お元気ですか?

今日は桃の節句ですね~。
この節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、川原や海辺で
干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

子供の頃、おばあちゃんが、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。
だから私にとってひな祭りの日は、10年前に逝ってしまったおばあちゃんを
思い出す日でもあるんです。

その私のおばあちゃん、よくこんなことを言いました。
「電車で出かけんねんて?  板チョコ、持って行きなさいや」
お楽しみのために板チョコを持たせようというのではありません。
電車が故障したり事故にあったりして止まってしまったときの備え。
車内に閉じこめられたとき、板チョコを食べてしのぐのです。
友達と遊びに行くときにも、小さなおむすびを作って追いかけてきましたっけ。
たくさんの子供を産み育て、戦争を始めさまざまな災難をくぐり抜けてきた祖母。
生き抜くための備えには敏感でした。口うるさい質ではなかったので、
その注意はもっぱらお転婆な私に向けられていたようです。
祖母は、寝る前には枕元に、明日身につける着物類のほかに、板チョコ、
水の入った小さな水筒、タオル、足袋、懐中電灯が入った巾着袋を置いて
いました。「赤ん坊がいたころには、おむつと肌着も入れてたもんやで」
子供ごころに、大げさな、と言って笑いました。
でも、祖母の備え癖は、私になんらかの影響をもたらしたものと思われます。
私の家には“災害時非常持ち出しリュック”がいつも置いてありますもの。
生活というものは、不意のことと驚きの連続です。
望ましいのも、望ましからぬのもあり、そのどちらもが、本当に突然、
やってきます。
大人になってから、その実感はいっそう大きく私の胸に住みつくように
なりました。そして、見えてきたのです。祖母は備えるだけ備えてしまうと、
あとはさっぱり先のことは考えませんでした。まだ起きていないことを
心配したって仕方ないと思っているみたいでした。
「心配事や災難が降り掛かったら、そのときは、ここにいるみんなで一緒に
困りましょう」
という佇まいです。
わが祖母ながら、なんだか素敵。
十年前に逝った祖母に今度会ったら、たくましくもたおやかな立ち姿を
見せてくれてありがとう、とおじきしなければなりません。

そのおばあちゃんがとても大切にしていたのが、「こんにちは」「さようなら」
といったあいさつの言葉でした。

きわめて基本的な、あいさつのひとつなのに、じつはあんまり使われていないのが
この「さようなら」。
お友達と会って別れる時は、「じゃあね」とか「またね」とか「バイバイ」と
言ってしまうから「さようなら」は出てきません。
また一方、仕事の時も、「では失礼します」「ではよろしくお願いします」
さもなければ「じゃあ、そういうことで…」一体何が「そういうこと」なのか
わかりませんが、とにかくそれが別れのあいさつになっています。

あなたは最近「さようなら」の言葉を使われましたか?
最後に使ったのはいつでしょうか?

自分ではもう、ほとんど使わなくなっている「さようなら」を
あらためて使う時ってどうだったかなぁ…と思い出してみると、
それは、もう二度と会わないかもしれない相手や、遠い外国に住んでいて、
当分会えなくなる相手との別れの時。そういう場面では、確かに自分も
しっかりとした「さようなら」を相手の目を見て言った記憶があります。
長い長い別れや、重い別れ、そしてまた永遠の別れ…。
人は今ではそういう時のために、究極の別れの言葉として「さようなら」を
とっておくのかもしれません。

こんなことも思い出しました。小学生の頃から通っていた茶道教室の先生は、
私達を送り出す時、いつも決まって「さようなら」と、ていねいに頭を下げて
おられました。その別れがなんだかとても心地よくて、うっとりした気持ちで
家路についたことを覚えています。
そしてまた、私が訪ねるといつも家の外まで見送りに出て、こちらの姿が
見えなくなるまで手をふりつづけるおばあちゃんも、「さようなら」を
美しく言う人。
お茶の先生は言うまでもなく、「一期一会」という茶の湯の心を毎回のあいさつに
こめていらっしゃったのだろうし、祖母は祖母で日頃から言葉のひとつひとつを
とりわけていねいに言う人だから、日常的な別れさえ手軽に扱わないわけです。
ひとつひとつの別れをていねいに心に刻みつけようとしていたに違いありません。

そのおばあちゃん、10年前に私に会いに沖縄に来てくれて、何泊かを一緒に過ごし
大阪に戻ってから私の家の留守電にこう吹き込んでくれていました。
「典ちゃん、おばあちゃんです。
沖縄ではお世話になりましたね。本当にありがとう。
今ね、お土産にいただいたケーキをおじいちゃんのお仏壇に供えて、
思い出話をしてるのよ。沖縄はとっても楽しかったわぁ。
いい思い出になりました。本当にありがとう。
これからも身体に気をつけて、自分で一番いいと思う道を
悔いなく生きなさいね。
典ちゃん……さよなら」

その1週間後におばあちゃんは本当に逝ってしまいました。

だから特別な響きのある「さようなら」。
ひとつひとつの出会いと別れを、今よりもっと大切に扱うようになった時、
私にも自然にそういう「さようなら」が日常的に言える人になるのでしょうか。
今月は卒業式や転勤など、別れの季節です。
素敵な「さようなら」を言いたいものですね。

長くなってしまいましたが、
今日は古式ゆかしく、ひな祭りを祝おうと思っています。

【2009.3.3 末金典子】

お元気ですか~?
明日はヴァレンタインデーですね。
あなたはどなたとお過ごしでしょうか。

そこで、明日を前にあなたに質問です。

あなたの愛は生きていますか?
あなたの愛する人は誰ですか?
その人を本気で愛していますか?

愛だ恋だなんてバカバカしい、政治・経済や仕事の話を語るほうが意味があると、
したり顔で言う人がいらっしゃいますが、それは大きなマチガイですよ~。
恋愛も、政治・経済や仕事も、大もとは同じ。
つまり、人を愛することなんです。

政治にしたって、日本では政治をすることを政(まつりごと)をするといいます。
「まつりごと」というのは本来神や仏、ご先祖の御魂を大切にうやまい、それを
祀ることですが、政治の精神はそのまつりごとに発するといわれています。
また、仕事だって、人を憎み、嫉妬ばかりしていたら、絶対にいい仕事は
できません。悪い感情はどう取り繕っても表れてしまいますから。
愛情豊かな人でなければ、美しい仕事はできない。私はそう思います。
それに、寝不足や二日酔いで「今から仕事」となれば苦痛でぐずぐず出かける
ところでも、「今からデート!」となれば気持ちも浮き立つのでは
ないでしょうか。

愛は生きる原動力です。
人間が風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになったのと
同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。

今、モノはあふれ、情報は持て余すくらいに満ちています。
けれども…。
心は、満たされていますか?
人は、前へ前へと急ぐうちに、大切な何かを置き忘れてきたのかもしれません。

でも、それは、わざわざ探さなくてもいいのです。
あなたのすぐ隣にある、と私は思うのです。
ただ近すぎて、見失っているだけ。
それは、あなたの奥さまや旦那さまやパートナーであり親であり子供であり
家族であり、きょうも職場で触れあった、あの人この人。
そして、あなたを包む街や自然、四季の移ろい…。
あなたという「いのち」は、ひとりで在るのではなく、あなたを取りまく
「いのち」と共に在るのです。
様々な「いのち」に生かされて在るのです。
もし、心からそう思えたら、人はきっと前を向き顔を上げて、また毎日を
歩き始められることと思います。

そして何よりも。
まずは、自分自身をうんと愛してあげることから始めてください。
一日に何度でも心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に扱いましょう。
心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。

それができたなら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいらっしゃるのならばこんなに幸せなことは
ありません。

さあ、明日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいに、いつもお幸せに満ち溢れておられますように。

【2009.2.13 末金典子】

お元気ですか?

寒さがひどくなったり、ゆるんだりしていますが、
体調を崩したり、カゼなどひいておられませんでしょうか。

さて、今日は立春の前日で、節分。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。
また、「まめに=健康に」とか、面白い説がいろいろあります。
折りにふれ、季節にふれて、健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。
「今日からは暦の上では春よ。」という母の言葉に、
なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の柔らかさには、
妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、母と同じ台詞を
投げかけるだろうと思います。
私、この「暦の上では」という言葉が好きなんです。
どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だかあったかくなる美しい日本語
ですよね。

また、私はこの日がくるたびに、偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」
という名作を思い出し、いつも御紹介しているのですが、この話を知らない人が
意外に多いと聞いて吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、改めて
御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。
それで、「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。
美味しいお茶を用意していますよ」という立て札を立てるんですが、
そうなると人間は疑り深く、却って誰も寄ってこないんです。
一旦嫌われると、人間社会というものはそんなふうに徹底して冷たいものですよね。
この悩みを親友の青鬼に相談すると、青鬼は赤鬼のために一役買おう、と
言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ君が来て僕をやっつければ、人間は
君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。赤鬼のために自分が悪者になることを
提案する。赤鬼はそれでは君に申し訳ないと言うのですが、青鬼は、君がそれで
人間と仲良くなれたらそれは僕も嬉しいと言うんです。
それで言われた通りにすることにしました。青鬼が人間の村で暴れているところへ
赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。「痛くないように」殴ろうとすると、
青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、
予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。
でも、万が一、二人が仲良しでいるところを人間に見られると、
赤鬼はまた疑られる。だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と
書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だからです。
「義」もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているからです。
「感謝」もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を
思ってくれる友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず、青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。
相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
また、青鬼は赤鬼が自分の思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりするのはエゴでしか
ありませんよね。

実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
暮らしの根幹が揺さぶられるような時代に、私達は生きています。
資本主義は疲弊し、アメリカの問題を日本が一番被り、10年以上も続くであろう
という不況の風が吹き荒れています。
それとともに、たくさんの人々が職を失い、異常な犯罪が増え続けている今の
世の中です。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
でも、そんな世にあっても、友情や善意は必ず存在するのです。
いえ、こんな時代だからこそ「情」や「義」や「愛」といった心を大切に
しなければならないのです。
奇しくも今年のNHK大河ドラマ「天地人・直江兼続」のテーマもまさに
それなのだそうです。人々の心が求めているのか、世相を表してのことなのかも
しれませんね。

さて、
ギリシャ神話によると、かつて、オリンポス山に住む神々が会議を開き、
幸せの秘訣をどこに隠せば、人間がそれを見つけたときに最も感謝するかを
話し合ったといいます。「高い山の上がいい」「地中深くに隠そう」
「深い海の底に隠すべきだ」など、さまざまな意見が出ました。そのあとで、
ある神が「人間の心の奥深くに隠すのが一番いい」と提案しました。

太古の昔から、人間は幸せな人生をおくる秘訣を探し求めてきました。
でも現在にいたるまで、多くの人は、幸せの秘訣が隠された場所を
見つけることができませんでした。それが自分の心の奥深くに隠されている
ことに気づかなかったからです。

幸せは、財布の中にお金がいっぱい入っているかどうかではなく、
心の中が豊かな気持ちでいっぱいになっているかどうかに左右されるのだと
思います。
今の時代こそ、真の幸せに気づく時が来ているのではないでしょうか。

私は青鬼ほどには「無私の心」で友人やお会いする方々と
向き合うことがまだまだ出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、
と思うか思わないかでは、相当な違いがあると思っています。
私、今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、今日は節分。
大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・東北東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2009.2.3 末金典子】