうか? 各派の選挙公約が謳うように、経済成長や、数々の改革や、福祉政策や、基地問題を解決することが私たちを幸せにするのではなく、私たちが幸せになることで、これらの社会問題が解決していくという可能性だ。政治が人々の幸せを目的にしていないことが、数々の社会問題を生み出している原因ではないだろうか?

現に、保守でも革新でも構わない、各派の選挙公約が100%実現して、国民がより良い仕事についても、所得が増えても、パートナーと家計を共にしても、病気が治っても、長生きをしても、貧困が根絶されたとしても人々が幸せになるわけではない。一部上場企業に勤めているからといって幸せな人生を送ると は限らないことから明らかなように、人は「良い仕事」に就くから幸せになるわけではなく、幸せだから今ある仕事を生かすことができるのだ。

同様に、高給だから幸せなのではなく、幸せな人が高い所得を得る傾向がある。パートナーを見つけたから幸せになるわけではなく、幸せだから理想のパートナーを惹きつける。健康だから幸せというよりも、幸せだから健康に生きられる。長生きが幸せだとは限らないが、幸せな人は長生きだ。貧困が根絶されれば幸せになるのではなく、幸せな人は貧困に陥りにくい。基地問題が人を不幸にしているという側面はもちろんあるが、人々が不幸だからこそ基地問題が熱を帯びているという面はないだろうか?


Photo by 初沢亜利

幸せに働く人たちは、お互いに生きる動機を高め合い、人の痛みと喜びに共感し、社会的弱者に心を配り、女性を大切にし、自分らしく生き、自立心を持 ち、自分にも他人にも嘘をつかず、家族に優しく、仕事だけの人生に偏らず、他人に関心を持ち、そして何といっても生産性が高く、離職率が低く、顧客満足度 を向上させ、組織の生産性を高め、企業の利益を増加させる。

幸せに働く人たちの家族もまた幸せである傾向が高く、家族の医療費は減じられるだろうし、子女たちの教育問題も、虐待やネグレクト、依存症や貧困な どの社会問題も生じにくくなるだろう。経済的発展が私たちを幸せにするのではない。私たちが幸せだから、社会と経済が正常化するのだ。


Photo by 初沢亜利

政治は今まで、政策を作り、法律を変え、制度に変更を与えることで、いわば演繹的に社会に影響力を行使しようとしてきた。制度の改変や資本の再分配を目的とするのであればこの方法は有効なのだが、人々の幸せを目的とする場合は、このやり方がまったくと言っていいほど機能しない。

政治がすべきことは社会制度ではなく社会に対する見方を変えること

もし政治が、人々の幸せを第一に考えるのであれば、発想を真逆にする必要があるのではないか。

20世紀の社会主義国家の失敗から私たちも学ぶべきだと思うのだが、私たちが理想の社会を作ろうとするのであれば、概念的な「理想」をベースに現実社会を構築することはとても難しいのだ。それよりも、一人の幸せな生き方、一つの幸せな組織、一つの幸せなミニ社会を作り上げて、それを拡大再生産する方がはるかに現実的だ。いわば帰納的に社会を変えていく方法だ。その時政治は主役ではなく、むしろ有能な黒子になる。そして政治とは正にそうあるべきものではないだろうか。

日本で最も幸せな従業員、幸せな企業、幸せな組織、幸せなリーダーたちを鉄の下駄を履いてでも探し出し、彼らの成功が社会全体に拡散する手助けをすることができれば、驚くほどの低コストで社会を正常化することができるだろう。制度や法律を整備するのもいいのだが、本当はそんなことすら必要ない。補助金を出すのは逆効果なくらいだ。人の心をはっとさせる異質な事業を社会の「脅威」とみなすのではなく、政治が温かく応援するだけで良い。

人々は、政治権力の強さを知っている。意識的にであっても、無意識的にであっても、社会的に許容されないと感じれば、消極的になってしまうものだろう。政治がこんなやり方を評価してくれるのだ、と感じた瞬間に、人々の個性が開花してあっという間に社会にイノベーションの野火が広がる。

先日マイケル・ムーア監督の新作『世界侵略のススメ』を観てきた。彼が世界を回って母国アメリカにインスピレーションを持ち帰るという内容。イタリアでは一般的な企業で有給休暇が年間合計8週間あり、その年に消化できなかった有給休暇は翌年に持ち越される。年末には「13カ月」目の給与が支払われるが、「休暇にはお金が必要だから」という理由による。ブランド製品を30年間作り続けているラルディーニ社の従業員は、2時間の昼休みに自宅に帰って家族と一緒に料理をする。


Photo by Randy OHC (CC BY 2.0)

ポルトガルでは15年ほど前の法改正以来、覚醒剤、麻薬、マリファナなど一切の薬物使用が罪に問われない。これによって麻薬関連の裁判、警察、刑務所などの費用がゼロになり、同時に薬物の使用者が激減したという。誰が使っても合法ならば、ちゃんと病院で処方してもらったり、人に相談したり、治療を受けたりするようになるということのようだ。


Photo by Kyle Butler (CC BY 2.0)

ノルウェーでは死刑が廃止されて久しく、警察官は武器を携帯せず、どれだけの凶悪犯でも最大21年の刑期しかない。受刑者の部屋は一戸建てで窓の外には緑の景観が広がり、図書、ビデオゲーム、テレビ、冷蔵庫、キッチンにはナイフ一式が揃っていて、朝食は各自で作る。森の中ではチェーンソー(!)を使って木材の切り出し作業を行い、有機農園では受刑者と刑務官が一緒に収穫作業を行う。

日本の貧困家庭よりもよほど豊かではないかと思えるほどの環境で、「犯罪者を罰する」という発想はそこにはない。刑務官たちにとっても、受刑者の刑期が最大21年であれば、彼らはいつか必ずここを出て、自分たちの隣に住むかもしれない。基本的な哲学は、「より良い隣人になってもらうための刑期」なのだ。アメリカの再犯率が8割であるのに対して、ノルウェーの再犯率(2割)は世界最低水準だそうだ。ちなみに、ノルウェーでは女性閣僚の割合が53%で世界1位である


Photo by Municipal Archives of Trondheim (CC BY 2.0)

例えばこんな小さな事例の一つ一つが、私たちの未来のプロトタイプになり得る。世界はもちろん、日本国内にもまだまだ私たちの「未来」が埋もれているはずだ。私が政治家だったら、そんな幸せな未来を発掘して広めることを公約にしたいと思う。

*本稿は「ポリタス」(2016年7月5日)に掲載された。

「王国全土を崩壊させようとした力のある魔法使いが、全国民が飲む井戸に魔法の薬を入れたの。その水を飲んだものはおかしくなるように。

次の朝、誰もがその井戸から水を飲み、みんなおかしくなったわ。王様とその家族以外はね。彼らには王族だけの井戸があり、魔法使いの毒薬は撒かれていな かったから。そこで心配した王様は安全を図り、公共の福祉を守るためにいくつかの勅令を発布したの。でも、警察官も、警部も、すでに毒の入った水を飲んで いたから、王様の決定を愚かだと思って、従わないことにしたの。

王国の臣民がその勅令を耳にした時も、みんな、王様がおかしくなって、バカげた命令を下しているんだって確信したの。彼らは城まで大挙して押し寄せ、その勅令の破棄を求めたわ。

絶望した王様は、王位から退く心づもりでいたけど、女王が彼を引き止めて言ったの。『さあ、みんなと同じ共同井戸の水を飲むのよ。そうすれば、みんなと同じようになるはずだから』。

そして彼らはそうしたの。王様と女王様は狂気の水を飲み、すぐに不条理なことを口走り始めた。彼らの臣民は、すぐに悔い改め、王様がすごい知恵を見せている今、このまま国を統治させようではないか、と思ったの。

その国は、近隣諸国よりもおかしな行動を取っていたけど、それから平和な日々を送り続けた。そしてその王様はその最後まで国を支配することができたとさ」

パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より

*   *   *

・・・井戸の水を飲んだ人たちは、自分たちが正気だと信じている。しかしながら、その「正気」の根拠は、「他の皆も同じように行動している」、ということ以外には存在しないのだ。

「井戸の水を飲んだ人」が作る(資本主義)社会では、まだ水を飲んでいない「精神患者」を隔離し、井戸の水を飲ませ、社会に復帰させることが「治療」とされ、そのために膨大な社会費用が支出されている。

・・・私はどうしてもこう考えずにはいられない。「治療すべき対症は個人ではなく社会そのものであるということはないのだろうか」、と。・・・そしてもちろん、私のこの発想は、明らかに統合失調症のそれと一致するのだ。

*   *   *

「自分の世界に住んでいる人はみんな狂っていることになるのよ。多重人格者、精神異常者、マニアのように。人と違うだけでね。

… まず、時間も空間もなく、あるのはその二つを合わせたものだと言っていたアインシュタインがいたでしょ?

それから、世界の反対側にあるのは大きな溝ではなく、大陸だと固執したコロンブスがいるでしょ?

人がエベレストの山頂に到達できると信じていたエドムンド・ヒラリーがいるでしょ?

それに、それまでと全く違う音楽を創り、全く違う時代の人みたいな格好をしてたビートルズもいたでしょ?

そんな人たちと、他にも何千という人たちは、みんな自分の世界に住んでいたのよ」

パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より

*   *   *

私はむしろ、沖縄に「狂人」が少ないことの方が問題だと思っているのです。

アップルCM『クレイジーな人たちがいる』

【樋口耕太郎】

今週末は沖縄の県知事選挙。それにしても、なぜこれだけ多くの人が、政治の勝ち負けに熱中するのか、保守だ革新だと立場を決めたがるのか、私には理解ができない。政治議論に熱くなったり、政治に不満を持つ人は多いのだが、それは「政治こそが世の中を良くする手段だ」という大前提があるからこそだろう。

私が疑問に思うのは、(少なくとも現在の)政治という社会運営システムは、そもそも、社会を良くする機能を構造的に備えているのだろうか?ということだ。例えば、政治は自殺率を減らせるだろうか?政治は虐待を減らせるだろうか?政治はシングルマザーと夜中の無認可保育を減らせるだろうか?

政治は沖縄のホテル従業員の手取り給与を12万円から上げられるだろうか?政治はキャンプキンザーの醜い埋め立てと無粋な架橋を止められるだろうか?政 治は補助金漬けで自立心を失った沖縄県民の魂を取り戻せるだろうか?政治はアトピー性皮膚炎や花粉症の蔓延を治せるだろうか?

政治は農薬漬けと添加物漬けで毒薬と化した我々の食を正常化できるのだろうか?政治はインシュリンや常備薬がなければ1週間と生きられない病人だらけの 高齢化社会を修正できるのだろうか?政治は儲けるだけではない、人に嘘をつかない、思いやりを目的とした経済を実現できるのだろうか?

これらのすべての問いについて、政治が解決してくれるだろうと期待している人は、少し立ち止まって考え直した方が良い。このシステムで過去60年間実現しなかったこと、それどころが、悪化の一途を辿っていることが、今度は違う!明日から改善する!と思える根拠は一体何処にあるのだろう?

アルバート・アインシュタインは、「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という」と言う言葉を残したが、その言葉どおりに解釈すると、我々の社会は既に正気を失っているということになる。そして、正にその通りの社会が生まれているのだ。

正反対のことを言うようだが、実は、我々は誰も政治に対して、先の各問いにYESと答えることなど期待していないのだろうと思う。我々が政治に期待しているものは、突き詰めれば結局「経済成長」であり、それによって(実質的に)お金の分配に預かるということだ。

少々乱暴な一般化だが、実際、過去60年間政治が果たした機能は「経済成長」であり、それ以外のことで政治が社会運営に対して本質的な役割を担ったことは、そもそもあったのだろうか?

国民が欲するお金を、政治家が再分配する。その対価が先の社会問題の数々である。このように考えれば、我々の社会がなぜ現在の姿のようになっているのか、とても説明できると思う。それが、始めから政治という構造の持つ機能なのだ、と。

恐らく最も重要なことは、政治はあくまで国民の欲するものを実現する機能だということ。政治の目的は、一般に認識されているような「世の中を良くすること」では始めからない。社会にお金を増やすことだ。しかし、それは、国民がそれを望んでいるからなのだ。

現在の社会問題の数々は、本当は「問題」ではない。我々が望んだことが、政治家というエージェントを通じて100%叶ったというだけのことだ。社会の本当の「問題」とは、それが解決できないことではなく、我々が解決したくないということにある。

我々がこの社会を本当に良くしたいと望むのであれば、解決するフリをするのではなく、我々が望むものそのものを変えるべきだろう。そして、社会に変化を生むための必要条件は、今までとは(本質的に)異なる何かを試すということである。

【2014.11.14 樋口耕太郎】

政治家が政策やビジョンを語るとき、いつも違和感を感じていたのだが、その理由を自分なりに考えてみた。私は、ビジョンには4つの要素が不可欠だと思う。

第一に、ビジョンとは社会全体に寄与するものであるべき。例えば、沖縄のビジョンとは、沖縄を良くするためのものではなく、沖縄がいかに日本と世界に役に立つか、という視点に立つべきであり、それがひいては沖縄をもっとも繁栄に導くことになる。

第二に、「量」はビジョンではない。ビジョンとは常に「質」の議論でなければならない。「観光客を1,000万人にする」というのはビジョンではない。「10年以内に月への有人飛行を実現する」ことはビジョンである。

第三に、「何を」するかはビジョンではない。「なぜ」それをするかがビジョンである。「基地返還」はビジョンではない。「基地跡地で我々が何に挑戦するか」がビジョンである。アポロ計画が人を感動させたのは、ロケットを飛ばしたからではない。もっとも困難なことに挑戦することの象徴だったからだ。

第四に、実現できないものはビジョンではない。ビジョンを実現するための具体的な方法と有効な戦略は、ビジョンの重要な一部である。なぜそれが実現できるか、合理的に説明できないものはビジョンではないということだ。

記憶にある限り、私が個人的に、ビジョンと呼ぶに相応しい政策を目にしたことがないと感じるのは以上の理由による。我々の社会を毎日少しずつ良いものにするために、「ビジョン」を語ろうではないか。

・・・その中でも、我々が特に改めなければならない考え方がある。「経済成長が問題を解決する」という大前提である。

経済成長はビジョンではない。仮に経済成長を目指すとして、それによって何を実現したいのか、がビジョンである。

そして、次に問うべきことは、「それは経済成長以外では実現不可能か?」ということだ。現実には、経済成長がなくても実現できるビジョンが非常に多いことに気がつくのではないだろうか。

ところで、沖縄県には、県がまとめた沖縄21世紀ビジョン、内閣府総合事務局の沖縄経済産業ビジョン、沖縄経済同友会の沖縄21世紀経済ビジョン、民主党の沖縄ビジョンなどなど・・・沖縄は「ビジョン」花盛りだ。

それぞれの文章を何度も読み返しているのだが、まったく日本語の意味が分からず苦労している。・・・「地域資源などの掘り起こしや磨き上げによって、それ らを地域の宝・財産として共有します。また、地域社会を構成する住民や多様な主体の連携により、共助・共創型のまちづくりを進めます」・・・「都市再生の観点から跡地利用を推進し、人と自然が調和する生活空間を回復します」・・・

これだけ曖昧かつ意味不明の日本語を並べておけば、沖縄の将来がどのようになっても、「ビジョンが実現した」といえるに違いない。結局これをまとめた人たちは、沖縄の将来を「信じて」などいないのだ。信念が存在しないから心に響かない。これが山ほどある沖縄ビジョンの最大の欠点だと思う。

【樋口耕太郎】

私なりの勝手な解釈ですが、クリスタキスのネットワーク理論が明らかにすることは、社会は「魚群」のようなものだということではないでしょうか。

私たちは誰もが自分で自分の人生における選択を行っていると考えていますが、実は、魚群が進む方向に著しい影響を受けているのでしょう。例えば、私たちは毎日自分が会社に着ていく服を「選択」していますが、そもそも、服を着るあるいはスーツを着るという社会規範を大前提にしており、私たちの「選択」がその規範を逸脱することは殆どありません。また例えば、私たちが「自分は最近幸福度が増したなぁ」、あるいは、「自分は明るい人間だ」と考えたとしても、実は その原因を担っているのは、自分が会ったこともない友人の友人の、贈与的な生き方に依る可能性が、想像以上に高いということです。

もっとも、個人が「自分の選択だ」と認識していながら、実はその他の要素に多大な影響を受けているということは、必ずしも悪いことばかりではありません。 社会のそれぞれの構成要員が各人の世界観に従って(つまり、主観的に)ほぼ例外なく「主体的な」選択をしていながら、同時にネットワーク全体が一つの統合された選択を行うという、一見背反した現象を矛盾なく統合するためです。

同様に、事業再生の観点でも、私は、誰が再生の起点になっているのかが、一見明確でないものこそが、事業再生の理想形態ではないかと思っています。誰が起点かが明確でないということは、逆に考えれば、各人が主体的に行動していると考えていることを示しますので、それぞれの構成員は例外なく、誰かのためではなく、みんなが自分のために行動した結果、自分のこととして、事業や地域が再生するということになります。

また、「魚群」の進行方向は頻繁に変更されるわけですが、その時々で方向性を決める「一匹」は、組織的なリーダーとはまったく無関係だという特徴がありま す。これは、私の組織運営の実感とも一致しており、実際に組織に影響を与えている人物は、意外なくらい地位とは無関係だったりします。その構成員(一匹) は組織的に力があるとは認知されておらず、多くの場合本人さえも自分が果たしている重大な機能に気がついていません。ところが、そのような人物が組織から 離れてしまうと、組織が急速に劣化し、場合によっては破綻に瀕するほどのインパクトを及ぼすことが良くあるのですが、これについ ても、経営者はそのような認識がないために、一体組織に何が起こったのか、業績が悪化した原因は何なのか、殆ど当てのない宝探しのような状態で、さらに混乱を深めがちです。

いずれにせよ、このような社会ネットワークの原理とメカニズムを理解することができれば、そして、「一匹」の魚が魚群全体の進行方向を変えるの要素を学ぶことができれば、一介の平教員であれ、パートタイマーであれ、組織を全体最適に導くことは、それほど難しいことではないのだと思うのです。

【樋口耕太郎】

円高が進んでいます。円がドルに対して急騰したのは、1985年のプラザ合意、1995年3月の超円高についで3度目ですが、共通しているのは米経済の危機的状況でしょう。プラザ合意はレーガンの双子の赤字、1995年は米国債の債務不履行が真剣に懸念され、今回は国際金融危機から端を発し、アメリカ経済と財政が急速に悪化し、基軸通貨ドルが崩壊するのではないかという懸念です。この背景には何か法則があるのか、プラザ合意を振り返ることでひとつの仮説を提示します。

1985年9月22日、ニューヨークにあるプラザホテルで開催された先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)における決定事項は、通称「プラザ合意」と呼ばれ、新自由主義経済下での最も重要なグローバル経済政策の一つです。この会議では、G5各国が協調して円高・ドル安に誘導することに合意し、1985年に1ドル240円だった円は、1988年までに120円に切り上げられ、日本経済を支える主力の輸出産業は「円高不況」を生き残るために相当な経営努力を強いられます。自分の商売において、競合する他社が僅か2年の短期間に全く同じ商品を半額にすることを決めたとして、会社全体がどんな大騒ぎになるかは想像に難くありません。多少乱暴な言い方をすれば、プラザ合意の含意は日本の富をアメリカへ大量に移転する取り決めです。イメージを大掴みに表現すると、「1985年以降、日本の労働者は労働時間の半分をアメリカの国家財政、大企業(主としてグローバル輸出産業)、富裕層(大減税の原資として)、軍事費のために働くことを約束した。これを埋め合わせるため、日本人は血の滲むような努力を払って生産性を2倍にし、国際競争力を維持した」ということです。日米貿易額約17兆円(1988年)相当に係る通貨半額切上のインパクトは計り知れず、経済的な「第二の敗戦」と表現する人もいるほどです。

更に、日本からアメリカに富を移転し、アメリカは国防費を大量に増額したという事実を繋ぎ合わせると、これは実質的に日本国民がアメリカの防衛費の相当額を負担する行為であり、タカ派といわれた中曽根内閣の考え方にも合致するように見えます。つまりは、日本が世界の軍事費の相当額を実質的に負担していたということであり、当時の中曽根首相が、日本の軍事費をGDPの1%まで増額(1985年のGDP315兆円、軍事費3.1兆円)するといって批判されたり、現在の日本が思いやり予算で4,000億円もの費用を米軍に支出している! という「目に見える」議論が、なにやら相当瑣末なものに感じられるくらいです。
それではなぜ日本政府はアメリカに対して自分たちの有り金の大半を差し出すようなことをしたのでしょうか?中曽根内閣はアメリカに一方的にしてやられるほど、頭が弱かったのか、腰抜けだったのか、あるいは、相当な弱みを握られていたのでしょうか?これは私の推測に過ぎませんが、当時のレーガン政権が「スターウォーズ計画」などに象徴される急速な軍備拡大を推し進めたのは、ソ連の財政破綻が起こり得ると判断したためではないかと思います。冷戦下の緊張した軍拡競争において、ソ連がアメリカに後れを取ることは許されませんので、それがどれほど財源を必要とするものであっても、推し進めざるを得なかったソ連側の事情は想像に難くありません。ソ連の正確な財政事情はもちろん公表されていませんので、レーガン政権はCIAルートで確保した諜報を元にしていると想像できます。通常、国家の経済政策・軍事政策の根幹を、信頼に足るかどうかの保証もない諜報によって構築することは、尋常な決断ではないといえますが、当時のブッシュ(父)副大統領は元CIA長官を務めた経歴があり、諜報を経済政策の根拠にする状況としては最低限の要件があったように思えます。

それでも、アメリカ一国でソ連を打倒するほどの軍備拡張を行うことは、相当な財政負担を生じ、当時財政・貿易の双子の赤字はアメリカ経済を大きく揺るがすほどの水準に膨れ上がりました。この目的を達成するためには、どうしても日本の経済的な援助が必要だったのではないでしょうか。このような背景がもしあったのであれば、中曽根首相が日本としてもアメリカの力になることを決断し、プラザ合意、また後にはブラックマンデー後の国内金利引き締めを延ばすことで(これはその後100兆円の不良債権を作ったバブルの原因のひとつになります)、日本経済をまるごとアメリカに提供し、冷戦時代の西側諸国を経済的に支える役割を担ったのではないでしょうか。中曽根首相は大正5年生まれ。海軍士官として戦争を戦い、戦友の死を山ほど見てきた人物が、そのような決断をすることは自然なことだったかも知れません。日本の存在と協力がなければソ連の財政破綻は生じなかったか、あるいはずいぶん後になっていたかもしれませんし、アメリカ自体が財政危機に見舞われ、冷戦の行方そのものも大きく変っていたかもしれません。つまり、ソ連の財政破綻と冷戦の終結において、日本は重大なカギを握っていた可能性があるのです。

以上は、もちろん多分に推理・推測を含んでいますし、あるいは全く的外れな想像かもしれませんが、少なくとも経済を理解することが社会の本質的な動きを捉えるためにいかに重要であるか、つまり、社会を大きく動かす鍵を取得するために、金融・経済に関する深い理解と洞察がどれほど近道であるか、のイメージを提供すると思います。・・・例えば、沖縄の基地問題に関しても、先日アメリカの議会でこの財政難の折、海兵隊が沖縄に駐留する必要があるのか、という議論が起こっているという報道がありましたが、このような声がひとたび潮流となれば、沖縄の米軍基地が経済的な理由で完全撤退することも、あっけないほど簡単に起こり得ます。社会の生態系を立体的に捉えることで、そのような可能性がより具体的にイメージできるようになるのではないでしょうか。

【2010.8.25 樋口耕太郎】

『社会の生態系』 *(1)

社会の変容とともに、大半の病は、その症状とは別のところに原因が存在する、と考える東洋医学や統合医療が見直されていますが、サブプライム金融危機とそれに続く世界同時不況も、根本的な病理はその派手な症状とは全く別のところにあるような気がしてなりません。金融機能不全の原因はお金の構造そのものにあり、実体経済の構造不況は社会の根源的な価値観に起因していると感じます。

このような観点で社会の生態系を見直すと、私は今回の不況において、もっとも大きな影響を受ける経済圏は欧米ではなく日本であり、戦後60年かけて日本が積み上げてきた社会の構造そのものの再構築を迫られていると思っています。歴史を紐解くと、いつの時代も、新しい世界は最悪の経験を乗り越えた社会によって切り開かれてきました。私は、日本がこれから、世界のどこの経済圏よりも長く激しい大不況と、社会・経済の大構造転換を経験するのではないかと予想していますが、その経験によって、地球社会の新世代を切り開く役割を果たすことになるでしょう。なぜならば、日本社会は、一層深まる大不況と、天地が覆るほどの大構造変化だけではなく、①少子高齢化社会と年金・医療・財政の破綻、②家庭と教育の衰退、③労働の質の低下、④農業生産と食の危機といった、いずれやってくる世界の大問題を、世界のどの経済圏よりも真っ先に、そして今後の20 年間に凝縮して対処せざるを得なくなるからです。我々の世代がリードする次世代の日本は、この未曾有の苦難を乗り越えることで、現実的かつ効果的な地球社会モデルを構築する役割を担うことになるでしょう。その意味で、日本は今後の50年、世界をリードする使命と責任を有しているのではないかと思います。これは、過去60年間の資本主義の成長によって、「お金があれば幸せになる」という、人の頭の中で強烈に広まった価値観に起因して、破綻に瀕している世界の社会の 生態系を正常化するプロセスでもあります。このような変遷とともに、金融の世界も収益中心のアメリカ型金融から、価値中心・人間中心の新・日本型金融へと移行するのではないでしょうか。

アインシュタインが大正11年に日本を訪れた際に行った講演の中の1節*(2)です。

遠からず人類は確実に真の平和のために世界の指導者を決めなければなりません
世界の指導者になる人物は軍事力にも資金力にも関心を持ってはなりません
全ての国の歴史を超越し、気高い国民性をもつもっとも古い国の人でなければなりません
世界の文化はアジアにはじまったのであり、アジアに帰らなければなりません
つまり、アジアの最高峰である日本に
私たちはこのことで神に感謝します
天は私たちのためにこのような高貴な国を創造してくれたのです

アインシュタインの言葉は、現在のことを示しているのかも知れません。日本が世界からほんとうに評価されるのは、正にこれからなのだと思います。そして、今後の日本社会の行き先の道筋をつけるのは、周回遅れでトップを走る沖縄社会ではないでしょうか。

【2009.4.28 樋口耕太郎】

*(1) 「社会の生態系」は、トリニティ株式会社第三期(2008年12月31日期)事業報告の内容を、表記タイトルに合わせて修正したものです。pdfファイル(26ページ)をダウンロードしてご覧下さい。また、決算報告書を添付した「事業報告書バージョン」は、ウェブサイトのトップページから、「会社情報」→「事業報告」の画面よりご覧頂けます。

*(2) 1922年12月3日、東北大学で行った講演より。アインシュタインは1922年の11月から12月にかけて6週間にわたって日本を旅し、各地で熱烈な歓迎を受けました。北は仙台から南は九州まで、当時の、殆ど国を挙げての熱狂的な歓迎ぶりと、アインシュタインがこよなく日本を愛した様子は、『アインシュタイン 日本で相対論を語る』でも表現されています。本節の出典については、アリス・カラプリス編『アインシュタインは語る』林 一・林大訳、2006年8月増補新版、大月書店、287pを参照しました。この有名なアインシュタインの「予言」については、日本に対する意外なまでの高評価に納得できない方々(なぜか日本人です)が、出典を確認できない、アインシュタインの基本的な価値観と異なる、という「根拠」によって事実無根だと主張する向きもあるようですが、アインシュタインが日本に訪れた際の国民の熱狂ぶりと、日本を発つ2日前、「日本を科学的国家として尊敬するばかりではなく、人間的見地からも愛すべきにいたったのです」と記し、日本に対して大いな愛情を感じていたアインシュタインにとっては、むしろ自然な発言だと感じられます。 また、カラプリスは1978年から、アインシュタインが残した膨大な資料を整理・編集して出典を明らかにし、アーカイブにまとめる作業をほぼライフワークとされている方で、現在プリンストン大学出版局の巨大な出版事業『アインシュタイン全集』の社内編集者兼付随する翻訳プロジェクトの管理者を務めており、彼女の引用は数多くの原典、伝記、補助的な二次的情報源を重複的に参照しているため、信憑性は高いと考えるべきでしょう。いずれにせよ、われわれ日本人にとってもっとも重要なことは、この引用がほんとうにアインシュタインの発言によるものかどうかよりも、ここに表現されたような日本を、われわれ自身が心から求めるかどうかではないでしょうか。

新年明けましておめでとうございます。

・2008年は世界金融危機が本格化した年として歴史に刻まれると思いますが、今回の金融危機で最も大きな試練を迎える経済圏は、アメリカや欧州ではなく日本でしょう。アメリカや欧州が、経済的に相当大きな打撃を受けることは避けられませんが、その範囲はあくまでも、金融機関と個人のバランスシートの大調整と、それに起因する投資・消費の大幅調整に限られます。これに対して、日本では戦後60年間積み上げてきた輸出国家の基本構造自体が機能不全を起こしはじめている可能性があり、場合によっては一転貿易赤字国家に転落するかも知れません。国家経済の根源的変化から派生する影響は、金融・経済を超えて、労働、家庭、教育、医療、社会福祉、食糧などの社会全般に及ぶことになると思います。麻生首相が年頭所感で、不況から最初に回復するのは日本だと表明されましたが、そのちょうど反対になる可能性の方が高いのではないでしょうか。

・年初から、政治主導で景気対策が検討・実行されると思います。しかし、それは対症療法に過ぎないため、国家の基本構造を再構築する、という本質的な治療行為を却って遅らせることになるでしょう。日本政府の景気対策は、恐らく大恐慌時代の政策を参考にした、ケインズ主義的な財政政策を中心としたものになると思いますが、これは治癒どころか、対症療法としても処方を誤っている可能性があり、更に状況を悪化させることになるかもしれません。これら対症療法の副作用は、主として為替の歪みと国家財政の悪化という形で、エネルギーがマグマのように蓄積されていきますが、永続性がないため、どこかの時点で破綻をきたす可能性が高いものです。発火点がどこになるかは分かりませんが、財政、為替、金利あたりが有力な候補です。少なくとも、2009年以降景気の大減速が長期化して税収が大幅に減少し、財政問題が再燃するでしょう(財政)。長期間に亘って蓄積した為替の歪みに起因して、1ドル50円台といったような極端な円高が進行する可能性があるのではないかとも懸念しています(為替)。また、あまりにも長期間に亘って未曾有の低金利が継続しているため、何らかのきっかけによって日本の金利が上昇し始めると、想像を超える影響を多方面に及ぼすことになるでしょう(金利)。

・2009年は日本社会が構造変化を迫られるはじめの年になるのではないでしょうか。変化すべき構造とは、60年以上の年月と国家政策のほぼ全てを傾けて構築してきた、文字通り国家の根幹を成すものです。しかし、一般論としても、それが特に重要なものであるほど「構造を変化」させることは事実上不可能です。異質な機能が新たに生まれ、それが社会的に広まってゆくという現象が、社会全体では「構造変化」と呼ばれることになるでしょう。

・構造変化によって達成すべき経済の重大課題は、究極的には食糧・資源・エネルギーの確保、すなわち、今後の貿易赤字をいかに縮小し、減少する外貨をいかに獲得するかというものです。同時に、この大きな課題をクリアしながら、①少子・高齢化社会、②崩壊しつつある家庭と教育、③労働の質の低下、④環境と食、という四大社会問題とバランスさせるという、戦後最大の難題に直面することになります。

①少子・高齢化社会は、国家財政で増加する一途の医療・社会福祉費と、破綻に瀕している年金制度、という経済的な大問題を伴います。このテーマは国家財政と年金システムの問題として議論されがちですが、日本が直面している激しい人口動態の変化を前提とすると、これらはむしろ対症療法に過ぎません。われわれが根本的な治癒を望むのであれば、増加する費用をいかにカバーするかという発想ではなく、社会全体の医療ニーズそのものをいかに減らすか、つまり、社会全体をいかに健康にするか、という医療本来の目的に立ち返る必要があります。具体的には、生活習慣(ライフスタイル)の見直しを中心とした予防医学が社会に広まり、医療コストそのものが大幅に削減されること以外に、国家財政と年金の破綻を回避する道筋はないような気がします。特に若年層にも急増しつつある痛風、リウマチ、糖尿病、更年期障害など、社会負担の大きい生活習慣病がいずれ医療分野を超えて社会・経済的な大問題に発展する可能性があります。対症療法ではない根本治療のためには、生活(つまり社会)そのものを変える以外に方法はありません。予防医学は医療者のお金にならない活動であり、医療の利用者(まだ「患者」ではない場合が多いので)にとっては生活を変えるという、一見大きなコストを支払う必要があります(本当はコストではなく利益なのですが)。治癒に際しての最大のネックは、現在の医療システムそのものと、それに従事する人々と、そしてなによりも、経済的な社会生活(つまり、お金)を優先しようとする利用者自身の価値観でしょう。

②家庭と教育の問題はあまりに大きなテーマですが、恐らくその中でも最大の問題は、病理が特定されていない、すなわち問題が何かが分かっていない、という大問題でしょう。病理が特定されなければ、いかなる対策も対症療法に過ぎず、治癒を遅らせる効果しか生じません。病理が特定されない最大の原因は、病理は子供ではなくわれわれ大人にあるからでしょう。少なくともいえることは、毎日の食卓に添加物だらけのコンビニ惣菜を並べ、子供のお弁当に500円玉(買い弁)を渡し、職場や人間関係で自分と社会に対して嘘をつき続ける大人たちが、自信を持って子供を叱ることができないのは当然のことでしょう。われわれ大人の生き方そのものを治癒することなしには、家庭と教育が大きく改善することはないと思います。金額の多寡にかかわらず、お金をなによりも優先する大人の価値観が、本来、どのように生きるか、どのようにすれば人の役に立つか、幸せとはなにか、を伝えるべき教育の現場を、いかにしてよりよい職業と収入を得るか、という職業訓練校に変えてしまいました。この病理の治癒は、両親や教育者自身の人生が、子供に対して胸を張れるものであるかどうかという問題に収斂するでしょう。

③労働の質の低下の問題は、数十年に亘ってボディブローのように効いてくる大問題ですが、そろそろそれが本格的に顕在化しはじめているように見えます。バブル期以降の失われた15年で企業が雇用を拒み続けた若年層の問題が、企業において本来最も活力を生み出す若手・中堅層の、量・質・経験の不足という大問題に発展しつつあります。若手層の活力不足は、30代~40代の中堅社員への負荷を増加させ、管理・収益責任と過剰なストレスなどに起因する鬱などの精神的な病理や、心療内科的な疾患を急増させています。この傾向は今後も増加すると思いますが、間もなく企業が独自で対処できる範囲を超えることでしょう。これは、単に企業人事や事業効率や福利厚生や医療の問題ではありません。経営者・従業員・資本家の根本的なバランスが崩れて、労働環境が持続性を失っているという重大現象であり、企業と社会の構造問題として捉えるべきでしょう。団塊世代の大量引退で、視野が広く、バランスの取れた価値観を有する世代が企業から退出し、この問題を増幅しているようです。日本では依然として、アルビン・トフラーの云う「第二の波」、つまり工業化社会時代の発想から抜けきれず、この大問題に対して、労働の流動化、労働の機械化、外国人労働者や移民の受け入れ、女性の社会進出、高齢者の社会復帰などの対症療法で対応しようとしているように見えます。この問題の治癒は、労働の質、つまり労働の目的、時間、意味、評価、組織などを再定義し、企業と従業員の関係そのものを根本的に見直すことでしょう。パタゴニアセムコなど、世界にはそのようなイメージに近い企業が生まれ始めています。労働の質の概念は抽象的で一見分かりにくいようですが、どこかで明確な成功事例がひとつ生まれれば、社会に浸透するのはあっという間となるでしょう。

④先進国の食糧が農薬・化学肥料など、実質的に薬品と石油によって生産されるようになってから約50年。現代の子供たちは母子間の生体濃縮の第三世代にあたります。生まれながらのアトピー、花粉アレルギー、化学物質過敏症、若年化する認知証、増加する鬱などの原因は不明とされており、近い将来も原因が特定されることはないと思いますが、一因がわれわれの食事にあるのかも知れない、と疑う人は増えています。仮にこれが真である場合、あるいはこれが真であると信じる人が一定数に達した場合、あるいは生体濃縮の第四世代、第五世代と進むにつれて問題が深刻さを増す場合、世界の食糧生産の方法自体が、最大の環境問題として認識される可能性があります。これは、20世紀の前半で既に解決済みと考えられていた農業生産の問題が、現代の環境・経済・社会の大問題として再浮上するという大事件であり、そして、その問題が最も顕著に現れるのは、自給率が先進国中最低水準で、農薬消費量が世界的に高く、農産物の(すなわち、窒素と水の)最大輸入国である日本においてでしょう。

・重要なことは、別々の構造による別々の問題と考えられがちな、国家財政、社会福祉、予防医学、家庭の食事、道徳を優先する教育、社会の労働環境、食糧自給率、農業生産、環境保全などの問題は、別々どころか全てが深く関連しており、同一の病理によるものであり、同一の治癒が有効であるということでしょう。社会の生態系のバランスが、お金優先の価値観によって大きく崩れたことがこの病理の根源であり、質を優先する価値観によって社会の免疫機能を復活させ、人間関係を豊かにする社会のバランスを再構築することのみが、本質的な治療となるでしょう。西洋的な対症療法中心の医療から、東洋的な統合医療による治癒へ移行するイメージと重なります。そして、これらの全ては、今後経営者が事業的に直面せざるを得ない経営問題になるでしょう。逆に考えると、経営者の発想の大転換と、新たな価値観次第で、経営者が社会的に果たす役割が高まることを意味します。

・日本の構造変化は、長く深い不況を伴いますので、何年で回復するかという楽観的な事業予測は致命的になるでしょう。これほどの構造変化において、不況を「耐えしのぐ」という戦略に出口はありませんので、根本的に発想を転換し、全く新しい社会構造に適応する事業戦略を選択するべきでしょう。既存の仕組みは、事業的に成功していたものほど、収益を生んでいたものほど、効率的だったものほど、それが資本的にも組織的にも大きいものほど、大都市圏ほど、社会的に影響力を持っていたものほど、常識的であったものほど、大きなハンデを抱えることになります。既存の仕組みを追加・補強・補修するよりも、構造変化後の社会で本当に必要とされるもの(質)を残し、その他を徹底的にそぎ落とすことが戦略的に有効です。不況期には特に、商品の価格帯に限らず、殆どの企業が商品やサービスの質を低下させるため、いかに質を高めるかという課題に正面から向き合うことに成功した一握りの企業のみが、この構造変化を大躍進の好機にすることができるでしょう。

・事業の質が再定義されるでしょう。質を高めることに総論で賛同する人は少なくありませんし、経営者は自分の事業の質に自信があるといわない人の方が少ないのですが、現実には、この構造変化において戦略的に「質の高いものとはなにか」を定義できる事業者は、殆ど存在しないといって差し支えないくらいかもしれません。既存社会の専門家は、いかに事業規模を拡大し、大量の商品を販売し、大量の資本を調達し、費用を削減し、事業効率を高め、ブランド価値を高め、収益を最大化するか、という意味におけるプロであり、いかにして事業の質を高めるか、それ以前に、そもそも「質の高いものとはなにか」、という、一見のんびりした課題を突き詰める余裕もなかったと思います。反面、既存社会において、本当によいもの、質の高いものを一筋に追求してきた一握りの人々は、それが経営者であれ、職人であれ、ビジネスマンであれ、教員であれ、主婦であれ、ほぼ例外なく、自分が好きな仕事をしており、正直で、非効率で、貧乏で、ほぼ無名で、組織や社会において割を食っていて、一般的にカッコいい存在ではありませんでした。構造変化後の社会において、事業の質が再定義されるとともに、このような人々に少しずつ、やがて大きくスポットがあたることになるでしょう。

・情報化社会の発展によって、口コミを妨げる壁が消滅しつつあります。ひょっとしたら、インターネットなどのテクノロジーが社会にもたらした最大のインパクトは、この点にあるかもしれません。結果として嘘をつく、隠す、オープンでない(オープンにできない)、ということのコストが急増しています。近年企業の不祥事が急増していますが、これは企業のモラルが最近になって低下したというよりも、企業や経営者の嘘が顕在化しやすくなったと考えるべきでしょう。この傾向は益々高まると思います。これが意味することは、第一に、「情報管理」の概念が消滅に向かうということです。今後の社会において、企業が情報を隠すことは益々困難、恐らく事実上不可能になるため、「情報が漏れないように管理する」という発想では対応不能になるためです。このような次世代情報化社会において唯一有効な対策は、「情報が漏れたとしてもなんら差し障りのない経営を行う」ことであり、企業や経営者や社員に隠し事や嘘がある程、企業は高いリスクを抱えることになるでしょう。このことは第二に、経営者の正直さや人間性が事業的に重要になるということです。企業を成長させていれば、経営者のプライベートにおける人格と行動の全てが許容された時代は終わり、経営者の人格、言動、夫婦関係、家庭やコミュニティでの人間関係、友人関係、不倫・愛人関係、お酒の飲み方、個人的なお金の使い方、センス・趣味・嗜好、小さな約束事に関する言動、正直さ・誠実さ・社交ではない思いやり、すなわち、経営者の生き方の質が、事業の質と成果を大きく左右することになるでしょう。成果を上げた順に昇進する従来型の組織は非効率となり、人格の順にリーダーが登用される組織は、経済的・事業的な効率を大きく高め、企業価値向上の源泉となるでしょう。

・結局のところ、100年に一度といわれる未曾有の大不況とは、正直で、人間関係を大事にし、心からしたい仕事をし、物事の質を徹底的に追求することが、社会で本格的に機能し始める時代のはじまり、つまり人が社会の奴隷であった時代から、社会が人の幸せに寄与する時代への構造変化だと思うのです。

皆様にとって、今年も幸せな年でありますように。

【2009.1.1 樋口耕太郎】