お元気ですか?
今日はクリスマスイヴですね~。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていて、
由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた太陽神への
収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスになったと
言われています。冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを
感じる一方で、不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうです。

これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、友達同士でワイワイ騒いだり…が主流の
ジャパニーズクリスマス、あなたは今夜はどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。

さて、こんなふうに季節の暦の折々にお便りをお送りさせて頂きましたが、
今年も最後のお便りとなってしまいました。
毎回お読みいただき本当にありがとうございました。

今年もたくさんの方々と出会うことができ、様々なお話を交わすことが
できました。そのなかで、とても意外なことなのですが、気づいたことが
あります。

たくさんの方が、自分を受け入れられなかったり、
自分の待遇や置かれている立場に対して疑問や不満を持つあまり、
なんだか自分が認められていないような気がして、寂しくてせつなくて
仕方がないと感じておられました。
自分がイヤで鏡さえ満足に直視できない人もいらっしゃったほどです。
本当に意外なことでした。

深い自己否定がある時、私達は幸福であることを、自分に許すことができません。
自分が嫌いで、自分を小さくしか思えないと、幸せがやってきても、
「私なんて」「私にはできない」と思ってしまうんですね。
自己否定はなかなか手ごわい症状です。
誰もがその状態の自分が好きではないのに、
その状態の内面にとても苦しんでいるのに、
そこに居続け、幸福をさえぎってしまうもったいない症状です。
もし自分が好きになれず、いろいろなことに自信が持てずに、
いつも心が痛かったなら、あなたはそれまで自分に向けて、
自分を傷つけるような、自分のエネルギーを奪うような想いを向けていたのです。
このことに気づき、これをやめる時、あなたのエネルギーは、優しいエネルギーで
塗りかえられていくはずなのです。

実は、私達の生命と細胞は、自分を認めてくれる優しいエネルギーが
欲しくて欲しくて乾いています。存在を認められ、愛されること、
優しいエネルギーを注がれることを、とてもとても必要としているのです。
あなたは、あなた自身に優しい言葉をかけてあげていますか?
それはとても大きな温かい癒しの波をあなたの中に広げるのです。
自分に声をかけるなんて、恥ずかしい、バカバカしいなんて言わないでください。
あなたの心の内側に優しいエネルギーを流し始めてあげましょう。
自分の心を嫌わずに、じぶんのよくないところばかりを見て嫌わずに、
自分を認め、ほめてあげてください。
「頑張ってくれてありがとう」
「よくやってるね。すごいよ」
などと、あなたの優しい言葉で、自分の命をなでてあげてください。
もし失敗しても、自分を責めるのを優しくやめて
「ああ、いい経験したね。大丈夫。これで成長できるよ。頑張ったね」
とあなたを認める優しい言葉を心の内側に届けてあげるのです。
不安が出てくるたび、その不安を認め
「そうだね。怖いよね。でも必ず越えられるよ」
と、あなたが誰かに言ってもらいたい優しい言葉を自分に注いであげるのです。
そのことにより、いのちは幸福を生み出す力をたくさん充電できるのです。
何度でも、何度でも…。
繰り返し、繰り返し…。
いのちがほっとするのがわかるはずです。実は、それだけで涙が溢れる人もいます。
心の硬いところが溶けて、深い呼吸ができてホッとする人もいます。
スッとラクになる人も…。

自分の内側にどんなエネルギーを注いでいるか、あなたがあなたをどのように
扱っているか、そこにあるものがあなたの人生として創造されていくのです。
優しく温かく存在を認めてくれる愛のある言葉は、私たちの細胞がとても
必要としている大切な力なのです。
時には泣き崩れるほど、それを必要とするのです。
ですからその優しさを溢れさせることを出し惜しみしないで豊かに
流れさせましょう。

そしてまた、あなた自身が認めてあげることで喜んでくれる人、
いっそう頑張ってくれる人がいないか探しましょう。
探すといますよね?
まず奥様、旦那様。パートナー。お子様。後輩、先輩。お仲間、お友達…。
誰も認めてくれないと嘆く前に、あなたが誰かを認めましょう。
そうすればきっと、幸せが生まれます。
ほしいものがあるなら、まず自分が与える人になりましょう。

あなたの愛する人たちに、どうぞステキな言葉をかけてあげてくださいね。
わかっているはずと思い込まずに、大好きだと伝えましょう。
何度でも温かい励ましと、存在を認めるステキな言葉をかけて
「よく頑張ってるね」「ステキだね」
と命を優しく包む言葉をたくさんかけてあげてください。
あなたが優しい言葉を溢れさせる時、あなたの内側とあなたとかかわるすべての
人に、幸福な安らぎのエネルギーが伝わり、広がります。
来年もまた、優しい呼吸で、温かく生きたいものですね。

さて。
もうあっという間に、一年の終わりということになってしまいました。
なぜとはいえない気ぜわしさと、街の賑わいとはうらはらに一抹のさみしさも
おぼえる時です。

そして。
今年も本当にありがとうございました。
世の中も大きく揺れ動いた今年一年でしたが、私にもこの一年いろいろなことが
起こりました。
帯状疱疹で仕事を長くお休みしてしまったり、大家さんとトラブルがあったり、
ひどい腱鞘炎になったり、小さな事も含め本当にいろいろと…。
自分の身に何かが起こる度ごとに、その道のエキスパートのみなさんに教えを乞い、
助けていただきました。医師、薬剤師、検査技師、建築士、会社経営者、
マスコミ関係、司法書士、教師、税理士、会計士、銀行マン、弁護士、
政治家……数え上げるとキリがないほどです。
つまりはそれだけたくさんの異業種の素晴らしい方々に、
支えていただいているんだということをしみじみと想いました。
だからどんなトラブルが起ころうとも、いつもそういう方々に
支えていただきながら今日があることの幸せの方が、どんなに幸せなことかと
いうことに改めて思い至った次第です。
いつもお心にかけていただきまして本当にありがとうございます。

あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように、
そして何より、あなたがどうかこのうえもなくお幸せでありますよう、
心からお祈りいたします。

【2008.12.24 末金典子】

鹿児島では雪!ということもあってか、さすがの沖縄も寒いなーと感じて
おりますが、カゼなどひいておられませんか~?

この連休は勤労感謝の日ですね。

「自分の大好きなことを仕事に。」
「自分の夢を暮らしに。」

でも実際、自分のいちばん好きなこと、自分の夢を仕事にしている人は
この日本にどのくらいいるでしょうか。

日本社会はいつの間にか、好きなこと、本当にやりたいことは趣味で、
仕事はお金を稼ぐための労働…となってしまったような気がします。
好きなことはお金にならない、と。

でも、そのために多くのことが、置き去りにされ犠牲になりました。

現代社会は、経済成長することを最優先に、仕事の効率化を徹底的に行い、
職人に代表される、好きなことを、ゆっくり仕事として過ごすスタイルを捨て去り
他者や自然のことを考えず過剰な開発や競争を続け、現在直面する地球環境問題や
貧困、戦争など、優しくない社会を生み出したのです。

例えば、強い会社の人間は下請けの弱い会社の人間に威張り散らす。
弱い会社の人間はさらに弱い会社の人間に威張る。
耐震設計偽装事件などは「金の亡者」が思いついた悪魔のアイデアを卑劣な
力関係によって下に押しつけた結果ではないでしょうか。

こう考えると、日本人は今、お金によって心がいじめられているのかもしれません。
確かにお金は欲しいですよね。いっぱい欲しい。でも人を泣かせてでも欲しいとは
思わない。それが普通ですよね。

でも現実には「人を泣かせてでも自分の儲けを優先する」のは「正しい経済行為」
であるかのようです。象徴的だったのは、村上ファンド。
株式を上場している以上誰が買ってもかまわないし、
現実にあの騒ぎで阪神電鉄株が値上がりしたりしたんだから文句のつけようも
ないのだけれど、根っこは人が懸命に育てた会社をお金で買い、甘い汁だけ吸って
後は放り出すやり方に対する「人としてどうなのか」といった
反発だったのでしょう。これでは庶民の怨嗟の声は強まるばかりです。
儲けたお金ですごく良いことをすればいいのに。愛はお金で買えませんが
お金を愛に替えることは可能だと思うのです。「お金を持つ者」が最強者と
いうのでは、「情」や「心」の育つ場所がなくなってしまいます。

心はお金で育ちません。心は人の愛が育てるのです。

人を泣かせ、苦しめてまで自分の利潤だけを追求するという「心」は、
犯罪ではなくとも悪事でしょう。汗もかかず何も生み出さず、
お金を転がすばかりの錬金術に憧れる人がたくさんいるというのが
日本人の精神的現状です。経済活動とは何でしょう。仕事とは何でしょう。

こんな社会では、人々は常に過大なストレスを、浴びながら生活を営まなければ
なりません。そして仕事で疲れた心身を労るための、さまざまな消費が
行われることになるのです。

もし多くの人が、自分自身の本当にやりたいことを大切にして、
いちばん「好き」を仕事にしたら…。きっと、疲れた自分を癒すために使われる、
過大なエネルギーや資源の消費は、ずい分減るんじゃないかと思います。

もちろん、好きなことをやっていても、楽しいことばかりではなく、
苦労や努力は絶対に必要になります。でも、自分がいちばん「好き」だからこそ、
その壁を乗り越える力が湧いてきます。

いちばん好きを仕事に。
それこそが自分自身の究極の癒しであり、同時に自分が生き生きと輝くことで
他者を癒す、地球や世界を優しい社会にする、処方箋の一つなのではないかと
思います。

あなたもどうか、いちばん好きを仕事になさってくださいね。
今そうではないのなら、今日からはぜひとも御自分の仕事を「好き」になって
いただきたいと思います!

さて、今日はいよいよボジョレーヌーボー解禁の日!
いつもうんとがんばって働いているご自分への御褒美に、
おいしいワインの優しいひとときをプレゼントなさってあげてくださいね。

【2008.11.20 末金典子】

お元気ですか~?

今月はハロウィンの月ですね~!
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。その後、多くの聖人たち(Hallow)を
祝う万聖節となり、近年、欧米では魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を
回ったり仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのこと。
日本では子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事が
ポピュラーなアメリカでは、大人たちも本格的な仮装に身を包み、
街中はもちろん職場にまで登場。友達や仲間同士で集まり、パーティで
盛り上がります。
大人もたまには子供に帰って遊ぶという気持ちは大切なことかも
しれませんね。

私の子どもの頃の気持ちをちょっと振り返ってみると…

私の叔母という人は、フランスでデザインの仕事をしていただけあって、
それはそれはモダンで、本名が山本富士子というだけあってとても美しい人で、
私が子どもの時から「おばさん」などとは決して呼ばせず、フランス語で
「タンタン」と呼ばせていた賢く気品のあるステキな女性で、
お洋服のセンスから、しゃべり方、香りや、身のこなしに至るまで
全てが私の憧れの人でした。
だから、独身のタンタンのお部屋でお留守番などしたあかつきには、
今がチャンスとばかりに小学生の私は、タンタンの香水を自分にもふりかけ、
母には似合いようもない「シャネル」なんていう口紅を塗り、
タンタンのフランス製ワンピースを引きずるように着て、
タンタンのクロゼットの中にうずくまり、しばしタンタンの香りに包まれながら、
大人の女性であるかのようなお洒落な気分にひたったものでした。

そのタンタンが、私が小学校にあがるころ
「これ、大人になるまで大事にとっておいてね」
と、ピンク色の小さな壜を私の手に握らせてくれました。それは、当時、
子どもの目にはまだ珍しかったマニキュアの壜でした。
ときめくようなあのときの気持ちを、いまも忘れることができません。
家に帰った私は、子ども部屋の本棚の上に、ピンク色の小さな壜を飾りました。
そして、それを眺めては、大人になったら、と思うのでした。
タンタンの贈りものは、マニキュアではなく、大人になることをたのしみに待つ
気持ちだったと気がついたのは、ごく最近のことです。

私も、こども達に大事なものをそっと手渡せる、そんなひとになりたいものです。
そう願わずにいられないのは、子どもが、大人の姿をうつす鏡のような存在
だからかもしれません。
たとえば、得する生き方をしようと躍起になっている大人を間近に見た子ども達は、
そうかそれが大事なんだな、と思うでしょう。
たとえば、人との間に信頼関係をつくろうと努力をする大人を間近に見た
子ども達は、そうかそれが大事なんだな、と思うでしょう。

また、子どもの頃の気持ちに帰る…とは、「やりたいことをやる」ということ
なのではないでしょうか。
大人になってしまうと、何かをするには理由がなくてはならないと思い込んでいる
向きがありますよね。目的は何か、というわけです。
それってばかばかしいですよね~! 本当は、やりたいことなら
何をやってもよいし、やりたいことをやるべきなのです。
理由は一つ、やりたいからやるんです。他に理由はありません。
自分のやることなすことに理由はいりません。何事にも理由を見つけようという
考え方をすると、新しい、心はずむ経験からは遠ざかってしまうことになります。
子どもの頃は、ただ好きだからというそれだけの理由で、一時間もバッタと
遊んでいたのではありませんか? 山登りや森の探検にも出かけたことでしょう。
その理由は? 「したかったから」なのです。
でも、大人になると、ものごとにはちゃんとした理由をつけなくてはならないと
思ってしまいがち。理由をつけたがる気持ちが強いと、なかなか心を開いたり、
成長しにくくなってしまいます。自分自身も含めて、誰に対しても、
どんなことでも、もう二度と理由づけしなくていいとわかったら、どれほど
自由な気分でいられることでしょう。
自分がやることは、何にでも理由がなければならないという気持ちを
捨ててみませんか?
なぜかと聞かれたら、相手の気に入るようなもっともらしい理由をつける必要は
ないのだということを思い出してください。
自分が決めたことは、ただやりたいからという理由だけで、やればよいのです。
そうしたいから――それだけの理由で、やりたいことは何でもやればよいのです。
こう考えると、経験に新しい展望が開け、
自分のライフ・スタイルとなっているかもしれない「未知への恐れ」を
なくす一助となるかもしれません。

さて、ここまで、子ども…子どもの気持ち…と書いてきたのですが、
わたしは子どもを持つ機会には恵まれませんでした。(まだいけるかも…?!)
でも、お腹を痛めた子どもがいなくても、子どものような存在のお友だちを
たくさんもつことができました。
お腹を痛めることは、神秘です。
でも、神秘があっただけでは、話ははじまりません。また、嘆いていても
しかたのないこと。
それよりも断然私が大事にしたいのは、世代の異なる人同士、お互いに
育ちながら生きていくということです。
この実感にたどり着くことができたのは、今までに出会った
お一人お一人のおかげです。心から、感謝を捧げます。

さてさて、今月は子どもの気持ちに帰って、ハロウィンをわいわい
楽しみましょう!

「遊びに来てくれなきゃイタズラするぞ!」

【2008.10.17 末金典子】

お元気ですか?

オリンピックや夏休みも終わり、みんなの気持ちも穏やかな秋に向かい
落ち着きつつありますが、あなたの夏はいかがでしたでしょうか。

さて、月曜日は敬老の日ですね。
この日は、私の大好きな聖徳太子が、悲伝院というお年寄りの救護施設を
設立したことにちなんで作られた国民の祝日です。お年寄りへの感謝と尊敬を
思い出させてくれる日でもありますね。

毎年この月には、私の祖父母の思い出などを書かせていただいて
いるのですが、今年は少し趣きを変えて「歳をとること」について
考えてみたいと思います。

そこで、あなたに質問です。

あのときいちばん幸せだったと言えるのは、いつですか?

もう卒業した、と思うことは何ですか?

愛読書は、と聞かれたら何と答えますか?

これだけは「ちょっとしたもの」と胸を張れることは何ですか?

やらずに過ごしてきたことは何ですか?

これからの10年、どうしますか?

夫として、父として、女性なら妻として、母として、独身なら社会人として、
これまで過ごしてきた時間を、「ちょっとしたもの」と振り返って
胸を張ることができる。それがだいたい50歳くらいなのではないでしょうか。
裏返せば、築いてきた“人生のキャリア”という見晴らしのよい場所を得て、
暮らしの楽しみを再構築するための、またとない時間が広がっている、
とも言うことができるのではないでしょうか。あらためて「個人」に戻ることが
できた人だけが、その時間の広がりへ歩みを進める資格があるのでしょう。
そうなると、趣味も仕事も、もう“使い捨て”程度のことには時間と力は
注ぎたくはありませんよね。

あなたは今何歳ですか?

これから迎える10年、さあ、覚悟はよろしいですか?

生まれてくる時代も場所も環境も、選ぶことはできません。
たぶん、死んでいくときも同じで、時間も場所も思うようにはならないと
思います。ただ、わかっていることは、生まれたのだからやがて死ぬという
ことだけ。では、生と死のはざ間で、自分の思うようになる時間と環境が
どれほどあるかというと、これも相対的に見れば大して長い時間ではありません。

こういう忙しい現代に生きていると、人生の中で自由になることができる時間を
いかに使い切ったかで、その人の幸福感は違ってくるのでは…と思ったりも
します。
人間が幸福を感じるのは「刹那の中に永遠を見たとき」といいますが、
そういう瞬間はいつでも起きるわけではありません。よほど上手に考えて時間を
やりくりしないと、自分のための時間はなくなってしまいます。常日ごろから、
刹那の中に永遠を見られる段取りをきちんとしておきたいものです。
要するに、人間の一生を集約してしまえば、自分で自分を思い通りにできる
時間は本当にわずかなのです。

地球上に生きている人類すべてに時間は平等です。唯一の平等原則かも
しれません。それなら、私は「私自身による、私自身のための、私自身の人生」
を創造し、できるだけ楽しく生き抜いてしまうほうが賢いのではないかと
思うのです。言ってしまえば、下手な悩みは休むに似たり。

では、それはどんなふうにすれば創造できるのでしょうか。
それほど難しいことではありません。
日常生活の中から、できる限りわずらわしいことを排除していけばよいのです。
また人間関係でも「自分は自分、他人は他人」という線引きをきちんとする。
こう言うと、いかにもわがことばかりの「ミーイズム」のように感じたり、
「冷たい」と思ったりしてしまうのですが、このせちがらくも忙しい、そして
いまだ成熟の域に達しきらない現代社会をスマートに生き抜こうと思ったら、
お互いが「自立した社会人」にならなければいけません。
いつの世も人情や愛情は替えがたく最も大切なものです。でも、お互いの存在に
必要以上にもたれかかったり、べっとりとよりかかったままでは、「情」に
つぶされて自立した人間が育たないように思います。

「自分自身のための、自分自身による、自分自身の人生」。
読んでしまえば、あまりにも当たりまえで、あまりにも身近な言葉です。
でも、この言葉を現実のものとして、自分の手に入れるのは相当至難の技だと
思います。しっかりした自立の精神で、自分自身の人生を築きたいものですね。

限りある人生です。あなたも時間を大切に上手に使って、ぜひ、より輝きに
満ちた人生を作り出してください。

最後にもう一度…

これからの10年、どうしますか?

【2008.9.12 末金典子】

お元気ですか?
沖縄は久しぶりに台風が直撃しましたが、あなたは大丈夫でしたでしょうか。
金曜日はさすがにバスも終日運休しましたので、仕事もお休みさせて
いただきました。
昨日は本土で大きな地震もあったりと、天災続きでたいへんな連休に
なってしまいました。お見舞い申し上げます。

さて、昨日は海の日でしたね。あいにくの雨で海水浴も叶わず、
お部屋の窓から雨模様の海を眺めてすごしました。

太陽系の惑星の中で、海があるのは地球だけです。生命が存在するのも…。
そして、青い惑星と呼ばれるように、私たちが住むこの地球の70%は海です。

地球ができたのは今から46億年前。ごく小さな惑星同士が衝突・合体を
繰り返して、しだいに大きな惑星ができあがったと考えられています。
衝突の熱のため、当時の地球は、1700℃くらいの高温。ドロドロに溶けた
マグマが地表をおおい、水蒸気や窒素、二酸化炭素などを含むガスが上空に
立ち込めていました。その後、地球の温度が急速に下がると、ガスの中の
水蒸気が冷え、雨となって地上に降り注ぎます。これが海の始まりでした。
今から43億年ほど前のことです。

この雨にはガス中の塩化水素が多く溶けていたため、最初の海水は
塩酸のようなもので、とても生命の住める環境ではありませんでした。
しかし海に接する岩石から、ナトリウムやカルシウム、カリウム、
マグネシウムなどさまざまな無機物がしだいに溶かし出され、
大規模な中和反応が起こります。その結果として、今のような、塩辛くて、
ほぼ中性の海ができあがったのです。

この海の中で、炭素化合物の一種であるアミノ酸が自然合成され、
そのアミノ酸が集まって作られたたんぱく質から、最初の生命体が生まれました。
アミノ酸の生成は化学反応の一種であり、水の分子のないところでは
むずかしかったと考えられます。またオゾン層の形成されていなかったこの時代、
強烈な紫外線が降り注ぐ地上に、生命体が住むことは不可能でした。やがて、
少しずつ進化した原始的な海中植物の中に、二酸化炭素を取り込んで酸素を出す
「光合成」を行うものが現れたことは画期的でした。この酸素を取り入れて
呼吸する「動物」が出現。その後長い進化の歴史を経て、私たち人間が
生まれたのです。

このように、海は、私たち人間が生まれるずっと前からこの地球に
存在しています。私たちが知りようもない遥か昔の記憶がそこには刻まれて
いるのです。
生命の誕生と死、地球上で繰り返される闘いと破壊、人間の豊かさと愚かさ、
海はすべてを見ています。
私たちは昔から、海に対してある種の浪漫を抱いてきました。
見ることのできない海の彼方に想いを馳せ、様々な夢や伝説を創り出して
きました。
私たちの想像力をかきたてる未知なる海は、たとえて言うなら、母なるガイア
(地球)の羊水。私たちの生命の源がそこにはあるのです。

不思議なことに、お母さんのお腹の中で赤ちゃんを育む羊水は、
ミネラルバランスなどの組成が、古代の海水と大変似ているそうです。
広い海を眺め、波の音に耳を傾けていると自然に心が癒されるのは、
海が私たちのふるさとだからなのかもしれません。

そんな海は、誰もが普段身につけている鎧を脱ぎ捨て、裸の自分に戻れる場所。
そこでは自分を偽ることができません。子供がどんなにウソをついたり
ごまかしたりしても、お母さんには全部ばれてしまうのです。
私たち子供は、母なる大自然には何ひとつ勝つことができません。
今回の台風や地震の爪痕ひとつとってもそうです。
どんなに虚勢を張ってみても、いえ、虚勢を張れば張るほど、ちっぽけな自分が
浮き上がってしまいます。
この夏、そんな自分の弱さを認めて、海に思いきり甘え、私たち生命の源に
帰って、その大いなるメッセージに耳を傾けてみませんか?
夏はエネルギーが解放される季節です。じっくり自分を見つめる時間を持ち、
あなたの内面に手をかけてあげてくださいね。

【2007.7.17 末金典子】

お元気ですか?

実は、私、先月病気で倒れてしまいました。
仕事お休みさせていただくこと1ヶ月と2週間。
その間、多くの方に大変御迷惑をおかけしてしまいました。
本当にごめんなさい。でもおかげさまで、今日より、ようやくまた、
元気に再開させていただくこととなりました。

何の病気に罹ったかと申しますと、皇太子妃・雅子様が罹られて有名になった
「帯状疱疹」という病気なんです。この病気、御存知でしょうか?
私達が小さい頃にかかった水ぼうそうのウイルスは、実は長い間体に潜んでいて
よほどの疲労や大きなストレスが溜まった時に、免疫力が落ち、そのウイルスが
また復活するのだそうです。
そしてそのウイルスは、神経節から出て活動を再開し、皮膚に帯状の水ぶくれを
つくります。この水ぶくれ自体はそんなに激しい痛みではないのですが、
厄介なのは、体中の神経に直接針で突き刺されているような疼痛や激痛が、
体中を24時間襲うことなんです。
また、首から上にこの疱疹が出てしまうと、顔面神経痛や失明、聴力への影響が
出るなど大変恐い病気でもあるそうです。

この厄介な病気に私も罹ってしまい、仕事を5月11日から6月25日まで
お休みさせていただいていたという訳なのです。
この間にご連絡をくださった方、本当にすみませんでした。
御迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。
また、たくさんの温かい励ましやお見舞いのメール、お電話など
本当にありがとうございました。

20代の頃よりの2足のわらじ生活。睡眠時間も4時間あればいいほうという
毎日でした。気が緩むお正月休みやゴールデンウィークにはどっと熱が出たり
寝込んだり、ということがあったとはいえ、大きな病気もせずに
頑張ってこられたことが健康への過信となっていたのかもしれません。
長年の疲れやストレスを、その時その時で、自分ではしっかりと
解消していたつもりでも、実はどっさりとたまっていたのかもしれません。
それに、今やもう、ちょっぴり(!)ですがトシでもありますし…。
だからちょっとショックでもあり、ビックリもしました。
そういえば去年のこの月も4日間ほど寝込んでしまっておりましたっけ。

それにこの帯状疱疹。痛いなんてもんじゃぁありません!!!!!
神経に直接針で突き刺されているような痛みですから、
高圧電流をバシッバシッと流されているような鋭い痛みが1日中続きます。
疱疹が出始めて72時間以内に治療を開始した私でこうなのですから、
治療が遅れた人になるとさらに痛みが激しいらしく、麻薬を処方される
そうです。前兆としては、体のあちこちがピリピリッと痛みます。
思い当たる方は、是非すぐにでもゆっくり休養なさってくださいね。

というわけで、このお休みは激痛に耐えに耐えた辛い毎日でした。
でもこうも思いました。
このウイルスが出てくれたからこそ、自分の体のSOSに気付くことが
できたんだと。
もっと大事に至っていたかもしなかったんだと。
「痛み」ということだって、イヤなことだけれど、
仮に、人がもしも「痛み」というものを失くしてしまうことができたとすると
どうでしょう?
ストーブなどに触ってしまっても、痛みがなければ、そのまま手を焼き続けて
しまいます。
体をケガしても病気をしても、痛みがなければ、
気付かなかったり、放っておいてしまったりして、腐ったり、死んでしまったり
するのではないでしょうか。
そう考えると「痛み」を感じるということはとても大切なことですよね。

あなたも痛いところはありませんか?
心は悲鳴をあげていませんか?

しっかり感じてあげてください。
しっかり耳をすませてあげてください。

自分の感覚を感じることができたり、
自分の声を聞くことができる人は、自分だけなのだから。

ところで、
このお休みの後半は、人間ってこんなに眠ることができるの?!というぐらい
眠りに眠り、ベッドでず~っと横になっていたり、ぼ~っとしていたり。
すると、何故か子供の頃のことをたくさん思い出しました。
夢にも同じシーンが出てきました。

おばあちゃんの家の近くにかなり大きな池がありました。
にわか雨が通り過ぎると、あたりは池のつづきのように濡れ、
そこには子どものころせつないほどわくわくした、あの「夕方」がありました。
「雨やんだ。行ってくるね」
そう言っておばあちゃんの答えを確かめる間もなく、家を走り出た気持ちを
思いだします。
水面に、小さな黒いものが浮かんで、いえ、浮かぶというよりは、
すべっているといったほうがいいかしら。とにかくたくさん泳いでいるそれは、
「アメンボ!」
古い友だちにばったり出会ったような懐かしさです。
「元気だった?」
小学校の理科の時間に、アメンボのような虫たちが、水に浮かんで泳ぐのは
「表面張力」によるのだと教わりました。理科はからきしだめでしたが、
水に棲む生物、それからアメンボやミズスマシみたいにか弱いけれども
きっぱりした生き物に興味があったので、「表面張力」のことはおぼえています。
大人になってからは、グラスにビールをなみなみと注いでもらって、
「やあ、表面張力だあ」
なんていうときしか思いださなくなりましたが。そうでした。表面張力は
アメンボやミズスマシにとって必要欠くべからざる環境条件なのでした。
(アメンボみたいに生きたい)
ふとそんな思いが湧きました。
なんでも力ずくで片づけようとしないで、肩肘張って頑張り過ぎないで、
肩の力を抜いて、深呼吸して、そして、
表面張力みたいな自然な力を頼みにしたいな、と思ったのです。
スーイスイって。

誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を、慈しんであげてくださいね。
感謝して大切に扱ってあげてください。
そしてどうか心のどんな小さな声も聞き、
大切に、大切にしてあげてくださいね。

いつもあなたがお健やかでいらっしゃいますように。

【2008.6.26 末金典子】

ゴールデンウィークも終わっちゃいましたね~。
有意義なお休みをお過ごしになられましたでしょうか。

さて、
この春に新生活のスタートを迎えた人も多いことと思います。
転職、就職、転勤、帰郷…。
生きとし生けるものにとって春は、節目となる季節ですね。
新環境へと飛び出して行く人などにはわかりやすいですが、
環境が特に変化するわけでもなく、春だからといって、
これまでと何も変わらずに同じ時間を過ごす人も多いかもしれません。
でもその場合でも、ただぽかぽかと過ごすのではなく、自らあえて
奮起することが大事なのではないでしょうか。
句読点のない文章が、物語に混乱をきたしたり、途中で飽きてしまうように、
節目という人生の句読点を設けないと、生きることに行き詰ることが
多くなってしまいますから。

人生は基本的に、だらだらと流れ続けるものです。
でもそこに、物差しのように目盛りを刻んでいくのはあなた自身。
その後押しをしてくれるのが、草木も芽吹く春をはじめとした、
季節の感覚です。だからお便りはいつも季節の節目ごとに
お贈りさせていただいているのです。
人間も自然の一部ですから、これからは意識して、四季に合わせて
生きるべきだと思うのです。

恋愛でも仕事でも、自分の中の芽生えを大切にするのが、まさに今の
春の季節。
自分はどんな花を咲かせることができるのだろうか……なんて、この時期は
考えすぎず、ただただ、地中から顔を出すことだけを目指してみませんか。
そして夏は、春の発案を大いに繁茂させ、
秋口にさしかかったら、実りを意識、秋たけなわで収穫しましょう。
そして冬は、次の春のために、じっくりと英気を養うのです。

「春になったら○○をやりたいけれど、忙しい……」と言う人も
いらっしゃいますが、時間もお金も、後からついてくるものです。
あの時使わなかったお金が今あるかといえば、決してそうではないはずです。
それよりも、春はひらめき重視で。考えすぎて足が止まってしまい、
「今年はいいや……」と考えないでください。
それに、「いつかこの会社を辞めてやるぞ」とか
「いつか奥さんと別れて君と一緒になるからね」なんて言う人に限って、
実際には実行できないもの。実行する人はスパッと行動に移しますよね。

毎年、春は必ず巡ってはくるけれど、そのたびに、あなたは一つずつ歳を
重ねています。これは“若さがないと何もできない”といっているわけでは
なくて、一年一年経験を積むたびに、人は賢くなり、それゆえ臆病にも
なっていくということ。先送りにすればそれだけ、警戒心が強くなってしまうと
いうことなのです。

あなたは今、エネルギーがあふれている時。だからあまり深く物事を考えず、
とにかく足を踏み出してみてくださいね。失敗しても取り返しがつかないものは
実はほとんどありませんし、成功云々より、踏み出すことに意義が
あるのですから。

リスクのない人生なんてどこにもありません。一歩踏み出して失敗するのが
リスクだとしたら、踏み出さずに自分を責め続け、悶々としてしまうのだって
リスク。そのどちらがより前向きなものか……それを考えればこの春、
あなたはきっと、行動を開始することができるはずです!

年賀状や暑中見舞いや毎年の御挨拶状をみなさんにお送りする時に、
お目にかかった方のお名刺を並べて見ていると、その人が、お名刺を
差し出されたときのお顔が思い浮かんできます。
弱いお名刺を差し出されるときの少し臆したお顔。
強いお名刺を切ったあの人の自信に満ちたお顔。
決して名刺が仕事をするわけではないのに。
学歴、賞歴、有名、無名。
人にはたくさんの負い目があります。
でもひとつだけ長いこと仕事を営んできて自信を持って言えることがあります。

頑張った人、頑張っている人はいいお顔なんです。
そう、つまり、踏み出して、行動している人なんです。
「お客様は肩書きの立派な方がたくさん集っておいでですね」とよくおっしゃって
いただくのですが、私は人は肩書きではないと思っています。
その人の目を見ることにしているのです。目を見ればどれ程の輝きかで、
その人の情熱だけは計ることが出来るからです。もちろん生き方の結果として
肩書きが物語ることはあるけれど、基本的には肩書きではないと思っています。
肩書きなど一時のものでもあるのだから。
輝く人は肩書きを超えて生きておられます。

さあ、また今日からお仕事です。
目の輝きを消さないよう、頑張りましょう!

【2008.5.7 末金典子】

こんにちは。
お元気ですか。

読んでくださったかもしれませんが、17日の琉球新報朝刊に、
前回『今日は清明』で書いた「あきらめないで声をあげよう」が掲載されました。
うれしかったのは、北谷町がすぐに次の日から、毎日しつこく繰り返していた
意味のない町民放送を控えてくれたことです。ちゃんと声をあげてよかったなと
思いました。

そこで思い出したのが、幸田シャーミンさんも推薦しておられた、
William Uryが書いた「The third side」。
冒頭のストーリーからすっかり魅了されてしまいました。

マンハッタンの交差点で、若い黒人男性の運転する車が、歩いている白人夫妻と
ぶつかりそうになります。怒った夫の方が拳でボンネットを叩くと、運転手も
出てきて、あわや大喧嘩。人だかりができたとき、通りかかった年老いた
黒人男性が「落ち着きなさい」と言わんばかりに手のひらを地面に向けて
ゆっくりと上下させた。それを見た運転手はぐっとこらえて車に戻り、
立ち去っていった……

老人は一言も発しなかったけれど、最も必要なときに、「第三者」として必要な
介入をしたのですね。
何か争い事が起こると、私たちはどちらかの側につくか、あるいは無関心な
態度をとりがちです。でも、第三者という立場をとることで、
争いのエスカレートを回避できるかもしれません。家庭内でのケンカから、職場
地域、ひいては国際紛争まで、誰もが例外なくその役割を担える立場にあります。
この本は、それを身近な例とシンプルな言葉で教えてくれています。

最もよくないのは無関心。どうせ何もできないと自分を否定するのではなく、
私でも何かのお役に立つことができるかもしれないと考えてみては
どうでしょうか?
そんな素敵なメッセージに後押しされての今回の記事でした。

さてさて、
早いもので、もうゴールデンウィークがやってきますね。
昭和の日、メーデー、八十八夜、憲法記念日、みどりの日、立夏と続き…そして
こどもの日。
菖蒲の節句とも言う、この子どもの日。
昔は、菖蒲など季節の薬草で厄払いをする宮中の行事だったそうです。
その後、武士の間で菖蒲を尚武(武を尊ぶ)と解したことから、
男の子のお祝いとして定着。
兜や鎧を飾り、子ども達がたくましく育つようにと願いを込めたようです。

こんな世相ではありますが、それでもやっぱり子ども達って、とっても純粋で、
天真爛漫ですよね~。
「わっはっはー」「ぎゃはははーっ」
道行く子ども達の笑い声の元気なこと!

「わっはっはー」
あのどこまでも高い空に届くほどの大笑い、してますか。
今日は、何回笑いましたか。

この「笑う」という当たり前の行為、実は、健康に密接な関係が
あるのだそうですよ~。
1964年、アメリカ・サタデー・レヴューの編集長ノーマン・カズンズ氏は、
喜劇やコメディなどを患者に観せて大笑いさせ、不治の病を治してしまった
そうです。世界中の注目を浴びたこの出来事以後、日本中の学者達もこぞって
研究し、「笑うと免疫力がアップし、自律神経も活性化、自然治癒力も
強くなる」などの成果を出しました。
笑いは、身体にいいんです。
そして、自分も他人もしあわせになります。

そう、笑顔って光なんですね。私達は皆、この体のなかにいのちという
優しい光が灯る電球を宿しています。
恋をするのも、仕事で開運するのも、健康になるのも、皆、よい運は光から
やってくるといわれています。
逆に、苦しかったり、何かがうまくいかない時というのは、
そこに光がないんです。
だから、どんな時でも、光をもたらせば、そこに優しいものが流れ始めて、
私達の人生の中の幸福があたたかく息を吹き返してくれます。
そして、大事なことは、光とは誰かにもらうものではなくて、
自分の中にそれを見つけ、点火することなのです。
そして点火するスイッチこそが「笑顔」だったり、あたたかい「言葉の力」
だったり…。
そのスイッチを入れれば、必ず幸福はあなたのもとに流れてきます。

さあ、いよいよゴールデンウィーク!
新緑に包まれる清々しい季節です。
家族揃って、また大好きなあの人と、げらげらしましょう!

【2008.4.25 末金典子】

お元気ですか?

4月といえば本格的な春の訪れ。
学校や仕事、いろいろなことがスタートして気分も一新、そんな季節ですね~。

私が子供の頃おじいちゃん・おばあちゃんが住んでいたところには
山桜がたくさん自生していました。毎年桜の季節になると
家族やたくさんの人達と一緒に、お庭でお花見を楽しんだものです。
つぼみがふくらんで桜の木全体がほんのりと桃色に色づき、三分咲き、五分咲き、
満開と、山の色が移り変わっていく様子は毎年見ていて飽きることが
ありませんでした。
この桜の花。あっけなく散ってしまうので以前はそこまで好きな花でも
なかったのですが、歳を重ねるにつれて、大好きな花へと変化してきました。
このパッと散るのが潔いというか、儚いというのか、あまりに美しくて、
さすがは国花だけあるなぁなんて思います。

さて、なぜ日本人がお花見を楽しむようになったのでしょうか。
いろいろな説があるのですが、私がいいなあと思うのがコレなんです。

春になり、稲(サ)の神様が里に降りてくる場所を座(クラ)ということから、
その場所をサクラといったそうです。開花は神様が降りてきたしるしといわれ、
その神様と一緒にお祝いをするのが「お花見」の始まりで、元はおはらいの行事
だったそうです。花の下に座ることで花の精気を吸収する健康法(!)でも
あったとか。

沖縄ではこの季節は、お花見というよりは今月いっぱいあちらこちらで行われる
清明祭(シーミー)の季節、という方がぴったりくるかもしれません。
今日はその清明。草木とともに春の花が咲き乱れ、すべてがきよらかで
すがすがしい頃。
清明とは「清浄明潔」の略なのだそうです。

足元に目を向けると、草花たちが元気でいっぱい。
子供の頃は、シロツメクサで花かんむりを編んだものです。オオバコの茎を
引っ張り合う草相撲や、タンポポの茎の風車…。
春の思い出とともに子供たちにも手渡していきたい遊びですね。
腰を下ろして初めてわかるのは土の上の気持ちよさ。日頃の疲れがいつの間にか
とれているはずです。

ところで、サクラというと思い出すのが、私が社会人になりたての頃に新聞で
読んだある記事なんです。

福岡市檜原に、樹齢60年ほどにもなる桜並木があります。
今から20年ほど前、その中の1本が切り倒されました。
もう10日もすれば、満開の花を咲かせただろうに、道路拡張のため、
伐採されてしまったのです。

次の日、残された桜に、こんな歌が結わえられていました。
「花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花をゆるし給え」
開花を目前にしての伐採を悲しんだ住民の一人が、歌に託して、
桜たちの命乞いをしたのでした。

詠み人知らずの歌の噂はすぐに広まり、新聞にも掲載されました。
それを眼に留めた当時の市長は、すぐに担当者に再調査を指示。
計画は変更され、桜並木を生かした道が作られることに。
桜の木は、その年の開花を許されただけでなく、人間よりも長いその寿命を
全うできることになったのです。

後日、市長は、桜に返歌を結びました。
「桜花惜しむ 大和心のうるわしや 永久に匂わん 花の心は」

桜を惜しんだ一人の人間のちょっとした行動、勇気が、周囲の人の心を動かし、
行政をも動かしたのです。
自分が何を言ったって世の中はかわらない…
そう、あきらめていませんか?
大切なのは、まず、声をあげてみることではないでしょうか。

確かに、私だって何度もあきらめたことがありました。
選挙の時の選挙カーなんてうるさいだけで、お金の無駄遣いだから
立候補する人全員でやめた方がいいのでは、と新聞にも書きました。
北谷の意味もなく思いやりのない塩川橋について、行政にも、新聞にも
業者にも抗議したこともあります。
老舗○○○のパンで化学性添加物食中毒で倒れた時は、業者さんと
企業のあり方について何度も話し合いました。
全ては徒労に終わりました。

…かのようにみえました。
でも、後になって決してそうではなかったことに気づいたのです。
例えば、私が化学性添加物を食べ続けることの恐ろしさや、
合成界面活性剤で作られたシャンプーやリンスや食器洗剤を使い続けることの
恐さや、無意味な行政のあり方、なんていう話題を経験的にお話ししたり、
またみなさんからもいろいろなお話をしてくださるということの中で、
私の考えも改められたり、より詳しく教えていただいたり、
また逆に、みなさんも御自分の生活にそれぞれ当てはめて考えてくださったりと
いうことが起こってきます。
非難や中傷であってはいけませんが、
正しいことは正しい、NOはNOと声をあげる、これは素晴らしいことでは
ないでしょうか。
そして何より、誰もが持っている、誰もが望んでいる、みんなの温かい想いや
愛を、もっと世の中に広げるべきなのではないでしょうか。

とてもありがたくうれしいことに、ここには本当にたくさんの業種のリーダーの
方々が集ってくださっています。
私は一人でもなく、あなたも一人ではないのです。思いを伝えることで、
いろいろな企業の社長達が社員の方達に何かしら伝えてくださるかもしれないし、
お医者さんの先生達は患者さんやスタッフに、学校の先生達は生徒に、
政治家は庶民に、芸能人やテレビ関係の方ならブラウン管を通して、
記者ならペンの力でというように、ウソのない温かな想いで、
小さなことからでも世の中が変わっていくかもしれないのです。
実際に、翁長市長を囲んで「飛び出せ!市長室 夜の社交会編」を催したり、
新聞記者と経済界の社長達の「ぶっちゃけトーク大会」で盛り上がったりという
イベント的なことも仕掛たりしましたが、基本的には、毎日毎夜、
お一人お一人がお話してくださるいろいろなお話の中に、大きな気づきや学びが
散りばめられているように思います。

あなたもお話くださいね。あなたの想い。

【2008.4.4 末金典子】

お元気ですか?
今日は桃の節句ですね。
この節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、
川原や海辺で干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

子供の頃、おばあちゃんと母が、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。
今日もぜひそうやって古式ゆかしく、ひな祭りを祝おうと思っています。

さて、ひな祭りの時期といえば、卒業式があちらこちらで行われていますね~。

私がちょうど40歳になる頃に、あとにも先にもこれ1回きりだけど、
同窓会に出たことがあります。
私の高校は男女共学の公立高校だったのですが、大学進学前の3年生になると、
選択科目コース別クラスに分けられ、文系でなおかつ生物&地学を選択した私は
12クラス中唯一の全員が女子の「女組」へ。
(因みに理数系で物理&数Ⅲを選択した子は12クラス中これまた唯一男子ばかりの
「男組」というのもありました。)
つまり、私の高校3年生時代は、教室の中だけ女子高だったわけです。
その「女組」の同窓会に出てみると……ちょっぴり太ったり、シワを作ったりした
女性たちが御堂筋のホテルに集まって、ちょっと壮観でしたね~。
でも、みんなの話題は「うちの主人は○○に勤めていて」「息子は○○中学なの」
といったふうに、卒業写真の中にはない、自分に加わった価値を競い合っている
ようにみえました。
私の青春時代の教祖さまともいえるユーミンが50歳を過ぎた時に
書かれていたことを、その時ふと思い出しました。
「40歳はまだ生乾き。まだギラギラした部分がいっぱいある。50歳を超えると
幸せが形でないことに気づくから、目に見えるものでは競い合ったりは
しないもの」。と。

「人ごみに流されて変わってゆく私を、あなたはときどき遠くでしかって」。
ユーミンは30年前そう綴っていたけれど、今、学生時代の自分と向き合うと、
愛おしい半面、あの頃の自分をぶっちぎったから今の私がいる、そうも思うのです。
先週末、お客さまがお話されていたことがとても印象的だったのですが、
娘さんの高校の卒業式に列席なさった時、涙が止まらなかった
そうなのです。娘さんがよくぞここまで育ってくれたという想いや感慨とは
別のところで、子供達の答辞や送辞などを聞いているうちに、これからの夢や
希望に溢れた、真っ白で無垢な飾らない純粋な気持ちに触れ、当時の自分や
今の自分に思うところが大きかったようなのです。
変わることは決して悪いことではありません。でも、ちょっと振り返って、
たまには、変わる前の自分に思いを馳せてみるのも、自分を知るいい機会に
なるかもしれませんね。
私が「同窓会に出よう」。そう思った本当の理由は、友達に会うこと以上に、
自分を知るため、だったように思います。

生まれてきた目的は人によって違いますが、すべての人に共通する目的もあります。
それは、「自分を知る」という目的。人はみな、自分が自分になるために
生まれてくるのです。
「私は誰?」
「私は何のために生まれてきたの?」
「私の役目って?」
それはやっぱり自分にしか、自分でしか分からない。
だからこそいつも自分の心の声を聞き、自分が惹かれるもの、憧れるもの、
感じるものを大切にし、「自分自身」を知っていきたいものですね。

別に同窓会に行かなくとも、自身でそれをする方法があるんです。
卒業写真を開いて、自分と向き合ってみるのです。
――さあ、今のあなた、変わったものは何ですか?
変わらないものは何ですか?

【2008.3.3 末金典子】

さすがの沖縄もこの連休は寒かったですね~。
風邪などひいていらっしゃいませんでしょうか。

昨日は建国記念の日でしたので、日本という国についてちょっと考えて
おりました。

ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州だということはみんな知っていること。
アメリカ建国の時には13州でしたが、次第にその数が増え、星条旗には現在
50個の星が描かれていることや、その数がもっと増える可能性があることも
みんな知っていること。さて次に合衆国に仲間入りするのは、つまり51番目の
州になるのは、プエルトリコではないか、という見方をする人や、
カストロ亡き後のキューバかも、などと穿った見方をする人もいます。
中には「ジャパン」という人もいます。無論、日本がアメリカの州の1つになる
なんてあり得ない話で、当然ジョークの1種なのでしょうが。
でも、「日本はほとんどアメリカの属国の1つだ」という政治・経済的現実の
いやみが込められている訳です。つまり「統治国なき植民地」だと。
確かに日本人は戦後のアメリカによる経営統治によって、かつてとは異なる
価値観を植え付けられ、元々私達が守り育ててきた国民性が大きく
変化したことは確かです。また、アメリカの国謀が戦後、唯一成功したのは
日本の教育をメチャクチャにしたことだとも言われています。

9・11のアルカイダによるニューヨーク攻撃以来、全体主義的な
ヒステリックさを尚更強めるアメリカ。断っておきますがアメリカという国は
「ペリー来航」以来、日本に対しての心のスタンスは何1つ変わっていない
のです。時折、渋々日本の力を容認しようとすることはあっても決して
尊敬することはありません。このような関係を「友人」と呼ぶのでしょうか?
そういういきさつはともあれ、私達の国「日本の心」がこれからどうなって
ゆくのか、ということ、いったいどうしたらこの国はかつてのように礼儀正しく
慎みのある気品の高い国に戻ることが出来るのだろうかということ、それら、
「日本の未来」への不安と希望は常に私の中にあるのです。

いつも書いてきましたように、いろいろな犯罪、教育や言葉などの文化の崩壊…
など、日本人の心は壊れつつありますが、日本の風土や、季節の美しさが必死で
日本を護っていることに、最近気付きました。
桜の季節には人々はそれぞれの心を抱いて花見に行きます。「花が咲いた」と
いうことがニュースになる、本当は心優しい国なのです。夏になった、と
海の美しさに心を開放し、秋には山々を彩る木々の美しさに心を癒やし、
冬は身体を寄せ合って寒さに耐え、また、雪の白さに心を洗い、
そうしてどれ程寒い冬でも次には必ず春が来る、と希望を捨てない国なのです。
実は私達はこれほど美しい国に住んでいるんですよね。

アインシュタインが大正11年に日本を訪れた時に講演された中の1節です。

「世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後の闘争に疲れる
時が来るだろう。そのとき、世界の人類は必ず真の平和を求めて、
世界の盟主をあげねばならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や
金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、尊い家柄で
なければならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それは、
アジアの高峰・日本に立ち戻らねばならぬ。我々は神に感謝する。
天が我ら人類に日本という国を造っておいてくれたことを。」

このアインシュタインの言葉に、この国の風土に、恥ずかしくない心を
取り戻そうではありませんか。

いつもみなさんとお話させていただいていて感じることですが、
「一人一人は本当に素晴らしい」って。戦争をしている人たちでも、きっと
一人一人は素晴らしい人なのでしょう。じゃあ何故、悲惨な出来事や事件が
起きてしまうのでしょう。
もう一度、その一人の素晴らしい人に立ち戻って、
まずは自分自身をうんと愛してあげることからはじめるべきなのかも
しれません。
一日に一度でもいいから心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
そして、自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に
扱いましょう。心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。

それができたら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
そんな愛の輪が広がれば争いはなくなるのではないでしょうか。
愛は生きる原動力です。
人間は風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになりました。
でも、それと同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。

確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいてくださればいいなと思うからです。

明後日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいにいつもお幸せに満ち溢れておられますように。

【2008.2.12 末金典子】

こんにちは。
沖縄県だけがあまり冬らしくない暖かな冬のようですが、お変わりなくお元気に
お過ごしでしょうか。
日曜日は節分ですね~。

立春の前日が節分の日です。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。また「まめに=健康に」とか、
面白い説がいろいろ。
折りにふれ、季節にふれて健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。 「今日からは暦の上では春よ。」という
母の言葉に、なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の
柔らかさには、妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、
母と同じ台詞を投げかけるだろうと思います。 私、この「暦の上では」という
言葉が好きなんです。どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だか
あったかくなる美しい日本語ですよね。

また、私はこの季節になると偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出すのですが、この話を知らない人が意外に多いと聞いて
吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、ちょっと御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く
却って誰も寄ってこないんです。一旦嫌われると人間社会というものは
そんなふうに徹底して冷たいものですよね。この悩みを親友の青鬼に相談すると、
青鬼は赤鬼のために一役買おう、と言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ
君が来て僕をやっつければ、人間は君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。赤鬼はそれでは君に
申し訳ないと言うのですが、青鬼は君がそれで人間と仲良くなれたらそれは僕も
嬉しいと言うんです。それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。でも、万が一、
二人が仲良しでいるところを人間に見られると、赤鬼はまた疑られる。
だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だから。
義もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているから。
感謝もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を思ってくれる
友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。

相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
友情や善意は必ず存在するのです。
青鬼は赤鬼が自分のそういう思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりする。これはエゴでしか
ありません。
私は青鬼ほどには「無私の心」で友人や日々お会いする方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、と思うか
思わないかでは、相当な違いがあると思っています。

最近よく考えることなのですが、
「欲ってなんだろう?」って。
大人になりたい。いい学校に入りたい。運命の人と巡り会いたい。
スタイルがよくなりたい。……
つまりは幸せになりたいっていう欲です。
本当は、幸せになりたいなら、まず自分の好きな人を幸せにしてあげたりすると
いいのかもしれないなって思うようになりました。
青鬼ではないけれど、大切な人が幸せそうなら自分も幸せになれる。
誰かに幸せにしてほしいと思ううちはまだまだで、
幸せって、実は他人の中にこそあるんじゃないかと思うのです。

「日々お会いする人が少しでも幸せな気分になってくだされば」という
想いは、今でもずっと同じです。
すべてはそういう気持ちから始まりました。いろいろな経験を
させていただき、たくさんの思い出が出来ましたが、
「求めない」ということが、人間を一番豊かにするのでは、ということが
一番大きな学びとなりました。
さきほどの青鬼のようにはなかなかなれないけれど、
私今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、日曜日は節分。
大きな声で豆をまいて。「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリとまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2008.2.1 末金典子】

おめでとうございます!

お正月はいかがお過すごしでしたか~?
私はごくごくオーソドックスに、
年末に日頃気になっていた所のお掃除をし、手の込んだお料理をゆっくり作って
味わい、年越しそばをいただき、紅白歌合戦を観て今やもうついていけない
流行歌のお勉強をこなし、おせち料理を作り、
三が日は、お雑煮・お屠蘇をいただき、初詣に行き、ランニングもしっかり
こなし、ぐっすり眠って初夢を見たお正月でした。

そして、年末のお便りでご提案させていただいた通りに、自分でも
何もしない日を作ってみようと、ボーッと自分自身を見つめ直すがごとく
いろんなことを考えたり物思いに耽ったりして何日か過ごしてみました。
そうすると、以前にも書いて笑われてしまいましたが、小学校の時の
さんすうの問題で「ある人がリンゴを買おうとしたら…」なんて問題で
「ある人」のことがひどく気になり始めるという私の性質上、
普段とりあえず放っておいたいろんな気になることが出てくるわ出てくるわ…。
たくさんの方が思っていらっしゃることとだぶるかもしれませんが、
ご紹介してみます。

まずは「粒タイプ」のガムのこと。
いちどスキップしながらあれを口に放り込んで、気管に詰まらせてあやうく
死ぬところでした。あのような恐るべき殺人兵器が白昼堂々と
売られていることに慄然とします。スムーズに気管に吸い込まれるように
つるつるに仕上げた表面。両端を平たくつぶした流線型。ぴったり気管に
フィットする大きさと形。そこには明確な殺意が感じとれるではありませんか。
さらに恐ろしいのは、まったく同じような形と名前とパッケージのキャンディが
往々にして同じメーカーから発売されているという事実です。
キャンディをガムとまちがえて思い切り噛んだことによる歯及び顎への衝撃
および精神的ショック、といった惨事が、報道こそされないが全国で多数
発生していると思うのですが、その責任をクロレッツはどう取るつもり
なのでしょうか。
…なーどとまるでクレーマーのように大袈裟にブリブリしてみたり…。

「ロボコップ」について。
あの、顔の下半分だけ生身なところがいやです。境い目が何だか痛そうで
すごくいやなんです。なぜあんなむごいことをするのでしょうか。いっそ全部
ロボットにしたほうがすっきりするのに…。やっぱりあそこの部分は髭が
伸びるのでしょうか。だとしたら、毎日「ウィーン、カシャン、ウィーン」
などといいながら剃っているのでしょうか。……

「根掘り葉掘り」の「根掘り」はともかく、「葉掘り」って何なの?
それを言うなら「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは、いったい何が
焼けているの?
「首の皮一枚でつながっている」って、それってすでに死んでいるのでは?
……

ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、頭のスクリーンに、ぜんぜん別の
イメージが現れることがありませんか?
先日も「オムニバス」という言葉を言うか聞くかした瞬間、巨大な蓮の上に
金髪の子供が乗っている絵が現れていることに気がつきました。どうやら
小学校時代より愛用していた植物図鑑の「世界のめずらしい植物」のページに
載っていた「オオオニバス」と関係があるらしいのです。
「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速200キロぐらいの猛スピードで
泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満するのです。
また「ほとけさま」という言葉には、菊の形の落雁の映像が誘発されます。
これはたぶん子供の頃、祖母の家に遊びに行ったとき、祖母が「仏様が」と
言いながらお仏壇を指さす先にいつも落雁が供えられていて、幼い私は
しばらくその落雁を「ほとけさま」だと思い込んでいたからだと思います。
「眉毛」は西郷隆盛の顔を呼びます。これは、やはり「眉毛」と「睫毛」の
区別に長年苦しんだ幼い私が、「西郷さんの太い眉毛」とフレーズにして
覚えていたせいでしょうか。
言葉が無意識のうちに別の形に変換されていることもあります。
私の頭の中では以前「エリック・クラプトン」は「エリック・フランプトン」
に、「たかしまや」は「たかましや」に、「鉄筋コンクリート」は
「鉄筋キンクリート」に、「シフォンケーキ」は「マフィンケーキ」に、
常に置き換えられていて、どうやっても消去することができないので、いつか
実際に言ったり書いたりしてしまわないかと心配です。

TVをボーッと観ていると大相撲の映像。ここでもまた何十年来の疑問である
「男性の乳首問題」について否応なしに考えさせられました。
思えば、人体においてこれほど役に立たない部位もちょっと他にありません。
男女の役割が未分化だった頃の名残りだとかいう説もありますが、男は狩猟、
女は育児という役割分担ができてからいったい何千年経ったと
思っているのでしょうか。いい加減あきらめて退化してもよさそうなものでは
ないでしょうか。だいたいこの手の一見もっともらしい説は、どれも怪しい。
髪の毛は頭を守るためにあるとか、乳房は前からみたお尻であるとかいう説に
したって、それらなしで立派に幸せにやっている人が大勢いらっしゃることを
思うと、どうも説得力に欠けるのです。

胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、
そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのですが、
それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。
あれがひどく気になるんです。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、
いつももどかしく思うのです。どうやらどんな薬でも、薬関係の
コマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようです。
いったい何を彼らは恐れているのでしょうか。全部きれいになくしてしまうと、
「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるので
しょうか。たぶんいるんでしょう、私のようなのが。ナーンテ!

同じようなものでありながら、「髪」に比べて「毛」は不遇ですよね~。
「髪」は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを
担当しているのに、「毛」ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと
ろくなことがありません。「剃髪」には厳かな響きがありますが、「剃毛」は
なんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の
毛の乙女」とは言ってくれません。「毛」は体毛の総称であり、「髪」は言わば
その一部署にすぎないのだから、「毛」はもっと優遇されてしかるべき
ですよね…。

ここからは私のお友達のお話ですが。
彼女は「おおよその見当」というものがつけられない人なんです。
お料理のレシピで「適量」とか「あとは適当に味をみながら」などと
書いてあるともうそれだけでパニックになるんです。どれくらいが「適量」
なのかが、まるでわからないから。「ここから200メートルほど先を右」などと
言われると、茫然とするしかないそうです。なぜ200メートルなどという、
自分の身長の100倍以上もあるような距離が実感としてわかるの?と。
彼女に体感できる距離は25メートルまでで、それはお察しのとおり、小学校の
プールの長さです。そこでまず小学校のプールの大きさを記憶の中から呼び出し
(それと一緒に、思い出さなくてもいい塩素の匂いや、紫色の唇や、
進級検定のときのドキドキまで蘇らせつつ、だそう。
さすが私の友達だけあるなぁ)、それを目測で道路の上に一つ、二つ、三つ…
と並べていくそうですが、五つあたりでもう目がわからなくなるそうで、
人はいったいどうやって「だいたいこんなものであろう」という判断を
つけるのだろうかといつも思っているんだとか。

ところで。
これまで書いてきたような事は、他愛ない新春お笑いネタのようなものばかり
でしたが、昨年もたくさん書かせていただいたような、
「今、この国の状況はかなり変だ」と真面目に思うようなことの数々についても
今年も、みなさんから「うざい」と思われても引き続き書いていこう、
話し合っていこう、と思っています。

勿論、話すことというのはそんな重たく、面倒くさい事ばかりでは
いけないと思います。こちらもくたびれます。生きる楽しさ(例えば愛、
遊び、こころ)を話し合うのは勿論のことです。でも生きる苦しさ(例えば生命、
生活苦、病気)から目をそらしてもまたいけませんよね。日常生活を思えば
解ります。私たちは一日中楽しいわけでも、一日中苦しいわけでもありません。
楽しみの中に時折苦しさや悲しさが訪れ、苦しい最中にふと、喜びが訪れたり
します。喜びの絶頂の時、既に悲しみの種は蒔かれていますが、よく見れば
絶望のどん底の時、既に喜びの芽は必ず芽吹いています。生きるということは
そういうことなのだと思うのです。

私は話したり書く勇気がある限り、たとえみなさんに届かなくても声を限りに
「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を伝えようと思います。それは自分自身が
「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことなのです。何故なら
自分が正面切って自分の命と向かい合っていなければその楽しさや苦しさを
表現できるはずなどないからです。

さて、では世の中にはそういう私の声がきちんと届くかというと残念ながら
そう簡単なことではありません。「選挙宣伝カー」の件も「しおかわ橋」の
件も「添加物」の件も徒労だったかもしれません。

言葉というものは「価値観」が違うと伝わらないからです。どれ程心を尽くし、
深い言葉を重ねたところで、価値観が違う人には理解しようがありません。
また、人の価値観を理解することは難しいものです。自分には自分の価値観が
あるからです。でも、あなたの価値観以外にもこういう考え方がありますよ、
と伝えることは大切なことのような気がします。そのことによって人生の目が
拡がることがあります。事実、私はお客さまやお友達の言葉から、また映画や
本や音楽などから凝り固まった自分の考え方以外にもこういう素敵な考え方、
感じ方があるのか、と目から鱗が落ちる思いでで教わることは多く、それが、
以後の自分の人生をうんと明るく強くしてくれていることも確かだからです。

普段いろいろな方達とお話させていただいているとそうでもないのに、
ここのところ、世間の価値観と、どうにも噛み合わないことが多いのです。
ことに生命について、心の有様について、お金に対する考え方、また、
遊びに対する感覚や意識。親、友達、恋愛について。どれもこれもです。
それは単に私が年齢が上がってきて理解できないということだけでは
ないはずです。人々自身もまた生命や心といった「自分」に迷い、
理解できていないのではないでしょうか。

今年もそんなことについてお伝えしてゆこうと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

さあ、新しい年ですよ!

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今日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体。一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとして
おすすめです。
ぜひ召し上がってみてくださいね。

そして、金曜日は“鏡開き”の日。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使います。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
この日に食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
この日はおぜんざいにして、ぜひお召し上がりくださいね。

【2008.1.7 末金典子】