こんにちは。
沖縄県だけがあまり冬らしくない暖かな冬のようですが、お変わりなくお元気に
お過ごしでしょうか。
日曜日は節分ですね~。

立春の前日が節分の日です。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。また「まめに=健康に」とか、
面白い説がいろいろ。
折りにふれ、季節にふれて健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。 「今日からは暦の上では春よ。」という
母の言葉に、なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の
柔らかさには、妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、
母と同じ台詞を投げかけるだろうと思います。 私、この「暦の上では」という
言葉が好きなんです。どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だか
あったかくなる美しい日本語ですよね。

また、私はこの季節になると偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出すのですが、この話を知らない人が意外に多いと聞いて
吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、ちょっと御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く
却って誰も寄ってこないんです。一旦嫌われると人間社会というものは
そんなふうに徹底して冷たいものですよね。この悩みを親友の青鬼に相談すると、
青鬼は赤鬼のために一役買おう、と言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ
君が来て僕をやっつければ、人間は君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。赤鬼はそれでは君に
申し訳ないと言うのですが、青鬼は君がそれで人間と仲良くなれたらそれは僕も
嬉しいと言うんです。それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。でも、万が一、
二人が仲良しでいるところを人間に見られると、赤鬼はまた疑られる。
だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だから。
義もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているから。
感謝もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を思ってくれる
友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。

相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
友情や善意は必ず存在するのです。
青鬼は赤鬼が自分のそういう思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりする。これはエゴでしか
ありません。
私は青鬼ほどには「無私の心」で友人や日々お会いする方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、と思うか
思わないかでは、相当な違いがあると思っています。

最近よく考えることなのですが、
「欲ってなんだろう?」って。
大人になりたい。いい学校に入りたい。運命の人と巡り会いたい。
スタイルがよくなりたい。……
つまりは幸せになりたいっていう欲です。
本当は、幸せになりたいなら、まず自分の好きな人を幸せにしてあげたりすると
いいのかもしれないなって思うようになりました。
青鬼ではないけれど、大切な人が幸せそうなら自分も幸せになれる。
誰かに幸せにしてほしいと思ううちはまだまだで、
幸せって、実は他人の中にこそあるんじゃないかと思うのです。

「日々お会いする人が少しでも幸せな気分になってくだされば」という
想いは、今でもずっと同じです。
すべてはそういう気持ちから始まりました。いろいろな経験を
させていただき、たくさんの思い出が出来ましたが、
「求めない」ということが、人間を一番豊かにするのでは、ということが
一番大きな学びとなりました。
さきほどの青鬼のようにはなかなかなれないけれど、
私今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、日曜日は節分。
大きな声で豆をまいて。「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリとまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2008.2.1 末金典子】

おめでとうございます!

お正月はいかがお過すごしでしたか~?
私はごくごくオーソドックスに、
年末に日頃気になっていた所のお掃除をし、手の込んだお料理をゆっくり作って
味わい、年越しそばをいただき、紅白歌合戦を観て今やもうついていけない
流行歌のお勉強をこなし、おせち料理を作り、
三が日は、お雑煮・お屠蘇をいただき、初詣に行き、ランニングもしっかり
こなし、ぐっすり眠って初夢を見たお正月でした。

そして、年末のお便りでご提案させていただいた通りに、自分でも
何もしない日を作ってみようと、ボーッと自分自身を見つめ直すがごとく
いろんなことを考えたり物思いに耽ったりして何日か過ごしてみました。
そうすると、以前にも書いて笑われてしまいましたが、小学校の時の
さんすうの問題で「ある人がリンゴを買おうとしたら…」なんて問題で
「ある人」のことがひどく気になり始めるという私の性質上、
普段とりあえず放っておいたいろんな気になることが出てくるわ出てくるわ…。
たくさんの方が思っていらっしゃることとだぶるかもしれませんが、
ご紹介してみます。

まずは「粒タイプ」のガムのこと。
いちどスキップしながらあれを口に放り込んで、気管に詰まらせてあやうく
死ぬところでした。あのような恐るべき殺人兵器が白昼堂々と
売られていることに慄然とします。スムーズに気管に吸い込まれるように
つるつるに仕上げた表面。両端を平たくつぶした流線型。ぴったり気管に
フィットする大きさと形。そこには明確な殺意が感じとれるではありませんか。
さらに恐ろしいのは、まったく同じような形と名前とパッケージのキャンディが
往々にして同じメーカーから発売されているという事実です。
キャンディをガムとまちがえて思い切り噛んだことによる歯及び顎への衝撃
および精神的ショック、といった惨事が、報道こそされないが全国で多数
発生していると思うのですが、その責任をクロレッツはどう取るつもり
なのでしょうか。
…なーどとまるでクレーマーのように大袈裟にブリブリしてみたり…。

「ロボコップ」について。
あの、顔の下半分だけ生身なところがいやです。境い目が何だか痛そうで
すごくいやなんです。なぜあんなむごいことをするのでしょうか。いっそ全部
ロボットにしたほうがすっきりするのに…。やっぱりあそこの部分は髭が
伸びるのでしょうか。だとしたら、毎日「ウィーン、カシャン、ウィーン」
などといいながら剃っているのでしょうか。……

「根掘り葉掘り」の「根掘り」はともかく、「葉掘り」って何なの?
それを言うなら「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは、いったい何が
焼けているの?
「首の皮一枚でつながっている」って、それってすでに死んでいるのでは?
……

ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、頭のスクリーンに、ぜんぜん別の
イメージが現れることがありませんか?
先日も「オムニバス」という言葉を言うか聞くかした瞬間、巨大な蓮の上に
金髪の子供が乗っている絵が現れていることに気がつきました。どうやら
小学校時代より愛用していた植物図鑑の「世界のめずらしい植物」のページに
載っていた「オオオニバス」と関係があるらしいのです。
「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速200キロぐらいの猛スピードで
泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満するのです。
また「ほとけさま」という言葉には、菊の形の落雁の映像が誘発されます。
これはたぶん子供の頃、祖母の家に遊びに行ったとき、祖母が「仏様が」と
言いながらお仏壇を指さす先にいつも落雁が供えられていて、幼い私は
しばらくその落雁を「ほとけさま」だと思い込んでいたからだと思います。
「眉毛」は西郷隆盛の顔を呼びます。これは、やはり「眉毛」と「睫毛」の
区別に長年苦しんだ幼い私が、「西郷さんの太い眉毛」とフレーズにして
覚えていたせいでしょうか。
言葉が無意識のうちに別の形に変換されていることもあります。
私の頭の中では以前「エリック・クラプトン」は「エリック・フランプトン」
に、「たかしまや」は「たかましや」に、「鉄筋コンクリート」は
「鉄筋キンクリート」に、「シフォンケーキ」は「マフィンケーキ」に、
常に置き換えられていて、どうやっても消去することができないので、いつか
実際に言ったり書いたりしてしまわないかと心配です。

TVをボーッと観ていると大相撲の映像。ここでもまた何十年来の疑問である
「男性の乳首問題」について否応なしに考えさせられました。
思えば、人体においてこれほど役に立たない部位もちょっと他にありません。
男女の役割が未分化だった頃の名残りだとかいう説もありますが、男は狩猟、
女は育児という役割分担ができてからいったい何千年経ったと
思っているのでしょうか。いい加減あきらめて退化してもよさそうなものでは
ないでしょうか。だいたいこの手の一見もっともらしい説は、どれも怪しい。
髪の毛は頭を守るためにあるとか、乳房は前からみたお尻であるとかいう説に
したって、それらなしで立派に幸せにやっている人が大勢いらっしゃることを
思うと、どうも説得力に欠けるのです。

胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、
そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのですが、
それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。
あれがひどく気になるんです。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、
いつももどかしく思うのです。どうやらどんな薬でも、薬関係の
コマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようです。
いったい何を彼らは恐れているのでしょうか。全部きれいになくしてしまうと、
「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるので
しょうか。たぶんいるんでしょう、私のようなのが。ナーンテ!

同じようなものでありながら、「髪」に比べて「毛」は不遇ですよね~。
「髪」は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを
担当しているのに、「毛」ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと
ろくなことがありません。「剃髪」には厳かな響きがありますが、「剃毛」は
なんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の
毛の乙女」とは言ってくれません。「毛」は体毛の総称であり、「髪」は言わば
その一部署にすぎないのだから、「毛」はもっと優遇されてしかるべき
ですよね…。

ここからは私のお友達のお話ですが。
彼女は「おおよその見当」というものがつけられない人なんです。
お料理のレシピで「適量」とか「あとは適当に味をみながら」などと
書いてあるともうそれだけでパニックになるんです。どれくらいが「適量」
なのかが、まるでわからないから。「ここから200メートルほど先を右」などと
言われると、茫然とするしかないそうです。なぜ200メートルなどという、
自分の身長の100倍以上もあるような距離が実感としてわかるの?と。
彼女に体感できる距離は25メートルまでで、それはお察しのとおり、小学校の
プールの長さです。そこでまず小学校のプールの大きさを記憶の中から呼び出し
(それと一緒に、思い出さなくてもいい塩素の匂いや、紫色の唇や、
進級検定のときのドキドキまで蘇らせつつ、だそう。
さすが私の友達だけあるなぁ)、それを目測で道路の上に一つ、二つ、三つ…
と並べていくそうですが、五つあたりでもう目がわからなくなるそうで、
人はいったいどうやって「だいたいこんなものであろう」という判断を
つけるのだろうかといつも思っているんだとか。

ところで。
これまで書いてきたような事は、他愛ない新春お笑いネタのようなものばかり
でしたが、昨年もたくさん書かせていただいたような、
「今、この国の状況はかなり変だ」と真面目に思うようなことの数々についても
今年も、みなさんから「うざい」と思われても引き続き書いていこう、
話し合っていこう、と思っています。

勿論、話すことというのはそんな重たく、面倒くさい事ばかりでは
いけないと思います。こちらもくたびれます。生きる楽しさ(例えば愛、
遊び、こころ)を話し合うのは勿論のことです。でも生きる苦しさ(例えば生命、
生活苦、病気)から目をそらしてもまたいけませんよね。日常生活を思えば
解ります。私たちは一日中楽しいわけでも、一日中苦しいわけでもありません。
楽しみの中に時折苦しさや悲しさが訪れ、苦しい最中にふと、喜びが訪れたり
します。喜びの絶頂の時、既に悲しみの種は蒔かれていますが、よく見れば
絶望のどん底の時、既に喜びの芽は必ず芽吹いています。生きるということは
そういうことなのだと思うのです。

私は話したり書く勇気がある限り、たとえみなさんに届かなくても声を限りに
「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を伝えようと思います。それは自分自身が
「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことなのです。何故なら
自分が正面切って自分の命と向かい合っていなければその楽しさや苦しさを
表現できるはずなどないからです。

さて、では世の中にはそういう私の声がきちんと届くかというと残念ながら
そう簡単なことではありません。「選挙宣伝カー」の件も「しおかわ橋」の
件も「添加物」の件も徒労だったかもしれません。

言葉というものは「価値観」が違うと伝わらないからです。どれ程心を尽くし、
深い言葉を重ねたところで、価値観が違う人には理解しようがありません。
また、人の価値観を理解することは難しいものです。自分には自分の価値観が
あるからです。でも、あなたの価値観以外にもこういう考え方がありますよ、
と伝えることは大切なことのような気がします。そのことによって人生の目が
拡がることがあります。事実、私はお客さまやお友達の言葉から、また映画や
本や音楽などから凝り固まった自分の考え方以外にもこういう素敵な考え方、
感じ方があるのか、と目から鱗が落ちる思いでで教わることは多く、それが、
以後の自分の人生をうんと明るく強くしてくれていることも確かだからです。

普段いろいろな方達とお話させていただいているとそうでもないのに、
ここのところ、世間の価値観と、どうにも噛み合わないことが多いのです。
ことに生命について、心の有様について、お金に対する考え方、また、
遊びに対する感覚や意識。親、友達、恋愛について。どれもこれもです。
それは単に私が年齢が上がってきて理解できないということだけでは
ないはずです。人々自身もまた生命や心といった「自分」に迷い、
理解できていないのではないでしょうか。

今年もそんなことについてお伝えしてゆこうと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

さあ、新しい年ですよ!

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今日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体。一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとして
おすすめです。
ぜひ召し上がってみてくださいね。

そして、金曜日は“鏡開き”の日。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使います。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
この日に食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
この日はおぜんざいにして、ぜひお召し上がりくださいね。

【2008.1.7 末金典子】

お元気ですか?
今日はクリスマスですね~!

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていて、
由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた太陽神への
収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスになったと
言われています。冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを
感じる一方で、不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうです。

これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、友達同士でワイワイ騒いだり…が主流の
ジャパニーズクリスマス、あなたは今夜はどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。それとも既にこの連休でたっぷりと楽しまれたかも
しれませんね。

さて、こんなふうに今年も季節の暦の折々にお便りをお送りさせて頂いて
きましたが(文章が長過ぎる!とお叱りを受けながらもしつこく…)、
今年も最後のお便りとなってしまいました。毎回お読みいただき、また、
たくさんご返信もいただきありがとうございました。

私は季節の暦が本当に好きです。
そして季節感を持って暮らしていくことがとても大切だと思っておりますので、
便りも季節の暦の度にお送りさせていただいているのです。

元々中国の季節感だった「二十四節気」が輸入され、少しずつ日本に合わせて
変化をし、すっかりこの国のリズムとして定着したのは一体いつ頃のこと
だったのでしょう。
農業に欠かせない「暦」は国民にとって重要な参考書であったことでしょう。
何日頃に種を蒔こうか、とか、そろそろ服を冬用に替えないとね、という具合に。
江戸時代、「暦」は毎年その年の季節に合わせ、きちんと修正されて売り出され、
人々は必ずそれを買い求めてそれぞれの生活を作りました。当時の農民や漁民に
とって「季節」は「生活」の重要な目安だったわけです。
科学の進歩によって暖房機や冷房機が普及し、私たちの肌の感受性は
退化してきました。今や日本人の多くは「暦」とは月日を確認する為のものとなり、
時計のように時を計るためだけのものとなってきつつあるようです。
でも、「季節感」は揺らいでも、「季節」そのものは厳然とこの国の風土を
この国らしく彩り続けています。どれ程暑い夏も永遠に続くことはなく、
どれ程美しい秋も永遠に続くわけではありません。季節は時とともに巡り、
この国の風土に美しい四季をもたらし続けています。
そうして、どれ程寒い冬に苦しんでいようとも、もう少し頑張れば、次には必ず
春がやってくるのだ、という安心感が、日本で住み暮らす人々の心根の
「負けるものか」という辛抱強さ、或いは「諦めない」という粘り強さを育てて
来たのではないかしら、と私は思うのです。
冬が厳しければ厳しいほど、やがて巡ってくる春に悦びは満ちます。
こうして季節に託して心を切り替えながら自分を励ましてきたのでしょう。
だから、日本人の生命は一年更新です。どれ程辛い一年であっても、大晦日で
区切るのです。綺麗さっぱり前の年のことは清算して一眠りし、元旦には枕元に
まっさらで綺麗な、新しい一年分の生命が訪れます。
現代人一人一人のDNAに眠っているこういう「日本人の心根」をこそ、「暦」に
刻むことが最も重要なことなのかも知れませんね。

今年もたくさんの方々との出逢いがありました。
たくさんお話させていただきました。いろいろな文章を読みました。
そうして感じたことです。
おそらく多くの人が自分の人生への不安におののきながら、なかなか自信を
持てないで恐る恐る生きている、そんなふうに伝わってきたのです。
でも、どれ程ささやかな人生であろうとも、他人の人生を代わりに生きることなど
あり得ません。派手に生きているように見えようとも、慎ましすぎる生き方に
見えようとも、自分自身の人生なのです。大きな人生など無いのです。
人の評判や評価などとは無関係に、実は皆、小さな人生を精一杯に
生きているのだと思います。

この世は修行場のようなものですから、次々とつらいことが起きて、
生きていくのがイヤになることもあるかもしれません。
そんな時がもしもあるのなら、ぜひ鏡の前に立ってみてください。
そして、人生でつらかったことを思い出してください。
小さい時から、いじめにあったり、初恋が実らなかったり、友達に裏切られたり、
お金がなかったり、受験や就職で挫折したり、自信をなくしたり、
あなたにとっては血を吐くようなつらい思いをいろいろしてきたことでしょう。
でも今、あなたはそこにいる。生きています。あれだけのことがあったけれど、
生き抜いてきました。それはあなたに、それらのトラブルを乗り越える力が
あったからです。ちゃんと自分で戦い抜いて、打ち勝ってきたからこそ、
ここにこうしているのです。あなたは強いのです。生命の塊なのです。
鏡の中には、この宇宙にたったひとつしかない、尊い存在のあなた自身が、
いるはずです。何の心配もいりません。これからもちゃんと、生きていく力が
ある人なのです。どうぞ自信を持っていただきたいと思います。

自信という言葉は、“自分を信じる”と書きます。これはつまり、あなたを
認めるべき存在はあなた自身に他ならないということ。
もしも“私なんか…”と思っているのであれば、今すぐ、その考えを
おやめくださいね。
ネガティブ感情にとらわれやすい人は、とてもまじめな優等生タイプが
多いそうです。他人を慮るばかりに自分を引っ込めやすく、第三者の認知など、
何かしら“根拠”がないと、自分を素直に出せないのだそうです。
でも、他人の気持ちは、いくら悩んでみても、推し量ってみても、どうしようも
ありません。だったら、そんなことはきっぱり忘れて、どうせ考えるのであれば、
自分自身のいいところ探し、“私はいかに素晴らしいか”というところに思いを
馳せるほうが、よっぽど建設的だと思うのです。

また、あなたが自分自身を認められずにいるのは、自分がいかに幸福であるかを
実感しようとしていないからではありませんか?
例えば、昨日の出来事を振り返ってみてください。あなたにとってその日は、
どのような一日だったでしょうか?
もしも“いいこともなく、つまらなかった”と思うのであれば、
幸せの取りこぼしをしていませんか?
いいことや楽しいことは、一日のうちにたくさん存在します。
ご飯がおいしかったこと、残業なしで仕事を終えられたこと、時間通りに
待ち合わせ場所に到着できたこと…。些細なことかもしれないけれど、
これらだっていいことには違いありません。
それに、その日一日が無事に終わり、次の日へとバトンタッチできているんだもの、
これ以上の幸福ってないと思いませんか?
たとえ悪いことばかりが重なったとしても、どんなに小さくてもいいことに目を
向けていれば、マイナスに支配されたまま一日が終わることなんて
ほとんどないはずです。

さあ、もうすぐお正月休みが始まります。
一日でもいいから、何もしない日を作ってみてはいかがでしょうか。
私たちはとにかく忙しすぎます。だから小さな幸せを取りこぼしてしまうわけで、
たまには一人でボーッと、自分自身を見つめ直してみるのもいいのでは
ないでしょうか。せわしない日常から自分を切り離してぼんやりとしていると、
いろいろな人に手助けされたり、迷惑をかけながら、日々過ごしていたことを
知ることができ、私一人では何もできない、でも私はここにいられる…と、
自分がこの世に存在できているということを、単純に喜べるはずです。
あなたという存在は、世界にたった一人です。この世で唯一無二の存在。
あなたは他人に評価されたり、他人をうらやんだり…そんなことをする必要が
ないほど、スペシャルな人間。
あなたの人生の主人公なのです。
そのことを忘れていただきたくなくて今回は長々と書き綴ってしまいました。

今年も本当にありがとうございました。
あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように、
そして何より、あなたがどうかこのうえもなくお幸せでありますよう、
心からお祈りいたします。

【2007.12.25 末金典子】